世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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2006年 04月 05日 ( 4 )

蜘蛛の街

失業中の善良な男が、仕事欲しさに凶悪な事件に巻き込まれてしまうという小市民の恐怖を描いたサスペンス映画です。

近年、マニアの間では物凄い人気があると聞いている鈴木英夫の作品を「意識して」見たのは、今回が初めてでした。

この鈴木英夫作品は、かのヒッチコックとの比較論まで読んだことがあるので、とにかく物凄く期待して見ました。

息もつかせぬテンポの良さは、確かに優れたものがあると思いましたが、しかし、ヒッチコックを持ち出すというのは、ちょっといき過ぎのような気もしないではありません。

ショッキングなシーンの釣瓶打ちとか、意想外などんでん返しで見る者を驚かすような映画とは少し違う、むしろ正統的な人物描写の緻密さがこの映画の緊張感を高め、サスペンスに厚みを持たせていると感じました。

団地に住んでいるこの男には、妻と子供がいます。

男は失業中で、職を失ったことをまだ妻に話すことができない。

気安く打ち明けられないほど夫婦仲が冷え込んでいるからかというと、むしろ逆で、お互いを愛称で呼び合っているほどの打ち解けた間柄であることがすぐに分かり、夫婦のこの繊細な心理の食い違いを描くことによって、微妙な夫婦の関係を巧みに描き出していると思いました。

朝、定時に家を出て職探しに歩き回っている男は、サンドイッチマンの職を見つけて、ようやくわが家に生活費を持ち帰ることができるのですが、看板をぶら下げて街を歩いているサンドイッチマンの姿をバスの車掌をしている義妹に見られてしまい、妻もようやく夫の苦境を知ります。

しかし、妻はそのことを夫に直接問いただすことまではできません。

またしても情報提供者たる妹が、夫婦の仲に入って話の切っ掛けを作ってあげる役を買ってでる始末です。

この夫婦の不思議な「他人行儀さ」ぶりを、現代に生きる僕たちが、夫婦のこうしたお互いのことを遠慮がちに思い遣る節度を優しさと理解できるかどうかなど、この映画を味わううえで興味深い問題かもしれませんね。

しかし、僕が面白いとおもったのは、この映画の中心になっている替え玉のそっくりさんを現場近くに歩かせ、時間的なアリバイを作ったうえで本物の方を自殺に見せかけて殺してしまうというシチュエーションです。

これは明らかにこの映画が公開される前年の昭和24年の7月に起きたあの下山事件でしょう。

失踪後轢断地点付近で見られたといわれた「下山総裁の死の彷徨」から着想されたものですよね。

映画に厚みを持たせたといえば、あるいはこちらの方かもしれません。

(50大映・東京撮影所)製作・三浦信夫、監督・鈴木英夫、脚本・高岩肇、原作・倉田勇、撮影・渡辺公夫、音楽・伊福部昭、美術・木村威夫、録音・長谷川光雄、
出演 宇野重吉中北千枝子 伊沢一郎 根上淳 千石規子 目黒幸子
1950.06.03 9巻 2,102m 77分 白黒
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by sentence2307 | 2006-04-05 23:58 | 映画 | Comments(0)

マーティ

1955年当時にあって万事が派手な傾向にあったワイド・スクリーン、スター・システムという時代的趨勢に背を向けたような、とてもシンプルでひた向きな中年の男女の恋愛をなんの飾り気もなく描いた、これはデルバート・マンの本当に地味な作品でした。

ブロンクスで肉屋を営むイタリア系の中年独身男マーティは、お人好しで善良だけれども自分の醜さを十分に分かっていて、いまだに結婚が出来ないでいる理由が、自分のその醜さにあるという劣等感から、いまだ女性とうまく付き合えないでいます。

演じるは、アーネスト・ボーグナイン。

粗野で荒々しい悪役の印象だけがやけに残っているのは、きっと僕がロバート・アルドリッチの「北国の帝王」を思い出してしまうからでしょうか。

作品賞、監督賞に続いてボーグナインもまた、この醜男の純愛を演じた繊細な演技でアカデミー主演男優賞を獲得しています。

この年ノミネートされていた他の4人は「エデンの東」のジェームス・ディーン、「日本人の勲章」のスペンサー・トレイシー、「黄金の腕」のフランク・シナトラ、「情欲の悪魔」のジェームス・キャグニーという錚々たる顔ぶれの中での栄えある受賞でした。

しかし、興味深いのは、同時にノミネートされた「日本人の勲章」のなかで、ボーグナインは相変わらずの悪役を演じており、日本人への憎悪と偏見が根強い西部の片田舎で、戦争のさなか秘密裏に町中で日本人を寄って集かって殺したうちの一人として出演しています。

善人として主演男優賞を受けたボーグナインは以後個性派俳優としてその芸域を広げていくことになりました。

ちなみに受賞部門は、作品賞、主演男優賞、監督賞、脚本(脚色)賞(パディ・チャイエフスキー)、ノミネートされたものは、助演男優賞(ジョー・マンテル)、助演女優賞(ベッシー・ブレア)、撮影(白黒)賞(ジョーゼフ・ラシェル)、美術監督・装置賞、でした。

「マーティ」が僕たちを感動させずにはおかないのは、ダンス・パーティで知り合った女教師クララの容姿もまた美形でないことに劣等感を抱えていて、マーティも彼女が美人でないのを密かに不満に思っている部分です。

再会の約束を守ろうかどうしようかと迷っているマーティに、クララが美人でないことをからかいのネタにして馬鹿にしていた仲間たちもまた哀れなほどに孤独であることを知り、はじめて彼女への愛に気付くという感動作でした。

この作品が主張する素朴な問い、つまり誰もが幸せになる権利があり、容姿が醜いからといって人並みに幸せを求めてはいけない理由がどこにある、という極めて素朴な問い掛けが僕たちを激しく撃ったのだと思いますが、もっともショッキングだったのは、遊び人を気取り見栄や体裁を装いながら、実は誰もが帰るべき場所を持たない孤独な者たちなのだ、とマーティが気付いた点でしょう。

そのことに気付いて、彼はクララへの愛を見出します。

見栄や体裁を取り繕って、いつも仲間で群れている自分にとって、これはとても痛い映画でした。
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by sentence2307 | 2006-04-05 23:51 | 映画 | Comments(0)

月とキャベツ

見終わった直後は、とても感動して、ちょっとウルウルきてしまいました。

とても爽やかで、せつなくて、自分自身が経験してきた数少ない出会いと別れのことなども、ぼんやり考えてしまいます。

うまくいかずに、なんとなく別れてしまった彼女たちが、今頃どうしているのかななどと、ちょっと感傷的になったりします。

きっと僕みたいに、有り余る時間をもてあまして、退屈紛れに繁華街をほっつき歩いているのかもしれません、どこかでいま、この同じ時間をやはり同じように生きていることが、とても不思議に思えます。

自分がいま、この街の雑踏の中で、たったひとり取り残されてしまったような孤独に不意に気づかされる、そんな気分にさせるこの「月とキャベツ」でした。

いたたまれない孤独を感じ、いつもは冷たくしている彼女に、急に優しくしてあげたくなるようなそんな気持ちになりますよね。

なによりも、ヒバナのハツラツとしていながら、どこか不器用な感じが、とても共感できます。大人になりきれないでいる少女特有の長い手足をたたみかねて、持てあましているような、戸惑っている感じがとても新鮮です。

例えばこのシーン、曲が完成した夜、あふれ出るヒバナへの思いを抑えかねて、唇を求めようとする花火を、彼女が苦しげに避ける切なくて痛々しい場面が、強く印象に残りました。

忘れかけた歌作りの情熱を取り戻させる手助けをする霊としてのヒバナには、くちづけをすることが許されなかったのでしょうが、また、見方によっては、恋愛前期の少女が、「性」の手前でためらい、そして静かに拒む「おびえ」の仕草とも見えます。

避けるヒバナに向ける花火の「どうして?」という表情も、この作品が観客の胸深くに届く説得力を与えています。

男には、なぜ彼女が自分から去っていったのか分からないときがあるように、女にも、「わかって欲しい」と思いながらも、説明できないまま去るしかない苦しいときがあるのかもしれません。

このシーンを見ながら、兄の恋人に、ためらいながら唇を寄せていく痛ましい孤独と背信の恋を描いた「エデンの東」の繊細な一場面を思い起こしました。
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by sentence2307 | 2006-04-05 23:50 | 映画 | Comments(1)
原題は、すっきりと before Sunrise なのですから、邦題のつけ方のむずかしさが、これだけでもよく分かります。

この邦題を見て、日本語の言葉のニュアンスをそのまま先入観としてこの映画に持ち込んだら、かなりの部分でこの作品を見誤る危険があると思いました。

日本語で「距離」といったら、まずは「隔たり」とイメージしてしまいます。

最悪の場合、この邦題から思い浮かべるものは、「恋人に至るまでの隔たり」、つまり、恋人となるためにクリアしなければならない隔たりということになりますよね。

それは、煎じ詰めれば、「縮めようとしても、どうにも縮めることの出来ない隔たり」と、なにやらネガティブな深読みに誘い込まれそうな感じすらしてしまいます。

これではまるで、アントニオーニやアラン・レネのシュールな感じの映画になってしまいそうで、もちろん、この作品が描こうとしているものからは遥かに反れた不安定なタイトルと言わざるを得ません。

日本語の「距離」という言葉には、残念ながら、互いに努力して隔たりを縮めようとする肯定的な意味までは含んでいるとはどうしても思えないという理由から、そのままの「before Sunrise」か、または「夜明け前」では何故いけないのか理解に苦しみます。

まさか藤村の作品と勘違いされると危惧したわけでもないでしょうが。

さて、この作品を見ながら、ロブ・ライナーの名作「恋人たちの予感」1989をつい思い浮かべていました。

男と女の純粋な友情がSEXによって簡単に壊され、デリカシーを欠いた性欲だけの動物的な結婚生活に埋もれてしまうことを極度に恐れる恋人たちが、何年にもわたっておびただしい会話を積み上げていくという深い洞察に富んだ傑作です。

あの映画を青臭い単なる喜劇と見るなら、人生もまた取るに足りない茶番でしかないように思えます。

現実においては、SEXによって語り合う(あるいは、語り合うのを辞める)恋人たちは、ゴマンといるからです。

自分はこういう人間で、だから、こういうふうに分って欲しい、自分の性格や生活習慣、好みや嫌悪など、最愛の人だから自分のすべてを分って欲しい、相手のすべてを分りたい、互いにすべてを理解し合えたその上で生活を共にしたいという気持ちは至極当然な欲求だと思います。

そういう恋人たちが、SEXだけの関係によって口を封じられることを極力恐れるとしても、それもまた当然のことだろうと思います。

この映画に登場するセリーヌとジェシーは14時間を費やして語り合い続け、そして愛を確認し、半年後の再会を約して別れるのですが、ラスト・シーンでセリーヌを演じるジュリー・デルピーがふと笑みを浮かべる場面があり、しかし僕にはあのタイトル「恋人までの距離」がどうしてもちらついてしまい、あれを素晴らしい愛にめぐりあった少女の幸せな笑みとそのまま理解していいのか、あるいは、彼女には、さらに困難な状況が待ち受けていると思ったほうがいいのか、いやいや、あの微笑は、もっとシニカルなもので、一日だけのアバンチュール全体を自嘲気味に回想した上での微笑だったのではなかったのかなど、思いは千路に乱され、「おかげで」少し不安になってしまいました。
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by sentence2307 | 2006-04-05 23:49 | 映画 | Comments(0)