世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307

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天国までの百マイル

「裸足の1500マイル」に続いて、早川喜貴監督「天国までの百マイル」00の感想を書くことに、少し躊躇しています。

というのは、このふたつの作品のタイトルがいやに似ているので、安易な連想からの思いつきで感想を書いたのではないかと勘繰られることを危惧するのと、そんなことをわざわざ気にかけずにはいられない自分の小心さがほとほと嫌になってしまうからですが、決してそんなことはありません。

本当に、たまたま続けて見た映画にすぎません。

会社が倒産し、そのために離婚もした何もかも失った絶望のきわみにある男が、医師からも見放された深刻な状態にある心臓病の母親を、名医のいる鴨川の病院までの1500マイルを搬送するという物語です。

ほかの兄弟たち・長男や次男や長女は、リスクの大きな手術をあえて危険をおかしてまですることを否定するなかで、ひとりうらぶれて生活も荒れている三男だけが、かたくなに手術を主張します。

三男は、母親に生きていてもらいたい、出来る限りの手立てを尽くしたいと考えています。

「それなら、お前ひとりでやればいい」と言われ、誰からの援助も期待できない三男は、仕方なく金策に駆け回ることになりました。

しかし、会社を倒産させたことで、あらゆる知り合いから金を借りまくり、そして、その借金をこげつかせている彼にとって、もはや、さらなる借金が許されるような信用など少しも残されてはいるわけがありません。

それでも彼は母親のために、借金の依頼をしなければならず、あらゆる知人に頼み歩きます。

そこで友人のひとりに
「お前みたいな駄目人間は、死んでしまえ」
という酷い言葉を浴びせられます。

それは、かつて自分が助力した弁護士からの言葉でしたが、男は、ショックを受け、放心して呟きます
「そうか、俺みたいな人間は、死んでしまえばいいのか」と。

この作品は、甘甘なラストをもった凡庸な作品であることを僕も決して否定しませんが、このシーンだけは胸打たれました。

死に物狂いで懸命になって生きようともがいているとき、ふっと浴びせられる冷ややかな言葉に打ちのめされ、日常生活の裂け目から、甘美な誘惑のように死の深淵が垣間見えてしまう、絶望者にとってはまたとない甘美な、死んでしまえば煩わしいすべてのことから開放されるという死へのヒントなのかもしれません。

このストーリーは、名医に出会い母親が心臓病の危険な状態から脱することで、男も生きる希望を取り戻していくという物語の合間に、浅田次郎作品によく出てくる「哀しい不幸な女」が描かれていますが、
「お前みたいな駄目人間は、死んでしまえ」→「そうか、俺みたいな駄目男は、死んでしまえばいいのか」
というこのショッキングなセリフに完全にかすんでしまいました。
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by sentence2307 | 2004-12-31 20:42 | 映画 | Comments(1)

裸足の1500マイル

最近、スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンが出演していたフランクリン・シャフナーの「パピヨン」73を本当に久しぶりに見ました。

官憲に捕縛された男マックイーンが、ひたすら自由を求めて、隔離されていた刑務所島から執拗に脱出を試み、最後にはついに脱出に成功するという物語です。

見た当時は、すごく感動した記憶があり、多分そうしたノスタルジーもあって、遠い思い出に引きずられるように見たのですが、そこには当時見たときに感じたあの感動は残念ながらありませんでした。

しかし、決してこの作品が劣っているというわけではありません。

とても好きなタイプの作品です。

ですが、いま見ると強靭な意志で信念を貫こうとするマックイーンの設定が、かなり非現実的に見えてしまい、ずいぶん観念的な映画だったんだなあ、という感じを受けました。

かつてのあの感動は、単に僕の「若さ」が見させただけのものだったのでしょうか。

昔からこのタイプの映画がとても好きなので、思い浮かぶ作品を端からざっと挙げてみても、例えば、スチュアート・ローゼンバーグの「暴力脱獄」とか、ドン・シーゲルの「アルカトラズからの脱出」とか、ジャック・ベッケルの「穴」とか、ロベール・ブレッソンの「抵抗」など、数え上げていったらキリがありません。

そうそう「大脱走」なんかもこの範疇にはいるかもしれませんよね。

それらの作品に共通しているものは、強権に屈することなく叩かれても叩かれても立ち上がることを止めない不屈の精神を持って、ひたすら自由を求め続ける男たちの物語ということなのですが、最近は、こうした純粋すぎる行為をストレートに描く物語が、あまりに現実離れしているように思えてしまい心から馴染むことができません、すんなりと自分の中に入ってこないのです。

人間は、もっと優柔不断で弱々しいに違いなく、卑怯で狡猾で移り気で、そしてもっと愚かであってもいいような気がします。

かつては、あからさまな剥き出しの権力がごく身近にあって、その強権の押し付けをモロに実感できた時代的な背景で成り立っていたストーリーだったのかもしれません(きっと「いちご白書」なんかが、そうだったのでしょうね)が、すっかりマイルドになってしまった現在、そうした時代的な移り変わりもあって、優柔不断で弱々しく、卑怯で狡猾で移り気で、さらに愚な人間の方に、よりリアリティを感じ、自分自身でも安心することができるのだろうなという気がします。

それに、このような自由を求める「純粋な行為」を堂々と謳い上げる物語を、リアリティのある話として納得できるためには、もう少し確かで具体的な動機づけの「担保」が欲しいなと思うようになりました。

「まさに、こういう動機があったればこそ、あらゆる障害を乗り越えて、彼らはどこまでも執拗に自由であろうとしたのだ」というその「動機づけ」です。

この積年の思いにひとつの明確な答えを与えてくれたのが、フィリップ・ノイス監督の「裸足の1500マイル」02でした。

オーストラリアでは先住民アボリジニの子供のうち、白人との混血児たちだけを家族から引き離して集め施設に隔離し、彼らに教育を施して白人社会に適応させていこうという「隔離同化政策」がとられたということが、この物語のベースになっています。

僕もこの作品で、その政策のことを初めて知り、本当に驚きました。

この政策の表向きの目的は、あくまでもアボリジニの子供たちに英語やキリスト教など白人と同じような教育を施し、白人社会に適応できるような社会人に育てあげようというものなのですが、それは表向きの理由で、本当は、白人にとって「見苦しくない白い肌に近い子供」を物色し、あるいは従順なメイドとして調教するのが主たる目的の「人間狩り政策」です。

そして子供たちが従順にその教育を受け入れれば、「お前らケダモノみたいなアボリジニでも、白人社会の高度な文明の恩恵に浴すことができるし、いい生活もできるんだぞ。メイドとしてな。」
というわけなのです。

この政策を支えている思想は、明らかに、白人は美しくてアボリジニは醜く汚い、白人は賢くアボリジニは愚鈍だ、という根深い人種差別に支えられた西洋文明至上主義の考え方であり、「劣った愚鈍な民族」を西欧文明によって啓蒙してあげるぞという押し付けがましい尊大で傲慢な思い上がりです。

この映画は、そうした強制収容所から故郷の母親に会うため逃げ出した少女たちが、海に続くフェンスRabbit Proof Fenseを辿って2400キロを90日間かけ、幼い知恵と、幼い気力と、そして幼い怒りを胸に秘めて歩き通した物語です。

この映画を見るうちに、たまらなく苛立ち、そして、やり場のない怒りに捉えられた僕の、その「安っぽい怒り」をまるで諭すかのようなこの映画の淡々とした少女たちの描き方には、感動を抑えられません。

この映画には、あの僕が愛した「強権に屈することなく叩かれても叩かれても立ち上がることを止めない不屈の精神を持って、ひたすら自由を求め続ける」雄々しく華々しい強靭な意志など、どこにも見当たりません。

むしろ、どんなに虐待され、拘束され、差別を受けようと、言葉少なに、ひたすらに母を求める歩みをやめようとしない少女たちのひたむきな姿にただ心打たれるばかりでした。
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by sentence2307 | 2004-12-31 16:54 | 映画 | Comments(0)
シアトル映画批評家協会賞が発表されました。

作品賞:『Million Dollar Baby』

監督賞:クリント・イーストウッド『Million Dollar Baby』

主演男優賞:ジェイミー・フォックス『レイ』

主演女優賞:イメルダ・スタウントン『Vera Drake』

助演男優賞:トーマス・ヘイデン・チャーチ『Sideways』

助演女優賞:ヴァージニア・マドセン『Sideways』

オリジナル脚本賞:『エターナル・サンシャイン』

脚色賞:『Sideways』

外国語映画賞:『Maria Full of Grace』(コロンビア)

アニメーション映画賞:『Mr.インクレディブル』

ドキュメンタリー映画賞:『Control Room』

               『運命を分けたザイル』
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by sentence2307 | 2004-12-30 22:27 | 映画 | Comments(0)
今年の大きな「事件」のひとつには、なんといっても、「世界の中心で、愛をさけぶ」と「いま、会いにゆきます」をあげないわけにはいきませんよね。

この2作品が今後多くの賞を受賞していく過程で第二・第三の盛り上がりの相乗効果を生み、それが波状的に広がっていけば、さらにこれから先もどれくらい稼ぎ出すのか予想もできませんが、きっと150億くらいは楽に届くのではないかという声も聞こえてきそうです。

しかし、時間ができると映画を見ることを楽しみにしている者にとって、ここのところ盛り上がりをみせている「純愛もの」の多くの作品に接していると、そのぬくぬくとしたストーリーの湿気を帯びた停滞感に、どうも物足りなさを感じてしまいます。

きっと新規な意外性を生み出すために、やたらストーリーをいじるりすぎる小手先の器用さだけを競うみたいな部分に、どうも付いていけないというか、多分そういうことなのだろうと思うのですが、こうしてみると、自分には、あのヴェンダースやジャームッシュの乾いたロードムービー風のものが体質に合っているのかな、などと思えてきて、つい「あの頃は、よかった」という後ろ向きな愚痴が出てしまいそうで、現実に置いて行かれそうな焦燥感を感じてしまいます。
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by sentence2307 | 2004-12-29 08:37 | 映画 | Comments(0)

赫い髪の女

もうずっと昔の話です、就職して働き始めたすぐの頃に、三番館あたりで上映していたこの映画「赫い髪の女」79を何人かの仲間と新宿まで見に行きました。

この衝撃的な作品も、その頃には既にかなり時間が経過していて、とっくにタイムリーな話題性を失っているというそういう時期でした。

見終わったその帰り道、なんとなく駅のそばの飲み屋でこの映画について感想を語り合おうという雰囲気になりました。

きっと誰もが、「この映画、いったい何をいいたいんだ」という言葉が喉元まで出掛かっているのに、どうしてもそのひとことが言えずに帰るに帰れない、といったそんな感じだったのだろうと思います。

飲み屋のテーブルに座り込み、酒を手元に手繰り寄せて、しばしの沈黙のあとで各自が連想した同じようなタイプの映画を挙げていきました。

よくありますよね、ある映画が、どうしても消化できないでいるとき、かつて見た同じようなタイプの作品を引き合いに出して、どうにか解釈の手掛りを探ろうとするあの感じです。

友人たちは、それぞれ連想する映画のタイトルを挙げていきます。

例えば、ベルトリッチの「ラスト・タンゴ・イン・パリ」72とか、大島渚の「愛のコリーダ」76とか、田中登の「実録・阿部定」75とか。

しかし、それらのタイトルを口にした本人自身が、その瞬間からこれは違うなと感じているらしいことが、声の調子ですぐに分かりました。

あれらの作品には、閉塞した重苦しい時代的圧迫から逃れるように世間から背を向けた男女が、閉ざされた暗闇で破滅的な性交にのめり込んでいくというそれなりの状況説明がストーリーとして語られていました。

しかし、極力ストーリー性を排し、ただ「やりまくる」だけのこの映画「赫い髪の女」に、あれらの作品と同じような思想性を想定していいものかどうか、きっと誰もが確信できずに不安だったのだろうと思います。

話し合いが、あの後どうなったのかはまったく覚えていません。

そんなことがあったことさえも長い間忘れていました。

今回の「キネマ旬報」のオールタイム・ベストテンの「日本映画ラブストーリー特集」で、久振りに「赫い髪の女」というタイトルに再会して、あの当時ついに出し損ねた結論も含めて、忘れかけていた一切が一気に甦ってきました。

当時分からずじまいだったことも、いまならなんとなく分かるような気がします。

この社会で生き場を失ったうらぶれた男や女が、世間から見放され孤立していくのとほとんど同じ速度で、まるで追い立てられるように、二人だけの性と死の世界に足を取られ、あるいは自らのめり込んで行くという、もはや生きていく意味のなにもかもを見失ってしまった者たちの「異端の哀しみ」が理解できない観客にとって、この「赫い髪の女」という作品が、ただの薄汚い出来損ないのポルノ映画以上のものではなかったのかもしれませんね。
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by sentence2307 | 2004-12-26 23:08 | 映画 | Comments(156)
所要でちょっと外出していた間に、大変なことがありました。

大掃除とかで、家人が今年版のキネマ旬報をひと括りにして車で図書館のリサイクル棚に運び込んだというのです。

「なんつーことをしてくれるんだ」と、まずは図書館へ駆け込みました。

幸い引き取り手がなかったので、そのままの括りを小脇に抱えて帰ってきましたが、それが並大抵の重さじゃない。

そのブツをこの寒い最中に素手で運んで汗だくで帰宅した自分に向かって、家人はしゃあしゃあと「あんた、それ読んでたことあったっけ」と嫌味なことを言うのです。

自慢じゃありませんが、この「キネマ旬報」、買うだけは買いますが満足に読んだことなんてありません。

でも「読みたいな」と思う記事があって買うわけですから、そうやすやすと捨てられてはたまらないのです。

読みたくても、読む時間がないだけに、とりあえず買っておくことで、なんか安心できるいわば保険みたいなものかもしれません。

でもそれで気が休まるなら、安いものじゃありませんか、という当方の考えに家人はどうも同意しかねているようなのですが。

しかし、今年のキネ旬に限っては、創立何周年記念号とかで、オールタイムベスト10という企画物が掲載されていたので、暇ができたら、いつかはそいつをゆっくり読んでやろうという気持ちだけはあったものですから、そういう気持ちを逆撫でするような、ムゲに捨てるというようなデリカシーを欠いた行為は、実にどうも、たまったものではありません。

だいたい、ここですんなり捨てられたりしたら、なんのために買ったのかワケ分からないじゃありませんか。

無意味な消費で支える資本主義の不健康な一面を、家人に見せ付けられたような散々な今日一日でした。

そして、うかうかしてると、いつ捨てられてしまうか分からないので、危機感をもって、とりあえず日本映画ラブストーリー・ベスト10を書き写しておきます、なんか情けない気もするのですが。

①浮雲、

②野菊のごとき君なりき、

③近松物語、

④幸福の黄色いハンカチ、

⑤愛のコリーダ、

⑥また逢う日まで、

⑦赫い髪の女、

⑧秋津温泉、

⑨ジョゼと虎と魚たち、

⑩乱れ雲
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by sentence2307 | 2004-12-26 00:02 | 映画 | Comments(1)

めぐりあう時間たち

映画を観ていて、ある種の作品に出会ったときにだけ何かを書きたいと猛烈に願う、そこには一体なにがあるのだろうと思うことがよくあります。

すべての映画に対して自在に言葉が湧き出すわけではありません。

完璧な作品(もし、そういう作品があれば、の話ですが)に対してなら、きっと言葉なんて湧き起こる余地などあるはずもないと容易に想像できます。

そういう経験なら幾度もしました。

完璧な作品・好みの作品に向けられる言葉は、きっと賞賛の言葉で満たされるしかなく、そんなとき、世の中に存在する言葉のうちで、貶したり侮辱したりする言葉の邪悪な魅力の輝きに較べて、褒め称える言葉の凡庸で色褪せた貧弱さには、本当にうんざりさせられます。

言葉が本来的に有している機能が、もしかしたら他人を辱めたり罵倒するためだけの「道具」なのかもしれないと思わずにいられない一瞬です。

褒めるだけなら、言葉はそれほど必要とされていないのかもしれないし、また、それに呼応するように語彙自体のヴァリエーションもごく貧弱です。

長々しく前置きしたのは、かなり前に「めぐりあう時間たち」を見、個々のエピソードはともかく(それなりに感動はありました)、なぜ三つの時間が交錯して語られねばならないのか、そこにどういう必然性があるのかという、そこのところがどうしても分からず、それが分からない限り第一声が吐けないような強迫観念というか、ドンヅマリ状態というべきか、つまりは言葉の噴出を押さえ込まれたカタチになっていたからでした。

そんなとき、ある掲示板でこんな書き込みを読みました。

この「めぐりあう時間たち」をよりよく理解するためには、ウルフの「ダロウェイ夫人」を読む必要がある、というのです。

しかし、「ダロウェイ夫人」といえば、なにしろジョイスばりの「意識の流れ」とかの影響を受けたタイヘンな小説です。

それでなくとも遅読というハンデを背負っている僕にとって、イマサラそんな気力があるはずもありません。

そんなとき、たまたまケーブル・テレビでマルレーン・ゴリスの「ダロウェイ夫人」97の放映をやっていました。

なるほど・なるほど、この映画「めぐりあう時間たち」は、小説「ダロウェイ夫人」の構成を借りて作られたのかということがやっと分かりました。

しかし、それは「分かった」というだけで、なんの感動も呼び覚まさないただの「知識」に過ぎません。

分かってしまえば、そのもったいぶった構成は、ただのコケ脅かしとナンナク退けることもできます。

しかし、待ってください。

この映画での素晴らしい部分もないわけではありません。

自殺を決意した情緒不安定な母親との日常生活の只中で、彼女の何気ない破滅的な仕草に本能的に怯える幼い息子の描写が魅力的でした。

母親は、亭主を捨て、子供を捨てて家を出ることで自殺の誘惑から免れています。

子供の傍にいることで死を選ぶしかなかったのか、生きるために子供を捨てることがよかったのか、なにもこんな込み入った構成にしなくとも、作品の意図は十分に伝わったのではないかと思ったりしました。
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by sentence2307 | 2004-12-25 21:09 | 映画 | Comments(1)

鉄路の弾痕

「鉄路の弾痕」という物凄い題名の1950年度の大映作品を見ました。

このバタ臭いタイトルからすると、銃弾がドンパチ行きかう賑やかなギャング映画をつい考えてしまいますが、それらしい場面が出てくるのは、ほんの最初だけ、列車の貨物を強奪する強盗に、阻止しようとした鉄道員が射殺されるシーンくらいです。

映画は、その事件を契機にして鉄道公安官が警戒を強化するということで、室長の岡譲二が部下に訓示をたれるシーンから始まるのですが、その訓示の内容がビックリです。

鉄道公安官は残念ながら武器を携帯することが許されていないけれども気力で頑張れ風な訓示なのです。

「武器の携帯を許されていないのに、どんな警戒ができるって言うんだよ」みたいなどこか物欲しげなトーンを感じたとすれば、それは正解です。

この映画、旧国鉄の鉄道公安官がしっかりと後援している作品なので、ほとんど素手で撲りあう暴力シーンなども、勘繰れば「武器の携帯を許されていなくとも、私たちはこんなに頑張っているんだもん」みたいな嫌味な映画とも受け取れます。

まあ、それはともかく、この映画に、弱味を握られて仕方なく悪の手先になって操られる男を若き小林桂樹が演じていました。

どんな映画でも、彼の持ち味は終始一貫、融通の利かない生真面目さとか不器用さ(老境に入ってその傾向は顕著になってきました)にあるのだろうと思うのですが、その限定されたキャラクターの中でも多様なバリエーションを演じ分けていくという器用さによって、長い俳優生活を維持してきたことを僕は高く買っている一人です。

この作品のあとに続いて見た東宝作品「紙芝居昭和史・黄金バットがやって来る」72でも小林桂樹が軽妙な演技を見せていました。

この重厚さと軽妙さを演じ分ける落差を考えれば、彼の演技を「変幻自在」といってもいいような気がします。

環境に応じてそれぞれに変わり身をしながら順応していく小林桂樹の変幻自在振りを不思議な魅力として最も遺憾なく発揮した作品が、青柳信雄監督の「風流温泉番頭日記」62だったと思います。
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by sentence2307 | 2004-12-25 21:07 | 映画 | Comments(2)

朝の波紋

この作品では、高峰秀子の「耐えられないくらい嫌な男」に対する一瞬の強い眼差しが印象に残りました。

その嫌悪感が、男の僕にも共感できてしまうのは、きっと高峰秀子が、女性独特の好悪の生理的・感覚的なものを超えたもっと人間的な強い正義感に根ざしている怒りみたいなものを感じるからかもしれません。

ドラマの中で、ライバル会社・富士商事の妨害を跳ね返して、ブラッドフォードとの契約をやっと履行できたあとの港での商品の積み込みの場面で、
「この煌びやかな飾り物が、日本の貧しい女たちの内職で作られているのかと思うと複雑な気がするわ」
という篤子・高峰秀子の言葉に対して答える同僚の梶・岡田英次のいう言葉、
「俺たちが、その彼女たちを食わしてやっているんだ」
という不遜な自負心に満ちた言葉に、一瞬嫌悪の表情をあらわにする高峰秀子の繊細な眼の演技の、そういう積み重ねによって篤子がどのような男に嫌悪し、そして、どのような男に好意を持つかということが次第に観客に明らかにされてきます。

この作品の随所に見られるそのような高峰秀子という女優の繊細な演技の魅力が、「稲妻」や「煙突の見える場所」、または「雁」や「二十四の瞳」や「浮雲」の素晴らしい演技となんら遜色のない、それほど距離感を感じなかったのは、僕の錯覚ではなかったようでした。

当時のある作品評のなかの一文にそれを見つけました。

「つつましく、おさえた味がでており、いままでの彼女とはだいぶ違う。この作品をきっかけに、新しい方向に伸びられるかもしれない。」(双葉十三郎・キネマ旬報)

たしかに、この作品が撮られた同じ1952年に成瀬の「稲妻」と木下恵介の「カルメン純情す」が撮られ、翌年には「煙突の見える場所」と「雁」が撮られ、そして、さらにその翌年1954年に「女の園」、「二十四の瞳」が撮られて、そしてついに次の年の「浮雲」に繋がっていくわけですから、この「朝の波紋」という作品は、高峰秀子が「新しい方向に伸びていく」萌芽を兆した作品といえるものだったと思います。

僕の直感した「朝の波紋」における高峰秀子の繊細な演技が、ほぼ一定の完成に至っていると勝手に考えていた僕の直感が、どうもただの間違いではなかったらしいことが、この一文で分かりました。

この作品は、高峰秀子が半年のフランス旅行から帰国しての復帰第1作で、冒頭から流暢な英語を話すなど、高峰のきびきびした演技が心地よい一作で、回想によれば撮影中の高峰秀子は相手役の池部良よりも、見学に来た原作者・高見順の美男子ぶりに魅了されたと記されています。

スタジオエイトプロは、パージ後五所平之助が51年に設立したプロダクションで、ここで「わかれ雲」51、この「朝の波紋」52、そして名作「煙突の見える場所」53が撮られています。

この作品のキャストが物凄く、ちょい役で上原謙、岡田英次、香川京子、沼田曜一、高田稔、吉川満子、浦邊粂子、田中春男、中村是好、清水将夫、齊藤達雄、信欣三が出ているのでビックリしました。

そして、ほかには、あの懐かしい大川平八郎が、箱根の旅行先で母親に会いに行く「腱ちゃん」に付き添うの先生役で出ていました。

「女人哀愁」37(成瀬巳喜男監督作品)に出演した頃の溌剌とした彼と比べると随分ふけてしまったように感じてしまいました。(当たり前ですが。)

自分が生まれてもいなかった1937年の映画や俳優のことを「懐かしい」なんて、ちょっと奇異な感じをもたれるかもしれませんが、たまたま時間を隔てて「女人哀愁」と「朝の波紋」を、順を追って見たからでしょうか、ともに古い映画なのに、なんだか僕の中では、時間の間隔がそのまま整然と現在にスライドして、15年という時間の間隔だけを「いま」の時点から遡って実体験してしまったような錯覚を持ったのだと思います。

まあ、言ってみれば、それだけ「女人哀愁」における大川平八郎という未知の俳優の演技が、僕にとって強烈な印象を残したからでしょうか。

あの成瀬作品のなかの彼は、決して「溌剌」などといえる役でも、そして演技を示したわけでもありません。

あまりの貧乏に、同棲していた恋人(作品の中では、入江たか子の義妹にあたります)に愛想をつかされて逃げられてしまう不甲斐ない男という、まさに成瀬巳喜男作品にはぴったりの男性像を、それも抑揚に乏しい稚拙で訥々としたセリフ回しで演じていました。

弁解すればするほど、男のその女々しい態度そのものが女に嫌がられているとも解することができずに、なお執拗に彼女を尋ね続けながら、そのたびに居留守をつかわれ、すごすごと帰る駄目男です。

彼は、最後には彼女の気を引くために会社の金を横領するという犯罪まで犯してしまいます。

初期の成瀬作品には常連のように出演しています(乙女ごころ三人姉妹、妻よ薔薇のやうに、サーカス五人組、噂の娘、君と行く路、朝の並木道、女人哀愁、禍福、鶴八鶴次郎、など)が、なんと「浮雲」にも医者の役で出演しているそうなので見直してみようかなと思っています。

戦後はヘンリー・大川と改名して多くの作品に出ていて、資料では「戦場にかける橋」にも出演しているそうです。

ヘンリー・大川とは、これまた奇妙な改名だと思っていろいろな本を調べた結果、大正12年に渡米してパラマウント俳優学校を修了しているということだそうです(同期にゲーリー・クーパーがいたとか)から、きっとそういう捨てきれない過去のプライドとか矜持とかといったものが鬱々としてあったのかもしれませんね。

僕の受けた「抑揚に乏しい稚拙で訥々としたセリフ回しで演じていた」という印象を引き比べながら考えてみると、なんだか痛ましいものを感じざるを得ません。

世間に身をさらして生きる役者という職業の壮絶なところだと思わずにはいられませんよね。

(52スタジオエイトプロ) (製作)平尾郁次(監督)五所平之助(原作)高見順(脚本)館岡謙之助(撮影)三浦光雄(美術)進藤誠吾(音楽)齊藤一郎

(出演)高峰秀子、池部良、上原謙、岡田英次、香川京子、三宅邦子、沼田曜一、澤村契惠子、高田稔、滝花久子、吉川満子、浦邊粂子、岡本克政、田中春男、中村是好、清水将夫、汐見洋、大川平八郎、齊藤達雄、アドリアン・アンベール、信欣三
(103分・10巻、2850m,35mm・白黒)
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by sentence2307 | 2004-12-25 21:06 | 映画 | Comments(1)

綴方教室

僕なんかの感覚からいうと「子役」というものを、今風に「リッチ」とか「余裕」とかと、なんとなく思い込んでいて、是非はともかく、幼い頃から華やかな世界を目指すその「生き方」の積極さには、羨望に似たものを感じていました。

だからでしょうか、高峰秀子の「わたしの渡世日記」に出会い、彼女が貧しい養家を助けるために、興味もそれ程にはない子役を仕方なくやっていたらしいと知って、とてもショックを受けた記憶があります。

子役としてスクリーンから受けていた子役・高峰秀子の印象は、やたらとお茶目で悪戯好きで元気のいい可愛いらしい少女です。

演技とは思えないような屈託のないその可愛く活発な愛らしさは、さまに僕の固定観念をさらに確信させずにはおかないどこまでも陽気な「天才子役」という感じでした。

そののびのびとした物怖じしない彼女の演技に、僕は、子供ながらも役者として「さらに上を目指す積極的な野心」さえ感じていたくらいでした。

もちもん、すでに女優として大成したその後の高峰秀子像が僕の頭の中にインプットされていたのですから、最初からそういう思い込みで見ていたからかもしれませんが。

しかし、自伝のなかに書かれている彼女の「子役」としての映画の仕事は、まるで「うんざりするような労働」そのものみたいな描かれ方をしているのです。

これは本当にショックでした。

僕たちが、その達者な演技に感心しながら見惚れていたスクリーンの生き生きとした彼女は、実は、「うんざりするような労働」に耐えていただけの姿だったとは!

 「天才」とはそういうものかもしれないなと、そのときは、そう自分を慰めました。

そしてこの自伝がここで終わっていたら、それこそ「そんじょそこらに」ざらにある凡才が書いた嫌味な自伝でしかありません。

「いまに語り継がれている自伝『わたしの渡世日記』の素晴らしさは、家族の犠牲になって働かざるを得なくなった幾分ふてくされ気味の天才少女・高峰秀子が、あるとき山本嘉次郎という卓越した監督に出会い、示唆に富んだ素晴らしい助言を得て、女優としての演技を開眼させ、同時に人間的にも成熟を遂げていくという幾つもの感動的なエピソードに出会うことになるからです。」

と書いた部分を自分でも読み返してみて、なにか違うなという感じからどうしても自由になれませんでした。

この部分は、明らかに『わたしの渡世日記』にでてくる山本嘉次郎との有名な「冬の朝の清潔な匂いのエピソード」に無理やり繋げようとした前フリの、何の魅力も有していないただの定型句でしかありません。

そのエピソードというのは、こうでした。

冬の早朝のオープンセットでの焚き火の撮影で、少女・高峰秀子は、監督・山本嘉次郎に突如台詞の付け足しを指示されます。

「デコ、台詞をちょっと足すよ。
“冬の朝って、いい匂いがするね”だ。
すると、稔が鼻をクンクンやって、“匂いなんかしないや”って言う。
また、デコが、“ほら、するじゃないか”って鼻をクンクンやる。
それだけだ、分かったね。」

私は、うなづき、突然いままでになかった親しみを感じた。

冬の朝は確かに独特な匂いがする。

つうっと透き通るような、遠い焚き火の懐かしさのような、高原の空気のような、清潔な匂いである。

「『冬の朝の匂いが、この人には分かる。この人は、子供の味方だ。』私は感激した。」

素晴らしいエピソードです。

健康で素直な子供そのままの感性です。

この部分に繋げるために僕はあれだけの前フリを書いたのでした。

しかし、自分で書いておきながら、この部分、どうしても引っ掛かるところがあるのです。

それは、「人間的にも成熟を遂げていくという幾つもの感動的なエピソード」という部分です。

当時、一族合計9人を扶養していたといわれる働きづめの「天才子役・高峰秀子」(自伝には、ほとんど学校にもいくことが出来なかったと書かれています。)に、はたして、あるいは今更「人間的に成熟」する意味などあったでしょうか。

この少女期の高峰秀子のイメージには、「当たり屋」を描いた大島渚の「少年」を思わせるような、ぞっとさせられるところがありますよね。

当時、ある役者が、そんな高峰秀子を見て、「あの子は、気の毒なくらい気の回る子なんだ。ああ利口では、かえって可哀想なくらいだ。」といったといいます。

高峰秀子にとってこの「綴方教室」が、女優として如何におおきな意味を持っていたか、当の本人がいちばんよく分かっていたと思います。

当時、ある老優が高峰秀子のことを、

「あの子は、気の毒なくらい気の回る子なんだ。ああ利口では、かえって可哀想なくらいだ。」

と言い表したあの言葉、とても示唆に富んでいて本当にいい言葉ですね。

なんでもよく分かってしまう「利発であるという性格」が、どのような過酷な環境のもとで、そして、自己防衛の本能のように培われてきたのか、その少女の痛ましい生い立ちを考えると、「利発であること」は、もしかすると、子供にとって「不幸」のバロメーターのようなものにすぎないのではないのかとつい考えてしまうのは、きっと僕の考えすぎかもしれません。

だからでしょうか、僕にとってこの「綴方教室」の主人公・正子の「けなげさ」が、どうしても高峰秀子と二重写しになってしまうのです。

本当の自分を誰にも理解されないままでいる孤独な少女が、自分の気持ちを押し殺して、キャメラの前で笑顔をつくる、そして、僕たちはその虚像に感動する。

観客が、そういう「虚の自分」に感動する姿を見て、本当の自分を伝えられない少女がそのギャップに更に孤独を募らせてしまうというような、居たたまれないような空しさに耐えて生きていくという子供の像が、僕にはちょっと想像ができないくらい壮絶なものに感じられてしまいます。

高峰秀子という女性は、撮影所のマイナスの空気もプラスの空気も胸いっぱい吸って、少女から女性へと成熟して女優になっていった人なのだなと思います。

ここにひとつのエピソードが語り伝えられています。

ある雑誌で「綴方教室」の原作者・豊田正子との対談が企画され、その題は「二人の天才少女」でした。

その対談のなかでの質問のひとつに「好きな食べ物は?」というのがありました。

その質問に、豊田正子は言下に「梅干とご飯」と答えています。

貧しさの只中にいる少女の、いかにもそれらしい答えです。

そして一方の天才少女・高峰秀子の答えは、「いま、お腹がいっぱいだから、分からない」とされました。

もちろん、これはすべて当時の芸能ジャーナリズムの捏造でした。

高峰秀子は大いに傷つき、そして、豊田正子ともこのことがきっかけで仲たがいしてしまいます。

芸能雑誌や撮影所によって作られていく「虚の自分」を高峰秀子が、どのように考えていたのか、やがて、成熟を遂げた彼女が1950年代、1960年代に見せることとなる目を見張るような彼女の活躍が、その答えを教えてくれているように思います。

後年、才女・高峰秀子がモノした多くの著書のなかに「つづりかた巴里」と題する本があることを見ても何となく察せられます。

高峰秀子が書いた本がどのくらいあるのか知りたくなりました。

手元の資料にある限りの書名をリストアップしてみました。

巴里ひとりある記(53映画世界社、55創芸社、56河出新書)

高峰秀子(55河出新書)写真編

まいまいつぶろ(55映画世界社、56河出新書)

私のインタヴュー(58中央公論社)

瓶の中(72文化出版局)

わたしの渡世日記・上下卷(76朝日新聞社、80朝日文庫、98文春文庫)

いっぴきの虫(78潮出版社、83角川文庫)

旅は道づれガンダーラ(79潮出版社、92中公文庫)松山善三共著

つづりかた巴里(79潮出版社、83角川文庫)

いいもの見つけた(79潮出版社、86集英社文庫)

旅は道づれツタンカーメン(80潮出版社、94中公文庫)松山善三共著

秀子のピッコロモンド(81アオイギャラリー)

典子は、いま(81潮出版社)松山善三共著
台所のオーケストラ(82潮出版社)

旅は道づれアロハ・オエ(82潮出版社、93中公文庫)松山善三共著、文庫化に際し「旅は道づれアロハ・ハワイ」と改題

コットンが好き(83潮出版社)

人情話 松太郎(85潮出版社、90ちくま文庫)

あの道・この道(85美術公論社)瀬木慎一共著

旅は道づれ雪月花(86文化出版局)松山善三共著

私の梅原龍三郎(87潮出版社、97文春文庫)

雨彦・秀子のさわやか人生案内(87三笠書房)青木雨彦共著

不滅のスター高峰秀子のすべて(90出版協同社)

おいしい人間(92潮出版社)

忍ばずの女(94潮出版社)
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by sentence2307 | 2004-12-25 21:05 | 映画 | Comments(204)