世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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<   2006年 12月 ( 7 )   > この月の画像一覧

宇宙戦争

同僚の女性に熱狂的な映画ファンがいます。

会合で顔を合わせる機会があれば、必ず二こと三こと言葉を交わして最近の注目の映画を教え合ったりしています(本当のところは、僕の方が教えてもらってばかりいるのですが)。

映画好きの彼女たちのネットワークは実に広範囲にわたっていて、しかもきめ細かく、普通なら当然見逃してしまうような単館上映のマイナーな作品なども、しっかりとカバーしているのには、ただただ驚かされるばかりですが、もっと感心させられるのは、良質の作品を嗅ぎ分ける女性の直感の鋭さと、見掛け倒しの作品を斬り捨てる歯に衣着せぬ批評の辛辣さと潔さで、僕なども彼女には随分勉強させてもらっています。

いえいえ、これは決して皮肉でもなんでもありません。

並みのヒモつき映画批評家なんかより、よっぽど胸がスッとするような的を射た指摘をします。

むかしこんな話を聞いたことがありました。ある映画批評家が、本音でコキオロシの批評を雑誌に書いたら、掲載した雑誌の広告主が、その映画の出資者でもあったことから、編集長とともに本音批評家氏は散々な目にあって、結局仕事を失ってしまったとかいうキナ臭い話です。

映画の批評で飯が食えるようになるためには、「ヒモ」をたくさん掴まなくてはならないわけですから、思うように口が回らなくなるのも、生きるためには無理からぬことかもしれませんが。

その点彼女たちは立派です。

ところで映画好きの彼女、自他共に認めているほどのスピルバーグ・ファンで、僕なども以前「インディ・ジョーンズ」はじめ多くの作品に貫かれている子供たちに注がれているスピルバーグの優しさについて熱っぽく語っている彼女の話を聞いたことがありました。

それが頭の片隅に残っていて、「宇宙戦争」を見たとき、真っ先に彼女がこの作品についてどう思うか、感想を訊いてみたいと思っていたのですが、その後、機会がないままに、ついに忘年会まできてしまいました。

席次は男女別の籤引きで(男女を交互に座らせる幹事の策略です)、偶然に彼女と隣り合いました。

乾杯が終わり、早速(唐突だろうとなんだろうと構うものですか。訊きたくて訊きたくて仕方なかったのですから。)スピルバーグの「宇宙戦争」の感想を彼女に訊いてみました。

僕はただ彼女の感想を聞きたかっただけで、彼女を困らせる積りなんか、当然のことながら、これっぽっちもありません。

彼女は言葉に詰まり、言葉を探し、そして、ひと言も発することが出来ませんでした。

彼女が話すことが出来るのは、「未知との遭遇」であり、「E.T」であり、「ジョーズ」であり、「インディ・ジョーンズ」であり、「ジュラシック・パーク」についてであることまでは分かりました。

つまり彼女にとってのスピルバーグは、それらの作品のなかにしか存在しないわけで、その後のスピルバーグの姿を見失ってしまっている(あるいは理解できなくなっている)ことが十分に分かりました。

血みどろの肉片が散乱し目をそむけたくなるような惨状を描いた「宇宙戦争」と、憎しみと殺意とに満たされた虚しい死の報復を描いた「ミュンヘン」のルーツをたどるとき、それはまっすぐに「シンドラーのリスト」に繋がっていることを思えば、スピルバーグが最早、彼女が大好きだったあの愛と冒険を夢見るように語っていた少年の心を持った映画監督などではなくなり掛けていることに薄々気づき始めているのかもしれませんね。

(05パラマウント=ドリームワークス)監督:スティーブン・スピルバーグ、製作:キャスリーン・ケネディ、コリン・ウィルソン、製作総指揮:パウラ・ワグナー、原作小説:H・G・ウェルズWAR OF THE WORLDS、脚本:ジョシュ・フリードマン、デヴィッド・コープ、撮影:ヤヌス・カミンスキー、編集:マイケル・カーン、音楽:ジョン・ウィリアムス、衣装デザイン:ジョアンナ・ジョンストン、視覚効果スーパーバイザー:デニス・ミューレン、パブロ・ヘルマン、アニメーションスーパーバイザー:ランディ・M・ダトラ(ILM)、視覚効果プロデューサー:サンドラ・スコット(ILM)、SFX:インダストリアル・ライト&マジック、コンセプトデザイン:ダグ・チャン、アイス・ブリンク・スタジオ、ライブアクション「トライポッド」効果:スタン・ウインストン・スタジオ、フェイクボディ制作:スティーブ・ジョンソン、特殊メイク効果:ハーロウ・エフェクツ社
出演・トム・クルーズ、ダコタ・ファニング、ジャスティン・チャトウィン、ミランダ・オットー、ティム・ロビンス、リック・ゴンザレス、ユル・ヴァスケス、レニー・ヴェニート、モーガン・フリーマン(ナレーター)
上映時間:114分/テクニカラー/ドルビーデジタル/DTS/SDDS
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by sentence2307 | 2006-12-31 21:42 | 映画 | Comments(10)

トンカツ一代

川島雄三の「トンカツ一代」を見たとき、「そんなアホな」みたいな連想をしてしまいました。

以前見たマドンナの「エビータ」を思い浮かべたのです。

そう言えばあの「エビータ」を見た当時、周囲の人たちの「すごく良かった」という感想に圧倒されて、ついに否定的な意見を言えずじまいだったことも同時に思い出しました。

劇中話されるなんてことないセリフが、いつの間にかオーケストラの奏でる曲に乗って歌に変わっていくという持っていき方の不自然さに、どうしてもついていけず、自分だけ映画の流れから取り残されて、そのたびに僕は戸惑い続けていました。

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観た時も同じです。

自分のこうした根っからのミュージカル嫌いのルーツをたどれば、きっと「ウエスト・サイド・ストーリー」あたりにぶち当たるのでしょうが、日常的には絶対にありえないこの話し言葉にメロディーが伴うという不自然な推移に、「あれって絶対不自然だよね」という素直な感想を、いつかは誰かに訴えてみたいという欲望をずっと持ち続けていました。

しかし、ミュージカル映画愛好者にとって、そんな見当違いな述懐など、ただ奇妙で馬鹿馬鹿しいと思われるだけでしょうし、精々皮肉な冷笑を浴び掛けられるのが関の山だという絶望的な予感もあって、口を噤んできたというのが本当のところでした。

そんな袋小路に迷い込んでいた僕を慰めてくれたのが、この川島雄三作品「トンカツ一代」です。

僕にとって、どうしても受け入れがたい不自然さの金字塔みたいな映画「エビータ」に比べれば、楚々とした「トンカツ一代」(登場人物たちの複雑な身分関係図を別にすれば、ですが)は、ミュージカル仕立ての奇妙な不自然さを十分に認識しながらの、含羞に満ちたラストです。

それに出演者総出の大合唱の繊細にして優しさに満ちた唐突さは、品位においてフェリーニの「8 1/2」の大団円のラストに匹敵するかもしれません。

いつまでも西洋文化の大雑把な荒々しさに馴染めないでいるこの遠い極東の島国で心を閉ざしている、虫けらのような存在に過ぎない黄色人種の僕にとって、虫けらのような孤独を分かち合うことができる優しさに満ちた作品に出会ったような思いがしました。

あのミュージカル仕立てという日本には絶対馴染むわけがない不自然な欧米風な価値観を大真面目に押付けられる時にいつも感じていた反発が、この川島作品では、ラストでほんの僅か、含羞に満たされて恥ずかしそうにチマチマと歌われるにすぎないさりげない繊細さによって、かえって愛らしく、そして妙に感心し、かつてミュージカル映画に対して持っていた偏見と頑迷を優しくサトシテくれるような安堵感のなかに自分を感じました。

作品の仕上がりに極端なムラがあると言われている川島作品のなかにあって、この「トンカツ一代」は、特に評価の集まりにくい隙だらけの作品だと思います。

いくら川島雄三のマニアックなファンと任じている人でも、まさかこの「トンカツ一代」を「幕末太陽傳」や「雁の寺」や「洲崎パラダイス赤信号」や「青べか物語」や「しとやかな獣」を差し置いて、上位にランクしようという勇気は、なかなか持ちにくいかもしれません。

そりゃあ僕だって、そうですが。

しかし、川島雄三の映画の魅力が、市井に生きる人々の猥雑な日常描写の確かさのリフレインにあり、あの起承転結のカッチリとした構成力ではなく、むしろ巨匠らしからぬ腰砕けの魅力というか、本編を突如見舞う物語性の破綻の独特な美しさにあるとすれば、こうしたさりげない「失敗作」こそ評価してみたくなる誘惑に駆られてしまう作品だったと思います。

(63東京映画・東宝)製作・佐藤一郎 椎野英之、監督・川島雄三、脚本・柳沢類寿、原作・八住利雄、撮影・岡崎宏三、音楽・松井八郎、美術・小野友滋、録音・長岡憲治、照明・榊原庸介

出演・森繁久彌、淡島千景、加東大介、木暮実千代、フランキー堺、三木のり平、池内淳子、山茶花究、団令子、益田喜頓、都家かつ江、横山道代、水谷良重、岡田真澄、原地東、村田正雄、中原成男、立原博、旭ルリ、勝間典子、林涛郎、若宮忠三郎、守田比呂也、芝木優子、浜田詔子、藤本芳子、岩倉高子、鶴島美奈、村上美重、小野松枝、紅美恵子、野間一江
1963.04.10 6巻 2,580m 94分 カラー 東宝スコープ
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by sentence2307 | 2006-12-30 23:31 | 映画 | Comments(0)
黒澤明が、映画を制作するうえにおいて、最も大切にしていたことは、その物語を一言で要約できる簡潔性にあったと橋本忍は黒澤明を回想する著書に記しています。

「七人の侍」は、まさにその典型例であり、構想を立ち上げる最初の走り出しにおいて、スタッフに「その一言」として、食い詰めた浪人たちが野武士の襲撃に怯える百姓たちの手助けをするという設定を簡潔に示唆していますし、「生きる」も然り、生きる時間が限られた男の物語、でした。

そのシンプルな着想に豊富なアイデアを肉づけし、ディテールに血を通わせていくことで、物語の芯は常に揺るがせることのないまま、映画全体が芳醇な厚みと美しい均衡を具えることができたのだと思います。

そうした作る側の確固たる姿勢は、そのまま、映画を見る側にとっても、とても貴重なヒントになるはずで、この「一言で要約する」という方法を僕もまた励行しているひとりでもあります。

さて、この「突入せよ! あさま山荘事件」をそんな感じで僕的に一言で要約してみると、こんなふうになるかもしれません。

「お巡りさん、ありがとう!」

これをかつて聞いたことのある「兵隊さん、ありがとう!」という響きにシンクロさせてもらっても一向に差し支えありません。

この作品の特徴は、山荘に立て籠もり、銃を乱射して多くの関係者と民間人を殺傷した犯人たちの「顔」が、最後まで見えないところにあります。

狂気のように銃を撃ちまくる得体の知れない者たちが、いったい何者なのか分からないまま、山荘を包囲し対応に追われる「こちら側」・警察内部の葛藤(長野県警と警視庁の主導権争い)が描かれています。

ともすると、この映画は、そうした両者の思惑や面子、ネタミ・ソネミのぶつかり合いを描くことに腐心するあまり、向こう側にいる銃乱射犯人たちを視野から完全に外して時折物語を空回りさせていることに気づかされるかもしれません。

瑣末ないざこざに気を取られるあまり、最大の危機感「乱射事件」を希薄にさせ、作品の印象を凡庸なものにしてしまった感じがします。

それは、戦記ものの小説を読むたびに感じることと通じるものがあるように思います。

作戦を立てて敵を制圧するという、ゲームをクリアするような面白さからは、実際に殺し尽くさなければならない敵対的戦闘員・非戦闘員の顔は見えてこないことと似通っています。

極端にいえば、実際に殺さなければならない人間の個々の顔など想起する必要もなく、机上の作戦上では、人間などただの単位のカタマリとして消去してしまえば、それだけでいい話です。

戦争を描いた多くの映画がそうであったように、この映画「突入せよ! あさま山荘事件」においてもまた、物語の・作戦の・進行に邪魔になるだけの「犯人の顔」など全然必要とされなかったそれが理由だろうと思います。

この作者にとって、まず興味があったものは、犯人逮捕とか人質の生命の確保とかよりもまず、警察庁内でいかに自分が有能であり重用されたかという人事であり、県警とのチカラ関係を押さえ込んだ自分の功績の誇示だったかもしれません。

単なる「添え物」でしかなかった銃乱射犯人を必要としなかったこの奇妙な映画「突入せよ! あさま山荘事件」は、自己顕示欲の化け物のような強烈な個性に引き摺られることに終始した、犯人不在のなんとも不思議な作品というべきかもしれません。

戦前戦後の日本の民衆に根強く残っていた左翼コンプレックスと幻想を、完膚なきまでに打ち砕いた重大事件の歴史的意味を描くことなく、むしろ、有能な人間にとっては、自分の思い通りにならない周囲の人間が、どうしようもない間抜けに見えてしまう瑣末な誇大妄想を描いただけのなんとも無残な作品でした。

人間不在を臆面もなく描くというこの不快感を経験したのは、エリートたちが雲の上の別世界で勝手なゴタクを並べていた「金融腐蝕列島-呪縛-」に続いて、これは2回目の体験でした。

(02東映)監督・脚本:原田眞人、企画:小玉滋彦、源孝志、製作:原正人、佐藤雅夫、谷徳彦、椎名保、鍋島壽夫、濱名一哉、鈴木基之、製作総指揮:山田俊輔、原作:佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件』、撮影:阪本善尚、編集:上野聡一、美術:部谷京子、照明:大久保武志、特殊効果:根岸誠 音楽:村松崇継 
出演者:役所広司、宇崎竜童、伊武雅刀、串田和美、山路和弘、、豊原功補、遠藤憲一、池内万作、藤田まこと、篠井英介、山崎清介、大森博、蛍雪次郎、街田しおん、矢島健一、天海祐希、椎名桔平、篠原涼子、松尾スズキ、高橋和也、もたいまさこ、武田真治
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by sentence2307 | 2006-12-16 11:19 | 映画 | Comments(0)

岩波写真文庫

勤め帰りには、いつも立ち寄っては、週刊誌などをしばらく立ち読みしている本屋に、つい習慣で、今日もいつものとおり寄り道をしました。

店に入ってすぐ、ずっと奥まった所に無造作に置いてある一冊の本がすぐに目に入ってきて、なんとなく気になりました。

遠目ながら、その灰色と黒の装丁の少しアンバランスなところが却って目を引いたのかもしれません。

奥までゆっくりと辿るあいだに、週刊誌を見、月刊の映画雑誌をペラペラと眺めながら「その場所」にたどり着いて驚きました。

灰色と黒の配置が不自然な装丁の表紙には、カメラの横に座っている撮影中の黒木和雄監督の姿がレイアウトされています。

現代書館という出版社から出ている佐藤忠男の「黒木和雄とその時代」という本でした。

表紙を見た途端、咄嗟に黒木監督の次回作はなんだったっけと考えている自分がいました、不思議な気持ちでした。

黒木和雄監督は既に亡くなっていて、もうこの世にはいないのに、それを認めることを恐れ、なお次回作を待ち望もうとしている自分がそこにいました。

それでなくとも最近、かつて僕たちを夢中にさせた映画監督たちが立て続けに亡くなっています。

以前、長寿を祝う会合で、ある老人にお祝いを申し述べたとき、こう言われました。

「なにが寂しいと言って、友達が次々に死んでしまい、いつかこの世にただの一人も親しい人間がいなくなってしまうのではないかと思うと、つらくてね。年老いるってことは、そういうことなんだよね。」

他人事のように聞いていたその言葉の意味が、最近なんとなく分かるような気がしています。

さて、そんなわけで、佐藤忠男著「黒木和雄とその時代」を購入して帰りました。

これから時間をかけてゆっくり楽しみながら読んでいこうと思っていますが、冒頭に岩波書店の出版物についての面白い記述があったので、忘れないうちに書き留めておこうと思います。

むかし、岩波書店から「岩波写真文庫」という本が出版されていました。

四六判くらいの小冊子の写真集という感じで、学校の図書館あたりには必ず揃えられていたものでした。

風土記関係、事件もの、社寺仏閣とか、なんでもありの写真集でした。

この「黒木和雄とその時代」によれば、昭和25年6月から昭和33年の打ち切りまで286冊を刊行したと記されています。

そしてその辺のいきさつをこんなふうに書いています。

「もちろん文庫の成功には、それだけでなく、経営の堅実さもおおいに影響している。
というのは、写真文庫は発刊から終刊まで286冊を出版したが、ポケット版100円で出発し、終わるまで一貫して100円の定価を変えなかった。
そのために制作費の上昇から、後には赤字になったらしい。
しかし最後まで初志を貫き通したのである。
このような節操のある経営方針が、そのフレッシュな視角とともに、写真文庫のファンをひきつけたことは否定できない。」

しかし、考えてみれば、100円の初志を貫き通した経営方針によって、長寿を得ていたかもしれない優れた企画の出版物を逆に圧迫し、たった8年の短命にしてしまったことに、僕などはつい割り切れない思いを抱いてしまうのですが・・・。
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by sentence2307 | 2006-12-12 23:42 | 映画 | Comments(0)

讃歌

谷崎潤一郎の「春琴抄」は、川端康成の「伊豆の踊り子」とともに、今まで多くの監督によって映画化されてきたポピュラーな作品のひとつです。

ざっと思い浮かべただけでも、島津保次郎が田中絹代と高田浩吉で撮った「お琴と佐助」35から始まって、伊藤大輔の「春琴物語」54、衣笠貞之助の「お琴と佐助」61、山口百恵と三浦友和で撮った西河克巳監督の「春琴抄」76などまるで時代の節目節目で撮ることが定められているかのような作られ方をしている感さえ受けますが、これらの作品のある箇所を見るたびに、僕にはとても引っ掛かるところがあるのです。

むしろ、よく分からない部分と言った方が適切かもしれませんね。

お琴が身籠り、そのいきさつを主人から問い詰められた使用人の佐助は、自分にはまったく身に覚えがないと、お琴の子の「父親」であることを頑なに否定します。

結局この真相は明かされないまま、物語はなし崩し的にずるずると最後まで進行し、真相は分からず仕舞いのままで(佐吉であることは、いつの間にか暗黙の了解が得られてしまったかのような感じなのもなんだか不思議ですが)物語の方は終息に向けて勝手に突き進んでしまうという、なんとも肩透かしを食わされたような中途半端な印象をずっと持ち続けていました。

しかし、誰が考えても、お琴の身ごもった子の父親は佐助に間違いないはずです、だったらなぜ、形ばかりの「否定」に佐助がこだわり、そして、周囲の者たちも敢えて誰の子なのだという追求をすることもなく、物語だけがどんどん進んでしまうのか、なんとも腑に落ちず、納得のいかない感じを持ち続けていました。

体裁をただ取り繕うだけの否定の背後にあるもの、まるで佐助自身がお琴の性交相手であるべきでないとこだわり続ける理由が、どうしても分からないのです。

そこに佐助がお琴と公然と「男と女の関係」になってはいけないものがあるのだとしたら、せめてその理由を観客に仄めかすくらいの誠意があって然るべきなのではないかと、どうしても納得ができません。

もちろん、この場面は、あの百恵・友和作品にも当然存在しています。

最初から「純愛」という絶対命題を課せられていた作品のなかでは、ことさら佐助の否定は奇妙な感じを与え(「純愛」なら、愛を否定したり拒んだりするなど、もってのほかの所業です)、変に浮き上がったものとして見えたと思います。

お琴に対して一途に愛を貫こうというのなら、佐助のあの「否定」は、むしろその「愛の物語」をただ混乱させこそすれ、観客を得心させるものなど何ひとつなかったというべきでしょう。

きっとそれは、この物語が「純愛物語」とは似ても似つかないタグイの物語だったからだと思います。

ねじれ歪んだ特異な男女の気持ちの駆け引きと、そしてドロドロのその破滅にまで至る鮮烈なドラマとしての「春琴抄」は、映画化に際して常に見当違いな「純愛物語」の枠の中に無理やり押し込められることによって、この物語の持つ異常性を歪められ続けてきたといってもいいかもしれません。

新藤兼人監督の「讃歌」は、そこのところをしっかりと見極めて作られた明確な作品だったと思います。

使用人・佐助は、お琴が「もよおせば」、厠まで手を引いて連れて行き、彼女が排便し終わるのを見定めて彼女の尻を拭き清め、そして、その排出物をささげ持って、そして庭の片隅に恭しく埋めて処理することを日常の仕事としています。

それは「嬉々として」でも、「嫌々」でもなく、きわめて淡々と自分に課せられた日常の仕事を忠実に果たしているといった描き方です。

新藤兼人は、この佐助の日常的な作業を執拗に辛抱強く描き続けることによって、もしかしたら、あの否定された「性交」もまた、「しもの世話」の付帯的なひとつの行為にすぎなかったのではないかと思わせてしまう強引さが、そこに潜んでいることに気づかされるかもしれません。

作中、佐助が、お琴を師匠と仰いで三味線を習い始めた時、覚えの悪い佐助に業を煮やしたお琴が佐助を手ひどく折檻し、折檻し続けているうちにお琴も自らの抑えがきかなくなって、ついに父親から佐助に三味線を教えることを禁じられる場面は、お琴が際限もなく感情的に高揚していく異常さに父親が危険を感じたというよりも、逆に二人だけの黙契のうちに交わされる被虐と加虐のいかがわしいプレイの匂いを父親が恐れたのではないかという気さえします。

佐助の「否定」も、お琴の、自分が産み落としたその子供に対する執着のなさも、同じ根から発した二人だけの黙契のもとでの、単なる「プレイ」によって生じた余計な副産物にすぎなかったからこそ、そこには当然のような「冷淡」があり得たのだと思わざるを得ません。

(72近代映画協会=日本アート・シアター・ギルド)(監督脚本) 新藤兼人(製作)新藤兼人、葛井欣士郎 、赤司学文 (原作)谷崎潤一郎(撮影)黒田清己(美術)渡辺竹三郎(音楽)林光(編集)近藤光雄(録音)辻井一郎(スクリプター)新関次郎(助監督)星勝二(照明)岡本健一(書)貞広観山
(出演)渡辺督子、河原崎次郎、乙羽信子、原田大二郎、殿山泰司、戸浦六宏、草野大悟、武智鉄二、初井言栄、本山可久子、新藤兼人
1972.12.29 112分 カラー
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by sentence2307 | 2006-12-11 22:29 | 映画 | Comments(2)

俺は犯人じゃない

以前、チャンネルNECOで野口博志の1954年から1956年にかけての作品6本を特集していました。

滅多にないチャンスでしたので早速録画したのですが、そのあとから次々と録画した他の作品のなかに埋もれてしまい、いつの間にかそのままになっていたのを最近になってやっと思い出して見始めています。

放映された6本というのは、「俺の拳銃は素早い」54、「地獄の接吻」55、「愛慾と銃弾」55、「悪の報酬」56、「俺は犯人じゃない」56、「志津野一平シリーズ・謎の金塊」56ですが、とにかく、野口博志の演出のキレの良さに比肩するだけの監督の名前を咄嗟には思い出せないくらい日本の映画界のなかではちょっと特異な位置を占めている監督だと思います。

「日本の映画界」などという言葉が咄嗟に思い浮かんだのは、大袈裟でもなんでもなく、多分野口作品からフランスのフィルムノワールとか、スターリング・ヘイドンなんかが出演していた犯罪ものを連想してしまうからだと思います。

夜の闇の世界で陰性植物のように生きる犯罪者たちを描いた独特な世界観が、日本の映画の枠の中には収まり切れない負の情熱を感じさせるからなのかもしれませんが。

たとえば、1956年の日活作品、大坂志郎主演の「俺は犯人じゃない」を見ればその辺の感覚がよく分かると思います。

大坂志郎がハードボイルド映画の主演なんて、小津作品をこよなく愛する僕としてはちょっと想像しにくいところなのですが、あの「東京物語」の優柔不断な三男の強烈な印象を差し引けば、それらの先入観を払拭するだけのクールな感じは、よく出ていたと思います。

物語は、簡単明瞭、腕のいい金庫破りの政吉は、最愛の女のために堅気になることを決心し、自首して刑務所で勤めを果たして出所したとき、彼を待っているはずの女は姿を消しています。

失踪した女を捜すために奔走していると、昔の仕事仲間に出会い、また裏の仕事に誘われますが、政吉はきっぱりと断るものの、何者かによって銀行の金庫破りの濡れ衣を着せられて警察に捕まってしまいます。

それをどうにか逃れてひとりで真犯人を突き止めるというハイテンポなハードボイルド映画です。

たぶん裕次郎や旭の作品を多く見すぎてしまったせいか、僕の想像力では届かない出色の部分がこの作品にはあり、正直心惹かれました。

政吉を堅気に改心させたほどの純情な愛人・ゆきは、政吉の出所を待たずに失踪しています。

この純情な女を左幸子が演じていますが、ただの純情女ではなく、「飢餓海峡」の八重を思わせる、男に執着してまとわり付くような一途な女の芯の強さがよく出ていて、僅かの出番しかない「ゆき」の薄倖な女を印象づけ、この作品を最後まで引き締めていたと思います。

なにしろ、政吉を徹底的に最後までギャングに立ち向かわせる揺るぎ無い追求の信念は、ただただ失踪した女の行方を突き止めたい、愛する女と再会したいと願う気持ちから発しているのですから、いかに男が「ゆき」への思いに囚われているのかを観客に納得させられなければ、この作品は根底から揺らいでしまいます。

ゆきの失踪を、同じキャバレーで働いていた美也子は、「ゆきは、若い男と大阪に逃げた」と、あたかも「ゆき」がまだ生きているかのような口ぶりで政吉に伝えますが、実は、美也子はギャングの手先で、既に多くのことを知りすぎたゆきは、ギャングたちによって、とっくのむかしに「始末」されていたことが後で判明します。

このシュチエーションには、ちょっとショックでした。

もしこれが、後年に撮られるようになる(野口監督自身だってそうでした)裕次郎や旭の作品だったらどうでしょうか。

それらの映画のラストでは、ギャングの監禁から解放された・生きている・北原三枝子や浅丘ルリ子が、悪人をことごとく殲滅した裕次郎や旭と再会を果たし、抱き合ってハッピーエンドで終わるに決まっています。

つまり、裕次郎や旭などスター性のある俳優の登場によって、日活の良質なハードボイルドの系譜は絶えてしまったような気がしてなりません。

今回放映された「俺の拳銃は素早い」、「地獄の接吻」、「愛慾と銃弾」、「悪の報酬」、「俺は犯人じゃない」、「志津野一平シリーズ・謎の金塊」の6本が、僕にとって貴重な作品である理由です。

(56日活)製作:浅田健三、監督・野口博志、製作・浅田健三、脚本・青木義久、窪田篤人、撮影・間宮義雄、音楽・原六朗、美術・小池一美・録音・高橋三郎、照明・三尾三郎、助監督:鈴木清太郎(清順)
出演:大坂志郎、広岡三栄子、左幸子、植村謙二郎、長谷部健、田島義文、河合健二、深見泰三、菅井一郎、武藤章生、山田禅二、高品格、弘松三郎、峯三平、雪岡純、浦島久恵、田中筆子、藤代鮎子、汐見洋、永島明、美川洋一郎、玉村俊太郎、黒田剛、早川十志子、神山勝、多摩佳子、八代康二、高瀬将敏、本目雅明、瀬山孝司、竹内洋子、佐久間玲子、鳴海弘子、植村進、衣笠一夫、深江章喜、加藤義朗、志茂明子、二木草之助、河上信夫、
日活・94分・モノクロ1956.02.12 10巻 2,457m 白黒




★野口博志
1913年1月10日、東京市渋谷区幡ヶ谷生まれる。
本名、野口重一。
慶應義塾大学文学部中退。
35年日活多摩川撮影所に助監督として入社、倉田文人らに師事する。
39年監督補になり、「舗道の戦線」を第1作に8作品を演出。
42年日活を離れ、映画配給社を経て松竹京都撮影所に入る。
45年、敗戦と共に松竹大船に転じ、さらに54年日活に移る。
その間、東映映画「マドロスの唄」を戦後第1作とし、54年以降、日活監督として毎年数本ずつの作品を演出する。
その作品歴は、プログラムピクチュアーを徹底して撮り続けた職人的な作家の姿をまざまざと示している。
「俺の拳銃は素早い」など河津清三郎のアクション。
「俺は犯人じゃない」など大坂志郎の社会派活劇。
「復讐は誰がやる」など三橋達也のアクション。
「肉体の反抗」など筑波久子の肉体もの。
さらに「赤い荒野」など宍戸錠の西部劇もどきの活劇。
賭場の牝猫シリーズなど女やくざもの。
いずれも時代と企業の要請に合わせた大衆娯楽映画である。
また、これらのほとんどは、いわゆる日活アクション映画の華やかに量産されたときに「添え物作品」として作られたといえる。
そうした中で、異色やくざ映画「地底の歌」、ハードボイルド「街が眠る時」のような佳編が数多く生まれる。
大衆娯楽映画の作家としての力量は、59年からの小林旭主演「銀座旋風児」シリーズ、60年からの赤木圭一郎主演「抜射ちの竜」シリーズによく示されている。
なお、63年の「遊侠無頼」以降は、野口晴康と改名。
67年5月23日、心筋梗塞により永眠したが、死の直前まで作品活動は続けられ、最後の作品、67年6月公開の「関東も広うござんす」は、武田一成との共同作品となっている。
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by sentence2307 | 2006-12-02 17:55 | 映画 | Comments(0)

ウィン・ウィン交渉

先週の研修会で聞いてきた堅苦しい話です。

もちろん受け売りですが、例え話が面白いので、滅多にしたことのないメモなどとりながら、夢中で聞き入ってしまいました。

ある姉妹が1個のオレンジをめぐって奪い合いの喧嘩になった、という例え話です。

お互いにオレンジが欲しいと主張して一向に譲り合わないこの姉妹、そのオレンジを半分ずつ分けることで、仕方なく折り合います。

折り合ったものの、これは、どちらにも不満の残る「選択」だったに違いありません。

ただ、ここで問題なのは、その姉妹が、このオレンジをそれぞれどのように使用したかという使用目的にあります。

姉は、獲得した半分のオレンジの中身だけを食べて、皮を捨てました。

妹は、獲得した半分のオレンジの中身を捨てて,ケーキを作るために皮だけを使いました。

皮肉な例え話ですが、これはイソップとかの寓話などではありません。

姉も妹も「そのオレンジが欲しい」という自分の利害しか考えず、全部を獲得することだけに固執したために,必然的に、オレンジは最初から「半分」しか獲得できないような先細りの交渉に臨むしかなかったわけですよね。

姉妹に、それぞれ、オレンジのすべてが欲しいという強い思いがある限り、この交渉から彼女たちが得られるものは、はじめから限られてしまっています。

最初から、互いに「すべて」を獲得できるかもしれない可能性を自ら閉ざし、結局どのようにして交渉しても「半分」しか得ることしかできない絶望的な状況を作ってしまっているという例え話のこれが前置きです。

しかし,姉と妹がそのオレンジを欲している真の理由を考えてみたら、どうでしょうか。

姉は、中身を食べるためのオレンジを欲し,妹はケーキを作るためにオレンジを欲しているわけですから、それぞれの「利害」をすり合わせると、姉はオレンジの中身を「全部」取ることができ,妹はオレンジの皮を「全部」取ることができるという「途」が開けてきます。

姉妹は、それぞれ「自分なりの全部」を獲得することができるというわけです。

これが、双方のメリットを最大限に追求することのできる「ウィン・ウィン交渉」という考え方なのだそうです。

「ウィン・ウィン(Win-Win)」という言葉は,「共に勝つ」と訳されていて,この言葉自体ハーバード式交渉の特徴を的確に言い現しているといわれています。

例えば、交渉の場において,互いが自分の立場にどっぷりと浸って駆け引きをする交渉スタイルとして、強硬な主張を戦わせて勝敗を決めるハード型と,不利な条件の甘受もいとわず合意を目指すソフト型とがあるとすれば,この「ウィン・ウィン交渉」というのは,そのどちらでもない,双方のメリットを最大限に追求する交渉スタイルということになるでしょう。

ロジャー・フィッシャー(ハーバード大学ロースクール教授)は,その著書「新版・ハーバード流交渉術(GETTING TO YES)」の中で,これを「原則立脚型交渉(principled negotiation)」あるいは「利益満足型交渉(negotiation on merits)」と呼んでいて,
①人(人と問題とを分離せよ),
②利害(立場でなく利害に焦点を合わせよ),
③選択肢(行動について決定する前に多くの可能性を考え出せ),
④基準(結果はあくまでも客観的基準によるべきことを強調せよ)
という,交渉における4つの基本的要素を取り上げながら,それに対する対処方法を示唆しています。

「ウィン・ウィン交渉」は,元来,ハーバード式交渉による,双方のメリットを最大限に追求する交渉スタイルとして知られるようになったものが,最近では,「ウィン・ウィン」の発想が,単に「交渉術」にとどまらず、ビジネスセミナーなどでの自己啓発法として紹介されていて、従来の,「一方が勝ち,一方が負ける」考え方に対して,「ウィン・ウィン」の発想では,自分も相手も共に勝つ,すなわち共にプラスを生み出すことが可能であるという考え方になるというお話しでした。

この「ウィン・ウィン」の発想が発展していくと、多くの人たちと共にプラスを生み出したいという意欲が湧いてきて,新規事業の設立の原動力になるとも説明されていました。

この交渉術を使えば、一見膠着状態に陥っている紛争も、一挙に解決の可能性が見えてくるというわけなのです。

ホント、どん詰まりにある六カ国協議あたりに使えないものでしょうかね。
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by sentence2307 | 2006-12-02 08:57 | 映画 | Comments(0)