世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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<   2007年 01月 ( 17 )   > この月の画像一覧

マイク・ニューエルのこの作品、確か公開時の宣伝コピーは、「1955年、イギリスで最後に絞首台にのぼった女ルース・エリス」だったと思います。

イギリスは、現在では、死刑制度が廃止されているという社会的な背景が前提になっていて、ふたりの男の間で苦悩した末に、最も愛した男を、一方的に慕うことによる嫉妬と憎悪によって射殺するに至る女の生々しい情念を痛切に描いた傑作です。

僕自身がもっている「女性の愛し方というもの」についての固定観念を根本から揺るがし、物凄いショックを受けた作品でした。

そういえば、かつて、邦画で同じような感想を持った作品があります。

吉村公三郎の「越前竹人形」です。

竹細工師の父親が世話をしていた遊女・玉枝を、父の死後、独りぼっちになった女への同情心から、息子が妻として娶ります。

彼は、その美しさを愛でるように玉枝に似せた竹人形の製作に打ち込みます。

「美しいままの存在」で満足している男に、成熟した肉体をもつ玉枝は、「何もない」夫婦生活に欲求不満をつのらせ、偶然に昔の馴染み客(記憶では、西村晃演ずる行商人)とゆきずりの情を交わして不倫の子を宿してしまい、堕胎に失敗し絶命する、という悲劇でした。

若尾文子が官能的に演じたその女は、最初、強姦とも言える無理矢理の情交を強いられたのち、ずるずると続けられる泥沼のような情事にのめり込んでゆく中で、次第に意に反するような肉体の悦楽を覚えてしまいます。

女は、気持ち的には貞淑な妻であろうとし、また、夫を心から愛してもいながら、肉体がどうしようもなくケダモノのような男を求めてしまう肉欲の在り方に、僕は、強い衝撃を受けたのだろうと思います。

心情的には深く夫を愛し、貞淑であろうとする気持ちと、道ならぬ情交の相手の肉体を貪欲にまさぐるという剥き出しの欲望とが、ひとりの女性のなかで違和感なく一体のものとして同時に存在できるという「性欲」の発見は、僕にとって女性の見方を一変させるほどの衝撃だったのだろうと思います。

「ダンス・ウィズ・・・」の中で、そのことを象徴するようなシーンがあります。

ナイトクラブの雇われマダム・ルースが、ひと目惚れした客の青年ディヴィッドと店の二階で性交にふける場面です。

そばには、連れ子の赤ん坊が激しく泣いています。

泣き続ける赤ん坊をほったらかしにして、欲望のままに相手の体を激しく求めるというこの描写は、何もかも棄てて、破滅に至ることさえも厭わない彼女の愛欲のあり方をそのまま象徴しているシーンでもあります。

彼女には、親身になって心配してくれる恋人デズモンドがいて、新しい生活の建て直しを決意する度に、ディヴィッドがあらわれて、すべてをメチャクチャにしてしまいます。

「女」が欲しくなればルースの体だけを求めにやって来るディヴィッドと、彼が現れれば、何もかもが壊されてしまうことが分かっていながら、そして憎しみながらも、彼に体を許してしまうルース。

デズモンドとの暮らしの中でも、彼の目を盗んでディヴィッドに逢いに行くその繰り返しの中で妊娠し、途端に逃げ腰になるディヴィッドへの嫉妬に狂う地獄のような関係を清算するために、ルースは、ディヴィッドを射殺します。

そういうなかで、ふたりの間に超えがたい階級差別がさり気なく描かれていたことも忘れられません。
この作品は、1985年カンヌ国際映画祭ヤング大賞を受賞した忘れがたい1作です。

(85イギリス)監督マイク・ニューウェル、製作ロジャー・ランドール・カトラー、脚本シェラ・デラニー 、撮影ピーター・ハナン、美術アンドリュー・モロ 、音楽リチャード・ハートレー 、編集ミック・オーズリー、衣装デザイン・ピップ・ニューベリー
出演・ルパート・エヴェレット 、ミランダ・リチャードソン 、イアン・ホルム 、ジョアンヌ・ウォーリー、マシュー・キャロル
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by sentence2307 | 2007-01-28 23:54 | 映画 | Comments(1)

ストライキ

テープの中からタルコフスキーの「鏡」を探し出し、早速見始めようとしたところ、なんと「鏡」の前にエイゼンシュテインの「ストライキ」が録画されていました。

ラベルには何も書かれていなかったので、ほんとビックリです。

「ストライキ」など、まず一生見ることもないだろうと思っていた作品のひとつです。

だから、当然、早送りでとにかくすっ飛ばしてざっと見るだけでもよかったのですが、しかし、その前にちょっと考えました。

自分でもとっさに「一生見ないだろうな」と思ったくらいですから、こんな偶然の出会い方をしない限り、この作品「ストライキ」をこれから将来も自発的に観るなどという機会がくるとは思えない作品だとすると、これもなにかの縁かも、ということで、結局最後までじっくり見てしまいました。

専門で勉強している映画学校か何かで課題として見るというならとにかく、いまどき、こんな映画、見る人なんかいないだろうと思いますが、常識人が見ないような映画を自分だけが敢えて観るというマニアックな醍醐味は、また格別なものがあったりして、かえって張り合いがあります。

しかし、この映画、よく見てみると、嘘っぽくて、ちょっと解せないところがありますね。

悪辣な資本家に対して、無力とはいえ弾圧される労働者が実に無策で、ストライキを決行したために、その日の食べ物にも事欠く状況を招いて暴徒化せざるを得なくなり、結局軍隊に皆殺しにされてしまうというなんとも理不尽な設定です。

大衆を社会主義に啓蒙する目的で、資本の横暴を描いたこの映画を労働者に見せ、怒りを煽ろうという寸法(幼児を階段の上の方から投げ落として殺す場面など、ぞっとさせられてしまいます)なのでしょうが、戯画のようなこの作品を観た労働者側は、きっと、「俺たちゃ、こんなにアホか」と憤っんじゃないかと。

それに、スターリンだって、逆の意味でこの映画の嘘臭いところを嗅ぎ付けたのではないかという気がします。

その原因は、きっとこの映画の嘘っぽさにあり、そして、それは、もしかしたら、あのモンタージュ理論とかいうものとも無縁のものとはいえない気がしてきました。

(24ソ連)監督脚本・セルゲイ・ミカイロヴィッチ・エイゼンシュテイン、脚本・ヴァレリ・プレトニオフ、撮影・エドゥアルド・ティッセ、美術・ワシリ・ラハルス、助監督・グレゴリ・アレクサンドロフ、
出演・A・アントノフ、ミハイル・ゴマロフ、マキシム・シュトラウフ、グレゴリ・アレクサンドロフ、ユディト・グリツェル、ボリス・ユールツェフ、
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by sentence2307 | 2007-01-27 21:32 | 映画 | Comments(0)
見たこともない映画について、何かを書こうとする行為は、確かに随分と無謀なことかもしれません。

しかし、僕にとって、こういう衝動にかられるのは初めてというわけではなく、何回も経験してきたことのような気がします。

たとえば、解説書のなかで、ある作品に対する素晴らしい記事に出会い、すっかり魅了されて、映画自体は見ていないながらも、イメージだけがどんどんと膨れ上がり、ついに自分の中だけでは処理しきれなくなって、追い詰められるみたいに何かを書き留めておかずにはおられないというあの感じです。

そして、書き留めておくことを躊躇しているあいだに、たまたま当の映画を見る機会を得、それが思いもかけず失望させられるような作品で、結局たった一言の感想さえも搾り出せないような絶望的なシロモノだったりすると、自分がそれまでに培ってきたイメージも同時に消去されてしまうあの空しい後悔の念は、筆舌に尽くしがたいものがあるのです。

誰もがきっと、こんな経験を持っていることと思います。

つまり、一本の映画でもこんなふうな自分独自のイメージを、その作品とはまったく別の部分で持っているに違いないと思っています。

ですので、ナマの作品の失望に押し潰される以前の、期待でも憧れでも妄想でもいいのですが、消されてしまう運命にあるそういった自分の中だけで培ってきたものをどうにか書き留めておきたいという衝動が、常に僕の中にはあったりします。

去年の暮れに増補版が出版された佐藤忠男の「日本映画史2」を読んでいて、日夏英太郎が脚本を書いて監督もしたといわれている軍の特務機関製作の謀略映画「豪州への呼び声」の部分を読んで、初めて知ったことなので少し興奮しました。(この映画の発見は、つい最近のことなのだそうですね。)

この「豪州への呼び声Calling Australia」の内容は、こんな感じです。

1944年当時、日本軍の捕虜虐待が国際問題になっていたために、日本軍は急遽、捕虜収容所に収容されているオーストラリア兵とオランダ兵の捕虜たちがいかに優雅に暮らしているかという内容の宣伝映画(謀略映画と書かれています)を作り、何本ものプリントを作ってスイスの万国赤十字を通じ連合国側に送ったというそうです。

内容は実に白々しいもので、佐藤忠男はその内容をこんなふうに紹介しています。

「捕虜たちはプールで泳いだり、ホテルといってもおかしくないような宿舎で優雅にお茶の時間を愉しんで談笑していたり日本人の指揮の下でラジオ体操をしたりする。
地元出身のオランダ兵の捕虜は毎日曜日に家族や恋人たちが訪ねてきて抱擁しあったりしており、オーストラリア兵の捕虜は、それを羨ましそうに見ながら野原に腰を下ろしてポケットから自分の恋人の写真を取り出して眺めてホームシックに浸っているといった具合である。
日本軍が、敵である連合軍の戦没者たちのためにうやうやしく慰霊祭をやるし、また日本軍は捕虜に給料をやる。
その金で捕虜たちはビールを飲んだりビフテキを食べたりしている。
さいごに立派な劇場で捕虜たちがオペラを上演して終わりになる。」

そして、最後に、佐藤忠男は、それらはすべて「100%やらせの嘘で固めたインチキ・ドキュメンタリーである。」と冷静に断じています。

しかし、僕は同時に、フランク・キャプラが国民を煽るためにつくった「新兵教育映画」(これも立派な謀略映画です)を連想していました。

日本人を天皇のためには、あえて死ぬことも恐れない恐るべき極東の、わけの分からない奇妙で凶暴なケダモノみたいに描いていました。

それはまあ、新兵教育映画なのですから当然といえば当然なのでしょうが、この作品にひそんでいる、こんな黄色い極東のキチガイ猿は殺し尽くしてしまえと煽る悪意が凄まじいのです。

イタリアのシチリア島生まれのキャプラが、アイデンティティをアメリカに必死に求めた「無様なおもねり」の汚点としていまでは記憶されている作品でしかありませんが。

それに比べると日本の謀略映画の方は、スキだらけおとぎ話のような間抜けさ加減です。

しかし、そこには、過酷な軍務にぼろぼろになった軍人たちの、戦争から遥かに隔たったところで思い描いた悲しいくらい無防備な夢が語られているような気がしました。

そして、この話には、さらなる熾烈なオチがついていました。

「結局この映画は、オーストラリア兵の捕虜が、日本軍捕虜収容所で捕虜に要求できる労働の範囲を超えたこんな屈辱的な映画出演まで国際法に違反してやらされたという証拠として、戦後に東京国際裁判所の法廷にオーストラリア側から提出され、上映されるという利用の仕方をされただけだった。
この作品は、日夏英太郎の生涯を追跡した内海愛子によってオーストラリアで発見された。」

 豪州への呼び声(43日本第16軍特別諜報部別班)監督脚本・日夏英太郎、撮影・森尾鉄郎、美術・河野鷹思、音楽・飯田信夫、
(第16軍特別諜報部別班会誌「プランパタン・ガンビル」第1号掲載)
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by sentence2307 | 2007-01-27 00:12 | 映画 | Comments(0)

加賀見山 

根岸東一郎監督は、マキノプロに俳優として入社したのちに監督に転じ、1930年から1936年までの間、量産監督として年間十数本のペースで撮りまくりました。

この「加賀見山」は、その内の1本ですが、この同じ年に撮られた「ごろんぼ街」という作品を最後に、根岸監督の記録はことごとく映画史から途絶え消息をたどることができない、と年譜には記されています。

この作品は、加賀百万石の相続問題を背景に、女同士の対決で知られる芝居「加賀見山旧錦絵」の映画化で、いわば、女優の顔見世映画という要素の強い作品と言えます。

藩の忠臣・佐上兵庫と中老の尾上(松浦築枝)は桜姫を後継ぎにしようと画策しますが、それを妨害しようと大槻伝右衛門と局の岩藤(原駒子)は楓姫を擁立して、藩の実権を握ろうとします。

尾上は度重なる岩藤の仕打ちに耐えられず自害を選ぶというストーリーです。

不完全版ですが、結末の女ばかりの乱闘シーンは残されており、特に悪役岩藤と尾上の敵討ちを誓ったお初(マキノ智子)との闘いが見所になっています。

岩藤を演じた原駒子は、当時「女来也」や「天人お駒」などに主演し、その頃妖婦女優として名を成していた酒井米子、鈴木澄子、伏見直江らに比べても少しもひけをとらない第一級の妖婦女優として評価を得ていました。

そういえば、実際、手元にある「新版大岡政談」のスチール写真の伏見直江は、三白眼でじっと正面を睨み据える鬼気迫る形相の物凄いド迫力です。

ほかに「続大岡政談・魔像」や「御誂次郎吉格子」など伊藤大輔監督との作品に傑出した名演が多いといわれている伏見直江に立派に伍していたというのですから、原駒子もなかなかの女優だったんだろうなと思います。

そして男優ではなんといっても、怪優團徳麿を挙げないわけにはいきません。

竹中労の労作「日本映画縦断2異端の映像」所収の聞き書きルポ怪優ダントク一代記で初めて團徳麿のことを知ったのですが、
《本書は、「和製ロン・チャニー」、「百化け」と謳われ、日本映画の傍流に怪奇スターとして一時代を築きながら、傍流ゆえに黙殺され、初代丹下左膳役者としての栄誉まで大河内傳次郎に持っていかれたまま、寺男として隠棲していたこの怪優を掘り起こした竹中の手柄(孫引きです)》といわれました。
そして
《團徳麿のケレン、邪道と呼ばれるまでにメイクアップに淫したその変身振りは、まさに壮観。
不審尋問にあたった巡査をして「嘘つけ! なにが團徳麿じゃ。あれはせむしじゃ(原文ママ)」と言わしめた素顔なき百化け役者の迫力は、凡百の言辞をはるかに凌駕する。》
のだそうです。

(1936マキノ・トーキー製作所) 監督・根岸東一郎、原作・立春大吉、脚本・玉江竜二、撮影・大森伊八、西本良生。
出演・原駒子、松浦築枝、マキノ智子、浅野進二郎、葉山純之輔、光岡龍三郎、團徳麿、マキノ博子、達美洋子、宮古世里江、大内照子、里見良子、一條桂子、川島圓子、池澤笑子、吉田禮子。
(51分・35mm・白黒・不完全)
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by sentence2307 | 2007-01-26 23:56 | 映画 | Comments(5)

日夏英太郎「君と僕」

折にふれて書棚から引っ張り出しては、繰り返し拾い読みしている本にキネマ旬報社から刊行された「日本映画監督全集」があります。

奥付を見ると、なんと発行日が昭和51年12月24日とありますから、この本に替わるような書籍が、それ以来刊行されていないということなのでしょうか。

まあ最近では、著名監督の優れた研究書が数多く出版されるようになったので、そういう有名な監督の資料なら詳細なものまで結構入手できるようになり、そう苦労することもなくなった一面、しかし、それはほんの一握りの巨匠監督に限られる話で、添え物のプログラム・ピクチャーを撮り続け、注目されることもなく、いつの間にか現場から去っていった大多数の無名の監督たちのことを調べるとなると、これはまた話は別かもしれません。

しかし、この本には、さらにショックな記事も掲載されています。

例えば、ある日突然映画の現場から忽然として消息を絶ち、そのまま行方知れずとなり、そして遂に没年も不明な過酷な運命の映画監督が結構いるというのです、この優れ本「日本映画監督全集」からこうした過酷な衝撃を受けることがしばしばありました。

ですので、小津安二郎のように、会社側がいち早くその傑出した才能を認め、純粋な「芸術映画」を作ることに専念できるよう保護した恵まれた境遇の天才なんて、本当に例外中の例外だったんだなあということがよく分かりました。

この本に収録されている1023人のうち、その「例外中の例外」が何人いるか、数え始めたら5本の指を全部折ることができるかどうか自信がありません。

しかし、そのことが却って、それら無名の活動屋たちが抱え続けた悲憤の中に、日本映画の限りない活力が営々として受け継がれてきたに違いないと思いたいし、そう信じています。

さて、この1023人のなかに戦前に活躍した「日夏英太郎」という監督がいます。

国籍は朝鮮で朝鮮名は許泳、昭和初期にマキノ御室撮影所に入り、助監督をしながらシナリオを勉強し、初めて映画のタイトルに「編集・日夏英太郎」と名前がでたのが、1931年のマキノ映画「マキノ大行進」、その後自分の描いたシナリオ「君と僕」が会社から製作を断られると、日夏英太郎は直接朝鮮の軍司令部に働きかけて軍の命令を引き出し、映画を完成させています。

この映画の内容は、朝鮮人の青年たちの志願兵訓練所における日本に対する熱烈な忠誠心を描いたもので、立派な帝国軍人となることに目覚めた朝鮮人青年が雄々しく戦場に赴くという、朝鮮人の日本軍への志願兵制度を描いた物語です。

当時の朝鮮人に対する日本の苛烈な差別と偏見のなかで、朝鮮人・許泳が「日本人」として認めてもらうために描いたこのオモネリと卑屈の物語は、結局彼の属する「いずれの祖国」をも失わせてしまう結果を招いてしまいます。

「日本映画監督全集」のなかには、日夏英太郎のその後の消息について、親友・佐々木勘一郎の当時のこんな回想が紹介されています。

「新京極の松竹京映の映画館の前で(日夏英太郎と)佐々木勘一郎は、ばったり出会った。
二人で夜の更けるまで飲んだ。
その後、新興を退社し南方の軍属を志願した日夏が、戦局の悪化によって南方で散ったことが耳に入った。」

しかし、日夏英太郎は戦後もインドネシアで生き続け、インドネシアの映画界のために尽くし、多大な功績を残して1952年9月9日ジャカルタで没していたことが判明します。

1976年当時、僕たちが「日本映画監督全集」を手に取っていた頃には、それはまだ分からない事実であって、それが判明するためには、優れたルポルタージュ「シネアスト許泳の昭和」(内海愛子・村井吉敬共著・凱風社1987年7月)の刊行を待たねばなりませんでした。

そして、さらに、日夏英太郎その人を語るとき、極東国際軍事裁判(東京裁判)で、オーストラリアが証拠として提出した日本第16軍特別諜報部別班が作ったといわれている謀略映画『豪州への呼び声』についても語らないわけにはいかないかもしれませんね。

君と僕(41朝鮮軍報道部・松竹)監督指導・田坂具隆、監督・日夏英太郎、脚本・飯島正、日夏英太郎、撮影・森尾鉄郎、音楽・佐藤長助
出演・永田絃次郎、崔雲峰、小杉勇、沈影、三宅邦子、文芸峰、金素英、河津清三郎、徐月影、朝霧鏡子、佳山貞子、大日方伝、李香蘭
1941.11.15 松竹系 10巻 白黒
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by sentence2307 | 2007-01-21 15:12 | 映画 | Comments(0)

第五列の恐怖

今では、すっかり死語になってしまいましたが、「第五列」とは、いわゆるスバイのことですね。

敵国やその軍隊にまぎれこみ軍事機密を盗み、あるいは、謀略によってデマや風聞を故意に流し、あるいは事件を起こして敵軍の後方を攪乱する戦略のことで、それによって味方の軍事行動を助ける組織や人のことを指して言いました。

「陸軍中野学校」で市川雷蔵が演じた椎名次郎もそうですよね。

この作品では、轟夕起子演じる女スパイが、航空機会社に社員に成りすまして潜入し、技師森本(伊沢一郎)の開発している新型エンジンの報告書を入手しようとします。

その背後には、貿易商の仮面をかぶったペインタース(高田弘)のスパイ組織があり、しかし一方では、寺田中尉(永田靖)らの諜報機関が、その壊滅を狙いながら情報戦を展開しています。

報告書の強奪に失敗したスパイ一味は、最後の手段として新型エンジンの秘密を発表する席上に時限爆弾をしかけますが・・・という、よくあるスパイ映画のストーリーです。

この轟夕起子演ずる女スパイのコードネームを「Y-27号」といいますが、「Y-27号」とは、どこがで聞いたような番号だな、と考えていたら、思い出しました。

ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督「間諜X27」でディートリッヒ演ずる女スパイのコードネームが、まさにX-27号でしたよね。なるほど、なるほど。

僕は、はたして当時の日本映画に「分野としてのスパイ映画」を娯楽として成り立たせ得るような欧米に匹敵する成熟した大衆的な土壌があったのかと疑問に思い続けていたので、この命名といい、シュチエイションといい、欧米作品を全面的に拝借した手掛かりを得て、なんとなく納得した気になりました。

また、この映画が憲兵隊司令部から特別な表彰を受けたということからも察せられるように、あるいは、作られた1942年の戦局が厳しく切迫した状況にあったことを加味しても、軍部が苛立ちをつのらせて大衆に大きな影響力を持つ防諜映画に眼をつけ、「肝いり」したと考えたほうが、あるいは自然かもしれません。

この作品、当時はあからさまな酷評もありましたが、国民の防諜観念を向上させたとして憲兵司令官より感謝状も授与されたということと、映画統制によって新会社大映に統合される前の、日活多摩川撮影所名義の最終作としても記憶されるべき貴重な作品と言えます。

この作品を撮った山本弘之監督は、続く「あなたは狙われている」(1943)や憲兵司令部の後援の「重慶から來た男」(1943)など、憲兵隊の後ろ盾で国策的防諜映画を撮ったことが、戦後になって映画作家としての仕事を続けていくうえでかなり厳しい状況を招来したのでしょうか、フィルモグラフィによると戦後に撮った作品は「蜘蛛男」1958のただ1本の記録しか残されていませんが、彼の忘れてはならない仕事にカラー作品の試作に挑んだことを上げなくてはならないでしょう。

年譜には、
「47年6月、フジカラーの試作品『キャバレーの花籠』(大映)を自作の脚本で監督。
撮影・横田達之、本間成幹、照明・伊藤幸夫、美術・木村威夫、主演・三条美紀、花布辰男で、1500フィートの作品でした。
試写のときには、歓声が上がった程の成功で、日本初の色彩映画といわれています。
松竹の『カルメン故郷に帰る』よりも先立つこと実に4年も前の仕事であったことは記憶にとどめるだけの価値ある仕事であることは間違いありません。」
と書かれています。

このカラー試作の仕事は、1947年・第1回日本映画技術賞によって評価されていますが、記録には、大映技術研究所と藤沢信の名があるばかりです。

(1942日活多摩川)監督・山本弘之、原作脚本・北村勉、撮影・内納滸、糸田頼一、美術・仲美喜雄、音楽・飯田景應、
出演・轟夕起子、中田弘二、永田靖、見明凡太郎、伊澤一郎、國分ミサヲ、村田宏壽、潮萬太郎、水島道太郎、小宮一晃、北龍二、笠原恒彦、三井智恵、吉井莞象、斎藤紫香、高田弘、菊地良一、井上敏正、富士木弘、渥美君子、若原初子、町田博子、文野朋子、江原良子、小林桂樹
(70分・35mm・白黒・不完全)
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by sentence2307 | 2007-01-21 15:02 | 映画 | Comments(1624)

にごりえ

初対面の外国人と話す場合、まずはお互いが熟知している共通の映画作品をとっかかりにして話しの糸口を見つけようとすることが往々にしてありますよね。

そんなとき、相手も知っているポピュラーな作品を手がかりにして話を円滑に進めようなんてことが、しばしばあったりするのですが、そんな時はどうしても無難なところで「羅生門」とか「東京物語」の話から攻めて、クロサワのダイナミズムとか、オヅの渋みなどでそれなりに話が盛り上がれば、それはそれで結構話がはずんで間が持つのですが、そんなとき相手が少し日本映画を知っている場合なんかは、思わぬ方向に話が反れたりすることがあります。

例えば、日本人自身は、その当時、世界が評価したと同じように「羅生門」や「東京物語」をベストとして評価したのか教えてほしい、などというちょっと困る質問を浴びかけられることがあるのです。

外国ではどうなのか詳しいところは知りませんが、日本ではその年の優れたベスト作品をラインナップするという慣習があるというと、知らなかったと驚かれることが多く、その辺の事情を執拗に知りたがります。

僕は、仕方なくこんなふうに言うしかありません。

「日本には昔から映画関係者や批評家が優秀な作品に投票してその年のベスト作品の順位を選出するという習慣がある。
あなたの知っている『羅生門』も『東京物語』も当時の日本においては、必ずしもベスト1ではなかった。」

「それなら、『羅生門』や『東京物語』をしのぐ作品とは、どんな作品だったのか。」

「羅生門」の評価は、その年のランクで言えば5位ということになるし、また別の年「東京物語」は第2位にランクされたと言うと、非常に驚き、当然のように「その年の第1位作品は、何と言う作品か。」と質問されます。

僕は仕方なく答えます。「羅生門」や「東京物語」を抑えた作品は、「また逢う日まで」と「にごりえ」という作品である。

このランキングにおいてベスト1に選ばれた回数を言えば、クロサワは1度、キノシタは2度、オヅも確か3度、しかし、このそれらの巨匠たちを抑えた「また逢う日まで」と「にごりえ」を監督した監督今井正は、実にベスト1作品を5本残している驚異的な監督である。

しかし、そうはいうものの、同時にこんなふうに考えてしまいます。

あんなにも批評家受けしていた今井正の時代は、もう決して戻ってこないかもしれないなと。

貧困がいくらリアルに描かれていても、観客の側が、もはや共感を得るだけの貧しさの感覚を喪失してしまっている現在、きっとそこに描かれている弱者への「怒り」とか、ましてやその叙情など、現代にあっては、変質した「貧しさ」への違和感に戸惑いを隠せない観客の前で、おそらく無様に空回りするだけでしょうからね。

時代の激流に背を向け、枯淡の境地を描き続けた小津作品を理解するのに世界が要した同じ時間の長さで、いままさに世界は今井正監督作品を忘れ去ろうとしているような感じをもっているのは僕だけでしょうか。

しかし、残酷ですが、映画ってホント時代の子供なんだなってつくづく思います。

政治の季節が終わり、今井正監督作品もその役割を終えようとしているのかもしれませんよね。

学生のころ、あの「にごりえ」の「大つごもり」の中で久我美子演じる下女が貧しさのために切羽詰って主家の金に手をつける場面を友人たちと大真面目に議論したことを懐かしく思い出します。

貧しさは盗みを正当化できるのか、なんていう今思ってもとても気恥ずかしい議論でしたが、しかし実際は「貧困」とは無縁のお坊ちゃんたちが「貧しさ」を弄んでいたにすぎない机上の空論の域を出るものではありませんでした。

そんな議論の最中、ひとりの友人が怒気をあらわに席を立ち、それ以後彼は二度と僕たちの仲間に入って来ようとはしませんでした。

彼はいわゆる苦学生でしたから、そんな無責任な「議論」の中に身を置くことに居たたまれなかったのかもしれません。

友人から彼が大学を辞めたと聞いたのは、確か同じ年のまだ季節が変わる前だったと思います。

語学教室で見た最後の彼の印象は、講義から顔を背けるようにして、ただ窓外の景色をぼんやり眺めているという、どこか弱々しい拒みの姿勢でした。

彼の目がどういう風景を切り取って見ていたのか知りたいとその当時思ったことが、しばらく経って、小津映画に出会った時に不意に蘇ってきたのです。

不自然なアングルと、役者の演技をことごとく圧殺するようなぎこちない動きやセリフ回し、もし、そういうことに監督の意思が反映しているとしたら、それは現実への絶望と拒みの意思ではないか、あの友人がぼんやくと見ていた風景に通ずる何かがそこにあるのではないかという、失った友人への深い後悔の思いのなかで僕は小津作品に撃たれたのかもしれません。

小津監督作品について、アングルがどうの、セリフ回しかどうのというお嬢様芸のような「分析」に出会うと、どうしても苛立ちを抑えられないのは、きっとこんなトラウマがあるからかもしれませんね。

1953年キネマ旬報ベスト10についてあれこれ検索しているうちに、こんな記事を見かけました。

「にごりえ」が第1位になった1953年度のベスト10を「自分ならこう選ぶ」というものです。

結論から言ってしまえば、あの名作「東京物語」がどうして第1位じゃないんだ、時間の経過のなかで逆転的に定まった名作「東京物語」を本来のランクの位置に確認しなおそうではないかという、いわば名誉回復の復権みたいなものを多くの人が感じているということなのかもしれませんね。

僕が見たそのベスト10では、
 ① 東京物語、
 ② 雨月物語、
 ③ にごりえ、
 ④ 妻、
 ⑤ 東京マダムと大阪夫人、
 ⑥ 煙突の見える場所、
 ⑦ 日本の悲劇、
 ⑧ あにいもうと、
 ⑨ 天晴れ一番手柄・青春銭形平次、
 ⑩ ひめゆりの塔、
となっていました。

ちなみに、選外としてつづく作品は、プーサン、夫婦、まごころ、抱擁、君の名は、地獄門、学生社長、愛人、十代の性典、雲ながるるはてに、といったところです。

本来のベスト10にランクされていた作品、雁とか祇園囃子とか縮図がことごとく圏外に後退し、市川監督作品や川島雄三の飄々とした味わいのものが高く評価されているあたりを見ると、この選者の嗜好がなんとなく分かってきて面白いと思いました。

確かに現在の感覚からすれば「①東京物語、②雨月物語、③にごりえ」という順序は至極妥当な線だと思わないわけではありません。

きっと、現在選出し直したとしたら、確かにこうなるかもしれませんが、しかし、いかに現代の感覚からズレを生じ始めたからといって、それらの作品を選出した「当時の空気感」までをも否定することは、到底不可能なことですよね。そう思います。
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by sentence2307 | 2007-01-20 17:57 | 映画 | Comments(0)

小津監督の国際的評価

小津監督の作品が国際的に注目され出したのがいつ頃からか調べてみました。

幾つかの本を読んだ感じでは、ロンドン映画祭で「東京物語」が、サザランド賞というのを受賞したあたりが、やはり小津監督が世界の映画人に注目され始めた最初のきっかけのような気がします。

1959年10月、ロンドンの英国映画研究所付属国立映画劇場がオープンします。

15日の開場式には、マーガレット王女が臨席し、黒澤明、ジョン・フォード、ルネ・クレール、ヴィットリオ・デ・シーカ、G・W・パプストが招待されて表彰され、引き続いて、翌16日からは、黒澤監督の「蜘蛛巣城」を皮切りに各国の優秀映画が上映されましたが、28日からいよいよ「日本映画シーズン」ということで日本の劇映画15本と短篇が7本参加上映されています。

そして、この中に「東京物語」が含まれていたのですが、これが「意外に」評判が良く、例えば、日本映画海外普及協会評議員として渡英していた川喜多かしこのコメントは、その辺の雰囲気をこんなふうに伝えています。

「もっとも意外だったのは『東京物語』である。
心配していた小津氏のテンポに皆がシーンと見とれている。
そして、淡々と語られる老いた者と若い者との、どうしようもない隔たりの哀しみに心を浸されている。
『こんな純粋な、真実な映画がいままでにあったろうか』とリンゼイ・アンダースン(当時は一流の映画批評家でした)は涙を浮かべて言っていました。
『この映画には、“禅”がある』とこう喝破していました。」(毎日新聞、昭32.11.27夕)

この時の英国映画研究所関係者の投票ベスト5は、「東京物語」、「雨月物語」、「生きる」、「近松物語」、「煙突の見える場所」の順でした。

翌1958年10月6日から14日まで開催されたロンドン映画祭で、同劇場で1年間に上映された作品中の最優秀作品に「東京物語」が選ばれ、賞を出さない原則の事務局が特にサザランド杯を贈り、当時プリュッセルに滞在していた川喜多かしこが、急遽ロンドンに飛んで賞杯を受けたと言う話はいまや伝説のように伝えられています。

その時、既に「東京物語」はアイルランドの第2回コーク映画祭で受賞していましたが、小津監督の国際的評価の始まりは、やはりこのロンドンでの上映とする説が多いといわれています。

ただ、この評価を知悉していたはずの昭和33年8月の「キネマ旬報」の座談会で小津監督は言っています。

「こっちは、日本人なんだから、日本的なものをぶっつけて、それで分らなければ仕方がない。」

次第にあきらかになっていた国際的な評価のキザシを、しかし、小津監督のこのひとことは、まだまだ懐疑的に受け止めていたことが分りますね。

しかし、当時の勢いを加味すると、1959年ロンドンでのこの「日本映画週間」における黒澤監督の「生きる」が第3位という評価は意外というか、不等に低いランクのような感じがしなくもありません。

「東京物語」、「雨月物語」、「生きる」は、この卓越した日本の三巨匠が残した最良の作品ですし、また、撮られて以後の半世紀のあいだに世界の映画人に与えた多大な影響と実績を考えれば、これらの作品に順位をつけること自体、現在では何の意味もないことは誰でもが知っていることだと思います。

きっと、黒澤作品「生きる」が3位という評価に、イマイチ割り切れないものを感じたとすれば、それはきっと自立した「古典」に優劣をつけるという行為に戸惑いを感じられたからだということかもしれません。

それは僕も同じです。

ただ、後年「乱」における、戦場が死体で覆い尽くされているようなシーンを、手放しで美しいとは僕にはどうしても思えませんでした。

黒澤作品を誰よりもこよなく愛してきた積りの僕ですが、あの場面だけは、はっきりと「これは違うな」と感じました。

小津監督が描く人間像の魅力をひとことで言えば、「軽さの哀しみ」だとすれば、黒澤監督の描くテーマは、命の重さ、「人間の尊厳」です。

ひとりの人間の生きることの意味を極限まで問い詰めていく姿勢が、登場人物たちの死を更に衝撃的なものとして映像体験させ得たのだと思います。

例えば「七人の侍」において、名誉や栄達とは何の関係もない野武士との死闘で、犬死のように落命していく不運な侍たちのひとつひとつの死の描写が、いかに痛切に重かったか、あの感動を、残念ながら「乱」からは何ひとつ感じ取ることができませんでした。
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by sentence2307 | 2007-01-20 16:00 | 映画 | Comments(11)

煙突が見える場所

ちょっと不思議な雰囲気を持っているこの作品「煙突の見える場所」を見るたびに、どうしても小津作品「風の中の牝鶏」と比較して考えてしまいます。

きっと、どちらの作品にも田中絹代が出演しているからだくらいに思っていたのですが、最近どうもそれだけではないような気がしてきました。

「風の中の牝鶏」は、世評では小津作品の失敗作のひとつと看做されている作品ですが、世間で言う「失敗作」と、小津監督自身がもらしているという「失敗作」と自認している意味とが、微妙に食い違っているように思えて仕方ありません。

「風の中の牝鶏」は、どういう事情があれ、妻が犯した不倫をどうしても許せない夫の苦悩を描いた作品です。

全編を通して描かれる妻を責める夫の執拗さは、同時に小津安二郎という人が「女性」に求め続けた異常なまでの潔癖さ(それは、同時に女性への根深い失望をも示しているのですが)を現しているような気がしてなりません。

妻が他の男とカラダの関係を持ったこと自体が、夫には生理的に許せないでいます。

怒れる夫がアヤマチを犯した妻に与える執拗な暴力描写を見ていると、夫には、妻と男とが剥き出しの肉体を絡ませながら互いの肉欲をせっせと満たしている生々しい具体的な性的描写が妄想的に実感されていて、そのリアルさゆえに苦しんでいるのだと分かります。

この作品「風の中の牝鶏」は、「女の『性』なんて、所詮あんなものさ」という小津監督の素直な心情(女性に対する落胆とか嫌悪感とか恐れとか)を率直に描きすぎてしまった作品だからこそ、ご本人はどうしても「失敗作」というしかなかったのだという気がします。

同時にそれが小津作品中で、僕がもっとも愛する作品のひとつとしている理由かもしれません。

「煙突の見える場所」の性についての「おおらかさ」を書こうとして、つい「風の中の牝鶏」に描かれている小津監督の「性」について長年思っていたことを書きすぎてしまいました。

「煙突の見える場所」は僕が愛して止まない不思議な魅力を持った作品なのですが、今回久しぶりに見て驚いたことがありました。

上原謙と田中絹代の間に置去りにされた赤ん坊の生みの親の役というのが、花井蘭子だったのですね。

迂闊にも今回はじめて知りました。

ここのところ戦前の映画ばかりを見ていて、花井蘭子について、どうしても楚々とした可憐な娘役の印象が強烈に刷り込まれてしまっていたので、不貞腐れ・毒づき・開き直る堂々たる「戦後の花井蘭子」との遭遇には、いささか虚をつかれた感じで驚いてしまいました。

自分の不明を明らかにしてしまうみたいで気恥ずかしいのですが、「戦後の花井蘭子」というのもあったのかという驚きで、僕にはちょっとしたショックというかパニックでした。

そこで、彼女が戦後どのくらいの映画に出演したのか、「戦後の花井蘭子」を知るために、ちょっとネットでカンニングしてしまいました。

戦後第1作出演作は、1946年の東宝作品「命ある限り」で、それが通算132本目の作品となっていて、ラストの通算195本目の新東宝作品「桃色の超特急」61まで、戦後16年にわたって64本の作品に出ていることになっています。

その作品群には既に見た作品も結構あるのに、「花井蘭子」の印象が全然残っていないのは、それが、不貞腐れ・毒づき・開き直る僕の知らない堂々たる「戦後の花井蘭子」だったからでしょうか。

(53新東宝)監督・五所平之助、製作。内山義重、原作・椎名麟三、脚本・小国英雄、撮影・三浦光雄、美術・下河原友雄、音楽・芥川也寸志、録音・道源勇二、照明・河野愛三、
出演・田中絹代、上原謙、高峰秀子、芥川比呂志、関千恵子、田中春男、花井蘭子、浦辺粂子、坂本武、三好栄子、星ひかる、大原栄子、中村是好、小倉繁
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by sentence2307 | 2007-01-18 00:09 | 映画 | Comments(1)
1930年日活京都撮影所に入社して伊藤大輔監督のもとで助監督として出発した西原孝監督は、デビュー作「流星」や、第一映画で「京洛浅春譜」、新興キネマで「沓掛時次郎」など12本を撮り、大映で「護る影」を撮ったのち、戦後は、長篇映画の監督業を辞してプロデューサーに転じ数々の教育映画の製作に当たったと年譜には記されていますが、この「愛の道標・妊娠調節を中心として」は、製作年度から見て、東映教育映画部で仕事を始める以前の1本と見られます。

内容は、復興期の人口増加に対し受胎調節の意義と避妊法を啓蒙的に解説した社会教育映画です。

フィルムの発見が沖縄の那覇市ということで、米軍占領初期、本土との間に貿易の手段がなかったときに密貿易の形で本土から沖縄に流入した通称「闇フィルム」と呼ばれたものと推測されています。

「闇フィルム」とは、本編の内容には露骨な性描写などないものに、別の「煽情的な場面」を挿入することで東京の盛り場などで非合法的に上映されたというフィルムだったらしいということが当時のカストリ雑誌の記事から推測されます。

娯楽の乏しかった戦後の混乱期に、こうした作品も一種の「闇フィルム」として流通し、刺激を求めて興味本位の鑑賞に群がった人々のニーズに応えたという当時の切迫した生々しい世情をうかがえる貴重な作品ということができるのでしょうか。

西原監督の東映教育映画部における仕事には、「ちえ子の世代」、「直子の感傷」、「職場の不満」、「私たちの結婚」、「宿題」、「輝しき娘たち」、「信子の生活設計」、「駐在さん一家」、「破られた約束」などがあり、また産業映画にもすぐれた仕事を残しています。1971年死去、享年70歳。

(1950大阪映画人集団) 監督・竹島豊、製作・西原孝、脚本・長尾政明、撮影・木村久次郎、美術・岡軌介。復元作業:育映社(21分・35mm・白黒)
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by sentence2307 | 2007-01-18 00:05 | 映画 | Comments(0)