世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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2005年 09月 13日 ( 1 )

流れる

長い間、この成瀬巳喜男作品を母と娘の葛藤の物語だと思い続けて見てきたような気がします。

芸者置屋という商売を傾かせてまでも男に入れ揚げては裏切られ、今は苦境にある芸者の母親と、そんな母を批判的に見つめる娘という図式です。

しかし、最近、この作品をそんなふうに見るのは少し違うかもしれないなという気がしてきました。

たとえば母と娘の葛藤の物語といえば、すぐに思い浮かぶのは木下恵介監督作品「香華」でしょうか。

母親のふだらさや男に対するだらしなさを冷たく見据えて憎み続けた潔癖な娘の、あの凄まじいまでの母親に対する憎悪に匹敵するようなものが、はたしてこの成瀬作品「流れる」の、高峰秀子演じる娘・勝代に少しでも描き込まれていると言えるでしょうか。

娘・勝代が、一応母親を批判的に見てはいるものの、しかし、そこには「憎しみ」というよりも、頼りなげに揺れる母親を不安気に見守り続け、さらには情愛をこめて「気遣っている」と見る方がなんだかしっくりします。

勝代は、結局母親を棄てきれないまま、傾きかけた芸者置屋に踏み止まり、2階にミシンを持ち込んで、芸者という職業に染まり切れない不器用な自分にも出来る母親への、せめてもの罪滅ぼしのような助力を模索するという暗示的なラストが用意されているだけです。

どこまでも「母と娘の葛藤の物語」という図式に囚われて見るなら、この憎悪なきまま・葛藤なきままに終わろうとする母子の設定は、随分と不徹底で煮え切らない終わり方であって、きっと誰もが拍子抜けし、そして、まさにこの作品に対する僕の積年の物足りなさもまた、そこにあったのだと気が付きました。

今にして思えば、この映画が「母と娘の葛藤の物語」でない以上、その「拍子抜け」は謂われのないものだったのだと思います。

「香華」との対照によって浮かび上がってくるものは、杉村春子演じる染香が勝代に食って掛かるラストの「女には男なんていらないんだってさ」という吐き棄てるように語られる悲痛な絶叫に明確に語られていると思いました。

それは、女性の性欲の全的な肯定です。

たとえば「香華」は、木下恵介という人の高潔な倫理観に貫かれた作品だと思います。

女性の「性」にまつわるふしだらを決して許そうとしない冷ややかな眼差しに見つめられた木下恵介の息苦しいまでの潔癖な倫理観によって貫かれていると思いました。

それぞれが男運に恵まれないまま、うらぶれた芸者置屋で精一杯生きる不運な凋落の女たちへ注ぐ成瀬の温かい憐憫の眼差しという温度差が、大きく作用していたのかもしれません。

言い換えれば、それは深い部分で女たちの「性欲」を許容しようとした成瀬巳喜男の考え方が、明確に示されたからだったに違いありません。

杉村春子演じる初老の芸者・染香が絶叫する「女に、男なんか必要ないとさ」という言葉にそれは、はっきりと込められていると見ていいと思います。

ちなみに「潔癖」という心情的「疵」が、むしろ異常性愛に直結するものであることを僕たちはフロイトによって、あるいは経験によって学んできたのですが。

さて、この作品を「母娘の葛藤」という呪縛から解き放たれたとき、そこに見えてくるのが、きっと田中絹代と杉村春子の葛藤でしょう。

この視点を獲得できれば、この成瀬作品の凄さを初めて理解できたと言い得るのかもしれません。

田中絹代の女中さんの、ほろびゆくものに向けた慈愛の眼差しは、そのまま成瀬監督自身のものに違いありません。

(56東宝) (監督)成瀬巳喜男(製作)藤本真澄(原作)幸田文(脚本)田中澄江、井手俊郎(撮影)玉井正夫(美術)中古智(音楽)齊藤一郎(録音)三上長七郎(照明)石井長四郎(衣裳考証)岩田専太郎(監督助手)川西正義(編集)大井英史(製作担当)島田武治(清元指導)清元梅吉(特殊撮影)東宝技術部(現像)東宝現像所
(出演)田中絹代、山田五十鈴、髙峰秀子、岡田茉莉子、杉村春子、栗島すみ子、中北千枝子、賀原夏子、泉千代、松山なつ子、宮口精二、加東大介、中村伸郎、、仲谷昇、、仲谷昇、音羽久米子竜岡晋、南美江、上田、上田吉二郎、松尾文人、大村千吉、松山なつ子、佐田豊、堤康久、鉄一郎、河辺昌義、平凡太郎、上野明美、江幡秀子、
(116分・3194m、11巻35mm・白黒)
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by sentence2307 | 2005-09-13 21:11 | 映画 | Comments(0)