大阪の宿
2008年 09月 17日
そして、この作品を実際に見て、うらぶれた下宿屋で女中としてコキ使われる彼女たち、下積みの女たちの哀歓が余すところなく演じられていることも確認し、僕が聞いてきた絶賛がいささかたりとも誇張でなかったことを深く納得しました。
稼ぎのない亭主との腐れ縁を絶つこともできず、金銭の苦労が絶えないおりか(水戸光子)は、亭主にみつぐ借金の申し込みを下宿屋の女将から無碍に断られたことから、切羽詰まって下宿人の金に手をつけ、それが発覚し、働き場所を追われて更に不安定なその日暮らしの生活に追い詰められていきます。
あるいは、僅かな給金のために、ひとり息子と離れ離れに暮らして働かなければならないおつぎ(川崎弘子)にとって、この惨めな生活に耐えることのできる唯一の夢である息子との逢瀬を女将に撥ね付けられ、憤慨しながらも、彼女に出来ることといえば、せいぜい旅館の名入りの湯飲み茶碗を土間に叩き付けることくらいでした。
もし、これが溝口健二作品だったなら、主人の理不尽な扱いに対し、誇りを傷つけられたことへの怒りに逆上した女は、台所から包丁でも持ち出し、明らかな殺意をもって主人を追い掛け回すくらいの炸裂する怒りの描写があったかもしれない痛切な場面です。
しかし、ここに描かれている善良な彼女たちは、主人の理不尽な扱いに対しても、憤りを抑え、その不運をただめそめそと悲しむばかりで、いささかの反抗の素振りもみせようとはしません。
そして、もしかしたらこれが、五所監督好みの女性像であることも容易に想像がつきました。
そう見ていけば、さらにラスト、大阪を離れる三田(佐野周二)の送別会に集まったウワバミ(乙羽信子)や田原(細川俊夫)など負け犬たちを、無力な三田の目を通して諦念とともに温かく見つめる五所監督の共感が描かれているという見方も、あるいは考えてもいいことかもしれませんが、しかし、それだけでは、なんだかこの映画のすべてを味わい尽くしたとはいえないような気がします。
最後の送別会の場面に、ついに姿を見せなかった女性が三人いました。
ただ憧れをもって眺めていたにすぎないショーウィンドウの中のお嬢さん・井元貴美子(恵ミチ子)、旅館「酔月荘」の第三の女中お米(左幸子)、そして、三田に偽の布地を売った貧しいお針子・おみつ(安西郷子)です。
しかし、朝の通勤で擦れ違うだけの憧れの先輩の娘・井元貴美子は、父親の自殺と共に行方知れずとなってしまいます。
そして、「酔月荘」第三の女中お米は、格式を重んじた下宿屋から下劣な連れ込み旅館へと変節する墜落過程において才能を開花させ女将の信頼を最も獲得して、戦後の猥雑を生き抜くしたたかさを予感させています(この延長線上に「にっぽん昆虫記」を思い描いたとしても、それほど突飛な想像ではないかもしれません)。
また、病身の父を抱えたおみつは、三田に偽の布地を売りつけた(単に仲介しただけかもしれません)責めを一身に負って、支給された生活保護費を渡しに来たその夜に、同じ下宿人の野呂(多々良純)に処女を奪われ、そのことに責任を感じた三田の救いの手も厳しく拒絶して立ち去ります。
五所監督が、たぶんその好みから、水戸光子や川崎弘子に心捉われ丹念に彼女たちの演技を追っていたとしても、僕としては、この安西郷子の演技こそは、彼女の生涯最高の演技と見ています。
(1954新東宝)監督脚色・五所平之助、原作・水上滝太郎、脚色・八住利雄、撮影・小原譲治、音楽・団伊玖磨、美術・松山崇、録音・道源勇二、監修・久保田万太郎、照明・矢口勇
出演・佐野周二、細川俊夫、乙羽信子、恵ミチ子、水戸光子、川崎弘子、左幸子(お米)、三好栄子、藤原釜足、安西郷子(おみつ)、田中春男、多々良純、北沢彪、十朱久雄、中村彰、水上貴夫、若宮清子、城実穂
1954.04.20 14巻 3,333m 122分 白黒
【付録】
以下は、「大阪の宿」を漱石の「坊ちゃん」にダブらせて書き始めようと試みたものですが、結局は最後まで書ききれずに頓挫してしまいました。狙いは面白いかな、と思ったのですが・・・。
むかし学生だった頃、悩まされたもののひとつに読書感想文の宿題がありました。
それなりに読書は好きでしたが、ただ漫然と読むのと、それをまとまった感想文として文章に纏め上げるのとでは、大変な違いです。
「あら筋を書いては駄目」という制約も重荷でした。
しかし、あるとき、ある法則を発見したのです。
例えば、漱石の「坊ちゃん」。
この小説の感想文を書いている人たちのキイワードが、判を押したように「すかっと爽快」なのに違和を感じたところから始まりました。
いわば、体制に迎合する俗物たちを鉄拳でもって懲らしめるということを「爽快」というのなら、それに続く、激情にまかせて奮ったその暴力を理由に、もはやその場所には居ることができずに、自らが起こした事態の収拾と責任をとるために、職も土地も離れなければならなくなってしまうということが、どういう「爽快さ」なのかという違和感でした。
短気で癇癪もちだった漱石が、後先のことを考えず、一瞬の逆上に身をまかせて怒鳴りまくったという「爽快さ」(たしかに本人は「爽快」だったに違いありません)が「坊ちゃん」という小説に一部反映しているとしたら、そういう病理を視野に入れた感想も成立するのではないかと考えたのでした。
「純粋」であったはずのものが、付きまとう俗事から汚され貶められ、結局のところ、「逃避」するしかなかったこの「違和感」を手繰って自分なりに深めていけば、他人とは少し違った感想文が書けることに気がつきました。
五所平之助監督の「大阪の宿」を見たとき、これは「坊ちゃん」だなと思い当たったとき、かつてのこの「法則」を思い出したのでした。
この五所作品は、漱石の自己中小説「坊ちゃん」よりもさらに明確に、すべてに挫折し、思い屈してその土地を追われていく男の絶望感が、客観的に描かれているといえます。