世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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深川通り魔殺人事件

「復讐するは我にあり」以来、佐木隆三の犯罪ルポは、結構読んでいるのですが、この昭和58年に出版された作品「深川通り魔殺人事件」だけは、なぜか「積ン読本」のなかに収納しっぱなしになっていました。

実に20年以上も積んどいたというわけですよね。

でも、どうしても読むことができなかった理由というのは、至極明解です。

当時一歳と三歳の幼児をはじめ、通りすがりの女性ばかり数人を無差別に次々と柳刃包丁で刺していったという身の毛もよだつ残忍な通り魔事件で、そのあまりの惨たらしさと痛ましさとで、きっとこの本を手に取る気力さえなかったというのが本当のところだったろうと思います。

特に、裁判記録に書かれている幼児をメッタ刺しにした思わず目を背けたくなる具体的な描写は、二十数年という時間を経てもなお、その惨たらしさは読むに堪えません。

いつの間にか忘れていたのなら、そのまま忘れっぱなしにしておけばよかった悲惨な記憶を、なにもわざわざ、ほじくり繰り返すようしてまで読書をあえてしたのかというと、きっと読了しないかぎり本を処分することができない自分の愚かな習性というか単なる生活習慣みたいなものが、そうさせたのだと思います。

ホント馬鹿みたいな話なのですが、これでやっとこの本を棄てられるという哀しい滑稽さです。

しかし、この悲痛な読書に収穫がまったくなかったかといえば、傍線をひかずにはいられなかった箇所もありました。

これでも結構、最近は、この「傍線」というやつを頻繁にひいています。

でも、線をひきながら、頭の片隅では、こんなことをしていったいどうなる、という気持ちもあります。

本は読んでしまえば処分する、というのが僕の習慣なので、読了して、狭い納戸に収納するなどという本は、よっぽどでない限り、まずはあり得ません。

そんな本は、本当に例外的でほんの僅かな存在でしかありません。

だから、読みながらせっせと本に線を引く行為と、読了後、ほとんど読み返すこともなくすぐに処分してしまうという行為が直結しているので、読書しながら傍線をせっせと引くという行為は、考えてみれば実に無意味な行為です。

それでも、この「線を引く」という行為を止みがたくさせているものが何なのか、自分でも本当にワケが分からなくなることが、しばしばあります。

抜書きしてもメモをなくしてしまう、あるいはメモした場所自体を失念してしまう、書き込んだファイルがウイルスなどで失われるなんてのはまだ序の口の方で、その書いた行為自体を記憶に留められないまま抜け落としてしまうなんてことも、ホント冗談でなくあったりするのです。

そこで考えました。

このブログに書き込んでおけば、もちろん無くなるはずもないし、見たいときには見られるしで、壊れる心配もない。

本当にいいことずくめなのです。

そこで上述の本の傍線をほどこした部分を抜書きしておきます。

*過去の著名事件の精神鑑定主文*

《阿部定事件》 昭和11年5月
現在における被告人の精神状態は、生来性変質性の性格異常が幼時よりの環境によりはなはだしく助長せられたるものにして、精神的身体的にヒステリー的特徴を呈し、かついちじるしき性的過敏症(淫乱症)を有するものなり。ただし性格異常の程度は高度ならず、したがって心神喪失または心身耗弱の程度にあらず。(鑑定人・松村常雄)

《帝銀事件》 昭和23年1月
本件発生当時の被告人の精神状態は、大正14年に受けた狂犬病予防注射によって起こった脳疾患の影響による異常性格の状態で、その特徴は顕揚性ならびに発揚性精神病質に相当するもので、その最も前景に立つ現象は欺瞞虚言癖と空想性虚言癖である。ただしその程度は、自己を統御する能力のいちじるしく減退した状態といえるほど、高度のものではなかった。(鑑定人・内村祐之、吉益脩夫)

《金閣寺放火事件》 昭和25年7月
本件犯行当時およびその前後における、被告人林養賢の精神状態は、本鑑定期間ないしその平生と大差なく、軽度ではあるが性格異常を呈し、「分裂病質」と診断すべき状態にあったと推定される。本犯行は同症の部分現象たる、病的優越観念に発するものである。(鑑定人・三浦百重)
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by sentence2307 | 2005-05-30 23:30 | 映画 | Comments(119)

噂の娘

映画の解説書を座右に置いて、ことあるごとに繰り返し読み込みながら、既に見た作品や未見の作品のあれこれを考えて、ぼんやり時間を過ごすのがとても好きなタイプなので、そんなふうにお世話になっている解説書の悪口を言うのはちょっと気が引けるのですが、成瀬巳喜男作品「噂の娘」35を見たあとで、成瀬巳喜男の描く独特の低迷感というか、失墜感の魅力に浸っているとき、ある解説書で「この作品は、チェーホフの『桜の園』にヒントを得た作品である」というなんとも味気ない一文に接して、随分と興ざめしてしまったことを覚えています。

そうなんですよね、そう言われてみればチェーホフの「桜の園」に描かれているあの生活能力のない没落貴族たちが、現実から目をそむけ、ただ過去の栄光にすがりついて夢見るように生きているだけのマヤカシが、「ある事件」を契機にして、自分たちがこの現実社会には居場所のない既に葬られている階級にすぎないのだと思い知らされる残酷さに、この成瀬作品「噂の娘」は、雰囲気的にとてもよく似ていることに気がつきました。

しかし、そんな「知識」を知らされること自体、大きなお世話だという気もします。

そのときまで僕が感じていた成瀬作品全体を包み込んでいた不思議な下降感が、単なる「桜の園」のコピーだったのかという余計な予備知識によって、随分と感興をそがれ、また少なからず落胆したことも事実でした。

混沌として作り出される作品群を、ある基準に基づいて分析し、分類して、整然と体系化することが学問とか「知識」というものなのでしょうが、そんなふうに無理やりひとつの価値体系のなかに組み込むことによって失われてしまうものが、きっと随分たくさんあるのだろうなという気がします。

少なくとも「桜の園」の影響を知らないでいた方が、この「噂の娘」の作品のもつ滅びゆくものの気品とか佇まいとかが、もっとよく見ることが出来たかもしれません。

そして、この作品「噂の娘」は、マイナーな意味で翌年に撮られる溝口健二の「祇園の姉妹」と比較されることの多い作品です。

例えば、こんなふうにでしょうか。
「伝統的倫理に殉ずる古風な姉と、反抗的に現代に脱出しようとする(旧弊を捨てて現代的であろうとする)妹との対照は、翌年の溝口健二作品『祇園の姉妹』を予感させながら、滅びゆく旧時代への叙情に終わって、溝口的衝撃力を持たなかった。」

しかし、僕には、この作品「噂の娘」と「祇園の姉妹」を比較すること自体に無理があるように思えてなりません。

だいたい、あの溝口作品が持っている旧時代や社会に対する限りない敵意と怒りを、この「噂の娘」に求めること自体、意味がないように思えてしかたないのです。

むしろ、この作品は、失われゆく旧時代・失われゆく人情を悲しみをもって惜しんでいる作品だからです。

きっとそれは、長女・邦江が温かく見つめる父親とその妾の描き方に、成瀬巳喜男の視点が端的に示されているからでしょうか。

父親は養子に入った老舗の酒問屋の本妻(既に故人として描かれています)と馴染むことができず、そとに妾をつくって、その妾・お葉に居酒屋をやらせています。

養子であることに遠慮もあって妾を本妻になおして家に迎え入れることを躊躇している父の気持ちを察し、長女・邦江は、お葉を家に迎え入れてあげるためには、多少意に沿わなくとも嫁ぎ先を早く決めて自分から家を出て行かなければならないと考えています。

この娘=父=妾が、それぞれを思いやり、遠慮し、感謝しながら固い絆で結ばれているこの人間関係を核として物語は展開します。

しかし、血の繋がった家族をひとつにしてあげたいという姉の思いをよそに、旧時代のしきたりをことごとく蔑む現代娘の妹・紀美子は、実の母とも知らず「妾」という存在に蔑みの言葉を吐きかけ、その辛らつな悲しい言葉に邦江が微妙に表情をくもらせる繊細な場面を撮った成瀬の眼差しには、同じ年に撮られた日陰の女を温かく見据えた「妻よ薔薇のやうに」に極めて近しい視点を感じます。

その意味でなら、この作品は、あの溝口作品とは、正反対の方向を向いている、むしろ対極に位置する作品というべきなのかもしれませんね。

(35PCL)監督脚本・成瀬巳喜男、撮影・鈴木博、美術・山崎醇之輔、録音・道源勇二、音楽・伊藤昇、
出演:汐見洋、御橋公、千葉早智子、梅園龍子、伊藤智子、藤原釜足、大川平八郎、
1935.12.22 日本劇場、7巻 1,502m 55分 白黒
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by sentence2307 | 2005-05-28 10:41 | 映画 | Comments(117)

わが愛は山の彼方に

ここのところ「日本映画専門チャンネル」で、この豊田四郎監督作品「わが愛は山の彼方に」48が繰り返し放映されていることは知っていました。

成瀬監督作品「白い野獣」を見たばかりだったので、三浦光子という女優のもっと違ったタイプの作品を見られることを楽しみにしていて、「わが愛は山の彼方に」は是非とも見ておきたい1作でした。

そんなわけで気にかけてはいたものの、片方で、いずれフィルムセンターの「豊田四郎監督特集」でも見るチャンスがあるだろうという軽い思い込みがあって、格別チェックするということもなく遣り過ごしていたのでした。

ところが、つい最近何気なくフィルムセンターのプログラムを見返していてびっくりしました。

今回の豊田四郎監督特集として上映される42作品の中には、この「わが愛は山の彼方に」が含まれていないことがわかり、慌てて録画、かろうじて見ることができました。

ああ、よかった。

フィルムセンターの上映予定表では、1941年製作の「若き姿」から、一挙に1950年作品の「女の四季」に飛んでいます。

この時期、おそらく豊田監督の撮影本数が少ないということもあったかもしれませんが、「わが愛は山の彼方に」が省かれていたことには、不意をつかれた感じでちょっと意外でした。

しかしまあ、冷静に考えてみれば、50年代から60年代にかけての豊田四郎監督のピークにおける充実した作品群をひとつひとつ押さえていけば、当然「42作品」という枠からはみ出していく作品もあるわけで、それが40年代以前の幾つかの作品に跳ね返ってしまうのは、やはり致し方のないことかもしれませんね。

この作品「わが愛は山の彼方に」を見ようとした目的のひとつには、三浦光子という女優の演技がみたいという思いが念頭にあったのですが、その演技の凡庸さと、何の工夫もないきんきん声には少なからず落胆させられてしまいました。

それに引き換え、医師をひそかに慕う看護婦の役を演じた中北千枝子のひたむきな演技には衝撃をうけました。

彼女が、こんなにも艶っぽく生々しい「女」を演じ切った作品を、僕は他に見たことがありません。

理想に燃えた若い医師夫婦(池部良と三浦光子)が、東北の辺境の村の診療所に赴任してくるところからこの物語は始まります。

満足な医療施設がないことに加え、貧しさと迷妄に囚われている村民にとって「肺病=結核」と宣告されることは、村という共同体のなかの居場所を失うということを意味しています。

それは例えば、「わが青春に悔いなし」で、左翼思想のために検挙され獄死した息子の実家が、村中から八部にあって無視されるという厳しく描かれていた場面などよりも、はるかに貧しい農民にとってはリアルな問題だったろうと思います。

つまり「結核」の罹病を暴かれ公表されるという集団検診の方が、村民にとっては深刻な問題を孕んでいたということが、幾つかの痛ましい自殺のエピソードを描きこむことによってさり気なく、そして切実に示唆されていたと思います。

貧しい農民に近代医療の必要性を啓蒙し、自分が病気(結核)であることをこそこそと隠すよりも、堂々と結核に立ち向かい打ち勝つべきだという骨太のドラマの支柱に並び立つように描かれているのが、若き医師・池部良と看護婦・中北千枝子の官能的に描かれる清らかで狂おしい交情の場面です。

医師の妻が健康を害して里帰りしている独居に花を届けに来た看護婦は、医師のノートの片隅に走り書きした自分の名前を見つけてしまいます。

医師の彼女に対する熱い思いが、彼女の中のなにかとも確実に共鳴し、怯えるように彼の部屋から立ち去ろうとするときに彼に呼び止められ、躊躇しながら少しずつ彼の傍まで近づいていく場面です。

丹念に描かれているこの短い場面に、彼女が戸惑いながら、その抑制された感情が徐々に崩れ、もしいま求愛されたら抱かれてもいい、という熱い思いに徐々に満たされていく女の官能の高揚が細かい仕草のなかで悉く描き尽くされていました。

そして続く彼の妻の影に怯えながら、必死に彼への熱い思いを抑えつける小川の畔の美しい場面は、いままで見た女優・中北千枝子の最良の演技だと確信しました。

(48東宝)監督・豊田四郎、製作・田中友幸、脚本・山形雄策、撮影・三浦光雄、音楽・早坂文雄、美術・久保一雄、録音・長岡憲治、照明・田畑正一、原案・伊藤貞助

出演・池部良、三浦光子、志村喬、中北千枝子、河野秋武、小杉義男、河崎保、下条正巳、谷間小百合、三浦和子、岩田祐吉、中村栄三、鈴木左衛門、久松保夫、藤間房子、菅井一郎、久我美子
モノクロ、102分1948.05.25 10巻 2,772m 白黒
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by sentence2307 | 2005-05-22 23:33 | 映画 | Comments(5)


いままで本編を見ることができないままで、ただ重厚な予告編を繰り返し見せられ続け、どんなに素晴らしい映画なのかという思いだけが勝手に募って期待がひたすら肥大しながらも、「まだ見ていない」という欲求不満のためにどうにかなりそうな切迫感の一歩手前、もう見る以外に気持ちの落ち着かせようがない所まで追い詰められてしまうみたいな経験をしたことってありませんか。

僕にとって、そういう作品のひとつが、森谷司郎監督の「首」でした。

とにかく、こんな物凄い予告編を持つ本編なら、僕のささやかな経験からしても傑作とか名作とか思って一向に差し支えないという感じです・・・と思っていたところ、それもそのはず、スタッフを見て驚きました、これってそのまんま黒澤映画じゃないですか。

なんか見る前から超弩級の期待感で煽られ、闇雲に高揚させられ、いよいよ見られるぞという時になると、こめかみは疼くわ、高まる動悸で胸のあたりは苦しくなるわ、呼吸は乱れるわで、僕的にはそれはもう大変なパニックでした。

たとえば予備知識や思い入れなどない無名の映画を何気なく見ていくうちに、じわじわと感動に囚われていくというタイプの映画経験も、それはそれなりにファンタスティックで素晴らしいのですが、予備知識も期待も十分にあって、しかもその期待感に100%も200%も応えてくれる映画との出会いの方が、それはもうマニアにとっては官能的なまでにこたえられない快楽なのは至極当然なのです。

しかし、その大いなる愉しみの裏には、それが裏切られたときの「ショック大」というリスクが伴っていることもまた覚悟しなければならないかもしれません。

この物々しいタイトルの「首」という映画は、僕にとって、その「覚悟」を思い出さなければならない残念な映画でした。

重厚な映像は、酔いしれるほどの素晴らしさに満ちているのですが、しかし、そこで語られている「執念の物語」は、どこまでも映像と噛み合うことのないまま無残な空回りを見せて、後味の悪さだけを残した不完全燃焼で終わってしまった感じです。

この映画の核心は、巨大な警察権力・検察権力相手に孤軍奮闘する弁護士の「執念」の意味を、きっと僕たちがどこまで辿ることが出来、そして理解できるかに掛かっていたのだと思います。

この映画には、権力の暴力によって為された拷問死という「権力犯罪」を、当事者たる警察・検察当局が隠蔽し、隠されたその不正な事実を暴くために果敢に国家権力に挑んだひとりの弁護士の、孤独にして壮絶な戦いが描かれています。

これはご存知、正木ひろしの原作が映画のベースになっていて、数々の冤罪事件に取り組んだことで有名なこの弁護士・正木ひろしの名前は、門外漢の僕ですら知っていたくらいですから、まさにこの作品は、「市井に生きる無力な人々の濡れ衣を晴らすために、権力に果敢に抗した正義の弁護士」というイメージを基にして作られた映画なのでしょう。

きっと、そこには、今井正監督の「真昼の暗黒」が、大きく影響しているのだと思います。

しかし、あの今井作品は、虚言癖のある犯人によって共犯と名指しされ、さらに理不尽な拷問によって一度は自白までさせられた被告たちの冤罪を晴らすという弁護士の活躍を描いた映画です。

そう考えれば、この作品「首」は、「真昼の暗黒」が描こうとしていたものとは、ちょっと意味合いを異にするかもしれません。

鉱夫の不可解な死(実は拷問死)から始まるこの事件が、弁護士に持ち込まれた理由というのが、殺された被害者自身の感情に繋がる部分(恨みとか無念を晴らしたい)は極めて希薄で、実は、鉱夫たちもまたかつて警察による厳しい拷問で痛みつけられた苦い経験があり、その忌まわしい記憶を、今回の不可解な同僚の死に繋ぎ合わせて、殺された同僚の恨みを雪ぐというよりも、いつか自分たちもまた警察の拷問によって殺されるのではないかという自身の切実な「怯えと恐怖」によって、この事件は弁護士に持ち込まれています。

きっとこの映画を見た多くの人は、物語が進行していくなかで、被害者の死が、「人間の死」というよりも、単なる「死の因果関係」をあれこれ辿っただけの、いってみれば「人間性のドラマ」からは遥かに遠い「当てもの」ゲーム的な混乱と、奇妙な迷走を体験させられてしまうかもしれません。

その違和感が何に起因するか、それは明確にこの映画の中に書き込まれていると思います。

僕は、この少し前で、「この映画の核心は、巨大な警察権力・検察権力相手に孤軍奮闘する弁護士の『執念』の意味を、きっと僕たちがどこまで辿ることが出来て、そして理解できるかに掛かっている」と書きました。

この映画を見て真っ先に印象づけられるものは、まさに「執念」です。

しかし、その執念がどういうものなのか、この映画の中で十分に掘り下げられているかといえば、それは疑問です。

あるいは、「執念」を「正義感」と同義のものと最初から妄信している部分が、この映画に、もうひとつ意気の上がらない沈滞と、無残な凡庸さをもたらしているのだと思います。

「弁護士」もまた、「裁判官」や「検察官」と対等の場所で対峙するもうひとりの権力者(あるいは志向者)であることを忘れるわけにはいきません。

この視点が欠けてしまえば、そこには人間的な魅力に欠けるただの「愚鈍な正義の味方」しか存在しません。

まがりなりにも単身で、非情で巨大な強権に歯向かおうとするのですから、歯向かうだけの意味やメリットを納得させられなかったら、この映画は人の心に届く映画にはなり得ません。

ある価値観・功利観に支えられ、欲もあり、またある程度の狡猾さで武装した生身の人間が描かれない限り、それはただの嘘っぽい美談でしかないでしょう。

おそらく僕を落胆させたものも、きっとこの辺りの人物設定の掘り下げの不十分なところにあったのだろうなと、なんとなく感じています。

もし黒澤明なら、権力悪をひたすら憎み、弱きもの、権力者から虐げられた者たちへの限りない愛情と怒り、国家権力に挑む正義感とともに、著名事件の弁護ばかりを引き受けて売名行為に躍起になっている「もうひとつの権力志向者」=弁護士という職業の密かな毒を人間的な魅力として、こっそりと仕込んだに違いないという気がしてなりません。

(68東宝)監督・森谷司郎、製作・田中友幸、脚本・橋本忍、撮影・中井朝一、音楽・佐藤勝、原作・正木ひろし、美術・阿久根巌、編集・岩下広一、録音・矢野口文雄、スチール・中尾孝、照明・森弘充、
出演:小林桂樹、神山繁、南風洋子、佐々木孝丸、清水将夫、古山桂治、鈴木良俊、下川辰平、宇宇留木康二、鈴木治夫、小川安三、加藤茂雄、三津田健、大久保正信、北竜二、辻伊万里、今福正雄、加藤和夫、灰地順、館敬介、木崎豊、渋谷英男、権藤幸彦、池田生二、小沢憬子、大滝秀治、寄山弘、榊田敬二
1968.06.08 7巻 2,732m 白黒
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by sentence2307 | 2005-05-21 18:39 | 映画 | Comments(179)

別にギンギンの巨人ファンてなわけでもないし、これじゃなきゃ嫌だなんていうコダワリとか義理とか、そういうものがあるわけでもないのですが、洗剤片手のコワモテの新聞勧誘員サンなんかに「読売新聞」の購読をなぜ変えないのかという理由を聞かれたりすると、昔からこう答えることにしています。

「だってさ、あそこの人生相談って、チョー面白いんだヨー」

半分は本気です。

本人にとっては、物凄く深刻なことでも、第三者にはそうでもないことが結構あるものですし、「なんでそんなことで悩むわけ」みたいな。

そうでなくとも他人の不幸は、どことなく人を爽やかで快活な気分にしてくれるものですよね。

朝にはそういう気持ちになることはとても大切で貴重なことですし、ズバリ、それが人生相談を読むという効用です。

たとえば、同じ家の嫁と姑が、それぞれ投書したんじゃないかと思うくらい、立場は違うものの、まったく同じシチュエーションの相談もあったりして(くたばりぞこないのクソババア対ぐうたらの性悪バカ嫁の悪口雑言の応酬です)、答える側も相当意志強固な一貫性を持っていないと、振り回された挙句にどっちつかずの矛盾した答えを発してしまいかねず、ついに馬脚を現すなんて事態を招いてしまうかもしれない、相談者を試すような、かなりヤバイ相談もあったりします。

それは、きっとエエカッコシイが、奇を衒った逆説を駆使して模範解答を出そうとすることのリスクとでも言うべきものかもしれません。

しかし、それはどうあれ、模範解答なんてものを読ませられる不愉快に比べたら、珍妙な悩み事に悶え苦しんでいる質問者の方にたまらない愛苦しさを感じてしまい、ついつい微笑で読み耽ってしまうなんてことがしばしばあります。

「おいおい、お前ねえ、『世界の中心で、愛をさけぶ』から、どんどん遠去かってんじゃねえの? なんなんだよ、人生相談てよ。わけ分かんねえよ!」

「いえいえ、これでかなり近づいてきているので、安心してください。もう少しの辛抱です。」

しかし、どことなく余裕でユーモアを感じさせる相談なら、まだしも救いはあるのでしょうが、なかには本当にシビアなものがあったりします。

たとえば、「結婚したけれど、昔の恋人がどうしても忘れることができない。夫(あるいは妻)の顔を見るのも嫌だ」という相談です。(ほらね、行き着いたでしょう!?)

物凄い悲恋を描いているこのラブ・ストーリー「世界の中心で、愛をさけぶ」が、たとえば「愛と死をみつめて」なんかと、決定的に違うところは、きっとこの「後ろ向き」の部分だろうと思います。

実らずに終わった恋、死んでしまった恋人、取り返すべくもない過去、もうどうしようもないものなのに、そうと分かっていても振り返らずにはいられない心理とは、いったいどういうものなのかと言えば、それは、現実と真っすぐに向かい合えない弱さ、現在の自分のすべてに確信が持てないということの逃げの姿勢のような気がします。

死者の声に聞き入って安らぐことの裏側には、同時代を生きている者たち・人間たちに対して、優しさを伝えることがどうしてもできない魂の不具を感じずにはいられません。

いまを生きている者たちにこそ、もう少し優しくしてあげられる勇気が持てたら、あるいは、もっと違ったラブ・ストーリーが書けるのかもしれませんよね。
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by sentence2307 | 2005-05-15 23:45 | 映画 | Comments(1)
【駅前旅館】
東京・上野の老舗旅館を舞台に、駅前の浄化運動に乗り出す番頭(森繁久弥)、ライバル旅館の番頭(伴淳三郎)、料理屋の女主人(淡島千景)といった芸達者たちが繰り広げるにぎやかな風俗コメディ。この作品は、東宝の稼ぎ頭の一つとなった「駅前」シリーズの記念すべき第1作。
(58東京映画)(監督)豊田四郎(原作)井伏鱒二(脚本)八住利雄(撮影)安本淳(美術)松山崇(音楽)団伊玖磨
(出演)森繁久彌、フランキー堺、伴淳三郎、淡島千景、草笛光子、淡路惠子、藤木悠、多々良純、左卜全、森川信、山茶花究、三井美奈、浪花千栄子
(109分・35mm・カラー)

【花のれん】
昭和初期の大阪。呉服屋をたたんで寄席の経営に乗り出した女(淡島千景)は、惚れた男(佐分利信)への気持ちを必死に打ち消しながら、仕事一筋に生きて成功する。直木賞を受賞した山崎豊子の小説の映画化で、全篇にわたり淡島の堂々たる演技を味わうことができる。
(59宝塚映画)(監督)豊田四郎(原作)山崎豊子(脚本)八住利雄(撮影)安本淳(美術)伊藤熹朔(音楽)芥川也寸志
(出演)淡島千景、森繁久彌、石浜朗、花菱アチャコ、乙羽信子、佐分利信、浪花千栄子、飯田蝶子、司葉子、万代峯子、田村楽太、山茶花究、頭師孝雄、環三千世
(129分・35mm・白黒)

【男性飼育法】
円満かと見えた3組の夫婦に、土地や料理屋経営をめぐって突然湧き起こった大騒動。それを収めようとする3人の妻は、ギリシャ古典劇にヒントを得て、セックス拒否作戦で夫たちをやりこめる。演劇の先生に美術の伊藤熹朔(俳優千田是也の兄)が扮しているのも珍しい。
(59東京映画)(監督)豊田四郎(原作)三宅艶子(脚本)八住利雄(撮影)安本淳(美術)伊藤熹朔(音楽)芥川也寸志
(出演)森繁久彌、淡島千景、花菱アチャコ、淡路恵子、小林桂樹、水谷良重、八波むと志、由利徹、南利明、都家かつ江、菅井きん、横山道代、荒木道子、三宅艶子、石山文恵、伊藤熹朔、市原悦子、細川俊夫
(103分・35mm・カラー)

【暗夜行路】
自らの不義の出生を知り、妻(山本)の過ちにも悩む青年・謙作(池部)が、妻を捨て去り、心にわだかまりを抱えながら旅に出る。志賀直哉の名作の映画化だが、原作に忠実なだけに、かえって志賀が心を砕いた人間の内面描写を映像にすることの難しさも現れている。
(59東京映画)(監督)豊田四郎(原作)志賀直哉(脚本)八住利雄(撮影)安本淳(美術)伊藤熹朔(音楽)芥川也寸志
(出演)池部良、淡島千景、仲代達矢、山本富士子、千秋実、杉村春子、中村伸郎、北村和夫、仲谷昇、汐見洋、三津田健、賀原夏子、長岡輝子、荒木道子、南美江、市原悦子、岸田今日子、小池朝雄、天津敏
(140分・35mm・白黒)

【珍品堂主人】
「珍品堂」と呼ばれた骨董の鑑定人(森繁久弥)のもとにやってくるがめつい人間たち。井伏鱒二の原作は、転業を重ねて骨董屋になった男の生き方を追っているが、映画の方は、実業家(柳永二郎)ややり手の経営者(淡島千景)など、欲深い連中との駆け引きに焦点を当てている。
(60東京映画)(監督)豊田四郎(原作)井伏鱒二(脚本)八住利雄(撮影)玉井正夫(美術)伊藤熹朔(音楽)佐藤勝
(出演)森繁久彌、淡島千景、淡路恵子、小林千登勢、峯京子、乙羽信子、髙島忠夫、東野英治郎、山茶花究、有島一郎、柳永二郎、千石規子、都家かつ江、横山道代、市原悦子、林寛、古今亭今輔
(120分・35mm・カラー)

【濹東綺譚】
玉の井の私娼街で、虚無的な空気をまとった教師・種田(芥川)と、娼婦・お雪(山本)が出会う。二人は仲を深めながら新しい所帯を夢見るが、その恋路は病とともにはかなく終わる。荷風没後1周年を記念した文芸大作で、五社協定の例外として大映の山本富士子が起用された。
(60東京映画)(監督)豊田四郎(原作)永井荷風(脚本)八住利雄(撮影)玉井正夫(美術)伊藤熹朔(音楽)団伊玖磨
(出演)山本富士子、芥川比呂志、新珠三千代、乙羽信子、淡路惠子、東野英治郎、中村伸郎、宮口精二、織田政雄、中村芝鶴、岸田今日子、日髙澄子、髙友子、長岡輝子、賀原夏子、原知佐子
(120分・35mm・白黒)

【東京夜話】
資産家の父(芥川比呂志)を持つ身分と、欺瞞に満ちた大人たちへの反感との間で悩む学生(山崎努)の前に立ちはだかるのは、父の愛人であるバーのマダム(淡島千景)であった。この作品を見た黒澤明が、後に「天国と地獄」の主演に山崎努の起用を決めたとも言われている東京映画100本記念作品。
(61東京映画)(監督)豊田四郎(原作)富田常雄(脚本)八住利雄(撮影)玉井正夫(美術)伊藤熹朔(音楽)芥川也寸志
(出演) 芥川比呂志、山崎努、淡島千景、乙羽信子、団令子、岸田今日子、森繁久彌、有島一郎、フランキー堺、富田恵子、丹波哲郎、中村伸郎、名古屋章、馬渕晴子、原知佐子
(108分・35mm・白黒)

【明日ある限り】
戦争の時代を背景に、先天性の白内障患者として生まれた娘の成長を見守る両親(香川京子・佐野周二)と兄姉の17年間を繊細に綴った壺井栄文学の翻案。「若大将」シリーズで人気を獲得しはじめた星由里子が、成長した盲目の娘を好演している。
(62東京映画)(監督)豊田四郎(原作)壺井栄(脚本)八住利雄(撮影)岡崎宏三(美術)中古智(音楽)林光
(出演)佐野周二、香川京子、山崎努、池内淳子、星由里子、杉村春子、浪花千栄子、千秋実、乙羽信子、清水喜代子、稲垣隆、水野久美、北村和夫、伊藤幸子、荒木道子、南美江、加藤治子、一竜斎貞鳳
(113分・35mm・白黒)

【如何なる星の下に】
おでん屋のぐうたら亭主(加東)のもとに生まれた三姉妹の幸薄い行く末を、ブラックな喜劇性も加味して描く。八住は原作の背景となった昭和初期の浅草を戦後の築地・佃に置き換え、都市開発で埋め立てられた築地川の最後の姿などは東京の貴重な映像資料にもなっている。
(62東京映画)(監督)豊田四郎(原作)髙見順(脚本)八住利雄(撮影)岡崎宏三(美術)伊藤熹朔(音楽)平岡精二
(出演)山本富士子、池部良、森繁久弥、加東大介、池内淳子、三益愛子、淡路恵子、大空真弓、乙羽信子、植木等、西村晃、山茶花究、北あけみ
(117分・35mm・カラー)

【憂愁平野】
それぞれ未知の異性に惹かれてしまった夫婦を通じて、「家庭」という場の危うさを描いた井上靖の新聞小説の映画化。フリーランス宣言をして本作に出演した山本富士子が大映社長・永田雅一の怒りを買い、これを最後に映画界引退に追い込まれたいわくつきの作品である。
(63東京映画)(監督)豊田四郎(原作)井上靖(脚本)八住利雄(撮影)岡崎宏三(美術)伊藤熹朔(音楽)団伊玖磨
(出演)森繁久彌、山本富士子、新珠三千代、浪花千栄子、仲代達矢、長門裕之、大空真弓、乙羽信子、久里千春、若宮忠三郎、桜井浩子、中谷一郎
(114分・35mm・カラー)

【台所太平記】
原作は、谷崎潤一郎が、自分の家で働いてきた歴代のメイドたちを素描したエッセイ的な小説。作家夫婦に森繁=淡島の黄金コンビを迎え、東宝が誇るスター女優を入れ代わり立ち代わり配した豪華な軽喜劇。変人の家政婦を演じた淡路恵子の怪演も見逃せない。
(63東京映画)(監督)豊田四郎(原作)谷崎潤一郎(脚本)八住利雄(撮影)岡崎宏三(美術)伊藤熹朔(音楽)団伊玖磨
(出演)森繁久弥、淡島千景、団令子、乙羽信子、淡路恵子、フランキー堺、三木のり平、池内淳子、中尾ミエ、大空真弓、水谷良重、京塚昌子、森光子、山茶花究、西村晃、松村達雄、小沢昭一、飯田蝶子
(110分・35mm・カラー)

【新・夫婦善哉】
傑作「夫婦善哉」から8年、その後日談ともいえる本作でも森繁久弥と淡島千景は息の合った演技を見せ、とりわけ中年にさしかかった森繁のダメ男ぶりが加速する。前作で三浦光雄の生み出した白黒撮影の美は、岡崎宏三に受け継がれた。
(63東京映画)(監督)豊田四郎(原作)織田作之助、上司小剣(脚本)八住利雄(撮影)岡崎宏三(美術)伊藤熹朔(音楽)団伊玖磨
(出演)森繁久彌、淡島千景、淡路恵子、浪花千栄子、小池朝雄、山茶花究、三木のり平、八千草薫、中川ゆき、田中春男、藤田まこと、八代万智子、辻伊万里、安達國晴、若宮忠三郎、松村達雄
(118分・35mm・白黒)

【喜劇 陽気な未亡人】
突然亡くなった夫(フランキー)が、残された妻・圭子(新珠)が周囲の未亡人たちに励まされ、元気を取り戻すのを見て安心して成仏してゆく。フランキー堺は夫の幽霊役の他、妻の新しい恋人、指圧の先生など少なくとも6役はこなしている。
(64東京映画)(監督)豊田四郎(脚本)八住利雄(撮影)岡崎宏三(美術)伊藤熹朔(音楽)団伊玖磨
(出演)フランキー堺、新珠三千代、望月優子、岸田今日子、水谷良重、中尾ミエ、坂本九、淡島千景、乙羽信子、池内淳子
(98分・35mm・カラー)

【甘い汗】
暑苦しい家にひしめく大家族を一人で養ってきたが、間もなく中年にさしかかる水商売の女・梅子(京マチ子)。酔っ払いの母に反発した娘(桑野みゆき)は堪えられず家出を試みるが…。生命力あふれるキャラクター像を生み出す豊田演出の精髄が発揮されている。
(64東京映画)(監督)豊田四郎(原作脚本)水木洋子(撮影)岡崎宏三(美術)水谷浩(音楽)林光
(出演)京マチ子、佐田啓二、池内淳子、桑野みゆき、小沢栄太郎、山茶花究、名古屋章、小沢昭一、市原悦子、木村俊恵、桜井浩子、川口敦子、千石規子、沢村貞子、春風亭柳朝、若宮忠三郎
(119分・35mm・白黒)

【波影】
娼家でただひたすら人に尽くし、愛を与え続けて死んだ娼婦・雛千代(若尾)。その家の娘(大空)は、遺骨を彼女の生まれた寒村へ送り届けようとする。日本海的情念の渦巻く水上勉世界の映画化で、岡崎宏三が自らの白黒撮影の代表作として挙げた一本。
(65東京映画)(監督)豊田四郎(原作)水上勉(脚本)八住利雄(撮影)岡崎宏三(美術)伊藤熹朔(音楽)芥川也寸志
(出演)若尾文子、中村賀津雄、大空真弓、乙羽信子、浪花千栄子、沢村貞子、春川ますみ、山茶花究、三島雅夫、太刀川寛、田武謙三、柳家小せん、深見泰三、大辻伺郎、ロミ山田、木村俊恵
(107分・35mm・白黒)

【四谷怪談】
豊田の最初で最後の時代劇。亭主に殺されてこの世に未練を残すお岩(岡田)よりも、むしろ貧困から抜け出そうとする伊右衛門(仲代)の人間像に重点を置いた本作の解釈は、木下恵介作品・中川信夫作品などこれまでのどの「四谷怪談」とも異なっている。
(65東京映画)(監督)豊田四郎(原作)鶴屋南北(脚本)八住利雄(撮影)村井博(美術)水谷浩(音楽)武満徹
(出演)仲代達矢、岡田茉莉子、中村勘三郎、池内淳子、大空真弓、淡路恵子、小沢栄太郎、三島雅夫、平幹二朗、東野英治郎、永田靖、滝田裕介、中野伸逸、矢野宣、三戸部スエ、秋好光果
(117分・35mm・カラー)

【大工太平記】
豪放磊落で知られた名棟梁・平田雅哉の聞き語り「大工一代」を原作に、森繁久彌が大工一筋に生きた男の半生を演じた年代記。妻に死なれ、息子を戦争に取られてもなお数寄屋造に人生を賭ける職人気質が描かれる。中村玉緒がやもめとなった棟梁の後妻を演じる。
(65東京映画)(監督)豊田四郎(原作)平田雅哉、内田克巳(脚本)八住利雄(撮影)村井博(美術)伊藤熹朔(音楽)山本直純
(出演) 森繁久彌、藤田まこと、頭師佳孝、乙羽信子、中村玉緒、池内淳子、ハナ肇、山茶花究、淡路恵子、石山健二郎、三木のり平、太宰久雄、田崎潤、曽我廼家一二三、萬代峰子、松本染升
(101分・35mm・カラー)

【千曲川絶唱】
白血病と診断されて絶望に沈むトラック運転手(北大路)が、看護婦(星)の懸命の励ましで道路の改修に生きがいを見つける青春ドラマ。途中、トラックが看護婦の乗った列車を追いかけ、併走する場面は緊迫感にあふれた名シーンである。
(67東京映画)(監督)豊田四郎(脚本)松山善三(撮影)岡崎宏三(美術)狩野健(音楽)佐藤勝
(出演)北大路欣也、星由里子、平幹二朗、いしだあゆみ、田中邦衛、宮口精二、浜田寅彦、中村たつ、福田豊土、三島雅夫、都家かつ江、関口銀三、山本清、岩倉髙子、上田忠好、若宮忠三郎
(102分・35mm・白黒)

【喜劇 駅前百年】
豊田が第1作以来ほぼ10年ぶりに「駅前」に戻ってきたシリーズ第21作。再び上野駅前の旅館が舞台となったが、本作では再開発の波に揺れる設定に世相が反映されている。「明治百年」という時事性を取り入れながらも、シリーズを支えた森繁・伴淳・フランキーの堅陣は揺るがない。
(67東京映画)(監督)豊田四郎(脚本)八住利雄、広沢栄(撮影)岡崎宏三(美術)小島基司(音楽)山本直純
(出演)森繁久彌、淡島千景、伴淳三郎、乙羽信子、松山英太郎、フランキー堺、名古屋章、池内淳子、大空真弓、山茶花究、三木のり平、森光子、赤木春恵、堺正章、三波伸介、戸塚睦夫、伊東四朗、左卜全
(102分・35mm・カラー)

【喜劇 駅前開運】
「駅前」シリーズ第22作の舞台は東京・赤羽駅前商店街。東口・西口に分かれて店を開く次郎(フランキー堺)と孫作(伴淳三郎)は、互いにしのぎを削り、時には万引き犯の不穏な品をつかまされながらも商店街の発展に尽くす。てんぷくトリオは3人組の警官に扮する。
(68東京映画)(監督)豊田四郎(脚本)広沢栄(撮影)村井博(美術)小島基司(音楽)別宮貞雄
(出演)森繁久彌、伴淳三郎、沢村貞子、頭師佳孝、フランキー堺、森光子、池内淳子、野川由美子、大空真弓、藤田まこと、佐藤友美、藤村有弘、山茶花究、中村是好、黒柳徹子、三波伸介、戸塚睦夫、伊東四朗
(95分・35mm・カラー)

【地獄変】
貴族が豪奢な暮らしに淫する一方、貧窮の民であふれかえる平安の都。時の権力者である堀川の大殿(中村錦之助)と、あえて醜い世を描く宮仕えの絵師・良秀(仲代達矢)が壮絶な意地の張り合いに及ぶ芥川龍之介作品の映画化。作曲した芥川也寸志は、龍之介の子息である。
(69東宝)(監督)豊田四郎(原作)芥川龍之介(脚本)八住利雄(撮影)山田一夫(美術)村木忍(音楽)芥川也寸志
(出演)中村錦之助、仲代達矢、内藤洋子、大出俊、下川辰平、内田喜郎、中村吉十郎、鈴木治夫、天本英世、大久保正信、音羽久米子、猪俣光世、沢村いき雄、今福正雄
(95分・35mm・カラー)
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by sentence2307 | 2005-05-15 21:43 | 映画 | Comments(122)
今年、生誕百年を迎えるという日本映画の監督のなかから、東京国立近代美術館フィルムセンターでは、斎藤寅二郎、中川信夫、野村浩将、成瀬巳喜男、豊田四郎、稲垣浩の6人を選び、その名匠の作品群を年間を通して連続上映しています。

前回の稲垣浩監督につづいて「生誕百年記念」の上映は、いよいよ名匠・豊田四郎監督の特集です。

永井荷風、志賀直哉、川端康成から坂口安吾、谷崎潤一郎、井伏鱒二に至る数々の著名な文芸作品の映画化に取り組み、珠玉の名作を遺した豊田四郎ですが、個人的な感じからすれば、違和感なく流れるような印象で見ることができたのは、井伏鱒二作品のような気がしています。

そういえば、豊田監督の最高傑作といわれている「夫婦善哉」の原作者・織田作之助の飄々としたあの感じも、どこか井伏鱒二と共通するものがあるような感じがしませんか。

豊田四郎が最も力量を発揮できたのが、こうしたタイプの作品だったような気がしてなりません。


【若い人】
1929年に一旦デビューしながら、その後松竹の撮影所で修業を積んだ豊田四郎が31歳で発表した清新な出世作。父親を知らぬ女子学生(市川春代)をめぐって理知的な男女の教師(大日方伝と夏川静江)が対立し、やがて親密さを育んでゆく。この原作はその後も3度リメイクされた。
(37東京発声映画製作所)(監督)豊田四郎(原作)石坂洋次郎(脚本)八田尚之(撮影)小倉金弥(美術)河野鷹思(音楽)久保田公平
(出演)大日方傳、市川春代、夏川靜江、英百合子、山口勇、伊藤智子、林千歳、押本映二、鹿島俊策、松林清三郎、春日章、松田宏一、吉川英蘭
(81分・35mm・白黒)

【泣蟲小僧】
母親(栗島すみ子)から相手にされなくなって親戚の家をたらい回しにされ、安住の場所を持たぬ「泣虫小僧」の悲哀を淡々と綴った小品。大人たちにもそれぞれの事情があり、そうした描写の丁寧な積み重ねが演出家としての豊田の成長を物語る。
(38東京発声映画製作所)(監督)豊田四郎(原作)林芙美子(脚本)八田尚之(撮影)小倉金弥(美術)河野鷹思(音楽)今澤将矩
(出演)藤井貢、林文雄、栗島すみ子、逢初夢子、市川春代、梅園竜子、山口勇、一木禮司、高島敏郎、藤輪欣司、吉川英蘭、品川眞人、横山一雄
(80分・35mm・白黒)

【冬の宿】
木下恵介「女の園」と並んで、作家・阿部知二が原作者として残した名作。ムーラン・ルージュの水町庸子、清楚なタイピストを演じる原節子などの女優陣も見所である。フィルムは長らく行方不明とされていたが、近年可燃性の原版が発見され、2003年に復元初上映が行われた。
(38東京発声映画製作所)(監督)豊田四郎(原作)阿部知二(脚本)八田尚之(撮影)小倉金彌(美術)進藤誠吾(音楽)中川栄三、津川主一
(出演)勝見庸太郎、水町庸子、原節子、北沢彪、藤輪欣司、林文夫、島絵美子、堀川浪之助、押本映治、伊志井正也、田辺若男、伊田芳美、平陽光、青野瓢吉、南部邦彦、一木禮司
(84分・35mm・白黒・不完全)

【鶯】
東北の田舎町の警察に、捜索願を出しにきた老婆、ニワトリ泥棒、無免許の産婆、鳥売りの娘などの人々が次から次へと現れて騒動を起こす。はかどらない「冬の宿」の撮影の合間を縫って11日間で撮影された小品だが、迫力のある集団劇になっている。
(38東京発声映画製作所)(監督)豊田四郎(原作)伊藤永之介(脚本)八田尚之(撮影)小倉金弥(美術)進藤誠吾(音楽)中川栄三
(出演)勝見庸太郎、霧立のぼる、清川虹子、御橋公、伊達信、鶴丸睦彦、押本映治、堤眞佐子、村井キヨ、藤輪欣司、北沢彪、汐見洋、文野朋子、杉村春子、水町庸子、藤間房子、堀川浪之助
(71分・35mm・白黒)

【小島の春】
瀬戸内に面するハンセン氏病の療養所で働く女医と、入所を拒む人々との葛藤を描いた当時の話題作。世間の目を恐れる桃畑の女、杉村春子の熱演が評価され、本作を観た高峰秀子もこの演技に「雷に打たれたようなショックを受けた」と述べた。その年の「キネマ旬報」で第1位を得た。
(40東京発声映画製作所)(監督)豊田四郎(原作)小川正子(脚本)八木保太郎(撮影)小倉金弥(美術)園眞(音楽)津川主一
(出演)夏川静江、菅井一郎、杉村春子、清水美佐子、水谷史郎、勝見庸太郎、林幹、英百合子、田中筆子、菊川郁子、中村メイコ、三津田健、小島洋々、二葉かほる
(88分・35mm・白黒)

【大日向村】
この頃の豊田は「奥村五百子」や「小島の春」など時事的なテーマの作品を続けて発表したが、これも長野県の寒村で貧困を強いられてきた農民が、満州に新天地を求めて移住する姿を記録映画的なスタイルで描いた一本。前進座の俳優が多数出演している。
(40東京発声映画製作所)(監督)豊田四郎(原作)和田傳(脚本)八木隆一郎(撮影)小原譲治(美術)園眞(音楽)中川栄三
(出演)河原崎長十郎、中村翫右衛門、杉村春子、伊藤智子、藤間房子、藤輪欣司、生方賢一郎、林幹、中村鶴蔵、坂東調右ヱ門、市川菊之助、市川笑太郎、助高屋助蔵、市川莚司、橘小三郎、瀬川菊之丞、原緋沙子
(84分・35mm・白黒)

【わが愛の記】
陸軍病院の看護婦であった女性が、前線での負傷のため下半身不随となった兵士と結婚したという「軍国美談」から生まれた作品。主演の山岸美代子は後に女優・岩下志麻の母親となった新劇女優、遠藤慎吾は後に演劇評論家となった俳優座の若手である。
(41東京発声映画製作所)(監督)豊田四郎(原作)山口さとの(脚本)八木保太郎(撮影)小倉金弥(美術)園眞(音楽)深井史郎
(出演)遠藤愼吾、山岸美代子、三桝万豊、林千歳、矢口陽子、小高たかし、三原純、横山運平、横田儔、林幹、石黒達也、杉村春子、志村アヤコ、末弘美子、関志保子
(99分・16mm・白黒)

【若き姿】
日本支配下の朝鮮を舞台に、日本の勝利を信じて厳しい軍事教練に励む中学生たちを描く。1942年に設立された国策会社、朝鮮映画の第1回作品で、女優文芸峯(ムン・イェボン)など現地の名優も出演したが、スタッフはほとんど内地から派遣された。冒頭が欠落している。
(43朝鮮映画)(監督)豊田四郎(脚本)八田尚之(撮影)三浦光雄(美術)五所福之助、高垣昇
(出演)丸山定夫、月形龍之介、高山徳右衛門、佐分利信、龍崎一郎、永田靖、東山千栄子、三谷幸子、黄澈、文芸峯、金玲、清川荘司、中村彰、森赫子
(81分・35mm・白黒・不完全)

【女の四季】
引揚者の女性画家(若山セツコ)が、恩師や知り合い、親戚の家を転々とする中で、戦後のすさんだ世相を思い知らされる。とりわけ、図々しい老女に扮した杉村春子の演技に圧倒させられる。豊田は本作で、後に不動の右腕となる脚本家・八住利雄と初めてコンビを組んだ。
(50東宝)(監督)豊田四郎(原作)丹羽文雄(脚本)八住利雄(撮影)木塚誠一(美術)久保一雄(音楽)飯田信夫
(出演)若山セツコ、杉村春子、池部良、東山千榮子、薄田研二、荒木道子、藤原釜足、赤木蘭子、渡辺篤、谷間小百合、小杉義男
(100分・35mm・白黒)

【せきれいの曲】
自分の作曲した旋律によって、音楽学校の学生(轟夕起子)と結ばれた作曲家(山村聡)。だが、離別の果てに不自由な身体まで背負った彼は、ラジオから流れてくる娘(有馬稲子)の歌声に乗ってそのメロディに再会する。この時有馬稲子はまだ宝塚に在籍中、映画界入りする前の17歳。
(51東宝)(監督)豊田四郎(脚本)水木洋子(撮影)三浦光雄(美術)北川恵笥(音楽)大木正夫
(出演)轟夕起子、有馬稲子、山村聰、立花満枝、斎藤達雄、御橋公、村上冬樹、南美江、本間文子、三條利喜江、左卜全、大山健二、石黒達也、有馬是馬
(100分・35mm・白黒)

【風ふたたび】
大学教授である父(三津田健)の旅行中の急病をきっかけとして、離婚した香菜江(原節子)に二人の男が好意を寄せるが…。前年に黒澤「白痴」、小津「麦秋」、成瀬「めし」という名作に立て続けに出演し、女優としてのピークを迎えた原節子の主演作である。
(52東宝)(監督)豊田四郎(原作)永井龍男(脚本)植草圭之助(撮影)会田吉男(美術)河東安英(音楽)清瀬保二
(出演)原節子、池部良、山村聰、浜田百合子、三津田健、杉村春子、龍岡晋、南美江、御橋公、菅原通済、十朱久雄、村上冬樹
(88分・35mm・白黒)

【春の囁き】
瀬戸内から上京してきたジャーナリスト志望の学生が、慣れない都会生活と新しい恋心の芽ばえに悩む。デビュー間もない岡田茉莉子が、主人公と行動をともにする才気煥発な新聞部員を演じる。東京映画目黒撮影所の第1回作品でもある。
(52東宝)(監督)豊田四郎(脚本)植草圭之助、古川良範、豊田四郎(撮影)三浦光雄(美術)安倍輝明(音楽)芥川也寸志
(出演)三國連太郎、岡田茉莉子、遠山幸子、青山京子、久保明、鈴木孝次、三津田健、中村是好、千石規子、荒木道子、浦邊粂子、二本柳寛
(93分・35mm・白黒)

【雁】
父を養うため高利貸の妾となった娘(高峰)は、いつも無縁坂を散歩する大学生(芥川比呂志)に秘かな想いを抱く。この坂は、伊藤熹朔の指示を受けた木村威夫が、大映東京撮影所の3つのスタジオを貫通させて作ったもので、豊田四郎と三浦光雄の妥協しない姿勢に感化されたと木村威夫は後にその著書で述懐している。
(53大映東京)(監督)豊田四郎(原作)森?外(脚本)成澤昌茂(撮影)三浦光雄(美術)伊藤熹朔(音楽)團伊玖磨
(出演)高峰秀子、芥川比呂志、宇野重吉、東野英治郎、飯田蝶子、田中榮三、浦邊粂子、小田切みき、三宅邦子、伊達正、山田禪二、町田博子
(104分・35mm・白黒)

【或る女】
有島武郎の名作を翻案、息子の森雅之が主演した格調ある作品。明治30年代を舞台に、自由奔放に生き、男からの自立を望みつつ、それでも男との間に深い情愛を求めてしまう痛ましい女を京マチ子が熱演した。アメリカ行きの船のセットも素晴らしい。
(54大映東京)(監督)豊田四郎(原作)有島武郎(脚本)八住利雄(撮影)峰重義(美術)木村威夫(音楽)團伊玖磨
(出演)京マチ子、森雅之、船越英二、芥川比呂志、若尾文子、沼田曜一、丸山修、信欣三、近衞敏明、高松英郎、浦邊粂子、夏川靜江、岡村文子、滝花久子、小田切みき、星ひかる
(134分・35mm・白黒)

【麦笛】
原作は室生犀星の自伝的短篇「性に眼覚める頃」。大正時代、詩作に励む二人の少年が一人の少女をめぐって恋心を抱く。原作の舞台は金沢だが、撮影は古い蔵屋敷や掘割の残っていた倉敷で行われた。久保と青山は、前年の「潮騒」で評判となった当時大人気の青春コンビ。
(55東宝)(監督)豊田四郎(原作)室生犀星(脚本)池田一朗、豊田四郎(撮影)三浦光雄(美術)河東安英(音楽)団伊玖磨
(出演)久保明、青山京子、太刀川洋一、越路吹雪、志村喬、中北千枝子、三好栄子、浪花千栄子、浜田百合子、藤原釜足、塩沢登代路、左卜全、三条利喜江、東静子
(103分・35mm・白黒)

【夫婦善哉】
俗にまみれた放蕩息子(森繁久弥)と、そんな男を捨てられぬ芸者上がりの女(淡島千景)の腐れ縁。上方情緒を濃密に匂わせながら、男女のあっけらかんとしたデカダンスを描いた日本映画屈指の名篇である。淡島千景は「途中で降りたかった」と漏らすほど大阪弁の訓練で苦労したという。
(55東宝)(監督)豊田四郎(原作)織田作之助(脚本)八住利雄(撮影)三浦光雄(美術)伊藤熹朔(音楽)團伊玖磨
(出演)森繁久彌、淡島千景、司葉子、浪花千栄子、山茶花究、小堀誠、田中春男、田村樂太、森川佳子、志賀廼家弁慶、萬代峰子、三好榮子、上田吉二郎、澤村宗之助、谷晃、若宮忠三郎、三條利喜江
(120分・35mm・白黒)

【白夫人の妖恋】
中国の民話「白蛇伝」をベースに、青年・許仙(池部良)と実は白蛇の精である白娘(山口淑子)が織りなす恋物語で、日本・香港の合作となった豊田初のカラー映画。洪水や妖術合戦のシーンでは、東宝のお家芸である円谷英二の特殊撮影(日本初のブルーバック合成を含む)も使われている。
(56ショウ・ブラザーズ=東宝)(監督)豊田四郎(原作)林房雄(脚本)八住利雄(撮影)三浦光雄(美術)三林亮太郎、園眞(音楽)團伊玖磨
(出演)池部良、山口淑子、八千草薫、德川夢声、上田吉二郎、清川虹子、田中春男、東野英治郎、小杉義男、谷晃、小泉澄子、宮田芳子、沢村いき雄、左卜全、河崎堅男、山田彰
(103分・35mm・カラー)

【猫と庄造と二人のをんな】
なまけ者の庄造(森繁久弥)が溺愛する猫を盗み出して、後妻(香川京子)の鼻をあかそうとする先妻(山田五十鈴)。「夫婦善哉」に続いてダメ男を演じた森繁がまたも絶品だが、試写を見た谷崎潤一郎は、君じゃなくて猫が良かった、と森繁に語ったと伝えられる。
(56東京映画)(監督)豊田四郎(原作)谷崎潤一郎(脚本)八住利雄(撮影)三浦光雄(美術)伊藤熹朔、園眞(音楽)芥川也寸志
(出演)森繁久彌、香川京子、山田五十鈴、浪花千栄子、萬代峰子、三好栄子、南悠子、芦乃家雁玉、林田十郎、田中春男、山茶花究、横山エンタツ、環三千世、春江ふかみ、都家かつ江、内海突破
(135分・16mm・白黒)

【雪国】
すでに文学作品の映画化で世評の高かった豊田が、川端康成の国民的名作に挑んだ作品。スマートで洗練された雰囲気を持つ岸恵子にあえて雪深い温泉場の芸者を演じさせ、そこから新しい駒子像を誕生させた演出家の力量に瞠目させられる。
(57東宝)(監督)豊田四郎(原作)川端康成(脚本)八住利雄(撮影)安本淳(美術)伊藤熹朔、園眞(音楽)団伊玖磨
(出演)池部良、岸惠子、八千草薫、久保明、森繁久彌、加東大介、田中春男、中村彰、浪花千榮子、多々良純、万代峯子、浦辺粂子、中田康子、東郷晴子、千石規子、三好榮子、谷晃、若宮忠三郎、市原悦子
(133分・35mm・白黒)

【夕凪】
アメリカ留学から帰ってきた涼子(若尾文子)は、冷淡な母親(淡島千景)と衝突しながら、自らの出生の秘密を知ろうとする。八住利雄のオリジナル脚本で、「太陽族」盛んなりし時代、ベテランの豊田・八住なりに若者たちの旧世代への反逆を描いている。
(57宝塚映画)(監督)豊田四郎(脚本)八住利雄(撮影)安本淳(美術)伊藤熹朔(音楽)芥川也寸志
(出演)淡島千景、若尾文子、志村喬、池部良、千石規子、河津清三郎、小沢栄太郎、中田康子、多々良純、浪花千栄子、市原悦子、万代峯子、谷口香、高見ありさ、杉狂児、堤康久、川内まり子、桂美保
(114分・35mm・カラー)

【負ケラレマセン勝ツマデハ】 
納税を頑として拒んでいる自動車修理工場の社長(森繁久弥)が、家族と一丸になって、冷酷な税務署員(小林桂樹)に対抗する。税金問題を風刺的に描写した喜劇だが、坂口安吾が差し押さえ反対闘争をエッセイ風に記した原作とは大きな変化が見られる。
(58東京映画)(監督)豊田四郎(原作)坂口安吾(脚本)八住利雄(撮影)安本淳(美術)河東安英(音楽)芥川也寸志
(出演)森繁久彌、望月優子、野添ひとみ、淡島千景、三遊亭小金馬、伴淳三郎、乙羽信子、小林桂樹、有島一郎、内海突破、左卜全、一龍斎貞鳳
(106分・35mm・白黒)
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by sentence2307 | 2005-05-15 21:42 | 映画 | Comments(130)
この連休、まとまった休暇がとれたことはとれたのですが、幸か不幸か都合よく連続していたので、かえってそれが災いして、なんだかんだで自分の時間がほとんど持てなかった連休でした。

しかし、悪友との付き合いなど浮世の義理を欠くわけにもいかず、社会人たるもの、まあ致し方ないところかななどと半分は諦めています。

こんなとき、学生の頃なら、ひとりの自由な時間をフルに使って映画館を何軒もはしごして映画浸けの日々をおくれたのに、なんてちらっと恨みがましく考えたりもするのですが、なにせ勤めのある今の身ではちょっとむずかしい話かもしれませんよね。

こんなふうに、いつまでも過ぎ去った昔のことを懐かしんだり勝手に飾り立ててしまったりという性癖こそ、もういい加減に改めなければいけないかなと思っています。

本当のところをいえば、あの当時、映画なんか数ある時間つぶしの内のひとつにすぎなかっただけで、とりたてて映画を真剣に見ていたわけではありません。

むしろいまの方がずっと楽しんで映画というものを見ているし、充実した時間を持てているような気もします。

そうなんですよね、きっと。

結局は、いつでも、なにか大切なものが欠けた不完全な状態で、見切り発車的になにかを始めなければならないなら、いまこの時に自分に与えられた時間を全力を傾けてフルに活用し、充実した時を過ごせるように心掛けることが、なによりも大切なことなのだろうなと考えるようになりました。

この連休中、映画というものをまったく見なかったわけではないので、書きやすいものから、また少しずつ書いていきたいなと思っているのですが、「書き出し」とか「まとめ」に入る筋道を、それなりにこれでも結構考えながら書く方なので、ある程度の熟成の時間を要してしまい、すんなりとは書けないという面倒くさい部分もあったりして書き始めるまで若干時間がかかってしまいます。

このブログを始めた切っ掛けというのが、日記を書くように(続いたためしがないので)結構ストックのある積りの映画のことを少しずつ書き足していけたらいいかなと思っていたことでもあるので、たまには日常的な雑事を日記ふうに書いてみるのも面白いかなと思いました。

昼食の話です。

だいたい、いつも食事するところは決めていたのですが、たまたま友人に誘われて安さで評判の食堂に連れて行ってもらいました。

その日は、チンジャオロースを頼みました。

細切りのたけのことピーマンと、同じく細切りにした牛肉とがとろみでまぶしてあるという中華の定番料理です。

安価という評判だけあって出てきた料理の量は、感心するくらいたっぷりで文句の付けようがありません。

しかし、「感心するくらいの量」に該当する物というのが、「たけのこ」でした。ホント山盛りです。

まあ、それはいいでしょう、そういうことも世の中にはあるかもしれません。

しかし、こういう状況下でセッティングされている添え物に驚きました。

これまた山盛りの「きんぴら牛蒡」でした。

むこう1年間で摂取すべき食物繊維の量を、一挙にその昼休みでとってしまえそうな量なのです。

噛んで噛んで、また噛んで、その日の昼休みすべてを、「たけのこ」と「きんぴら」を噛むことに費やして、噛みまくった結果アゴがつりました。

その夜から朝にかけて食物繊維の過剰摂取がもたらした「効果」によって大変な目にあった僕は、メニューをコーディネイトする驚くべきセンスのなさという意味において二度とそこへは行くまいとひそかに決意していたのですが、きっとその消極さが、逆にタブーを呼び寄せる結果を招いてしまったらしく、再びまた、同じ友人とその食堂へ行くハメになりました。

安価のための大変な混雑を、きっといつのまにか美味しいための混雑と、愚かにも取り違えて錯覚してしまったのかもしれません。

人の食べているものでナニが美味しそうに見えるかといえば、ラーメン以外にはないような気持ちにさせるものが、「あれ」にはありますね。

あれこそ「魔がさした」というものだったと思うのですが、僕もつい、ラーメンを注文してしまいました。

そこは、青年が一人だけで捌いているという忙しいコーナーです。

余裕のある最初のうちは、客の注文を聞いていました。

「醤油ですか、味噌ですか、塩ですか」と、ざっとこんな具合です。

しかし物凄い混雑です。

端で見ていて徐々にパニクっていくのが手に取るように分かりました。

しまいには、彼は注文をとることなく、なにかの業罰みたいに黙々と醤油ラーメンを作っていました。

それが僕の希望したものかどうかはともかく、ついに醤油ラーメンが出来上がり目の前に置かれました。

そして、食べました。

驚いたことに、このラーメンには、ダシというものがありません。

ただのお湯に、それなりの色がついているという、ただそれだけの、名ばかりの悲惨なものでした。

とっさに考えました「いちいち客から希望を聞いていたあれは、いったい何だったんだ」と。

幸いにして僕の場合には「それ」がなかったにしろ、あえて自分の好みを問いただされ、そしてこの色をつけただけの「お湯」を飲ませられたとしたら、わざわざ「自分の好み」を言わせられたことにキレたかもしれないなと思いながら、無味乾燥なそのラーメンを食べ切ることができませんでした。

多くの客は、自分がただ弄ばれただけのような遣り切れない気持ちでいたかもしれません。

「だったら聞くなよ!」とか。

なんかヒロシの自虐ネタになりそうな話でしょ。
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by sentence2307 | 2005-05-08 00:31 | 映画 | Comments(0)

乙女ごころ三人姉妹

緻密でスキのない作品には、なまじっかな映画評論なんかとてもじゃないが入り込めるわけもないと、ひそかに確信しています。

だから、物凄く好きな映画に対して、感想めいたものをうだうだと書きなぐって、せいぜいラブレターか信仰告白のようなものしか書けないのなら、いっそのこと映画の中の優れたシーンや胸を抉るような感動的な鋭いセリフをそのまま引き写した方が、その作品から受けた感動をストレートに伝えることができるのではないかと思うようになりました。

それはまた、自分の力量のなさをつくづくと思い知らされる瞬間でもあると、この成瀬巳喜男作品「乙女ごころ三人姉妹」を見ながら考えさせられてしまいました。

成瀬作品の魅力のひとつは、社会の底辺で散々に傷みつけられた女たちが、耐えに耐えたあとの限界で、恨みつらみを一挙に吐露する迫真のシーンにあると感じています。

思えば、溝口健二が描く女たちなら、その恨みつらみの吐露が男たちに向けて叩き付けるような攻撃的糾弾的なものになるのに対して、成瀬巳喜男の「女たち」の恨みの吐露は、はるかに自省的で、時にはこの作品のお染のように自虐的な響きさえ帯びることがあります。

作品の中でそういう自虐の憤激に出会うとき、それがしばしば作品の重要なテーマでもあることに気が付くかもしれません。

成瀬巳喜男のP.C.L(現・東宝)移籍後の第一作にしてトーキー第一作のこの作品「乙女ごころ三人姉妹」で言えば、門付けから帰ってきた姉妹が、内緒で雑誌を買ったことが守銭奴の母親に知れるところとなり、日頃から彼女たちの稼ぎの悪いことがそのことと結び付けられ、怒る母親に今まさに折檻されようとしている時に、ちょうど帰宅したお染(堤眞佐子)が、彼女たちをかばいながら、不実な母親へ日頃の鬱憤を吐き掛け、恨みつらみを言い募る逆上の果ての頂点で、商売道具の三味線をついに踏み潰すという愁嘆場に、成瀬巳喜男の精神が息づいていると思いました。

妹たちをかばうお染の言葉を受けて母親は言います。
「余計なことは、しないでおくれ。お前だって碌に稼ぎも出来もしないくせに。腕の一本くらい折られたって三味線をかばうようでなけりゃ、この商売に出られるかってんだ。苦労して育てたって満足に働ける人間にはなりゃしないしさ。あたしが、稼ぎにでも出てた方が、どんなにか気が楽だかしれやしないよ。」

そして、お染の悲憤に満ちた言葉が続きます。
「物貰いか辻占売りのようにどこへ行ったって、嫌な目で見られたり突き出されたり。うちに帰ったって優しい言葉ひとつ聞くんじゃなし。おっかさん、それで満足に育つと思って。」

母親「生意気をお言いでないよ。お嬢様のご身分じゃないんだからね。嫌だったら勝手にするがいいや。おれんみたいに男でもこさえて飛び出そうてんだろう。」

母親のあまりの嘲りの言葉に堪えられず怒りに震えるお染は、「こんなもの」と言いながら商売物の三味線を踏み潰します。

母親は慌ててお染を制します。
「あ、きちがい(原文ママ)。なんてことするんだよ。」

しかし、お染は「こんなもの」と何度も三味線を足蹴にしたあとに、有り金を畳に叩き付け、母親に向かって恨みのたけを吐き掛けます。

「三味線なんかなくたって、稼いでくりゃあいいんじゃないか。」

この言葉「三味線なんかなくたって稼げる」という商売が、何を意味しているのか、僕たちは思わず若い娘たちが立派に「商売」の出来る浅草の背後に広がる歓楽街・吉原を思い浮かべてしまうかもしれませんね。

(35P.C.L)監督脚本・成瀬巳喜男(トーキー第1作)、原作・川端康成、撮影・鈴木博、美術・久保一雄、音楽・紙恭輔、編集・岩下広一、主題歌作詞・佐藤惣之助、サトウ・ハチロウ、
出演・細川ちか子、堤真佐子、梅園龍子、林千歳、三条正子、松本万里代、大川平八郎、松本千里、松本万理代、滝沢修、伊藤薫、岸井明、藤原釜足、三島雅夫、大友純、
白黒/75分
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by sentence2307 | 2005-05-03 23:35 | 映画 | Comments(142)

女優フランシス


「フランシス・ファーマー」という言葉自体が、ハリウッドでは、「何かにつけてタテつく女優」というような一種の変人に対して向けられる象徴的なスラングとして使われているそうです。

イメージとしては、体制に収まり切れず、協調性にも欠け、ことごとく反抗的な態度で過激な言動を繰り返し、自分を抑え込もうとする力に対しては世間体や体裁など構うことなく髪振り乱してでも徹底して闘おうとする、まあプロデューサーやディレクター泣かせというばかりでなく仲間内のスタッフ・キャストに至るまで、ひたすらお手上げな従順さを欠いた扱いにくい女優を指しているのだと思います。

この映画「女優フランシス」という作品には、この女優の過酷な人生の影に、「赤狩り」の時代的な影響をほのめかす部分もありますが、しかし、それにもまして強烈に描かれているのは、周囲との軋轢など些かも意に介することなく何がなんでも自分の意思を通そうとするひとりの女優と、その彼女(娘)を、親権をたてにとって自分の意のままに従わせようとする母親とのぶつかり合いを描く壮絶な葛藤の姿です。

母親は、自分に従わせるためには、娘を精神病院に隔離し、果てはロボトミー手術を施すことも厭わず、娘が完全に自分に屈服することを強います。

母親の言うことなら何でのよくきく「いい子」にさせられるために、フランシスは前頭葉の神経の一部を切断されて「穏やかな人格」を得て、やっと「従順」でいられる静かで平穏な日常生活をおくることができるようになりました。

ここには、体制に歯向かう者はすべてこうなるのだと、見せしめの生贄として廃人同様にさせられたあの「カッコーの巣の上で」の象徴的なジャック・ニコルソンの悲痛な姿が思い浮かびます。

しかし、僕が注目したいのは、この映画が描くもうひとつの側面、ハリッドが押し付けてくる女優像が、自分の理想とするイメージや演技とあまりにもかけ離れているために、幼い頃から育んできた「演技」(フランシスにとって演技とは、生きてきた証しとでもいうべきもの・人間としての「誇り」といってもいい崇高なものだったと思います)とのギャップをどうしても埋めることができない潔癖さ、演技というもの・役者として生きることの観念のあり方みたいなものが、ハリウッドという魔窟を背景に浮き彫りにされてゆくシーンです。

そこには、かつて「キングコングの恋人役」を演じさせられた過去を、ハリウッドから受けた屈辱のように拒否し、決して許さず、受け入れようとしないジェシカ・ラングの演技に対する潔癖さも同時に感じてしまいました。

例えば、かつて、日本のある新劇女優が、あえて「芸術のためなら脱ぐ」と宣言しなければ、スクリーンにその胸をあらわにできなかったという逸話を思い出しました。

「芸術的演技」にこだわるジェシカの潔癖さには、彼女の強さと同時に弱さをも感じ取らずにはいられません。

しかし、またそれが一種の痛ましいハングリー精神のひとつの現れ方だとするなら、彼女がこれまで歩んできた人生の厳しさ痛ましさを示唆しているのでしょうか。

むかし聞いたあるエピソードを思い出しました。

アメリカで精神病院に入院している女性を退院させるかどうかの判断基準は「化粧をちゃんとしているかどうか」を見極めるのだそうです。

社会に向けて「女」の顔をちゃんと作り上げているかどうかが、正常と異常の分かれ目として判断の基準とされているそうなのです。

あえて「女」であることを拒んだジェシカ・ラングを、僕は「化粧をしない女優」と記憶しようと思いました。

こう見ていくと、対極的に位置するタイプの女優として思い浮かぶのが、マリリン・モンローということになるでしょうか。

会社やプロデューサー、そして監督や大衆が抱いていた欲望をすべて受け入れ、まさに「セックス・シンボル」の性的妄想としてのイメージそのままを従順に自己実現して生き抜き、やがて、まさにその「セックス・シンボル」であり続けたがゆえに、その限界点で自らの命を絶たねばならなかった女優というイメージが、マリリン・モンローにはあるような気がします。

架空の人格になりきり、嘘の人生を生き続けるという意味において、仮に女優という職業に「虚妄」という言葉を当て嵌めることが出来るとすれば、マリリン・モンローこそは、まさにそれにぴったりの女優だったでしょう。

しかし、これは、多かれ少なかれ、きっとすべての女優に求められていたことでもあったと考えれば、女優フランシス・ファーマーの例外性は、とりわけて顕著に際立っていたかもしれません。

さて、僕のメモのなかに、「キングコング」を演じたジェシカ・ラングについて以前書いた小文があり、上述のふさわしい部分へ挿入しようと考えていたのですが、時間もなく適わなかったので、そのままのかたちで以下に付け足しておきます。
いずれは、ひとつにまとめたいとは思っているのですが。



ときどき、コンパの席などで映画の話で盛り上がり、好きな女優の代表作を並べて楽しむなんてことありますよね。

例えば、ジェシカ・ラングが話題にのぼり、彼女の代表作は何かという話が出て、まあ、常識的な線で言うと、共演のジャック・ニコルソンが絶賛して演技派としての評価が定まったといわれる「郵便配達は二度ベルを鳴らす」81とか、あまりに善良すぎ生きることも不器用で、いつも幸せを逃してしまう薄幸な女を演じて助演女優賞を得た「トッツィー」82も、とても人気があります。

サム・シェパードと共演した「カントリー」84もいいですしね。

また、好き嫌いを厳密に糺されるとちょっと困る硬派の作品「ミュージック・ボックス」89とか「ブルースカイ」94を挙げる人もいます。

いろいろな評価のなかで、しかし、等しく皆の一致する否定的な意見は、ジェシカ・ラングがそのデビュー作で演じた「キングコング」76の恋人役への悪評です。

あの役を演じたことのダメージから脱するため、彼女自身、長い間どんなにか苦しんだか、僕も資料を読んで知っていました。

厳しいオーディションを経て、この役をやっと手に入れた時、彼女は既に26歳程だったでしょうから、決して早いデビューとはいえませんし、出演作品を選んでいる場合ではない年齢的な焦りが、そうした役にさえ応募していったことも感じられます。

実は、ジェシカ・ラングを話題に上らせた時の僕の念頭には、その否定的に言われることの多い「キングコング」があってのことでした。

僕には、「キングコング」の彼女が、主演女優賞を得た「ブルースカイ」の情緒不安定な人妻の演技よりも下に位置するとは、どうしても思えません。

それは、あのキングコングが、ずぶ濡れのジェシカ・ラングを手の平にのせて息で吹き乾かしたあと、大きな指で彼女を撫ぜ廻しながら徐々に衣服を剥いでゆくというあの魅力的な場面が、ただ扇情的なだけの取るに足りないシーンと無視することがどうしてもできないのです。

きっと身をくねらせて体の線を露わに見せるだけのヌ―ド・ショーのような仕草を、女優の正当な演技として評価すべきでないことは、皆のいうとおりなのかもしれませんが、具体的に言葉にはできないけれども、もうひとつ割り切れないものが僕のなかには確かにあるのです。

マリリン・モンローのことが頭にちらつきながらも、しかし、自分の気持ちを具体的に説明する適当な言葉も見つけられずに、結局その場は聞き役に徹しました。

「演技」とは何なのか、分からなくなりました。
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by sentence2307 | 2005-05-03 09:05 | 映画 | Comments(161)