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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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アバウト・シュミット

この作品を観た後で、パソコンの前に座って感想を書こうとしたのですが、いくら時間が経っても感想の言葉がひとつも何も出てこないのです。

結局、台風が頭の上を通過している間中なにも出来ずに、ガタピシきしむ家の中でただ時間を無駄にしてしまった感じでした。

どうしてこんなに感想の言葉が出てこないのか、まずはそちらから攻めていこうと思ったとき、不意に道が開けました。

映画の世界の中にどっぷりと浸かって作り手の側に身を置き、そこから何らかの言葉を捻り出そうとしても、定年退職もしていない自分には、この作品が「理解」はできても「実感」がない以上、「自分の感想」を捻り出すことは最初から無理だったことが始めて分かったのです。

どう足掻いても出てこない「感想」の前に立ち塞がっていたのは、今の自分が置かれている立場だったのでしょう。

いまの僕は、むしろ定年退職したシュミットに訪問される「後任の若造」の側なので、「後任の若造」の立場からの感想なら幾らでも出てきます。

シュミットが飢餓に苦しむアフリカの子供に「個人的な」手紙を書くうちに、自分の中の怒りが溢れ出てくるあの方法で「後任の若造」の怒りを書いていくなら、多分こんな感じでしょうか。

退職した後でも、いつでも気楽にオフィスに立ち寄って下さいという社交辞令のスピーチの中には、当然常識の範囲でいくつかの条件が含まれています。

例えば、もはや「上司」ではないことを自覚(現実を無視した言葉と態度)して欲しいとか、
彼がかつて行ってきた仕事の処理方法が必ずしもベストの選択だった訳ではないとか、
もはや現場では必要とされていないという定年退職者自身の落胆以上に、もしかしたら定年退職者が残していったシステムの不備に苦しめられている現場の混乱を伝えないことが、職場に残された者たちの彼へのせめてもの思いやりと考えているかもしれないとか
「後任の若造」立場からすると、そういうことも理解してほしいと、まさにこの映画で揶揄されている世俗的なことをまず考えてしまうのです。

シュミットとは逆のこの立場から、「感想」をずらずら書いていくと、そこには現実を受け入れようとしない独善が、ますますシュミットに怒りと孤独をもたらしているように見えてきます。

しかし、世間(僕自身も世間の側の方に位置しているみたいです)のその「冷たい見方」が、シュミットを更なる怒りと孤独に追い立て、独善的にでもならなければ生きていけない場所まで彼を追い詰めていることも事実です。

僕自身がこの作品の作り手とは少し違う場所に立っていることの確認と、それから、あくまでも残された後任の若造からの「定年退職者」に対するというスタンスを保ちながら、理解できるところからまずは書き始めてみようかなと思っています。

「アバウト・シュミット」を監督したアレクサンダー・ペインって、あの「ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!」を監督した人だったのですね。

あの作品を観た後、少し経ってから「戸籍調べ」をしてみようと、いろんなシネマ・ガイドブックを捲ってみたのですが、どこにも掲載されていないことを知り、初めて「ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!」が日本では劇場未公開作品であることを知りました。

僕の観た中では、ウィザースプーンの個性が、もっとも役にぴったりはまっていた素晴らしい映画でした。

あの作品との出会いは確かwowowで、見る前の最初の印象は、よくある「チアリーダー」系の映画かと思い、軽い「ノリ」で見始めたのですが、しかし、見終わったときは、ズシリと重く心に残って、人知れず「◎」をつけた映画です。

人に先んじて世の中に「のして行く」のは、きっとああいうタイプの人間なのだなとヘンに納得してしまった映画です。

この作品、ジャンル的にはコメディーを隠れ蓑みたいに装っていますが、そのエッセンスはやたら重苦しいテーマを扱っています。

しかも話の持って行き方が、絶望的なくらい徹底的に掘り下げてしまうために、最後に付け足す「癒し」の締め括り方が、取り返しのつかないくらいに妙に浮いてしまうみたいな、つまりその辺は「アバウト・シュミット」の話の括り方とも共通するものがあるのかもしれません。

アメリカの高校の生徒会長選挙というテーマ(生徒会そのものを廃止しようという生徒会長候補者もでてきます)にからめて、離婚した母ひとりに育てられた娘が,女性が社会で成功するためには「夢を持ち」,「男性の2倍努力しなければ」というストイックなモットーを実践していくなかで、そういう女生徒の生き方を認めたがらない男性教師の対立をとおしてセクシャルハラスメントの問題や民主主義の在り方(民主主義自体を否定する候補に人気が集まる)などかなり深刻な内容を扱っています。

人間や社会のクールな真実の姿をシビアに抉り出して露悪的に見せ付けるというこの後味の悪さが、きっとこの作品を未公開にさせてしまった主な理由のように思います。

少なくとも、配給会社が、作り手の冷笑的な製作態度を敏感に感じ取り、観客誰もが、映画でわざわざこのように突き放した「人間の真実の姿」など見たいと思ってないと判断したのか、それとも観客なんてその程度のレベルのジャリどもだと最初から見くびって勝手にそう決したのか、その辺のところは分かりませんが。

しかし、「アバウト・シュミット」のラストで、アフリカの少年ンドゥグから届く手紙のシーンをストレートに受け取りかねる人たちも結構いたということですから、やはりこれは微妙なところなのでしょうか。

ある日、ウォーレン・シュミットは、「すべてが嘘っぱちだ」という怒りの思いに駆られます。

いままで揺るぎないものと思っていたはずの、信頼を寄せていた同僚や愛する妻と愛娘が突然自分に背を向け、それらの確信は目の前でひとつひとつ崩れ去っていきました。

退職後の日々は退屈極まりなく、会社ではもはや自分を必要としていないことがはっきりし、それにつけても妻のなすことすべてが気に障るうえに、手塩に掛けた愛娘までが、いい加減な男とほどなく結婚しようとしている。

そして、妻の死。

どうなってんだ、というシュミットの破綻は、長年勤め上げてきた保険会社を定年退職したことがきっかけで始まったようにも見えますが、しかし、本当は、それよりずっと以前にその破綻は「既にあった」ことだったのだと思います。

会社の仕事の忙しさにかまけて見えなかったもの、見なくとも済んだもの、そして見ようともしなかったもの、彼の人間関係の破綻は、本当はずっと以前から「既にあった」し、そして、そのときからシュミットは既に十分に孤独だったのだと思います。

この映画を見た友人は、

「決して他人に確かめてはいけないものを、シュミットはあえて追い求めたために、彼にはとても厳しい答えを、相手から引き出してしまうこととなってしまったんだろうな。
他人の気持ちが常に自分の方に向いていないわけがないと疑いもしない彼のその独善性と傲慢さが、最も見たくないものを見せられてしまったのかな。
実際の生活者は、もっと小心でおどおどと他人の顔色をうかがいながら、バランスをとって生きているはずだからね。
女房といえどもね。」

といっていました。

たしかに、世の中の人間関係には、きっと確かめてはいけないもの、求めてはいけないものの一線があるのかもしれません。

それにしても、定年まで勤め上げた長い年月のあいだ、保険会社でウォーレン・シュミットが習得したものとは何だったのかと考えるとき、あの保険を掛ける上での余命計算―定年退職した男が妻に先立たれた場合に、そのあと何年生きられるか余生の時間―を計算できる能力でした。

自分に残された時間を、自分で計算できてしまう残酷な能力です。

ある意味で彼は、生涯のほとんどを費やして自分を罰するような残酷で馬鹿げた能力を身に着けるために、すべてを犠牲にして働いてきたといえるのでしょう。

そして、いまやそうした彼を誰も必要としていません。

アフリカの少年ンドゥク以外はね。
by sentence2307 | 2004-11-14 13:11 | 映画 | Comments(0)