世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

<   2006年 11月 ( 6 )   > この月の画像一覧

風の又三郎

むかしの日本映画や外国映画を見るとき、よく参考にさせてもらっているのが、キネマ旬報のベスト10です。

年月を重ねた気の遠くなるような膨大なラインナップを前にすると、まだまだ見ていない映画がたくさんあって、映画を観るうえで信頼のおける手掛かりになるのは勿論ですが、そのラインナップをただ眺めているだけでも、十分に楽しむことができる第1級の優れものの資料だと思っています。

そういう意味で、僕にとっては、なくてはならない貴重な資料のひとつで、とくに戦前の日本映画を見るときなどは、その時代の知識が乏しいことを補ってくれる、大変有用なものといえます。

戦前のベスト10のラインナップを眺めていて、まず最初に感じることは、やはり迫り来る「戦争」の影でしょうか。

国内的にも総力戦に向けて緊急な臨戦体制が整えられていく厳しい状況下の昭和15,16年あたりから、このベスト10にも動揺が見られます。

むしろ、存続の危機を通り越して、一気に壊滅に追い込まれていく不吉な動揺といった方が適切かもしれませんね。

昭和15年のベスト10を選考する少し前の時点で、映画雑誌のいわゆる第1次統合により、「キネマ旬報」は「映画旬報」と改称され、出版母体も統合されます。

それとともに、ベスト10の選考も日本映画雑誌協会が一元化して行うことになって3年間続きますが、昭和15年度だけは「映画旬報」が独自のベスト10を選考しているものの、この選考方法は例外的だったらしく、「キネマ旬報」の伝統は日本映画雑誌協会によって継承されたということです。

昭和16年12月に太平洋戦争に突入すると、米英の映画が上映禁止となり、まず外国映画のベスト10の選考が廃止され、翌18年、映画雑誌の第2次統合によって「映画旬報」も12月限りで廃刊、日本映画雑誌協会も解散し、ベスト10の選考自体が行われなくなりました。

現在僕たちが目にしている「第1位・無法松の一生、第2位・三四郎、第3位・海軍、第4位・花咲く港、第5位・望楼の決死隊」というあのラインナップ選考は、略式で「映画評論」が優秀映画を選出したものと伝えられています。

しかし、戦局の急迫とともに、「映画評論」も昭和19年限りで休刊し、以後優秀映画の選考はどこも行われていない状況が招来しました。

そういうわけで、僕はかねてからこの「時代的動揺」のなかで選出された昭和15年のベスト10の記録を特別な関心をもって見ていました。

「西住戦車長伝」や「沃土万里」や「燃ゆる大空」のような時局に沿った作品のなかで、「小島の春」のような強い志を持ったひたむきな作品が第1位に評価されたことは注目に値すると、以前からずっと考えていました。

しかし、最近になって、この考えが少し揺らいできています。

もしかしたら、この映画「小島の春」も、国民皆兵・祖国防衛という緊急の軍部の要求を忠実に反映・敷衍したひとつの映画の在り様だったのではないか、「小島の春」への僕の評価が些かも揺るぐものではないことを再確認しながら、あえていえば、国家が求めた「戦うべき者は戦うべし、収容されるべき者は大人しく収容に順ずべし」みたいな、国策映画のもうひとつの役割を担った作品だったのではないか、という考えに最近捉われたのでした。

そういうなかで、「風の又三郎」に出会いました。

見ようによっては、物凄く時局的な作品でも有り得る「小島の春」に対して、同じ昭和15年のベスト3となった「風の又三郎」は、戦争という思想から遠く離れたファンタスティックなきわめて特異な作品として見始めたと思います。

この映画には、小学校の巡回映画で幾度も出会っていると思います。

そう考えてしまうほど、子供心に強烈な印象を残した作品でした。

今回改めてこの作品を見直してみて、子供のときに感じたそのままの感覚がまるでリアルタイムで蘇ってくるような感じに捉われました。

転校してきて、そして、すぐにまた、どこかへ去ってしまった不思議な子供・又三郎をめぐって、彼を取り巻く子供たちは、又三郎の身辺に不思議な「風」を感じます。

しかし、ここで描かれている「風」とは、何を意味しているのか、たぶん、自由さと表裏にある拠り所のない子供たちの動揺と不安だと思いました。

風が動く気配に不安気に耳を傾け、そして揺れ動く木々や流れ去る雲を見上げる少年たちの眼差しには、怯えや恐れが描き込まれています。

この映画を見た印象は、「流れ来たり、流れ去るもの」への子供たちの動揺のような気がします。

これもまた、「戦争の影」と見るべきなのかどうか、まだ確信はありませんが。

田中純一郎の「日本映画発達史」には、昭和15年当時の島耕二と「風の又三郎」をこのように解説しています。

「『雲雀』39以来、一作ごとに進境を見せてきた島耕二は、宮沢賢治の原作を捉えて、少年を主人公とした内面的な心理の掘り下げに成功し“お茶の会”以来から根岸寛一らの培ってきた映画と文学の合成による新しい映画美の創造に、その実例を示した。」

絶賛といっても一向に差し支えない、このように演出手腕を評価された監督・島耕二の頂点が、もしこの「風の又三郎」だったとしたら、随分残酷な話だと思いました。

僕の手元にこんな一文があります。

「47年、大作『緑の小筺』に挑む。人生の幸福の実体を求めて妻子のもとを去り、・・・そして、無人島に漂着した父の元へたどり着くというこの映画詩、交響楽映画は、少年もので成功した島の戦後における復活を狙ったものだったが、必ずしも成功しなかった。これを境として彼は通俗的な作品に傾斜していく。・・・この間は、往年の演出を偲ばせるユニークな作品はあるにせよ、かつてのひたむきな映像に身を置き、雲の流れ、木々のそよぎと対話した世界はみられなくなった。」

(40日活多摩川撮影所) 監督・島耕二、脚色・永見隆三、小池慎太郎、原作・宮沢賢治、撮影・相坂操一、
配役・中田弘二、北竜二、風見章子、西島悌四郎、片山明彦、大泉滉、星野和正、小泉忠、中島利夫、林寛、見明凡太郎、杉利成、南沢昌平、河合英一、久見京子
1940.10.10 富士館 10巻 白黒 文部大臣賞
[PR]
by sentence2307 | 2006-11-25 17:21 | 映画 | Comments(1)

証人の椅子

この映画の原作、開高健の「片隅の迷路」を読んでから、もう随分長い時間が経過してしまっています。

開高健の原作が、この冤罪事件を、こんなふうに真正面から告発調で書いていた作品だったかどうか、どうしても思い出せないでいるのですが、ただ、山本薩夫が撮ってきたような告発タイプのモロ政治的な作品と、開高健の混沌とした作風が一致するとはどうしても考えられないというのが正直な気持です。

あの開高健が書くとしたら、カフカの「審判」のごとき迷路のようなねちっこい作品、たとえば裁判という手続きの迷宮で道を失い、どうにも身動きできなくなってしまう虫けらのような卑小な人間の懊悩を繊細に描くみたいな作品こそが相応しいような感じがしていました。

ですので、開高作品に相応しい映像作家といえば、例えば今村昌平とか勅使河原宏のような錯綜した世界を粘り強く描き切ることのできる監督を思わず想起してしまいます。

ましてや「民芸」のような分かりやすい演劇集団の全面協力と、さらに権力悪に真っ向から挑みかかるというこれもまた大変「分かりやすい」映画を撮ってきた監督とが、開高健という作家の晦渋な作品を撮るということ自体が、そもそも理解できなかったのかも知れません。

この作品を見終わったあとでも、特にその考えが変化したわけではありませんが、検事の強引な取調べによって被疑者のごく身近にいた二人の証人が虚偽の自白をしたために、無実の女性が冤罪に陥れられるという過程が描かれていくこの映画で、いままで観てきた冤罪を告発する映画とは少し違う部分があることに気がつきました。

それは検事の描き方です。

多くの場合、裁判を報じる新聞記事には、判決を言い渡す裁判官の名前は掲載されても、その事件や裁判に関わった検事の名前が書かれることはありません。

おそらくそこには検察一体の原則というものがあって、検察官の行為は、あくまでも「検察庁」の行為なのであり「個人」の行為ではないという考え方があるからでしょう。

いままでのそうした描き方が、検察官の「顔」を見えなくさせ、一層「権力」を捉えどころのないもの、威圧感と脅迫感・強制力を有する不気味な抽象として描かれてきたし、そのように僕たちも感じてきたのだと思います。

しかし、この「証人の椅子」には、冤罪を生み出した検察官の個人的な「歪んだ個性」が具体的に描かれているところが面白いなと感じました。

上司の検事から訝しげに「君の取調べは大丈夫だろうね」と聞かれると、彼は、愚かしい大衆の迎合しやすい愚鈍さと弱さを侮蔑し嘲笑の薄笑いを浮かべながら「大丈夫です」と断言します。

もはや自分が「権力」の体現者であり行使者であることに酔い痴れている確信に満ちたその毅然とした表情には、「狂気」のかげりさえも窺われました。

最近の多くの収賄事件を見るにつけ「権力は腐りやすい」という言葉がよく聞かれる昨今ですが、それに付け加えて「権力は人を狂わせやすい」とでも付け加えたくなる作品でした。

(65山本プロ・大映)製作・伊藤武郎、宮古とく子、監督・山本薩夫、脚本・井手雅人、原作・開高健、撮影・上村竜一、音楽・池野成、美術・菊池誠、録音・空閑昌敏、照明・高橋一三
出演・奈良岡朋子 吉行和子 新田昌玄 福田豊士 永田靖
1965.05.15 10巻 2,815m 白黒 ワイド



★山本 薩夫(やまもと さつお)
1910年7月15日/鹿児島県鹿児島市
父・源之助が鹿児島県庁農林課に在籍していた時に誕生。
母・のぶ。長兄・狷吉はのち新潟大学教授になり、次兄・勝巳は建築業を営み、俳優の山本学、圭、亘の父。姉・満寿子がいる。
父が愛媛県庁に転任し、23年、県立松山中学に入学。
先輩の伊丹万作のもとに絵を習いに通っている。
父は定年になり単身満州へ渡るが、残った家族は25年に東京に移る。
30年、第一早稲田高等学院に入学し演劇に熱を入れ、新興劇協会に加わり『ガスマスク』などを上演し左翼思想に感化される。
ニコラス・エックの「人生案内」などロシア映画に感動し映画界入りを決意し、すでに監督になっていた伊丹に相談するが、彼は勧めず、兄の紹介状を持って、やはり中学の先輩にあたる伊藤大輔監督を訪ねる。
「続大岡政談・魔像解決篇」の撮影現場に2週間通い、伊藤から松竹入社を勧められる。
33年4月、蒲田撮影所の助監督試験に合格し、成瀬巳喜男監督の「双眸」でサードとしてつく。
セカンドが渋谷実で、成瀬は城戸撮影所長に冷遇されており、P・C・Lから誘われたのをきっかけに渋谷に同行を求めるが断られ、代わって山本が専属チーフ助監督として入社。
「乙女ごゝろ三人姉妹」「妻よ薔薇のように」などの秀作で成瀬から学ぶものが多かった。
監督第1作は「お嬢さん」(37年)で、南の島の女学校を舞台にお嬢さん育ちの霧立のぼる演じる英語教師をめぐる「坊ちゃん」の女性版。
アメリカの母もの「ステラ・ダラス」の翻案「母の曲」(37年)、「家庭日記」(38年)と3作とも吉屋信子原作で、メロドラマ監督としてスタート。
「田園交響楽」(38年)はアンドレ・ジイドの小説を原節子主演で翻案し、劇作家・田中千禾夫がシナリオを書いた初期の力作。
明治後期の札幌で友愛学舎を設立し、教育に情熱を傾けるヒロインを入江たか子が演じた「リボンを結ぶ夫人」(39年)、成瀬のオリジナル脚本による「そよ風父とともに」(40年)は高峰秀子演じた銭湯の娘が養父に実父以上の愛を知る人情物で、今井正とともにP・C・Lのホープと注目される。
戦中は、黒澤明脚本で陸軍航空本部後援によりテスト・パイロットの生活と新鋭機・隼号の空中戦を見せた「翼の凱歌」(42年)、八幡製鉄所員が戦争のため増産に励む「熱風」(43年)を完成させた直後に応召。
中国・済南の第12軍指令部報道部付となり、記録映画「河南作戦」を撮るが、終戦になりフィルムは焼却。
国府軍に抑留され、46年6月に帰国。
東宝に復社し、新憲法発布記念作として作られた反戦がテーマの「戦争と平和」(47年)で、記録映画作家・亀井文夫と共同監督。
夫の戦死の報を受け再婚した妻のもとに生きていた夫が生還し、二重結婚の苦境に立たされた妻を通して二人の男の戦争体験に反戦をアピール。
キネマ旬報ベスト・テン2位になるが、折から東宝に労働争議が起こり、青年時代からの左翼思想が再燃して共産党闘士になり、48年10月の労使団交による解決条件に従い、伊藤武郎委員長ら20人の組合幹部のひとりとして退職。
フリーになり、東横映画で「こんな女に誰がした」(49年)を撮る。
トーマス・ハーディの『テス』を下敷きに、戦争中にレイプされた野戦病院の看護婦をしていたヒロインを通して反戦色を出した。
「暴力の街」(50年)は朝日新聞社浦和支局が、警察と癒着した暴力団追放のキャンペーンをやった実録をもとに製作された独立プロ映画の先駆作。
セミ・ドキュメンタリー・タッチで暴力団の妨害にあいながら現地で撮影され興行的にも成功。
東宝争議で退社しレッドパージを受けた人たちによって新星映画社が設立され、タカクラ・テル原作「箱根風雲録」(52年)が作られる。
幕府の反対を押し切って箱根用水を完成させた歴史実録。
野間宏原作「真空地帯」(52年)は太平洋戦争中の陸軍兵営内での古参兵が新兵を殴りまくる暴力地獄のような軍隊の実態を暴露。
監督自身も体験した迫力が全編にあふれ、軍隊という組織悪を初めて白日のもとにさらした。
梅崎春生原作「日の果て」(54年)は戦争末期のルソン島で現地娘と脱走した軍医を追う将校の死闘に、戦争のむなしさをあふれさせた。
大正15年の共同印刷労働争議に取材した徳永直のプロレタリア文学の古典「太陽のない街」(54年)は群衆シーンも大掛かりに再現した大作。
55年に山本プロを設立し、「浮草日記」を発表。
解散寸前のドサ回り一座に労働組合を鼓舞するストライキ劇が持ち込まれての喜劇。
「台風騒動記」(56年)は台風災害の政府補助金をせしめようとする地方政治ボスたちの陰謀を暴く風刺劇。
木下順二の戯曲から権威と権力を振りかざす代官を風刺した「赤い陣羽織」(56年)、松川事件を目撃したという泥棒の証言をめぐっる裁判風刺「にっぽん泥棒物語」(65年)は秀作で、喜劇にも意外な才能を実証。
戦後3大怪事件の一つである「松川事件」(61年)は、いかに政治的なでっち上げ事件かを主張し大衆カンパ資金で作られた。
明治から太平洋戦争まで日本の農村を生き抜いた女の一生「荷車の歌」(59年)と、50年代の高度成長に進む農村の現実を捉えた「乳房を抱く女たち」(62年)は全農協の資金で、「人間の壁」(59年)は教師と教育問題をテーマに日教組の資金で作る。
右翼の凶刀に倒れた代議士・山本宣吉伝「武器なき戦い」(60年)、徳島で起こったラジオ商殺し事件で夫殺しの犯人にされた主婦をめぐる裁判批判「証人の椅子」(65年)、密入国収容所から脱走した韓国学生をめぐる「スパイ」(65年)も実話で、社会派の鋭い視点で力作が続いた。
62年、大映で撮った「忍びの者」は忍者ブームを起こす大ヒットになるが、石川五右衛門を主人公に政治の権謀術策の手段に利用される忍者の悲痛な運命を描き、続編も作る。
「座頭市牢破り」(67年)、「牡丹燈籠」(68年)、農民出身の仙太が世直しを旗印にした天狗党に入るが武士に利用されるだけの悲劇「天狗党」(69年)、大原幽学伝「天保水滸伝」(76年)と時代劇も手掛ける。
石川達三原作の2作「傷だらけの山河」(64年)は巨大コンツェルンの巨頭とその一家の家庭崩壊にも動じない資本家の非情さを山村聡が好演。
「金環蝕」(75年)はダム建設をめぐる構造汚職と総裁の座を狙う抗争。
山崎豊子原作の3作「白い巨塔」(66年)は医学界の派閥抗争、「華麗なる一族」(74年)は金融界の内幕、「不地帯」(76年)はロッキー事件を予見し航空機選定を巡る商社マンの暗躍と、日本映画が苦手だった政財界まで深く食い込んだスケールの大きい社会派ドラマに残した業績は大きい。
この間、日活最後の大作「戦争と人間」3部作(70~73)で、中国侵略を推進していった日本の財閥一族と軍閥の謀略を通して昭和史を大河ドラマにし、3作の配収合計31億円の大ヒット。
大正時代の紡績女工の悲惨な実話をもとに「あゝ野麦峠」(79年)も16億円稼ぐが、続篇「あゝ野麦峠/新緑篇」(82年)が遺作になる。
長男・駿はカメラマンになり晩年の「アッシイたちの街」(81年)で父親と組み、次男・洋は大映倒産当時の労組委員長ををつとめ、徳間書店による再建の大映で父が撮る「悪魔の飽食」のプロデューサーが決まっていたが実現しなかった。
83年8月11日、膵臓ガンで死去。73歳だった。
[PR]
by sentence2307 | 2006-11-23 21:57 | 映画 | Comments(1)

動物園

以前、グラフィック・デザイナーの鈴木一誌という人が書いた「光の底-フレデリック・ワイズマン論」という論評を読んだことがありました。

1999年に製作されたワイズマン作品「メイン州ベルファスト」を手がかりにしたワイズマン試論という感じの論評です。

そんなに長い文章ではありませんし、一見難解に見えるかもしれないワイズマン作品をそれこそ正統的に解説(ワイズマン作品の一貫しているテーマは、アメリカ社会の施設・組織の日常生活である、みたいな・・・)している常識的なもので、その「メイン州ベルファスト」をこんなふうに分析していました。

《かつてワイズマン的であると思われていたものは、施設や機関の内部と外部を信じることで成立していた。
が、「メイン州ベルファスト」では、作家が作家らしさの境界線におさまらない。
その変化は、作風の変遷など時系列に辿られる違いではなく、作家の個性を維持しながらも休むことなく風向きを変える、部分と全体の関係の変動であるようだ。
部分のざわめきが作品の境界線を揺らせ、個は全体に、小さなものは大きなものに、あるいはその逆に、居場所を変える。
内部は外部に、外は内に、内になったものは再び外へと変わる。》

この論評を読んだとき、はっきり言ってワイズマンの作品とは、なんと面白味のない映画なのかという悪印象を持ってしまいました。

しかし、よく考えてみれば、面白味のないのは、アチラの権威ある本(R・M・バーサム「ノンフィクション映像史」)に引き摺られたその論評の方であって、ワイズマン作品のせいでないことは、たとえば優れたドキュメンタリー作品「動物園」を見たときに、すぐに分かりました。

《 》で括った引用を少し冷静に読んでみれば、これは、「ワイズマン的な作風」という定説に括りきれない部分(どのような映像作家でも、撮られたすべての作品に一貫性や法則性を求める困難があるのに、です)を、「揺れる境界線」などという葛藤も無視→放棄した言い回しだけの逃げで「例外」として定説の中に取り込もうとしているにすぎません。

もとより作家の個々の作品に統一性を求めたいという思いは、誰もの当然の欲求だと思います。

しかし、定説に寄り掛かるような論評を、ただ言い回しを工夫しただけで、不安定な作家性を強引に押さえ込もうとする論理の在り方が、とても残念でならないのです。

「ワイズマン作品の一貫しているテーマは、アメリカ社会の施設・組織の日常生活である」などという面白くもない定説をどこまで敷衍させようと、「時代」に立ち向かっていった熱い血の通った人間ワイズマン論にたどり着くことは至難のわざかもしれません。

今回、実際に「動物園」93を見てそのことを痛感しました。

ドキュメンタリー作品「動物園」は、ある動物園に勤務する獣医や飼育係の職員たちの、日々動物たちと接する勤務をひとつひとつ忠実に追いかけた極めて素直なドキュメンタリー作品です。

特に捻ったような作為とか「やらせ」めいた奇を衒うわざとらしさもありません。

カメラを据えて対象を辛抱強く撮り続けているだけの、なんていうこともない作品です。

シンプルなそのような撮り方を「手法」などと言えるかどうかはともかく、僕たちは素朴なその眼差しによって次々と暴かれていく残酷で冷ややかな「真実」を立て続けに目の当たりにさせられます。

例えば、この作品のなかにサイの死産のエピソードが描かれています。

夜中に産気づいた母親のサイが、難産のために夜通し苦しんで、やっと産み落とした赤ちゃんは既に息をしていませんでした。

なんとか子供を助けようと獣医や飼育係のチームは、夜通し難産で苦しむ母親サイを励まし、赤ちゃんサイの救命に必死になってあらゆる手を尽くして努力しますが、胎内の滞在時間が長すぎたことで手の施しようがありません。

死んだ赤ちゃんサイの死骸を前にした疲れ切った職員たちの呆然とする表情をカメラは捉えています。

多分ここまでなら、子供にも見せられる「感動的な動物愛」の素直なドキュメンタリー映画といえるでしょう。

しかし、このシーンには、ある種の感情移入を許すだけの間延びした時間を割いているわけではなく、場面はすこぶる淡々と次の事態に進んでいきました。

ここから先で描かれていたものは、この赤ちゃんサイの貴重な内臓の標本を採るためのきわめて事務的な腑分けの作業です。

メスで腹を切り開き、鋏で各内臓のサンプルを切断し、それを次々と保存していきます。

内臓を切り刻んだあとは、当然のように胴体と頭を切り離し、まるでなにかの置物のように生首を肉片の散乱したなかに立て掛けようとします。

この場面は、そこに生首が存在していなければ、まるで親しい仲間内だけの楽しいホーム・パーティーと錯覚してしまうくらいの和やかさに貫かれています。

談笑も漏れる楽しげな雰囲気のなかで行われるこの腑分けの作業は、死につつあった赤ちゃんサイを必死になって救おうとしていた一連の場面と密接に関係していることで、観客を一種の混乱状態に陥れてしまうかもしれません。

観客は、チームが必死になって「懸命の救命行為」をしたことと、この「談笑のなかで行われる頭部の切断」の行為の、一見相容れない「違和」をどうにかして受け入れることを強いられます。

少なくともあの救命行為が、単純な「動物愛」だけから発せられたものではないらしいこと、珍しい胎児の標本を嬉々として楽しげに腑分けしている冷静な学術的な行為を通してあの「救命行為」を理解しなければ、「動物園」という実態は見えてこないことを示唆しています。

そして、たとえそれが理解しがたい特異なものであるとしても、そこにこそ、世間から隔絶された「動物園」だけがもつ独特な価値観が貫かれているとワイズマンは語っていると思いました。

この作品の別の場面で、ゴリラの身体検査を撮影する美人のレポーターが「この身体検査は、決して興味本位のものではない。ゴリラを絶滅から守る切実な努力のひとつだ」とカメラ写りを気にしながら繰り返す場面があります。

僕たち観客は、その語られなかったそのフレーズの後に続く言葉を、当然のように素直な「動物愛護」と考えてしまいがちですが、しかし、そこにあるものは、興味津々死んだサイの赤ちゃんを切り刻み、嬉々として内臓のサンプルを採集し、談笑しながら切断した胎児の生首をまるで何かの置物のように、散乱した肉片の中に立て掛けて遊ぶという異常な価値観が暴き出されるその現場に立ち会わされたのだと思います。

少なくとも、それは死んだ赤ちゃんサイの遺体を前にして、いつまでも嘆き悲しんでいるような、あるいは、可愛らしさの思い出をいつまでも胸に抱きしめて感傷にふけっているようなタイプの「動物愛」ではないらしいことは確かに理解できました。

このドキュメンタリー「動物園」もまた、衝撃作「チチカット・フォーリーズ」の「監禁」の思想性をしっかりと受け継いでいる作品であることを理解した次第です。



★フレデリック・ワイズマン Frederick Wiseman
 1930年、弁護士を父に社会活動家を母にアメリカのボストンに生まれる。
法律を学び、イェール大学大学院卒業後、マサチューセッツ州にて弁護士会会員となり、弁護士活動を始めた。
やがて軍隊に入り、除隊後、弁護士業の傍らボストン大学で教鞭を取るようになる。
1958年、彼が28才のとき、法的医療や犯罪法の実地見学でブリッジウォーターにある精神異常犯罪者のための州立施設に行った。
1961年、彼はハーレムを地獄のように描いたウォーレン・ミラーの小説「クール・ワールド」を読み、衝動的にミラーに会いに行き映画化権を獲得、自らは制作を担当。
ワイズマン製作、シャーリー・クラーク監督の手により、1964年映画に『クール・ワールド』を完成させる。
これを機にワイズマンは映画監督に進出、『チチカット・フォーリーズ』を作り上げた。
映画は赤字で、ワイズマンは貯金を使い果たしたが、映画製作に目覚めた彼にブリッジウォーターでの強烈な印象が蘇り、1967年、精神異常犯罪者を収容したマサチューセッツ州立ブリッジウォーター矯正院を舞台にした伝説的なドキュメンタリー映画『チチカット・フォーリーズ』が完成したが、マサチューセッツ州の最高裁判所で公開禁止処分となり一般上映が禁止され、およそ四半世紀にわたる法廷闘争が始まった。
以後、ワイズマンは逆に創作意欲をかきたてられたかのように次々とアメリカの社会構造を見つめる組織・施設のシリーズ・ドキュメンタリーを発表。
21世紀に入った現在も、ほぼ年1本のペースで新作を発表し続けている。
1971年に、現在も拠点とする自己のプロダクション、ジボラ・フィルムを設立した。
制作、監督のほかに、サウンドと編集を手掛けるが、それらはワイズマン独自の映画制作スタイルによって行われている。
撮影時は、最少人数のスタッフを率い、自らは録音を担当、マイクを手に持ったままカメラマンに映す対象を指示する。
撮影は機動力のある16 ㎜で行われる。
編集は、80時間から120時間の撮影フィルムをベースに、自らの手で8ヶ月から12ヶ月かけて行うという。 
現在、アメリカにおけるドキュメンタリー映画制作の第一人者であり、常に新たな課題を提起する作品群によってきわめて高い評価を得ている。
[PR]
by sentence2307 | 2006-11-23 09:21 | 映画 | Comments(1)

木下恵介の怒り

少し前のNHKのスペシャル番組で、木下恵介監督の特集番組を放送していました。(ネットで調べたら11月7日の夜10時からの番組です。)

僕の印象からすると、松竹の優等生・木下監督の人生って順風満帆というイメージだったのですが、放送を見ていたら、どうも晩年はそうでもなかったみたいですね。

繊細な天才肌で自我が強かった分だけ、次第に特異な部分が際立って企画が通りにくくなり、松竹との関係がギクシャクし、思うように仕事ができなくなっていく、やがて事実上ホサれ、やむなくテレビの仕事に流れていったと解説されていました。

それが例の「木下恵介劇場」だったんですね。初めて知りました。

そういうなかで、このNHKの番組が、繰り返し強調していたことは、分け隔てなく深い愛情を周囲に注いだ彼の母親を、木下監督自身が、映画の中で描き続けた「こだわり」でした。

番組では、そういった木下監督の母親観を、たとえばマザコンなどという無神経な言葉で一蹴するような製作意図はなかったにしても、もう一歩踏み込んで木下恵介を描くことができなかったのか、はっきり言って僕としては、その番組の不完全燃焼さに失望したのだと思います。

そのように失望したことが、結果的にこの番組の印象を薄め、また、今日の今日まで、忙しさに紛れていたこともあって、その番組のことと、そのとき感じたことの一切をすっかり忘れてしまっていたのだと思います。

しかし、今日、不意に「それらのこと」が思い浮かんできたのでした。

自分があの番組の何に、あるいは木下監督の何に失望したのか、逆に言えば自分が木下恵介の「晩年」に何を望んでいたのか、ということを、です。

たぶん、不治の病魔に冒されながら映画製作に執着し、断ち難い未練をこの世に残しながら断腸の思いで、あるいは失意のなかで死んでいった多くの天才監督たち、溝口健二や小津安二郎や黒澤明のように、オレは、木下恵介にも絶望の中でもがき苦しみながら死んでいったことを、暗に期待していたのではなかったのかと思い至って愕然としたのでした。

しかし、すぐに、僕が自分自身に対して愕然としたのが、自分がこの天才監督の不遇を暗に「期待」したことに対してでないと気がつきました。

「不遇」でもなく、「絶望」することもなく、「失意」のなかで生涯を終えるわけでもない映画監督なら、それこそゴマンといます。

たぶん彼らは、ただ「苦しんだ」のではなく、むしろ「苦しみを求めた」のだと思います。

この番組のなかでは、数々の木下監督作品の一シーンが映し出されていました。

どのシーンも記憶のなかにあるものばかりです。

ただひとつ、自分が印象していた場面と異なるシーンがありました。

「日本の悲劇」のラストシーン、すべてを失い尽くした望月優子の母親が、疾走してくる列車に身を投げる場面です。

僕の印象では、文字通りホームからフラっと「身を投げる」感じで記憶していたのでした。

しかし、実際には、母親は、疾走してくる列車に向かって突然自分も疾駆しています。

これは、ショックでした。

死ぬことに対する意思の強固さというか、絶望をバネにして我が身を疾走してくる列車に叩きつける計り知れない怒りの在り様というか、この「日本の悲劇」をいままで「救いのない作品」と片付けていたことを修正しなければならないかもしれません。

きっとこれは、木下恵介の怒りが込められた「救いを拒む作品」なのかもしれませんね。
[PR]
by sentence2307 | 2006-11-19 21:49 | 映画 | Comments(0)

日曜日には鼠を殺せ

あるとき、フレッド・ジンネマンの代表作を映画通の友人に聞いたことがありました。

まあ、だいたいは『真昼の決闘』52、『地上より永遠に』53、『わが命つきるとも』66あたりじゃないかなというのが、彼の意見でした。

そのとき、僕は、すかさずその作品群のなかに『ジャッカルの日』を加えたような気がします。

当時見たばかりだった『ジャッカルの日』の印象があまりにも強烈だったので挙げてみたのですが、この作品の高評価が現在も維持されていることを考えれば、僕の提案もあながちはずれてはいなかったとは思っています。

しかし、自分のなかで、この提案が、「そうじゃない」と否定する別の一面を持っていたことも当時から何となく気がついていました。

以後フレッド・ジンネマンの作品のうちで好きな作品はなにかと聞かれて、『ジャッカルの日』と答えるとき、常に否定的に動く別な気持があることに戸惑い続けてきました。

しかし、それがなにに由来するのか、長いあいだ見当もつきませんでした。

『ジャッカルの日』は、ドゴール大統領の命を狙う暗殺者の物語です。

虚を突くようなどんでん返しに継ぐどんでん返しで、まさに観客に息もつかせないサスペンス映画の醍醐味を十分に堪能させるとともに、演出者ジンネマンの力量を十分に見せ付けて、名作の名をほしいままにした傑作でした。

当時にあって、評価を得ていた他の諸作品、いわば映画批評家好みで高評価を受けやすい反戦映画や心優しい良心的芸術作品(スケアクロウやジョニーは戦場へ行った)に伍してこの作品が上位にランクされたということは驚異的なことだったと思います。

そもそも映画界にあって、サスペンス映画とコメディ映画が、業界の知的コンプレックスに基づく偏見から、考えられないような低い評価しか得られないこと(ヒッチコックの例を見るまでもなく、これは周知の事実として認知されています)を差し引いて考えても、この優れた作品がそれらの偏見を力で押さえ込んでの高評価を受けた証明だったといえるでしょう。

しかし、そのような偉大な作品なのに、僕のなかに蠢く「そうじゃない」という否定の感情が、どういうものなのかが、分からなかったのです。

そして、あるとき不意に、まるでひとつの啓示のように、そのことが「分かった」のでした。

たとえば昼間、一心に仕事に集中しているときに、なんの脈絡もなく白昼夢のように突然ひとつの「映像」が現れたりすることってありませんか。

こんな現象を「啓示」なんて言うべきではないかもしれませんが、言葉的にはそんな感じがぴったりなのです。

その映像は、祖国を追われ、いまは隣国で余生を生きているだけの年老いた革命家(グレゴリー・ペックが演じています)が、それが罠と知りながら、あえてピレネーを越え祖国に帰ろうとする場面・「日曜日には鼠を殺せ」の一場面です。

彼を待ち受けているものは、ただ「死」のみです。

生きる可能性などまったくない絶望的な状況に向かって歩を進める老いた革命家を突き動かしているものは、平和の中で余生を生き切って朽ちるように死ぬ屈辱よりも、革命家として戦って死ぬことの「誇り」を選択し、一歩踏み出していくという精神性が謳い上げられた鮮烈な「映像」でした。

これこそが、僕が長い間、違和を感じ続けてきた『ジャッカルの日』に欠落していた決定的なものだったのだと思い当たりました。

(64ジンネマンプロ・コロムビア)監督製作:フレッド・ジンネマン、原作: エメリック・プレスバーガー、脚本:J・P・ミラー、撮影:ジャン・バダル、音楽: モーリス・ジャール
出演:グレゴリー・ペック、アンソニー・クイン、オマー・シャリフ、 パオロ・ストッパ、レイモン・ペルグラン、ミルドレッド・ダンノック、ペレット・プラディエ、クリスチャン・マルカン、ミシェル・ロンズデール、ダニエラ・ロッカ、ロザリー・クラッチェリー、ロランス・バディ、マーティン・ベンソン、



追伸

革命的であるということは、革命者にとってはいと高き命題であるという俗見が流布されているが、そういった見解は、もっともらしい嘘である。

革命者にとってもっとも重要なのは革命的であることと反革命的であることの中間状態に、中性的に存在する人たちである。

こういう言い方がイロニーとしか受け取れないのは、どこかでなにかを取り違えてしまった革命者なのだ。

つまり、彼は強いられた革命者ではなく、意志した革命者にすぎないのだ。

ここでも俗見があって、意志した革命者が本当の革命者であるかのように流布されている。

しかし、そうではない。

意志した革命者は、いつか革命者でなくなるに決まっている。

なぜなら意思もまた主観的な覚悟性にすぎないからである。

ただ強いられた革命者だけが、本当の革命者である。

なぜならば、それよりほかに生きようがない存在だからである。

                吉本隆明「書物の解体学」より「ジャン・ジュネ」抜粋


★フレッド・ジンネマン(Fred Zinnemann)
1907年4月29日、オーストリアの首都ウィーン生まれ。
父は医師のオスカー・ジンネマン、母はアンナ。
代々医師の家系に生まれたジンネマンは幼児からヴァイオリンを習っていたために音楽家になることを夢見ていたが断念。
弁護士を志してウィーン大学で法律を専攻したが、在学中にキング・ヴィダーの『ビッグ・パレード』25、エリッヒ・フォン・シュトロハイムの『グリード』23、カール・テホ・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』、セルゲイ・エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』等の映画に夢中になり、映画で生計を立てることを決心する。
オーストリア流のファシズムが隆盛になりつつあったこの時期、学位を取得すると、両親の反対を半ば押し切ってフランスに渡り創設されたばかりのパリの映画撮影技術学校の第一期生となる。
ここで1年半の技術習得の後、ドイツのベルリンでカメラマン助手の仕事に就くが、ハリウッドのトーキー映画がヨーロッパに到来し無声映画が終わりを告げた時代に入り、ヨーロッパの映画製作が停滞気味だと感じたジンネマンはハリウッドに渡ることを決心し、1929年の秋、渡米する。
時代は世界恐慌に突入する頃、ウォール街が崩壊した日にアメリカのニューヨークに到着したジンネマンは、それからハリウッドに向かいカメラマンを志望した。
29年ビリー・ワイルダーやロバート・シオドマクらと共に『日曜日の人々』を手掛けた後、配役係に回されて『西部戦線異状なし』(ルイス・マイルストン、1930年)のエキストラに就く。
しかし6週間後、チーフ助監督と喧嘩をして首になった後、映画監督ベルホルト・ヴィアテルの助手になる。
この頃のヴィアテル家の来客者にセルゲイ・エイゼンシュテイン、チャールズ・チャップリン、F・W・ムルナウ、ジャック・フェデールらがいた。
その中の一人、ドキュメンタリー映画の父と呼ばれた記録映画監督ロバート・フラハティに助手になることを申し出てフラハティとともにベルリンへ渡る。
この仕事は結局、実現しなかったが、フラハティはその後のジンネマンの映画製作において強い影響を与えた。
不景気のどん底の1933年、メキシコから漁師の生活を描いた長編ドキュメンタリー映画『波The Wave』で監督デビューを果たす(公開は1936年)。
35年には尚、この映画はジンネマンの知らないところでサウンドやシーンが付け加えられたといわれている作品である。
ハリウッドでは、『永遠に愛せよ』(ヘンリー・ハサウェイ、1935年)の第二班監督や、『孔雀夫人』(ウィリアム・ワイラー、1936年)、『椿姫』(ジョージ・キューカー、1937年)での短い仕事に就いた。
1936年にパラマウント社の衣装部門で働いていたイギリス人のレネー・バートレット(『永遠に愛せよ』で知り合った)と結婚した。
1938年、MGM短編映画部門に入って3年間、一巻物(約10分間)の短編映画の監督をする。
低予算、短期間、かつ上映時間は10分半で描かなければならない『Crime Doesn't Pay』シリーズなどを手掛け、劇映画のストーリーテリングの手法を学んだ。
この短編映画の仕事が、フラハティとの出会い、『波』の製作とともにジンネマンの貴重な経験となった。
この頃に若き日のジュールズ・ダッシン、ジョージ・シドニー、ジャック・トゥールヌールらと知り合う。
38年の短編映画『That Mothers Might Live』ではアカデミー短編賞を受賞。
1941年にB級映画『Kid Glove Killer』を監督する。
これが初の一般長編映画で、ジンネマンが見習いから一本立ちの監督になったスタートといわれている。
1941年には後に映画レネーとの間に生まれた息子のティムも父親と同じ道を歩んで映画界入りし、製作者として『ファンダンゴ』(85)や『バトルランナー』(87)などを手掛ける。
アメリカへのビザを待っていたジンネマンの両親は、それぞれ1941年と1942年にホロコーストで亡くなったが、ジンネマンがそれを知ったのは戦後になってからのこと。
B級映画の『Eyes in the Night』(1942年)と『Kid Glove Killer』(42)の2本のB級ミステリーを手掛けた後、MGMでナチスの強制収容所を脱走した男たちの葛藤を描いたスペンサー・トレイシー主演のAピクチャー『The Seventh Cross』(44)を監督するが、撮影後フロントと衝突したジンネマンは再びB級映画にまわされた。
撮りたくない映画を2本撮るとその後は来る脚本を次々と断り、結局それが原因でMGMから停職処分を受けた。
戦後、ヨーロッパから上陸した映画に接し、センチメンタリズムにあふれたハリウッド映画の仕事に、ジンネマンは疑問を感じる。
その頃、ジンネマンにヨーロッパの戦争直後を舞台にした瓦礫の中の飢えた孤児を描く映画の仕事がドイツから来る。
MGMの了承を得て、ドイツでロケ撮影した『山河遥かなり』(48)は、ヒットこそしなかったが、戦災孤児とアメリカ兵との交流を描いてアカデミー監督賞に初ノミネートされるとともに、いくつかの賞を受賞した。
渡米してから既に19年の歳月を経ていたジンネマンだったが、映画の題材やMGMの宣伝もあって、ヨーロッパの香りを持った監督という印象で売り出した。
『暴力行為』(48)を最後にMGMとの契約を解消してフリーとなったジンネマンは、戦争で負傷して下半身が麻痺した男の葛藤を描く『男たち』(50)でマーロン・ブランドを映画デビューさせ、ロサンゼルス整形児童病院の資金集めのために製作した『Benjy』(51)でアカデミー短編ドキュメンタリー賞を受賞。
52年の『真昼の決闘』では、ドキュメンタリー映画などで培ったリアリズムの手法を娯楽映画のウェスタンに持ち込み、その斬新なスタイルは賛否両論となったが、映画は大きな成功を収め、ジンネマンは2度目のオスカーにノミネートされた。
53年にはジェームズ・ジョーンズのベストセラー小説を映画化した『地上(ここ)より永遠に』を発表し、日本軍攻撃前の真珠湾を舞台にした人間ドラマは大ヒットを記録。
映画はアカデミー作品賞を受賞し、ジンネマンも監督賞の栄誉に輝いて巨匠の仲間入りを果たす。
オスカーを得て勢いに乗ったジンネマンは、興行師のマイク・トッドと組んで新方式のワイドスクリーン「トッドAO」を駆使して、ロジャースとハマースタインのヒット・ミュージカルを映画化した『オクラホマ!』(55)を発表。
オードリー・へプバーンを主演に迎えて、地下活動に身を投じる尼僧の姿を描いた『尼僧物語』(59)、羊追い一家の生活を描いた『サンダウナーズ』(60)ではオスカーにノミネートされる手堅い演出を披露した。
『日曜日には鼠を殺せ』64では悲壮感に満ちた重厚なドラマを白黒の画面で引き締め、キャストの堅実な演技も光って小品ながら風格も漂い珠玉の輝きを放つ名品に仕上がった。
原題は黙示録第六章第八節から引用されたもので、邦題は原作名の“Killing a Mouse on Sunday”に拠っている。
トーマス・モアの半生を描いた濃厚な歴史ドラマ『わが命つきるとも』(66)では、アカデミー作品賞と2度目の監督賞を獲得した。
73年にはフレドリック・フォーサイスのベストセラー小説『ジャッカルの日』を映画化。
息つく暇もないサスペンス溢れる展開で孤高の暗殺者ジャッカルと警察との駆け引きを見事に描いて高い評価を獲得して世界的に注目された。
劇作家リリアン・ヘルマンと活動家ジュリアとの友情と絆を描いた『ジュリア』(77)では、衰えを見せない貫禄ある演出で7度目のオスカーノミネーションを受け、その年の主要な演技賞はこの映画が独占した。
長年山を主人公にした映画を撮りたいと考えていたジンネマンは、82年に『氷壁の女』を発表。アルプス山脈を舞台に濃厚な人間ドラマを披露したが、批評家に酷評され興行成績も散々な結果に終わった。
映画の悪評に打ちのめされたジンネマンは『氷壁の女』を最後に映画界を離れ、 92年には5年かけて執筆した自叙伝『フレッド・ジンネマン自伝』を出版して批評家から賞賛された。
1997年3月14日心臓発作で死去した。
[PR]
by sentence2307 | 2006-11-04 17:40 | 映画 | Comments(12)

アルファヴィル

「さっきから聞こうと思ってたんですが」とマリは言う。「どうしてホテルの名前が『アルファヴィル』っていうんですか?」

「さあ、どうしてかなあ。たぶんうちの社長がつけたんだろう。ラブホの名前なんて、どれもいい加減なものだよ。結局は男と女がアレをやりにくるところだからさ、ベッドと風呂がありゃオーケー、名前なんて誰も気にしない。それ風のものがひとつついてりゃいいんだ。なんでそんなことを聞くわけ?」

「『アルファヴィル』って私のいちばん好きな映画のひとつだから。ジャン・リュック・ゴダールの」

「それ、聞いたことないな」

「ずいぶん昔のフランス映画です。1960年代の」

「じゃあ、そこからとったのかもしれないね。今度社長に会ったら聞いてみるよ。で、どういう意味なんだい、アルファヴィルって?」

「近未来の架空の都市の名前です」とマリは言う。「銀河系のどこかにある都市」

「じゃあ、SF映画なわけ?『スターウォーズ』みたいな?」

「いや、そういうんじゃないんです。特撮とかアクションとかはなくて・・・、うまく説明できないけど、観念的な映画です。白黒映画で、台詞が多くて、アートシアターでやっているようなやつ」

「観念的っていうと?」

「たとえば、アルファヴィルでは涙を流して泣いた人は逮捕されて、公開処刑されるんです」

「なんで?」

「アルファヴィルでは、人は深い感情というものをもってはいけないから。だからそこには情愛みたいなものはありません。矛盾もアイロニーもありません。ものごとはみんな数式を使って集中的に処理されちゃうんです」

カオルは肩を寄せる。「アイロニーって?」

「人が自らを、また自らに属するものを客観視して、あるいは逆の方向から眺めて、そこにおかしみを見出すこと」

カオルはマリの説明について少し考える。「そう言われてもよくわかんねーけど、でもさ、そのアルファヴィルには、セックスは存在するわけ?」

「セックスはあります」

「情愛とアイロニーを必要としないセックス」

「そう」

カオルはおかしそうに笑う。「それって考えてみれば、ラブホの名前にはけっこうあっているかもな」

村上春樹「アフターダーク」より抜粋
[PR]
by sentence2307 | 2006-11-03 08:28 | 映画 | Comments(1)