世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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<   2006年 03月 ( 6 )   > この月の画像一覧

リービング・ラスベガス

これはあるサイトで偶然みつけた「リービング・ラスベガス」について書かれたコメントです。

そこには、こんなふうに書かれてありました。

「ほんとうに癒されたいなら、この映画を薦めます。
ちなみに、この物語をつくった原作者ジョン・オブライエンは、この作品をつくった後、拳銃自殺したそうです。
本人もアル中で、この映画はいろんな意味で重いでしょう。
癒されます。」

これが原文そのままのすべてです、もちろんこの文章に作為など一切ほどこしていません(読点だけは、つけさせてもらいました。)。

普通なら、こういった一見無神経なコメントには、深入りせずに、まずは拒否反応を起こすか、面倒ならそのまま無視してしまうだろうと思います。

アル中であれ何であれ、とにかく人が絶望のなかでボロボロになって自殺を選んだという深刻で悲惨な事態を受けて、いささかの逡巡もなしに、短絡的に「癒されます」はないだろう、いったいどういう神経をしているんだ、くらいは当然考えるだろうと思います。

でも、ひとつここは冷静になって「リービング・ラスベガス」を見て癒される人というのが、いったいどういうタイプの人なのかと、しばらく考えてみることにしました。

そもそも、この素っ気ないくらいの短い文のなかで、最後に書いてある「癒されます」という言葉が受けているフレーズはなにかといえば、どう考えても「ジョン・オブライエンの拳銃自殺」くらいしか見当たりません。

絶望的なアル中で、もはや死ぬことしか選択の余地がないような最悪な局面に追い詰められた人物が、案の定抜き差しならぬ自殺を遂げたのを見定めて、「ああ良かった、彼は死ぬべくして死んだのだ」とかなんとか納得して、このコメンテーターは、快活に「癒された」と表現したのでしょうか。

いやいや、きっとそうではないと思います。

なんだか、大事な部分が欠落しているこの舌足らずな短文を完成させたい誘惑を感じてきました。

この作品「リービング・ラスベガス」に対する多くの人の感想は、多かれ少なかれおそらく「戸惑い」だったと思います。

映画は全編にわたってニコラス・ケイジ演ずる元脚本化の男が、まるで自分を傷みつけるかのように(自殺行為のように、と言った方がいいくらいです)破滅的にひたすら酒を飲み続けるという物語です。

死に至るラストまでの間に挿入されるエピソードといえば、男が前後不覚になるまで酔っぱらい、訳が分からなくなって衆目の前で暴れまわり醜態をさらし、そのためにさらなる自己嫌悪を積み上げて絶望するということの繰り返しです。

しかし、この男は、たとえ自己嫌悪に陥っても、そのために酒をやめるというわけではありません。

彼はさらに酒を飲み続け、酔いつぶれ、目を覚ましては、自分がまだ生きていることを知ると、再び浴びるように酒を飲み続けます。

ひたすら死に向かって疾駆するこの破滅的な男の頑なさをこうまで見せ付けられると、不思議なことに次第に、この男が受けた傷の深さが分かるような気がしてきました。

多分、普通の人間なら、なんなく遣り過ごせるか、あるいはダメージを受けたこと自体気付きもしないような、そんな些細なことにかくも深く傷つくてしまうこの元脚本家の弱さに、すっかりすれてしまった僕たちが既に失ってしまったこの世界では到底生きていけない純粋さを見出すことになるのかもしれません。

このひたすら死に向かう男を、好意を持って見守る娼婦が、自分も傷ついて初めて知るこの男への「共感」こそ、生きることに何の力にもならない純粋さの証しのような弱さ、まさに滅ぶべくして滅びる純粋さを見出して行く過程に、生きることにすっかりすれてしまった僕たちは「癒し」を感じたのかもしれません。

この映画は、もうひとつの「バニシング・ポイント」かもしれませんね。
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by sentence2307 | 2006-03-30 23:48 | 映画 | Comments(0)

村八分

偶然ですが、CSで現代ぷろだくしょんの作品を2本立て続けに見てしまいました。

農村の閉鎖性を描いた「村八分」53と東洋のマタハリといわれた川島芳子を描いた「燃える上海」54です。

この辺の知識はもっぱら書籍から仕入れているのですが、日本の独立プロの隆盛を高く評価したことで有名なジョルジュ・サドゥールが、1955年当時、こんなことを書いています。

「日本の進歩的映画は、きわめて良心的かつ効果的に、つぎのようなテーマを目指している。
すなわち、軍国主義の告発による戦争反対の闘争(真空地帯、日の果て、雲流るるはてに、)、アメリカの戦争犯罪(原爆の子、ひろしま)、占領による不幸(混血児)、労働者階級による闘争の鼓舞(どっこい生きている、赤い自転車、蟹工船、女一人大地を行く、太陽のない街)、貧農の闘争(箱根風雲録、村八分、米)、民衆の独立と文化遺産の称揚、日本資本主義の告発、等。
1952年~54年に日本の進歩的映画人は、一連の主要作品を生んだが、それはイタリア・ネオリアリズム派を凌駕するかとさえ思われる。
ローマは、資本主義諸国の映画界において、東京の好敵手である。」

そして、サドゥールは、その著「世界映画史」においては、さらに踏み込んで「1950年以降、日本のネオ・リアリズムは、その力強さと飛躍の点でイタリアを凌駕したように思われた。」と書いています。

「進歩的映画人」の行き過ぎた左傾化を警戒した日本の大手映画資本の、硬軟取り混ぜた圧力によって一斉に攻勢をかけてきた苦しい製作状況がまずあって、仕方なく選択された「独立」という苦しい部分もなかったわけではないにしても、やはり表現の自主性を守るという高潔な選択が、海外の映画人の注目するところとなったのだろうと思います。

イタリア・ネオリアリズムが、あくまでも「人間」の根源を見据えて、やがて感傷的な叙情に流れていったのに対して、日本の独立プロダクション運動は、遙かに政治色が強く、それだけに映画そのものの仕上がりには、首を傾げたくなるようなものもありました。

この「村八分」という作品は、そういう一作かもしれません。

この作品は、選挙のとき村で公然と行われていた替え玉投票(不在者の投票用紙を集めて、それを任意の者に替わって投票させるもの)を、ひとりの少女が疑問に思って新聞社に投書したことから、大騒ぎになり、一家が村中の非難を受けて総スカンされる、いわゆる村落の因習的な閉鎖性を告発した映画なのですが、上記でサドゥールが分類したカテゴリー「貧農の闘争」にはちょっと当て嵌まらないかもしれません。

むしろ、「貧農との闘争」と言った方が相応しいのではないかと、この映画を見ながら思いました。

この映画に描かれている「八部」は、タテマエとしては、村のボス的実力者に抵抗できない貧しい村民たちが致し方なくやっていることかもしれませんが、しかし、実は、村の利益に反するようなことをした裏切り者は排除するという農民たちのダークな「自主性」もしっかりと描かれているように感じます。

この映画は、八部によって近所の助力を得られず、苦慮している一家を(話し合いによって、こういうことは間違っているという結論に達した)学生たちが大挙して救うところで終わります。

こういう終わり方をどう見るか、これを果たして希望に満ちた終わり方といえるのかどうか、ちょっと迷います。

結局、一家を排除した村の農民たちは、誰一人現れず、作られた溝は埋められないまま、無知で、そのうえ因習固陋に凝り固まった農民など啓蒙するに値いしない、何の望みもない存在だと打ち棄て、無視し、こっちはこっちで勝手にやるさ、あのドン百姓ども、むしろこっちから無視してやるぞみたいな、なんともかんとも、とにかく絶望的なラストということだけは、よく分かりました。

(53近代映画協会=現代ぷろだくしょん)監督・今泉善珠、脚本・新藤兼人、撮影・宮島義勇、音楽・伊福部昭
出演・中原早苗、山村聡、乙羽信子、日高澄子、菅井一郎、藤原釜足、英百合子、殿山泰司、山田巳之助、御橋公
1953.03.21 10巻 1,575m 95分・モノクロ
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by sentence2307 | 2006-03-26 22:36 | 映画 | Comments(1)

ブルース・リーの思い出

映画鑑賞券に回数券が作られたらしいというマコトシヤカなジョークが、あながち嘘とは思えないほど爆発的にヒットした「燃えよドラゴン」を見たとき、僕たちがまず驚いたのは、映像的な合成や誤魔化しを一切廃した今まで見たこともない鍛え上げられた肉体そのものの驚異的な動きに対してでした。

なにしろ、それまでスクリーンの中の俳優たちが、どんな行為でも可能だったのは、あくまで「特撮」という操作があってのうえのことだったわけですから、役者をはじめ映画人の誰もが自分の肉体をあそこまで鍛え上げる必要など少しも考えていなかったわけで、それは異文化遭遇などというものとはまったく別種のもっと根源的な映画の作り方それ自身への、あえて言えば敏捷な動きとともに発せられる今まで聴いたこともないあの独特の奇声に対する次元の異なる驚きが、あるいはそのことを象徴していたのかもしれません。

「特撮」というものに対する挑戦、さらには特撮に守られていたそれまでの微温的な映画の在り方そのものと、映画人に対する侮蔑のように僕には感じられました。

そして、そのヒットによって他のブルース・リー出演作の公開がすすむにつれて、それら諸作品の内容のどれもが、あからさまな反日的な内容であるという奇妙な成り行きに戸惑った記憶があります。

加熱するブルース・リーの人気が、少しずつ捻じれを生じ始めているときに、こんな噂も耳に入ってきました。

ブルース・リーがまだ無名時代の折、羽田空港に降り立ったときに受けた日本人からの侮蔑的な対応というのが、それらの作品の内容に相当影響しているらしいというのです。

しかし、そういったモロモロの障害をなぎ倒して、とどまることなくこの突然の人気が長い間保ち得たのは、既にブルース・リーがこの世にいないという不在感=空虚さだったのではないかと感じていました。

力と虚無、不在と幻想、現実には既にいない死者のまぼろしを映像として見ていることの戸惑いと頼りなさは、そのまま「映画」というものの在り方を考えさせるのに十分なヒントを与えてくれたのかもしれません。

まあ、いまどき、ブルース・リーの思い出に浸っている人なんか、いないでしょうけれどもね。
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by sentence2307 | 2006-03-26 12:07 | 映画 | Comments(1)

RAY/レイ

この「伝記映画」を見て、レイ・チャールズという人が、果たして本当に理解できるだろうかというのが、この映画に対して最初に僕が抱いた疑問でした。

多分それは、僕自身この映画を見終わったあと、これではレイ・チャールズという人物が掴み所のない紋切り型の人間にすぎず、かえって「親近感」から遠ざけられてしまうのではないかという思いと物足りなさを感じたからかもしれません。

この映画の主要なストーリーのひとつは、レイ・チャールズが子供のとき、弟を目の前で溺死させてしまった罪の意識と自責の念に苛まれながら、苦悶のなかで半生を生きた物語になっています。

その煩悶と痛ましい記憶からの救済が描かれている部分は、まるで心理学の事例学習の授業を受けているようで、僕には、ただ無味乾燥な図式的にしか見えず、むしろこの映画に対する感動を却って殺いでしまった感じがしました。

まあ、それにしても、確かに、この映画を見て、天才というものが、どのような逆境のなかにあっても、それ自身、まるで宝石のように輝きを放つものであることはよく理解できました。

たとえ、レイ・チャールズその人が深刻なヘロイン中毒で、金のために、歌手の才能を大事に育て上げることをコンセプトとした小さい良心的なレコード会社より、売り上げ最優先のメジャーなレコード会社に移籍したからといって、そのこと自体が果たして天才の盲目歌手レイ・チャールズを変質もしくは歌を荒廃させたかといえば、決してそんなことはなく、同時代的に彼の歌を聞いてきた僕の僅かな経験・知識からいってもそれは断言できるような気がします。

例えば、レコード会社を移籍したことで、その後のレイ・チャールズの歌った歌から「ゴスペル」の魂を奪ったのか、しかし、そのこと自体が彼への非難の対象になっていたのかは映画から判断することはできませんし、また僕自身見当もつかないのですが、もともと彼の歌が、ゴスペル・ソングのスタイルだけを借りていたのであって、多分その「魂」とは無縁でしかなく、きっとそれは似て非なる異質のものだったのだと思います。

映画のなかでも、ゴスペルをあんな下卑た歌詞で歌うことは許さないという市民の非難する場面も描かれていましたよね。

かつて、クララウォード・シンガースが初来日した際(もう随分以前の話です)、日本人にはあまり馴染みのなかったゴスペル・ソングに初めて接したとき、レイ・チャールズの歌っている歌が歌詞も含めてゴスペル・ソングとは似て非なるものだという認識が、その歌を聞いた誰にもきっとあったと思います。

ですので、この映画を見終わった後の深い違和感が、そういったところから発せられたものでないことだけは、あきらかです。

いつも感じていることのひとつに、こういった「事実に基づく映画」には、事実が虚構を裏切るというか、「脚色」部分が「事実」の部分から剥がれ落ちていく瞬間に遭遇することがたまにあります。

一言で言うなら「物語をどのように飾り立てようと、虚飾の部分は次第に剥落し、やがて事実という地肌がおのずから剥き出しに顕われてしまう」ということでしょうか。

おそらくこの映画で最も輝いている部分は、レイ・チャールズという人の不可解なまでの好色さです。

大衆から絶大な支持と尊敬を集め、本人も歌うことを大切にしていると同じように、家庭もまた大事にしようとする誠実さは、よく描き込まれていると思います。

しかし、それと同時に、女と見れば誰彼構わず口説きにかかる不可解なほどの彼のスケベな性癖もまた丹念に描かれているというこの一見矛盾した性格破綻者ぶりもまた、なんのフィルターも掛けることなく描きこまれています。

なにも「誠実な家庭人」が、スケベであってはいけないことなど何一つありません。

例えば良き家庭人である「おとうさん」が混雑した通勤電車で、たまたま手の届く距離に若いОLのキュートなお尻があって、「つい」なんてこともありがちなことですしね。

しかし、この映画で描かれているレイ・チャールズの好色さは、もっと根深く、ただならぬものを感じました。

この映画のあらゆる嘘っぽいところ=虚飾の部分が自然に剥落していくのに任せていると、最後にひとつの実感的な場面だけが残ります。

それはレイ・チャールズが初対面の多くの女たちに握手する場面です。

握手しながら彼は、女たちの手首の細さを、まるで女の体の具合を確かめるかのように弄っています。

好色の匂いのするこの性的な仕草は、多分レイ・チャールズが日常的に何気なくしていた「形態模写」そのままの無意識的な描写だったと思いますが、そこにはレイ・チャールズが、善良な家庭人であると同時に、ヘロインに対してまるで無抵抗(そう見えました)に溺れ込んでいったように、過剰な性への欲望に対しても、きっと「そう」だったのだと思います。

そのような相容れないものを、この映画は、何の注釈も付けずに並列的に描いて、僕たちの前にそのままの形で投げ出すしかなかったこの違和感=どのように飾り立てようと厳然と「そこに在る事実」と、それゆえの矛盾をそのままの形で無意識に提示するしかなかった演出の無力を感じずにはいられなかった不思議な作品でした。

(05米)監督テイラー・ハックフォード、製作ハワード・ボールドウィン、カレン・エリス・ボールドウィン、ウィリアム・J・イマーマン、スチュアート・ベンジャミン、テイラー・ハックフォード、製作総指揮ウィリアム・J・イマーマン、ジェイム・ラッカー・キング、原案テイラー・ハックフォード、ジェームズ・L・ホワイト、脚本ジェームズ・L・ホワイト、撮影パヴェル・エデルマン、編集ポール・ハーシュ、音楽レイ・チャールズ、クレイグ・アームストロング
(出演)ジェイミー・フォックス、ケリー・ワシントン、クリフトン・パウエル、ハリー・レニックス、リチャード・シフ、アーンジャニュー・エリス、シャロン・ウォーレン、カーティス・アームストロング、レジーナ・キング、テレンス・ダッション・ハワード、ラレンズ・テイト、ボキーム・ウッドバイン
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by sentence2307 | 2006-03-25 13:54 | 映画 | Comments(2)
イーストウッドのこの作品に、明るいスポ根ものや、楽天的なサクセス・ストーリーを期待して見たら、それはやっぱり、幾つかのコメントでみられたとおり、ちょっと苛立たしげな「なんだ・これ」的な感想になってしまうのも無理のないことかもしれません。

それはきっと、この作品が、そういった明るさや楽天的な向日性の世界から遙かに背を向けた孤独な人間たちの心の闇を描いた作品だったからだろうと思います。

ここ最近イーストウッド作品に強く感じる凄惨な孤独の深さ=死の影は、きっと老境に差し掛かったイーストウッド自身の心境と無関係ではないだろうと思います。

だから多分、生きていく時間がまだまだたっぷりとある若年者には、不可解を通り越したある種の嫌悪感→拒否反応さえ抱かせてしまうのかもしれません。

この作品に登場する人物の誰もが、他人と折り合うことがあまり上手くない人間たちで、他人との距離を測れずに人生における大切なものを次々と失わねばならなかった、そんな喪失感を抱えながら孤立のなかで生きてきた不器用な人間たちです。

ボクシング・ジム「ヒット・ピット」の経営者にして老トレーナーでもあるフランキーは、失った家族への思い=実の娘との関係を修復できないでいます。

何通にもわたる娘に宛てた手紙は、すべて封が切られることなく、そのまま返送されてきて、彼はその手紙《痛み》を、まるで大切な宝物のように整然と収納箱に収めていきます、まるでその行為だけが、フランキーにとって老年を生きている証しででもあるかのように、そんな無残な自虐のなかで生きている孤独な男です。

そして、このジムで雑役夫として働いている片目の視力を失ったスクラップにしても、ボクシング以外の場所では最早生きていけそうにない・生きていくために必要な「光」もまた、惨敗したかつてのタイトルマッチと一緒に失ってしまったような偏屈な老人です。

そうした彼らが持っている他者とコミュニケートできる唯一の方法が、象徴的に聞こえるかもしれませんが、相手に素手で殴りかかることだけなのです。

この悲惨な物語に底知れない悲しみが潜んでいるとしたら、それは、そのような絶望的な方法・殴り掛かることでしか他人に接する「技術」しか持ち合わせていない人間が描かれていたからでしょうか。

フランキーは、自分が大切に育て上げた有望なボクサー・ウイリーを、まさにその「大切に育て上げた」ために愛想づかしをされて去られた後、女性ボクサーになることを夢見ているマギーに出会います。

彼らにとって、それぞれが抱えている「家族」が、彼らを苦しめるだけの存在でしかないことが分かると(連戦連勝したマギーが勝利で得たファイト・マネーで貧しい家族に家を購入してあげようとすると、逆に生活保護を断ち切られることになる家族の拒絶と嘲りに遭うのをフランキーが目の当たりにしたとき)、「家族」というものから拒まれた者たちだけが分かち得る互いの孤独を知り、深い絆で結ばれていきます。

そして、フランキーにとって、かつて自分が大切にしてきた信条「選手を大切に育て上げる」ため、あまりに慎重になったことで多くの愛する者たちを失ってきた辛い記憶が、マギーに運命のタイトルマッチへ挑むことを許してしまい、しかしそれが、やがて試合中、不慮の事故によってマギーを全身麻痺の状態に至らしめ、かえってフランキーにさらに深刻な罪の意識を与えてしまいます。

世の中には、一生皿洗いや雑役夫で終わる人生がざらにあって、そのような人生を生きねばならない多くの人々にとっては、自分の欲したことが何ひとつ為し得ないまま、意に添わない仕事で大切な時間を空費して人生を終えようとしている悔恨に比べれば、自分のやりたいことを実現でき、生きた証しを得て一瞬でもその生を輝かせたマギーは、きっと満足しているはずさ、と雑役夫スクラップはフランキーを慰めます。

それは、フランキーへの慰めでもあり、マギーへのハナムケでもあり、なによりも自分自身の人生に誇りを持ちたいと思う切実な励ましの言葉だったかもしれません。

整然と順を追ってこのように見てくると、この作品は、まったく救いのない映画といえるでしょう。

途方にくれて呆然と立ち尽くすフランキーの影や、暗闇の中でサンドバッグをうち続けるマギーのシルエットだけの立ち姿が、これほど生きていることが頼りないもので、一人ぼっちであると実感させる場面に、最近はついぞ出会わなかったという深い思いに囚われました。

生ける屍となったマギーに人間としての尊厳と死の安らぎを与えたフランキーもまた、静かに何処ともなく立ち去り行方知れずになってしまうというこのラストには、死のまぎわに見せたジョン・ヒューストンの「ザ・デッド/ダブリン市民より」で描かれた、この世から立ち去る者たち=THE UNFORGIVENの静かにして荘厳な覚悟みたいなものを連想してしまいます。

そうそう、思えばイーストウッドには、「ホワイトハンター ブラックハート」という作品もありました。

思いつきですが、ここのところイーストウッドが描き続けている異常な執念に生きた男たちの物語が、なんだかジョン・ヒューストンへのオマージュなのかもしれないなという気がしてきました。


《参考》
ジョン・ヒューストン
放浪癖、大酒飲み、破天荒な伝説のなかに生きた映画監督ジョン・ヒューストンは俳優一家に生まれた。
父は名優ウォルター・ヒューストン、母は女優のレア・ゴーレの間に生まれ、3歳で両親と共に初舞台を踏み、その後も両親の巡業についてまわるが、子供の頃は病弱だった為にボクシングなどで体を鍛える。
学校を中退してボクサーとなり、14歳でアマチュア・ライト級のチャンピオンとなり、19歳の時にはオフ・ブロードウェイの舞台に立つが、突然メキシコに渡って騎兵隊に入隊する。
その後は、ホースショーの芸人や小説の執筆などの仕事を経て再び俳優として舞台や映画に端役として出演、1928年に最初の脚本『Frankie and Johnny』を執筆、32年には父親の助けもあってユニヴァーサル社と脚本家として契約を交わす。
ユニバーサルで父親が出演する『北海の漁火』32の脚本などを手掛けるが、『モルグ街の殺人』32の脚本執筆後ハリウッドを離れてヨーロッパに放浪の旅にでる。
ヨーロッパから戻ってくると、38年にワーナー・ブラザーズ社と契約して『黒蘭の女』38、『偉人エーリッヒ博士』40、『ハイ・シェラ』41などの脚本を手掛ける。
41年には自ら脚本を執筆した『マルタの鷹』で念願の監督デビューを果たし、ダシール・ハメットの原作を忠実に映画化して高い評価を得て、脚本家としてだけでなく監督としても高い評価を得る。
40年代は『ヨーク軍曹』41の脚本やハンフリー・ボガート主演の『Across the Pacific』42等の戦意高揚映画などを手掛け、第二次世界大戦が激化すると通信隊員として参戦してアラスカの防衛を題材にしたドキュメンタリー映画を手掛ける。
戦争が終結するとハリウッドに戻り、ノー・クレジットで『殺人者』46や『ストレンジャー』46等の脚本を手掛けた後、ワーナー・ブラザーズに戻ってボガートと父親のウォルターを起用した『黄金』48を手掛ける。
映画は興行的な成功を収めただけでなく、父親にアカデミー助演男優賞をもたらし、ヒューストンは監督賞と脚本賞を獲得する。
ワーナーで『キー・ラーゴ』48などを手掛けた後、M-G-M社に移籍してフィルム・ノワールの傑作『アスファルト・ジャングル』50を手掛ける。
続いて、彼の最高傑作と謳われたオーディ・マーフィー主演の南北戦争映画『勇者の赤いバッジ』を手掛けるが、彼が次回作『アフリカの女王』51製作の為にアフリカに渡ると、スタジオは再編集して公開し、映画は興行的に惨敗して失敗作の烙印を押されてしまう。
ヒューストンはアフリカで映画の撮影よりも象狩りに夢中になり、撮影も自然の災害によって過酷を極めたものの、映画は大ヒットして彼の人気は回復する。
57年の『武器よさらば』では、製作者のデビッド・O・セルズニックと対立して監督の座を追われたものの、文豪ハーマン・メルヴィルの文芸大作を映画化した『白鯨』56や、マリリン・モンローとクラーク・ゲイブルの遺作となった『荒馬と女』など見応えのある良質の作品を送り出す。
しかし、60年代に入ると『許されざる者』60や『イグアナの夜』64など批評的にも興行的にも失敗する作品が多くなる反面、俳優としての活躍が目立つようになり、アカデミー助演男優賞にノミネートされた『枢機卿』63や『チャイナタウン』74などに出演して父親譲りの好演技を披露する。
晩年はシルベスター・スタローン主演の『勝利への脱出』81、ヒット・ミュージカルの映画化『アニー』82、彼の娘アンジェリカの出演する『男と女の名誉』85と彼の遺作となった『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』87などを手掛けて、『男と女の名誉』ではアンジェリカにアカデミー助演女優賞をもたらし、親子三世代に渡るアカデミー賞の受賞を果たす。
また、アンジェリカの兄トニーは『ザ・デッド』の脚本を手がけ、二人の異母兄弟のダニーは88年にヒューストンの脚本をもとに『ミスター・ノース 風を運んだ男』を監督する。
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by sentence2307 | 2006-03-18 09:52 | 映画 | Comments(0)

曲解・滝の白糸

「滝の白糸」といえば、ポピュラーすぎてもう十分に知り尽くしていた積もりでいたので、自分としては「なにをいまさら」という気持ちが強すぎて、もう随分と長い間この溝口作品を見ていませんでした。

多分没後50年というこんな機会でもなければ、これほど超有名な悲恋物語「滝の白糸」を、あえて見ることも、また、見ようという気持ちが動くこともなかったと思います。

しかし、考えてみれば、この「滝の白糸」は、溝口健二の作品群のなかでも格別に重要な位置を占めている作品ですし、溝口健二の作品系列を考えるうえから、そしてまた、この作品以後、夥しく撮られていくこととなる亜流作品への影響を考えるうえからも、「大悲恋物語」という固定観念に囚われることなく、もっと自由な発想で、この歴史的な名作「滝の白糸」を鑑賞できたらいいなと考え、今回は、じっくりと腰をすえてこの作品を見てみようと思い立ちました。

そんなふうに見ていくと、白糸と欣弥が辿るふたりの関係の壮絶悲惨な破綻が、そのまま恋の成就として完結する暗黙の大前提になっているはずの彼らの関係が、それほどゆるぎなく完全無欠か少し疑問が湧いてきました。

「滝の白糸」を見ながら、いつも思うのですが、激しい恋に身をこがし、やがて自ら破滅していく白糸の激情に目を奪われていると、この映画のもうひとりの主人公・村越欣弥の姿が霞んでしまうことがいつも気になっていました。

それでなくとも地味目な岡田時彦が演じる村越欣弥の存在感の希薄さが、その思いを一層強くさせるのかもしれません。

燃え尽きるような激しく生きた白糸に比べ、村越欣弥もまた同じように白糸の思いをしっかりと受け止めて、彼女に応えることができたのかといえば、残念ながら常に疑わしい思いに囚われ続けたと言わざるを得ません。

白糸は、愛する人のためなら、人殺しさえも厭わない激しい恋に身を挺します。

欣弥は、黙秘を続ける白糸がもし自白すれば彼女は死刑になると分かっていながら、あえて彼女に自白するよう、そして潔く法の裁きに服すよう勧め、そして彼女が死刑判決を受けるや、欣弥自らもまた自殺を遂げるというこの物語の結末は、白糸と欣弥が完全無欠な愛情を保っていたならば「大悲恋物語」たり得るわけですが、どうもここがどうしても納得できないのです。

高名な女芸人として裏社会のなにもかもを知り尽くし、人気の水芸一座を切り回してきたような、かなりダークなカリスマ性を持った親分肌の女性と、乗合馬車のしがない御者でしかない青年との組み合わせに、普通の感覚からすると、これを「愛」なんかで結びつけるのには、かなり無理があるのではないかと思ってしまうのです。

きっとそれは、この二人の関係の出発点を「苦学生・村越欣弥に対し好意と善意から学費を援助してあげる」とでも設定しておかないと、白糸が金のために刃傷沙汰におよぶ血なまぐさい修羅場が、単に金銭をめぐって欲望と欲情とが絡み合うどろどろの、騙し合いと殺し合いにすぎない単なる痴情事件と堕し、物語としての収拾がつかなくなってしまうからだろうと思います。

例えば、白糸は金の力で村越欣弥の体を買ったのだと想定してみましょう。

優れた統率者なら一座の中から情事の相手を選ぶことの危険、つまり自分の支配力を自から弱め破壊するような常軌を逸した行為を選ぶとはどうしても考えにくい、単なる遊びの相手なら、なんの力もなく、弱弱しい男、金の力が最も効果的に伝わる貧しい男・つまり村越欣弥こそが望ましかったのだという気がします。

この映画の初めの部分では、白糸を「男嫌い」と紹介して、それとなく彼女の純潔性を強調しているのは、村越欣弥とだけ一本で結び合わせる劇的効果を狙ったミエミエの設定なのでしょうが、当然ここには嘘の匂いが付きまといます。

現実の、実話ふうな下世話な解釈を当て嵌めるとすると、おそらく白糸には、欣弥の学費以外の、むしろメインは別のどうしても必要な金があって、そのために金貸しを殺したのに、その理由付けに、とってつけたような村越欣弥の存在を無理やり結びつけたのではないかと考えてしまいました。

もはや反証が困難なくらいに追い詰められ、ついに事実を告白しなければならない破目に陥ったとき、海千山千のテダレの女芸人なら、苦し紛れに「私は愛する人のために、人を殺めた」くらいなことは言ってのけるかもしれません。

「自分は金欲しさから、金貸しを刺し殺した。ざまあみろ」なんて言うよりは、世間的な受けを計算してもその方がずっと有利だったでしょうし。

こう考えてくると、この物語の裏には、もうひとつの物語・村越欣弥の物語が隠し絵のように秘められているような気がしてなりません。

映画では、欣弥は、法に服させるために黙秘を続ける白糸を説諭して殺人を犯したことを自白させます。

そして白糸が死刑判決を受けると同時に、欣弥自身もピストル自殺をしてしまいます。

それほどまでに法に服することが大切だったのか、しかし、最も愛する人を、お互いがそれぞれの死に追いやってまで、それほどの犠牲をはらってまで、法は守るべき大切なものなのかという結論で、本当に「滝の白糸」はいいのか、迷いました。

最愛の人を死なしてまで法の大切さをアピールするなんて、どこにそんな必要があるでしょうか。

欣弥の自殺する理由をふたつほど考えてみました。

ひとつは、死刑判決を受けた白糸の後を追って(実際は、収監されているだけで刑の執行はまだのようですが)自殺するという悲恋物語の側面、もうひとつは、白糸が因業な金貸しを殺し、そして強奪したその金の一部を(検事の職にあるという)自分が受け取ってしまったという罪の意識が考えられると思います。

いままでの自分は、もっぱら前者のすっきりとした悲恋物語の考え方を疑いもなく支持し、欣弥が何故自ら死を選んだのか深く考えたことはありませんでした。

ラストの法廷の場において白糸に自白を迫ったあの時点で、欣弥は既に自ら死ぬことを決意したと思わないと、この物語の辻褄が合わなくなります。

そのとき欣弥は、彼女のいないこの世になど生きていても仕方がないと考えたのか、あるいは死を賭けてまで法を守ることを選び遵法の精神に殉じたのか、しかし、僕は、おそらくこのいずれでもないと思います。

例えばひとつの仮定として、こんなふうに考えたことがありました。

白糸の嘘の自白をそのまま黙認して、彼女から金を奪った殺人の嫌疑の掛かっている「親分」に罪を被せ、彼女に自由を与える、検事なら別に出来ない仕事ではなかっただろうと。

白糸を心から愛し、そして命より大切な人と思うなら、「法」くらい捻じ曲げて晴れて彼女と幸せに暮らすことを選ぶことだって不可能なことではなかったはずだし、むしろそうする方が、人を殺め法を犯してまで欣弥に尽くそうとした白糸の思いに報いる黒い愛の行為に相応しいような気がするくらいです。

欣弥もまた法に背いて罪を犯すことによって、白糸と同じ地平に立ち、身も心も彼らの恋は初めて完全に合致することが出来るのだと考えたのでした。

社会の底辺で生きる貧しい青年が、そのどん底から這い上がるために、立身出世→向学心を質に取られて、やくざな女芸人に金で買われ、「若さ」を慰みものにされて、やっと果たした夢のような任官のときに、立ちふさがったのが白糸だったのだと思います。

屈辱的な醜聞に未来を閉ざされ、そしてやっと手に入れかけた将来を滅茶苦茶にされた青年は、その閉塞状況になかで死を選ぶより他に方法がなかったのでしょう。

ましてや、虚偽の裁きを駆使して白糸を助けるなど、欣弥には考えられもしなかったことだったと思います。

むしろ、間接的に殺人の片棒を担がされ、自分を脅かし続けた白糸をこそ、法の力によってまずは滅する必要があったのではないか、という気さえするくらいです。

村越欣弥という男は、もしかしたら明治という時代において蹉跌を生きた象徴のような青年だったかもしれません。

(33入江プロダクション・新興キネマ)監督・溝口健二、応援監督・清涼卓明、監督補・寺門静吉 落合吉人 坂根田鶴子、脚色・東坊城恭長 館岡謙之助 増田真二 清涼卓明、原作・泉鏡花 『義血侠血』、撮影・三木茂、撮影補・広田晴己 宮西良太郎、舞台設計・西七郎、舞台製作・茂木芳三 角田竹次郎、舞台照明・丸谷得三郎、編集・坂根田鶴子、美術意匠・東坊城恭長、水芸指導・松旭斎天勝、字幕・菅野成華、現像・林龍次 木原幸男、焼付・市川光 須賀四郎、衣裳・松竹衣装部
出演・入江たか子、岡田時彦、村田宏寿、菅井一郎、見明凡太郎、滝鈴子、浦辺粂子、大泉浩二、川瀬隆司、小坂信夫、沖悦二、大原譲、田中筆子
1933.06.01 電気館/新宿帝国館、14巻 3,255m 白黒 無声
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by sentence2307 | 2006-03-04 23:52 | 映画 | Comments(3)