世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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<   2006年 06月 ( 19 )   > この月の画像一覧

HAZAN

ネット上をフラフラ彷徨っていたら、ある県会議員のサイトに遭遇しました。

茨城県議会で議員をされている方のホームページです。

政治とはまったく無縁の僕としては、はなはだ場違いで、接点なんかまるで考えられなかったようなサイトなのですが、実は、映画「HAZAN」の検索をしていて偶然に辿り着いてしまったのです。

この映画「HAZAN」のモデルになった陶芸家・板谷波山という人が、茨城県の生んだ名士であることを、その方のホームページで始めて知りました。

こちらとしては、別になにかの材料探しとかで検索をしていたわけではなかったのが、その議員さんの書かれている文章を読んでいて、俄然映画「HAZAN」の感想を書いてみたい気持にかられました。

その議員さんの記事の内容は、極めて簡潔です。

茨城県が1000万円の助成金を出資した映画なので、いろんな機会を捉えて上映会を実施し、県民や特に青少年には是非見てもらい、少しでも出資した助成金の回収を計りたいという、いわば「呼びかけ」です。

自治体の予算をつぎ込んだ公的な利害が掛かっている事業の一環なのですから、その関係者なら至極当然な懸念なわけですよね。

そして、その「呼びかけ」の内容も、実にシンプルで、助成金1000万円の出資に対して、映画製作協力券2万7000枚をさばいたこの映画の、平成15年7月の完成から16年の末までの観客動員数は約3万5,000人、収益的には、製作費や上映経費が1億9600万円程度で、出資金や協賛金・県の助成金・上映等収入は2億4800万円となり、差し引き5000万円程度の利益が見込まれている、そこで、もうすぐ製作委員会が解散し、著作権が制作会社に移るので、もっと多くの県民にこの映画を観賞して貰って更なる収益を図るために関係各機関への申し入れを更に行いたい、というのがこの文章の全趣旨です。

この文章から、「映画」が当たれば、実に多くの人々が潤って幸せになれることがよく分かります。

でも、この議員さん、算盤を入れるのが忙しくっておちおち映画なんか見ていられなかったかもしれませんね。

いえいえ、この算盤勘定を決して揶揄しているのではありません。

こうした支えがなければ良心的な作品を地道に作るなんてできるはずがありませんし、こうした活動がなくなってしまったら、世の中、金回りのいいメジャーだけが収益率のいい派手派手な作品を宣伝のチカラで見せてしまう強引な商法だけがのさばって、そのために内容空疎な作品が量産されてしまうという悪循環を招き、どこかの国みたいな暗澹たる状況に陥ってしまうかもしれません。

しかし、算盤を入れるのに一生懸命なこの議員さんの文章をただ読んでいたのでは、この映画「HAZAN」がどういい作品なのか、それとも・・・なのか、分かりません。「売らんかな」の当事者が、その商品の欠陥なんて言うわけもないし、その方に本音の感想を求めること自体誤っていると思わないわけにはいきません。

ただ、この作品を見ていて感じた違和感がひとつありました。

僕たちがいままで見てきた芸術家の生涯を扱った作品と比べると、どうもこの映画、それらとは少し違う方向を向いているような印象を受けました。

芸術家の生涯を扱った伝記映画を思い浮かべられ限りざっと上げてみても、「炎の人ゴッホ」のゴッホ、「赤い風車」のロートレック、「モンパルナスの灯」のモジリアニ、「狂えるメサイア」のアンリ・ゴーディエ、「フリーダ」のフリーダ・カーロ、「ポロック・2人だけのアトリエ」のジャクソン・ポロックなどとは、どこか根本的に違う感じがしたのです。

教職を捨て、陶芸一筋に打ち込む波山を、極貧に堪えながらも妻は夫を信じて協力します。

焼き釜にくべる薪がなくなれば家の雨戸を打ち壊すことも厭いません。

1円2円の金にも事欠く極貧の生活に堪えながらの生活描写の部分が、陶芸の製作そのものの苦悩に優先して描かれています。

家族を犠牲にして作陶に打ち込む特異な状況下での家族や人間群像を描くためには、有効で最も描きやすい側面だったかもしれません。

そして、その食うために四苦八苦する苦難の生活が描かれたあとに、パトロンとなる社長なる人が現れて、1壷(1坪ではありません)1000円で買いましょう、以後先生の作品は私がすべて買わしていただきます、と言う一言に傍らで聞いていた奥さんが驚愕のあまり「1000円!」と叫んでこの映画は終わりました。

こんな見方は偏っているかもしれませんが、狂喜乱舞の「1000円!」がこの映画の結末です。

いやいや、前に挙げた天才たちにしても、彼らの作品を一手に引き受けて、生活を保障してくれる画商の存在があって、安定した製作ができたわけですから、将来花開くかもしれない才能の未知数の可能性に託してパトロンがついて投資するというのは、どれも似たようなものだったに違いありません。

ですので、多くの偏見によって才能を潰しかねない大衆の、いつになるか分からない不安定な評価を待つよりも、目の肥えたパトロンに認めてもらうことの方が、むしろ大事なことだったかもしれません。

ただ、狂喜乱舞の「1000円!」の突然の終わり方を持つこの作品が、映画そっちのけでお金勘定ばかりしていた議員さんとイメージが不思議に合致してしまったので、違和感というか、むしろ納得というか、そんな感じを持ったのでした。

ストイックといえば「芸術まっしぐら」みたいに考えがちですが、別な側面を持つストイックもあるのかもしれません。

五十嵐匠=榎木孝明は、奄美で生涯を閉じた異端の画家・田中一村を描いた「アダン」で組み、ストイックな芸術家の魂を更に見極めようとしているのでしょうか。

(03桜映画社)製作・村山英世、プロデューサー・福間順子、ラインプロデューサー・桜井勉、原案・荒川正明、脚本・荻田芳久、五十嵐匠、撮影・芦澤明子、照明・金沢正夫、美術・池谷仙克、録音・南徳昭、整音・堀内戦冶、音楽・安川午朗、編集・宮島竜治、助監督・川口浩史、制作担当・米村栄子、記録・生田透子、コントラバス演奏・河原泰則、協力・茨城県 友部町 下館市、企画・映画波山製作委員会、
出演・榎木孝明、南果歩、康すおん、柳ユーレイ、寺島進、長谷川初範、大鶴義丹、益岡徹、中村嘉葎雄
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by sentence2307 | 2006-06-25 18:38 | 映画 | Comments(81)

夜への長い旅路

キャサリン・ヘップバーンの死去が報じられたとき、「アカデミー賞」の看板を掲げていたあるブログで、書かれていたのはオードリー・ヘップバーンのことばかりなのには、苦笑させられてしまいました。

単に同じ名前というだけの理由で、自分の限られた知識を疑いもせず「日本の知名度」という不確かな印象だけで堂々と断定して書いているその感覚には、首を傾げざるを得ません。

アカデミー主演女優賞を4度受賞し、ノミネートが実に12回という驚異的な実績を残しながら、まるで、映画オタクでなければ、この大女優のことは誰も知らないハズ、と断定するその思いあがりと無神経さには耳を(目を?)疑いたくなります。

しかし、まあキャサリンが賞を得た作品のうちで、本当に受賞に相応しいものかどうか疑わしいもの、受けて当然だったのにそうでなかったもの、など確かにあるとは思います。

賞には、やはりタイミングもありますしね。

でも、主演女優賞を4度受賞し、ノミネートが12回というキャリアは、実力がなければ「タイミング」だけではなかなか取れません。

つい先だってのAmerican Film Instituteの女優人気投票で、2位のベティ・デイビス、3位のオードリーを大きく引き離して1位となったランキングが報ぜられたのは、まだ記憶に新しいところですよね。

それにつけても、オードリーの死後、映画という作られた虚像によって深く傷つけられた晩年の痛ましい彼女の実像を知らされ、オードリーも結局は、もう一人の「モンロー」だったのかな、となんとなく痛ましく感じたことを思い出しました。

それに対して、あの自分の意思を貫いたキャサリン・ヘップバーンのその力強い個性と生き様は、終生の伴侶スペンサー・トレイシーと生涯通して濃密に関わった数々のエピソードを知るにつけ、生涯にわたって唯一つの愛を貫いた生き方に清々しさとともに、女性にとっての自立するという生き方の本当の意味を強く感じました。

アメリカにおけるキャサリン・ヘップバーンの人気の秘密は、この辺にあるのかもしれませんね。

ただ、作品として彼女のベストを挙げるとなると迷います。

僕個人としては「若草物語」のジョーを演じたキャサリンが忘れられません。

ただ、未婚のまま中年をむかえた一見芯の強そうでいて、同時にどこか脆さを同居させた盛りを過ぎた女性の印象が強いのは、きっと「アフリカの女王」や「旅情」が僕の中に大きな位置を占めているからだと思います。

精一杯虚勢を張って男に食って掛かる役柄の延長に、最愛の人を温かく見守ることしかできないで、ただ悲しげな愛情深い女性まで彼女の幅広い役柄のほかに、シェイクスピアやテネシー・ウィリアムスのものまで付け加えたとしても、彼女の演技の全貌をまだまだ見たような気がしないのは、きっと僕がいまだ、あのカンヌ映画祭でキャサリン・ヘップバーンが主演女優賞を受賞したという、ユージン・オニールの戯曲、シドニー・ルメット監督、ボリス・カウフマン撮影の伝説の映画「Long Day‘s Journey into Night」1962を見ていないから、キャサリン・ヘップバーナという女優の大きさを断ずるだけの自信がもてないのだろうなと思っています。

友人の話だと、日本では輸入・公開されなかったシドニー・ルメットのこの作品、以前BSで放映されたことがあると聞いてビックリしました。

ウカツにもチェック漏れです、見ていません。

それを今頃気がついたって、どうなるものでもありませんから、ここでは、シドニー・ルメット作品の感想を書くことは出来ないわけで、ユージン・オニールの戯曲に描かれている母メアリーという女性像を辿ることで、栗山演出の舞台や戯曲原本などと照らし合わせながら、そのメアリーを演じたまだ見ぬキャサリン・ヘップバーンの演技をあれこれと想像してみるのもいいかなと考えました。

こんなふうに未見の映画に想像の翼を拡げ、思いを自由に馳せるのも結構いいものですよね。

これも映画鑑賞の大きな愉しみ方のひとつと考え、また、いつかはきっとめぐり逢いたい「Long Day‘s Journey into Night」への僕のオマージュとしてのLove Letterだとでも考えてください。

モルヒネ中毒で入院した母メアリーが退院してから2ヵ月たった頃、前夜から再びモルヒネに手を出し始めた彼女の、薬による幻想と錯乱へと溺れ込む、これは、その朝から真夜中までの出来事が描かれた戯曲です。

剥き出しの物欲と情欲とを曝け出す家族=夫や息子たちへ向けたメアリーの苛立ちと怒りが、愛憎のなかで描き出される絶望という「夜」へと続く長い旅路です。

娘時代に夢見た輝かしい希望も、もはや愚劣な現実に無残に打ち砕かれ、既に破綻した結婚生活の惨憺たる現実を前にしたメアリーは、いままでの家族との生活のすべてを後悔しながら、自分と家族の葛藤の歴史を少しずつ思い出していきます。

それは、いまあるこの現在を呪い、毒づき続けるように再現される夫との結婚生活が、不幸の根源・後悔のそもそもの出発点であったことを暗示するところまで突き詰められていきます。

失意と後悔のその過酷な板挟みの中で引き裂かれたメアリーは、その苦痛に満たされた心の闇から目を逸すように狂気に囚われることによって、自身の奥深くに何を封印してきたのかが、その過去の再現によって徐々に解き明かされていきます。

自分をどんなに苦しめたかしれない夫の吝嗇や土地所有の異常なまでの執着を責め、その父親の性格破綻振りの影に見え隠れする息子たち兄弟の凄惨な確執も少しずつ描かれます。

まず、麻薬常用の原因となった次男の出産にまつわる記憶に浮かび上がる、次男出生以前に死んだもうひとりの子供への罪の意識です。

それは、子供を置き去りにして夫の元へ逢いに行った間の出来事として起きたその子の死。

そのもうひとりの子供の死に深く関わった長男が浮かび上がります。

親の言い付けを守らずに麻疹を感染させて、その子を死に至らせた長男。

メアリーは、長男に辛辣な言葉で吐き棄てるように過去の彼の不注意を責めます。

「弟に親の愛情を奪われるのが怖くて、あの子が憎かったのか。あんたは、あの子がこの世からいなくなればいいと思っていたんだろ。」

それらすべては、半分の真実を差し引いても、彼女自身の人生に対する深い憎しみの反映でもあります。

メアリーは、もう決して子供を持つまいと決意したにもかかわらず、生まれた次男は自分が望まれて生まれてきた訳ではない事を十分に知っています。

誰もが罪の意識からは自由でいられない家族を責め続けるメアリー。

妻や息子たちの憎しみを一心に背負う父。

弟殺しを意識の隅に抱え込んでいる長男。

望まれないままに生まれてきた次男。

その中心に彼らを呪う心を病んだ母がいます。

たとえ、この物語のラストで和解や再生のかすかな可能性が暗示されているとしても、それは人間であるということの呪縛から解き放たれたということでは決してないことは言うまでもありません。
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by sentence2307 | 2006-06-25 18:31 | 映画 | Comments(108)

濹東綺譚

豊田四郎監督の「濹東綺譚」60の陰惨なラスト・シーンは、あまりに強烈過ぎて、いまだに忘れられません。

深く愛した娼婦お雪を失った男が、なにもかもすべてに絶望して、夜、既に彼女のいない暗い私娼窟をさまよい歩いています。

男の静かな深い絶望感が描かれることで新しい娼婦を物色しているという下卑た思い入れは後退させられ、あるいは彼女を偲ぶという思いさえも超えて、むしろ、誰かを求めずにはいられない男の深い孤独感が彼に再び娼窟を歩かせていることが分かります。

そのやりきれない思いが観客にもはっきりと伝わってきて、それは同時に、60に近い男の恋が、生命力に溢れた若さの出会う恋とは本質的に違うことをも悟らされます。

今まで独り身で通してきた屈折した思いもあったのでしょう、いや、もしかしたら、彼は今までにも幾人もの「お雪」を失ってきた、そうしたわが身を自嘲せずにはいられない程の重たい気持ちを引き摺りながら夜の私娼窟を彷徨しているのかもしれません。

人間は何にでもすぐに慣れてしまう動物ですが、とりわけ絶望や不幸には、まるで顔を背けるかのようにして、すぐにでも、その頑なさで己を慣らしてしまう哀しい動物でもあります。

そしてラストシーン、路地裏の更に奥にある私娼窟、その娼家の暗い小さな窓から毒々しい厚化粧の顔を覗かせた娼婦たちが、ある者は行過ぎる客を手招き誘いながら、疲れ切った淫らな笑みを浮かべた顔を覗かせています。

その陰惨な「風景」を名手・玉井正夫のカメラは、静かにPANで捉えていきました。

芥川比呂志の「今日も玉の井の女たちは・・・」という呻くようなナレーションが陰鬱に被さって、やがて畳み掛けるように團伊玖磨の重厚な音楽が僕たちに襲いかかります。

この作品で娼婦を演じた山本富士子は、生活感のある生き生きとしたその名演で高い評価を得ました。

ひとつ間違えばドロドロの展開になってしまうこの娼婦と客の物語を、山本富士子は、実に生き生きと、そして健気に演じて、原作の持つ気高さを十分に見るものに伝えました。

この演技によって、従来苦界に身を落とした女たちの、悲しみや苦しみだけを前面に出した観念的で紋切り型の描かれ方が見直されもしました。

考えてみれば、熾烈な境遇にあるからこそ、必ずや開ける未来を堅く信じ希望を持って生きていくことの方に、人間の感情の自然な在り方を、むしろ感じます。

この作品の不思議な清潔感は、そこに起因いていることは明らかです。

代表作「夫婦善哉」55でも知られるように、豊田四郎は、成瀬巳喜男と並び称される「女性映画の名手」といわれ、成瀬の端正な女性像に対して、豊田の描く女性像のアクの強さは、その演技指導の厳しさとともにつとに知られているところでした。

なかでも、戦前の代表作「小島の春」40の夏川静江、「雁」53の高峰秀子(「浮雲」とともに好きな出演作品と述懐しています)、「夫婦善哉」55の淡島千景、「猫と庄造と2人のをんな」56の山田五十鈴と香川京子、「雪国」57の岸恵子、「台所太平記」63の森光子、乙羽信子、京塚昌子、淡路恵子のどの女優もずば抜けた生き生きとした素晴らしい演技を示しました。

この作品「濹東綺譚」は、永井荷風没後1周年を記念して製作された忘れ難い1作です。

(60東京映画)(原作)永井荷風(脚本)八住利雄(撮影)玉井正夫(美術)伊藤熹朔(音楽)団伊玖磨
(出演)山本富士子、芥川比呂志、新珠三千代、乙羽信子、淡路惠子、東野英治郎、中村伸郎、宮口精二、織田政雄、中村芝鶴、岸田今日子、日髙澄子、髙友子、長岡輝子、賀原夏子、原知佐子
(120分・35mm・白黒)
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by sentence2307 | 2006-06-25 18:30 | 映画 | Comments(0)

雷魚

これは、ピンク・ヌーヴェル・ヴァーグの一翼をになうと言われている瀬々敬久の確かな力量を感じさせる鮮烈な作品です。

社会から取り残されたような殺伐とした寒々しい工業団地を背景に、行き場のない男と女が「殺人」という行為を通して交差する荒涼とした映画です。

人妻の紀子は、入院中の病院を抜け出し、不倫相手の田辺を訪ねますが、会うことを拒まれます。

そして、その動揺に耐え切れずに、テレクラで知り合った相手・裕幸とホテルで性交します。

行為のあと、セックスの報酬のように金を渡された紀子は、隠し持っていたナイフで、無表情のまま裕幸をめった刺しにして殺します。

警察で聴取を受ける紀子の面通しをしたガソリンスタンド従業員・和昭は、事件当日に二人を見たにもかかわらず、嘘の証言をし釈放された紀子の後をつけて彼女と関係を結びます。

この物語の要約は、別に殺伐とした感じを強調する意図とかで、あえて形容詞をはぶいたり、感情の起伏を書かなかったりした訳ではありません。

映像もそのとおりの淡々とした描写に徹しています。

殺人のある浴室での夥しい血が流される場面も、感情を抑えた即物的な描写です。

しかし、それでもほんの僅かながら、彼らの生活史がほのめかされている部分もありました。

裕幸に子供が誕生したらしく幼児服を購入する場面が、奥さんの不在を狙って不倫相手を電話で物色する彼の一連の行為の中に描き込まれています。

紀子がラブ・ホテルの浴室で裕幸を刺し殺したあと、彼が持っていたその幼児服を見て彼女は泣きます。

紀子には、かつて愛人の子供を中絶した記憶の傷があり、そのことを和昭に話す場面は、同時に、和昭もまた、愛人によって自分の子供を焼き殺されたことを紀子に話す場面でもあります。

互いに子供の親になれないまま、生きる意味をも失ってしまった陰惨な過去を話すことで、彼らが社会から徹底的に拒まれ、彼ら自身も抱え持つ「ある欠落」によって、肉欲の関係などでは到底成り立ち得ない程の絶望的な孤独を悟らされます。

そして、和明が紀子に語りかける言葉は、当然愛の言葉などではなく、「人を殺すときの気分」を彼女に尋ねます。

やがて、行為のあと、死を望む紀子の願いを聞き入れて、和昭は紀子を絞殺し、死体を田舟に乗せ焼き捨てます。

この死体を焼く場面は、まるで害虫を焼いて処理するような、どうしようもない人間は焼き殺すしかない、とでも言うような自嘲を込めた寒々しいシーンでした。

人と人とのつながりをどう求めていけばいいのか。

一昔前なら純粋でほほえましい恋情として描かれるべき行為も、現代にあっては、すべての行為は風俗というフィルターを通した金で買える薄汚い「欲情」でしかないような、そんな時代を生きねばならないことを、瀬々は、この映画で描こうとしていたのではないのかと思えました。

奇しくも、この映画は、一般劇場で上映された後、ピンク映画館で「黒い下着の女」のタイトルでも公開されたということです。

象徴的な瀬々の素晴らしい挑発行為と考えていいと思います。

(97国映=新東宝映画)企画・朝倉大介 衣川仲人、プロデューサー・福原影、監督原案・瀬々敬久、助監督・坂本礼、脚本・井土紀州 瀬々敬久、撮影・斉藤幸一、音楽・安川午朗、美術協力・安宅紀史 丹治拓実、録音・シネ・キャビン、編集・酒井正次
出演・佐倉萌、伊藤猛、鈴木卓爾、穂村柳明、のぎすみこ、外波山文明、佐野和宏、岡田智弘、河名麻衣、佐々木和也、吉行由美、泉由紀子、
1997.05.31 75分 カラー ワイド
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by sentence2307 | 2006-06-25 18:29 | 映画 | Comments(1)

狂った果実

こう言っては何ですが、「ブランデー・グラス」を歌わせたら、「僕って」ちょっとすごいんです。

某クラブでは、「またか」という黙殺の賞賛を一身に浴びて、同行の仲間たちが必死になって「次の次」の曲目選びに没頭している頭越しに、ただ一人だけこちらを向いて盛んに拍手を送ってくれるカウンターのマスターだけを相手に、つい縋るように歌いかけてしまうという孤独に耐えながら、生涯独身で通した小津監督の孤独なども重ね合わせてしまう今日この頃です、なんてね。

しかし、石原裕次郎って、とにかく「日活」という(メジャーから離れた多彩な才能が結集した)不思議な空間から生み出された奇跡のような人(従来の俳優という観念からは考えられもしなかった人)なんだなあって、つくづく思います。

日活は、その後いろんな亜流の俳優を生み出そうと努力したみたいですけれども、結局「石原裕次郎」以上の人を生み出すことはできませんでした。

ひとことで言えば、彼だけが「サマになっていた」のだと思います。

それは、カラオケ好きの立場から言うと、どんなつまらない歌でも結構聞かせてしまう「あの声」に象徴されるのかもしれないなあって考えてしまいます。

「狂った果実」56は、たったの17日間で撮り上げたといわれている中平康監督の驚くべきデビュー作です。

そして、中平監督は、つねづね、「ゴダールは、オレの作品を真似した」と、ヌーヴェルバーグの登場を既に先取りしていたことを豪語していたという話は有名ですよね。

いや、姫田眞左久キャメラマンが記したものの中には、もっと辛辣にヌーヴェルバーグを嘲っていたみたいな一文を読んだ記憶があります。

しかし、この「豪語」は、あながち大ボラとは言えない確かな信憑性があるのですが、ただ、華々しいデビューに較べて、失速著しい「荒れた晩年」の中平監督の性癖に照らして、幾分そうした大風呂敷の虚言みたいな印象を持たれてしまったことは、残念ですが否定できなかったのでしょう。

中平監督にふれた誠意あふれる姫田眞左久キャメラマンのその一文にも、言下に「眉ツバ」的な論調を感じ取ってしまうのは考えすぎかもしれませんが。

しかし、「狂った果実」のスピード感あふれる才気に満ち満ちたカットつなぎにトリュフォーが驚嘆して、彼の推薦によってシネマテークに保管された日本映画の第1号になったというこの作品が、ゴダールに深刻な衝撃と、そして大きな影響を与えた可能性は、大いにあり得たことだろうなと思います。

石原慎太郎が、裕次郎との思い出を綴った「弟」の中にこんな部分があります。

1962年、日仏独伊ポーランド5カ国の若い監督たち、つまりアンジェイ・ワイダ、フランソワ・トリュフォー、レンツォ・ロッセリーニ、石原慎太郎、マルセル・オフュルスたちが競作したオムニバス作品「二十歳の恋」の打ち合わせのために、日本篇を監督する石原慎太郎がパリを訪れた際に、フランス篇と総集編を担当するフランソワ・トリュフォーとの対話のなかで、トリュフォーは、自分のヌーヴェルバーグ・タッチは、「海辺の情熱」という日本映画のストーリーの設定や展開、そして畳み掛けるようなカッテッングのタッチに強く影響されたものだと告白されました。

トリュフォーにそれ程までに強い衝撃を与えたというその「海辺の情熱」という作品に、まったく心当たりのなかった石原慎太郎が、さらに具体的に話の筋を聞いてみると、なんとそれは自分がストーリーを書き下した裕次郎の主演第1作「狂った果実」だったということが分り、その評価に、却って自分のほうが驚いたという部分です。

帰国後、さっそく裕次郎にそのことを伝えると、「そりゃそうに決まってらあな」と当然のように答えたと記されており、そして、また、ある席で中平監督に同じように伝えたところ、もはや、映画への情熱をすっかり失っていた中平監督の冷ややかな無反応な態度が、裕次郎の反応と好対照に記されている部分には、複雑な思いを禁じ得ません。

そして、その文節の締め括りに石原慎太郎は、こう記しています。

「いずれにせよ、あの映画は、偶然と奇跡に満ちた青春という、人間にとってたった一度の季節を表象していたと思う。
あの時代にしか、あのようにしかあり得なかった私たちの青春を、あの映画はほとんど完璧に代表してくれている。
同じ世代だったトリュフォーが感じ取ったものもまさにそれただったに違いない。」

そして、裕次郎の死は、「映画俳優」が僕たちにとって遥か遠い憧れの対象であり得た時代の終わった日だったのでしょうね。

現在、「映画俳優」というものが自身のカリスマ性を放棄し、単なる職業で満ち足りてしまったとき、大衆の憧れであることもまた失ってしまったのだと思います。

数年前に第二の石原裕次郎を広く一般から公募したイベントがありましたが、実のところ大真面目で現代の大衆の中から「石原裕次郎」を探しているとは、どうしても思えませんでした。現在の大衆の中など、本当はいるはずもないことなど、内心では誰もが最初から分かっていたことだと思います。

裕次郎は、「あの時代」以外のどこにも存在するはずがないのです。

(56日活)監督・中原 康、製作・水の江滝子、原作脚本・石原慎太郎、撮影・峰重義、音楽・佐藤勝、武満徹、助監督・蔵原惟繕、美術・松山崇、録音・神谷正和、照明・三尾三郎、編集・辻井正則、スクリプター・木村雪恵、スチール・斎藤耕一、製作主任・桜井宏信 栗橋正敏、特殊撮影・日活特殊技術部
出演・石原裕次郎、津川雅彦、深見泰三、藤代鮎子、北原三枝、ハロルド・コンウェイ、岡田真澄、東谷暎子、木浦昭芳、島崎喜美男、加茂嘉久、紅沢葉子、渡規子、ピエール・モン、竹内洋子、原恵子、潮けい子、近藤宏、山田禅二、峰三平、石原慎太郎、宮路正義 中村美津子 明石涼子 関田裕 北茂朗 寺島哲 大美善助 北浜久 川口凡人 加藤良朗
1956.07.12 9巻 2,356m 86分 白黒
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by sentence2307 | 2006-06-25 18:29 | 映画 | Comments(0)
ここのところCSで、繰り返しジョン・ヒューストンの遺作「ザ・デッド/ダブリン市民より」が流されているのは知っていました。

何度も繰り返し見てきた作品なのですが、ラストのあの謳い上げるような夫ガブリエルの独白の荘厳さ・格調の高さには、見る度ごとに感動で打ちのめされてしまいます。

同じ作品の、それも同じ箇所で、最初に受けたと同じ感動を繰り返し受け続けてしまうというのは、考えてみれば、驚異を通り越して奇異とさえ言えることなのかも知れません。

普通なら、「感動」しても、繰り返し同じ経験を重ねてしまえば、次第に慣れ、徐々に薄れていくのが本当でしょうから、この作品「ザ・デッド/『ダブリン市民』より」には、根深いところで自分と共鳴する「何か」が潜んでいるのだと思います。

しかし、いままでそのことを深く考えたことなど一度もありませんでした。

えてして、物凄く感動した映画って、それだけで圧倒され、手放しで充足してしまい、それ以上突き詰めて考えようとしなくなってしまうものなのかもしれません。

僕には、深く感動したこの映画に関するデータをひとつも所有していないことに突然気が付いたのでした。

考えてみれば、僕が自分のブログに、備忘録的にせっせと書き込んできた作品とは、結局、物凄く感動を受けた作品というよりは、未熟さ・欠陥・奇妙さが際立っていて関心を惹いたという作品のほうが、遙かに多かったみたいです。

きっとその方が、面白おかしく作品の感想を書き易かったという安易な利点があったからでしょうが、この「ザ・デッド/『ダブリン市民』より」についてのあまりの手掛かりの少なさを前にして、本当にそれでいいのかという気もしてきました。

立ち向かうことを避けてしまう先にあるものが、必ずしも「外的な生理的に嫌なこと」ばかりでなく、「自分の深層にある忌まわしい欠陥を暴かれる恐怖」もあるのかもしれません。

自分としては、取り立てて意識的に避けてきた積りはないのですが、しかし、それではこのブログを持続的に書いている意味がありません。

この作品には、当然ジョン・ヒューストンの遺作という重みが全編を覆っています。

人生の空しさが描かれていることも「そう」なのでしょうが、しかしその空しさは、夫ガブリエルが妻グレタから告げられた、彼女の若き日に失った恋人の話と、「いっそあの時に死んでしまえばよかったのだ」と泣き崩れる妻の失意と悔恨の姿を見ることによってもたらされた空しさだったと思います。

ひとときも昔の恋人を忘れたことがなかったという悔恨を抱えたまま、彼女が過ごしてきた自分との時間とは一体なんだったのだろうと、夫ガブリエルは深い絶望の思いに囚われます。

しかし、妻の衝撃的な告白を受けた夫ガブリエルの絶望が、はたして夫婦として過ごしてきた時間の中に妻の愛情が存在しなかったことに対してのものだったのか、実は長い間の疑問でした。

あれだけの省察をとげるような夫ガブリエルが、はたして同時に妻の愛を無防備に期待したり、また愛の不在を安易に失望したりするようなタイプの人間というようなことがありえるだろうか、という素朴な疑問でした。

僕には、彼が、「人間」に対して期待したり失望したりするような、そういう人間には、どうしても思えないのです。

妻グレタが、かつて最愛の恋人を失って以来、心密かな追憶と「愛の不在」に堪えながら絶望の中で生きてきたように、夫ガブリエルもまた、すでにこの現実の大切な何かを失ってしまった喪失感のなかで、そのようなことを何もかも知り尽くし受け入れた「成熟」のなかで生きてきたような気がします。

あえて言葉で確認し合わなくとも、この夫婦にあっては当然の前提のように、その「成熟」(カタチばかりの「関係」を維持していくだけで十分な社会的分別を果していこうとする認識)はあったのだと、ガブリエルは諦念の中で信じていたかもしれません。

この映画のラストで、もし、夫カブリエルの失望が少しでも描きこまれているとしたら、それは妻が、この人生に対して、泣き崩れて嘆き哀しんで悔恨するだけの、この現実への微かな期待をいまだ持ち続けていることに対する衝撃と羨望だったかもしれません。

誰もが諦念の中で堪えて生きているのだと思っていたガブリエルにとって、すでに失ったとはいえ「真実」を心の支えとして追憶の中で生きている妻の慟哭している姿は、心を閉ざして生きているガブリエルに、さらに深い孤独を感じさせずにはおかなかったと考えることはできないでしょうか。


《夫・ガブリエルの独白》
夫婦とは、いったい何なのだろう。
私は妻の人生のなかで、なにを演じてきたのだ。
むかしの君の美しさを知らないけれども、きっと君は美しかったに違いない。
しかし、時を経たいま、もはや君はマイケルが思い焦がれた美しい少女ではない。
過ぎ去った時を取り戻すことはできない。
なぜこんなにも心が乱れるのだ。
なにが原因なのか。
馬車で君は私の手のキスに応えなかったからか。
パーティーでの下手な私のスピーチに腹を立てたのか。
それともワイン、ダンス、音楽か。
おお哀れなジュリア。
「婚礼のために」を歌ったときのあの老いた悲しみの表情。
彼女も祖父や馬のように、やがてこの世の亡霊となるのか。
私は喪服を着てあの客間に座り、日よけが降りたなか、弔辞の言葉を考えるだろう。
しかし、すべては、無意味なたわ言でしかないだろう。
そう、その日は、きっと間近なのだ。
新聞の予報は正しかった。
アイルランドを雪が覆っていく。
雪は暗い中央の平野にも、樹木のない丘にも、アラン島の沼にも降り続ける。
そのむこう、西の彼方にも音もなく雪は降り注ぐ。
暗く渦巻くシャノン川の流れにも雪が降る。
人は皆いずれ亡霊になるであろう。
むなしく年老いて死ぬより、せめて情熱を抱きながらあの世へ旅立ちたい。
絶望し死を望んだほどの彼の思い出と哀しみの囚われから、できることなら君を解放してあげたい。
誰かのことを生涯をとおして強く思い続けることが、本当の愛というものなのだろうか。
この世の始めから今まで、多くの人がこの世で生き死んで行ったように、私もいずれこの世を離れ、やがては彼らのように灰色の世界へと旅立つだろう。
この世にあって私とともに生きた人々が消え去り、やがてはこの世界自体もいつか衰えて消え去っていく。
雪は降り続ける。
マイケルが葬られたあの寂しげな墓地にも、雪は音もなくひそやかに、宇宙から降り注ぐ、この世の最期がくるまで、生ける者にも、死せる者にも平等に。

(88アメリカ)監督:ジョン・ヒューストン、製作:ウィーランド・シュルツ・カイル/クリス・シューニッヒ、原作:ジェームズ・ジョイス、脚本・トニー・ヒューストン、撮影:フレッド・マーフィ、音楽:アレックス・ノース
出演:アンジェリカ・ヒューストン、ドナル・マッキャン、ヘレナ・キャロル、キャスリーン・ディレイニー、ジュリア・モーカン、レイチェル・ダウリング、ダン・オハーリー、フランク・パターソン、コルム・ミーニー、イングリッド・クレイギー、マリー・キーン、ドナルド・ドネリー、
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by sentence2307 | 2006-06-24 11:34 | 映画 | Comments(1)

ミモザ館

この映画の主題は、女の中に潜む母性愛というものが、必ずしも清浄なものでも崇高なものでもなく、むしろ注ぐべき肉親の対象への肉欲の発散を、近親ゆえに抑止せねばならない歪められた思いが、どろどろとした愛情表現となって息子に纏わりつき、却ってそれが彼の自殺を促すこととなり、母子諸共に不幸に見舞われてしまうという母親の物語なのでしょうが、しかし、僕には、このどうしょうもないやくざな養子の数々の醜行が、母親の盲目的な溺愛に呼応する媚態のように思えて仕方がありませんでした。

気が弱く、博打と放蕩を重ね、やくざの内紛に巻き込まれては、母親の元へボスの女と逃げ帰ってきて、果ては女のために店の金を着服し、辻褄を合わせることができなくなれば、ついには自殺するというこの愚かな養子の一連の行為を、それでも母親はねちねちと溺愛し続けます。

ケチな悪事が露見すれば、その度に芝居じみた空涙で懺悔を繰り返し、母の憐憫の情を誘います、人を喰ったようなその行動の奥には、小悪党特有の幼稚な隙があって、しかし、その見え透いたしおらしささえも、たまらない愛嬌と写る母親は、どこまでも許し続けます。

逆に言えば、この尽きることがない数々の彼の幼稚な悪事は、母親の温かい胸の中で許され続ける限り、更に際限なく死へ向かってエスカレートしてゆくしかありません。

寛容な母親の「許し」に応えるためにも、彼はなおも愚行を重ね続けるのです。

しかし、この映画の本当の主題は、母親に対する非行や従順も媚態という同じ根を持ついかがわしい馴れ合いの一種にすぎないのかという啓蒙的教訓だとか、あるいは、息子に対し母親と女との間を揺れ動き危うく逸脱しそうになる母と子の淫靡なつるみ合いの物語、だけでもなさそうです。

むしろ、人が、善意と愛情とによって発せられたその行為と思いの悉くが、悪結果によってしか報いられることのないアイロニカルな一種の寓話なのではないでしょうか。
そんな気がしました。

いわゆるジャック・フェデーの三部作、「外人部隊」33、「ミモザ館」34、そして「女だけの都」35のなかで、フランス映画史上の頂点を示したといわれている「ミモザ館」です。

脚本のシャルル・スパーク、そしてフェデー夫人のフランソワーズ・ロゼーの最高の演技といわれている作品です。

さて、そこで、トリュフォーが、この名作に対しどういう態度をとったかを知りたくて、いろいろ検索を試みたのですが、適切な結論を見つけ出すことはできませんでした。

クロード・オータン=ララやルネ・クレマンに対したように全否定したのか、ジャン・ルノワールやヒッチコックのように持ち上げたのか、興味がありました。

予想では、全否定かなと思っていました。確認できれば、それを受けて、この雑文の結語を「トリュフォーは判ってくれない」と落としたかったのですが。

しかし、それにしても、あの珠玉の名品に「大人は判ってくれない」とは、なんて物欲しそうな下卑たタイトルを付けたものか、命名した人のセンスを疑いたくなります。

大人たちの拘束を嫌って自由を求めた少年の、いかがわしい現状からの脱出は、もう少し差し迫った、深刻でさえある大人たちへの怒りが存在しているはずです。

「判ってくれなくて結構。お前らの価値観で測られるのは、もう真っ平だ。」といった感じの見放したニュアンスが欲しいところですよね。

原題を直訳すると「400回の殴打」となりますが、常套句で「常軌を逸した悪戯」くらいの軽い意味なのだそうです。

しかし、「400回の殴打」と「常軌を逸した悪戯」をモンタージュ的に繋げてしまえば、偶然ですが、また、もうひとつの世界が見えてきそうですよね。

(34トビス)監督:ジャック・フェデー、製作:シャルル=フランシス・タヴィノ、脚本・台詞:ジャック・フェデー、シャルル・スパーク、撮影:ロジェ・ユベール、音楽:アルマン・ベルナール(俳優のアルマン・ベルナールとは別人)、助監督:マルセル・カルネ、アリ・サドゥール、美術:ラザール・メールソン
出演・フランソワーズ・ロゼー、ポール・ベルナール、リーズ・ドラマール、アンドレ・アレルム、ベルナール・オプタル、ジャン・マクス、ポール・アザイス、レーモン・コルディ、アルレッティ、イラ・メーリ、ピエール・ラプリ、エレーナ・マンソン、モーリス・ラグルネ、ネストル・アリアーニ
1936.1.29帝劇 110分
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by sentence2307 | 2006-06-23 00:04 | 映画 | Comments(44)
「ミモザ館」について何か感想めいたものを書いてみようかと思い立ち、どこから書き始めたらいいか、最初の取っ掛かりを考えていました。

もちろん、この作品について書くとしたら、当然その「取っ掛かり」は母親と養子の、母子関係の境界線上で危うく揺れる微妙な男と女の屈折した関係から、まずは書き始めないわけにはいきません。

しかし、その危うい関係を言い表すのにもっとも相応しい言葉をあれこれと探してみても、僕には結局「近親相姦」という味も素っ気もない無味乾燥な言葉を思い浮かべることしかできないのです。

こんな低俗な言葉と、現代の陰性のコマーシャリズムによって散々薄汚れてしまったイメージをたよりにして、この崇高な作品の核心にどこまで迫ることができるというのか、冷静に考えなくとも到底為し得ることとは思えません。

この「ミモザ館」をリアルタイムで見たその当時の人々が、この作品をどのように感じたのか、とても知りたいと思います。

子を思う母の気持ちに、僕たちが「近親相姦」という破綻的な観念としての性愛を見てしまう以前に、もっと別な、既に僕たちが窺い知れないような自然な形で、母親の息子に向けるもっと深い情愛の表現の在り様が存在していたのではないか、当時の人々なら十分に理解できた「それら」も、現代を生きる僕たちには、もはやその「表現」を読み解く磁力さえ失っていて、せいぜい「近親相姦」という芸のない言葉を無様に当て嵌める程度のことしかできなくなっているのかもしれません。

特に最近、そう思うことが多くなりました。

他の世代の人間なら、当然クリアに判断できることも、僕たちにはとても困難で難しいと思う、という思いです。

思い返せば、僕たちのあの時代、「近親相姦」はとても近しい言葉でした、例えば「観念」として。

「アポロンの地獄」を見、「地獄に堕ちた勇者ども」を経て、「薔薇の葬列」も抵抗なく受け入れることが出来ました、たぶん「観念」として。

そこには同性愛があり、近親相姦があり、考え得る限りの倒錯した世界観が描かれていたのですが、そのすべてが交錯して展開するその地獄絵が、十分に衝撃であったにしろ、それらがどこまでも「観念」であることを知っていた僕たちにとっては、「衝撃的」であることもまた観念的に受け入れて消化することが可能だったのだと思います。

つまり、あらゆる地獄絵も、「観念」と知っていたからこそ、すべて無条件で受け入れることができたといえるかもしれません。

僕たちにとって「近親相姦」とは、そういった言葉だったのだと思います。

その言葉は、あの「薔薇の葬列」には有効だとしても、はたして、この「ミモザ館」に通用するかどうかは、すこぶる疑問だと感じた所以です。

僕のいいたいことは、僕たちの持っている「ある種の言葉」が、「あの時代」以外の場所では不能を来たしてしまっているということなのです。

すこし前に、「69 sixty nine」という作品がありました。

データを取っておこうとまでも思いつかないほどの作品でしたが、実は、見ているうちに堪えられなくなって、途中で見るのを諦めた作品でした。

僕は、「どんなにつまらなくとも、映画は最後まで見通す」ということだけは、自分に課している積りでした。

最後まで見て、それでも「はかばかしくない」映画だったら、それで納得して徐々に忘れてしまうことができると思っていました。

つまり最悪なのは、面白くもない映画を、何かの事情で最後まで見通すことが出来ず、あとあとまで記憶の片隅にその映画の「タイトル」を癌のように棲みつかせてしまい、ことある毎に思い出さなければならない状態になってしまうことです。

まるで不良債権のようなそういう最悪な状態を避けるためにも、見はじめたのなら、徹頭徹尾映画は必ず最初から最後まで見通すように努力してきました。

しかし、自分に課していたはずのこの「最後まで見通す」という掟を破ってしまった作品が、この村上龍作品の映画化「69 sixty nine」だったのです。

確かあの映画のキャッチ・コピーは、「青春は、ロックとエロスとハッタリだ」だったと思います。

たとえ、あの映画を最後まで見通したとしても、きっと「青春は、ロックとエロスとハッタリだ」以上のものがあったとは思えません。

そう、この作品をあとあとまで気持ちの中に蟠らせておかないためにも、もう一度すべてを見通すことで、ミソギを済ませて、苦笑のひとつでも浮かべながら、すっきりと忘れてしまうのがベストな選択肢であることは十分に分かっているのですが、どうしてもそれができないのです。

別に「1969年」に拘っているわけではありません。

あの年をあんなふうに茶化されて怒っているという気持ちはありません。

残念ながら、僕にはそういったデリカシーの持ち合わせなど、きっと微塵もないと思っているからでしょうか。

しかし、あの映画には、あの時代をくぐり抜けて来た人間には、とても堪えられない部分があった。

むしろあの当時、時代の先が見通せなかった僕たちは、深刻でいることでしか自分を支えるすべがなかったというべきかもしれません。

もし、あの映画で描かれているような、なにごとも深刻ぶらずに茶化して遣り過ごせる「軽さ」が少しでも僕たちにあったとしたら、きっと僕たちはもっと饒舌になれたかもしれない。

あの映画「69 sixty nine」を最後まで見通せなかったのは、僕たちには望むべくもなかったあそこに描かれていた「軽さ」に対する単なる嫉妬だったかもしれません。

しかし、あの時代、実際にはそんなものは「存在」する余地など、なかったはずです。

あの「連合赤軍事件」こそは、僕たちが逃れられなかった「深刻さ」の延長線上にあったもので、当時の感覚で言えば、起こるべくして起こったというリアルな思いは、確かに誰もが持ったものだと思います。

だからこそ、「69 sixty nine」の軽さを暗に敬遠し、そして嫌悪したのかもしれません。

そして、おそらく僕たちが持たざるを得なかった「深刻」な言葉では、豊饒な「ミモザ館」の世界は語り切れないかもしれません。そんな気がしてきました。
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by sentence2307 | 2006-06-21 00:26 | 映画 | Comments(0)
 いま東京国立近代美術館フィルムセンターで、「フランス古典映画への誘い」と題し、所蔵作品のなかから、23本の長篇と11本の短篇(作品の詳細は、下記のリストを参照してください)が特集上映されています。

映画のごく初期の頃のサイレント映画時代に、まずアヴァンギャルド映画が模索されたことは、映画芸術にとって象徴的なスタートだったかもしれません。

この上映会では、ルネ・クレール、ジャック・フェデー、マルセル・カルネ、ジュリアン・デュヴィヴィエといった日本でも知名度の高い監督たちの1930年代という重要な時期の作品から、繊細な言葉遣いが洗練されていく、いわばトーキーの成熟を反映するかのような戦後の芳醇な文芸映画、そして、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーやジャン=ピエール・メルヴィルに代表されるサスペンス映画と犯罪映画と、さらに若き批評家たちが表現者として映画の常識をひっくり返して、世界の映画人を震撼させたヌーヴェル・ヴァーグの監督たちの諸作品が連続して上映されています。

しかし、フランス映画に関して、実は、長い間、疑問に思っていたひとつのことがありました。

日本におけるジュリアン・デュヴィヴィエの知名度の高さと、まるでそれに匹敵するかのような、すこぶる付きの評判の悪さです。

一見矛盾した言い回しのように思われるかもしれませんが、これは渾然一体となっている事実です。

1930年代、日本の映画ファンにとってジュリアン・デュヴィヴィエは、「フランス映画」の代名詞といっても過言ではなかった、いわばシンボリックなカリスマ的存在だったと思います。

「にんじん」32、「商船テナシチー」34、「白き処女地」34、「地の果てを行く」35、「我等の仲間」36、「巨人ゴーレム」36、「望郷」36、「舞踏会の手帖」37、「旅路の果て」39、1930年代に為された充実の仕事ぶりと、日本における評価の高さ(これらの作品は、常にキネマ旬報ベスト10の上位を占め続けたのですから、日本の映画批評家たちの「総意」の結果でもあったわけですよね。)の一体どこに、現在のデュヴィヴィエに対する「評判の悪さ」の入り込める余地があったのか、本当に不思議でした。

それが、ある本を読んでいて一挙に分かりました。

岡田晋という人(映画評論家だと思います)の書いた一文にこんな箇所があったのです。

デュヴィヴィエの活躍のピークを示す「我等の仲間」、「望郷」、「舞踏会の手帖」、「旅路の果て」(いずれの作品も日本では、高く評価されたものばかりです。)をとりあげ、

「主人公は、夢を破られ、観客は人生の悲しさを味わう。
この2作は、特に日本で有名になり、大衆的にも成功した。
『大いなる幻影』(ジャン・ルノワール)はそのイデオロギーゆえに輸入禁止となったため、なおさら1937年のフランス映画は、デュヴィヴィエによって代表された感があった。
しかし、両作品とも、30年代フランス映画のパターン、「逃亡」と「絶望」をただ絵にしただけで、ドラマの計算もラフで、思想的バックボーンが通っていなかった。
デュヴィヴィエはむしろ商業作家としての腕を発揮し、逃亡と絶望をフランスの現実から切り離して商品化した、一種の大衆映画だったのである。」

人民戦線のイデオロギーを高らかに謳い上げたルノワール作品『大いなる幻影』に最大級の賛辞が捧げられながら、逆にデュヴィヴィエに対しては全フランス国民が苦闘している時代に、「絶望と逃亡」の現象だけを巧みに切り取り商品化した、小手先だけの作品を撮った商人根性・いわば「調子のよさ」に対する非難と嫌悪が感情的に語られているように思われます。

これはそのまま、「小市民性」を嫌悪し、「潔い政治的行為=革命」が誇りでもあり大好きなフランス人の偏屈な道義的な雰囲気に同調し、そのまま反映しているだけの、いわば一種の太鼓持ち的な「おフランス映画批評」でしかないように思われてなりません。

「絶望と逃亡」の現象だけを巧みに切り取って商品化することが、どうしていけないのか、さっぱり分からないのです。

「芸術的」でなく、おまけに政治的でもないということのために、ましてや器用・巧みに映画化できる才能であるがゆえに、何故非難されねばならないのかが分からないのです。

まさにこれこそ、「おフランス・コンプレックス」以外のなにものでもありません。世界がどうあれ日本人は日本人の感性で、「独自に」作品を評価していけばいいのだと思います。

こうした「エセ識者」の批評を鵜呑みにする一部の悪しき慣習は、観客それぞれの独自の判断で打ち砕いていかなければ、僕たちが最初に抱いた「感動」も、あとからあれこれ難癖をつけられて変質させられてしまう恐れがありますものね。

デュヴィヴィエ批判は、そのいい例かもしれません。

まあ、とにかく、最近は、古典作品を専門的に上映する名画座も減ってしまい、見る機会も少なくなってしまったので、僕も、できるだけ都合をつけて足を運びたいと思っています。

【青い麦】 LE BLÉ EN HERBE
1953(監督脚本)クロード・オータン=ララ(原作)コレット(脚本)ジャン・オーランシュ、ピエール・ボスト(撮影)ロベール・ル・フェーヴル(美術)マックス・ドゥーイ(音楽)ルネ・クロエレック
(出演)エドウィージュ・フイエール、ニコル・ベルジェ、ピエール=ミシェル・ベック、ルイ・ド・フュネス、ルネ・ドヴィレル、シャルル・デシャン
(108分・35mm・白黒)

【赤い風船】 LE BALLON ROUGE
1955(監督脚本)アルベール・ラモリス(撮影)エドモン・セシャン(音楽)モーリス・ルルー
(出演)パスカル・ラモリス、シュザンヌ・クルーチエ
(33分・35mm・カラー)

【惡魔のような女】LES DIABOLIQUES
1954(監督脚本)アンリ=ジョルジュ・クルーゾー(原作)ピエール・ボワロー、トーマ・ナルスジャック(脚本)ジェローム・ジェロニミ(撮影)アルマン・ティラール、ロベール・ジュイヤール(美術)レオン・バルザック(音楽)ジョルジュ・ヴァン・パリス
(出演)シモーヌ・シニョレ、ヴェラ・クルーゾー、ポール・ムーリッス、シャルル・ヴァネル、ピエール・ラルケ、N・ロクヴェル、ジョルジュ・プージェリー、アンリ・クレミウ、ジャン・プロシャール、モーリス・セロー
(117分・35mm・白黒)

【雨のしのび逢い】 MODERATO CANTABILE
1960(監督)ピーター・ブルック(原作脚本)マルグリット・デュラス(脚本)ジェラール・ジャルロ(撮影)アルマン・ティラール(美術)ジャン・アンドレ(音楽)アントニオ・ディアベリ
(出演)ジャンヌ・モロー、ジャン=ポール・ベルモンド、ディディエ・オードパン、ヴァレリー・ドブジンスキ
(93分・35mm・白黒)

【居酒屋】GERVAISE
1956(監督)ルネ・クレマン(原作)エミール・ゾラ(脚本)ジャン・オーランシュ、ピエール・ボスト(撮影)ロベール・ジュイヤール(美術)ポール・ベルトラン(音楽)ジョルジュ・オーリック
(出演)マリア・シェル、フランソワ・ペリエ、アルマン・メストラル、シュジー・ドレール、マチルド・カザドシュ、アルマン・メストラル、ジャック・アルダン、L・ユベール、アメデ、アリア・ヌランセル、ジャンニ・オルト
(116分・35mm・白黒)

【イタリアの麦藁帽子】 UN CHÂPEAU DE PAILLE D'ITALIE
1927(監督脚本)ルネ・クレール(原作)ウジェーヌ・ラビッシュ、マルク・ミシェル(撮影)モーリス・デファシオ、ニコラ・ルーダコフ(美術)ラザール・メールソン(助監督)ジョルジュ・ラコンブ
(出演)アルベール・プレジャン、オルガ・チェホヴァ、マリーズ・マイア、アリス・ティッソ、アレクシス・ボンディレフ、イヴォネック、プレ・フィス、P・オリヴィエ、J・ジェラール、リュシエンヌ・ボガエル、スタッケ、アレクシス・アラン、ヴィタル・ゲモン、
(122分・16fps・35mm・無声・白黒)

【いぬ】 LE DOULOS
1963(監督脚本)ジャン=ピエール・メルヴィル(原作)ピエール・ルズー(撮影)ニコラ・エイエ(美術)ダニエル・ゲレ(音楽)ポール・ミズラキ
(出演)ジャン=ポール・ベルモンド、セルジュ・レジアニ、ジャン・ドザイ、ミシェル・ピコリ、モニク・エネシー、ファビエンヌ・ダリ
(108分・35mm・白黒)

【貝殻と僧侶】 LA COQUILLE ET LE CLERGYMAN
1927(監督)ジェルメーヌ・デュラック(脚本)アントナン・アルトー(撮影)ジョルジュ・ペリナル、ポール・ギシャール
(出演)アレックス・アラン、ジェニカ・アタナシウ、リュシアン・バタイユ
(14分・24fps・35mm・無声・白黒)

【外人部隊】 LE GRAND JEU
1933(監督脚本)ジャック・フェデー(脚本)シャルル・スパーク(撮影)アリ・ストラドリング、M・フォルステル(美)ラザール・メールソン(音楽)ハンス・アイスラー(助監督)マルセル・カルネ
(出演)マリー・ベル、ピエール・リシャール=ヴィルム、シャルル・ヴァネル、フランソワーズ・ロゼー、ジョルジュ・ピトエフ、カミーユ・ベール、リーヌ・クレヴェール
(104分・35mm・白黒)

【可愛い惡魔】EN CAS DE MALHEUR
1958(監督)クロード・オータン=ララ(原作)ジョルジュ・シムノン(脚本)ジャン・オーランシュ、ピエール・ボスト(撮影)ジャック・ナトー(美術)マックス・ドゥーイ(音楽)ルネ・クロエレック
(出演)ブリジット・バルドー、ジャン・ギャバン、エドウィージュ・フイエール、フランコ・インテルレンギ、N・ペルジェ、マチルド・カザデシュ、ガブリエル・フォンタン、ジュリアン・ベルトゥ
(122分・35mm・白黒)

【顔のない眼】LES YEUX SANS VISAGE
1960(監督)ジョルジュ・フランジュ(原作)ジャン・ルドン(脚本)ピエール・ボワロー、トーマ・ナルスジャック、J・ルドン、ピエール・ガスカール、クロード・ソーテ(撮影)オイゲン・シュフタン(美術)オーギュスト・カプリエ(音)モーリス・ジャール
(出演)アリダ・ヴァリ、ピエール・ブラッスール、エディット・スコッブ、ジュリエット・メニエル、フランソワ・ゲラン、ベアトリス・アルタ・リバ、
(88分・35mm・白黒)

【最後の億万長者】 LE DERNIER MILLIARDAIRE
1934(監督脚本)ルネ・クレール(撮影)ルドルフ・マテ、ルイ・ネエ、(美術)リュシアン・アゲタン、リュシアン・カレ(音楽)モーリス・ジョベール(助監督)A・ヴァランタン
(出演)マクス・デアリー、ルネ・サン=シール、マルト・メロ、ジョゼ・ノゲロ、レイモン・コルディ、ポール・オリヴィエ、ジャン・エーム、シノエル、シャルル・レジー、R・エーモス、マルセル・カルパンティエ
(89分・35mm・白黒)

【ジェニイの家】 JENNY
1936(監督)マルセル・カルネ(原作)ピエール・ロシェ(脚本)ジャック・プレヴェール、ジャック・コンスタンタン(撮影)ロジェ・ユベール(美術)ジャン・ドーボンヌ(音楽)ジョゼフ・コスマ、リオネル・カゾー
(出演)フランソワーズ・ロゼー、アルベール・プレジャン、シャルル・ヴァネル、ジャン=ルイ・バロー、ローラン・トゥータン、リゼット・ランヴァン、マルゴ・リオン、シルヴィア・バターユ、ロベール・ル・ヴィガン、ルネ・ジェナン、ロジェ・ブラン、J・コスマ
(89分・35mm・白黒)

【ジャンヌ・ダルク裁判】 PROCÈS DE JEANNE D’ARC
1962(監督脚本)ロベール・ブレッソン(撮影)レオンス=アンリ・ビュレル(美術)ピエール・シャルボニエ(音楽)フランシス・セイリグ
(出演)フロランス・カレ、ジャン=クロード・フルノー、ロジェ・オノラ、マルク・ジャキエ、ミシェル・エリュベル
(64分・35mm・白黒)

【純粋映画の五分間】 CINQ MINUTES DE CINÉMA PUR
1926(監督)アンリ・ショメット
(5分・18fps・35mm・無声・白黒)

【商船テナシチー】 LE PAQUEBOT TENACITY
(34ヴァンダル・エ・ドラッグ)(監督脚本)ジュリアン・デュヴィヴィエ(製作)マルセル・バンダル、シャルル・ドゥラク(原作脚本)シャルル・ヴィルドラック(撮影)ニコラ・エイエ、アルマン・ティラール、クリスチャン・マトラ(美術)ジャック・クロース(音楽)ジャン・ヴィエネール
(出演)マリー・グローリー、アルベール・プレジャン、ユベール・プレリエ、ピエール・ローレル、マディ・ベリ、マルシャン・レーブ、ニタ・アルバレス、ジャンヌ・デュク、ピエール・ラルケ、アンドレ・セルヴィランジュ、レーモン・エーモス
(73分・35mm・白黒、1934.11.1帝劇)

【スパイ】LES ESPIONS
1957(監督脚本)アンリ=ジョルジュ・クルーゾー(原作)エゴン・ホストフスキー(脚本)ジェローム・ジェロニミ(撮影)クリスチャン・マトラス(美術)ルネ・ルヌー(音楽)ジョルジュ・オーリック
(出演)クルト・ユルゲンス、ジェラール・セティ、ピーター・ユスティノフ、O・E・ハッセ、サム・ジャッフェ、ヴェラ・クルーゾー、ポール・カーペーター、サム、ジャッフェ、ルイ・セニエ、ガブリエル・ドルジア、P・ラルケ、サシャ・ピエトフ、
(126分・35mm・白黒)

【セーヌの詩】 LA SEINE A RENCONTRÉ PARIS
1957(監督脚本)ヨリス・イヴェンス(原作)ジョルジュ・サドゥール(撮影)アンドレ・ドゥメートル、フィリップ・ブラン(音楽)フィリップ・ジェラール(作詞)ジャック・プレベール(解説)セルジュ・レジアニ
(31分・35mm・白黒)

【たそがれの女心】MADAME DE…
1953(監督脚本)マックス・オフュルス(原作)ルイズ・ド・ヴィルモラン(脚本)マルセル・アシャール、アネット・ヴァドマン(撮影)クリスチャン・マトラス(美術)ジャン・ドーボンヌ(音楽)ジョルジュ・ヴァン・パリス、オスカー・ストラウス
(出演)ダニエル・ダリュー、シャルル・ボワイエ、ヴィットリオ・デ・シーカ、ジャン・ドビュクール、リア・ディ・レオ、ミエール・ペレ、ポール・アザイス、J・ガラン
(99分・35mm・白黒)

【チューブ博士の狂気】 LA FOLIE DU DOCTEUR TUBE
1915(監督)アベル・ガンス(撮影)レオンス=アンリ・ビュレル
(出演)アルベール・ディュドネ、ディ=ゴ
(14分・18fps・35mm・無声・白黒)

【塔】 LA TOUR
1928(監督)ルネ・クレール(撮影)ジョルジュ・ペリナール、ニコラ・ルーダコフ
(11分・24fps・35mm・無声・白黒)

【燈台守】 GARDIENS DE PHARE
1929(監督)ジャン・グレミヨン(原作)ポール・オーティエ、P・クロクマン(脚本)ジャック・フェデー(撮)ジョルジュ・ペリナールほか(美術助監督)アンドレ・バルザック
(出演)ジェニカ・アタナジウ、ガブリエル・フォンタン、ジェイモン・ヴィタル、ポール・フロメ
(82分・18fps・35mm・無声・染色)

【虎は新鮮な肉を好む】 LE TIGRE AIME LA CHAIR FRAÎCHE
1965(監督脚本)クロード・シャブロル(原作)アントワーヌ・フラショ(脚本)ジャン・アラン(撮影)ジャン・ラビエ(音楽)ピエール・ジャンセン
(出)ロジェ・アナン、ダニエラ・ビアンキ、マリオ・ダヴィド、ロジェ・デュマ、マリア・モーバン
(81分・35mm・白黒)

【ナポレオン】NAPOLÉON
1955(監督脚本)サシャ・ギトリ(撮影)ピエール・モンタゼル(美術)ルネ・ルヌー(音楽)ジャン・フランセ
(出演)ダニエル・ジェラン、レイモン・ペルグラン、ミシェール・モルガン、サシャ・ギトリ、ダニエル・ダリュー、イヴ・モンタン、ジャン・マレー、マリア・シェル、エーリッヒ・フォン・シュトロハイム、オーソン・ウェルズ、ミシュリーヌ・プレール、ピエール・ブラッスール、セルジュ・レジアニ
(119分・35mm・カラー)

【のらくら兵】 TIRE AU FLANC
1928(監督脚本)ジャン・ルノワール(原作)ムエジ=エオン、シルヴァーヌ、(脚本)クロード・エマン、アルベルト・カヴァンカンティほか(撮影)ジャン・バシュレ(美術)エーリク・アエス
(出演)ジョルジュ・ポミエ、ミシェル・シモン、フリデット・ファトン、フェリックス・ウーダール、ジャンヌ・エルプラン、J・ストルム、M・ラヴィノヴィッチ
(130分・16fps・35mm・無声・白黒)

【パシフィック231】 PACIFIC 231
1948(監督)ジャン・ミトリ(脚本)マルク・デュクーレ(撮影)アンドレ・タディエ(音楽)アルチュール・オネゲル
(9分・35mm・白黒)

【巴里の暗黒街】 AU NOM DE LA LOI
1932(監督脚本)モーリス・トゥールヌール(原作)ポール・ブランギエ(撮影)ジョルジュ・ブノワ、ビュジャール(美術)ジャック・コロンビエ
(出演)マルセル・シャンタル、ガブリエル・ガブリオ、シャルル・ヴァネル、ジャン・マルシャ、ジャン・ダクス、ジョゼ・ノゲロ、レジーヌ・ダンクール
(85分・35mm・白黒)

【バレエ・メカニック】 BALLET MÉCHANIQUE
1924(監督)フェルナン・レジェ(撮影)ダドリー・マーフィ
(11分・24fps・35mm・無声・白黒)

【ぶどう月】 VENDÉMIAIRE
1918(監督)ルイ・フイヤード(撮影)レオン・クロース、モーリス・シャンプルー
(出演)ルネ・クレステ、エドゥアール・マテ、ルイ・ルーバス、ガストン・ミシェル、ジョルジュ・ビスコ、マリー・ハラルド、ジャンヌ・ロレット、リュガーヌ
(149分・18fps・35mm・無声・白黒)

【ほほえむブーデ夫人】 LA SOURIANTE MADAME BEUDET
1923(監督)ジェルメーヌ・デュラック(原作)ドゥニ・アミエル(原作脚本)アンドレ・オベイ(撮影)アメデ・モラン
(出演)ジェルメーヌ・デルモズ、アレクサンドル・アルキリエール、マドレーヌ・ギティ、ジャン・ディド、マルト・ジャラベール、グリジェ嬢、パオリ、ティーラル
(28分・24fps・35mm・無声・白黒)

【幕間】 ENTR'ACTE
1924(監督脚本)ルネ・クレール(脚本美術)フランシス・ピカビア(撮影)ジミー・ベルリエ(音楽)エリク・サティー(助監督)ジョルジュ・ラコンブ
(出)マルセル・アシャール、ジャン・ボルラン、マン・レイ、マルセル・デュシャン、インゲ・フリース、ジョルジュ・オーリック、エリック・サティ、フランシス・ピカビア、ジョルジュ・シャランソル、
(19分・18fps・35mm・無声・白黒)

【陽気なドン・カミロ】LE PETIT MONDE DE DON CAMILLO
1953(監督脚本)ジュリアン・デュヴィヴィエ(原作)ジョヴァンニ・グアレスキ(脚本)ルネ・バルジャヴェル(撮影)ニコラ・エイエ(美術)ヴィルジリオ・マルキ(音楽)アレッサンドロ・チコニーニ
(出演)フェルナンデル、ジーノ・チェルヴィ、シルヴィー、ヴェラ・タルキ、フランコ・インテルレンギ
(107分・35mm・白黒)

【立派な詐欺師】 LE GRAND ESCROC
1964(監督脚本)ジャン=リュック・ゴダール(撮影)ラウール・クタール(音楽)ミシェル・ルグラン
(出演)ジーン・セバーグ、シャルル・デネル、ラズロ・サボー
(22分・35mm・白黒)

【リラの門】 PORTE DES LILAS
1957(監督脚本)ルネ・クレール(原作)ルネ・ファレ(脚本)ジャン・オーレル(撮影)ロベール・ルフェーヴル、アルベール、ミリトン(美術)レオン・バルザック(音楽)ジョルジュ・ブラッサンス(助監督)S・バラン
(出演)ピエール・ブラッスール、ジョルジュ・ブラッサンス、アンリ・ヴィダル、ダニー・カレル、レイモン・ビュシエール、アメデ、アンネット・ポワヴル、ガブリエル・ファンタン、アリス・ティッソ、アルベール・ミシェル
(98分・35mm・白黒)
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by sentence2307 | 2006-06-17 10:47 | 映画 | Comments(213)

最も人を鼓舞する映画

アメリカ映画協会(AFI)は、歴代の映画作品の中から「最も人を鼓舞する映画」100本を選出したとかで、CBSテレビの特別番組で発表したそうです・・・ってこれ、昨日もそんなの、やってなかったっけ? 

ああそうそう、昨日のは「歴史上もっとも論争を呼んだ映画」でしたね。

とにかく「映画収集狂」としては、「まとめてナンボ」のこの手の企画は大歓迎です。

なんてったって見出しだけとはいえ、とにかく本数がざくざく揃っていて、収集効率もいいときているので、つい相乗りさせてもらっています。

別に、どこかの色魔みたいに1000本の撫で斬りなんかを目指しているとか、そんなんじゃありませんが。

昨日の「歴史上もっとも論争を呼んだ映画」が示すあちらさんの「論争」といえば、だいたいは宗教がらみか、直接関係なさそうに見えて、SEXとか暴力なんかで道徳問題化されると、宗教団体が必ず絡んできますから、おおかたその辺かなと予想はつくのですが、「最も人を鼓舞する映画」となると、人それぞれ受け取り方・感じ方が違うので、どんな映画が「鼓舞」にあたいするのか、ちょっと予想がつきません。

「欲情」させたり、「興奮」させたりするような作品では逸脱すぎて駄目なのか、この選考基準の線引きの方が、十分「論争」を呼びそうな気がしますよね。

100位までの作品の英文タイトルは、適宜訳してください。

しかし、このライン・アップを見ていると、首を傾げたくなるものが結構ありますね。

7位の「怒りの葡萄」の次が「ヤング・ゼネレーション」って、一体この並び方はなんなんでしょうね。

しかし、2位の「アラバマ物語」の位置づけは、凄いなと思いました。

黒人の公民権運動が激化していた時代に、こういう映画が作られたということ自体に驚きます。

人間として「黒人」を敢然とかばい抜いた弁護士に、傍聴席の黒人たちが敬意を表して立ち上がるあの場面には、本当に鳥肌が立ちました。

それを直接的に描くのではなく、娘の目に映った父親の偉大さが、郷愁のなかで語られるという二重構造には、なんか「わが谷は緑なりき」をみたときと同じような感慨を覚えました。

成長した娘が、父親や故郷を懐かしんで思いをはせるその気持ちには、既に死んでしまった父親を追想しながら、そうせざるを得ない彼女の辛い現実としての「いま」が語られてもいるのだと思いました。

1. 素晴らしき哉、人生! IT'S A WONDERFUL LIFE 1946
2. アラバマ物語 TO KILL A MOCKINGBIRD 1962
3. シンドラーのリスト SCHINDLER'S LIST 1993
4. ロッキー ROCKY 1976
5. スミス都へ行く MR. SMITH GOES TO WASHINGTON 1939
6. E.T. E.T. THE EXTRA-TERRESTRIAL 1982
7. 怒りの葡萄 THE GRAPES OF WRATH 1940
8. ヤング・ゼネレーション BREAKING AWAY 1979
9. 34丁目の奇跡 MIRACLE ON 34TH STREET 1947
10. プライベート・ライアン SAVING PRIVATE RYAN 1998

11. 我等の生涯の最良の年 THE BEST YEARS OF OUR LIVES 1946
12. APOLLO 13 1995
13. HOOSIERS 1986
14. THE BRIDGE ON THE RIVER KWAI 1957
15. THE MIRACLE WORKER 1962
16. NORMA RAE 1979
17. ONE FLEW OVER THE CUCKOO'S NEST 1975
18. THE DIARY OF ANNE FRANK 1959
19. THE RIGHT STUFF 1983
20. PHILADELPHIA 1993

21. IN THE HEAT OF THE NIGHT 1967
22. THE PRIDE OF THE YANKEES 1942
23. THE SHAWSHANK REDEMPTION 1994
24. NATIONAL VELVET 1944
25. SULLIVAN'S TRAVELS 1941
26. THE WIZARD OF OZ 1939
27. HIGH NOON 1952
28. FIELD OF DREAMS 1989
29. GANDHI 1982
30. LAWRENCE OF ARABIA 1962

31. GLORY 1989
32. CASABLANCA 1942
33. CITY LIGHTS 1931
34. ALL THE PRESIDENT'S MEN 1976
35. GUESS WHO'S COMING TO DINNER 1967
36. ON THE WATERFRONT 1954
37. FORREST GUMP 1994
38. PINOCCHIO 1940
39. STAR WARS 1977
40. MRS. MINIVER 1942

41. THE SOUND OF MUSIC 1965
42. 12 ANGRY MEN 1957
43. GONE WITH THE WIND 1939
44. SPARTACUS 1960
45. ON GOLDEN POND 1981
46. LILIES OF THE FIELD 1963
47. 2001: A SPACE ODYSSEY 1968
48. THE AFRICAN QUEEN 1951
49. MEET JOHN DOE 1941
50. SEABISCUIT 2003

51. THE COLOR PURPLE 1985
52. DEAD POET'S SOCIETY 1989
53. SHANE 1952
54. RUDY 1993
55. THE DEFIANT ONES 1958
56. BEN-HUR 1959
57. SERGEANT YORK 1941
58. CLOSE ENCOUNTERS OF THE THIRD KIND 1977
59. DANCES WITH WOLVES 1990
60. THE KILLING FIELDS 1984

61. SOUNDER 1972
62. BRAVEHEART 1995
63. RAIN MAN 1988
64. THE BLACK STALLION 1979
65. A RAISIN IN THE SUN 1961
66. SILKWOOD 1983
67. THE DAY THE EARTH STOOD STILL 1951
68. AN OFFICER AND A GENTLEMAN 1982
69. THE SPIRIT OF ST. LOUIS 1957
70. COAL MINER'S DAUGHTER 1980

71. COOL HAND LUKE 1967
72. DARK VICTORY 1939
73. ERIN BROCKOVICH 2000
74. GUNGA DIN 1939
75. THE VERDICT 1982
76. BIRDMAN OF ALCATRAZ 1962
77. DRIVING MISS DAISY 1989
78. THELMA & LOUISE 1991
79. THE TEN COMMANDMENTS 1956
80. BABE 1995

81. BOYS TOWN 1938
82. FIDDLER ON THE ROOF 1971
83. MR. DEEDS GOES TO TOWN 1936
84. SERPICO 1973
85. WHAT'S LOVE GOT TO DO WITH IT 1993
86. STAND AND DELIVER 1988
87. WORKING GIRL 1988
88. YANKEE DOODLE DANDY 1942
89. HAROLD AND MAUDE 1972
90. HOTEL RWANDA 2004

91. THE PAPER CHASE 1973
92. FAME 1980
93. A BEAUTIFUL MIND 2001
94. CAPTAINS COURAGEOUS 1937
95. PLACES IN THE HEART 1984
96. SEARCHING FOR BOBBY FISCHER 1993
97. MADAME CURIE 1943
98. THE KARATE KID 1984
99. RAY 2004
100. CHARIOTS OF FIRE 1981
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by sentence2307 | 2006-06-15 23:48 | 映画 | Comments(2)