世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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虹の女神

この映画を見る前に、既に僕はある女性から、この作品についてこんな感想を吹き込まれていました。

「この映画に出ている男って、他人の気持ちがまったく分からないイラつく天然よね」って。

映画を見て、そのデリカシーのない男とは、市原隼人演じる智也のことを指しているのだなとすぐに分かりました。

しかし、そんなふうに、そこだけを強調してしまったら、この映画が描こうとしているテーマから、どんどん遠ざかってしまうような気がします。

たぶん、智也が「そう」だったのなら、上野樹里演じるあおいもまた、「そう」だったに違いなく、つまり、このふたりのそれぞれの不器用さによって、お互いの気持ちを率直に伝え合い、受け入れ合う機会をむざむざ失ってしまう彼らの「気後れ」を理解できない限り、この映画で描かれている恋物語の核心に迫ることなどできないだろうと思いました。

智也のことを「イラつく天然」といった知人の女友達というのは、バリバリのキャリア・ウーマンです。

なにごともアグレッシブにコトを運ばなければ気のすまない彼女にとって、智也やあおいの不可解な気後れや、そしてそのふたりに寄り添ってうじうじとこの恋の顛末を描く映画でさえ、到底理解できないシロモノだったに違いありません。

世の中には、熾烈な現実を前にして、ぐずぐずとたじろぐしかスベのない、そして、後ずさりするばかりで、ついには劣等感に押し潰されてしまう女の子や、嘘やお世辞で言葉を飾ることができない気の利かない天然少年ならたくさんいます。

自分の考えをはっきり主張して、否定すべきものは否定し、多くの恋を揺ぎ無い確固たる価値観でもって退けてきたタフで自信たっぷりの彼女にとって、彼らの自信無げな物怖じしたそういう消極さがどうしても理解できない、いや、むしろ、理解しようとすること自体に生理的な嫌悪感を抱いているような彼女へ、どのように説明すればいいのか、ついたじろいでしまいました。

社会に適応できない不器用な男・智也が、自分への恋心を上手に伝えることなく死んでいった少女・あおいの思いを始めて知ったときの悲しみと喪失感を、どう彼女に説明すればいいのか、はじめから僕なんかにうまく説明できるはずもありませんでした。

きっと、智也やあおいが世間に対し、自分たちの悲しみや喪失感をなにひとつ説明することができないで、疎外されて押し潰されたのと同じように。

結局、彼女にうまく説明できないまま、むしろこの映画に対する彼女の理解を一方的に聞かされる破目になりました。

彼女は言います、こういうのって「純愛映画」っていうのよね。

自分の将来に対して、これだという確証が持てないまま、目の前の成り行きに流されていくしかない男女の、日常に飲み込まれてしまう悲恋が描かれているわけよね。

迷いの中で、智也とあおいは、もどかしいすれ違いを繰り返して、それから突然の飛行機事故でふたりに永遠の別離がきて、関係が途切れる。

だけど、「永遠の別離」の方はともかく、「思いを伝えきれない別れ」の方なら、この世界ではなにも特別なことではなくて、きっとよくあることだと思うの。

それは多くの場合、わたしたちが常にナニゲに遣り過ごしていることだと思うし。

男と女のこうした行き違いは、たとえ片思いでも両思いでも、この結果を招いた自分の「不器用さ」も含めて、そんなこと別に意識しないまま次の恋に向かうわけだけど、でもわたしたちは、前の苦い失敗の経験を生かして、口を慎むことを学んだり、相手の領域に踏み込み過ぎないように注意して、慎重にコトを運ぶことを少しずつ習得していくのだと思う。

そこで、また更に傷つけたり・られたりするかもしれないけれど、それでも少しずつ人間関係における距離のとり方みたいなものを学習していって、いずれはある「到達点」にたどり着くのだと思うのね。

人間そこまで馬鹿じゃない。ふたりが未熟だったために成就できなかった恋が純粋で、失敗を重ねながら成熟していったふたりの、やっと成立させることができた恋が不純だみたいに描くこういう「純愛映画」って、だからどうかと思うわけ。

人間は、進歩してしまう生き物だもの。立ち止まれないんだもの。

あおいの死後、遺された手紙の裏に記された彼女の抑制された思いを知らされたとき、すでに智也の方は僅かながらでも経験の学習を積んでしまっていて、あおいの思いに100%共感できたかといえば、それは疑わしいとしか思えなかったの。

それはきっと智也にとって、既にもう乗り越え、克服してしまった過去のことだから。

映画のラストで、智也があおいの手紙を握り締めて泣く場面(彼の「泣く」という行為を、とりあえず肯定的に受け入れると仮定してだけど)、あれって、あおいの不器用さを哀れんでいるというより、過去に置き去りにしてきてしまった「あおい」に対する、だから自分自身に対する贖罪の涙だったような気がするわ。

裏切りや失望や悲しみも、そんなもの全部過去の記憶の中に封じ込め、変質させ、そうした記憶に一切囚われることなく忘れてしまって、それらをただの「通過点」のひとつにすぎなくさせてしまう。

そうした生活の技術を身につけながら生きていくなかで、だんだん、少々のことなんかでは決して傷つかずに、生き延びていくことができるようになっていくのよ。技術よね。

わたしたちは悲しみを変質させたり、忘却してしまう能力で身を鎧っていくのだと思う。

智也もまたそのようにして、徐々に器用さを獲得して生きてきて、そんなときに過去に置き去りにしてきたあおいの突然の死に遭遇したんだと思うわ。

僕には、彼女の感想にもちろん異論などあるわけもありません。

「あのとき智也がそこまで考えていたかどうかは分からない」という思いを抱きながらその話を聞いていて、実は一方で別な思いに囚われていました。

いくつかの映画のシーンが思い浮かんできたのです。

打算のために過去に棄てた女への贖罪を描いた「私が棄てた女」、そうそう「アメリカの悲劇」もそうなら、「青春の蹉跌」もそうでした。

自分の若さと、そして「愛した」という行為が、いかに相手を傷つけたかを痛切に描いた「草原の輝き」もそうでした。

しかし、なによりも僕の気持ちを占領していたのは、この世のすべてを失いつくした絶望の果てに、失ったものの大きさに押し潰される男の悲しみを描いた「道」だったかもしれません。

そして、「映画の記憶」をたどる愉しさと、「解釈」を突き詰めていく虚しさの、もうひとつ向こう側でこの映画が強烈に訴えかけてくるものがありました。

この作品で、大学の映画研究会部員あおいの撮ったプライベート・フィルム「エンド・オブ・ザ・ワールド」は、物語の最後で、重要な役割を担わされています。

飛行事故により既にこの世にいない彼女に代わって、その深い思いが語られるというそのフィルムの出来が稚拙であればあるほど(そこに仕掛けられたわざとらしささえ気にならなければ)、一層、観客への訴えかけを最大限に発揮できるという不思議な相乗効果を獲得した設定でもありました。

地球最期の日に、待ち続けた愛する男が不可能を乗り越えて自分のもとに帰ってくるというシュチエーションそのものが、彼女の夢のなかでの出来事であり、やがて彼女の死によって「地球最後の日」の意味が一挙に判明したとき、同時に「世界」もまた閉じてしまうという儚く切ない内容です。

しかし、このプライベート・フィルム「エンド・オブ・ザ・ワールド」は、ここではなにも内容自体が問われているわけではありません。

冒頭、大写しされるあおいの表情の上を木漏れ日が揺らいで、眩しそうに目覚める上野樹里の美しさと儚さに、この映画のすべてが語られているような気がします。

ケータイの電源が切れると同時に、虹も、そしてすべての記憶もあっさり消滅するように。

(2006東宝)プロデューサー・岩井俊二、橘田寿宏、監督・熊澤尚人、原案脚本・桜井亜美、脚本・齊藤美如、網野酸、撮影・角田真一、藤井昌之、美術・川村泰代、音楽・山下宏明、CG:小林淳夫、VE:さとうまなぶ、スタイリスト:浜井貴子、照明:佐々木英二、装飾:松田光畝、録音:高橋誠、主題歌・種ともこ「The Rainbow Song ~虹の女神~」
出演・市原隼人、上野樹里、蒼井優、酒井若菜、鈴木亜美、相田翔子、小日向文世、佐々木蔵之介、尾上寛之、田中圭、田島令子、田山涼成、鷲尾真知子、ピエール瀧、マギー、半海一晃、山中聡、眞島秀和、三浦アキフミ、青木崇高、川口覚、郭智博、武発史郎、佐藤佐吉、坂田聡、坂上みき、東洋、内藤聡子、大橋未歩、
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by sentence2307 | 2007-12-31 13:51 | 映画 | Comments(0)
前回で中川信夫作品「石中先生行状記・青春無銭旅行」をロードムービーと書いてしまったことが、とても気になって落ち着きません。

それは、この中川作品の底抜けに明るい楽天性と、あのヴェンダースやジャームッシュが描いたひたすら陰鬱な、落ち着き場所を遂に得られず、行き場も絶たれ、あてどなくさすらい続ける不安に満ちた作品群と同じ俎上に乗せて語ること自体の困難に、ようやく気付き始めたからだろうと思います。

ヴェンダースやジャームッシュが描き上げたあてどない旅が、「行き場もなく」どころか、「帰るべき場所」そのものさえ失っている拠り所のない絶望的な人間の存り方そのものを「さすらう」という言葉で象徴したのだったら、まさに「石中先生行状記・青春無銭旅行」で僕たちが体験した楽観に充たされた呑気な世界は、ヴェンダースやジャームッシュ作品が描いた殺伐とした地獄絵とは、まったく無縁の別の世界の出来事だと思うしかありません。

この作品に登場する若いふたりの学生は、旅立ちの朝、朗らかに記念写真に納まったその出発の地に、何の疑問も抱くことなく再び当然のように帰るであろう揺るぎない価値観のなかで生きていることは、この作品の全編を覆っている無防備な楽観が示しているとおりです。

むしろそれは、「確固たる確信をもって」最初から帰還すべき場所を目指して為されたといってもいいくらいの彼らの「無銭旅行」の実態が、実は、ご近所を軽く徘徊する程度のただの「漫遊記」でしかないことに気づけば、果たして、いままで日本映画が真の「彷徨」など描いたことがあっただろうかという疑念に捉われ、あの「確固たる確信」をもった楽観が、なにに基づいたものだったのかと訝しくなるくらいです。

考えてみれば、わが国で繰り返し大量に再生産されたあの「股旅物」でさえ、結局は帰る場所が保証された感傷的な「漫遊記」と名づけるべきものであり、決して「さすらい」などとは到底言い得ないものだったような気がしてきました。

失った故郷を常に感傷的に意識し続ける喪失感のうえで為される彷徨は、観客の情感に支えられた叙情性のうえに成立していたものであって、「さすらい」とは到底言い難い、何か別のジャンルの物語だったことに気づかされるのかもしれないからです。

しかし、そのヴェンダースやジャームッシュが描いた「さすらい」の本質に迫る作品が日本に皆無だったかといえば、すぐに思い当たる作品がありました。

日本的な楽観から遠く孤立した作品、それは同じ中川信夫が監督した「若き日の啄木 雲は天才である」(1954新東宝)です。

中川監督がこの作品で描いた啄木像は、あまりに純粋すぎて、薄汚れた社会にどうしても馴染むことができない=受け入れられない天才詩人の孤独と苦悩が描かれています。

そして、この「純粋で傷つきやすい」啄木以外の庶民といえば、だいたいは上役に取り入り、媚びへつらいながら世渡りに長けた愚劣なおべっか遣いか、陰日向のあるずる賢い俗物ばかりが登場します。

まるで、ただひとり純粋な魂を持った啄木だけが、こんな愚劣な世界で生きていくことができず追い立てられるのだという理由付けのように、俗世に生きる「俗物たち」は、啄木を放逐する役を演じ、天才詩人はひたすら理不尽な被害者の顔を保ちながら、その地を立ち去っていくことになります。

観客としては、純粋で繊細な芸術家には、この俗世間で生きることなど所詮無理なんだよなあ、という感慨を強いられるのは、予想される当然の結果だったかもしれません。

そういう純粋な啄木の憤りに「共感」せざるを得なくさせられる観客は、また一方で、現実の社会においては、結構快活に生活している逞しい俗物のひとりである事実をもまた背負っているわけで、この映画を見ている僕たちにとって、この作品のいささか過激な主張によって、極端に振れることを強要される気持ちのギャップに、どうしても「後味の悪さ」は避けられなかったのだと思います。

正直なところ、ひとりの「俗物」の立場から言わせてもらえば、社会に馴染めない啄木の俗世間へのその嫌悪感は、自意識過剰の「天才」の独りよがりの幼い驕りとしか僕には見えません。

社会に適応できないからといって、なぜそれが「純粋」の証しになるのだ、よくよく考えてみれば、遅ればせながら猛烈な腹立たしさに襲われました。

庶民はみんな、結構無理して社会の一部分にもぐり込もうと自分を殺して必死に努力しているのに(まあそうするしかないので仕方がないのですが)、それを詰ろうとしているこの映画の、「天才」の無神経さと鈍感さに、むしろ憤りを感じたというのが率直な感想だったと思います。

自分が無理やり「俗物」の側に位置付けられたこと、そのために咄嗟の自己弁護へと動いてしまった気持ちの有り様に、憤りと同じ量の「後味の悪さ」があったからだろうと思います。

とにかく、この映画においては、僕たちが「社会不適応者」として啄木を放逐した見送る側の人間であり、そして、啄木と彼を写すカメラは、ともにこの地を立ち去る「放浪者」であることで、この映画が日本では稀有なロードムービーの精神を貫き保った作品であることを証明しているように感じたのだと思います。

(1954新東宝)企画・山崎喜暉、監督・中川信夫、脚本・館岡謙之助、撮影・横山実、音楽・黛敏郎、美術・鳥居塚誠一、録音・沼田春雄、照明・秋山清幸、
配役・岡田英次、若山セツ子、杉寛、本間文子、田川恵子、細川俊夫、丹波哲郎、佐々木孝丸、高原駿雄、山形勲、角梨枝子、左幸子、久保菜穂子、上田吉二郎、
1954.05.25 11巻 2,756m 101分 白黒
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by sentence2307 | 2007-12-23 08:17 | 映画 | Comments(60)
「石中先生行状記」のタイトルで僕が見た作品といえば、成瀬巳喜男が50年に撮った、池部良や三船敏郎などが出演した映画ただ一本しか知りませんでした(なお、このほかに、佐伯清監督「石中先生行状記より 戰後派お化け大會」1951年・新東宝・藤本プロ、丸山誠治監督「石中先生行状記」1966年・宝塚映画・東宝の2作品が撮られているそうです。)。

この中川信夫作品「石中先生行状記・青春無銭旅行」が、新東宝作品であることは承知していたのですが、成瀬巳喜男作品も新東宝作品だったことを始めて知って、虚を突かれた感じを持ちました、あの成瀬作品は、僕のなかでは、どう見ても「東宝作品」以外のなにものでもないと信じていたからでした。

しかも、なんと成瀬作品の方が4年も前に撮られた作品だったことなど、立て続けの驚きで、とても新鮮な印象でこの「石中先生行状記・青春無銭旅行」を見ることができました。

成瀬作品のほうが相当新しい作品と思い込んでいたあたりにも、両監督の資質を現しているなにかがあるような気がしています。

こんなふうに成瀬作品との比較でこの中川作品を見ることができたのは予期しなかった収穫で、この作品を十分に楽しめた原因だったと思います。

どう見ても成瀬作品の方は女優が大活躍する(杉葉子や若山セツ子の溌剌とした印象が強烈です)繊細で軽妙な恋愛映画だったのに比べて、中川作品の方は、女優の印象はきわめて希薄な作品で、無骨で重厚な「男性」中心の放浪映画(立派なロードムービーです)といえる映画でした。

例えば、成瀬作品の繊細さを示す象徴的なものといえば、若き朴訥な農村青年を演じる三船敏郎でしょうか。

黒澤明の初期の作品で、戦後の荒廃した闇市を殺気だって彷徨う特攻帰りの怒りに満ちたギラギラした演技の三船しか知らない僕たちにとって、この成瀬作品に登場する三船敏郎のフニャフニャな演技は、背中がこそばゆくなるくらいの落差があるものの、しかし、こうして不意を突かれたことに、果たして戸惑いだけしか感じなかったかと言えば、いやいや、その落差の違和感を大いに楽しめた作品だったと答えたくなるくらいです。

ここには、理不尽な社会に対する怒りも殺意もなく、もちろん豪快さもない、ただの「朴訥で粗野」なだけの、結婚したくとも好きな女性に上手く求婚さえできないでいる臆病な農村青年の、なんとも情けないキャラクターを演じさせるそこに、あの黒澤作品で確立された三船敏郎のイメージを、あえて捻じ曲げようとした成瀬巳喜男演出の醍醐味があるのだと感じました。

ただ、その大胆な試みが成功したかといえば、もとより別な話であると言わなければならないでしょうが。

まずは、成瀬巳喜男の芸術的嗜好に、石坂洋次郎作品と共通するなにものかがあったかどうかを考えてみる必要があるかもしれません。

さて、この中川信夫監督作品「石中先生行状記・青春無銭旅行」を見て、その魅力と限界を書いておこうと思います。

この作品にも、確かにあの「青い山脈」に通じる日本の戦後すぐの限りない自由への憧れの活力が横溢しています。

自由な旅、開放的で平等な、ひたすら明るい男女関係、いまだ旧権力が支配する封建的な残滓への痛烈な批判など、日本と占領軍との間で「民主主義」という幻想を共有できたつかの間の蜜月が描かれた記念碑的な作品といえるかもしれません。

しかし、この作品には、反面とても受け入れ難い嫌らしい部分も持っています。

村長の借金を返済できず、そのために数年の奉公を課される貧しい家の娘、しかし、その奉公とは名ばかりのもので、実は、村長に「カラダをおもちゃにされる奉公」だと母子が泣いている場面に無銭旅行の学生たちは遭遇します。

そこで彼らは同級生である知事の息子の名を騙って、知事に代わって視察に来たのだと嘘をついて不正を糾してその娘の窮地を救います。

そこまではよろしい。

その後、知事の息子の名前を騙った偽者と知れた彼らは捕まって、遅れてやってきた御曹司の本物と対決させられる場面となりました。

この場面をどう収束させるかが、監督の力量の見せ所だったかもしれません。

しかし、結末は最悪の終わり方でした。

試験のカンニングを黙っていてやるだの、女子学生に送った恋文の和歌の盗用を許すだの、夏休みの宿題を代わりにしてあげるだの、あまり芳しくない代償によって権威の後ろ盾を得ることでしかこの事態を収束できないと描くこの作品の、チカラある者へのオモネル卑屈な姿勢は、借金のカタに貧乏人の娘のカラダをもてあそぶという発想と同じ根から発しているものにすぎないとしか思えませんでした。

しかし、こんな映画でも、ただひとつだけ救いがありました。

借金のカタに村長へ人身御供にされそうになった左幸子演ずる村娘の存在です。

村長の毒牙にかかる危ういところを学生たちに救われたその娘、実は大変な好き者で、村の若い衆の誰とでも見境なくやってしまうという極め付きの「ツワモノ」だったという落ちがついていました。

それなら、わざわざ苦労して救うこともなかったのではないかと訝しく思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、さにあらず、弱みに付け込んで権力に強いられる屈辱的なSEXは拒んでも、自らすすんで選び取る自由な意思のSEXなら大歓迎という、発想のコペルニクス的大転回が用意されていたというわけなのです。

そんなに好きなら村長だろうと誰だろうと、やりまくったらいいじゃないかと、その発想に異議を唱えたくなる方は、まだまだ「民主主義」というものの深い部分の理解が足りないとかなんとかGHQからきついお叱りを受けるかもしれませんぞ。

(54新東宝)企画・山崎喜暉、監督・中川信夫、脚本・館岡謙之助、原作・石坂洋次郎、撮影・岡戸嘉外、音楽・斎藤一郎、美術・朝生治男、録音・中井喜八郎、照明・矢口明
出演者・筑紫あけみ、和田孝、左幸子、小高まさる、千秋実、東野英治郎、松本克平、相馬千恵子、宮田重雄、小倉繁、井上大助、城実穂、高橋豊子、十朱久雄、村田嘉久子
1954.08.24 9巻 2,446m 89分 白黒
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by sentence2307 | 2007-12-16 23:52 | 映画 | Comments(1)

羅生門風「最後の一葉」

寒さが身に応える季節になりました。

こうして公園の木々の枯葉が、すっかり散ろうとしているのを見ていると、きまって思うことがあります。

中学生のときに読んだO・ヘンリーの「最後の一葉」という小説です。

明日をも知れぬ瀕死の病人が、窓から見える梢の枯葉が全部落ち切ってしまったとき、自分もまた死ぬのだと気弱になっていることを知った無名の画家が、その病人を励ますために、寒い夜、そっと一枚の枯葉の絵を壁に描きつけます。

次の日から、病人はなかなか散らない枯葉を見て励まされ、自分も強く生きなければという気力を取り戻して、徐々に健康を回復していくというお話です。

健康になった青年は、いつまでも散らなかった最後の枯葉が、実は壁に描かれた絵であることを知らされ、彼を励ますためにその絵を描いた無名の画家は、夜通し寒い戸外で枯葉の絵を描いた無理がたたって、死んでしまったと知らされ愕然とします(僕の薄れた記憶だけを頼りに書いているので、間違っているかもしれません。)。

病人である自分を励ますために、自分の命を危険に晒し、あるいは犠牲にしてまで人助けに献身したこの無名の画家に、青年は感動して泣き崩れます(きっと、病気から回復した青年には、罪の意識が相当強かったに違いないという印象から、泣き崩れたに違いないと連想してしまったかもしれません。)。

当時の僕も、この物語を読んだとき、きっと、死の床に横たわっている病人を、わが身を犠牲にして助けようとした素晴らしい善意のストーリーに感動したと思いますし、また、学校でもそのように教えてくれたに違いありません。

でも、その当時から、なんかこの小説には、「後味の悪さ」が付きまとい続けていました。

自分の力で病気を克服したのだと喜んでいたら、突然、その「回復」は人の隠れた善意と犠牲のお陰だと知らされます。

「えっ!」

僕なら、このときどう思うか考えてみました。

きっと「心外だ!」と叫んでしまうかもしれません。

自分の知らないところで、頼みもしないのにそんな勝手なことをされて、それでも感動しろ・感謝しろとでもいうのか。お門違いもいいところだ。

病気から回復したのは、誰のお陰でもない自分の気力で回復したのだ。

それを横から突然「その回復は、オレのお陰さ」とかほざいて、「回復」を横取りするばかりか、さらに心理的な負担を掛けて恩を着せ、再びオレを病気にさせようとでもいう積もりか。

いやいや、そういうことなら、あの夭折の無名画家にだって言い分があるかもしれません。

なんだって野郎、周りのヤツに聞こえるように嫌味っぽく「枯葉が全部落ち切ってしまったとき、自分もまた死ぬのだ」なんて妙なことを言いやがったんだ、あの野郎、気の弱そうなツラしやがって、俺がうだつの上がらない画家だってことをあてこすったんだ。

あれじゃあ誰だって「壁に絵」の連想くらいするわな。

なにもかも全部計算づくなんだ。

あのとき周りの連中のオレを見る目は、まさに強制を伴う暴力だったさ。

やつら、絵の具に汚れたオレの手を見、その目で窓の外の枯葉と壁を交互に見たあとで、また、じっと絵の具に汚れたオレの手を見たもんだ、これじゃあ、オレが何をなすべきか、為さねばならないかくらい誰にだって分かろうってもんじゃないか。

そうね、「最後の一葉」も、ここまで語り固めてくれないと、ただの善意のストーリーじゃあ、当時の僕には到底納得できなかったのかもしれませんね。

僕の感じた「後味の悪さ」とは、きっとこのストーリーが、人の行為とその意図をあまりにストレートに受け入れなければ成立し得ないシンプルすぎる部分がもどかしくて、どうしても信じられなかったのだと思います。
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by sentence2307 | 2007-12-13 14:05 | 徒然草 | Comments(1)

浮雲

電車の中で中年の女性がふたり、ときおり下品な嬌声を交えながら声高に、多分彼女たちの会社の同僚とおぼしき妻子ある男と入社したての若い女性とのきわどい情事の噂話に興じていました。

周囲をはばからぬその大声は、自然とまわりの人たちの口を閉ざさせ、いやでもその話に聞き入らせてしまうほどの抗しがたい迫力があります。

そして、その内容はといえば、たわいもない下卑た不倫の話です。

新入社員を指導する立場の中堅社員が、つい行き過ぎて余計な「夜の指導」までしてしまったとかいう、どこにでもあるようなうんざりさせられる話なのですが、当のご本人たちは、秘密裏に浮気を楽しんでいる積もりでも、「そんなことはアタシたちにはもうバレバレさ」とでも嘲笑うように、中年女性たちは、そのバレバレの間抜けな浮気を、意地の悪い「イヒヒヒ」(本当に、こんな感じであからさまに含み笑いをしたのです)という蔑みの合いの手を時折挟んでは、その情事の噂話を楽しんでいました。

しかし、聞いているうちに、その話はどんどん発展して、ただの噂話では終わりそうにない深刻な様相を呈してきたのです。

妻に浮気がばれて、一度は詫びを入れて、彼女とは別れると約束してから何日も経たないうちに再び密かに会っていることが分かり、「すったもんだ」の末に、逆ギレした血迷った夫は、妻子を家から追い出して、代わりに若い女性を家に引き入れて暮らし始めたというのです。

その不倫のふたりは、会社も辞めてしまい、そして、彼女のお腹には既に彼の子供まで宿していたとか、次第に聞くに堪えない内容になっていきました。

まあ、あっさり書くと、なんていうこともない話ですが、その中年女性たちは、ひとつひとつの局面に、いちいち聞くに堪えない口汚いコメントがつくのです。

いつものように精神的に疲れていたら、延々と続くその話には、きっと耐えられなかったと思います。

しかし、その日は、不思議とその下劣な話に、どこまでも付いていく自信がありました。

彼女たちの話を聞きながら、ぼんやりと、成瀬巳喜男の「浮雲」のことを考えていたのでした。

富岡とゆき子の恋も、彼女たちの口に掛かれば多分同じように、こんなふうに愚劣な不倫の話としてしか語られるしかないのだと思いました。

しかし、それこそがみすぼらしく無残なふたりの恋を語る最も相応しい形のように思えてきました。

人を愛するという気持ちの取りとめのなさ、確証のないまま「愛されている」と信じる振りをする不安、結婚という制度は、きっと、「愛する」ことを、そして「愛されている」ことを、もう確かめなくともいい安定を得るための制度なのだと思いました。

安定した生活の冷めきった関係のなかで顔をそむけあって生きる対極に、愛人を追って南海の孤島でのたれ死んでいくゆき子が位置しているのかもしれませんね。

(55東宝)製作・藤本真澄、監督・成瀬巳喜男、監督助手・岡本喜八、脚本・水木洋子、原作・林芙美子、撮影・玉井正夫、音楽・斎藤一郎、美術・中古智、録音・下永尚、照明・石井長四郎、編集・大井英史、製作担当・板谷良一、特殊技術・東宝技術部、現像・東宝現像所、
配役・高峰秀子、森雅之、中北千枝子、岡田茉莉子、山形勲、加東大介、木匠マユリ、千石規子、村上冬樹、大川平八郎、金子信雄、ロイ・H・ジェームス、出雲八枝子、瀬良明、木村貞子、谷晃、森啓子、日吉としやす、林幹 恩田清二郎 馬野都留子 音羽久米子 三田照子 中野俊子 持田和代 堤康久 鉄一郎 大城政子 江幡秀子 河美智子 上遠野澄代 桜井巨郎 鏑木ハルナ
1955.01.15 12巻 3,387m 白黒
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by sentence2307 | 2007-12-11 23:44 | 映画 | Comments(0)

手紙

この作品を最初に見た印象が、感動からはほど遠いとても淡白なものだったことが意外でした。

なにしろ、ここで描かれているのは、途轍もない重いテーマです。

犯罪加害者の家族が、そのために社会や世間から不当な差別を受ける理不尽さを訴えた作品なのですから。

しかし、一方で、戦後民主主義の滓のように引き摺ってきた加害者に対する量刑の認識の甘さ(むごたらしい殺人事件を引き起こした異常な加害者に対する刑が、あまりにも軽すぎるという、裁判官と庶民感覚のズレを批判する世論の高まりもあったのだと思います)の反省から、ほどなく施行される裁判員制度や、犯罪被害者の家族が直接加害者に対面して犯罪の事実を問い質すなど、心に傷を残す被害者家族の「やられ損」の泣き寝入りの実態をどうにかしようとする世の中の動きもこの作品は視野に入れています。

物語のなかでケーズ電気の会長(ですよね、あの杉浦直樹が演じていた役です)が、
「犯罪加害者の家族に対する差別は、仕方のないことなのだ。みな犯罪を恐れており、犯罪に関わりのあるものを自分から遠ざけたいと思っているのだから。しかし、こういう現実から逃げちゃだめだ。君は、いま居るこの場所から、君を信頼してくれる人間関係のひとつひとつを自分で作り出していくしかないのだよ。」
の言葉が、そのことを端的に示しているのかもしれません。

しかし、それにしても、このストーリーだけでも、とても感動的な映画になるはずなのに、僕には全くそういった感動は伝わってきませんでした。

それが何故なのか、失望を通り越して、とても不思議な感じが残りました。

当然受けてもいい感動を、きっとなにかが邪魔しているのだ、それが何なのか、とても知りたくなりました。

この作品を見たときに、既に知っていた沢尻エリカのお騒がせ報道も、多分少しは影響があったかもしれません、いやいや、むしろあのお騒がせ報道が、この映画の本質的な部分を見えなくさせてしまったのかもしれないと思えてきました。

この「ちぐはぐ感」は、この映画が抱え持っているもっと本質的な部分にある気がします。

社会との繋がりを不当な差別によってすべて失い絶望した弟・武島直貴へ、白石由実子=沢尻エリカは諭します
「手紙には、絶望した人を勇気づけることのできるとても大きなチカラがあるのよ」と。

しかし、絶望した弱い人間を力づけることのできる「手紙」の持つ限りないチカラの意味、物語の中で語られているこの「感動的な言葉」を、この映画は、最後まで責任をもって収束しているといえるでしょうか。

この作品で語られているのは、崇高なチカラを有する「手紙」が、その一方で持っている押し付けがましさや無神経さ、虚偽で整えるタテマエ(この世で二人きりの肉親じゃないかとか、塀の中にいる弱者を救って上げられるのは娑婆に生きる肉親者のツトメだとか現実感のない出来合いの観念やこれらの言葉にどれほどのチカラがあるといえるでしょうか)によって、犯罪加害者の家族が受けた痛みの持って行き場所を、もはや手紙のチカラだけではどうにもできなくなってしまったからこそ、その肥大した負の部分を自分のなかに引き受けるために、(手紙ではなく)兄に直接会いに行くことによってしか、どうすることもできなくなったと描いていたのではなかったでしょうか。

そして、「手紙」が本質的に持っている無神経さと押し付けがましさ、ただ送りつけただけで「届いた」と錯覚してしまうその一方的な、それぞれが持っている自己満足の応酬は、人間の人間に対する接し方の本質的な部分を象徴しているような気がします。

どこにでも「届いてしまう」刑務所の検閲印が押された手紙と、そしてそれによって犯罪者の家族が受ける差別の実態をどうにかしない限り、犯罪加害者の家族が、「肉親の犯した犯罪」を引き受けて、そして乗り越えなくてはならないのだと勝手に結論づけられても、そのあまりにも重過ぎる問題提起には、ただ戸惑いが残るばかりです。

この矛盾だらけの作品を見たあと、そして、なにも解決されない(示唆さえも与えられない)最後を見せ付けられ、あるいは突き放されたあと、観客である僕たちは、世間から隔絶された塀の中にいるあの素直な「兄」と同じように、一度は見捨てられ、そしてまた手の平を返すように自分の心情の都合で擦り寄ってくる「身勝手な弟」に翻弄され続ける戸惑いのなかで、僕たち観客もまた兄と同じように、どうすることもできない懺悔と絶望の只中で、ただ両の手で顔を覆い慟哭するしかない惨憺たる気分を味わうことになるのかもしれません。

(2006ギャガ・コミュニケーションズ)監督・生野慈朗、脚本・安倍照雄、清水友佳子、音楽・佐藤直紀、撮影・藤石修、編集・川島章正
出演・山田孝之、玉山鉄二、沢尻エリカ、吹石一恵、尾上寛之、吹越満、杉浦直樹、田中要次、風間杜夫
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by sentence2307 | 2007-12-02 10:19 | 映画 | Comments(3)