世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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<   2005年 06月 ( 5 )   > この月の画像一覧

以前、「日本映画専門チャンネル」の原節子特集で多くのめずらしい作品が上映された際に、ちょっと毛色の変わった作品があったので、特別に印象に残っていました。

吉村廉監督の「女医の診察室」50という作品です。

上原謙と共演した医者ものの大恋愛映画なのですが、見ているこちらが恥ずかしくなって思わず顔を伏せてしまいたくなるような物凄い代物です。

原節子が、その長い映画女優のキャリアのなかで、なにも小津作品や成瀬作品のような良質のきちっとした作品ばかりに出演していたわけではないのは十分に承知していた積りでも、その内容もさることながら、あの作品の荒っぽい作り方が特に印象に残ってしまったのかもしれません。

なにしろ、原節子の出演作を年を追ってざっと見ていくだけでも49年の「お嬢さん乾杯」、「青い山脈」、「続青い山脈」、「晩春」、51年の「白痴」、「麦秋」、「めし」、53年の「東京物語」、54年の「山の音」という超ハイテンションのラインナップの中で、それにしても「女医の診察室」という盛り下がる奇妙な存在に、特に奇異に感じてしまったのかもしれません。

その「奇異に感じた」理由は、多分この作品のタイトルをプログラムで見たときから始まっていたのだと思います。

そのときは、まだこの作品が、原節子の出演作とは全然知りませんでした。

僕が見たのは、「女医の診察室」と「新東宝」という2つの言葉だけです。

この扇情的な2つの言葉が、瞬時に官能的で淫らな幾つかのイメージを僕の脳裏に呼び覚ましました。

そしてこれまでの数少ない映画経験から、それが具体的なセリフとなって結実していきます。

「あら、何をなさるんです。およしあそばして。」

「まあ、いいじゃありませんか、先生。ほら、もうこんなに。」

「あれー!」

なにしろ、ブツは新東宝作品です。

なにしろ、「女医の診察室」です。

しかし、すぐにこの作品が、聖・原節子様の出演作であることを知り、わが身の不徳を深く恥じ、悔い改め、懺悔し(同じか)、みずからを鞭打ちました。

てなわけで、改めて清らかな気持ちでこの映画を見たのですが、きっと、出だしの最悪のダメージが継続していたためか、印象はやはり散々のものでした。

上記の作品の映画会社をそれぞれあたってみると、なぜ「女医の診察室」だけが奇異に感じたのか分かりました。

ざっとこんな具合です。

「お嬢さん乾杯」(松竹大船)、
「青い山脈」(東宝)、
「続青い山脈」(東宝)、
「晩春」(松竹大船)、
「白痴」(松竹大船)、
「麦秋」(松竹大船)、
「めし」(東宝)、
「東京物語」(松竹大船)、
「山の音」(東宝)

そうなんですよね、新東宝は、「女医の診察室」の1作だけでした。

僕の受けた印象が当を得ていたことがこれで証明されたみたいな気がしましたが、しかし、なにも「新東宝」をコケにするためにダラダラと書いたわけではありません。

観客が潜在的に持っているあるイメージを喚起させずには置かない「新東宝マジック」のことを書いてみたかったのです。

新東宝映画を見終わって誰もが叫ぶというあの怒りの合言葉、

「なんだよ、裸女なんて、ひとりも出てこないじゃないか!」

という愛すべきラブ・コールを頼りに、今晩はじっくり、新東宝作品群の傑作タイトル集めでもしてみようかと思っています。
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by sentence2307 | 2005-06-26 19:17 | 映画 | Comments(292)

しあわせな孤独

デンマーク映画ですか、限られた経験からしてもこういう北欧の映画って、なんかやたら重たくって、一種独特な雰囲気みたいなものがありますよね。

カール・ドライヤーとかベルイマンとか、こういうタイプの映画が好きな人には、きっと堪らないんだろうなと思います。

「デンマークつながり」でラース・フォン・トリアーを連想してしまうのも、あながち見当違いではありません。

すぐに思いつくものとしても、事故で不能になってしまった夫が、妻に他の男と性交することを強いるなんていう彼の作品なんかもありましたものね。

この映画の場合もシチュエーション的には少し違いますが、その「少し」がなかなか重要で曲者なのです。

登場人物は5人、結婚を間近にひかえた幸福の絶頂にある恋人たちと、そしてそのカタワレの男の方にクルマを当てて重症を負わせてしまう女とその夫、そして娘です。

この交通事故によってそれぞれの人間関係がズタズタに壊され、また、家庭が完膚なきまでに崩壊してしまうという過程がとてもクールでシビアに描かれている迫真の作品といえると思います。

僕としても、とても面白く、そして身につまされ、なにかひとこと言っておきたいなあという衝動にかられながら見た魅力的な作品なので、多分ほかの誰もが、いろいろな見方のできる映画なのだろうなとも感じました。

その辺のところを、それぞれの登場人物に自分を置き換えて自分なりの感想をまとめてみようかなと考えたのが、この一文を書き始めた動機でした。

この映画を、交通事故で性的不能の体にされ、男の機能をすべて奪われたヨアヒムが、やり場のない苛立ちと怒りを「女」→恋人セシリに向けて、「もう、会いにくるな!」というひどい絶望的な言葉を吐きかけます。

ここには、最も愛する「女」に対し、「男」を証かし立てられない自分が、彼女に男としての「愛」を証かすことができない屈辱的な存在→自虐から他虐というオーソドックスな心理の過程が語られています。

きっと、これ程までにあからさまではないにしろ、これからの若い人たちが、性と愛のこの辺のドロドロ・グチャグチャの「問題」を自分なりにうまくクリアできないと、新時代の「恋愛」も「結婚」も結構しんどいものになるかもしれません。

時代がどんどん進んでいるのに、人間関係を「制度」だけで縛り付けようとする公的制度の変なアガキに危機感を感じてしまうのは、きっと制度的限界がすぐそこまで迫っているからだと思います。

制度を保証していたはずの人間関係の絆や結びつきという大前提が、もはや既に崩壊の時を迎えようとしている現在(親殺し、兄弟殺し、教室への爆弾投げ込み、赤ん坊の投げ殺しや踏み殺しなど)、小手先の制度だけでは最早どうしようもないのだ、という気がします。

ヨアヒムが、セシリを気持ち的に自由にして解放して上げるまでの長い煩悶が、この作品はじっくりと描き込んでいます。

しかし、この映画の魅力が、そんな魂の救済になんかにあるわけでないことは明らかです。

ヨアヒムから拒まれ突き放された悲嘆のセシリが、淋しさから新しい愛を求めずにはおられない人間のどうしようもない弱さとしての孤独が、まるで地獄のように描かれていると同時に、うんざりするようなその人間関係のグチャグチャから解放される爽快感みたいなものもまた描かれているからだろうと感じました。

ELSKER DIG FOR EVIGT/OPEN HEARTS
(02デンマーク)監督・原案:スザンネ・ビエール、脚本:アナス・トーマス・イェンセン、音楽:イェスパー・ヴィンゲ・レイスネール、
出演・ソニア・リクター、マッツ・ミケルセン、、ニコライ・リー・カース、、パプリカ・スティーン、スティーネ・ビェルレガード
2003年デンマーク・アカデミー賞 最優秀作品賞・最優秀助演男優賞・最優秀助演女優賞、2002年トロント国際映画祭 国際批評家連盟賞
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by sentence2307 | 2005-06-26 10:21 | 映画 | Comments(0)

僕にとってこの作品ほど予備知識にめぐまれた戦前の作品はないかもしれません。

映画史の本や多くの解説書で、この作品のタイトルを一種特別なものとして幾度も目にしてきたからです。

だから、いままで見る機会がなかったことの方が、むしろ不思議なくらいで、豊富な予備知識を詰め込まれすぎたことによって、本人はすっかり見た気になってしまっていたのでしょうか。

その知識が質的にはどれほどのものかと言えば、例えば1年をかけて東北の美しい四季を4人の卓越したキャメラマン(唐澤弘光、三村明、鈴木博、伊藤武夫)がそれぞれの個性で分担して撮ったとか、助監督をつとめた黒澤明と、主演の「いね」を演じた初々しい高峰秀子との間に仄かなロマンスが生まれ、しかし秀子の養母のために瞬く間に破綻したとか、よくよく考えてみれば知っているものとはその程度のたわいもない周辺事情にすぎず、作品それ自体の内容や具体的な評価のことなど、実はなにひとつ知らなかったことを、実際の作品を今回始めて見て思い知りました。

しかし、この作品の内容たるや、耳学問から想像していたものとは相当違っていて、実際の作品の方が遥かに素晴らしいことが分かりました。

解説書では、この映画は、「貧しさに追われながら仔馬の世話をする少女の数年間の生活と、その仔馬が成長して軍馬として売られてゆくつらい別れを描いた作品」というふうに紹介されていて、つまり、少女と仔馬が気持ちを通わせる動物愛情物語みたいなものだと思い込んでいたのですが、その先入観は見事に裏切られ、むしろこの映画は、生活に追われまくっている貧しい農家の主婦=母のゆとりのなさと、そういう母親に対して、大人になり掛けている思春期の少女の反撥という、つまり母娘の葛藤の物語と見るべき映画だと思いました。

そういうふうに考えると、ここに登場する「馬」が、さほど重要なキャラとは思えなくなりました。

思春期の少女が、反撥する母親の馬嫌いを十分に認識していて、その嫌がらせのためにあえて馬を飼うことにこだわっているようにさえ見えてしまいます。

少女が馬への愛情を頑なに保ち続けようとするのは、母親への意地とか、突っ掛かるような反抗心からの行為と見た方が、なにかピッタリくるような気がするのです。

結局、物語的には、最終的な安易な和解によってこの親子の確執は危険な領域にまで踏み込んでいくことはありませんが、ここで見せている高峰秀子の頑なさは、後年の数々の名作で示した優れた演技の片鱗=「頑なな女」を語る上で重要なキイワードになるような気がしてきました。

さて、この映画は、「日本映画専門チャンネル」でたまたま見たのですが、この作品の推薦者・塩田丸男が、高嶺秀子についての面白いエピソードを語っていました。

家族ぐるみで共に旅行にいくほど親しくつき合っている仲だという前置きで、こんなエピソードを語っています。

旅先である旅行者が高峰秀子に写真を撮ってくれと依頼し、それに気楽に応じたというのです。

塩田丸男いわく、「あんたたち、誰に写真撮って貰っていると思っているんだ」(大女優・高峰秀子なんだぞ)といささか憤慨気味に話していました。

まあ、気持ち的には、「たれあろう、この方は、先の副将軍・水戸光圀公であらせられるぞ」みたいなものだったのでしょうが、ハタで聞いていると、あんまりみっともいいものではありません。

そっとしておけば押しも押されもしない往年の大女優なのに、こんな反語的な持ち上げ方をすると、「サンセット大通り」のグロリア・サワンソンみたいに見えてしまいます。

彼らだって高峰秀子と分かっていて黙っていたのかもしれないし、「お前らなあ」みたいな変な追求の仕方をすれば、もっとシビアな現実に立ち会わざるを得なくなる虞れだってないわけではありません。

まあいずれにしても、そういうのを贔屓の引き倒しというのです。分かりましたね、塩田さん。

それからもうひとつ、46年製作のクラレンス・ブラウンの「仔鹿物語」にこの「馬」が影響を与えたのではないかと、ふと思いついて少し調べてみたのですが、どうも僕の思い過ごしのようでした。

それにしても、この2作品、引き比べてみるのも結構面白いかもしれませんよ。

(41東宝東京=映画科学研究所) (監督脚本)山本嘉次郎(撮影)唐澤弘光、三村明、鈴木博、伊藤武夫(美術)松山崇(音楽)北村滋章
(出演)藤原鷄太(釜足)、竹久千惠子、二葉かほる、平田武、細井俊夫、市川せつ子、丸山定夫、澤村貞子、小杉義男、馬野都留子、松岡綾子、清川莊司、眞木順 (127分・35mm・白黒)
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by sentence2307 | 2005-06-13 23:33 | 映画 | Comments(0)

誰も知らない


「親」である必要など、彼女には何ひとつない、と思いました。

男と遊び歩くために、何ヶ月も子供たちを放ったらかしにして、平気で彼らの生命を危険に晒す彼女にとって、子供とは一体なんだったのか、このシビアな作品を見ながら絶望的な思いに囚われてしまいます。

体の関係を持ち、さらに子供まで産ませたうえ去っていった身勝手な男たちを思い出させる面影を持つこの子供たちは、彼女にとって自分の「間違い」や「あやまち」を執拗に思い出さずにおかない辛い「契機」だったはずですよね。

それならなぜ、最初の躓きのとき、その悲痛な「間違い」や「あやまち」(長男・アキラを産んだこと)を教訓とすることなく、まるでその愚を際限なく繰り返すみたいに次々と子供を産み続けたのか、泥沼にみずから踏み込んでいくようなこの彼女の破滅的な部分が、どうしても僕には理解できませんでした。

彼女は、子供たちを入籍することもなく、もちろん学校にも上げず、この「仮名の子供たち」をまるで禁じられたペットのように賃貸マンションの一室で密かに飼い続けています。

そのことを他人に知られることが、なぜまずかったかというと、入居を敬遠される母子家庭ということ以上に、きっと彼女の「幸せ探し」と密接に関係していて、幸せしてくれるはずの未知の男たちを自分に引きとめておくためには、奇妙な子連れだと具合が悪いだろうという、多分ただそれだけの理由のような気がします。

「まさか、それだけの理由で?」と意外に思われるかも知れませんが、おそらく人が、自分のだらしなさを正当化しようと取り繕うその行為は、きっとどこまでも当人のだらしなさから免れようがないものだからでしょう。

しかし、幸せになりたい一心の彼女の男漁りのために、子供たちがとても邪魔な存在(生活費を十分に与えず長期間子供を放置するということは、多分そういうことですよね)だったなら、彼女が子供たちを物凄く憎んでいたかとか、いっそ殺してしまおうとまで思いつめたかというと、そういうことでもないらしい、むしろ作品に描かれている彼女は、不可解ではあったにしろ、子供たちに対して、それなりに愛情らしきものを持っているみたいなのです。

つまり、その「愛情」と呼んでもいいものの延長線上に「親権放棄」という事件が起こるこの違和感に満ちたチグハグな構図を自分なりにうまく納得できなければ、この作品はどこまでいっても苛立ちを募らせるだけで終わってしまうことに気が付きました。

彼女は、ただ自分だけの幸せを求めて男たちと出会い、何の確信もないまま性交し、不用意な妊娠の末に棄てられ、何の手当ても施すことなく、ずるずると失意と絶望の痕跡のような子供を産み続けます。

そして、さらに再び新たな男を求めるというこの繰り返しのなかで、自分が求めようとしている「幸せ」も、現在の泥沼のような「不幸せ」も、彼女の生き方・愛し方自体がもたらしたもの、誰ひとり幸せにも安らぎを与えることもできない彼女のだらしなさに帰することに気づかないままでいます。

例えば、「どうして学校へ行かせてくれないんだ」と抗議する長男・アキラに、母親はこう言い返します。

「私は幸せになっちゃいけないの? 一番勝手なのはあなたのお父さんじゃないのさ。私達をほったらかして出て行って」

みんなお前の父親が悪い、みんな私を棄てた男たちが悪い、こんなに酷い目にあっている私を蔑む世間が悪い、私は少しも悪くない、あんたなんかにそんなこと、とやかく言われたくない、と声を荒げるそうした彼女の生き方や愛情のかたちを理解できなければ、子供たちを放置したまま親権を放棄する彼女が同時にそれなりの母性愛を併せ持つということを理解することは、難しいかもしれません。

この作品の衝撃性は、きっと子供たちを棄てる大人たちの「身勝手」な描写を抑えて、むしろ、棄てられた子供たちが、どういうふうに食べつないでいったか・そして食べていけなくなったかという描写に徹しているからだろうと思います。

身勝手な大人たちが、欲望のままに享楽にふけっているまさにそのとき、食べ物が尽きて徐々に衰弱していく子供たちの透き通った1年間の、惨たらしい「子供たちの時間」が描かれ、観客誰もが「子供たちにどんな責任がある」という苛立ちと憤りに囚われながら、その向こうに無責任な大人たちの実像がくっきりと浮かび上がってくるという鮮烈な映像的効果に僕たちは撃たれたのだろうと思います。

これがもし物語の視点を「身勝手な大人たち」にしぼり、都会の砂漠で生き惑う孤独な人間たちを描いて、ほんの微かでも理解の芽を観客に抱かせていたら、この作品が、こんなにも厳しい仕上がりにはならなかったかもしれませんね。

この世に生まれたこと、そしてこの現実を生きていることさえ認知されず、もとより誰からも愛される機会もなく、ただ社会から拒まれ続け、その生をただの一度も認識されることのないまま、人知れず葬られていった幼女と、彼女を葬った悲痛な兄の姿をこめて、この映画を「誰も知らない」とタイトルしたのでしょう。

微かな怒りと否定を遠慮勝ちに込めたこの拒絶の言葉の意味が、しばらくは僕を苦々しい感動で苛立たせるだろうなと思っています。

それはちょうど、ロベール・ブレッソンの「少女ムシェット」を見たときの衝撃と似通っているような気がします。

監督・脚本・編集・製作・是枝裕和、撮影・山崎裕、録音・弦巻裕、美術・磯見俊裕、三ツ松けいこ、音楽・ゴンチチ、スチール・川内倫子、広告美術・葛西薫、
柳楽優弥、北浦愛、木村飛影、清水萌々子、韓英恵、YOU
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by sentence2307 | 2005-06-12 10:54 | 映画 | Comments(0)

鶴八鶴次郎

ここのところ立て続けに、長谷川一夫と山田五十鈴の共演作を見る機会がありました。

「鶴八鶴次郎」38と「或る夜の殿様」46です。

とくに「鶴八鶴次郎」での山田五十鈴の初々しさには目を見張りました。

なんとなく共演作が多いなという印象だった長谷川一夫との、これが最初の共演作と知って、なんか納得してしまう素晴らしさです。

なので、ひとまずこの作品から無理して成瀬巳喜男らしさを見つけようとか、芸道ものの哲学とは何かなどと無粋なことはこの際おいといて、ここは素直に「映画の資料漁り」の愉しみに浸ることにしました。

長谷川一夫が、松竹に入社して一番最初に撮った「稚児の剣法」から、大映の「雪の渡り鳥」までの248本の主演映画で共演した女優さんたちの人数とその共演回数の統計というのがあります。

共演した人数はざっと104人、さらに、それらの女優さんの名前が共演回数の多い順に掲げられているという統計資料です。

ざっと書き写してみますね。

千早晶子38、山田五十鈴20、山根寿子20、飯塚敏子18、山本富士子14、井上久栄14、長谷川裕見子13、若水絹子12、浦浪須磨子11、入江たか子11、木暮実千代9、京マチ子8、高峰秀子8、田中絹代7、花井蘭子5、水戸光子5、乙羽信子5、高峰三枝子5、香川京子5、李香蘭3、轟夕起子3、三条美紀3、若尾文子3、岸恵子2、島崎雪子2、嵯峨三智子2、角梨江子2、美空ひばり2、淡島千景2、

という具合です。

この数字の信憑性や詳細を確かめるスベもなく、あるいはきっと、女優さん同士が複数で共演している作品もあるでしょうから、単純な足し算で「204本」という数字はでてこないかもしれませんね。

また共演回数なども、確かな資料で数えたわけでないことを念頭において読んでください。

そしてこの統計には、備考として、舞台で共演した女優さんたちの名前も、回数とともに付記されていました。

山田五十鈴15、花柳小菊 5、小夜福子 5、越路吹雪 5、

です。

映画で共演回数38回と最も多く共演している千早晶子という女優さんは、長谷川一夫が松竹入りして以来、会社からカップリングされた共演者で、入社したての頃の6巻ものから8巻ものの作品に共演していた女優さんです。

例えば、松竹に入社したその昭和2年には、最初の3本「稚児の剣法」、「お嬢吉三」、「乱軍」を除いた以外の作品11本(鬼あざみ、勤皇時代、板割浅太郎、女夫星、御用船、破れ編笠、暁の勇士、紅涙、蝙蝠草紙、月下の狂刃、天保悲剣録)すべてにその名前が見られますから、後年の山田五十鈴との共演と同じに考えるよりも、ちょっと条件付で考えた方がいいかもしれません。

こう見ていくと、やはり山田五十鈴との共演回数がダントツで、いかに息の合ったコンビだったかが分かりますよね。

資料によると、長谷川一夫と山田五十鈴との縁について意外なエピソードが残っています。

一夫の母マスは、一度他家に嫁いで3人の子供をもうけたものの、その後離婚し実家である弟・宗次郎の家に帰っています。

宗次郎という人は市会議員などもするかたわら、大手座という芝居小屋や活動写真館を3軒も経営する地元の名士でもあり精力家だったようで、長谷川一夫はこういう恵まれた雰囲気のなかで成長したわけですが、その大手座に山田五十鈴の父親・山田九州男率いる劇団もたびたびやってきて公演したという記録が残されているそうです。

まったく、奇しき縁というやつですよね。
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by sentence2307 | 2005-06-05 08:57 | 映画 | Comments(2)