世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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<   2007年 06月 ( 3 )   > この月の画像一覧

かあちゃん

この手放しの「善意」が、ただの「善意」のままで終わるわけがない、なにしろこの作品は、かの市川崑の作品なのだからという思いを抱えながら、結局最後までその気持ちの持って行き所を探し出せず、また映画の核心の明確なイメージも掴めないままで遂に終わってしまったのは、きっと、僕のなかで培ってきたはずの市川崑作品のイメージと、この「かあちゃん」という作品との間に、大きなズレがあったからだろうと思います。

だからといって、決して、この市川崑作品(75本目だそうですね)にケチをつけるつもりはありません。

ただ、長い間、市川崑作品を見てきた僕にとって、そこに描かれている「善意」は、最後には必ずや屈折した諧謔に変質するに違いないと勝手に思い込んでいた期待の分だけ、裏切られてしまった「苛立ち」を、自分のなかで処理し切れなかったからだろうと思います。

しかし、飄々と流れる台詞回しがカタチ造る独特の市川崑ワールドは、この作品でもしっかりあって、そうした時空間の流れのままに身を委ね、いつもながらの不思議な市川崑の虚構の世界に浸り込んで、リラックスできた悦楽の時間を持てたことは僕にとって大きな喜びでした。

それだけに、湧き上がる感情を悉く押さえ込むような、でき得る限り無感動であろうとする乾いた独特の台詞回しと、市川崑が描こうとした現実から少し距離をおいた人間像とが決して不可分なものではないという思いが、僕がこの作品「かあちゃん」に感じた居心地の悪さの原因かもしれないなと気がつきました。

その場のシチュエーションに反応する出来合いの感情表現をむしろ廃して、その台詞回しから「表情」というものを悉く奪い取ることで、交錯しながら揺れる人間の活きた感情表現に幅と奥行きを持たせて、計り知れない複雑な人間感情の奥底にある得体の知れないものまでをも表現できた証明は、僕たちが彼の多くの作品の中に見てきた通りだったと思います。

しかし、岸恵子演じる「かあちゃん」の薄気味悪いくらいの善意の正体が、ラスト近くで語られるあの剥き出しのグロテスクな台詞「子として親を悪く云うような人間は大嫌いだよ!」によって一挙に明かされてしまうという「かあちゃん」の正体とともに、作品そのものまでをも小さくしてしまったような気がしてなりません。

それまでは掴み所のなかった「かあちゃん」や、その「善意」の正体が、底の知れた薄っぺらな教訓に繋がってしまうことで、実に小さなものでしかなかったのだと、冷水を浴びせ掛けられるようにして気づかされてしまった一瞬でした。

それまでは、どうにか気づかれないように慎重に運ばれてきたものが、一気に明かされた結果、当然のことですが、アレは「その程度のもの」でしかなかったのかという落胆に繋がったのだと思います。

しかし、最近、ある知人から、僕が感じた「落胆」と全く同じ内容の感想を聞いたとき、そのグロテスクの謎が天啓のように解けました。

自分で考えているときには気がつかなかったものが、同じ内容を第三者から客観的に聞かされると、その考えの欠陥がたちどころに分かるいい例だったかもしれません。

ある記録によれば、この作品は、すでに50年前に故・和田夏十と共同で書き上げたシナリオだということを知りました。

しかし、50年前といえば、市川崑監督が、その感覚とテクニックによって、時代に拮抗するアフォリズムに満ちた、あるいはアモラルな絢爛たる作品を撮り続けていた時期と重なります。

その時期に、果たして本当にこの善意に満ちた作品が書かれたのか、奇妙な感じというか、ある疑わしさをもってその記録を読みました。

しかし、逆にそれが「謎」なら、その答えは簡単なような気がします。

つまり、捻りのないそのような素直な作品だったからこそ、当時にあっては日の目を見ることがなかったのだと。

そのように考えれば、(失礼を承知で、あえて申し上げるのですが)そろそろ人生の総決算をしなければならない時期にさしかかった市川崑監督が、いまは亡き同志・和田夏十の書いた素直な言葉のひとつひとつをたどりながら、映像に結実させる意味が分かるような気がしましたし、また、この映画を市川監督が一点のクモリのない善意のままで終わらせることに些かの躊躇もなかったと考えることは容易かもしれません。

この手放しの善意こそは、アフォリズムもアモラルも放棄した久里子亭への静かで誠実な鎮魂歌だったのでしょうか。

(01東宝)監督・市川崑、製作・西岡善信・中村雅哉・長瀬文男・松村和明、プロデューサー・西村維樹、猿川直人、鶴間和夫、野口正敏、原作・山本周五郎、撮影・五十畑幸勇、脚本・和田夏十・竹山洋、音楽・宇崎竜童、タイトル画・和田誠、美術・西岡善信、編集・長田千鶴子、衣装(デザイン)・乾保直、録音・斉藤禎一、スクリプター・川野恵美、スチール・橋山直巳、音響効果・斉藤昌利、林彦佑、ナレーション・小沢昭一、監督補・小笠原佳文、照明・下村一夫、古川昌輝
出演・岸恵子、原田龍二、うじきつよし、勝野雅奈恵、山崎裕太、飯泉征貴、紺野紘矢、石倉三郎、宇崎竜童、中村梅雀、春風亭柳昇、コロッケ、江戸家猫八、尾藤イサオ、常田富士男、小沢昭一、仁科貴、横山あきお、阿栗きい、新村あゆみ、1時間36分
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by sentence2307 | 2007-06-23 22:29 | 映画 | Comments(52)

夜の河

「男の偽善性」を遺憾なく暴き立てたといわれるこの女性映画の名作「夜の河」は、男の立場から見ると、実に耐え難いものが描きこまれています。

この作品を要約すると、つまり、男のたった一言の失言が、まるで揚げ足取りのように詰られ非難されて、それを理由に彼女の側から一方的に別れを告げられ、男の方は、理由がよく分からないまま、言い出された別れをしぶしぶ呑むしかなかった、という独善的な(男の側から見て、ですが)物語です。

だからといって、この作品を女性の繊細な感情をきめ細かく描いた作品だなどと杓子定規に思わないほうがいいかもしれません。

よく考えてみると、この作品は、むしろ極めて男性的な映画のような気がしてきました。

京都の染物師・舟木きわと阪大教授・竹村は、きわが染めたネクタイを竹村が締めていた偶然から親交を深め、惹かれあい、やがて、お互いが仕事上で窮地に立たされた失意の夜に、その空虚を埋め合うようにして肉体関係が結ばれます。

きわは、そのとき「もし、子供ができても、自分ひとりの子供として育てるわ」と言い切っています(実際問題として、ナニをイタシタあとに、女性から突然そんなふうに言われたら、男としては、まずは驚き、うろたえ、なにか含みとか企みでもあるのか、あるいは、これは遠回しの脅迫ではないかとビクツイテしまうといのが本当のところだと思いますが。)。

しかし、この言葉を額面どおり素直に受け取れば、彼女は、いままで男に頼らず、染物師として自分一人の力で生きてきたように、対等な愛情関係を竹村教授と結ぼうと考えたにすぎず、つまりあの言葉は、男に負担を掛けたり、凭れ掛かったりはしないという誇り高い意思表明というか「宣言」みたいなものだったのだと思います。

ですので、竹村の妻の病気がかなり深刻な段階にあり、竹村教授が、舟木きわ嬢にそのことを知られてしまったことを好機として、思わず「もうすぐ(死ぬからカタがつく)」という意味の失言を発したとき、「対等な関係」を望んでいた彼女の気持ちが突き崩され(男は、「もうすぐ一緒になれるよ」というだけの意味で言ったと思うのですが)、竹村にはなにひとつ自分の気持ちが分かってなく、自分はただ単に男に付き従っていくだけの受身の女としか見られておらず、結局自分も彼とともに彼の妻が死ぬことを期待している下卑た女のひとりにすぎなくされてしまったことに、たまらない屈辱感を覚えたのだと思います。

それなら、屈辱で打ちのめされた彼女は、本当は何を望んでいたのか。

形に拘らない自立した男の女の愛、でしょうか。

しかし、彼女の「恋愛」という男女関係の認識に、そもそも最初から重大な錯覚があったといわざるを得ません。

つまり、相手の人格を踏みにじっても立派に成立してしまう「恋愛」という奇怪な人間関係こそが、そもそも最初から不平等なものにすぎない以上、そこに平等も求めること自体子供じみた誤りだというしかないのです。

自分を徹底的に貶めて、相手の関心をかおうとしたり、逆に、相手の卑屈さを見て取って、弱みを突いて居丈高の攻勢に出る事だって大いに在り得ます。

竹村教授のひと言(もうすぐだ)に傷ついた舟木きわ嬢の潔癖さは、たとえそのとき、その言葉に傷つかなかったとしても、遅かれ早かれ別の言葉に傷ついたに違いないし、そうでなければ、さらにまた別の言葉に傷ついたと思います。

いずれにしても潔癖な(自分のことをそう信じたく、ポーズだけは決めていたい)彼女には、狡猾で下卑た男を愛することなど出来ないのだと思います。

それは、きっと、男と女の恋愛関係というものが、彼女が思い描いている潔癖とかプライドという感情からは遥かに遠い狡猾で下卑たものにすぎないからだし、そして、彼女こそが、自身の狡猾で下卑たオノレを自覚しない限り、「恋愛」などというケチなものなどまったく必要なく生きていけるという歪んだ認識に至ることが急務だったのかもしれません。

(56大映東京撮影所)監督: 吉村公三郎、製作・永田雅一、脚本: 田中澄江、撮影・宮川一夫、原作: 澤野久雄、音楽: 池野成、企画・原田光夫、高椋通夫、美術・内藤昭、録音・海原幸夫幸夫、照明・岡本健一、スクリプター・牧浦地志、
出演・山本富士子、小野道子、阿井美千子、市川和子、川崎敬三、上原謙、夏目俊二、舟木洋一、星ひかる、山茶花究、大美輝子、若杉曜子、万代峰子、東野英治郎、小沢栄、橘公子、朝雲照代、真風圭子、南部彰三、天野一郎、西川ヒノデ、石原須磨男、伊達三郎、高倉一郎、志摩靖彦、小松みどり、金剛麗子、玉置一恵、藤川準、三浦志郎、越川一、小柳圭子、仲上小夜子、高原朝子、前田和子、種井信子、
スタンダード/モノラル 1956.09.12 12巻 2,854m 104分 カラー
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by sentence2307 | 2007-06-19 22:27 | 映画 | Comments(5)

アカシアの道

書籍なら、さしずめ「読み込み方」とでもいうのでしょうか、この作品「アカシアの道」に対する僕の見方が、多分いたらないからに違いないのですが、アルツハイマーを発症した母の介護に疲れた娘が、恋人との別離もあったりと、身辺に起きる八方塞りの状況に追い詰められて、思い余って母親を殺そうとしながらも、ついに果たせずに終わる場面から、やがてその母とともに生きていこうとするラストまで、娘・美和子の心の動きがどうしても掴めなかったのでした。

切羽詰って母親を殺そうとした切実な思いまでは、どうにか理解できました。

しかし、なぜ母親を殺すことをやめたのか、なぜそのあと、母親とともに生きていこうと決めたのか、その理由がどうしても分からないのです。

肉親である母親を殺そうとすることを思い留まるという理由など、なぜ必要なのか、当たり前じゃないかと叱られてしまいそうです。

病に倒れた母親とともに娘が暮らそうとすることだって至極当然なことで何の不思議があるというのだと、さらに叱られてしまうかもしれません。

しかし、この映画は、ここの部分を納得できなければ、一歩も前に進むことが出来ないほど、独善的な母親を奇妙なほど特徴的に描いています。

若くして離婚し、女手ひとつで娘を育てている母親は、自分が教職にあることから、女が一人でも立派に生きていくことが出来る職業として、娘にも教職に付かせようと、娘の生活のあらゆることに対して自分の考え方を過剰に押し付けてきます。

従わなければ体罰を加えても従わせようとします。

幼いうちはそうした母の過干渉に耐えるしかなかった娘も、自立できる年頃になれば、その息詰まるような理不尽な母親の過度の干渉から逃げ出すのは、普通の理性ある人間なら当然なことだと思います。

しかし、母親には、それが許せない。

病気を心配して戻ってきた娘に対しても、母親はいつまでも、大恩ある母を捨てて逃げた不実な娘という憎悪の立場をかたくな固執し、娘を徹底的になじります。

それが、見捨てられプライドを傷つけられた母親としてのただの意地なら、みかえりを一切求めることなく歩み寄ってきた娘に対して、どこかに溶解する部分があるに違いないという気がします、なにしろ「母娘」という肉親なのですから。

しかし、この映画には、そんな感情が付け入ることができるような甘さは存在していません。

母親は、日常的な判断力が徐々に失われていく過程においても、決して娘を許そうとしないし、心を開かないまま、ただ憎悪を吐き掛け続けます。

あらゆるものを犠牲にして母親の面倒をみようとしている娘に対する「お返し」がこれなら、自分の生活がそのために少しずつ壊されていく過程で、幼い頃に虐待を受けた痛ましい記憶に押されて、母親に対する「殺意」が形成されていったとしても、心の支えがない彼女にとって、咄嗟に母親を巻き添えにした死を思い立つその絶望感は、さほど無理からぬことのような気がします。

むしろ、そこには、母親を殺し掛ける手を止める理由の方こそ見出し難いという状況さえある。

母親を殺す勇気がないから、その不甲斐なさの報いを引き受けて、いまだ自分を脅かし続けている存在である母親(精神の均衡を失う以前、意識のあるとき、母親はついに娘と和解しようとはしていません)と、まるで罰のように自分に強いて生きていくことを選択した娘の、自分に向けた自嘲と絶望の物語なのだと、この作品「アカシアの道」を僕は見てしまったのかもしれません。

決して解けることのなかった僕の不可解さに、もし、ひとつの回答が与えられるとしたら、それはこの母親がアルツハイマー以前に既に狂気に囚われていて、そのことが明かされないままに、娘も観客もこの理不尽な物語に振り回されたということかもしれませんね。

(01TBS、ユーロスペース、PUGPOINT)プロデューサー・堀越謙三、松田広子、協力プロデューサー・田上節朗、もとひろ、監督・松岡錠司、助監督・板庇竜彦、脚本・松岡錠司、原作・近藤ようこ、撮影・笠松則通、音楽・茂野雅道、美術・磯見俊裕、録音・橋本文雄、照明・笠松則通、編集・普嶋信一、衣装・宮本まさ江、ヘアメイク・豊川京子、スクリプター・浦山三枝、スチール・山口博之
出演・夏川結衣、高岡蒼佑、杉本哲太、藤田弓子、りりぃ、小沢象、土屋久美子、渡辺美佐子、天光眞弓、小林麻子、高倉香織、有福正志、田付貴彦、坂口美樹、原未来、平塚麻耶、成島出
2001.03.17 90分 カラー ヴィスタサイズ


痴呆症の老人を描いた映画というと、どうしても豊田四郎監督の「恍惚の人」を思い浮かべてしまうのですが、そういえば、あの作品の描き方が、その後の痴呆症老人を扱った映画の基本的なパターンみたいになっているような気がします。

それでなくとも痴呆症老人の世話といえば、相当大変なのに、さらに老人介護の煩わしさが加わるのですから、見ているだけでも気が重くなってしまうのですが、最近、なんか多くなってきたような気がする記憶喪失者を描いた作品を見るとき、その大変さという意味は同じでも、老人介護的な「お世話」がない分だけ、きれいな叙情性を付け加えやすいような感じもします。

それだけにあの「恍惚の人」の最後で、舅との壮絶な戦いの日々を過ごし、精も根も尽き果てた嫁・高峰秀子が、他界した舅が残していった小鳥に、生きていた頃の老人の気配を感じて不意に感極まる場面、人格を失い切った痴呆老人のなかにも、微かに残っていた「人間性」のなごりに接し、人間としての「老人」に初めてまみえるという感動が、一層の重みで僕たちに伝わってきたように思いました。

まさに死なんとする者の、この世に生き残る者に遺すメッセージの厳かな優しさが、僕たちを深い感動で押し包むのは、それが僕たちに与えられる一種の「癒し」だったからだろうと思います。

しかし、この松岡錠司監督作品「アカシアの道」を、同じような「お約束」の「癒しのパターン」が用意されているに違いないと見縊っていると、大変なしっぺ返しを食わされて、最後には、自分のその先入観の甘さを徹底的に叩き潰されかねません。

この映画は、いささかの救いもない非情な映画です。

娘を自分の思い通りに支配しようとする厳格な母親と、その理不尽な押し付けを徹底的に嫌悪して家を飛び出していった娘の母親への反撥を抱きながら、しかし、その表裏一体としてある母への秘めた求愛も否定できないでいる娘の母との再会の物語には違いないのですが、さらにもう少し厳格にいうなら、これは母親のアルツハイマー発症を機に(もし、母親が発症しなければ、娘は母親には会いに行くことはなかったと思います)、致し方なく再会を余儀なくされた母娘の愛憎の物語とでもいうべきシビアな作品です。

そこでは、過去に負った心の傷に関わる互いの剥き出しの憎悪が時折噴出し、激しくぶつかり合い、掴み合いの喧嘩が繰り返されます。

その親子喧嘩の描写は実に壮絶ですが、しかし、その壮絶さの本当の意味は、娘に掴み掛かる母親の憎悪が、アルツハイマーの症状が進行しているにもかかわらず、その崩壊しかけている記憶のなかでも、自分に従おうとしなかった娘に対する憎悪がそのまま、誰にも消すことのできない「母娘関係」につながっている「絆」という言葉と同じ意味での憎悪だからだと思います。

記憶という器の崩壊でも消すことのできない「憎悪」の在り方が肉親というものなのかもしれないという気がしてきました。

自分に反撥し、自分から逃げて行った娘を心から憎悪し続けながら、その憎しみを抱えながら、人間が壊れていくという壮絶さかもしれません。

ここには、癒しもなければ許しもない。

窮地に追い込まれた娘が母親を殺そうとし、あるいは、殺すのを止めた理由でさえも、相手を思いやる愛情の問題とはなんの関係もないことに気づいて僕たちは愕然とするしかないかもしれません。

母は、娘に謝罪や愛情を示すひとことの言葉も発することなく記憶の能力を失います。

いまでも自分を傷つけて止まない痛ましい「過去」だけは厳然としてそこにあるのに、母親の正気のうちに、ひとことの救いの言葉を聞くことのできなかった娘は、そんな母親と生活を共にしていこうとするラストで、この映画は終わります。

母親の娘に向けられた憎しみは、そのままの状態で精神の墓場に埋められたにすぎません。

幼い頃、母親に傷つけられた少女の心は癒されることなく、都合よく記憶喪失の病の殻に逃げ込み、なおも澄ました顔で生き続けようとしている母親のそばで、仕方なく彼女の世話をしながら、娘は生きようとしています。

母親を殺すことを止めたとき、彼女のなかで何が起こったのか、その理由が「愛情」とか「憐れみ」などでなければ、どういうことが彼女を母親とともに生き続けようと決めさせたのか、僕には想像さえできませんでした。

この映画から読み取れる「母親像」を描いていくと、そこには被害妄想に囚われ、精神の均衡を失った孤独な女の姿が見えてきます。

独善に歪んだ精神と記憶をアルツハイマー症に侵され、謝罪も弁解も受けることのないまま壊れた母親を、ただ「娘」だからというそれだけで引き受けなければならないこの娘の、最後まで意志の疎通を欠いたままで続けられねばならない身の毛もよだつような絶望的な生活を前にして、あの取って付けたようにしか描かれなかった「選択」が、あながち突飛なものでもなかったのかもしれないなと思い始めてきました。
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by sentence2307 | 2007-06-16 09:46 | 映画 | Comments(1)