世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307

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父と子の心の交流を描いた名作として、まず最初に思い浮かぶのは、やはりなんと言っても小津安二郎の「父ありき」でしょうか。

かつてロバート・レッドフォードが監督した「リバー・ランズ・スルー・イット」の中で親子が渓流で流し釣りをしているシーンを見たとき、思わずこれは小津監督の「父ありき」だなと直感したことを思い出しました。

並んで釣り糸をたらしているところから、そろって竿を振り上げ振り返すところまで、まるでそっくりのシーンでした。

父ひとりの片親だけで育てられた幼い息子が、つねに父親と一緒に暮らしたいと願いながら果たされず、また、成人になってからも離れ離れに暮らすことを余儀なくされて、ついに父と死別してしまうという、なんとも切ない映画でした。

ラストシーンで父の遺骨をたずさえたその息子が、

「僕は子供の時から、いつも親爺と一緒に暮らすことを楽しみにしていたんだ。
それがとうとう一緒になれずに死なれてしまった。
でも、よかった。
たった一週間でも一緒に暮らせて。
その一週間が今までで一番楽しい時だったよ。」

というセリフには、本当に感動しました。

互いを思いやり、そして求めるそれぞれの気持ちが、考えられないくらいに純粋で透き通っていて、本当に綺麗というか、清浄なと言いたくなるくらいの素晴らしい作品です。

しかし、ひとつだけ長い間気になっていたことがあります。

成人した息子が今度こそ一緒に暮らしたいと父に願う場面があって、確かその時の父の答えが「私情に溺れず天職を全うせよ」みたいな答えだったと思います。

随分じゃないか、とその時思いました。

親子が離れて暮らさなければならない理由にしては説得力のまるでない冷たすぎる理由です。

こんなにもキメの細かいシナリオだけに、この血の通っていない「決めセリフ」には、ずっと納得がいきませんでした。

しかし、最近になってその辺の事情が分りました。

この作品「父ありき」は、「戸田家の兄妹」に続く戦地に行っていた小津監督の帰還第2作として撮られた作品ですが、脚本の方は応召直前に既に脱稿されていたものが、日中戦争最中の4年間という戦時体制の進行で大幅な改訂を余儀なくされたらしいのです。

例えば、この映画に描かれている父親像は、本来もっと心優しい弱々しいイメージの設定だったらしいのですが、それが時世の変化に沿って「私情に溺れず天職を全うせよ」などと元気一杯息子を励ます強い父親像に書き換えられてしまったらしいのです。

そして戦後の再公開の際にも、おそらくそうした「改竄された部分」が最も多くの自主的カットをほどこさねばならなかった作品だったのだそうです。

この「父ありき」に描かれている父親を思う息子の優しい気持ちの描かれ方には、小津安二郎という人の俗世界にどうしても馴染むことが出来なかったピュアで根源的な優しさみたいなものを感じてしまいます。

確かヴェンダースが「ベルリン天使の詩」の冒頭で小津安二郎を天使に譬えていたように記憶していますが、俗世間に馴染めなかったという意味で、僕もやはりヴェンダースの意見に賛同するひとりです。

それは、どの小津作品でも演出する監督の視点は、常に神を仰ぎ見る位置から撮られていることでも証し立てられているかもしれません。

そして、僕にとって、神の眼差しを感じる作品がもうひとつあります。

デ・シーカの「自転車泥棒」です。

仕事をするためになくてはならない自転車を盗まれた父親が、まだ少年の息子を連れてローマの街中を懸命になって探し回ります。

自転車がなければ、仕事につくことが出来ない、食べていけないという切実な思いを抱えて、父と子は盗まれた自転車を求めて必死に歩き続けます。

しかし、結局自転車を探し出すことができず、失意のなかでたまたまサッカー場の駐輪場にたどり着いた父は、息子を先に帰し、そして、そこにとめてある一台の自転車を盗もうとする場面です。

息子は父親のことが気掛かりでなりません。

乗るべき市電に乗り損ねたとき、多くの人が駐輪場に向かって走って行き、口々に「泥棒だってさ」みたいな話し声を聞いて、息子もまた不安な気持ちを抱えたまま走り出します。

そこで見たものは、自転車を盗み損なって散々に小突かれながら、いままさに警察に突き出されようとしている父親の姿でした。

息子は、毒づきながら父親を小突きまわす大人たちに縋り付き、父を許してくれと泣きながら懇願します。

このとき、息子の気持ちを僕はいつも想像します。

一日中自転車を求めて必死になって父と歩き回った息子です。

父親の落胆は、息子には痛いほど分かっています。

父親を小突く大人たちに縋って「お父さんは、悪くない」と訴えたでしょうか。

市電に乗りそこね、やがてサッカー場に向かって駆けていく人波を見たときに咄嗟に感じた胸騒ぎは、息子が父親と同じ気持ちになっていたことを示していると思いました。

息子はきっと「お父さんは、悪くない」などと言うとは、どうしても思えません。

きっと、「お父さんに何をするんだ」と言うはずに違いない気がして仕方ありません。

もし、この世界に神が存在しているなら、きっとこの父を罰しようとしている大衆を息子と同じように指弾するに違いないと確信しています。
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by sentence2307 | 2005-02-28 00:14 | 映画 | Comments(3)

夜のプラットホーム

一日のするべきことは総て終わり、さて寝るかと時計を見ると、寝るにしてはまだちょっともったいないような中途半端な時間のときに、上映時間の適当に短い映画を探し出して見たりしています。

上映時間の長さで見る映画を決めるなんて、なんてズボラな奴なんだと思うかもしれませんが、こういう見方も案外にヒットすることが多いのです。

普通どうしても、知名度の高い映画から見ようとするのが人情というものなので、逆を突くこの方法なら未知の意外な作品に遭遇できる絶好の機会をもたらしてくれることもありますし。

貧しい私的ライブラリーをざっと漁って上映時間がいちばん短い映画がこの作品、田口哲監督の「夜のプラットホーム」でした。

1948年度の大映作品で、84分という物凄く魅力的な上映時間です。

予備知識などは、なにひとつありません。

座右に置いて愛用している「ぴあシネマクラブ・日本映画編」の収録作品にも掲載がありませんでしたので、きっとビデオにもなっていない作品だと思います。

インターネットで検索しても、出てくるのは二葉あき子という人(映画の中でこの歌を歌っていた人がそうなのでしょうか。) が歌った挿入歌「夜のプラットホーム」の記事ばかりです。

もちろんこのヒット曲についても全然知識がありません。

滅多に見ることができない、まさに希少価値ある作品といえますよね。

できるだけ予備知識を持たないで作品を見るようにしているのですが、ときには心構えとして僅かの知識を仕込んでおいて、あらかじめ一定のテンションを高め、作品に対して緊張感をもって見ることで、漫然と見過ごすことを自分なりに諌めることもあります。

しかし、これだけ予備知識が収集できなければ、テンションも上げようがありません。

さてこの作品、いきなり冒頭からドキュメンタリータッチでどこかの駅前の雑踏を写します。

群衆のそれぞれが何かを求めて右往左往していますが、それは「仁義なき戦い」で見たようなあの闇市の殺気立ったアナーキーな雰囲気とはちょっと違っています。

傷痍軍人が何事かを盛んにわめいているその横を呑気そうに妊婦が歩いていたり、がちがちに痩せた浮浪児が活き活きと物乞いに精を出している横を闇市の取り締まりにきた警官隊が駆け抜けたり、露天商の口上をにやにやしながら聞き入っている行商人がいたりで、そこには雑然としているなりに日常生活の時間が確実に流れていて、深作欣二の映画でよく見たアナーキーな感じは受けません。

このシーン、隠し撮りかと思って見ていたら、なんと「それっぽく」演説している青年に扮して熱演している若き船越英二をみつけました。

こういうところを見ると、ドキュメンタリーっぽく見せてはいますが、どうもナマの実写部分はほんの少しなのかもしれませんね。
(しかし、たとえこれが「やらせ」だとしても、それだって1948年という時点に撮ったものなのですから、すこしも残念がる必要などありませんよね。) 

この物語は、1948年という時代相をモロに反映した復員兵と銀座のバーで働く戦争未亡人の儚い恋を描いたちょっとした恋愛ドラマだと思います。

「だと思います」などと煮え切らない言い方になってしまったのは、たとえ肉体関係を持ったとしても「恋愛関係」を否定するハイな女性が僕の周りにもざらにいる現代からすると、この程度の会話(夫は生きていると他人には言っているが、実は夫は既に死んでおり、女はそのことを言うことによって自分の好意を男に伝えようとしています。) を交わしただけでもう「恋愛」などと言ってしまっていいのか、いささか心許ないからです。

しかし、女のその気持ちも、同じバーで働く同僚の心無い一言が男に浴びせ掛けられることによって、ふたりの淡い関係は無残にも潰されてしまいます。

この映画も日本映画がはぐくんできたいわゆる「すれちがい映画」の範疇に入る映画なのでしょうか。

現在からすると、この程度の誤解なら解こうと思えば解けないわけがないという歯痒い気持ちになりますが、会話だけで恋愛関係が成り立ってしまうくらい繊細な時代だったのですから、壊れ方もきっとこんなふうに儚かったとしてもなんの不思議もないかもしれませんよね。

(48大映東京撮影所) 企画・伊賀山正徳、監督・田口哲、脚本・八木沢武孝、原作・加藤武雄、撮影・渡辺公夫、音楽・伊藤宣二、美術・木村威夫、録音・西井憲一、
出演・木暮実千代 水島道太郎 若杉須美子 志村喬 植村謙二郎 上田吉二郎
9巻 2,289m 84分 白黒
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by sentence2307 | 2005-02-27 18:30 | 映画 | Comments(0)

アカデミー賞直前予想

アカデミー賞直前予想(極私的ご近所の前評判から集計しました)

作品賞 「アビエイター」
監督賞 クリント・イーストウッド「ミリオンダラー・ベイビー」
主演男優賞 ジェイミー・フォックス「レイ」
主演女優賞 ケイト・ウィンスレット「エターナル・サンシャイン」
助演男優賞 モーガン・フリーマン「ミリオン・ダラーベイビー」
助演女優賞 ケイト・ブランシェット「アビエイター」
脚本賞 「アビエイター」
脚色賞 「サイドウェイ」
外国語映画賞 「海を飛ぶ夢」
長編アニメ賞 「Mr.インクレディブル」
撮影賞 「アビエイター」
美術賞 「レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語」
作曲賞 「ネバーランド」
編集賞 「アビエイター」
衣装デザイン賞 「アビエイター」
音響賞 「レイ」
音響編集賞 「スパイダーマン2」
歌曲賞 「コーラス」
視覚効果賞 「スパイダーマン2」
特殊メイキャップ賞 「パッション」
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by sentence2307 | 2005-02-27 09:29 | 映画 | Comments(1)

ジョゼと虎と魚たち

この映画には、物語に登場する3人の失意の場面が、それぞれ順を追って描かれています。

まず最初は、ジョゼが恒夫に心を開きかけたとき、恒夫が大学の女ともだち・香苗と交わす会話を聞いてショックを受ける場面です。

半身不随の自分のことを、椅子からダイブする珍しい動物みたいなからかいの対象にされていることを知り、ジョゼは、恒夫と、そしてこの世界に対して再び心を閉ざします。

2つ目は、養い親の老婆を亡くしたジョゼが恒夫と同棲し始めたとき、恒夫を奪われた香苗が怒りに逆上してジョゼを殴り付けに来る場面です。

福祉志望の香苗は、身体障害者を殴り付けたことによって、自分の目指していた価値観のすべてを混乱させ、将来の展望を見失ってドロップアウトしてしまいます。

そして、3つ目は、半身不随のジョゼから逃げて、健常者たちの世界に立ち戻っていく恒夫のやましさに満ちた悲嘆の場面でしょうか。

実はこの映画、ずいぶん前に見ていたのですが、当時は、あえて感想を書くことをやめていました。

この映画についてのコメントめいたものを自分の中から搾り出そうとすれば、それはきっと苦しいだけの作業で終わるしかないだろうし、映画の鑑賞をリラックスの場と考えている僕にとって、あえて辛いと分かっているような感想など最初から書くのはやめようと思っていたのでした。

あまりにも重過ぎるために、こんなふうに敬遠した映画なら、いままでも何本もあります。

それは、自分から望んで、そんな苦痛に満ちた感想を書くことで、あえて辛い局面に身を晒すことに意味なんて見出せないというのが、その主な理由だったのですが、しかし、ある女友だちのひとことがきっかけで、僕はこの映画の感想を書いてみようと思いたちました。

彼女は言いました。

「妻夫木クンはいいけど、あの池脇千鶴のワザとらしい喋り方がたまらなく嫌だわ。なによ、あの命令口調」

陽の当たる場所しか歩いてきたことのないようなこの人に、劣等感を体一杯に満たした人間の、引け目のある相手と対等な場所に立とうとする屈折した気持ちなど、どう説明しても分からないかもしれないなという苛立ちみたいなものを、そのとき感じました。

僕にもうまく説明できるかどうか分かりませんが、しかし、身障者が健常者から惜しみない無償の愛を受けるときの怯えのような繊細な気持ちくらい、僕にもどうにか分かる積もりです。

恋愛関係とは、その前提として肉体的にも感情的にも対等な関係が求められるはずのものです。

この関係のバランスに、同情や憐れみや施しの気持ちや、打算や蔑視などが割り込めば、それはもはや恋愛などと呼ばれるようなものではなくなり、きっと従属とか隷従とか支配とか義務といわれている種類の関係に堕落してしまうでしょうからね。

だから、ジョゼのあの命令口調は、ハンディのある自分が、恒夫との恋愛関係において、はじめから対等な関係など結べるわけもないという負い目を、逆に命令口調を使うことによって彼を傷つけまいとした彼女なりの、恒夫が望むならいつでも彼を解放してあげようという精一杯のジョゼの思いやりだったのだと思います。

そこには、恒夫を自分に繋ぎ止めておこうという意図など些かもないどころか、もし彼から別れ話がでたら、いつでも受け入れようという心の準備さえも伺われました。

しかし、身障者の彼女にとって障害によって捨てられたと思うことは、とても辛いことだったに違いありません。

それは恒夫にしても同じことだったでしょう。

泣いて縋るということもなく、出て行く恒夫を送り出すジョゼの静かなラスト・シーンは、だから「身障者」という言葉に一切触れないままで、自立した大人同士としてお互いが納得して別れるにすぎないのだということを、ジョゼも恒夫も強く望んだのだと思います。

そして恒夫は、かつての恋人の元に帰って行きます。

それは、福祉関係の仕事を目指しながら、恋人を奪われた怒りを抑えられず身障者ジョゼを殴り、その自己嫌悪によって自分の将来を見失ったあの香苗です。

かつて身障者を殴りつけた女と、そしていままさに身障者を棄てた男が寄り添って街路を歩く姿を追うキャメラは、突如泣き崩れる恒夫の姿を捉えています。

まるでそれと対比するみたいに、ジョゼが電動車椅子に乗って街中を走る毅然とした姿が映し出され、そして魚を焼く姿に続く椅子からの突然のダイブで彼女の姿を見失う場面に遭遇した僕たち健常者は、かつて恒夫や香苗が交わしたように、まるで珍しい動物のことでも語り合うようにして、半身不随のジョゼの珍しいこのダイブのことを面白半分に話すべきなのでしょうか。
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by sentence2307 | 2005-02-26 23:01 | 映画 | Comments(1)

髪結いの亭主

ある女性評論家のコメントで、ルコントの、特にこの作品を、子供じみた男の身勝手さばかりが鼻について、とても見ていられない、嫌悪さえ感じる、という毛嫌いともいえる激しい感想を読んだことがありました。

女性の側からすると、確かにそうかも知れないな、と思います。

職業を持って社会的に自立した「ちゃんとした?」女性が、なんの取り柄もないこんな中年男に、ただ性的に魅かれて、ヒモのような存在でいることを許すという感覚が耐え難いのだと思います。(もし本当にそう思うなら、この人、なにもよりによって映画評論なんかしなくてもいいと思うのですが)

主演のロシュフォールは、1930年生まれということですから、無理ある年齢設定への嫌悪感には、やはり同調せざるを得ないものがありますが、では、何故そんな「うだつ」の上がらない老人に若いマチルドが魅かれたのかと考える時、ルコントの仕掛けた意味深な罠に気づきます。

きっと、その女性評論家も、寄生虫のような亭主(もはや死語となりましたが、昔は、男めかけ(妾)などと言ったものです)への非難にかこつけて、実は自分の欲望をそんな形であからさまにする性的に「ちゃんとしてない」マチルドの節操を欠いた生き方を同性として嫌悪し、拒否したのかもしれません。

例えば、マチルドは、仕事中に密かに体を触られたりすることを嫌がるどころか、むしろ、男をはべらかし、行為を仕掛けられることをも含めて、そうされることを求めている節さえ見受けられます。

また、それを証すように、彼女は、常々、男が自分に関心をなくせば、男の前から潔く姿を消す、とさえ言っていました。

事実、ある日、唐突にマチルドは濁流に身を投じて自殺してしまいます。

しかし、それにしても「自分に関心をなくしたら」とは、相手にただ求めるだけの随分自分勝手な理屈ですよね。

対人関係の円滑を保つための精密さが求められる恋愛においては、時には自分の感情を抑えつけてでも相手の立場を優先させねばならない局面にしばしば遭遇し、またその調整を経験的に学んでいくことによって恋愛関係が日常性を獲得するものなのですが、この映画では、そうした愛憎のぶつかり合いは巧みに逸らされ、だから、何の前触れもなくと感じてしまうほどの「突然の」破局が描かれるのです。

あるいは、単純化して、その辺のごちゃごちゃの部分をすべて取っ払い、この映画を、一人の女性と出会ってから彼女が自殺してゆくまでを、ただ為すすべもなく傍観した男の話とでも要約したら、あるいは何かが見えてくるかもしれませんが、しかし、いずれにしても、それはあまりに孤独な人間関係(とさえ言えないかもしれないほどのもの)であることには変わりありません。

極論すれば、この映画に描かれている男と女の恋愛と同棲生活は、お互いが相手を実体として何も必要としてない、それぞれの自慰のような一方的な関係に思えるのです。

例えば、密かに慕う女を遠くから、ただ「のぞき見」ているだけで十分満足する「仕立て屋の恋」の延長線上の恋愛の形とでも言えばいいのでしょうか。

冒頭の女性評論家の嫌悪が、あるいは本能的にこのあたりに向けられていたのかもしれないと何となく思えてきました。
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by sentence2307 | 2005-02-22 23:42 | 映画 | Comments(0)

決戦の大空へ


日本映画専門チャンネルがこのところ放映している原節子主演映画の今月の8本は、もっとも終戦に近い時期に作られた戦意高揚映画です。

それらの8本の作品の封切り日をあげると、

①熊谷久虎監督の「指導物語」が1941年10月4日、
②山本嘉次郎監督の「希望の青空」が1942年1月14日、
③伏水修監督の「青春の気流」(脚本は黒澤明が書いています)が1942年2月14日、
④佐藤武監督の「若い先生」が1942年3月20日、
⑤島津保次郎監督の「緑の大地」が1942年4月1日、
⑥同じく島津保次郎監督の「母の地図」が1942年9月3日、
⑦今井正監督の「望楼の決死隊」が1943年4月15日、
⑧そして、渡辺邦男監督の「決戦の大空へ」が1943年9月16日

となっていますので、この8本のなかでは「決戦の大空へ」が、戦況の最も厳しくなっていた時期に撮られた作品ということができると思います。

この作品「決戦の大空へ」は、日本の敗色が濃厚になり始めていた戦争の末期1943年に、土浦海軍航空隊、あの「七つボタンは桜に錨」の予科練の生活を描いて大ヒットした海軍省後援の国策映画です。

もとより国民の戦意高揚をはかるために作られた映画だったのですから、その主たる目的は十分に果たしたといえるでしょう。

冒頭「撃ちてし止まん」の字幕で始まるこの映画には、中盤に挿入されている敵航空母艦に捨て身の体当たり攻撃を敢行し、ミゴト敵艦を撃沈させたという軍神たる卒業生の悲壮なエピソードを重要な完結点として設定して、その主題に向かって姉・原節子と弟の愛情深い成長物語が展開されていくのですが、しかし、ここで扱われている本当のテーマは、「少年兵の徴募」という差し迫った軍部からの要請のメッセージであり、もしこれが姉弟の成長物語を退けて危機感をただ煽るだけの露骨な強調に終始したミエミエの国策映画だったら、民意をこれほどまでに摑むことはできなかったでしょう。

きっと「予科練の歌」をなぞるだけの、それこそ眼を覆いたくなるような惨憺たる無味乾燥な宣伝映画で終わっていたと思います。

やたら景気のいいこの軍歌「予科練の歌」には、国家から早々に死ぬことを求められた若者たちの、開き直った捨て鉢な快活さと共鳴する何かがあったのだろうなと思いますが、しかしそれらに反して作品の中心に凛とした原節子の姉を据えたことによって、この映画が宿命的に負わされていたはずの、死の影に覆われた血と死の臭いのする自棄的で支離滅裂な「どろどろ」の噴出を「原節子」が抑え鎮めることができたのだと思います。

そういう原節子の存在のあり方に一種のカリスマ性を見て、当時多くの人々が彼女に神に仕える巫女を幻想したり、あるいは、「軍国の女神」などと命名した気持ち、なんか分かるような気がします。

映画史的にいえば、熊谷久虎の影響を考えるべきなのかもしれませんが。

そういえば、この映画の中に練習生のひとりとして、元気いっぱい「予科練の歌」を歌っている若き木村功の姿をみつけ本当に驚きました。

僕にとって、木村功といえば、まずは「真空地帯」を連想してしまうくらいなので、どうもこの元気いっぱい「予科練の歌」を歌い上げている練習生・木村功の姿にはちょっと違和感を覚えざるをえません。

戦後つくられた映画、あの軍隊内部で傷み付けられ傷だらけにされながら、それでも軍に反抗し続けた「真空地帯」の陰鬱な兵士の姿には反戦のイメージの方が強くて、どうしても「予科練の歌」にしっくりこないものがあったので、先日、酒の席でその違和感を友人に話したところ、むしろ逆に否定されてしまいました。

友人
「例えば、どう抵抗したって、あがらえるわけもない国家権力にねじ伏せられるのなら、既に死の領域に踏み込んでいた彼らにとって、せめて死んでいくための意義めいたものが欲しい、何かに縋りつくもの、拠り所のようなものが欲しかったのだと考えた方がむしろ妥当だ。
そんな当時の若者の前に、たまたまあったのが「予科練の歌」であり、「原節子」だったにすぎない。
そこに選択の余地など何一つなかったという事態は、なにも観客ばかりでなく演じる方だって同じだったはず。
戦前においても、また戦後、手の平を返すように民主主義の旗手めいた役を演じねばならなかった役者にとっても、重要なのは常に目の前の役を「演じること」であって、何かを「主張する」ことではなかったことと、それは符号する。
それを『時代に翻弄された』などというべきではない」
のだそうなのです。

かなり酔った状態での言葉の応酬だったので、それが木村功の話だったのか、原節子についてだったのか、時代に翻弄される国民や役者たち総体についてのことだったのか、醒めてみれば僕も友人も、何を話したのかさえもうほとんど覚えてない状態でしたが、しかしそれは出征していく若者たちの話でもあり、戦後「真空地帯」で兵士を演じた木村功という役者の話でもあり、「わが青春に悔いなし」で民主主義を貫いた女性を凛々しく演じた原節子についての話でもあった、つまりはそのすべてを包括した話だったのだと思いました。

それはまた、僕の長い間の疑問だった、病弱な弟を慈愛の眼差しで温かく見守る姉・原節子が、優しく励まし、諭し、叱咤して、「躊躇する弟」が象徴していた日本の若者たちに向けて戦場へ赴く決断を促し、立派な軍人として戦場へ送り出すという役を演じたそのたった3年後に、今度は「わが青春に悔なし」で民主主義の旗手を演じた「変節」の、その答えでもありました。

ひとりの女優の、その神がかった清純な魅力に導かれ、または心の拠り所にして戦地に赴き、散華して果てた兵士たちはもとより、残された家族の「原節子」観がどのようなものだったのか、あるいは、戦場で死に損ない、戦後の荒廃期を生き延びねばならなかった多くの兵士たちが、「わが青春に悔いなし」で民主主義の素晴らしさを大真面目に謳い上げる原節子を見て、どのような思いを持ったか、僕が想像していたよりも遥かに大衆は違和感なく原節子を受け入れたように見受けられます。

友人の示唆《役者にとって重要なことは、常に目の前の役を「演じること」であって、何かを「主張する」ことではなかった。その「演じた」ことを『時代に翻弄された』などというべきではない》がその答えだったように思いました。

(43東宝)製作・山下良三、演出・渡辺邦男、脚本・八住利雄、撮影・河崎喜久三、音楽・伊藤昇、作詞・西條八十、作曲・古関裕而、美術・安倍輝明、録音・片岡造、照明・横井総一、後援・海軍省
原節子、小高まさる、落合富子、英百合子、高津慶子、田中筆子、進藤英太郎、清水将夫、清川荘司、高田稔、河野秋武、西村慎、村田昌彦、津田光男、田中利男、大久保欣四郎、松尾文人、水間常雄、飯塚小三郎、木村功、高本勝彦、鈴木重則、横山昌良、花沢孝夫、岡田東作、丹羽薫、飛田喜三、武江義雄、黒川弥太郎、三谷幸子、里見藍子、
(10巻 2,448m 89分 白黒)
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by sentence2307 | 2005-02-20 08:58 | 映画 | Comments(107)

あまりにも愚かで、ザンパーノの大道芸の手伝いも満足に出来ずに落ち込んでいる失意のジェルソミーナを、道化のキ印は、「この地上で役に立たない物など何ひとつないさ。この石だって何かの役に立ってるんだよ」と、励ます場面があります。

ジェルソミーナが、初めて人間として扱われ、こんな自分も誰かのために役立つことが出来るのかと自信をもつ重要な場面です。

しかし、ジェルソミーナがやっと得ることのできたその「自信」が、こともあろうにザンパーノに向けられ、なんとか彼の役に立ちたいと思うその部分が、多くの人がこの映画に聖性を感じる所以かもしれないと感じることがあります。

ザンパーノにとっては、性欲の対象(それも「女」としてというよりも、まるで「便器」のような)でしかなかった自分をひとりの自立した女性としてザンパーノに認めさせようとまで決意させたこの希望に満ちたシーンが、やがてくるキ印殺害の衝撃を更に大きなものにしたのだろうと思います。

その無垢のゆえに、殺人というあまりにも残酷な出来事の衝撃に耐え切れず、心を閉ざし泣き続けるしかない廃人のように生きるジェルソミーナに手を焼いたザンパーノは、彼女をその場に置き去りにしたまま立ち去ります。

そして、ラストのあの映画史に残る名シーンです。

寒々しい海辺の町に流れてきた今ではすっかり老いさらばえたザンパーノは、そこで自分がかつて捨てたジェルソミーナがいつも口すさんでいた歌を耳にし、歌っている洗濯女に訳を尋ねます。

その女は、気のふれた乞食女が泣きながら惨めに死んでいったこと、それでも気分のいい時には、呟くようにこの歌を歌っていたのだと言います。

やがて夜更け、荒れすさみ、絶望の中で泥酔したザンパーノは、喧嘩の果てにさまよい出た夜の海岸で泣き崩れます。

人生を、ただ欲望と快楽にのみ空費し、あと僅かしか残されていない無意味な時間が残酷な罰のようにザンパーノにのし掛かってきます。

一瞬のうちに過ぎ去った人生という儚い時間に対しての驚愕と後悔。

そしてあまりにも大きすぎる失ったものへの恐れ。

途切れるように不意に終わるこのラストには、安易な救いなどどこにも見つけ出すことの出来ない、フェリーニの人間への突き放したようなやりきれない絶望感しか感じられません。

ザンパーノの死後も、あの洗濯女は、いつまでもあのメロディを口ずさむのでしょうか。

キ印もジェルソミーナもザンパーノも、そして彼らを知る総てのものが死に絶え、哀しいこの物語の記憶もやがて人々から失われても、ジェルソミーナが愛した美しく物悲しいあのメロディだけが、いつまでも人づてに空しく生き続けていくことの残酷を思うと、何だか胸苦しくてなりません。
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by sentence2307 | 2005-02-17 23:28 | 映画 | Comments(144)

幕末太陽傳

陰惨にしかなり得ないような廓噺なら、古典落語には幾らでもあります。

この作品でいうなら、佐平次は無一文の労咳病みで、その養生のため、舌先三寸で女郎屋に転げ込みますし、お茶挽き続ける老女郎は、その惨めさから逃れるために、馴染み客と心中未遂をしようとするし、また、末を誓った偽の起請文を何枚も書いて、客を自分に繋ぎ止めようとした性悪な女郎は、策謀が露見するに及んで、男たちからの報復の暴力を避けるために、自分の体が売り物であることを絶叫して危険から身を守ります。

話しそのものは、滅入るような陰惨なものなのに、しかし、これが、ただただ陽気な艶笑噺になり得てしまうのは何故だろうと考えました。

権力と金の力にものを言わせて民衆を抑え込みにかかる「おかみ」に対して、もとより、晴れがましい歴史にその名前を留めるはずもない庶民は、格式の、義理の、と肩肘張ったまやかしの生き方をこそ見透かして、自由気ままに洒落のめし、ごますり倒す諧謔の精神を唯一の抵抗の武器としたのだと思います。

そして、そこにこそ、川島雄三の映画にこめた魂が存在するのかもしれません。

深刻ぶらず、芸術ぶらず、壮大な権威をひたすら嘲弄して、馬鹿笑い振りまきながら、やがて、その笑いが、やりきれない自嘲に強張ってゆくとき、川島雄三の、卑力な庶民の遣る瀬無さをただじっと凝視することの残酷さと哀しみから、俳優たちを縦横にはしゃぎ廻らせれば廻らすほど、それとは裏腹に、鬱へと静かに滅入り込んでゆくどす黒い憤怒や怨情をも垣間見る気味悪ささえも感じてしまいました。

だからこそ、この傷だらけの無頼の徒・佐平次の放蕩三昧に打ち込む破れかぶれのひたむきな姿には、惨めさの中でとことん生き抜いてみせようとする逞しさが、そのまま痛ましい自堕落へと突き進んでいかざるを得ない自虐の、煌めくような捨て身の迫力へと繋がってゆくのだと思いました。

この頑ななまでに明るく生きようとした佐平次の中に、明るい風刺を込めた屈託ない川島雄三の賑やかしの魂と、日本の風土の暗闇に這いずり回る人間を溢れ出る活力の絶望的な逞しさで生かせてしまう今村昌平の粘っこさとがぶつかり合って、生きることへの執着と葛藤とが生々しく描かれるとき、僕たちは、映画に生涯を賭ける者たちの凄まじい執念のぶつかり合いを見、きっと終始圧倒され続けることとなるのだと思います。 
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by sentence2307 | 2005-02-17 00:08 | 映画 | Comments(0)

洲崎パラダイス・赤信号

食い詰めた男と女が行き場所を失い、切羽つまって、洲崎に流れてきます。

しかし、川向こう洲崎遊郭で働き口を見つけるまでの決心はつかないまま、女は橋のたもとの一杯飲み屋で働き、男は蕎麦屋の出前持ちになります。

離れ離れの生活を送るうちに、女は男との腐れ縁を絶つように電気屋の主人の囲われ者となり男の前から姿を消すと、一時は男も半狂乱になって女を探しますが、それもやがて諦めて仕事に精を出すうちに、飲み屋の亭主が昔の女に殺されるという事件が起こり、それをきっかけとなって再び女とよりが戻ります。

離れたりひっついたりしながら、男と女は誰もが今にも千切れそうな生活という一本の綱の上で危なっかしい世渡りを続けているのだと描かれます。

だが、この映画の本当の主人公は、むしろ、橋の袂に踏み止まる二人を絶えず脅かし続ける川向こう、洲崎パラダイスからの、堕ちる所まで堕ちて捨て身の逞しさで生きる様々な人間たちの、お祭り騒ぎのようなどよめきと賑わいです。

あの溝口健二の最期の作品「赤線地帯」は、奇しくもこの同じ年に撮られています。

地獄のような赤線の町から抜け出すためには、死ぬか気違いにでもならなければ駄目なのだと、売春制度の悲惨を憎悪を込めて告発したこの作品の悲惨な女たちの数々の運命が、まるで見本市のように蒐集されて描かれていく果てのラストで、ひとりのいたいけな少女が無理矢理塗りたくった厚化粧の中から、恐る恐る客に声をかける初店の鬼気迫る場面には、溝口の女性崇拝を基盤にした非人間的制度への怒りと怨念の告発が漲っていました。

しかし、過酷な運命に弄ばれ、されるがままになっている人形のような、どこまでも被害者でしかない溝口の描く女たちに比べると、川島雄三の描く女たちは、惨めな生活に絶望しながらも、だからこそ限られたその人生の、女として味わい得る快楽の悉くを享楽するために、露骨な欲情を押し隠すこともなく、とことん生き尽くそうとする貪欲な「人間の女」たちなのです。

思えば「幕末太陽傳」で、佐平次が、溢れ出る活力に任せて、はしゃぎ回り、暴れ回ったその後で、人知れず時折咳き込みながら見せた暗い不吉な表情が、彼のすぐ傍らにある死の存在を明確に仄めかすことで、作品自体に彫りの深いニヒリスティックな陰影を与え得て、物語に更に一層の豊かな奥行きを持たせることに成功し、また、それだけに観る者に強烈な印象を与えることが出来たのだと思うのですが、この「洲崎パラダイス・赤信号」における、佐平次のそうした「死」に見合うだけの謎といえば、それはきっと女(蔦枝)の「過去」の得体の知れなさではないでしょうか。

食い詰めた二人が洲崎まで流れてきて、橋の手前で躊躇する感じが何やら意味ありげなのです。

そして物語が進行するにつれ蔦枝が元娼婦だったらしいことが、周囲で取り交わされる会話や雰囲気で何となく分かり始めます。

そのことで、更に蔦枝の迷いも少しずつ分かり始めます。

食うためなら、少しの間、体を売ってもいいかも知れない、と考えたかも知れません。

彼女が、体を売ること自体に抵抗を持っていたとは考えにくいものがあります。

もしあるとすれば、亭主に対する遠慮だけだったのではないでしょうか。

ここで川島雄三が描いている蔦枝という女は、溝口健二の描いた日本の古い因習に囚われた痛ましい女たちとは、だいぶ様子が違います。

蔦枝には、そもそも性に対する罪悪感が全然ありません。

むしろ、蔦枝は、「洲崎遊郭」という解放区で性の魅力と自由さに再び魅入られ虜にされてしまうことを恐れているかのようにさえ思えてしまいました。

彼女が持て余しているのは、絶望的なくらいに生き生きとした彼女自身の「女であること」の決定的なバイタリティです。

ここまで書いてきて、この作品は、もしかすると売春防止法というものに対する川島雄三の意思表示だったのかもしれないと思えてきました。

もし金のために嫌々身を売らねばならない不幸な女が一人でもいるなら、売春防止法は有効であるという論理の裏側で、1人だけの男に独占されることを拒み、様々な男たちとの性交渉を通して自分の肉体が持つ官能の可能性の総てを欲望のままに享楽し尽くそうとする女がひとりでもいる限り、売春防止法は無効であるという論理も成り立つ可能性も在り得るのではないか、というような・・・。

この作品は、川島雄三の最高傑作です
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by sentence2307 | 2005-02-15 22:48 | 映画 | Comments(0)

風と共に去りぬ

この「風と共に去りぬ」について、こんなふうに、みんなよく言いますよね。

「日本じゃ食うや食わずでヒイヒイ言ってた時にアメリカじゃ、あんな凄い映画作ってた」って。

でも、あの映画、そんなに名作ですか? 

少しでも共感する部分があれば何とか理解もできるのでしょうが、全く駄目でした。

ほとんどの人が手放しで絶賛しているこの映画、どこがいいのかさっぱり分からないのです。

だいたい、このスカーレットという女、よく観ると実に嫌なタイプの女だと思いませんか?

美人であることを鼻にかけて、黒人奴隷をこき使い、傲慢な上にぞっとするほど身勝手で、取り巻きにご機嫌をとられている時はまだいいものの、自分以外の幸福そうなカップルを見ると、あからさまに嫉妬するばかりか、実際にその恋人を奪い取って、ざまあみろとほくそ笑み、また、その男が自分に対して関心を失ったことを知ると、「あんな男」よばわりをして打ち棄てる。

バトラーに対しても、さんざん怒らせておいて、別離がくると追いすがる。

何だか訳が分かりません。

自分が始終ちやほやされていなければ気のすまないヒステリー女の、打算とはいっても、極めて低次元の感情の動きしか描かれていないこの程度の映画と、そしてこんな女のどこに共感できますか。

ところが最近眼からウロコのコメントを女ともだちから入手したのです。

彼女いわく
「女は、スカーレットに自分を置き換えるのが好きなのよ。皆からちやほやされ、人の恋人を奪うくらいの傲慢さで、野性的な男をさんざん焦らせて求愛させるように仕向け、その後で棄てるの。」

唖然としました。

この一大巨編が、作品の質に関係なく、女たちの妄想によって支持され、歴史的な不朽の名作として映画史に定着してしまったのだとしたら、それこそ鳥肌が立つ程の嫌悪と恐怖とに襲われました。

それに較べたら、男たちが思い描く淫らな妄想の所産であるポルノの方が、まだまだ罪が軽いとおもいませんか。

きっと、男と女の、超えることの出来ない生理の違いを試すようなものが、この「風と共に去りぬ」の中に象徴的に潜んでいて僕の嫌悪感が、この作品を本能的に拒絶したんだろうな、とは思うのですが・・・。
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by sentence2307 | 2005-02-13 23:30 | 映画 | Comments(128)