世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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西鶴一代女

アルキメデスの原理とかってあるじゃないですか。

自分の名前を冠した原理とか定理とかが、数千年にわたって全世界の人々によって語り継がれるなんて、ものすごいことだと思います。

ある意味、永遠の命を獲得したのと同じことですものね。

もっとも、そんなこと、われわれ凡人には到底望むべくもないことではあるのでしょうが。

しかし、つい先だって溝口健二の「西鶴一代女」についての佐藤忠男の解説を読んでいて、天啓のように、映画に関するひとつの大きな発見をしたのです。

これは、決して単なる「思いつき」などではありません。

いかなる物語も、この方程式に当て嵌めさえすれば、すべからく「傑作」を生み出すことが出来るに違いないという完全無欠の方法論というか、「原理」といえるものだと確信さえ持ちました。

「西鶴一代女」といえば、ヌーヴェル・バーグを語るときには、必ず引き合いにだされる作品です。

まずは、アンドレ・バザンの映画理論を見事に例証した作品として、そして、ジャック・リヴェットが「西鶴一代女」の意図的な模倣として「修道女」65を撮りオマージュを捧げたこととして、それから、ジャン・リュック・ゴダールが、「軽蔑」63のラストのカットを、カメラを海へ向かってパンさせることで、「山椒大夫」のラストにオマージュを捧げたということも有名なお話ですよね。

そこで、佐藤忠男の「西鶴一代女」についての解説に戻ります。

佐藤忠男は、溝口作品を論じる前置きとして、原作の「好色一代女」について、こんなふうに書いています。

「(好色一代女は)元禄時代のひとりの尼さんの生涯の回想という形式で語られているが、この時代における情事と売春の諸形態のカタログ的な総まくりである」と。

これは、とても示唆に富む文章でした。

一対一の肉体の絡み合いを描いたリアルなら、その描写には、同時に描写の可能性をも封じてしまう限界を自ら抱え込んでしまうのではないかという思いは、自分としては、ずっと以前からありました、例えば「ポルノ」という限界です。

大島渚の「愛のコリーダ」を見たとき、あれが性描写の限界を極めることによって国家権力に挑みかかった営為だったとしても、その先にはいったい何があったのか、いや、「ない」ことも含めて考えるべきという問題意識を持ちました。

(事実、それほどの収穫があったとは、長い時間を経たいま、それは考えにくいものがあると思います)

「ポルノ」であろうとすれば、つまり、人間の欲望を満たす対象物であろうとする限り(いわゆる「なんとかネタ」というやつですが)、代償に作品自体のオリジナリティを放棄し、作家自身も傷つき消耗することも覚悟しなければならないだろうなという思いを持ちました。

つまり、「ポルノ」であろうとするかぎり、それ以上の作品には、どうしても成り得ない宿命のような限界があるのだと思うのです。

それでは、その限界を打破するためには、どうすればいいかというのが、僕の発見した「原理」です。

それがつまり、「諸形態のカタログ的な総まくり」です。

いろいろなケースがあるでしょうから、一概にはいえませんが、かいつまんで言ってしまえば「遍歴」とか「巡礼」というものです。

「売春の諸形態をカタログ的に総まくり」しただけの「西鶴一代女」という作品が、人間存在の深遠にある虚無を赤裸々に表現しえたのは、有為転変・その描写の繰り返しにあったからだと思います。

優れた作品には、必ずこの「諸形態のカタログ的な総まくり」要素が潜んでいます。(ほんとか?)

いやいや、少なくとも「遍歴」とか「巡礼」的な要素は潜んでいるはずです。

今村昌平の「エロ事師たちより・人類学入門」とか、クリスチャンマルカンの「キャンディ」とか。

どうでしょう?

酒の席で、ある友人に、この原理の発見のことをそっと話してみました。

そして、話の最後に、こう付け足しました。

「ここだけの話だけどさ、この方法論の特許を取って、ひとつ大儲けしてやろうかと思っているってわけ」

それを聞いた友人は、なに言ってんだという呆れ顔で、こういいました。

「それってさあ、つまりロードムービーってことだろ、もうずっと以前に下火になった。」

「(驚愕)・・・」

(1952児井プロ=新東宝)製作・児井英生、監修・吉井勇、監督・溝口健二、監督補佐・荒井良平、助監督・内川清一郎、脚本・依田義賢、構成・溝口健二、原作・井原西鶴『好色一代女』、撮影・平野好美、音楽・斎藤一郎、美術・水谷浩、録音・神谷正和、照明・藤林甲、編集・後藤敏男、特殊技術・新東宝特殊技術、特別出演・文楽座三ツ和会、人形・桐竹紋十郎、太夫・竹本紋太夫、三味線・豊沢猿二郎、振付・井上八千代、琴・萩原正吟
出演・田中絹代、山根寿子、三船敏郎、宇野重吉、菅井一郎、進藤英太郎、大泉滉、清水将夫、加東大介、小川虎之助、柳永二郎、浜田百合子、市川春代、原駒子、毛利菊枝、沢村貞子、近衛敏明、荒木忍、上代勇吉、高松錦之助、水野浩、志賀廼家弁慶、坂内永三郎、玉島愛造、石原須磨男、横山運平、出雲八重子、平井岐代子、金剛麗子、草島競子、津路清子、国友和歌子、衣笠淳子、林喜美枝、大和久乃、松浦築枝、
1952.04.17 15巻 4,055m 148分 白黒
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by sentence2307 | 2008-01-26 17:05 | 映画 | Comments(8)
いままさに受験シーズンたけなわというところですよね。

自分の「習性」について、この時期になると必ず思うことがあります。

それは、きっと、かつて受験勉強で苦しめられた(考え方とかの)習慣が心の傷みたいに残ってしまったためかもしれないなと、最近になって気がつきました。

雑多に存在するものを整理し、体系づけして関連付け、一挙に覚え込んでしまおうとする整理のテクニックだけが身についてしまったようで、なにかの切っ掛けがあったりすると、「条件反射」的にというか、まるで病気の症状みたいにそれが表われ出てしまいます。

でも、この習性は、仕事では大いに重宝しているという、いい面もあります。

この観念の方程式に嵌ってしまうと、まるで際限のない妄想の連鎖の輪に囚われて、ある考えが次から次へと怖いみたいに勝手に発展・増殖を始めてしまいます。

「オレって大丈夫か」という感じです。

例えば映画です、似通ったテーマの作品を幾つも思い浮かべては共通点を探し出し、頭の中で串刺しにして延々と楽しむという観念の遊びみたいなものに浸りこんでしまうのも、そのひとつの兆候なのだろうなと気がついたのでした。

そういえば、このあいだも、この観念のトリップというやつを経験しました。

というのは、数日前にBS2でウイリアム・ワイラーの懐かしい作品「噂の二人」を放映していて、そのことを番組欄で知ったというのが、そもそもの発端でした。

このワイラー作品は、とても好きなタイプの作品です。

何度も繰り返しては見ているのですが、今回もまたしっかりと録画をしておきました。

しかし、何度見ても、可憐なあのオードリー・ヘップバーンが演じるにしては、シリアスすぎて余裕のない息詰まるような役なので、どう考えても彼女には似つかわしくないのではないかという気がして仕方ありません。

それくらい重厚すぎる作品です。

なにしろ、ストーリーというのが、根拠のない同性愛の噂を立てられた二人の女教師が、世間の偏見と固定観念に押し潰されていく物語なのですから。

シリアスな作品が得意な演技派の俳優なら、それこそハリウッドにはゴマンといるはずなのに、なにもよりによって、お姫様役がトレードマークのオードリー・ヘップバーンを起用しなくともいいのではないかという気がしました。

こういう言い方をしてしまえば、シャーリー・マクレーンの方だって相当なミス・キャスキかもしれませんが。

なにしろ「ローマの休日」でオードリーの魅力を余すところなく描き出した名匠ウイリアム・ワイラーですから(「噂の二人」は、「ローマの休日」からちょうど10年後に撮られた作品です)、きっと彼女の可能性を十分に見据えたうえでの起用だったに違いありませんが、なんだかもうひとつ納得できませんでした。

それなら、「ローマの休日」以外の彼女の主演作で、最もオードリーらしい華麗な作品といえば、なんだろうと考えてみました。

すぐに思い浮かんだのは、ビリー・ワイルダーの「昼下がりの情事」57です。

この作品だったら、僕だって躊躇せず、ただちに賛成のモロ手を上げられる作品です。

プレイボーイのゲーリー・クーパーに恋したウブなヘップバーンが、浮名をながすクーパーと対等に渡り合おうとして(彼の気を引こうとして、ですが)、精一杯背伸びをして「すれっからしの女」の振りをしてみせる純情な娘を演じていました。

プレイボーイのゲーリー・クーパーの方は、そんなふうに無理して背伸びをしているけれども、本当は世間知らずな娘の健気な思いに、すっかりまいって恋に落ちてしまうという捻ったストーリーによって、ヘップバーンの魅力を更に際立たせることのできた傑作でした。

しかし、僕の妄想は、ここから突然飛躍します。

「昼下がりの情事」が、なんだか小津安二郎の「晩春」にとてもよく似ているような気がしてきたのです。

「晩春」は、やもめの父の世話のために婚期を逸し掛けている娘を案じた父親が、一計を労して(父の再婚話をほのめかして、娘に結婚を決意させます)娘を結婚へと押しやる寂しさを描いた小津安二郎のピークを示した作品といわれています。

この作品の中で僕がもっとも印象深かったセリフは、娘・原節子が、結婚をすすめる父・笠智衆に向かって「だけど、私がいっちゃったら、おとうさん、どうなさるの」と必死に抗弁するセリフです。

ここでの娘は、なにも「お父さんなんか、私がいなけりゃ、なにも出来ないじゃないの」と言っているわけではありません。

「『わたし』という存在のかけがえのなさを、お父さんに分かってほしいの」と訴えているのだと思います。

それはさらに、「そんなことしたら、私たちはどうなるの」と言っているようにも聞こえます。

娘は、この「現在」がふたりにとって至上の状態だと信じています。

父親だって、きっとそうに違いないと信じています。

いまのままで十分満足なのに、この「ふたりだけの世界」を否定したり、壊したりする必要がいったいどこにあるのだと訴えているのです。

現在父との生活に充足している娘にとって、あえて幸福である現状を壊してまで「結婚」するということの意味が、理解も納得もできません。

どういうものかも分からない不安な「結婚生活」に賭けることの無意味を父親に訴え掛けています。

しかし、父親の方はどうでしょうか。

この「幸福」な状態の先にあるものが、やがてこの世にひとりだけでとり残されてしまう娘の痛ましい孤独な行く末に結びついていくことは、近い将来当然予想されることです。

娘の人生を、自分の都合だけで、そこまで引っ張っていって、彼女を不安な目に会わせることはできないと父親は考えています。

娘を早く結婚させてあげることが親として自分が為さなければならない務めだと考えています。

さて、この「晩春」と「昼下がりの情事」の、いったいどこに共通点があるのかという話に戻ります。

モーリス・シュバリエが演じる父親の方は、私立探偵という職業柄、クーパーのスキャンダルは知り尽くしており、娘には手を出さないでくれと頼みにいくくらいです(クーパーだって、オードリーを心から愛しているので、納得して彼女のために別れる決意をします)。

ですから、この時点では、結婚させたいと願っている笠智衆の父親と、「させたくない」モーリス・シュバリエの父親とは、まったく正反対の立場に置かれていると思われるかもしれませんが、別れの駅のラストシーンで、走り出す列車を追いかけ続けるオードリーを、どうしても別れられないクーパーが、彼女を車内に引っぱり込んで抱擁するのを柱の影から見つめているモーリス・シュバリエの心情(娘に幸福になってほしいという願い)からすれば、笠智衆の父親の「寂しさ」にかなり接近しているはずなのに、しかし、この二人の父親の思いがぴったりと重なったとは、どうしても思えないのです。

その決定的な違いがどこにあるのか、少し考えてみました。

答えは、すぐに思い当たりました。

オードリーがクーパーを心から愛しているように、原節子が結婚するであろう相手を同じように愛しているかといえば、そこにはとても深刻な疑問が残るかもしれません。

「昼下がりの情事」を見たあとの爽快感に比べたら、「晩春」を見たあとの重苦しさの差は、あまりに明確です。

きっとそれは、「昼下がりの情事」という巧みに作られたこのラブストーリーには、映画職人ビリー・ワイルダーの人生観などという厄介なものが少しも描き込まれていなかったからだと思いました。

同じような筋の物語を繰り返し撮り続けた小津安二郎は、「世の移り変わりと共に、人もみな変わってしまうものなのだ」という、ただそれだけを繰り返し撮り続けた映画作家だったと思います。

そして、繰り返し描かれることで、そこにあったはずの物語に奉仕するただの「効果」でしかなかった詠嘆や哀歓の調子が崩れ、やがて「変わって欲しくない」という小津安二郎自身の、まるで肉声のような核の部分にある「祈り」が見えてくるような気がします。

小津安二郎という人は、身内に限らず、周囲の人々をとても愛し気遣い大切にした人だったそうです。

それだからこそでしょうか、それらの人々との繋がりを失うということを、とても怖れ悲しんだように感じられました。

小津安二郎が、映画で描きたかったことに、それほど多くの物語のパターンを必要としなかったということは、映像作家として、とても驚くべきことだったと思いますが、しかし、それよりも、プログラムピクチャー全盛期の当時の映画界にあって、ただひとり自分の信条、つまり、愛する人々が周囲から次々と去り、死に別れ、生き別れる悲しみと喪失感と孤独とを、ひたすらに描くことを許された特権を与えられたことの方が、いまから考えると、よほど驚嘆すべきことだったように思われます。
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by sentence2307 | 2008-01-20 15:21 | 映画 | Comments(1)

ただ、君を愛してる

「虹の女神」が描いていた、女性からの一途な思いに相手の男が気づかず、その気持ちを上手に伝えることができないまま、なんらかの障碍により、その恋が突如断ち切られるという女性の側の悲恋を描いた映画なら、もうひとつ「ただ、君を愛してる」がありました。

「成長すると死ぬ」という宿命的な遺伝性の病気を抱え持ち、成長を止める薬を飲むことでかろうじて延命を更新してきた少女・静流が、ひとりの青年・誠人に出会って恋をして、彼に愛されるに足る成熟した魅力的な女性になりたいという切なる思いから「成長を止める薬」の服用を止め、やがて「成熟した美しい大人の女性」になることと引き換えに、彼女自身の命も縮めてしまうという、なんとも皮肉で切ない寓話的な物語です。

恋のために躊躇なく自分の限られた余命を放棄するというこの理詰めのラストシーンに泣かされてしまった僕にとって、その筋立ての強引さに対する、つまり無理やり感動させられてしまったことに対する割り切れない腹立たしさみたいなものも残りました。

それは、この理詰めによって泣かされるという「感動」の仕方=させられ方が、多くの場合、何日も経たないうちに色あせてしまうことを、少しは映画を見てきた経験から知っている積りの僕にとって、「感動」よりも、むしろその「腹立たしさ」の方に興味があったからかもしれません。

この作品にどうしてこうも馴染めないのか、その原因を考えてみると、幼さを演ずる理由が最後で判明する宮崎あおいだけは例外として、それ以外の脇を固めている俳優たちのなんともワザとらしく稚拙な演技と、そして彼らがそれぞれ個人として描き分けられていないことに対する苛立ちみたいなものがあったからだと思いました。

例えば、こんなシーンがあります。

みゆきに誘われて彼女のグループの一員となった誠人が、ようやくグループに馴染んだ頃、仲間から、静流と親しく付き合っていることを暴かれ、それを皆の前でネタにされてからかわれる場面です。

「どんな子?」という問いを受けて、「髪はバッサバサで、いつも鼻すすっているあの変人女だ」と皆で嘲笑するその場面は、誠人と静流の劣等感で結ばれたふたりだけの関係が、始めて他人の前に晒され、その悪意に満ちた揶揄を誠人がどう受けるか、その時の誠人の表情をどう作り上げるのか、みゆきを含めた3人の思惑が初めて交錯する重要なシーンで、演出力と演技力とが試される場面だったと思います。

常に塗布しなければならない皮膚病の薬の匂いを気にして(その匂いが自分だけの思い込みにすぎなかったのだとしても、だからこそ、他人の悪意ある視線に晒されることの恐れと根深い怯えは、深刻な「劣等感」につながっていたはずです)人の群れから距離をとって生きてきた誠人にとって、親しみを感じ始めていた仲間から、突如手の平を返すように、痛い部分を厳しく突かれるその場面は、極端にいえば、「グループの一員」であるかのように思い上がっていた誠人が、その仮面を剥ぎ取られ、実は彼が「変人女・静流」の側の人間なのだと、仲間からの意地の悪い薄笑いのなかで試される重要な場面でもあったと思います。

そして、この場面は、それから少しあとのシーン、「ふたりだけの森」に不用意にみゆきを連れて行った誠人の無神経さを、静流が激しく詰る場面とひと続きになっていることを考えると、もう少し誠人の気持ちの振れようを、戸惑いと不安とによって明確に描いてもよかったかなという思いもありました。

この物語からは、誠人が「彼ら」に対して、どういう位置にいようとしていたのかが、全然見えてきません。

親しげに擦り寄っていきながら、そのへつらいを見透かされてピシャリと拒まれることが、誠人にとってどういうことなのか、その戸惑いが描かれていない代わりに、だからといって、からかわれることへの屈辱感が描かれているわけでも、差別されることへの憤りが描かれているわけでもありません。

むしろ、誠人=玉木宏が、「彼ら」と同じような薄笑いを浮かべているだけの演技しか示すことしかできなかったことへの薄気味悪さとやりきれない苛立ちが、僕のこの映画への感想のすべてだったかもしれません。

しかし、実は、この「腹立たしさ」には、もうひとつの思いがありました。

自分の容姿を嘲笑された静流が、誠人に、何故あのとき自分を庇ってくれなかったのかと泣いて抗議する悔しさを吐露する場面があって、やがて「好きな人の好きな人を、好きになる」と宣言し、みゆきに近づいていってから、誠人とのキッスに至るまで、いやいや、そのあとの突然彼の前から姿を消すまでの一連の静流の行為が、「成熟した美しい女でなければ誠人=男たちに愛されるわけがない」という思い込みに基づいて為されたものであったことを思うと、そのあまりにも古色蒼然たる価値観に囚われた物語の在り方に、憤りというよりも、むしろ憐憫と深い悲しみを感じました。

あるがままの現実を受け入れ、あるがままの自分を誠人に打ち明けていれば、気持ちの行き違いを乗り越え、ふたりだけで過ごす大切な時間をもう少しだけ共有できたかもしれないのに、静流は、誠人の知らない遠い場所でイタズラに時間を浪費し、迫りつつあった死を彼に知らせることもなく、自分の死後、手紙を誠人にむけて発送し続けようという奇妙で悪趣味な意味不明のタクラミを仕掛けただけの話なのです。

それが生涯の終わりに最愛の人に対して為すべき最上の行為なのかどうか、この世に遺してゆく最愛の人にするにしては、なんとも不可解で無神経な仕打ち以外のなにものでもないのではないのかという腹立たしさは、どうすることもできませんでした。

(2006東映)監督・新城毅彦、製作・樫野孝人、坂上順、千葉龍平、亀井修、渡辺純一、脚本・坂東賢治、原作・市川拓司、音楽・池頼広、撮影・小宮山充
出演・玉木宏、宮﨑あおい、黒木メイサ、小出恵介、上原美佐、青木崇高、大西麻恵
2006年10月28日
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by sentence2307 | 2008-01-15 22:11 | 映画 | Comments(0)