世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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<   2007年 07月 ( 3 )   > この月の画像一覧

力道山

少し前まで僕は、韓国映画のなかで、唸らされるような捻りの効いた素晴らしいストーリーの作品に幾度か出会い、手放しで感嘆し、感心もしてきました。

しかし、頻繁にそういう「感動」を繰り返していく不自然さに、ある疑問が自分のなかに芽生えてきたのだと思います。

それらの見事なストーリーが、実は、かつて無数に作られた歴史的「名作」群からの複雑な盗用でしかなく、その狡猾な剽窃の無節操ぶりに気がついたときのやりきれない脱力感と失望感から、それ以来韓国映画というものをマトモニ見なくなってしまいました。

ですので、この「力道山」(きっと正確には、この作品は純正の韓国映画とはいえないのかもしれませんが)は、本当に久しぶりに僕が見た韓国テイストに満ちた作品だったと思います。

そして、この作品を見ているうちに、ある興味深いことに気がつきました。

韓国映画が、ほれたはれたのラブ・ロマンスを撮っているときは、あれほど見事な(もちろん、立派な歴史的なお手本が綺羅星のごとくあったのですから、当然といえば当然だったわけですが)ストーリー展開を持てたのに、「日本人からの差別」が絡むと、冷静さを欠いたこの程度のお粗末・稚拙な物語しか描けないのかという落胆でした。

ここでは、性急な怒りを発するために、いままでのようなあの継ぎはぎのジグソーパズルのような虚飾をまとわせた体裁を整えるイトマがなかったのだとすると、この「力道山」あたりが、本音をそなえた「韓国映画」の偽らざる実力と見ていいような気がします。

ここには、「日本人からの差別」→「民族的な怒り」という紋切り型の図式が一直線に描かれているだけで、それから先には一歩も進めていない作り手の側の非力しか感じることができません。

日本人の国民的な英雄が、実は朝鮮人の民族的な英雄だったのだという主張のなかに、なにほどのものが描かれているといえるでしょうか。

朝鮮籍を隠しながら、「国民的な英雄」という日本人を演じた力道山が、実は朝鮮人の民族的な英雄だったとしても、「それがどうした」という感じからこの映画は一歩も抜け出てはいません。

そこには、強烈な個性で現実を思うがまま、したたかに生きた「力道山」が立ち塞がっているだけで、ふたつの民族から「英雄」と呼ばれることによって引き裂かれた「人間」の痛みが、もしそこにあったのだとしたら、それを窺い知ることは到底できません。

韓国側が必死になって「民族の血」を見たいと信じた部分に、そんなものとは無縁のもの、結局は「汚れた金」しか存在しなかったからでしょうか。

吉村義雄の回想録「君は力道山を見たか」のなかに、韓国・板門店を訪問した力道山が、突然上半身裸になって「ウォー」と叫んだというエピソードが紹介されています。

そのとき力道山は、北朝鮮側から浴びせ掛けられるフラッシュを十分に意識してか、その叫びは「兄さん」とも聞こえたと書かれているそうです。

そのエピソードからは、力道山が生きるために必死になって日本人を演じたように、板門店においても朝鮮人を演じたにすぎなかったのだと窺うことは、それほど困難なことではありません。

そして、そこから何が見えてくるかといえば、最早いずれの国からをも拒まれ疎外された男の、行き場のない孤独な祖国喪失者を演じながら、しかし、腹の中ではひそかに嘲りの舌を出してほくそえんでいたに違いないシタタカナ商売人がいただけなのかもしれません。

そんな安易な妄想を許すスキだらけの映画のような気がしました。

(06日韓)監督・ソン・ヘウン、プロデュース・チャ・スンジェ、河井信哉、制作・サイダスFNH、特別協力・百田光雄(リキ・エンタープライス)
出演・ソル・ギョング、中谷美紀、萩原聖人、鈴木砂羽、山本太郎、船木誠勝、ノ・ジュノ、秋山準、モハメド・ヨネ、武藤敬司、橋本真也、マイク・バートン、ジム・スティール、リック・スタイナー、梶原しげる、荻島正己、マギー、岡本麗、藤竜也
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by sentence2307 | 2007-07-21 11:35 | 映画 | Comments(0)

あすなろ物語

週刊誌の編集者をしている友人から、酒の席でこんなことを訊かれました。

「日曜日なんか、なにしてる?」

改めて聞かれると、別にたいしたことをやっているわけでもないので答えに窮してしまうのですが、無難なところで「映画でも観てるかな」くらいに答えました。

それに、この聞かれっぱなしというのもシャクですので、つい「お前は?」と切り返してしまうのですが、後からよく考えてみると、どうも彼のこの「なにしてる?」は、自分の日曜日の過ごし方を言いたいがための、僕を質問者に仕立てる誘導尋問だったフシがあります。

でも別に構わないのです、特に急ぎの用がある金曜日の夜だったわけでもなし、それに明けの土曜日も、そしてその次の日曜日も、あの「映画でも観てるかな」がすべてを言い尽くしている代わり栄えのしない休日が控えているだけの暇な体なのですから。

さて、それからが、案の定、週刊誌編集者の日曜日の過ごし方の講釈でした。

ここのところ暫く見掛けませんが、センセーショナルな事件や芸能界のスキャンダルが途絶える夏枯れの時期に備えて(それが、いつ起こるか分からないのですが、水不足の確率くらいで必ず起こるのだそうです)、週刊誌の編集者たる者は、特集「あの人はいま」の取材を日常的な心得というか、業務にしているというのです。

つまり、日曜日ともなると、鋏片手に一週間に溜め込んだありとあらゆる業界新聞から芸能雑誌を繰っては、かつての売れっ子芸能人が、いまはいかに落ちぶれて荒んだ生活を強いられているかという記事を探しては切り抜きに励んでいるというのです。

それを聞いたとき、そこまでしなければならないのかと、呆れるよりも一種の悲哀を感じてしまいました。

まさに「甘い生活」のマストロヤンニが演じていた耐えがたい空しい生活の実態がそこにはありました。

しかし、そのことを自覚していないだけ僕の友人は幸せ者かもしれません。

確かに彼の語調には自己嫌悪なんぞより、一流編集者としての威風堂々誇らしげな自負さえ感じ取れました。

ひとまず安心です。

そこで彼に僕が長い間疑問に思っていたことを質問しました。

特集「あの人はいま」のなかには確かに誂え向きの、かつての栄光を失って意気消沈して今を生きている哀れな人もいる変わりに、雑誌社の意図に沿わないような、有名無名など眼中になく貧しくとも無名でも威厳に満ちた堂々とした生き方をしている人がいるのはどうしてだろうと。

「それが困るんだよな」がまずは彼の第一声。

しかし、週刊誌編集者という職業にこのうえない誇りと価値観をもって生きていける彼に、その「威厳」は到底理解し得ないことかもしれないなと感じました。

マスコミからチヤホヤされたり、大衆から支持されなくとも、そういう虚妄にまったく価値を置かない人、特集「あの人はいま」の編集者を失望させるほど快活にその無名を堂々と生きていく人、「それが庶民の強さなのかな」と僕は、日曜日も働き続けている栄光の週刊誌編集者に語りかけました。

「ん?」

僕の言葉が聞き取れなかったらしい彼は、顔を向けて聞き返してきました。

焦点の定まらない彼のうつろな眼差しを捉えようとして空しい努力をしている自分のなかで、もしかしたら彼は聞き取れなかったのではなく、「無名に生きる庶民」など到底理解できなかったのかもしれないなという気がしてきました。

つい最近日本映画専門チャンネルで見た「あすなろ物語」に出演していた女優たちのことが、なぜか連想されたのでした。

(55東宝)監督・堀川弘通、製作・田中友幸、原作・井上靖、脚本・黒澤明、撮影・山崎一雄、音楽・早坂文雄
(配役)久保賢、岡田茉莉子、木村功、三好栄子、鹿島信哉、根岸明美、小堀誠、久保明、久我美子、高原駿雄、小山田宗徳、太刀川洋一、金子信雄、村瀬幸子、浦辺粂子、
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by sentence2307 | 2007-07-07 22:59 | 映画 | Comments(1)

風の中の牝鶏

「小津安二郎全集」には別巻として、佐藤忠男、川本三郎、井上和男の座談会「いま、なぜ小津安二郎か-小津映画の受容史」と、そして井上和男の「私的小津論」が付録として付いています。

根がズボラな自分としては、このテの付録は、大体において紛失してしまうというのがいつものパターンなのですが、この小冊子だけは全集本体の間にしっかりと挟み込んで大切に保管しています。

とても薄いので、気が向いたときには通勤の時などに携帯し、朝の電車の中で拾い読みをして楽しんでいます。

特に、井上和男の「私的小津論」(「ひと・しごと」というサブ・タイトルが付いていますが、「一仕事」ではなく「人・仕事」という意味です、まあ、最初読んだときに勘違いしたのは、きっと自分くらいのものだったかもしれませんが。)の方は、ことあるごとに繰り返し読み直している一文といえるでしょうか。

どこが気に入っているかといえば、この小論の最初に論じているのが、あの「晩春」でも「東京物語」でもなく、戦後すぐの作品で不評だったことで有名な「風の中の牝鶏」だったことにあるかもしれません。

小見出しが「失敗作」というのもなかなか素敵で、井上和男の不敵な企みというか、この挑戦的なタイトルからは、「失敗作」と断じた世評に対して、真っ向から挑みかかっていくような「覇気」のようなものが横溢していて堪らない魅力となっており、それが僕を強く引き付けた最も大きな要素だと思います。

「風の中の牝鶏」は、発表当時、多くの批評家たちから、戦争に対する懺悔的な徹底を欠いた中途半端と非難された作品です。

当時にあっては、誰もが一億総懺悔的な作品を撮ることで、軍国主義に対する一定の意思表明を求められ、この所信表明は、映画制作者にとっての一種の必須条件だったと聞いていますが、逆にこの後すぐアメリカを見舞う狂気のレッドパージ嵐、あの踏絵的な雰囲気を連想させるあたり、あながち飛躍した発想でないことが直に判明します。

それらの非難は、小津監督の過去の歴史に対する認識不足と、そしてそれらに関する不十分な自己批判が指摘されて散々に酷評された作品であるとともに、例えば小津安二郎のかなりの理解者であった野田高梧までが、小津の行く末を案じたと言われた作品でもあったわけです。

大きな時代のうねりの中で、底の浅い愚かな「自己批判」を強要された小津監督の苦笑が、まざまざと想像できますが、しかし、時代に十分に迎合できなかったことを「失敗作」というのなら、あるいは「そう」なのかもしれません。

小津安二郎という人が、かつて、いついかなる「時代」に対しても「添い寝」的に迎合したことなどなかったという意味でなら、それらの世俗を描いて、同時に世俗を超越した超俗の姿勢に貫かれた小津作品は常に「失敗作」だったと言えないわけではありません。

僕が接したある批評などは、「風の中の牝鶏」があったからこそ、かの「晩春」が生まれたのだと言わんばかりの言い様で、「風の中の牝鶏」は、そこではまるで最初から「捨石」のような失敗作扱いでした。

そして、その極め付きは、やはり小津安二郎本人が「自分の将来にプラスになる失敗作ならまだいいが、それにしては『風の中の牝鶏』は、あまりいい失敗作ではなかった」といったコメントが、この作品の評価を決定付けてしまったのかもしれません。

この「私的小津論」は、「風の中の牝鶏」の当時の不評を象徴するような二人の映画批評家(北川冬彦と登川直樹)の論調を紹介したあとで、自分の感性だけを頼りに論じた佐藤忠男の率直な映画批評に打たれ感動したいきさつが記されています。

《「あの敗戦後の日本映画で、他のどの作品が、これほどの悲痛な思いを込めて、われわれの失った何かについての苦渋と悲嘆を描き得ていただろうか・・・野原で弁当を食べるということの、素朴な健康さと、彼女が娼婦であり、それを恥じているということの間に生じるアイロニーこそが、おそらくは小津の言いたかったことのすべてなのである。それは、痛苦に満ちた風景である。」
正直言って私は愕然とした。あれだけ不評を買い、本人も野田高梧も、失敗作と断定している「風の中の牝鶏」を、誰が何と言おうと、自分の目でみつめ、小津の作意を探り、キチンと画面で指摘する佐藤忠男に、畏敬の念を覚えた。こんなにもナイーブに映画をみつめ、独自の受け止め方を発表する佐藤忠男に襟を正した。・・・小津映画を正面から、心を空しくして見つめる人がいることに、私は感動したのだ。》

(48松竹大船) (監督脚本)小津安二郎(脚本)齋藤良輔(撮影)厚田雄春(美術)浜田辰雄(音楽)伊藤宜二
(出演)佐野周二、田中絹代、村田知英子、笠智衆、坂本武、高松榮子、水上令子、文谷千代子、長尾敏之助、中川健三、岡村文子、清水一郎、三井弘次、手代木國男、谷よしの、中川秀人(72分・35mm・白黒)
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by sentence2307 | 2007-07-01 22:02 | 映画 | Comments(1)