世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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2006年 04月 12日 ( 1 )

浮雲

女にとって、初めての男というものが、これほどまでに重たいものか、ちょっと想像ができません。

ゆき子が、そんなにも男に執着するものとは何なのか、どうしても分からなかったのです。

身持ちの悪いぐうたらな富岡の煮え切らない態度や数々の不誠実に苛立って、怒りを露わにゆき子が、彼を激しくなじる場面が、この作品には繰り返し描かれます。

例えば冒頭、外地で富岡と肉体関係のできたゆき子が、帰国して彼を訪ねていくと、そこには本妻がいて、ゆき子が富岡にその不誠実を詰る場面は、彼女の吐き棄てるような口舌が滔々と展開される成瀬巳喜男の卓越した演出力を遺憾なく発揮した象徴的なシーンだと思いました。

この、結婚の夢が砕かれたショックを男にぶつけながら、その詰問が、しかし同時に相手に対する自分の気持ちを改めて確認してしまうこととなって、結局は、「縒り」が戻ってしまうのです。

こんな男のどこがいいんだという観客の気持ちを逆の形で先取りしてしまうかのように、ゆき子は、男の非を並び上げ言い募りながら、やがて激昂が収まり、気持ちが徐々に静まっていく過程で、彼女が富岡の「そういう欠点をも含んだ総て」を愛しているのだと悟らされます。

その後、妊娠を告げに男を訪ねると、温泉宿で知り合った浮気相手と同棲していることが分かり、出産の夢も砕かれたゆき子は、失意のままに、堕胎する必要からヤケのように自分の処女を奪った男の囲われ者となってしまうのですが、そんな目にあっても、妻が死んだことを報告にくる富岡を、その場で許してしまいます。

なんでこんなぐうたらな男にこだわり惚れるんだと、僕も長い間この作品を見る度に疑問に思っていました。

富岡の優柔不断な煮え切らない態度を、ゆき子は詰り続けますが、富岡は抗弁することもできないまま、為すすべもなく、ただ俯いているだけです。

彼女の怒りを前にしても、ただ戸惑うばかりでどうにもできないでいる富岡のその無気力な様子は、戦後の混乱期をうまく泳ぎ切れずに何をやってもうまくいかないまま、もがけばもがく程苦境に陥ってしまう不運な男の放心といった様子です。

この場面を見ながら、もしかしたら、ゆき子もまた、富岡と同じように不器用な人間だったからこそ、富岡から離れられなかったのではないかと。

戦後社会の目まぐるしい移り変わりにうまく乗れず、弾き出され行き場を失った人間だから、彼女自身もそれがよく分かるから離れられなかったのではないかと思いました。

この男と女の間に交わされる愛着と失望、裏切りと背信、嘘と不誠実、傷つけ合い、そして、ゆき子の死によって破局に至るその総てが、そのことを証し立てているように思います。

「日本映画専門チャンネル」で以前、成瀬巳喜男監督特集が組まれていて、そこでめずらしいインタビュー作品を見ました。

1993年度製作の「INTERVIEW 成瀬巳喜男・回想録」という32分のカラー作品です。

僕としては就寝前ということもあり、お酒を飲みながらリラックスしている状態でぼんやり見ていたために詳しい作品データを控えそこなってしまったのですが(見た後でインターネット検索を試みても、結局確かなデータを把握できませんでした)、その出演者のあまりの豪華さにビックリして一気に目が覚め、思わず姿勢をただしてしまいました。

それは、成瀬夫人の成瀬つね子氏、名キャメラマンの玉井正夫氏、そして成瀬作品の美術監督といえば代名詞のように僕の頭に刷り込まれている中古智氏です。

私的であれ公的であれ、成瀬監督のすぐそばで、ともに濃密な時間を過ごしてきた人々の回想が面白くないわけがないのですが、つね子夫人や玉井正夫氏の回想は、どちらかというと僕が想像していた成瀬巳喜男という人の人間像の枠内にどれもすっぽりと収まる感じで、それほどの意外性は感じられませんでした。

いつも静かで控えめ、生涯をとおして一度も声を荒げたことなく、他人と打ち解けるよりはむしろ独りきりで静かに黙考することを好む孤独な人、片意地なくらい自分の思いにこだわり自分の方法をどこまでも押し通す芯の強い職人肌の映画人、しかし、これらのどの特性もたがいに矛盾するものはなく、きっと「成瀬巳喜男」という繊細な包み紙ですべてを覆いつくすことのできるものだろうと思います。

「小津は二人いらない」といわれて松竹を出されたという有名なエピソードがもっているあの独特の負のイメージは、成瀬巳喜男という人の寂しく侘しく消極的で、諍いを好むことなく、他人の理解を求めて自己主張して争うよりも、むしろ諦念をたたえ自分から静かに身を引いていく孤独な人間像を端的に表していると思いました。

だからでしょうか、三番目に登場した美術監督・中古智の回想部分がなおさら強烈な印象を残したのです。

僕たちが抱いている不朽の名作、あの「浮雲」に対するイメージを一新するような、それは述懐です。

ある日、成瀬監督と連れ立って歩いているとき、中古智氏は、「浮雲」の男と女の設定について何気なく聞いてみました。

つまり、映画の中で設定されている、夫婦でもない男と女の関係が、どうしてああも長続きするのか、その疑問です。

世にある「制度」に拘束されていない男女関係を見る限り、お互いの性的欲望を遂げてしまえば、その関係を保つ意味は失われ、関係は解消し、どちらもが、もっと目新しい異性、さらに性的欲望をそそる新しい相手を求め次から次へとさすらうのが普通の性欲というものではないか、という疑問です。

成瀬巳喜男は答えます。

「それは、お互いの性器の具合によるのだ、自分だけにぴったりと合う性器にめぐり合ったとき、男と女は生涯離れられなくなってしまうのだ。」と。

中古智「!?」、
まるで何気ない猥談をするように、街中の雑踏の歩きながらの会話で、これだけのことを言い放つ成瀬の顔を、中古智は、驚愕とともにしばし呆然と見つめてしまいます。

それは、「浮雲」の真実を知ったという驚愕だったかもしれません。

そして僕も、この話を単なる猥談的なエピソードとして聞き流すことができませんでした。

この世界で結ばれべく最初から約束されている二人を繋ぎ合わせているというあの架空の「赤い糸」の馬鹿げた話なら、最初から信じられるはずもないのですが、しかし、自分だけに合致するという性器の持ち主がこの世のどこかにいるに違いないという話なら信じてもいいような気がしてきました。

きっと、この世の多くの人間関係の不幸は、その「不一致」が原因しているのかもしれないなとも思えてしまうくらいです。

しかし、この奇跡的ともいえる「性的合致」にめぐり合うという稀有は、平穏な日常を生きる社会人にとって、あるいは破滅を意味してしまうかもしれませんね。

僕たちは、その性的合致にめぐり合ったために反社会的な立場に追い込まれて破滅していったもうひとつの「恋人たち」を描いた映画を知っています。

森田芳光の「失楽園」97が多分そうでしたよね。

つい最近、「浮雲」についての解説を、「人間の愚かしさを描いた・・・」という書き出しで始めようとしている一文に接しました。

何様のつもりでいやがる、というその言葉への反撥もあって、その筆者への苛立ちの気持ちが、この文章を書き上げるpowerを僕に与えてくれたのかもしれません。
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by sentence2307 | 2006-04-12 22:33 | 映画 | Comments(0)