世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カミュなんて知らない

タイトルからすると、シネマ・ヴェリテへのオマージュなのかと思いながら観はじめたのですが、とんだ勘違いでした。

期待を持たされた分だけ、この失望感にはむかっ腹が立ちます。

なんの意欲も工夫もない旧態依然の作劇法で、まあ敢えて分類するとすればタチの悪い学園モノといったところでしょうか(学園ものなら、もう少し爽やかに作って欲しいと思いますが)。

全編で話される「映画の記憶」も知識のヒケラカシの範囲を一歩も出ていない、きっとどの本にも書いてあるような実に薄っぺらなものであったことも、怒りを誘います。

また、カミュをからめて「殺人」に動機が必要か否かなんて、そんな手垢にまみれた古臭いテーマを、ゴダールまで引っ張り出して、いまどき大真面目で作る意味が果たしてあるんでしょうか。

リアルタイムでゴダールの中国への接近の無様をつぶさに見てきた僕にとって、あのオッサンの映画は「話半分」くらいに観ておくくらいがちょうどいいというのが実感です。

あんまり神様みたいに持ち上げすぎると、肩透かしをくわされて、あとで引っ込みが付かなくなるような気がしますしね。

ナニゲについ「肩透かしをくわされる」なんて言ってしまったのですが、この映画を最後まで見通して出会ったのが、老婆を殴り殺した男の「人殺しを経験してみたかった。人を殺したらどうなるか、実験してみたかった」という花も実もない殺伐とした言葉でした。

観客をこの言葉に向かい合わせるために、あれだけの理屈を捏ね廻したのでしょうか。

狂気に囚われたこんな男の言葉のどこに、「異邦人」とつながるものがあるのかさっぱり分かりませんでした。

例えば「異邦人」で問われている最も深刻なテーマは、「人殺しの理由が、あえて言えば太陽がまぶしかったから」などという末梢的な部分にあるのではなく、「母親が死んだその日に、親の死を悼み喪に服することなく、愛人と遊び興じ、あまつさえ愛欲に耽ったことを反道徳的と、もっともらしく非難する世間の《良識》」に対して、寡黙なムルソーが始めて怒りをあらわにする部分にあります。

親を失ったことに対して世間が納得するような悲しみの《振り》をすることになんの意味があるのだ、と。

そんなことは、どうでもいいことなのだ。自分の人生を自分らしく生き、母親の死を自分なりに悲しむことこそが重要なことなのであって、それが世間の良識とどう関係するというのか。

世間を納得させるような《理由》を説明することになんの意味も認めていないムルソーは、殺人の理由(それはつまり、道徳的な責めの在り処ということでしょう)を問われ、お前たちがそんなに「殺人の理由」が欲しいのなら言ってやろう、という思いのあとで言った言葉が、「太陽がまぶしかったから」なのです。

「そんなことは、どうでもいいのだ」という思いのなかで発せられた言葉(きっと、それは、他のどんな言葉でも置き換え可能なものだったはずです)を真正なものと真に受け、その誤謬のうえで作られたこの映画「カミュなんて知らない」は、最初からテーマを見失った作品だったのだろうなという気がします。
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by sentence2307 | 2007-03-27 22:25 | 映画 | Comments(0)

花ひらく 眞知子より

予備知識がないまま、この映画を見たら、これがあの市川崑監督のデビュー作かと、すぐには信じられないくらいの陰鬱さに驚かされるに違いありません。

特に、ボサーっと突っ立っているだけで絵になる二枚目「上原謙」が、いままで見たこともないような屈折した学生運動の活動家を演じているのですから、本当にびっくりです。

ミスキャストとか、そんな生易しいレベルでは気持ちの持っていきようがないほどの、これはもう悪趣味を通り越して深刻なグロテスクを感じてしまうくらいの相当無理な設定と思ったのは果たして僕だけだったでしょうか。

もっとも、ある資料によれば、これは和田夏十の趣味だったそうですから、まあ市川監督には責めがなかったといえるかもしれませんが。

そういうわけで、後年の軽妙洒脱な演出の冴えをみせる市川監督らしさを、このコテコテのメロドラマ作品から見つけ出そうというのは、かなり難しい問題なのですが、しかし、だからといって後年のスッとぼけたような市川監督一流の不思議な味わいがまったく「皆無」かといえば、決してそうではありません。

学生運動の活動家・上原謙の下宿のすぐ裏に精神病院(映画のなかでは、なんの躊躇もなく、それこそきっぱりとモロ差別用語である「キチガイ病院」と言い放っています)があって、時々聞こえてくる狂人たちの叫び声にこの活動家の荒んだ気持ちが慰められるとかいう場面があります。

斜に構えたこの青年のヒネクレ加減からみても、この活動家が相当に屈折した心の持ち主であるらしいことが伺われ、一層そのインインメツメツとした暗さに、観ているだけでもうんざりさせられてしまうのですが、しかしそのなかにあって、せめてもの魅力は、この「キチガイ病院」を動物園と同じレベルで捉えている市川監督の突き放したような描き方に、軽妙洒脱な市川演出の冴えが見られるといえるかもしれません。

それはまあ、「かろうじて」という感じではあるのでしょうが。

しかし、この叫び声だけを象徴的に描きながら「人間」を「動物」にすり替えてしまうアクロバット的な奇妙な発想の可笑しみは、考えてみればこの「一大メロドラマ」全体を覆いつくしているような気がします。

この物語を少し整理して考えてみると、自分が属している上流階級のぬるま湯に苛立ちを感じている「眞知子さん」は、なにやらいわくありげな左翼の活動家に惹かれ、接近していくうちに次第に見えてくる彼の心の荒廃と怠惰と人格的な欠陥に失望して(実は、男は重婚を隠して眞知子さんに求愛しています)彼を見限るという物語でした。

みずからが属する上流階級への嫌悪と、貧しい階級への同情から、眞知子さんは階級闘争の闘士に惹かれていくのですが、そのモラル(あるいは反モラル)までは受け入れることができず彼に従う決心がつきません。

しかし、この眞知子さんの関心と失望の過程は、実は、前述した「キチガイ病院」から奇怪な「叫び声」だけを切り取って可笑しがるという姿勢と不思議に重なっていることに気づかされます。

深刻な人格障害を病理的に理解することなどせずに、病気から発せられるその叫び声だけをあっさり抽出して面白がるという姿勢は、そのままこの物語に描かれている眞知子さんの革命への関心と失望の淡白な過程と、同じ軌跡を辿っています。

時代錯誤の紅衛兵か、遅れてきた赤軍派みたいなことを言うみたいで大変恐縮なのですが、生来持っていたモラルを克服しなければ「革命」なんて理解できるわけがないし、ましてや死を覚悟した変革への献身などできるはずもありません。

この物語が、捨てられた男の側から描かれているシニカルなものなのならまだしも、どこまでも「お嬢さん」の不定見な関心と鈍感な失望の物語にすぎず、ただ一方的に澄ましかえって終始するあたりが、この幼稚な作品を、とても俗悪で、それゆえに却って奇妙な味わいをかもしながら、一定の作品に仕上げることができたのかもしれません。

市川演出は、うわべだけの物語の流れを皮肉的に敷衍して見せたのだと思いました。

ラストシーンは、生きていく道を絶たれ、明日を見失ったはずの眞知子さんが、「明日から頑張るぞ」みたいな晴れ晴れしい顔のアップで終わっているのですが、ここには、彼女自身、遂に克服できなかったものがなんだったのかの見当さえつかないまま、上流階級の身勝手なお嬢さんのひとりよがりの、図太いまでに鈍感な感受性(もし、これでも「感受性」などと呼べる種類のものであるとして、ですが)が、描かれているのだと思いました。

(48新東宝) (監督) 市川崑 (原作)野上彌生子(脚本)八住利雄(撮影)小原譲治(美術)河野鷹思(音楽)早坂文雄
(出演)高峰秀子、上原謙、藤田進、吉川満子、三村秀子、田中春男、村田知英子、水原久美子、春山葉子、伊達里子、江見渉
(88分・35mm・白黒)
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by sentence2307 | 2007-03-25 22:53 | 映画 | Comments(1)

県庁の星

「県庁の星」は、力ない者たちへの優しい眼差しを持った往年のハリウッド映画を思わせるような、とても素直な作品です。

バリバリの県庁のエリートが、その熾烈な競争社会で完膚なきまでに叩きのめされ、深い挫折を味わって再起不能のどん底に落ち込んだあとで、しかし、その立身出世のために持っていたスキルを、最も必要としていた庶民のために役立て、倒産の危機にあったスーパーマーケットの立ち直りに成功させることで、みずからも再生を遂げるという心温まる映画でした。

小品ですが、個人的にはこういう映画が物凄く好きなので、抵抗感なくすんなりと受け入れることができたのですが、ただひとつ物凄い違和を感じた部分がありました。

その「ただひとつの違和感」というのは、土建屋の社長令嬢(彼の婚約者です)との別離のシーンです。

土建屋の社長の利害に大いに関わる彼の立案した大型プロジェクトが、彼を外して行われるということが県庁で決定されたとき、もはや彼を必要としなくなった社長から当然のように見放される、というか棄てられることになるのですが、絶望の真っ只中にある彼を更にぶちのめすことになるすぐそのあとの婚約者との別離のシーンに少なからぬ違和感を持ったのでした。

父親から「会うな」と言われたから別れるのではないの、自分の意思であなたと別れることに決めたの、とかなんとか、そんなふうな前置きで、多分彼女はこんなふうな別離の言葉を彼に送ってきたのだと記憶しています。

「あなたは、仕事に夢中で一度だって本当に私のことを見てくれたことがなかったわ」と。

社長から拒絶された後に続くシーンなのですから、ここは当然、別れる理由として「父親から会うなと言われたから、もうあなたみたいな駄目な男とは会いたくないわ」みたいな続きかたをした方が場面のつながりからいえばごく自然のような気がしていたので、ここで感じた違和感がことさらに印象的というか、むしろ、それ以上に僕にとってはショックだったのだと思います。

女性と別れるという僕のとても少ないこれまでの経験から、「そうなんだよな」と感じたのだと思います。

女性は、こうしたシチュエーション下でも、「あなたみたいな金儲けのへたな駄目男とは、もう会いたくないわ」とは決して言いません、「あなたは、一度だって私のことを見ていてくれなかったわ」と言うのです。

きっと、彼女たちが抱え持っているもっともっと口汚い本音も、彼女たちの口から発せられるときは、とても美しい言葉に変えられています。

それが「作為的な嘘」でもなんでもなく、女性とはそういうものなのだと僕が思い始めたのは、つい最近のことです。

責められるべき別離の理由は、常に男の側にあるという女性の論理がそこにはありました。

それは、スッピンがどのような状態であるにしても、とにかくアレコレ美しく装い切ってしまう女性の本能みたいなことと、結局のところ本質的には同じことなのだなという感じでした。

それ以来、美人に対して気後れを感じなくなりました、特に女性に対して対人恐怖症だった惨憺たる僕にとっては一応の進歩といえると思います。

(2006東宝)原作:桂望実、脚本:佐藤信介、監督:西谷弘、音楽:松谷卓、製作:島谷能成、亀山千広、永田芳男、安永義郎、細野義朗、亀井修、企画:永田洋子、エグゼクティブプロデューサー:石原隆、中山和記、ラインプロデューサー:前島良行、原作プロデューサー:菅原朝也(小学館)、プロデューサー:春名慶、市川南、臼井裕詞、岩田祐二、制作プロダクション:共同テレビ、
配役・織田裕二、柴咲コウ、佐々木蔵之介、和田聰宏、紺野まひる、中山仁、奥貫薫、井川比佐志、益岡徹、矢島健一、山口紗弥加、濱田岳、ベンガル、酒井和歌子、石坂浩二、渡辺哲、梅野泰靖、有薗芳記、大高洋夫、峯のぼる、志村東吾、小磯勝弥、奥田達士、小瀬川理太、農塚誓志、野呂拓哉、坂本雄吾、マンスール ジャーニュ、王雪丹、モハメッド リボン、青木和代、松美里杷、中島陽子、滝本ゆに、中込佐知子、諏訪太朗、森康子、志水季里子、山口みよ子、国枝量平
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by sentence2307 | 2007-03-20 23:44 | 映画 | Comments(0)