世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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2006年 04月 03日 ( 1 )

役者になりたいと思いながら、それが夢だけに終ってしまった人間にとって、優れた役者の演技に接するたびに、「自分なら、こういう解釈で、こう演技する」と思い続けていたはずの気持ちが、いつの間にか薄れ始めていることに気付いた時こそ、ショックで淋しいことはありません。

スクリーン上の数々の優れた演技に接し、次第に、ただ酔い痴れ陶酔の中にひたりながら、それが同時に、自分にとっては、もはや手の届かない別世界を仰ぎ見ているような、そんな諦めにも似た淋しさを、それと意識しないままに気持ちのどこかで予感のように持ってしまっているのかもしれません。

悪あがきせず、目の前の素晴らしい演技に、ただ感動して、その快感に身を委ねることを素直に喜べるようになった今の自分も、まんざらでもないのですが、しかし、ひとつだけ、どうしても諦め切れない役があるのです。

1938年の東宝作品、山本嘉次郎監督、菊池寛原作、長谷川一夫主演の「藤十郎の恋」の坂田藤十郎の役です。

役者が演技に行き詰り、それを工夫するためには、どんなことでもやってみせるという「演技」というものの本質的な姿を描いた優れものの一作です。

この作品の製作主任には黒沢明が担当しています。

ちなみに黒沢明が助監督をつとめた山本監督の「馬」が1941年、デビュー作「姿三四郎」が1943年の作品です。

さて、「藤十郎の恋」ですが、ライバルに人気を持っていかれた焦りもあって、演技に行き詰まりを感じた藤十郎は、近松門左衛門に新作を依頼し「大経師昔暦」を書いてもらいます。

同じ長谷川一夫と香川京子の共演で溝口健二が撮ったあの名作「近松物語」の、そもそもの原作です。

しかし、藤十郎には、その芝居の濡れ事の写実的な演技の工夫がつかないまま煩悶している時に、顔合わせで使うお茶屋で、昔から懇意にしている内儀・入江たか子演じるお梶と昔話を語り合っているそのなりゆきから、彼女に、今でもあなたのことを愛している、と打ち明けます。

藤十郎の突然の告白に、動揺し、戸惑い、迷った末、お梶は意を決したように、人目をうかがいながら部屋の障子を閉めて廻りますが、彼女のその仕草を射るような醒めた眼差しでじっと観察していた藤十郎は、突然座を立ち、楽屋に芝居の関係者を集めて「新狂言の役に工夫がついた」と告げます。

新狂言が初日をむかえる頃には、「藤十郎が、ある茶屋の女房を相手に役の案を得た」という噂が立っており、お梶は、その噂を聞いて自害します。

お梶自害の報を聞きながら藤十郎は舞台に向かいます。

この作品が描いているのは、「芸道の冷酷さ」というテーマだと解説書には書かれているのかもしれませんが、しかし、これは、「演技者にとっての日常生活」という興味深い永遠のテーマでもあります。

そもそも演技者にとって、「日常的」というものが在り得るのか、と考えて悩んでしまいます。

「藤十郎の恋」において、濡れ場の演技の工夫が思いつかないまま、たまたま身近にいる女性に、その気も無いのに愛を告白することで、敏感に反応する彼女たちの動揺するサマや仕草を、つぶさに観察して演技の参考にするというテーマは、確かに冷酷であり、また残酷でもあるのですが、そこには、それ以上のものとしての演技に対する純粋さや誠実さが描かれてもいて、共感できる救いも感じることができました。

それに引き換え、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督「旅路の果て」のルイ・ジューヴェが演じた老優サンクレールの冷酷さは、「藤十郎の恋」の酷薄さなど、その比ではない程の凄まじいものでした。

この「旅路の果て」で描かれている俳優ばかりを収容する養老院という設定を見たとき、それがファンタステックなまでに非現実的なもので、そして奇抜なこのシチュエイションが、この映画独自の奇を衒った創作上のアイデアかと、長い間、思い続けていたのですが、ダニエル・シュミットの「トスカの接吻」などを見るに及んで、俳優組合の活動の延長線上に、あるいは、こうした施設が造られたとしても不思議ではないかもしれないなと最近になって思いを改めました。

そこは、もはや、役者として食べられなくなった寄る辺の無い老いた俳優たちが、老後を過ごすための養老院です。

世間から忘れ去られながらも、しかし自己顕示欲だけは人一倍強い俳優ばかりが集まるというその設定は、ただそれだけでも残酷な物語を生み出さずには置かない卓越した設定であることに、まずは感心し、その感心の度合いに等しい分だけの痛ましさをも覚えました。

俳優にとっては、世間から忘れ去られるという以上の苦痛は、おそらくないでしょう。

この養老院が殊更に残酷な設定であるというのは、そこが、忘れられた無用となった俳優たちが生きながら葬られる辛辣な捨て場所だからで、しかも、そのことを彼ら自身が十分に認識しているところにこの物語を支えている深い絶望感があると考えます。

現実を生きることそれ自体が屈辱でしかないなら、人は、過去の栄光にすがって生きることで、自らの威厳を辛うじて保つことしかできません。

のみならず、老優サンクレールは、酒場娘ジャネットが自分を憧れの眼差しで見ていることに付け込んで、その悪魔的な「演技」によって彼女を破滅の瀬戸際まで追い詰めていきます。

「自分に恋した女は、死を賭けて自分に愛の証を示すようになる」と囁きかけて、純真なジャネットに自殺をそそのかします。

その異常な演技に込められた虚栄心こそが、彼の役者としての誇りのすべてだったのでしょう。

かつての華やかな名声を捨て切れずに、毎日何通もの自分宛てのファンレターを密かに書いたりするその虚栄心は、彼の矜持でもあるのだと思います。

その虚栄の延長線上に、酒場の娘ジャネットの誘惑が描かれていきます。

やがて彼は演じ続けることによって狂気にかられ、狂気のドン・ジュアンのまま精神病院に収容されます。

演じることを職業にすることの究極的な姿をジュリアン・デュヴィヴィエがどのように考えていたのか、このシーンによって明確に察することができます。
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by sentence2307 | 2006-04-03 23:48 | 映画 | Comments(0)