世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:映画( 1168 )

半年に一度くらい、繰り返しなのですが、期間をおいて放送されているNHK制作の「映像の世紀」を楽しみに見ています。

このプログラムがまとめて放送されたのは相当以前のことで、その当時、放送を見ながらリアルタイムで録画もしていて、そのテープは大切に保存してあるのですが、ヒストリー・チャンネルなどで頻繁に放映されるので、録画したものを見るまでもなく、そのテープは、文字通り永久保存状態で御蔵入りになっています。

また、そういう放送を待つまでもなく、you tubeなどでいつでも手軽に見られるので、放送すら待つ必要がないというのが実態です。

そう簡単には見ることのできない相当貴重な歴史的映像であることを考えると、実に素晴らしい時代になったものだという狂喜や感心を通り越して、空恐ろしくなるばかりです。

放送された年月日だとか、その構成・内容などについて、どれも記憶が曖昧なので、さっそく「映像の世紀」と打ち込んでネット検索を試みました。

放送は、1995年3月から1996年2月にかけて、毎月第3土曜日にNHK総合テレビの「NHKスペシャル」で全11集にわたって放映されたと書かれていました。

へえ~、もうカレコレ20年以上も前の放送だったんですね、自分としては、CS放送やネットなどでたびたび接しているので、そんなに古い放送だなんて、なんだか実感がわきません。

検索の結果は以下の通りです。


第1集「20世紀の幕開け」カメラは歴史の断片をとらえ始めた 1995.3.25 放送
第2集「大量殺戮の完成」塹壕の兵士たちは凄まじい兵器の出現を見た 1995.4.15 放送
第3集「それはマンハッタンから始まった」噴き出した大衆社会の欲望が時代を動かした 1995.5.20 放送
第4集「ヒトラーの野望」人々は民族の復興を掲げたナチス・ドイツに未来を託した(第1集放送時の予告仮題「国家の狂気」)1995.6.17 放送
第5集「世界は地獄を見た」無差別爆撃、ホロコースト、そして原爆 1995.7.15 放送
第6集「独立の旗の下に」祖国統一に向けて、アジアは苦難の道を歩んだ(第1集放送時の予告仮題「革命いまだならず」)1995.9.16 放送
第7集「勝者の世界分割」東西の冷戦はヤルタ会談から始まった  1995.10.21 放送
第8集「恐怖の中の平和」東西の首脳は最終兵器・核を背負って対峙した 1995.11.18 放送
第9集「ベトナムの衝撃」アメリカ社会が揺らぎ始めた(第1集放送時の予告仮題「超大国が揺らぎ始めた」)1995.12.16 放送
第10集「民族の悲劇果てしなく」絶え間ない戦火、さまよう民の慟哭があった(第1集放送時の予告仮題「さまよえる民」)1996.1.20 放送
第11集「JAPAN」世界が見た明治・大正・昭和 1996.2.24 放送


なるほど、なるほど。

第二次世界大戦の戦後50周年とNHKの放送開始70周年、さらに加えて映像発明100周年記念番組ということで制作されたドキュメンタリー番組で、NHKとアメリカABC放送の国際共同取材で制作された壮大な企画だったわけですね。とにかく凄い。感心しました。

でも、なぜ自分がいま「映像の世紀」のことを思い出したかというと、つい先週、ファティ・アキン監督の「消えた声が、その名を呼ぶ」を見たときに、たしか「映像の世紀」の中で20世紀の難民の歴史を扱ったものがあったことを不意に思い出したからでした。

そして検索した結果、それは第10集の「民族の悲劇果てしなく」であることが分かりました。

その冒頭部分で、20世紀最初に映像が捉えた難民としてほんの瞬間的に紹介されていたのが、まさにこの映画「消えた声が、その名を呼ぶ」で描かれていた「アルメニア難民」だったのです。

思えば、現在に至るまで、世界における地域紛争は絶え間なく起きていて、おびただしい数の難民が生み出されており、国境を越えて他国に逃れた彼らを、建前的には人道上(実際のところは、大国の過去の植民地経営の負の歴史的遺産です)あるいは、安価な労働資源としてそれら難民を受け入れるまでは良かったものの、やがて飽和状態となって国内の富の分割・社会保障などの矛盾と歪みを露呈し、やがて自国民の失職を招いて不満を増大させた結果、難民とのあいだに軋轢を生じさせて、やがて欧米各国に右傾化政権を次々と生み出した経緯を考えると、これは歴史的必然でもあり、ひとつの象徴としての顕著なのがアメリカのトランプ政権(貧困の不満の吸収)誕生なのではないか、しかし、それは、それ以前のオバマの優柔不断・現状の諸矛盾からことごとく直視を避けた無責任な政策運営・偽人道主義にも重大な過失はあったはずだと考えています。

当時日本でも、民主党の一部議員が、人道上「難民を受け入れよう」などと馬鹿げた論陣を張っていましたが、歴史的定見を欠いた唐突な痴言(その愚劣と愚鈍は「トラストミー」で既に世界では経験済みです)は世界的に冷笑を買っていることさえ認識さえできなかったというテイタラクでした。

まあ日本の政治家のレベルでは、せいぜい「いかがわしい不倫」をこそこそやらかすか、「政党助成金ころがし」で私腹を肥やすか、「政策活動費のちょろまかし」に精を出すくらいが似合っています。まあ、これじゃあまるでハエか、ゴキブリですが、やれやれ。

そんな淫乱女や立場の弱い者とみると居丈高に罵倒しまくる頭のおかしな勘違い女か、もしくはコソ泥野郎のために汗水たらした金をせっせと税金に持っていかれるのかと思うとハラワタが煮えくり返ります。

さて、自分がこの映画「消えた声が、その名を呼ぶ」の感想を書きたいと思ったのには、もうひとつの理由があります。

あるサイトでこの作品の感想を読んで、思わず愕然としたからでした。

ちょっと引用してみますね(引用も何も、これですべてなのですが)。

《戦時下に差別と虐殺から生き延びた男が家族と再開するために旅をする話。
面白いけど、少し冗長で飽きてきた頃感動の再開…と思いきや、あっさり声が出ちゃうし、「今までどこに…」って、なんだそれ?
しかも大した盛り上がりもなく終了。
何とも締まらず残念過ぎる。》

「なんだそれ?」って、あんたが「なんだそれ?」なんだよ、馬鹿野郎。

「あっさり声が出ちゃう」のは、たとえ声を失っても最愛の娘にだけは聞こえた「ささやかな奇跡」を描いているからだし、「今までどこに…」は、祖国を追われ故郷を失った者たち(あるいは、父娘)が、遠い異国の地でお互いを求め合っていた思いの深さを「そう」表現しているからだよ、馬鹿野郎。

大量虐殺から奇跡的に逃れられた父親が、これも奇跡的に生き残った愛娘を異国の地で執念で探し当てたんだぞ。

「お父さんが探し当ててくれた」って言っていたろう?

それに「しかも大した盛り上がりもなく終了」って、あんたね、今までなに見てたんだよ、えっ?

こういうヤカラは、たとえ馬にされた母親が自分の前で、血の出るくらい死ぬほど鞭打たれ、苦しみの叫び声を上げても、へらへら笑っていられる無神経な野郎なんだ、きっと。

う~ん、もう! おまえなんか、金輪際、映画見なくともいい。オレが許す。

今日は、映画のコラムなんて書ける状態じゃない、これじゃ。

だから。今日はこれでオシマイ。


(2014独仏伊露ほか)監督脚本製作・ファティ・アキン、共同脚本・マルディク・マーティン、製作・カール・バウムガルトナー、ラインハルト・ブルンディヒ、ヌアハン・シェケルチ=ポルスト、フラミニオ・ザドラ、音楽・アレクサンダー・ハッケ、撮影・ライナー・クラウスマン、編集・アンドリュー・バード、美術・アラン・スタルスキ

出演・タハール・ラヒム(ナザレット・マヌギアン)、セヴァン・ステファン(バロン・ボゴス)、ヒンディー・ザーラ(ラケル)、ジョージ・ジョルジョー(ヴァハン)、アキン・ガジ(ヴァハン)、アレヴィク・マルティロシアン(アニ)、バートゥ・クチュクチャリアン(メフメト)、マクラム・J・フーリ(オマル・ナスレッディン)、シモン・アブカリアン(クリコル)、トリーネ・ディアホルム(孤児院院長)、アルシネ・カンジアン(ナカシアン夫人)、モーリッツ・ブライブトロイ(ピーター・エデルマン)、ケボルク・マリキャン
第71回ベネチア国際映画祭コンペティション部門ヤング審査員特別賞受賞



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by sentence2307 | 2017-09-24 16:52 | 映画 | Comments(0)

揺れる大地

先日の朝、いつものように出社前の慌ただしい身支度をしながらテレビのニュースをチラ見していたら、いま稚内港ではスルメイカが豊漁で、全国のイカ釣り漁船がこの最北の港に集結し、港町全体が大いに賑わっているというニュースを流していました。

意外でした、確かつい先だっては、今年は全国的にスルメイカの不漁が続いており、函館では、そのアオリを受けて老舗の水産加工会社が廃業するなど、事態はずいぶん深刻化しているというニュースを聞いたばかりだったからです。

そこには中国船・韓国船が出張ってきて不法に乱獲していることもかなり影響していると報じていたことも、うっすら記憶しています。

久しぶりの豊漁に恵まれた稚内のニュースでは、いまの水揚量が1604トンで、市の試算によると経済効果は実に2億3800万円だとか、そして、稚内の町では関連の周辺産業(発泡スチロールの出荷量は既に1年分を超えた)だけでなく、スーパーマーケットやコインランドリー、飲食店、はては銭湯などまで広くその好影響が及んで繁盛していると報じていました。

ひと月前の暗いニュースから一変したずいぶん景気のいい話になっているので(函館の方はどうなっているのか分かりませんが)、思わず食事の手を止めて、テレビの画面に見入ってしまいました、テレビに映し出されていた市の職員(経済効果を試算した人です)は、「この豊漁がこの先、何か月も続いてくれるといいのですが」とホクホク顔でインタビューに応じています。

そのニュースのなかで、誰もがやや訝しそうに、なぜこんなふうにイカが大量に押し寄せてきたのか分からない、とちょっと首をかしげながら話しているのがとても印象的でした、しかし、その怪訝な表情も一瞬のことで、すぐに晴れ晴れとした顔に戻り、「まあ、いずれにしろ、この豊漁なので、どちらでもいいようなものですが」と笑って答えていました。

何年も不漁続きだったのに、ある日突然、不意に大量の魚群が浜に押し寄せてきて、寒村が狂喜に沸き返る、というこの感じが、以前どこかで体験した=読んだような気がするのですが、それがどの本だったのか、どうしても思い出せません、気になって通勤途上もずっと考え続けたのにもかかわらず、結局、思い出せないまま会社につき、伝票の整理に取り掛かったときに、不意に記憶がよみがえってきました。
そうだ、これって、以前読んだ吉村昭の「ハタハタ」という小説の一場面です。

短編ながら、自分に与えたインパクトは実に強烈で、あのニュースの内容とどこか「共鳴」するものがあったに違いありません。

夜、帰宅してから、さっそく本棚から文庫本を探し出して読み返しました。

数頁読むうちに記憶が鮮明に戻ってきました。

東北の貧しい漁村、主人公は少年・俊一、漁師の祖父と父、母と赤ん坊とで暮らしていて、母親は妊娠しています。

貧しい漁村の生活の糧といえばハタハタ漁ですが、ここ何年も不漁続きです。

沖に回遊しているハタハタ(メス)は、海藻に卵を産み付けるために「どこかの浜」に群れを成してやってくる、そしてオスは、その卵に精液をかけるためにメスを追ってさらに大挙して押し寄せてくる、このときハタハタに選ばれた幸運な浜が「豊漁」となるのですが、俊一の暮らす浜は、この僥倖からここ何年も見放されていて、慢性的な貧しさに囚われています。

そしてまた、そのハタハタ漁の季節がやってきます。

今年こそハタハタが大挙して押し寄せてくるという「夢」を信じて、漁師たちは随所に定置網を仕掛け、番小屋で夜通し「その時」を待ち続けています。

しかし、次第に嵐が激しくなり、海がシケり始めます、網の流失を心配した網元が、ひとまず網を引き揚げることを漁民に訴えます。

その網の引き上げのさなかに、修一の祖父と父親ほか何人かの漁師が、粉雪舞う寒冷の海に投げ出され行方不明になってしまいます。

緊迫した空気のなかで行方不明者の捜索が必死に続くなか、遠くの方から微かなどよめきが聞こえてきます。

それは、ハタハタの群れが大挙して浜に押し寄せてくるという狂喜の叫び声でした。

一刻を争う人命救助を優先しなければならないことは十分に承知しているとしても、ここ何年もなかった「豊漁」の兆しを目の前にして、漁民たちは動揺します。

人命救助の建前の前で身動きできなくなってしまった漁師たちは、「死んだ者は、もどりはしねえじゃねえか。生きているおれたちのことを考えてくれや」という思いを秘めて、夫を失った俊一の母の動向をじっとうかがっています。

そういう空気のなかで母親は決断します。

「ハタハタをとってください」

漁村に暮らす者のひとりとして決断した母親のこの必死の選択も、「豊漁」の狂喜に飲み込まれた村民たちにとっては、むしろ鬱陶しく、ただ忌まわしいばかりの「献身」として顔を背け、無理やり忘れられようとさえしています。

身勝手な村の仕打ちに対して憤りを抑えられない俊一は、母親に

「母ちゃん、骨をもって村落を出よう。もういやだ、いやなんだ」と訴えます。

しかし、母親は、「どこへ行く」と抑揚のない声で答えて、赤子に父を含ませる場面でこの小説は終わっています。

最後の一行を読み終え、本を閉じたとき、次第に、この物語で語られる豊漁への「期待と失意」、嵐の中での「絶望」などから吉村昭の「ハタハタ」を連想したのと同時に、もしかしたら、ヴィスコンティの「揺れる大地」を自分は思い描いたのではないかと考えてた次第です。

なお、この吉村昭の「ハタハタ」は、「羆」というタイトルの新潮文庫に収められている一編ですが、「羆」ほか「蘭鋳」、「軍鶏」、「鳩」も憑かれた者たちを描いたとても素晴らしい作品です。


揺れる大地
(1948イタリア)監督脚本原案・ルキノ・ヴィスコンティ、脚本・アントニオ・ピエトランジェリ、製作・サルヴォ・ダンジェロ、音楽・ヴィリー・フェッレーロ、撮影・G・R・アルド、編集・マリオ・セランドレイ、助監督・フランチェスコ・ロージ、フランコ・ゼフィレッリ、
出演・アントニオ・アルチディアコノ(ウントーニ)、ジュゼッペ・アルチディアコノ(コーラ)、アントニオ・ミカーレ(ヴァンニ)、サルヴァトーレ・ヴィカーリ(アルフィオ)、ジョヴァンニ・グレコ(祖父)、ロザリオ・ガルヴァトーニョ(ドン・サルヴァトーレ)、ネッルッチャ・ジャムモーナ(マーラ)、アニェーゼ・ジャムモーナ(ルシア)、マリア・ミカーリ(マドーレ)、コンチェッティーナ・ミラベラ(リア)、ロレンツォ・ヴァラストロ(ロレンツォ)、ニコラ・カストリーナ(ニコラ)、ナレーション・マリオ・ピス、



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by sentence2307 | 2017-09-18 11:05 | 映画 | Comments(0)

エレファント・マン

名作として世評も高いし、いままで知人の誰と話しても悪く言う人なんて一人としていなかったこのデヴィッド・リンチ監督作品「エレファント・マン」ですが、しかし、そうした情勢の中で、それでもなおこの作品を悪く言う人が、果たして、この世界に存在するだろうかというのが、自分の長年の疑問でした、というのは、この自分もその「果たして」のうちの一人だったからです。

例えば、友人が、オレ感動して見たあと泣いてしまったよ、などと興奮ぎみに告白するのを前にしながら、まるで相手の神経を逆撫でするみたいに「俺なんか退屈で、最後の方は眠気が差した」などと、そんなこと、どうして言えます? たかが自分のつまらない映画の感想ごときに拘り、意地を張ってまで言い張り、長年つちかってきた親友とかの人間関係をむざむざ壊し、失っても構わないなどと思ったことは一度もありません、処世のためなら「踏絵」くらいどんどん踏んでみせてしまうタイプです。

キリストの顔がデザインされた足ふきマットを玄関に敷いて朝夕踏んで見せてもいい(なんなら2度くらい往復して踏み直してもいいデスヨ)と思っているくらいだし、さらにキリストの顔がデザインされた便座カバー(そんな物があるのかどうかは知りませんが)に腰を落ち着け、毎朝のルーティン(頻尿ですが、便秘ではありません)に勤しむことも一向に差し支えないと思ってはいるのですが、しかし、やはり躊躇するものがないではありません。

批判する作品が、人畜無害な「恋愛もの」とか「アクションもの」、あるいは「伝記もの」などならともかく、映画「エレファント・マン」は、19世紀の話とはいえ、いわば身障者を扱った「ヒューマニズム」映画です、軽い気持ちで「エレファント・マン」という作品をこき下ろし軽々に罵倒するあまり、チカラ余って「良識を踏み外して失言する→炎上」なんてことになったら、それこそ本末転倒です。

そのためには、この現代という時代、実に微妙で複雑なので、そこのところは注意が必要ですし、相当な覚悟が求められるということは十分に承知しています。

そして最近、wowowで改めてこの作品を見直す機会があって、ある感銘を受けながらも、またその違和感というのも改めて思い知らされました。

この映画が、自分には、どうしても共感できない部分がある、その「部分」というのが自分にとってどういうものなのか、この機会に、じっくり考えてみたいと思いました。

まずは、このデヴィッド・リンチ監督作品「エレファント・マン」についての記事をweb検索していたら、wikiでこんな記述に遭遇しました。

それは、表題「エレファント・マン」の「批評」という小見出しに記されていました。

「アカデミー賞8部門ノミネートなどから、日本ではヒューマンな映画として宣伝されたが、一部の評論家は悪趣味な内容を文芸映画風に糊塗しているだけだと嫌悪感を表明した。なかでも森卓也は、その後リンチ監督の前作『イレイザーヘッド』が公開された際に、結局ヒューマニズムより猟奇趣味の方がこの監督の本質だったのだと述べている。」

という記述です。

そういえば、この手の記事なら、自分も今まで少なからず読んだ記憶があります。

手元にあるコピーの綴りのなかに、北島明弘という人が、デヴィッド・リンチについて書いたものがあり、その中にもそんな感じの記述はありました、確かこれは「世界の映画監督」について幾人もの批評家が分担して書いた解説書かなにかに載っていたと記憶しています。

余計なことですが、実は、自分は、本を読んでいる際、「ここはぜひ記憶しておきたい」と思う箇所は、すぐに複写して50音順に並べて綴るということを励行しています。

この「50音順に編綴」という方法、コラムを書くうえでなかなかの優れもので、意外な機動性を発揮して、とても便利に活用していますが、しかしその際、うっかり原典を書き添えておかないと、今回のように出展元不明のまま、書名を特定できず「解説書かなにか」みたいな情けない書き方になってしまうことも多々あるので、そのときは小ネタ程度の使用という浪費しかできないこともあるのですが。

さて、その北島明弘のコメントです、こうありました。

「次いで、(デヴィッド・リンチは)メル・ブルックスに認められて、彼の会社ブルックスフィルムで『エレファント・マン』を撮った。19世紀のイギリスに実在した象のような顔の持ち主ジョン・メリックと彼をみとる医者との交流を中心にしたドラマだ。彼を見舞う女優には、ブルックス夫人であるアン・バンクロフトが扮していた。彼女の部分にエセ(似非)ヒューマニズムの印象を受けたので、来日した際に問いただしたところ、むっとした顔をしながら『私はそうは思わない』と答えたものだった。のちにブルックスは、彼のことを『火星から来たジミー・スチュアート』と評している。モノクロ画面がヴィクトリア朝のイギリスを見事に再現していた。」

なるほど、なるほど。

女優アン・バンクロフトはボスの奥さんでもあるところから、その役を設定するにあたり、ひたすら「善人」として描かざるを得ず、だから「彼女だけ物凄くいい人に描いたのではないか」などと、わざわざ極東の島国くんだりまでやってきて、芸能記者だか批評家だか訳のわからないアジア人に突然こんな腹の底を見透かされたような因縁をつけられたのですから、そりゃあ、誰だってむっとするのも無理ありません。

しかし、このふたつのコメントをよく読めば、前記・森卓也の「悪趣味な内容を文芸映画風に糊塗しているだけでヒューマニズムより猟奇趣味の方がこの監督の本質だ」というコメントと、後記・北島明弘の「エセ・ヒューマニズム論」は、一見隔たっているようにみえて、その実、そこにはとても似通ったものがあることが分かります。

まあ、ざっくり言ってしまえば、「ヒューマニズムの仮面をかぶった猟奇趣味のイカサマ野郎」と腐しているのと、一方は、「あんな意に反した気取ったヒューマニズムを描き込むなんて君らしくないじゃないか、君の本質は、あんなものじゃないだろう」と持ち上げている隠れヨイショのミテクレだけ違うだけで、言ってることはまるで一緒というのは一目瞭然です。

そして、自分的にこのミテクレだけは分裂したように見えるふたつの見解を象徴する場面を上げるとすれば、フレデリック博士(アンソニー・ホプキンス)が、異形の人ジョン・メリック(ジョン・ハート)を始めて見たときの反応(あまりの悲惨と同情から思わず落涙します)に対する、後半に描かれている下層の民衆の奇形を食い物にする執拗な悪意の描写に自ら圧し潰され、バランス的に上流社会の善意を過剰に描いてしまった、いわば、この「不毛な二元論」(実は同じもの)に困惑してしまったデヴィッド・リンチは、ついに「本質」を見失ってしまった、手放しの善意を描いてしまったために、分かりにくくしてしまったものがあったのではないかと思うようになりました。

つまり、「上流階級の庇護」も「下層民・民衆の虐待」も、結局は、根の一つのものという「真実」から目を逸らさねばならなかったリンチの困惑(もしかしたら自分の違和感もリンチの困惑をそのまま感じ取ったのかもしれません)を示唆しているような気がします、そして、それがそのまま、アカデミー賞の完敗(候補8部門・作品賞、主演男優賞、監督賞、脚本賞、美術監督・装置賞、作曲賞、衣装デザイン賞、編集賞)に序実に反映されたのではないかと。

そしてまた、その一方で、アヴォリアッツ国際ファンタスティック映画祭グリンプリ受賞という現実も、その答えを示したものといえるかもしれませんよね。

さらに、「日本で大ヒットした」という現実も見過ごしにはできません。

僕たちは、実在のエレファント・マン(ジョン・メリック)が、たまたま奇形に生まれついたために醜悪な動物のような見世物小屋で晒し物とされ、悪意の虐待を受けて人間性を蹂躙されたことに対して、デヴィッド・リンチが、いかなる同情を示し、いかなる憤慨を現しているのかを、その作品として、どこまで描き得ているのか、それとも、リンチの描いたものは、結局のところ、この映画自体が、身障者を晒し物として奇形を売りにした単なる悪意に満ちた「見世物小屋」でしかないと見るかというところまで追い込まれたとき、そこで「ヒューマニズム」を示されたとしても、あるいは、かたや「醜悪な見世物小屋」を示されても、自分はいずれにも「違和感」を覚えたことを唯一の手掛かりにして、この一週間ずっと考え続けてきました。

実はその間、ふたつの映画に出会いました。

ひとつは、伝説の映画、トッド・ブラウニング監督作品「フリークス (怪物團)」、1932

トッド・ブラウニング監督作品「フリークス (怪物團)」は、実に驚くべき映画ですが、しかし、見ていくうちに、その「実に驚くべき」は、実は自分が「常識」から一歩も抜け出せなかった硬直した感性の持ち主であることに気づかされたからにすぎません。

いわば、そこには「奇形」を普通に撮り続けたために、狡猾な健常者たちからの侮蔑と虐待に対する怒りの報復が描かれていく過程で、人間の正常な在り方が示されているラストの爽快感が余韻として残るのに比べたら、いじめ抜かれて死んでいく「エレファント・マン」の救いのない無力で陰惨なリンチの描き方は、逆に実在のジョン・メリックを、その最後まで人間性を放棄した惨めな小動物に貶めたというしかありません。

そしてもう一本は、本多猪四郎「マタンゴ」1963です。

嵐に遭遇し、漂流のすえに絶海の孤島に流れ着いた男女7人が、飢えに耐えきれず、ついに禁断のキノコを食べたことから、巨大で醜悪なキノコに変身していくというストーリーですが、醜悪なのはカタチだけで、巨大キノコに変身した彼らは実に満足げに快楽のなかに陶酔していることを描いています。

あの「エレファント・マン」にあっては、他人の視線にさらされ、他人に映る「エレファント・マン」は終始描いていたとしても、はたして、巨大キノコ「マタンゴ」自身が(未来には破滅しかないと分かっていながら)陶酔のなかで持ったような快楽を描けていただろうか、たぶん自分の違和感は、そこにあったのだと思います、つまり、「だからリンチさあ、エレファント・マン自身は、どうだったんだよ」みたいな・・・。

★エレファント・マン
(1980パラマウント)監督脚本・デヴィッド・リンチ、脚本・クリストファー・デヴォア、エリック・バーグレン、原作・フレデリック・トリーブス、アシュリー・モンタギュー、製作・ジョナサン・サンガー、製作総指揮・スチュアート・コーンフェルド、メル・ブルックス 、音楽・ジョン・モリス、撮影・フレディ・フランシス、編集・アン・V・コーツ、プロダクションデザイン(美術)・スチュアート・クレイグ、衣装デザイン・パトリシア・ノリス、編集・アン・V・コーツ、音楽・ジョン・モリス、製作会社・ブルックス・フィルムズ・プロ
出演・ジョン・ハート(John Merrick)、アンソニー・ホプキンス(Frederick Treves)、アン・バンクロフト(Mrs. Kendal)、ジョン・ギールグッド(Carr Gomm)、ウェンディ・ヒラー(Mothershead)、フレディ・ジョーンズ(Bytes)、ハンナ・ゴードン(Mrs. Treves)、マイケル・エルフィック(NightPorter)、デクスター・フレッチャー(バイツの連れている少年)、キャスリーン・バイロン、フレデリック・トレヴェス、
124分 アスペクト比・シネマ・スコープ(1:2.35)、モノクロ、35mm

★フリークス (怪物團) Freaks
(1932MGM)監督製作・トッド・ブラウニング、脚本・ウィリス・ゴールドベック、レオン・ゴードン、エドガー・アラン・ウルフ、アル・ボースバーグ、撮影・メリット・B・ガースタッド、編集・バシル・ランゲル、
出演・ウォーレス・フォード(フロソ)、レイラ・ハイアムス(ヴィーナス)、ハリー・アールス(ハンス(小人症))、デイジー・アールス(フリーダ(小人症))、オルガ・バクラノヴァ(クレオパトラ)、ロスコー・エイテス(ロスコー(吃音症))、ヘンリー・ヴィクター(ヘラクレス)、ローズ・ディオン(マダム・テトラリニ(団長))、デイジー&ヴァイオレット・ヒルトン(シャム双生児)、エドワード・ブロフィー(ロロ兄弟)、マット・マクヒュー(ロロ兄弟)、ピーター・ロビンソン(骨人間(るいそう))、オルガ・ロデリック(ひげの濃い女性)、ジョセフィーヌ・ジョセフ(半陰陽者)、クー・クー(クー・クー(ゼッケル症候群))、エルヴァイラ・スノー(ジップ(小頭症))、ジェニー・リー・スノー(ピップ(小頭症))、シュリッツ(シュリッツ(小頭症))、ジョニー・エック(ハーフボーイ(下半身欠損))、フランシス・オコナー(腕の無い女性)、プリンス・ランディアン(生けるトルソー(手足欠損))、アンジェロ・ロシェット(アンジェロ(小人症))、エリザベス・グリーン(鳥女)、
64分(1932年製作、1996年国内リバイバル上映、2005年国内再リバイバル上映)

★マタンゴ
(1963東宝)監督・本多猪四郎、特技監督:円谷英二、製作・田中友幸、原案・星新一、福島正実(ウィリアム・H・ホジスンの海洋綺譚『闇の声』より)、脚本・木村武、撮影・小泉一、美術・育野重一、録音・矢野口文雄、照明・小島正七、音楽・別宮貞雄、整音・下永尚、監督助手(チーフ)・梶田興治、編集・兼子玲子、音響効果・金山実、現像・東京現像所、製作担当者・中村茂、特殊技術撮影・有川貞昌、富岡素敬、光学撮影・真野田幸雄、徳政義行、美術・渡辺明、照明・岸田九一郎、合成・向山宏、監督助手(チーフ)・中野昭慶、製作担当者・小池忠司
久保明(村井研二・城東大学心理学研究室の助教授)、水野久美(関口麻美・歌手、笠井の愛人)、小泉博(作田直之・笠井産業の社員)、佐原健二(小山仙造・臨時雇いの漁師)、太刀川寛(吉田悦郎・新進の推理作家)、土屋嘉男(笠井雅文・青年実業家。笠井産業の社長)、八代美紀(相馬明子・村井の教え子で婚約者)、天本英世(マタンゴ・変身途上)、熊谷二良(東京医学センターの医師)、草間璋夫(警察関係者)、岡豊(東京医学センター医師)、山田圭介(東京医学センター医師)、手塚勝巳(警察関係者)、日方一夫(警察関係者)、中島春雄(マタンゴ)、大川時生(マタンゴ)、宇留木耕嗣(マタンゴ)、篠原正記(マタンゴ)、鹿島邦義(マタンゴ・変身途上)、伊原徳(マタンゴ・変身途上)、林光子(東京医学センター看護婦)、一万慈鶴恵(東京医学センター看護婦)、



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by sentence2307 | 2017-09-02 22:04 | 映画 | Comments(0)

マドモアゼル ふたたび

映画を見て、感銘した作品について感想を書いたり、あるいは落胆した作品についても努めて感想を書くことを続けてきたこのブログを、曲がりなりにも現在までどうにか持続させることができたのは、きっと、自分の感じ方に少しばかり「特異」な部分があって、それが反発の「バネ」になり継続につながったからだと思います。

メディアやネットに表れる多くの「感想」や「批評」が、自分の感じ方のそれと大差のないものなら、きっと自分は書き続ける意欲も意味も見失い、「映画収集狂」というブログの看板なんてさっさと下ろして、躊躇なく口を閉ざし、心静かに「沈黙」を選ぶこともできたと思います。

なにもわざわざ大勢の考え方をなぞるような「提灯持ち」や「迎合」をしてまで、苦労して「キャッチコピー」の更なるコピーをアップするような愚をおかすことだけはすまいというのが、自分に課した一応の指針であり覚悟でした。

ですので、逆に言えば世間に流布される「大勢」に対する違和感が、自分のブログを持続させてきた原動力・推進力だったといえるかもしれません。

さて、今回、映画「マドモアゼル」のコラムを書くにあたって、語句の解釈を確認するために語句検索をかけていたら、こんなロイター電に遭遇しました。


題して
≪消える「マドモワゼル」、フランスの行政文書で使用禁止に≫とあります。
フランスのフィヨン首相は、今後同国の行政文書に、未婚女性の敬称「マドモワゼル」を使用しないと発表した。
国内の女性団体が昨年9月、この単語の使用が性差別に当たると陳情しており、首相がこれに対応した形となった。
首相は、正当な理由なく女性の婚姻区分を示す単語が書類に使用されていると言及して、新たに印刷する書類から「マドモワゼル」は消去され、女性を示す性別欄は「マダム」で統一されることになる。
なお男性には従来から選択肢がなく、一律で「ムッシュ」とされている。
「マドモワゼル」には、若さや未熟といった意味合いも含まれており、一定の年齢に達しても結婚しない女性にはそぐわない言葉だった。
[パリ 2012年 02月23日 ロイター] 


なるほど、「マドモワゼル」という言葉にそんな微妙な意味(一定の年齢に達しても結婚しない女性に「若さや未熟」はそぐわない)もあったなんて、この記事を読むまで知りませんでした、迂闊です。

女性が結婚していようがいまいが、行政文書における「性別欄」の表記は、男(ムッシュ)がそうであるように、「マダム」と単一表記に統一すべきという、つまり「性差別を含んだ用語の使用を禁止する」という、いささか遅すぎた感もありますが、これは歴史的な措置なのだと分かりましたが、しかし、この記事が示唆しているのが、それだけではなくて、婚期を逸した未婚女性には「若さや未熟」(つまり、処女性です)を連想させる言葉は似つかわしくない・相応しくない、という意味もあるとも読めました。

「結婚していようがいまいが、大きなお世話だ」とする女性たちの性差別への抗議が結実したその一文に、知らぬ間に取り込まれた「(単に表示としての)処女性の否定」という付帯概念まで女性たちは認識し、容認したのだろうかという疑問です。

この年になって、いまさら「処女」がどうのなんて、ちゃんちゃらおかしいわよと冷笑するか、

幾つになっても女として「処女(若さや未熟)」の初々しさを失わずに持つことは大切なことだわと思うか、です。

このロイター電がどこまでのことを言おうとしているのか、その及ぼす「射程」について考えてしまいました。

そもそも、この記事に出会った切っ掛けというのが、映画「マドモアゼル」のコラムを書くための語句検索の途上だっただけに、なんだか複雑な思いです。

映画「マドモアゼル」は、女性差別を告発したり啓蒙したりするようなタイプの映画ではありません。

ジャンヌ・モローが演じている村の女教師は、どう見ても35歳~40歳の女性で、僕の子供時分の言い方からすれば、「オールド・ミス」(いまでは、こう口にするだけで糾弾されかねない恐れとオノノキを感じてしまうくらいの世間を憚る死語になっています。そういえば「シスターボーイ」なんて懐かしい言葉もありました、まあ関係ありませんが)というジャンルに属する女性です、しかし、当然ながら「マドモアゼル」の方がはるかに素敵で響きもよく、「淑女」という印象さえ感じられていると思っていたら、この言葉には、リスペクトのほかに、暗に「老いた未通女」とでもいうべき揶揄も含まれていると町山智浩がyou tubeで話していることを知り、ちょっと意外な感じを受けました。

しかし、たとえそうだとしても、「オールド・ミス」の呼び方の酷さ(救いも温かさもない蔑称という印象です)は、到底その比ではありませんし、だからなおさら、「性的抑圧」というニュアンスをこの言葉から一層感じ取ってしまうのかもしれません。
このトニー・リチャードソン監督作品「マドモアゼル」は、確認できる限り、いまでもネットにおいては、「理解不能」と「嫌悪感」の大合唱に満たされている作品です。


自分が投稿サイトで読んだ感想は、だいたいこんな感じでした。

≪マドモアゼルがイタリア人の出稼ぎ労働者マヌーに惹かれ、実際森の中でするsexも執拗に描写されているのに、なぜ彼女は彼に対して態度を豹変させたのか、そこがどうしても理解できない。
マドモアゼルは、どういう理由でいつ殺したいと思うほどの殺意が芽生えたのかが正直わからない。
故意ではなかった最初の火事が、どうして邪悪な「水門の破壊」や「放火」や「家畜の毒殺」にまでエスカレートしたのか、その後の事件を起す動機がまったく理解できない。
第一マドモアゼルとマヌーの関係は、どちらかといえば物語の中では希薄な印象で、むしろ、マヌーと直接接触する以前、彼女は、マヌーの息子ブルーノに意識的に接近し、執拗に親切にしようとしたかと思うと、すぐに態度を変えてみすぼらしい服装を非難したり貧しさを罵声する場面(まったくひどい話です)の方に比重をかけて描いているのにも理解できない。マヌーの気を引くためにそうしているとも思えないし、なんだかあの前後の辻褄があわないような気がする。
これってただの女性特有の単なる気紛れとか、ヒステリーなのか。
いずれにしてもマドモアゼルの悪意(心理と行為)の在り方が謎すぎて追えない。
冷徹な抑えた映像と乾いた暴力的な描写には「映画」として惹かれるものがあったけれど、この邪悪な物語自体には嫌悪感さえ覚えたし、ストーリー的にはチンプンカンプンだった。≫


この難解な作品からすれば、「そりぁそうだ」と、この感想氏の疑問符には自分も全面的に同意したい気分になりました。

しかし、これらの反応が、別にいまさら湧きおこったことでもなんでもなく、1966年カンヌ映画祭に出品されたとき以来の疑問符が、現在まで継続して投げかけられ続けている反応にすぎず、そうだとすれば、多くの映画ファンは、この「マドモアゼル」という作品に馴染めないまま、「理解不能」と「嫌悪感」(解明できない「違和感」という癌細胞)を抱えて、実に半世紀ものあいだ悶々としてきたことになります。

その非理解(「理解」の放棄)と拒否反応は、現代においても維持されていて、それがそのまま、ネットにおける情報のあまりの少なさに反映しているような気がします。

当時の時代的限界を踏み越えたアンモラルなこのテーマ(水門破壊、放火、飲料水への毒物混入、淫乱、児童虐待、愛人への裏切り)は、あらゆる批評家から愚劣なポルノ映画にすぎないと決め付けられ、迫害と無視の仕打ちにあいます、それにトニー・リチャードソンとジャンヌ・モローのスキャンダルなども加味され、モロー本人の人間性と才能を疑問視されたうえ、彼女の仕事を選ぶ基本的な能力までをも疑われるなど、作品は深刻なダメージを受けて興行的にも失敗を余儀なくされました。

いわば、この映画で描かれた「家畜を溺死させた水門破壊、焼死者を出した放火、家畜の飲料水への毒物混入による家畜の毒殺、貧しさのための粗末な服装をみっともないと罵った児童虐待、そして淫乱と裏切り、そして罪を着せた愛人の撲殺」のどの犯罪に対しても理解を得ることや賛同を得ることが困難だったとしても、しかし、将来の長きにわたって、この作品を決定的に拒否させたものは、映画の最後でマドモアゼルの犯罪のすべてを許容したかに見える(否定的姿勢といえば、せいぜいマヌーの息子ブルーノがマドモアゼルに唾を吐きかける場面があるくらいです)演出者トニー・リチャードソンに対する観客の嫌悪と拒否でした。

「長距離ランナーの孤独」において、ゴールライン直前で「勝たないこと・負けること」で有産者階級への厳しい抵抗を示したあの「怒れる作品」とは、わけが違います。そこにも、この作品に対して観客が抱いた厳しい違和感と拒絶の根があったかもしれません。


半世紀もの長きにわたって、良識ある世界から一貫して拒絶され、一度として受け入れられることのなかった異色作「マドモアゼル」は、主演女優・ジュンヌ・モローのその死に際しても、それが彼女の輝かしい経歴の中に数えられることもなく、まるでそんな作品など最初から存在しなかったかのような「無視」の扱いを受けています。

その間、このアンモラルな映画が、最初から嫌悪と拒否のなかで終始全否定されて不遇な扱いを受けてきたかというと、決してそうではありません、「理解」への努力は為されたはずです。

しかし、この作品に描かれているジャンヌ・モロー演じるマドモアゼルの悪意に満ちた密かな数々の奇行と犯罪のなかに、仮に「狂気」を想定したとしても、最後には結局悉くその「理屈」の予測は裏切られてしまう、絶え間ない「否定」に次ぐ更なる「否定」の連続という「ちゃぶ台返し」(「愛の不在」などという生易しい次元ではこの謎解きはできません)にあい、肩透かしを食わせられる苛立ちと、男に対する異常な関心・性的欲情と罪悪感も、フロイトの尺度だけでは到底測り得ないと気が付いたときの自棄的な「駄作呼ばわり」とか、あるいはお座なりな「階級対立」の絵解きだけでは到底説明のつかない覚束なさとか、この作品の掴み所のなさに対する苛立ちと嫌悪感に満たされている印象を自分もまた受けてきました。

そして、いままで得られなかったその答えというのが、はたして老いた未婚の処女(マドモアゼルでありオールド・ミス)が抱いた狂気の妄想と「犯罪」として具現化された奇行にあるのか、自分もまた「この地点」までようやく辿り着いたまま、その先に進めず、タジロギ、身動きができなくなりました。

一両日「この先」を考えたのですが、しかし、書き加えるべき1行のアイデアも思い浮かばず、自分に課した許容時間も過ぎました。
しかし、答えはきっと、「聖ジュネ」の中に記されているはずです。

ギブアップの苦し紛れついでに「聖ジュネ Ⅰ」「すべてであるに至るためには、何事においても何ものでもないように心がけよ」の章の298頁上段(註11)に掲げられているエピソードを紹介しておきますね。

≪ジュネは自分の子供を殺したいという誘惑につかれている病女に問うたことがある。
「なんだって子供を殺すの。君の夫ではだめなの?」
すると彼女は答えた。
「だってわたしはそれほど夫を愛していないんだもの」≫

自分も文中で
「愛の不在」などという生易しい次元ではこの謎解きはできません
などと言ってしまっている以上、ここに書かれている「愛していないんだもの」も一筋縄ではいかない屈折したものと理解せざるを得ません。


(1966ウッドフォール)監督・トニー・リチャードソン、脚本・マルグリット・デュラス、原案・ジャン・ジュネ、製作・オスカー・リュウェンスティン、音楽・アントワーヌ・デュアメル、撮影・デヴィッド・ワトキン、編集・ソフィー・クッサン、アントニー・ギブス、美術ジャック・ソルニエ、製作会社・ウッドフォール・フィルムズ・プロダクションズ、字幕翻訳・中沢志乃
出演・ジャンヌ・モロー(Mademoiselle)、エットレ・マンニ(Manou)、ケイス・スキーナー(Bruno)、ウンベルト・オルシーニ(Anton)、ジェラール・ダリュー(ブーレ)、ジャーヌ・ベレッタ(Annette)、モニー・レイ(Vievotte)、ジョルジュ・ドゥーキンク(The priest)、ロジーヌ・リュゲ(Lisa)、ガブリエル・ゴバン(Police Sergeant)、
シネマ・スコープ(1:2.35)、モノクロ/シネスコ、モノラル、35mm



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by sentence2307 | 2017-08-19 11:36 | 映画 | Comments(2)

マドモアゼル

今月の初めに検査入院とやらを経験しました。

6月の定期健診で腫瘍マーカーの値が基準値を超えているといわれ、専門医の診察を受けるようにという指示の書かれた検査表に、「紹介状」も添えられていました。

まあ、ことがことだけに、いままでのように無視するわけにもいかず、さっそく近くの中規模の専門病院に予約を入れて診察を受けにいきました。

特に中規模病院を選んだ理由は、仮に検査の結果が思わしくなかった場合、その病院でそのまま「手術」→「入院」という一連の手続きができるからと考えたからです。

自分の身近にも、健診センターで「悪結果」が出て町医者に掛かり、そこで改めて一からの検査を受け直して、再び「悪結果」が出たとき、ここでは手術ができないからと、さらに手術のできる大きな病院に回され、そこでまた改めて初めから検査を受けさせられるという時間のかかる例を幾度も見てきたので、それならと、最初から一つの検査で、「手術」→「入院」とストレートに済む中規模病院を選びました。

いままで自覚症状らしきもの(それが「自覚症状」と言えるとしてですが)なかったわけではありません、ごく軽い「残尿感」とか「頻尿」とか、もっと軽い「尿漏れ」とか、そういうものなら、確かに幾つかは思い当たるものがあった気がします。

あっ、そうそう、ここのところ「ノコギリヤシ」の新聞広告なんかも、やたら目についたということも、あるいは「自覚症状」のひとつだったかもしれません。

そんなふうにして受けたMRIの検査結果では、とくに異常なものは見つからなかったのですが、さらに検体検査をやってみましょうということで、冒頭の1泊2日の「検査入院」ということにアイなった次第です。

入院手続きの際、受付の人に「これなども入院ですか」と聞いたら、目をむいて「もちろんですよ」と怒られてしまいました、なにかその人のプライドを傷つけてしまったようなことを言ってしまったのかと軽い罪悪感に襲われたのですが、あるいは、たまたま彼の腹の虫の居所が悪かっただけだったのかもしれませんが。

実は、「入院」と名の付くものは、今回がまったくの初めてで、どうにも勝手がわかりません。

もちろん不安はありますが、いくら心配したって、検査とか治療の方は自分ではどうすることもできない、まさに「俎板の鯉」状態なので、ここは腹をくくるしかないと思い定めて、むしろそれ以外のことを考えることにしました。

これまで幾人かの友人の入院を見ていると、共通しているのは、持て余す時間をどう埋めていくかにかかっているような印象を受けています。

入院手続きの際、その受付の人からテレビを契約するかと聞かれたのですが、思わず入院患者が一日中ぼんやりとテレビを見ている生気のない姿が思い浮かんできて、どうあっても「あれだけは避けたいな」とすぐに思い、それなら、パソコンを持ち込むのだって、同じようなものだと考えて両方とも取りやめました。

しかし、改めて考えてみれば、これってまさに「一日だけ自由な時間が与えられる」願ってもないチャンスなわけですよね、勤めのある自分にとって、夢のような解放された「自由時間」なわけで、そういうことなら結論はきわめて簡単です、思い悩む必要などありません。

「晴耕雨読」の生活が夢だった自分にとって、ここは、やはり読書しかありません、読みながらまどろみ、まどろみながら読む、これ以上ない、なんという「至福」だろうかと考えたとき、不意に、それならいつも通勤電車でやっていることと同じじゃね~かという思いに虚を突かれ、「青い鳥」じゃありませんが、人間って結構、どのような生活を送っていても、知らないうちにほんの少しずつ、それなりの「理想」に近づこうとしているものなのだなと考えた次第です。

こうして1日だけの入院生活は、絶え間ない読書とまどろみによって終わりました、「読書三昧」ということなら、理想的な1日だったと言うことができると思います。

そしていまは、その検査の結果を待っているという状態です。

「しかし、あのさあ、これってアンタのたった1日だけの入院生活の話でしょ、タイトルの『マドモアゼル』とは、なんの関係もないじゃないですか」

お叱りはごもっともです、ごもっともですが、しかし、こんなことで驚いちゃいけません、いままでだって自分のブログは前振りのダベリが長すぎて、横道にそれっぱなしで、主題を見失ってしまったことなんて、そりぁ数えきれないくらいありました、否定はしませんが、今回の場合に限っていえば違います、大いにね、隅々に至るまですべてが緻密な計算で張り巡らされて「主題まっしぐら」なのですから。ホントです。

なので、その話をしますね。

入院に際し、例の「絶え間ない読書とまどろみ」のための1冊を選ぶお話をすれば、きっとその辺の空気感を分かっていただけると思います。

本選びに際して、自分がまず考えたのは、いままで読んだことのない「新刊」を持参するか、あるいは、かつて読んだことのある「既読本」を持っていくかということですが、それは考えるまでもなく「既読本」です、当然じゃないですか、いまさら新たな感動など求めたって仕方ありません。

前記した「晴耕雨読」という言葉が象徴している状態は、新たな感動を得るなどという攻めの状態ではなく、むしろ乱読で読み飛ばして、いままで振り返ることもしなかったかつての「感動」のひとつひとつをもう一度静かに辿り直したい・振り返りたいという「守り」の思いしかありません。

実は、自分は学生時代にサルトルに嵌った時期がありました、著作の中では、特に「聖ジュネ」に大いに感銘を受けました、当時、世間的にも自分的にも一種の「倒錯ブーム」みたいなものがあったと思います。

ですので、今回の入院に際し、ぜひ「聖ジュネ」を読み直したいという気持ちから、例の人文書院刊のクリーム色の本を時間ギリギリまで探したのですが、どうしても見つけ出すことができません。

残念だったのですが、仕方なくサルトルの「嘔吐」を持っていくことにしました。

これも、自分に大きな影響を与えた本でした、哲学書としてではなく、風変わりな小説として。

特に、登場するタイプとしての「独学者」の人間像に強く惹かれました。

「嘔吐」の書き出しは、こんな言葉から始まっています。

≪いちばんよいことは、その日その日の出来事を書き止めておくことであろう。はっきり理解するために日記をつけること。取るに足らぬことのようでも、そのニュアンスを小さな事実を、見逃さないこと。そして特に分類してみること。どういう風に私が、この机を、通りを、人々を、刻み煙草入れを見ているかを記すべきだ。なぜなら、変わったのは、「それ」だからである。この変化の範囲の性質を、正確に決定しなければならない。≫

辛抱強く書き続けることが、なによりも大事なのだと説きながら、一方で、それが生活の、ひいては生きるための技術を説いているようにも読める、そんなふうにこの小説を「入院」している間に読みました。

実は、退院してから、溜まってしまっていた新聞を、1頁1頁目を通していた時、ジャンヌ・モローの訃報に接しました。
そこには彼女の出演作が紹介されています。

「死刑台のエレベーター」1957、「雨のしのび逢い」1960、「突然炎のごとく」1961、「ジャンヌ・モローの思春期」1979、

どれも彼女の女優人生にとって重要な作品には違いありませんが、もっとも彼女らしい作品と思っていた「マドモアゼル」1966が掲げられていないことが、自分にはなんだかとても不満でした。

入院前の慌ただしい時に、サルトルの「聖ジュネ」を堪らなく読みたくなって、探しまわったことも、なんだか啓示のように感じられてなりません。

トニー・リチャードソン監督「マドモアゼル」は、泥棒にして性倒錯者ジャン・ジュネが、シナリオに参加した異色作です。

(1966英仏)監督・トニー・リチャードソン、脚本・マルグリット・デュラス、原案・ジャン・ジュネ、製作・オスカー・リュウェンスティン、音楽・アントワーヌ・デュアメル、撮影・デイヴィッド・ワトキン、編集・ソフィー・クッサン、アントニー・ギブス、美術ジャック・ソルニエ、製作会社・ウッドフォール・フィルムズ・プロダクションズ、字幕翻訳・中沢志乃
出演・ジャンヌ・モロー(Mademoiselle)、エットレ・マンニ(Manou)、キース・スキナー(Bruno)、ウンベルト・オルシーニ(Anton)、ジェラール・ダリュー(ブーレ)、ジャーヌ・ベレッタ(Annette)、モニー・レイ(Vievotte)、ジョルジュ・ドゥーキンク(The priest)、ロジーヌ・リュゲ(Lisa)、ガブリエル・ゴバン(Police Sergeant)、
シネマ・スコープ(1:2.35)、モノクロ/シネスコ、モノラル、35mm


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by sentence2307 | 2017-08-13 18:52 | 映画 | Comments(2)
少し前の日経新聞に興味深い記事(コラムです)が掲載されていて、捨てきれずにそのページだけ保管していたことを、いまのいままで、ついうっかり忘れていました。

これはまずいぞと、さっそく当初感じたことなどを書き留めておこうと思い立った次第です。

それは「それでも親子」というコラム欄で、執筆者は劇作家の永井愛、題は「父が教えた人間の悲喜劇」(2017.7.11夕刊)という記事です。

画家だった厳しい父親は、劇作家としての娘(永井愛)の仕事をなかなか認めてくれようとせず、1996年の紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞したときでさえも、「世も末だ」と言っただけで特に褒めてはくれなかったと述懐しています、その後、やっと認めてくれたと感じたのは2002年だったと書いています。

このコラムの主旨は、その父の生誕101年を記念し、今年の4月練馬にオープンした「永井潔アトリエ館」の館長として、彼女が運営に携わっていることを自から紹介したものですが、衝撃だったのは冒頭部分で触れている、彼女が幼い頃(2歳)に離婚して家を出ていったという母親と17歳のとき久しぶりに会ったときの思い出が記された部分です。

自分にはその箇所が、ことのほか強烈に印象に残り、それで、そのままこの記事を忘れてしまうわけにはいかないなと感じたのだと思います。

その箇所をちょっと引用してみますね。

「17歳のときに母から突然連絡があり、会いに行きました。手作りのトンカツをごちそうしてくれたのですが、ほぼ初対面の女性にいきなり母親のように振る舞われて違和感がありました。どんな映画が好きかと聞かれ、「戦艦ポチョムキン」と「旅情」と答えると、「2つとも好きというのは矛盾」と言われ、論争になりました。母をすっかり嫌いになって、会わずにいるうちに亡くなってしまったのが心残りです。」

ただ、これだけの文章なのに、何故か胸を塞がれるような堪らない気持ちになってしまいました。

自分的には、好きな映画は何かと聞かれ、「戦艦ポチョムキン」と「旅情」だと答える17歳の少女の飾らない澄んだ率直さに感銘したのですが、しかし、その奇妙な取り合わせに違和感を抑えられなかった母親は「そう」ではなかったのかもしれません、たとえ実の母娘とはいえ、ふたりの間には15年もの空白の時間が流れてしまっています。

母親が、いかに娘への愛情を募らせ、思いを込めて語り掛けても、「なにをいまさら」という思いを抱えている娘は素直になれないまま、母のその不自然な過剰さと、常識にこだわる杓子定規な切り返しに苛立ち、違和感と反発しか覚えることができなかったのだと思います。

たとえあの時、母親の問い掛けに対して、娘が≪「戦艦ポチョムキン」と「旅情」≫と答えていなかったとしても、ぎくしゃくと空回りするしかないふたりの会話には、いたるところに、また別な火種が潜んでいて、再び同じような「論争」をギスギスと繰り返したに違いありません、おそらくは、定められた「破綻」に向けて。

馴れ馴れしくされればされるほど苛立ち、自分には母親なんかいなくとも、これから先だって「ひとり」で立派に生きていくことができるのだ(今までだって「そう」してきた)と反発する娘の気持ちは、とうに母親から離れていて、ひたすら突っ掛かっていくことしかできなかったのだと想像できます。

そして幾年か経ち、母の死の知らせを聞いたときに感じた彼女の、会っておけば良かったという「心残り」も、仮にその「知らせ」が少し先送りされていたとしたら、たぶん「心残り」の方もその分だけ少し先送りされていたに違いない、その程度の心残りだったのだと想像することは極めて容易です、そのことはすでに現実が証明してしまっていますし。

いずれにしても娘は決して、そしていつまでも母親に会いにいこうとはしなかったはずだと自分は強く確信しました。

そして、「そう」感じた瞬間、自分の中に鮮明な映像として怒涛のように流れ込んできたのが、岩井俊二監督作品「リップヴァンウィンクルの花嫁」の、安室(綾野剛が演じています)と七海(黒木華が演じています)が、娘・真白(Coccoが演じています)の死を母親に報告に行くあの鮮烈なラストシーンでした。

長い間、疎遠だった娘の突然の死を知らされた母親(りりィ生涯最高の名演です)は、家を出て行ったきり、いままで連絡のひとつも寄こしてこなかったあんな娘など、もはや自分の子だとは思っていないと、コップに満たした焼酎をあおりながら、頑なに否定し続けます。

そこには、母親である自分を徹底的に否定し、見捨てて去っていった娘に対する憤りというよりも、どんな窮状に見舞われても決して親の自分を頼ろうとしてこなかったことに対する(侮辱されたような)怒りだったに違いありません。

母親は、仏壇の横に飾られた娘の写真を手でなぞりながら、あの子の目はこんなじゃなかった、あの子の顔はこんなじゃなかった「これじゃまるで別人だ」と吐き捨てるように言い捨てます。

そして、ポルノ女優になったと知った時の驚きを苦々しく述懐し始めます、よりにもよって人様の前で裸をさらし、恥ずかしい姿を撮られて世間にさらされるような、そんないかがわしい仕事をしなくたってよさそうなものじゃないか、わたしゃ世間様に恥ずかしくって顔向けができなかったよと掻き口説く母親は、酔いで体を揺らしながら、娘の死の報告に来た安室と七海の前で、突然着ている服を脱ぎ始めます。

母親のその突然の行為に、当初はただの「だらしない酔態」と見て、あっけにとられていた安室と七海が、しかし、徐々に母親の真意を理解するという傑出した場面です。

冷酷で厳しいこの社会を、女がひとりで生きていこうとして(なにか必然的な過程のなかで)ポルノ女優という過酷な職業を選ぶ、人前で「脱ぐ」ということが如何に恥ずかしいことか、生活のために娘が耐えたその辛さと惨めさを少しでも理解しよう・少しでも近づこうとして母親は、悲しいくらい必死に脱いだのだと思います。

彼女たちだって、なにも特別な人間なんかじゃない、世間では悪意の込もった卑猥な薄笑いで語られる「AV女優」という偏見に満ちた「特殊さ」を、(りりィが「脱ぐ」ことによって)「恥ずかしさに耐える」という常識の域まで引きずりおろしてみせた岩井俊二の心優しい悲痛な「思い」に自分は撃たれたのだと思います、撃たれないわけにはいきません。

売れない俳優が集まって副職として結婚式の親戚代行業をしていくなかで、余命わずかな孤独な女優(真白)のために、画策して密かに「花嫁」(心を通わせられる親友)を妻合わせるという、少し強引なこの癒しの物語の背後には、岩井俊二の密かな「哀悼」の思いがひそんでいるのではないか、劇中名に使われた「皆川七海」や「里中真白」や「恒吉冴子」の仮名を眺めながら、ぼろぼろになって早世を余儀なくされた不運な女優たちのことを思わず連想させられてしまったのは自分だけだったのか、いまは確かめるすべもありません。


(2016東映)監督原作脚本編集・岩井俊二、エグゼクティブプロデューサー・杉田成道、プロデューサー・宮川朋之、水野昌、紀伊宗之、制作・ロックウェルアイズ、撮影・神戸千木、美術・部谷京子、スタイリスト・申谷弘美、メイク・外丸愛、音楽監督・桑原まこ、制作プロダクション・ロックウェルアイズ、製作・RVWフィルムパートナーズ(ロックウェルアイズ、日本映画専門チャンネル、東映、ポニーキャニオン、ひかりTV、木下グループ、BSフジ、パパドゥ音楽出版)
出演・黒木華(皆川七海)、綾野剛(安室行舛)、Cocco(里中真白)、原日出子(鶴岡カヤ子)、地曵豪(鶴岡鉄也)、和田聰宏(高嶋優人)、佐生有語(滑)、金田明夫(皆川博徳)、毬谷友子(皆川晴海)、夏目ナナ(恒吉冴子)、りりィ(里中珠代)、

映画第40回日本アカデミー賞(2017年) 優秀主演女優賞 (黒木華)
第41回報知映画賞(2016年) 助演男優賞(綾野剛、『怒り』『64-ロクヨン- 前編/後編』と合わせて受賞)
第31回高崎映画祭(2017年) 最優秀助演女優賞(りりィ)
第90回キネマ旬報(2017年)日本映画ベスト・テン 第6位



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by sentence2307 | 2017-08-06 09:24 | 映画 | Comments(0)
ずっと見る機会のなかった周防監督の伝説の映画「変態家族 兄貴の嫁さん」のテープを、酒の席の雑談でたまたま友人が所有しているのを知ったときのその驚きと喜び(そのとき瞬時に「これは借りられるな」と思いました)は、いまでも忘れることができません、日を置かずにさっそく借りて見ることができて、これでやっと積年の願いが叶いました。

実は、そのとき同時に借りたテープというのがあります、瀬々敬久監督の「高級ソープテクニック4 悶絶秘戯」1994、「牝臭 とろける花芯」1996、「トーキョー×エロティカ 痺れる快楽」2001の3本です。

いまでこそ、「64-ロクヨン-前後編」などメジャーな作品を立て続けに撮っている瀬々敬久監督ですが、かつては「ピンク映画四天王」の一人といわれて数多くの傑出した作品を残しています、今回借りたこの「高級ソープテクニック4 悶絶秘戯」も「牝臭 とろける花芯」も「トーキョー×エロティカ 痺れる快楽」も、この「分野」では、いずれも高い評価を受けた作品と聞いています。

あの酒の席での雑談で、友人に、かつて自分が「黒い下着の女 雷魚」のコラムを書いたと話したことを覚えていて、それで今回わざわざ貸してくれたのだと思います、

しかし、それにしても、これらの作品、その内容からは遥かにかけ離れた、相当物凄いタイトルです。

ピンク映画会社の集客のための営業戦略とはいえ、それぞれの作品に付されたこの淫靡で過激なタイトルから、その内容を憶測することは、ほとんど不可能です。

このコラムを書こうと思い立ってからの自分も、いくら頑張っても、ついに結びつきができないので、仕方なく、タイトルと簡単な内容とを対照したカンニング・ペーパーを作ったくらいでした。

ピンク映画のタイトルといえば、それこそ、オナニーやら強姦やら近親相姦やら、思わず目を背けたくなるような淫語の大パレードなわけですが、しかし、それも「掴み」のコツさえ分かってしまえば、なんてことありません。

使われる用語とその組み合わせは、意外なほどに単純でパターン化されているので、「ピンク映画」のもつ独特のタイトルの限定的な発想(淫語の種類などタカが知れていて、セイゼイその限られた熟語の組み合わせにすぎません)に慣れてしまえば、異様な性的意匠の外見や挑発的な用語にたじろぐ必要など毛頭ないことがだんだん分かってくると思います、いわば「慣れ」ですよね。

逆に、そのパターン化・記号化された単調さのために、かえって縁もゆかりもないタイトルから作品の内容がどんどん欠落・剥離し、タイトルが本来課せられているはずの内容を象徴する機能と役割を十分に果たせなくなっている印象です、いや、むしろ、その結び付けの試みを頑なに放棄しているようにさえ見えるくらいです。

例えば、「変態家族 兄貴の嫁さん」の描く世界は「近親相姦」の話ですが、このタイトルから、そのまま現にこの社会に存在する深刻で生々しいリアルなノンフィクションと思う人などは、まずなく、場数を踏めば、ただの妄想・とんでもない欲望ファンタジーみたいなものだと自然に「読み替え」ができるようになると思うのですが、しかし、一般の観客にとっては、「そう」はいきません。

お隣の妙齢なお嬢さんと世間話をしながら「ローマの休日」について話すみたいには、これらの作品(「高級ソープテクニック4 悶絶秘戯」や「牝臭 とろける花芯」のお噂)をタイトルをあげて話すことなど、やはり躊躇し、憚られるものがあります。

しかし、それもこれも、見る者を厳しく選別する一種の「業界用語」みたいな記号だと分かってしまえば、その作品が持つ真正な価値をきっと見失うこともないだろうと信じながら、書くべきことを箇条書きに整理し始めました。

そして、だんだん分かってきました。

もしかすると、これって最初から、そういうチャラチャラした層の観客を拒絶する戦略的意味合いもあったのかと。

ピンク映画においては、固定客(リピーター)以外の観客などハナから相手にしないどころか、「イチゲンさん、お断り」みたいに拒絶する・切り捨てるという戦略で、「分かる人だけが見に来てくれればいい」という立ち位置こそ、一般の価値観から距離をとって作ることができる本来の「ピンク映画」の在り方なのかもしれないと。

しかし、それにしても内容を象徴できないタイトルなんて全然意味がないと思うし、作り手の立場からすると、随分残酷な話のようにも思います。

以前自分がコラムに書いた「黒い下着の女 雷魚」のタイトルならまだしもです、このタイトルなら映画の内容も鮮明に想起することができますからね。

しかし、「高級ソープテクニック4 悶絶秘戯」や「牝臭 とろける花芯」や「トーキョー×エロティカ 痺れる快楽」のどこに、自立してその内容を瞬時に想起させることができる象徴性というものがあると言えるでしょうか、もはやスレスレの域を超えて、きわめて疑問と言わざるを得ません。

ピンク映画において「撮る自由」を獲得できた若き映像作家たちは、その見返りとして、内容を象徴するタイトルの「命名権」を失ってしまったのではないか、剥奪されてしまったのではないかと思えるくらいの無残な印象です、しかし、これってとても重要なことだと思いませんか。

習作時代の作品のタイトルを問われ、つい口ごもる彼らは、タイトルを失っために「作品」そのものも失ったことをそのとき気づくのではないかと。

でも、「自由」を獲得できるということは、本来そういう本質的なものの犠牲と喪失のうえに成り立っているものなのかもしれません、そんな気がしてきました。

さて、自分にとって、これだけの前振りがないとピンク映画の感想が書けないのかというと、そんなことはありません。

タイトルが内容の象徴的機能を果たせないのならば、かわりに「比喩」でその作品の全貌を言い表せないか、考えてみました。

まず「高級ソープテクニック4 悶絶秘戯」の印象です。

全編死の影に覆われたその殺伐とした風景描写(精神の荒廃も表しています)から、仮に「ゴダール風」と仮定してみましたが、しかし、ゴダールの描く人物像は、いずれもクールで淡白、極く乾いた印象で、こんなにも濃密に人間が人間にかかわろうとする関係(愛憎によって人を殺すに至るまでの激しい情感)を描いたものなどかつて見たことがないので、まずこれは違うなとすぐに否定し、しばし考えたのちに、ぴったりと重なる映画に思い当たりました。ミケランジェロ・アントニオーニの「さすらい」1957です。ラストの墜落自死ばかりでなく、風景の荒廃が魂の荒廃を映しているところなど、ぴったりなのではないかと思いました。

そして「牝臭 とろける花芯」は、直感的にロベール・アンリコの「冒険者たち」1967を連想してしまいました。底抜けの明るさに照らされながら、しかし、それは単に不吉な予兆にすぎず、「明日」に怯えている喪失感の不安みちた切迫感が作品全体を引き締めている、その感じが、思わず自分に「ロベール・アンリコ」を連想させたのだと思います。



そして、「トーキョー×エロティカ 痺れる快楽」は、断然ベルイマンだと思いました。絶えず「死の時間」を問いながら「死」を生きる者たちの緊張感に満ちた映像体験ができました。


冒頭、「生まれる前の時間と、死んだ後の時間って、どっちが長いと思う?」という問いからこの映画は始まります。

それは、この世に生まれ出るまでの待機の時間(そんなものが、果たしてあるのかと思う)と、死んだあとに無限に続く喪失の時間の長さを比較しようという、考えてみれば、なんと奇妙で空しい問いかと一瞬あきれてしまいます。

たとえ、それがどのような「時間」であろうと、空虚と化した自己にとってはもはや無縁以外のなにものでもない「時間」のはずです、それをあえて数えようという苦痛の虚無行為に、人はどれだけ耐えられるのかと思います。

しかし、この「ふたつの不在」を問う問いとは、つまり、そのまま、いま頼りなく生きているリアルな時間の卑小と無意味を問いただすことでもあるのだと気が付きました。

「死ぬまでどう生きるかはお前の自由だ」という悪魔の囁きも、荒廃した「現在」の限られた時間を、不確かでなんの拠り所もなく怯えて生きることの不安のどこに、「自由」などと呼べるものがあるのかという過酷な反語以外のなにものでもないような気がします。

時間軸が交錯し(というよりも「錯綜」し)「来たるべき死」は、予告されると同時に過去において決行され、頼りなげな幾つもの「生」は絶えず「殺意」に脅かされながら、生きる意味も見失い、動揺し、またたく間に「不条理な死」に強引になぎ倒される。

地下鉄サリン事件、東電OL事件、天安門事件など重くのしかかる時代の不安を核に、幾組かの男女の過去と未来、生と死、そして暴力と殺人の物語が交錯しながら描かれます。

やはりこれは、ベルイマンだなと思いました。


(時系列の整理、しときますね)
1995年、バイクに乗っていたケンヂ(石川裕一)は、街に散布された毒ガステロに遭い、この世を去ります。その死の瞬間、以前付き合っていた恋人ハルカ(佐々木ユメカ)を思い出します。
1997年、そのハルカは、父親へのトラウマから昼はOL・夜は娼婦という生活をしています。ある夜、ウサギの着ぐるみを着たサンドイッチマンの男とラブホテルに入り、そして、その死神を名乗るそのサンドイッチマンの男に、ホテルで撲殺されます。
1995年、ケンヂが死んだ日、ハルカと偶然町で擦れ違ったトシロウ(伊藤猛)は妻がいながらOLの真知子(佐々木麻由子)と不倫を重ねており、二人はSMプレイに溺れますが、事後トシロウは出産間近の妻の元へ急ぎます。
1989年、ケンヂのアパートにはバンド仲間のハギオ(佐藤幹雄)とミチ(奈賀毬子)、シンイチ(川瀬陽太)とアユミ(えり)が住んでおり、友人の葬儀の夜、それぞれ互いの恋人を相手に秘密で性行為に耽ります。翌日、シンイチは拳銃でアユミの頭を撃ち抜きます。
2002年、死んだケンヂとハルカは生まれ変わって再び出会い、やがて安らぎに満ちた新しい物語が始まろうとしています。



★高級ソープテクニック4 悶絶秘戯(迦楼羅の夢)
(1994国映)監督・瀬々敬久、企画・朝倉大介、脚本・羅漢三郎(瀬々敬久、井土紀州、青山真治)、撮影・斎藤幸一、照明・金子雅勇、編集・酒井正次、録音・銀座サウンド、助監督・今岡信治
出演・伊藤猛(イクオ)、栗原早記(メイコ)、下元史朗(トミモリ)、葉月螢、滝優子、夏みかん、小林節彦、サトウトシキ、上野俊哉、山田奈苗
製作=国映 配給=新東宝映画 1994.04.22 62分 カラー ワイド

★牝臭 とろける花芯
(1996)企画・朝倉大介、脚本・井上紀州、瀬々敬久、監督・瀬々敬久、撮影・斉藤幸一、編集・酒井正次、録音・シネ・キャビン、助監督・榎本敏郎
出演・穂村柳明、槇原めぐみ、川瀬陽太、伊藤清美、下元史朗、伊藤猛、小水一男
製作=国映 配給=新東宝映画 1996.07.26 61分 カラー ワイド

★トーキョー×エロティカ 痺れる快楽
(2001国映)監督脚本・瀬々敬久、企画・朝倉大介、プロデューサー・衣川仲人、森田一人、増子恭一、助監督・坂本礼、撮影・斉藤幸一、音楽・安川午朗、録音・中島秀一、編集・酒井正次、監督助手・大西裕、
出演・佐々木ユメカ(ハルカ)、佐々木麻由子(小谷真知子)、えり(アユミ)、奈賀毬子(ミチ)、石川裕一(ケンヂ)、下元史朗(サンドイッチマンの男)、伊藤猛(来生トシロウ)、佐藤幹雄(ハギオ)、川瀬陽太(シンイチ)、佐野和(ウサギ)、
製作=国映=新東宝映画 配給=国映=新東宝映画 2001.08.31 77分 カラー ワイド




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by sentence2307 | 2017-07-30 22:30 | 映画 | Comments(0)
前回、周防監督作品「変態家族 兄貴の嫁さん」の自分のコメントに、CB400Fさんから
「(吉本新喜劇風に)な、な、なんじゃそら!?」
と強烈なツッコミを入れられてしまい、その一言を胸に秘めながら、ただただ反省と悔恨の日々を過ごしました。

自分のあのコメントは、結論をはぐらかした、はっきり言って苦し紛れの「逃げ」のコメントだと言われても仕方ないくらいの支離滅裂さで失速し、中途半端に頓挫したわけですので、CB400Fさんのあのツッコミは、当を得た至極当然な発出だったと思います、しかし、弁解がましくなりますが、自分的には、本題へのアプローチに若干の齟齬をきたしたというだけで(結果的に、です)、目指した方向性とか姿勢に関しては、それほどの間違いをおかしたわけではないという気持ちが強いので、今回もまたその辺のところを含めながら書いてみたいと思います。

いま思えば、自分の反省としては、「オマージュ」と「パロディー」とを取り違えて論を始めようとした迂闊さに、そもそもの原因があったのだとはじめて気が付きました。

周防監督作品「変態家族兄貴の嫁さん」は、決して「『雪国』文体模写シリーズ」のような「パロディー」を目指したものなんかじゃなかったことは、夜の床で周吉が百合子(あっ、「紀子」じゃない!)に「夫婦のしあわせ」について語り掛ける場面の、オリジナル作品の「なぞり方」の忠実さと誠実さを見れば明らかです、これこそ「オマージュ」以外のなにものでもないのだと思いました。

周吉「そりゃ、結婚したって初めから幸せじゃないかもしれないさ。結婚していきなり幸せになれると思う考え方がむしろ間違っているんだよ。幸せは待ってるもんじゃなくて、やっぱり自分たちで創り出すものなんだよ。結婚することが幸せなんじゃない。新しい夫婦が、新しいひとつの人生を作り上げていくことに幸せがあるんだよ。それでこそ初めて本当の夫婦になれるんだよ。お前のお母さんだって始めから幸せじゃなかったんだ。長い間いろんなことがあった。台所の隅っこで泣いているのを、お父さん幾度も見たことがある。でも、お母さんはよく辛抱してくれたんだよ。お互いに信頼するんだ。お互いに愛情を持つんだ。お前が今までお父さんに持ってくれたような温かい心を、今度は佐竹君に持つんだよ、いいね?」

この日本映画史上特筆すべき高潔なセリフを周防監督は、別段茶化して言わせているわけでもないし、あえて曲解を招くような特異なシチュエーションのもとで話させているわけでもありません。

少なくとも、このセリフの「なぞり方」は、「『雪国』文体模写あそび」とは、まったく異質なものだと改めて感じました。
しかし、自分は、この「あえて曲解を招くような特異なシチュエーションのもとで話させているわけでもない」という部分に、とても深い違和感を覚えました。

そもそも、この映画を成り立たせている物語の骨格は、新たに家に迎えた肉感的な兄嫁に対する家族の並々ならぬ性的関心の物語です、カテゴリー的にいえば、「近親相姦・総当たりトーナメント」みたいなSMを絡めた「なんでもアリ」の艶めかしい雰囲気につつまれた家族映画です。

ですから、義父・周吉が嫁・百合子に語りかけるあのしんみりとした夜の床の場面でも、嫁はすでに夫(周吉には息子)に逃げられていることでもあり、義父と嫁の「(性的な)絡み」の機は十分に熟したと見ている観客にとって、ここは当然、義父・周吉が、すきを見て嫌がる嫁・百合子を強引に引き寄せたりなんかして、「いいじゃないか百合子さん、キッスくらい、なっ、なっ」てなことを言いながら、タコの吸出しのように口をとがらせて真っ白な肌(興奮で薄っすら赤味がさしています)の百合子にキッスを迫り、勢いで顔をなめまわし、かたや百合子は、誘うように身をくねらせ弱弱しい抵抗をみせながら「いやいや、いけませんわ、お父さま。ウ~ン、ダメェ、あっあー・ソコ」みたいな、そういった煽情的な場面を大いに期待しているにもかかわらずですよ、見せられたものは例の「そりゃ、オマエ、結婚なんてものはね」とかなんとか、実に興ざめなシャチホコばった長セリフが登場するわけですから、そりゃあ、観客の違和感たるや相当なものがあったわけですが、しかし、考えてみれば、周吉に好意を寄せていたバー「ちゃばん」のママとの「関係」にしてもなんら深められることなく、あっさり長男・幸一に横取りされてしまうというシチュエーションなども考え合わせれば、「あっ、これがオマージュってやつなんだよな」(汚れなき義父です)と変に納得してしまいました。

いやいや、理由を書かずに、すぐ納得なんかしてしまうと、また、CB400Fさんから「(吉本新喜劇風に)な、な、なんじゃそら!?」と言われてしまいますので、もう少し時間稼ぎをしてみますね。時間稼ぎとかじゃないだろ。あっ、はい。自問自答

自分は、「忠臣蔵」の大ファンで(お、おい、全然違う話が始まっちゃってるけど、大丈夫なの? まかしてください、大丈夫です)、御園京平の「映画の忠臣蔵」(講座・日本映画)という記事を座右に置いて常に繰り返し愛読しています。いつか、この記事をパクッて(お、おい!)、「大忠臣蔵列伝」を完成させたいと思っています。ちょっと考えただけでも、日本映画史を縦断・横断する物凄いものができるに違いありません。ぞくぞくしますよね。

こんな自分なので、タイトルに忠臣蔵と付いているだけで、なにを置いてもその作品は真っ先に見ることにしています、特に変種のものには、目がありません。むかし、「ワンワン忠臣蔵」なんてのもありました。

最近も、白竜主演の「極道忠臣蔵」(2011監督・片岡修二)という作品を見ました。

縄張り争いのゴタゴタもあって、侮辱されたことで逆上した組長が相手の組長に切りかかったことで本部から破門され、さらには陰謀によって雇われ殺し屋に暗殺され、そして若頭・白竜が出所してきて、苦難の末に親分の仇をとるという物語です。さしずめ、白竜が「大石内蔵助」です。

もし、タイトルに「忠臣蔵」となければ、すこぶる淡白に見過ごした可能性があります、第1回ピンク大賞監督賞を受賞した片岡修二監督作品といえどもね。

あっ、この場面は、「あの場」だと、いちいち記憶と照合する楽しみがあってこその「忠臣蔵」なのです。

そして、こういうことが「オマージュ」というものではないのかなと感じた次第です。


極道忠臣蔵
(2011)監督・片岡修二、企画・山本ほうゆう、プロデューサー・渋谷正一、脚本・片岡修二、撮影・河中金美、
出演・白竜、小沢和義、本宮泰風、武蔵拳、河本タダオ、國本鍾建、木村圭作、Koji、BOBBY、堀田眞三、松田優、加納竜、原田龍二



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by sentence2307 | 2017-07-28 19:58 | 映画 | Comments(0)

変態家族 兄貴の嫁さん

少し前、古い友人と会ってお酒を飲んでいたとき、話のはずみで周防監督の「終の信託」の話になりました。

「それでもボクはやってない」の捜査官(副検事だったかも)の熾烈な取り調べの場面は、実にリアルで、恐ろしいくらいでしたが、「終の信託」の検察官(大沢たかおが憎々し気に演じていました。)もまた、それに劣らぬ「権力」というものの存在感を露骨に見せつけて(薄気味悪いくらいでした)、かなりの衝撃を受けたことを覚えています、そのことについて話しました。

時代劇なんかによくあるじゃないですか、お奉行さまの取り調べが佳境に入ったりすると、突然「役目によって言葉を改める」とかなんとか豹変して威儀を正し、一切の反論は絶対に許さない、ただ、お前は黙って罪を認めておればそれでいい、みたいな強硬なあの手の場面ですが、「終の信託」における大沢たかお演じる検察官も、かなり強引で冷ややか、恐ろしいくらいの名演でした。

リアルに「役人」というものが「権力」の一部であることを露骨に気づかせ、スクリーンでまざまざと見せつけました、いままで、あんなに「権力」を誇示した冷厳な役人像は、あまり見た記憶がありません、だから一層衝撃を受けたのだと思います。

そう思わせるくらい、「権力」を後ろ盾とした、あからさまな「検察官像」だったと思います(それもこれも周防監督の演出力の力量を示したものに違いありませんが)、あの場面を見ていて、「権力の走狗」という言葉が(最近は、あまり耳にしませんが)、自分の中から自然に沸き上がってきたくらいですから、それはもう大変な演出力でした。

映画「それでもボクはやってない」でも、取調官の手元には、すでに事件についての調書(下書きかも)が用意されていて、実際の対面での取り調べは、単にその作文をなぞって確認するだけの「復習=復唱」にしかすぎず、被疑者が「その部分は事実と違う」と必死に抗弁しても、「余計なことを言うな! お前は、本官が尋問したことだけ答えればいい」と一喝され、そうした恫喝のもとで成立した検察官の調書(たとえそれが脅迫によって捏造されたものであっても)を認め、署名捺印でもすれば、それで権力のメンツは立ち、そのあとで、「罪を認めれば許してやるぞ」的な「寛容な恩情」によって「二度とやるなよ」と放免されるという国家権力の「裁きのシステム」を、周防監督は、あの作品によって如何なく白日の下に暴き出したのだと思いますし、その指摘が「冤罪」を生み出すシステムであったことにも気づかせた結果、司法を痛撃し、国を動かしたことも事実だったと思います。

いや、まずい、まずい、酒の席で、ついテンションをあげてしまい、こんなカチンコチンの硬派な話をしてしまって、久しぶりの貴重な邂逅の時間を台無しにするところでした。

なにも、こんな陰気で深刻な話をするつもりなど、さらさらなかったのですが、つい場の勢いでこんな話になってしまいました。

その責任の一端は自分にもありますので、あわてて話を周防監督のデビュー作「変態家族 兄貴の嫁さん」に捩じ向けました。

この作品の話なら、深刻にも陰気にも、なろうはずはありません。

これは実にいい機転だったのですが、いかんせん、周防監督のこのデビュー作「変態家族 兄貴の嫁さん」を、自分はまだ見ていませんでした、この時点ではね。

しかし、この作品、小津監督へのオマージュ作品としての評判だけなら、むかしから嫌というほど聞かされていたので、作品の方向性というか、「作られ方」みたいなものの見当はだいたいつきます、「見てない」ことはぼかしながら、ひたすら小津監督サイドから話を向けていけば、なんら問題はなしと、適当に話を合わせていたのですが、そのうちに作品の細部についての「同意」の要請に対して幾たびか口ごもり・失敗し、やがて自分がこの作品を「見てない」ことが、ついにバレてしまいました。

そうなれば、ここはふてぶてしく開き直るしかありません、長い会社人生、いままでだって自分はそうやって立派に生きてきました、自分で言うのもなんですが。

まあ、そんなふうに頑なにならなくたっていいのですが、言ってしまえば気が楽になり、「見てないことのどこが悪い」と逆に居直り、あとはひたすら聞き役に回りました。

そして、聞いているうちに、彼がそのテープを保有していることが分かりました。

「えっ、あるの?」、「なら貸してよ」と図々しくおねだりし、その次の飲み会のときに、ついに周防正行監督デビュー作「変態家族 兄貴の嫁さん」を入手しました・できました。

そして、見終わったのが、いまのいまなのですが、う~ん、この作品にどのような「感想」を自分が抱いたのか、実のところ戸惑っています。

最初は、話の筋を忠実にたどってみました。

しかし、そこに、どのようなヒントも隠されていないことは、明らかです、「そういう」映画として作られた映画ではないわけですから。

あっ、そうそう、自分が読んだエピソードの中に、「こんな奇妙な作品を撮って、映画会社が激怒した」なんていうのがありました。

煽情的な場面を期待してピンク映画館にやってきた客も、会社と同じように大方はきっとそうだったに違いありません。

小津監督の整理された画面、整理された時間、整理された枠組みを模倣するとなれば、当然そこには如何なる「情動」も入る余地がないということになるのかもしれません。ですので、こうして小津的に規制されて撮られた作品によって「エッチの気持ち」になりたいなどと願うこと自体、どだい無理な話だったのです。

しかし、自分がいままで経験した「オマージュ作品」っていうものは、もう少しデフォルメされていて、ときおり「自分」の作家性をも気づかせるために、オリジナルから少し必要な距離をとっている、その絶妙な距離感が「オマージュ」だと信じていたので、この「変態家族 兄貴の嫁さん」の「そのまんま」には、たとえそれが単なるパロディだったとしても、逆に「解釈」が必要なのではないかと悩んでしまいました。

つまり、この「距離感のなさ」を自分的に納得しなければ、この作品を「どう楽しめばいいか」ということも分からないのでないかと考えたのかもしれません。

そのとき、ふっと「あること」を思い出したのです。

ずっとむかし、和田誠の著作に、川端康成の「雪国」の出だしの文章を、当時の流行作家たちが書いたらどうなるか、というパロディ本があったことを思い出しました。

書名はちょっと思い出せませんが、実にユニークな着想で、感心し、腹を抱えて笑ってしまった記憶だけは鮮明に残っています。

さっそく「和田誠」をキーワードにして検索してみました、まずは国会図書館のサイトから。

そこでは、なんとヒット数は3744件、その中には、再版・重版(刊行日が違っても、それを1とカウントしているみたいです)も含まれているみたいなので、実数としてはもう少し少ないかもしれませんが、3744件とは、これはまた驚きました。

この中から、書名さえ分からない本を探すのは、至難のワザです。ましてや、(デジタル公開されていて内容が確認できるのならともかく)漠然としか分からない内容と、不明な書名とを勘で結びつけるなど、出来るわけがありません。

そこで、とっさの思い付きですが、苦し紛れにダイレクトで「和田誠 雪国」と検索してみました。

ありました、ありました。

なるほどね、最近になって重版されたみたいですね、この本。

書名は、和田誠「もう一度 倫敦巴里」とあります。(ナナクロ社刊、デザイン協力:大島依提亜、判型 :A5判上製176ページ、カラー多数、価格:2200円+税、発売:2017年1月25日)

そして、その内容の紹介には、

≪和田誠、1977年初版の伝説的名著『倫敦巴里』が、未収録作を加え、『もう一度 倫敦巴里』としてついに復活!
★川端康成の『雪国』を、もし植草甚一が、野坂昭如が、星新一が、長新太が、横溝正史が書いたとしたら。(『雪国』文体模写シリーズ)
イソップの寓話「兎と亀」をテーマに、もし黒澤明が、山田洋次が、フェリーニが、ヒッチコックが、ゴダールが映画を作ったとしたら。(「兎と亀」シリーズ)
ダリ、ゴッホ、ピカソ、シャガール、のらくろ、ニャロメ、鉄人28号、星の王子さま、ねじ式、007、「雪国」……数々の名作が、とんでもないことに!?
谷川俊太郎、丸谷才一、清水ミチコ、堀部篤史(誠光社)の書き下ろしエッセイを収録した特製小冊子付。(※丸谷才一さんのエッセイのみ、再録となります)
※本書は、1977年8月、話の特集より刊行された『倫敦巴里』に新たに「『雪国』海外篇」「雪国・70年2月号・72年11月号・73年12月号・75年2月号・77年2月号のつづき」を加え、再編集したものです。著者監修のもと、原画がカラーで描かれていた作品は、カラーで掲載しています。≫


とあり、かつて自分が読んだのが「★『雪国』文体模写シリーズ」だったんですね。

さっそく、この本を図書館から借りてきました。

せっかく借りてきたので、「もし村上春樹が『雪国』を書いたら」を転写しておきますね。


≪昔々、といってもせいぜい五十年ぐらい前のことなのだけれど、そのとき僕はC62型機関車が引く特急の座席に坐っていた。とびっきり寒い冬の夜だった。
機関車は逆転KO勝ちを決めようとするヘヴィー級ボクサーのようにスピードを上げ、国境のトンネルをくぐり抜けた。やれやれ、また雪国か、と僕は思った。
一日がガラス瓶だとすれば、底の方に僕たちはいた、果てしなく白い底だ。
信号所に汽車が停止したとたんに、「月光価千金」のメロディが聴こえた。向かい側の座席にいる女の子が吹く、澄んだ星のような音色の口笛だった。彼女は人目をひくほどの美人ではなかったけれど、おそろしく感じのいい女性だった。
彼女は立ち上がって、僕の前のガラス窓を落とした。雪の冷気がかたまりになって流れこんだ。
「駅長さあん、駅長さあん」
窓いっぱいに乗り出して、アルプスでヨーデルでも歌うみたいに彼女が遠くへ叫ぶと、闇の中から黄色い光を放つカンテラをさげた男がやってきた。光は闇の対極にあるのではなく、その一部なのだ、と僕は感じた。≫


転写に集中していたら、この「文体模写シリーズ」と「変態家族 兄貴の嫁さん」が、どのように繋がるのか、繋がりを持たせようとしたのか、そのアイデアをすかっり忘れてしましました。

思い出したら、また書きますね、ごきげんよう。

(1984国映、新東宝)朝倉大介(企画)、周防正行(監督)、井上潔(監督助手)、富樫森(監督助手)、周防正行(脚本)、長田勇市(撮影)、滝影志(撮影)、周防義和(音楽)、TOJA2(演奏)、種田陽平(美術)、矢島周平(美術)、大坂正雄(音楽録音)、ニューメグロスタジオ(録音)、小針誠一(効果)、長田達也(照明)、豊見山明長(照明)、菊池純一(編集)、磯村一路(製作担当)、斉藤浩一(タイトル)、
出演・風かおる(間宮百合子)、山地美貴(間宮秋子)、大杉漣(間宮周吉)、下元史朗(間宮幸一)、首藤啓(間宮和夫)、深野晴彦(従兄・間宮秀三)、麻生うさぎ(「ちゃばん」のマダム)、原懶舞(九州の若夫婦)、花山くらら(九州の若夫婦)、

1984.06. 62分 カラー ビスタサイズ


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by sentence2307 | 2017-07-22 08:27 | 映画 | Comments(1)

稲妻

「えっ~、まだ見てなかったのぉ!?」なんて言われてしまいそうですが、そうなんですヨ、成瀬巳喜男監督作品「稲妻」1952を通して見たのは今回が初めて、しかも、いまさらながら、そのことに、まったく気づかず、やっと今回、そのことに改めて気づかされたというわけなのです。

「はぁ? なに言ってんだか、さっぱり分からないよ、それじゃ」

そうですよね、そりゃ、うまく説明しないと、この辺の事情は分かっていただけないかもしれませんよね。

今回は、「その辺の事情」というのも含めて成瀬作品「稲妻」について書いてみたいと思います。

メディアによって紹介されることの多い名作映画にはよくあることですが、この「稲妻」も、かなり頻繁に取り上げられていて、そのたびに必ず映し出されるのがラストシーン、三女・清子(高峰秀子が演じています)が母親(浦辺粂子が演じています)に

「どうして自分たち兄妹を、同じ父親の子として産んでくれなかったのよ」

となじる場面だけが切り取られたカタチで、僕たちはいままで繰り返し見せられ続けてきたような気がします、数え切れないくらいにです。

大写しの高峰秀子が、悲嘆と怒りに歪めた泣き顔で母親に必死に訴えかける、悲痛で、それだけにとても美しい場面です。

もし同じ父親から生まれた子供だったら、自分たち兄妹は、こんなにもバラバラにならずに済んだかもしれない、いや、きっとそうだ、こんなにも気持ちを荒ませ、疑心暗鬼で互いを傷つけ合うこともなかったと詰る痛切な場面は、間違いなくこの作品の「核」になる最も重要な場面と言っても、決して過言ではありません。

それに、清子が母親をなじるまでに気持ちを高ぶらせたのは、その直前に、隣家の心優しい兄妹(根上淳と香川京子が演じています、香川京子の清らかさと美しさに思わず目を奪われてしまいました)の仲睦まじさを目の当たりにして心和ませ、羨望の思いに捉われていた彼女に、その兄・根上淳から逆に「ご兄弟は?」と問い返されて、思わず口ごもって表情をくもらせる場面に、他人に依存しなければ生きていけない家族への嫌悪と、自分が切り開こうとしている将来の希望など、清子の一連の心情が的確に描かれている傑出した場面です。

その兄・根上淳からの突然の問いに、思わず、清子が、兄妹の存在そのものまで否定へと揺らいだことは明らかで、もしかしたら、彼女のその「くもらせた表情」のなかには、たとえ微かにでもその否定に動いてしまった罪悪感も、母親への「なじり」に込められていたはずです。

そもそも清子に、家族を捨て山の手の下宿先へ家出同然の(突然の)転居を決意させたものは、・・・などと彼女が少しずつ積み重ねてきたストレスのひとつひとつを逆に辿っていけば、母親をなじるに至る感情の軌跡と、その思いの複雑さは徐々に明かされるとは思いますが、しかし、いま、ここで問題にしているのは、このぶつ切りにされて見せられ続けてきたラストシーン、「清子が母親をなじる」というシーンだけを孤立して見せられ続けたことによって、自分が「稲妻」という作品のイメージを、いつの間にか「別のもの」として作り上げてしまっていたらしいこと(自分的には「刷り込まれた」と言いたいのですが)を説明したかったのです。

ずいぶんウザッタイ持って回った言い方をしてしまいましたが、要するに自分は、いままで、この母親をなじる高峰秀子の悲痛な顔のアップに「終」の字が被るに違いない、これがこの作品のラストシーンだといつの間にか思い込んでしまっていました、実際にこの作品を見る「つい昨日」までは。

しかし、今回見て、それが自分のまったくの思い違いであることに気が付きました。

清子は、母親をなじり、激高のすえに両手で顔を覆って泣き出します。

一瞬「東京物語」のラストシーンの原節子を思わせるくらいの実に美しい場面です。

すると母親は、「私だって、なにも好きこのんでそうしたわけじやない」と抗弁し、その時その時の過酷な現実に翻弄された思いをよみがえらせ、そのときだって精一杯誠実に生きてきて今の現在があるのだと、積み重ねた苦労に胸詰まらせ、そのように生きるほかに自分はどうすればよかったのだと、やはり泣き出します。

そして、「兄妹のなかでお前がいちばんいい子だと思っていたのに、母親をこんなに泣かせるなんて、なんて悪い子だ。」と清子を逆になじります。なんで私が非難されなけりゃいけないんだとでも言うように。

その言い方、その声の調子は、まるで聞き分けのない幼い子を叱る母親の柔らかさに満ちていて、虚をつかれた清子はふっと顔をあげ、思わず苦笑気味に愚鈍な「母親」を見つめます(「見つけます」と言ってもいいかもしれません)。

幾人もの男たちに依存して生きてきたそのだらしなさと愚かさの結果が、「父親違いの子供たち」というイビツな現実を生み出してきたのだとしても、そのようにしか生き得なかった母親の無防備な善良さに不意を打たれた清子は、それさえも愚かしいと唾棄し、罵り否定できるのかと戸惑います。
どうあろうと、この人が私の母親に違いないのだという感じでしょうか。

理解や同意まではできないとしても、この母親もそれなりに・彼女なりに懸命に生きてきたことを受け入れようとする娘と、どこまでも「被害者」として理解を押し付けてくる母親とが、かろうじて心かよわせる安らぎと柔らかさに満ちたシーンです。

帰る母親を駅まで送る夜道で、母親は何かを拾います、「なんだ、王冠だ、五十銭銀貨かと思った」と言って捨てる姿に「いまどき五十銭銀貨なんてないわ」と苦笑で応じる清子の眼差しには、ついさっきまでの母親への非難の厳しさは、すでに消えています。

これが、成瀬作品「稲妻」の本当のラストシーンです。

そうか、分かってしまえば、なんてことありません。

自分の「刷り込み」から妄想した悲嘆と絶望の大アップが、この映画の最終画面だなんて、少し考えてみれば、そんな切羽詰まった終わり方をするなど、もっとも成瀬巳喜男作品らしからぬ「有り得ない終わり方」であったことくらい、すぐにでも分かりそうなことでした。

しかし、これで自分の中に長い間わだかまっていた「オリ」のようなものが、氷解しました。

ここまでは、思い込みが如何に恐いかというお話なのですが、ここで話が、すこし飛びますね。

以前、「映画好き」が集まるある会合で、この自分の思い違いを話したことがあり、この話を聞いた参加者はどっと沸いて、座を大いに盛り上げたことがありました。

しかし、そのすぐあとで、こんなことを言った人がいました。

≪この「稲妻」は、いったい「誰と誰」との物語なのだろうか≫というのです。

座を盛り上げた自分の話が、あたかも「清子対母親」の物語のように聞こえ、その人は、そのことに違和感を持ったのかもしれません。

そのように言う以上、その人にも、また別の意見があるに違いないと考えた自分は、「あなたは、どのように考えているのか」と尋ね返してみました、実際には、この時を得た極めて恰好な話題が一座の関心を一気にさらい、談論風発の状況を呈して、自分の問いなど、その多くの人たちのザワメキの中に飲み込まれてしまって届きませんでしたが。

いちばん多かった意見は、やはり、全編を通して描かれている、金のチカラによって清子を無理やり我が物にしようと画策したパン屋・綱吉(小沢栄太郎が実に嫌らしく演じています、名演です)との確執でしょうか。

いや、この場合「確執」というのはおかしい、綱吉は清子につきまとっているだけで、嫌悪から避け続けている清子にとって「確執」という交渉まで至っていないというのが、本当のところかもしれません。
だとすれば、それは、物語を大きく包み込む「不吉な影」ではあったとしても、決してそれ以上のものではなかったような気がします。
綱吉の経済力に全面的に依存しているこの家族にとってその「不吉な影」は、結局は「恐怖」でしかなく、物語をひとつひとつ推進させるチカラ(まさに確執こそが「それ」です)にはなり得ていないような気がするからです。

あえて「確執」というなら、盛んに綱吉との縁談をすすめようとする長姉・縫子(村田知英子が演じています)とのギスギスとした関係の方が、むしろ相応しいのではないか。

しかし、なぜ長姉・縫子は、清子を綱吉に結びつけようとしたのか、もちろん、そこには清子に対する綱吉の並々ならぬ感心(あからさまな肉欲です)があったからには相違ないのですが、すでに綱吉とカラダの関係を持っていたに違いない長姉・縫子にとって、自分の位置を脅かしかねない清子を、あえて綱吉に人身御供としてあてがうメリットはあるだろうか。

いやいや、まさに次姉・光子(三浦光子が演じています)の例があるじゃないですか。

自分に欠けているもの(綱吉の欲望を満たすだけの性的魅力)を「次姉・光子」にカラダで担わせて、自分・長姉・縫子は利益(見返り)の方だけをちゃっかり頂戴しようと思っていたところ、結局は、自分の地位を脅かされていることに気づいて、不安と疑心暗鬼のすえに大喧嘩して、次姉・光子の家出・行方不明という事態を招きます。

ここには長姉・縫子が思い描いていた「姉妹の協力=役割分担」など、到底有り得ないことだったと彼女自身も思い知らされたわけですよね。

それは、次姉・光子にしても同じことだったと思います。利用されたとみせかけて、身をくねらせて綱吉の欲望を満たし、その見返りに金を引き出そうとした彼女も、姉の嫉妬によって企みがすべて瓦解するという「姉妹バラバラ」の事態を招いていますから、それはどうにも身動きのとれない、この先物語がどう展開するのか、まったく予測できない膠着状態をきたします。

そこで、ふたたびラストシーン、三女・清子のあのセリフ
「どうして私たち兄妹を、同じ父親の子として産んでくれなかったのよ」
に返りますね。

いままで考えてきたことすべてを受けたこのセリフの響きに、当初感じた突き放し、見捨てたような響きが、幾分薄らいできたことに気づきました。

少なくとも、清子は、綱吉を嫌悪したのと同じように、姉たちを見ているわけではない、もしかしたら、一時の怒りに激高した思いをこえて母親を許し、受け入れたのと同じように、欲望に翻弄された姉たちをもまた、許し、受け入れようとしているのではないかという思いさえ抱きました。

いずれにしても、高峰秀子の陰影のある奥深い演技があったればこそ、ここまで考えさせられたことは事実です。

思えば、この作品「稲妻」が撮られた1952年から、まさに女優・高峰秀子のピークに駆け上る成熟期のスタートの年として記憶されています。

稲妻(1952大映東京)
カルメン純情す(1952松竹大船)
女といふ城 マリの巻(1953新東宝)
女といふ城 夕子の巻(1953新東宝)
煙突の見える場所(195エイトプロ3)
雁(1953大映東京)
第二の接吻(1954滝村プロ)
女の園(1954松竹大船)
二十四の瞳(1954松竹大船)
この広い空のどこかに(1954松竹大船)
浮雲(1955東宝)


しかし、これらの「名演技」を、高峰秀子自身が、どのように自覚していたか、「子役スターから女優へ」という傑出したインタビュー記事が残されているので紹介しますね(聞き手は、佐藤忠男)。


佐藤 でも例えば「稲妻」なんて大映ですね。非常に細かいちょっとした仕草みたいなものが、非常に意味がある映画のようなものですね。「稲妻」は私、高峰秀子さんの最高傑作のひとつだと思っています。

高峰 忘れちゃった、あれはバスの車掌さん・・・。

佐藤 バスガールで、浦辺粂子さんの娘で種違いの兄妹がいる。村田知英子と三浦光子と、植村謙二郎が村田知英子のご主人で、・・・。

高峰 それで私どうするんですか(笑)。

佐藤 それであなたは、よりよく生きたいという理想を持っていて、だけれども、実に現在の生活がみじめったらしい。経済的にみじめったらしいというのではなくて、精神的にもみじめったらしく、何もものを考えていそうにない家族ばっかりで、こんな家にいるのは嫌だと。嫌なんだけれども、血肉の愛情があって、捨てるわけにもいかない・・・。

高峰 それで浦辺さんと移動で歩いていて、浦辺さんがなにか拾ったら、ビンの栓だった。そこだけ覚えている。あと何にも覚えてない。

佐藤 それはお金かなと思って拾った。何てまあいじましいんでしょうという。

高峰 そうそうそう。あれ変だな、だって「秀子の車掌さん」というのもバスガールですね。

(講座・日本映画、6巻「日本映画の模索」より)

高峰秀子生涯の名演技に話しを向けたところ、すぐにいなされ、「秀子の車掌さん」に逃げられる、そこには彼女一流のテレもあったかもしれませんが、高峰秀子という人の資質を十分に伝えてくれる逸話だと思います。


そもそもこの座談が、高峰秀子の「忘れちゃった」という一言で始められているのも、出色ですよね。



このラストでも成瀬巳喜男は、説明的なセリフや強い感情をモロに伝えるセリフを嫌い、田中澄江の脚本を大幅に改変し、日常的にしっくり嵌らないセリフはことごとく削除・省略したといわれています、とくにこのラストにおいて。

母娘の言い争いが収束にむかう会話

清子「母ちゃん・・・こんど浴衣一枚買ってあげるわ。売れ残りの安いのを」

おせい(機嫌はなおっています)「いやだよ、売れ残りなんて」

この会話を受けて田中澄江の元の脚本では、ラストシーンは、こんなふうになっていたそうです。

夜の道

ときおり稲妻が光っている

並んで歩く母娘


おせい「帰ってくるよ・・・きっとお光は。あの子小さい時から雷が嫌いでね。雷が鳴り出すと私にしがみついたもんだ」

「終」


しかし、成瀬巳喜男の「削除・省略」を経た実際のラストシーンは、「こう」なりました。

下宿の一階

家主「お帰りですか」

おせい「お邪魔しました」

家主「お構いもしませんで」

おせい「どうぞよろしくお願いします。(すぐに家主の作っている人形に気づき)あっ、お人形ですか。まあまあ」

清子「お母ちゃん!」

おせい(あきらめて)「あいよ。それじゃ」


そして、夜の道

並んで歩く母娘

おせいは何かに気づき、拾い上げる

清子「お母ちゃん、なに?」

おせい「50銭銀貨かと思ったら、ビールの口金だよ」

清子「50銭銀貨なんて、今ありゃしないわよ」

おせい「そうだよ。あたしも変だと思ったよ」

清子「いやあね。あ、ねえ、お母ちゃん、あのルビーの指輪ねえ、見てもらったら本物だって」

おせい「そうだろう。そうだとも。お前のお父っつぁんは、嘘なんかつけない人だったよ」


「終」


そういえば、誰やらが書いた成瀬本の書名に「日常のきらめき」というサブタイトルがあったのを、いま思い出しました。

(1952大映)監督・成瀬巳喜男、脚本・田中澄江、原作・林芙美子、企画・根岸省三、撮影・峰重義、美術・仲美喜雄、音楽・斎藤一郎、助監督・西條文喜、撮影助手・中尾利太郎、美術助手・岩見岩男、録音・西井憲一、録音助手・清水保太郎、音響効果・花岡勝太郎、照明・安藤真之助、照明助手・田熊源太郎、編集・鈴木東陽、製作主任・佐竹喜市、装置・石崎喜一、小道具・神田一郎、背景・河原太郎、園芸・高花重孝、移動・大久保松雄、工作・田村誠、電飾・金谷省三、技髪・牧野正雄、結髪・篠崎卯女賀、衣裳・藤木しげ、 スチール・坂東正男、記録・堀本日出、
出演・高峰秀子(小森清子)、三浦光子(次姉・屋代光子)、村田知英子(長姉・縫子)、植村謙二郎(縫子の夫・龍三)、香川京子(国宗つぼみ)、根上淳(つぼみの兄・周三)、小沢栄(栄太郎)(パン屋・綱吉)、浦辺粂子(清子の母・おせい)、中北千枝子(田上りつ)、滝花久子(杉山とめ)、杉丘毬子(下宿人・桂)、丸山修(清子の兄・嘉助)、高品格(運転手)、宮島健一(バスの老人客)、伊達正、須藤恒子、新宮信子、竹久夢子、
製作=大映(東京撮影所) 1952.10.09 9巻 2,392m 87分 白黒





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by sentence2307 | 2017-07-16 09:09 | 映画 | Comments(0)