世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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2005年 09月 11日 ( 1 )

「風の中の牝雞」

(これは、ozuさんへの返信です)

正確に記憶していないので細部の言い回しについては心許ないのですが、「風の中の牝雞」を見た野田高悟が、

「こんな作品を撮っていたら、小津安二郎は駄目になる」

と述べたことが契機となって、以後の作品を撮っていくうえでの小津監督の重要な意味を持つ発言だったことは周知の事実です。

しかし、一方でこのような決定的な痛撃を受けた作品「風の中の牝雞」は、小津作品中「らしからぬ」悲痛な失敗作という手痛い評価が定まってしまったこともまた事実でした。

僕の知る限り、小津監督自身も同じような趣旨のことを言っていたという記事を読んだことがあります。

そして、この作品に対して野田高悟が漏らした危惧が、やがて小津映画の象徴のような洗練の極致「晩春」へと結実するのですから、確かに野田の認識の正しさが立証されたといってもいいかもしれません。

しかし、そのために、「小津監督の失敗作」という最悪の烙印を押されてしまった「風の中の牝雞」について、後世の評者が真剣に論じようとする意欲も余地も、その酷な評価によって、ことごとく殺いでしまったのではないかという印象ももっています。

つまり、あの作品を論ずるとすれば、すでに監督自信が否定的なコメントを漏らしている以上最悪な前提から論陣を張るしかなく、最初からピエロ的な役回りを担わされることを覚悟のうえで絶望的なひとことからスタートしなければならないという立場しか許されていなかったでしょうしね。

だから結局、語るのも憚られるというような雰囲気が形成されてしまったというのが、むしろ当然の成り行きだったのかもしれませんね。

そうなると、この作品は、まるで封印された呪われた作品ということになります。

一作一作全霊を込めて作品を撮り続けてきた小津作品に、封印に値するような呪われた作品などあるわけがない、というのが僕の持論です。

ですので、僕には、「風の中の牝雞」を「小津らしからぬ作品」と切り捨てる野田説をまるっきり鵜呑みにすることに、少なからず抵抗があるのです。

確かに、あの映画には、小津映画に共通する癒される独特の心地よさとか、美しく上品な女優たちの優雅な立ち居振る舞いを堪能する楽しみとか、あるいは胸を締め付けられるような家族愛とか肉親愛とか、さまざまに語られる小津作品の良質な特性が、この作品「風の中の牝雞」には、ことごとく失われているというのは確かだと思います。

しかし、いままで繰り返し聞かされてきたそれらの否定的な世評と、小津監督自身が表明した「失敗作」というコメントの間には、ある微妙な差のあることが僕には気になって仕方ありませんでした。

不運な出自を背負わされることとなった作品「風の中の牝鶏」は、病気の子供の治療費のために、やむに止まれず妻が犯した不倫を、どうしても許せない夫の苦悩を描いた作品です。

全編を通して描かれる妻を責める夫の執拗さは、そのまま小津安二郎という人が「女性」に求め続けた異常なまでの潔癖さ(それは、同時に女性への根深い失望をも示しているのですが)を現しているように思えてなりません。

妻が他の男とカラダの関係を持ったこと自体、夫には生理的にどうしても許せないでいます。

行為のひとつひとつを、どこまでも執拗に問い詰め続ける尋常でない偏執的な嫉妬(嫉妬と言ってよければ、ですが)は、むしろ狂気に近いものを感じます。

男の欲望に否応無く応じてしまう女の肉体そのものの成り立ちと在り方、罵っても打ち据えても階段から突き落としたとしても、消せるわけもない・どうしようもなくそこに存在し続ける「女の肉体に巣食う性欲」を、夫はひたすら憎み続けているように見えます。

怒れる夫がアヤマチを犯した妻に与える執拗な暴力描写を見ていると、夫には、妻と妻の体を買った男とが剥き出しの肉体を絡ませながら互いの肉欲をせっせと満たしている生々しい具体的な性的妄想に苛まれることの苦しみが、妻に加えられる暴力の原動力になっているようにさえ窺われます。

この作品「風の中の牝鶏」は、「女の『性』なんて、所詮あんなものさ」という小津監督自身の素直な心情(女性に対する落胆と嫌悪感と恐れと)を率直に包み隠さず吐露して描き込んでしまった剥き出しの作品だったからこそ、小津監督はどうしても「失敗作」と否定するしかなかったように思えます。

そして、このこと(女性に対する落胆と嫌悪感と恐れ)が、後年の女優が殊更に美しく描かれていくことと無縁ではないように思えてなりません。

遠くから見ている限りは、ひたすら美しがっていればそれで済む「女性」たちも、親しくなり近づきすぎれば、その狡猾さ・その生臭さにただただ幻滅させられた小津監督の、女性に対する失望の証しのような気が以前からしていました。(川島雄三や増村保造や今村昌平なら、至上の美として女のマタグラにのめり込んで描いたというあの女の欲望です)

小津作品の描く女性たちの美しさの秘密が、生活臭の感じられないクールさにあって、それが同時に現実に生きる女性に対する嫌悪と恐れに帰するものだとしても、しかし、その「架空」を愛する気持ちは、映画にのめり込んでいく心情とどこかで繋がっているような気がして、そういう部分に、僕は小津監督に惹かれています。

小津監督が、終生結婚を拒んだことの理由は、女性を美しく見続けるためだった、身近で醜悪な部分を見たくなかったためだったのではないか、結婚は女性とのいい関係を保つ「距離感」を失わさせられてしまうものと考えたのではなかったかというのが、一応の僕なりの結論です。
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by sentence2307 | 2005-09-11 17:22 | 映画 | Comments(52)