世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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先日、会社のお偉いさんから、こんな「御触れ」がありました。

個人情報保護法関連で、今度の会計監査の時に、個人情報保護の管理についても監査があるかもしれないから、各課の責任者は「点検表」を完成させ、提出しておくようにというのです。

いままで経験したことがない監査だけに、どんなものになるのか予想もつきません。

きっと、パスワードの管理とか、顧客情報ファイルを鍵のかかるロッカーに収納して、しっかり管理しているかなどを滞りなく説明するくらいでいいのかとも考えたのですが不安は消えません。

いつまでもこんなふうに落ち着かないのは、そもそも一人で考えているせいだと気がついて、アフターファイブに第2課の統括をしている林さんを、ガード下の飲み屋に誘いました。

しかし、お互い初めての経験を前にしているという条件は同じなわけで、相手を喜ばせるような目新しい情報の持ち合わせなどあるわけもなく、結局、同じ状態なのだという、きわめて消極的な共通認識を得ただけだったのですが、そのときの林統括の表情が、心ここにあらずみたいな感じが気になりました。

それはアタカモ「そんなこと、たいした問題じゃないよ」といわんばかりの雰囲気ですので、どうしたの?と訊いてみました。

林さんは困惑した表情で、こんな話をしてくれました。

2課の女の子が、最近朝の電車で痴漢にあって以来、電車に乗るのが怖くなってしまい、ここのところずっと欠勤している、このままでは彼女退職するかもしれない、というのです。

「痴漢か」と相槌をうった僕たちの会話が、普通なら、ここからは当然彼女の傷ついた心のケアの心配とか、欠員となった場合の補充の見当とかが話題になるのでしょうが、映画オタクの二人の会話はひたすら迷走し、いつの間にか夢中になって周防正行監督の傑作「それでもボクはやってない」について議論していました。

ほどよい酔いが回り始めていたとはいえ、部下の身を気遣う気持ちなどこれっぽっちもない、実に不謹慎な話ではありますが。

林さんは言いました。「これは、映画以前の作品だよな」

当然悪い方の評価であることは咄嗟に分かりました、これは穏やかではありません。

近年では稀な、日本映画を代表する傑作といってもいい評価の高い作品です。

もし批判の理由に納得できないものがあったり、単なる理不尽な言い掛かりの類いだったら、邦画を心から支援している僕としては、それこそ「あなた、お言葉がちょっと過ぎますよ」くらいは言っておかなければなりません。

林さんは、この徹底した調査によって作られた現代刑事司法の不備を告発するこの映画のストーリーの余分なところをどんどんそぎ落としていけば、最後に残るのは、痴漢をされた傷ついた女子学生が、勇気をふるって「犯人はこの人です」と指差したために、被疑者が「それでもボクはやってない」と落胆のなかで抗議する部分に直結してしまう(最後には、ともに傷ついた被害者同士が、ともに憎しみ合うような構図が残されるために、その評価ほどには、与える感動は薄い)と言うのです。

その「そぎ落とした部分」というのには、当然、この映画の主要なテーマである、錯誤を犯した刑事司法が、その誤りを自ら軌道修正できないまま、開き直るように却って過誤を増幅・暴走させて冤罪を生み出していくという揺ぎ無い権力機構を描いた危うい部分も含まれています。

「それは暴論ですよ、林さん」この映画から、冤罪を生み出すという部分を外してしまったら、この作品そのものが成り立たなくなってしまいますよ。

「そこなんです」と林さんは言いました、だからこの映画は、「世の中には、まだまだこんな権力濫用の酷い事実がある」とか「悪を断罪すべき裁判も、時には誤って冤罪を生み出す」という告知(それを「告発」といっても一向に構いません)しただけのドキュメンタリーか、もしくは産業映画ではあっても、「ドラマ」では決してない、それが評価の割に観客に感動を与えられなかった理由だと林さんは言いました。

妙な間が、気まずい沈黙に変わってしまわない前に「でも、やっぱりこれって傑作なんでしょう?」と僕が聞くと、「たとえ感動できなくとも、それでも傑作ってあるんでしようか」と切り替えされてしまいました。

しかし、作品の出来はどうあれ、周防作品の中に小津安二郎作品の影を探す楽しみは残っています。

まず、主人公・金子徹平の住むマンションの管理人(竹中直人が演じています)の名前が、あの突貫小僧の「青木富夫」でした。

それから山本耕史の演じる徹平の親友の名前が、初期の小津作品に出演していた「斉藤達雄」です。

留置場で薄気味悪く徹平に言い寄る同房者(本田博太郎が演じています)の名前が「母を恋わずや」や「浮草」で印象的な演技を見せた「三井秀男」です。

徹平が「現行犯逮捕」されたときの悪意に満ちたお節介な目撃者(田口浩正が演じています)の名前が「月田一郎」

徹平の無実を知る目撃者(唯野未歩子が演じています)が、「その夜の妻」の「市村美津子」です。

それから、徳井優が演じた留置担当警察官の名前が、「出来ごころ」に出ていた「西村青児」でした。

大森南朋が演じていた取調べの担当刑事・山田好二は、「東京暮色」で警官役を演じていました。

そして、山田刑事の上司・和田精二(田山涼成が演じています)は、「東京暮色」で判事を演じた宮口「精二」の役名「和田」からの合成名くさいです。

そして、徹平を痴漢犯人として警察官に引き渡した駅員(石井洋祐が演じていました)平山敬三は、「東京物語」で大坂志郎が演じていた三男と同じ役名でした。

徹平の母親・もたいまさこの役名・金子豊子は、「東京物語」で杉村春子の長女・金子志げと、尾道の話し好きの隣家の主婦を演じた高橋豊子の、「東京物語つながり」の合成名ではないでしょうか。

しかし、どう足掻いても、こじつけられないのが、瀬戸朝香演じる弁護士・「須藤莉子」と、光石研演じる痴漢冤罪事件の被告人の「佐田満」でした。

明らかに「岡田茉莉子」と「佐田啓二」に繋がるキイワードがどこかにあるはずなのですが、ついに分かりませんでした。

ザンネン!

(2006東宝)監督脚本・周防正行、製作総指揮・桝井省志、製作・亀山千広、関口大輔、佐々木芳野、音楽・周防義和、撮影・柏野直樹、編集・菊池純一
出演・加瀬亮、瀬戸朝香、山本耕史、もたいまさこ、田中哲司、光石研、尾美としのり、小日向文世、高橋長英、役所広司、竹中直人、正名僕蔵、小日向文世、柳生みゆ、鈴木蘭々、野間口徹、光石研、清水美砂、大和田伸也、益岡徹、田中哲司、唯野未歩子、田口浩正、大森南朋、田山涼成、本田博太郎、尾美としのり、北見敏之、高橋長英、石井洋祐、中村靖日、野元学二、本田大輔、矢島健一、大谷亮介、菅原大吉、
143分
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by sentence2307 | 2008-05-31 14:23 | 映画 | Comments(0)

朝の並木路

最近、成瀬巳喜男の1936年作品「朝の並木路」でちょっと不思議な体験をしたので、ここに書いておこうと思います。

因みに、このタイトルは、「あした・の・なみきみち」と読むのだそうですね。

この作品のタイトル「朝の並木路」があまりに内容と合致しないので、このタイトルに出会うたびに、いまだ見てない成瀬作品と思い込んで、繰り返し見てしまいます。

見始めれば、ああこの作品か、既に見ているということがすぐに分かるのですが、それからまた数年経つと、依然として内容と乖離したこの孤立したタイトルに釣られて、改めて見てしまうということを繰り返しています。

なぜこのタイトルが自分の中で内容と一体になって定着しないのか、同じことを繰り返すたびに堪らない苛立たしさをもてあましていました。

何度も繰り返して見ているために、内容は隅々まで覚えてしまっているのに、そのタイトル「朝の並木路」とは、どうしても結びつきません。

たぶんこのタイトルから真っ先にイメージするのは、どうしても「爽やかな朝の散歩」くらいのイメージしか思い浮かばず、本編の息詰まるような水商売の女性の生活などイメージできなかったからだろうと思います。

それにP.C.L.のネーミングの「無意味さ」は当時から随分話題になっていたということですから、その辺の影響もあったかもしれませんが。

しかし、それなら、その作品の内容があまりに希薄なので、印象に残らなかったのかといえば、そんなことはありません。

地味な田舎の暮らしに耐えられず、華やかな東京の暮らしに憧れて上京してきた若い女性・千代を待っていたものは、上辺だけの華やかさとは裏腹な過酷な都会の現実です。

カフェーの女給(使うのが憚られる言葉ですが、確か映画の中でもそのように使われていたと思うので使います)くらいしか仕事がなく、また、そういう場所に憂さを晴らしに来る客たちの、それぞれ屈折した怠惰な閉塞感に囚われ、自分は一生こうした暮らしから抜け出せないのではないかと足掻き迷う女性の気持ちが、成瀬巳喜男らしい繊細な感覚で描かれています。

当時の批評家たちから、「巧妙な演出だが、自分の限界に留まって安全から脱しない低回趣味」とか、「線の細い感情の針で作られていくものには脆弱な興味があるが、逞しい情熱が感じられない」(水町青磁)などという成瀬監督の資質を無視したところで、無い物ねだりのような評価が下されていたらしいのですが、しかし、この作品には、脆さや弱さだけと片付けるには済まない、もうひとつの踏み込んだ迫真の描写があるように思いました。

それは、何度か見ているうちに、どうしても理解できないラスト・シーンにあるのではないかと気づいた部分です。

千代は、結婚をぼんやりとですが意識するくらい好感をもっている客の小川(大川平八郎が演じています)が、突然転勤を告げにきたとき、別れ際に彼が渡していった連絡先のメモを破いて川に捨ててしまいます。

何度見ても、このシーンの千代の本心がどうしても分かりませんでした。

一度は結婚まで夢見た相手です。

連夜カフェーに通う金を捻出するために、小川が公金を着服するという不吉な連想(その不安は、具体的に「夢」を見るということで現されています。)があったとはいえ、それはどのようにも否定出来るただの夢にすぎません。

僕は、幸か不幸か繰り返しこの場面を見ているうちに、このシーンの重大さに気づき始めました。

小川が転勤を知らせに来たとき、千代の心の中には、求婚されるのではないかという期待があったはずです。

少なくとも、小川から転勤先に一緒に来てくれないかくらいは告白されるのではないかという期待を、千代が抱いてもおかしくないような描かれ方はされていました。

しかし、求婚も転地への同伴の勧誘も受けないまま、連絡先だけを手渡された千代が、やがて、そのメモを破り捨てるという行為にでるのは、作劇上から見ても、あまりの飛躍ではないかと思っていました。

「なぜ千代は、小川の残したメモを破り捨てたのだ」

この恋は始まったばかりで、どう発展するか分からない状態であるのに(別れ際、小川の未練を残したような態度を見れば、まだまだ結ばれる望みは残されているとみていいと思います)、小川との連絡の余地を断つという性急なその行為の意味が、僕にはどうしても理解できませんでした。

あの不吉な「夢」を見たことを受けて、カフェーの女給という生活から抜け切れない自分が、小川の重荷になるという恐れから、愛する彼のために関係を断とうとしたのかという考えは、彼が会いに来たことを知った時の彼女の嬉しそうな態度からすれば、まず否定していいように思います。

だから尚更、大切な「連絡先」を破り捨てる行為が、唐突で不可解だったのだと思います。

でも、なぜそれを「唐突で不可解」な行為と感じたのか、きっと、この千代の気持ちを理解できるまで、映画の神様は、僕にこの作品を繰り返し何度も見ることを課したのかもしれないという思いが、突然湧いてきました。

そこには、それまでの千代なら、自分を今の境遇(貧しさ)から救ってくれるかもしれない小川の連絡先を大事に懐に仕舞い込むシーンが当然用意されているものと思い込んでいる僕たち観客の先入観を裏切り、「唐突で不可解」な破り捨てるという行為を置いた成瀬巳喜男の意図があるのだと確信しました。

「小川」にこだわっている限り、彼女のその行為の意味は決して理解できない、たとえそれが「小川」でなくとも、「男」に揺れ惑う自分の「あてどなさ」を、千代はあの行為によって否定したのではないか、「女の自立」という強い決意表明ほどではないにしても、いま自分の居る場所から、遂に都会での新たな仕事が見つからず、たとえカフェーの女給のままでいることになっても、自分ひとりの力で生きていこうという、千代のさり気ない決意のシーンだったのではないかという気がしてきました。

(1936P.C.L.映画製作所、東宝映画)演出脚本・成瀬巳喜男、撮影・鈴木博、音楽・伊藤昇、美術・北猛夫、録音・山口淳
出演・千葉早智子、大川平八郎、赤木蘭子、清川玉枝、清川虹子、伊達里子、夏目初子、御橋公、山口ミサヲ、三島雅夫
1936.11.01 日本劇場 7巻 1,639m 60分 白黒
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by sentence2307 | 2008-05-18 09:45 | 映画 | Comments(6)

涙そうそう

映画を見たあとですぐ、その物語のどこかに不自然なところはないか、辻褄の合わないところはないかと、無意識のうちに「あら探し」を始めているようでは、心の底からその映画に感動したとはいえないかもしれません。

しかし、もっと始末が悪いのは、その映画に浸り切ることができないまま、まったく別のことに気持ちが流れてしまうことをどうにもできないでいることの方がもっと深刻かもしれませんね。

この作品「涙そうそう」は、僕にとってそういう作品でした。

実は、この作品を見ているあいだ中、ひとつの小説の題名を思い出そうと必死になって考えをめぐらせているうちに、結局映画が終わってしまったような感じです。

その小説というのは、吉行淳之介(たぶんそうだったと思います)のごく短い作品で、友人からうまい鰻屋があるから一緒に食べに行こうと誘われ、付いていくと、その店の表は固く閉ざされひっそりとしていて裏からしか入れないようになっている。

友人とともにその裏から店に入り、陰気な夫婦がやっている鰻を食べて帰るというストーリーでした。

別れ際に友人が「どうだった、うまかったろう」と訊き、「あの夫婦は、実は本当の兄妹なんだぜ」最後に明かされる「近親相姦と鰻」という生々しい取り合わせが衝撃的な印象を残す小説だったのですが、しかし、なによりも強烈な印象を残したのは、畜生道に堕ちた兄妹が世間の好奇の眼に晒され、身を隠して生きていくしかない陰湿陰鬱な「近親相姦」という生々しい事実でした(しかし結局小説の題名を思い出すことが出来ませんでしたが)。

このイメージと比較すると、そのとき、まさに見ていたこの作品「涙そうそう」が、致命的に欠落していたものが、はっきりと分かるような気がします。

お互い好き合いながら、一緒になれないと躊躇う彼らのその理由は、ただ「兄妹」であるという障碍があるにすぎない、白日のもとで明るく語られるこの作品の「障碍」は、あまりにも快活でシンプル過ぎ、「これは違うだろう」という違和を感じたのだと思います。

このテーマの本当の重さは、二人を取り巻いている社会のタブーや閉ざされている状況をもう少し広く描き込まなければ、決して見えてこないものがあるように思いました。

妹を愛することを躊躇うことが、「自制心」という次元の問題にすぎないと描かれたことで、この映画がとても中途半端でグロテスクな,そして、無神経な作品になってしまったような気がします。

この作品に対して、どうしても違和感を拭うことができないのは、この深刻なテーマを、「なんていう問題じゃない」みたいにあっさりと処理しようとした姿勢にあったのかも知れません。

率直に言って「近親相姦」とは何なんだと言えば、それは欲望のままに、身近にいる肉親を優位な立場を利用して性交渉の対象にしてしまう弱肉強食的な「身勝手さ」にあるいかがわしさから逃れることは到底できないからだと思います。

こういう行為を的確に描くためには、きっと特別な描かれ方をしなければ観客に伝えることは極めて難しい、映像作家としての資質と姿勢が問われるテーマだと思いました。

同じようなテーマを扱った作品として、僕たちが見ることのできた映画でいえば、実相寺昭雄の「無常」がありました。

あの実相寺昭雄の「無常」に発することができたのと同じ問いを、この「涙そうそう」のなかに向けて発しようという試みは、しかし、残念ながら、どうしても出来ませんでした。

見終わって、アクロバットめいたこんな妄想に振り回された後で、しかし、なぜこの物語が、兄が妹を気遣う素朴な映画であってはいけなかったのだろう、というごくシンプルな疑問にたどりつきました。

妹を守るという母との約束を果たそうと懸命になる兄の、夢破れる失意の素朴な物語など、最初から考えられるはずもない作り手の屈折した思い込みがそこにはあって、その蹉跌こそは現代という歪んだ時代を象徴しているのかもしれないなと感じられました。

(2006「涙そうそう」製作委員会(TBS、アミューズ、東宝、ホリプロ、TBS R&C、MBS))製作:八木康夫、監督:土井裕泰、脚本:吉田紀子、助監督:猪腰弘之、プロデューサー:濱名一哉 那須田淳 進藤淳一、ラインプロデューサー:坂本忠久、音楽:千住明、撮影:浜田毅、美術:小川富美夫、照明:松岡泰彦、録音:武進、編集:穂垣順之助、記録:鈴木一美、製作担当:森太郎、主題歌:「涙そうそう」(ビクターエンタテインメント)、作詞:森山良子、作曲:BEGIN、唄:夏川りみ、挿入歌:「三線の花」(インペリアルレコード)、唄:BEGIN、挿入歌(居酒屋のシーン):「太陽(てぃだ)」(未リリース曲)、作曲:東風、製作協力:フィルムフェイス
出演・妻夫木聡、長澤まさみ、麻生久美子、塚本高史、小泉今日子、中村達也、広田亮平、春名風花、平良とみ、森下愛子、大森南朋、船越英一郎、橋爪功、
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by sentence2307 | 2008-05-17 08:22 | 映画 | Comments(0)

片付けられない女

三人分のメモを見比べながら、講演会の報告書「ウサギと亀」をどうにか完成させたのですが、まとめの作業をしながら、少し気になったことがありました。

ふたりのメモには記述がなくて、ひとりだけが書き留めている事柄があったのです。

早速彼に電話を掛けて、そのわけを聞いてみました。

「ああ、それですか。講演された先生が、本題から脱線するからメモは不要とわざわざおっしゃったのですが、つい書き留めてしまいましたので。」

ほかのふたりはメモがなかったよと伝えたら、彼はすこし慌てていました。

書き留めたこと自体は、いかにも彼らしい律儀な判断だと感心しましたが、しかし、神経質な先生なら、自分がそうまでクギをさしたのだから、それでもメモをとっている観客を見たら、あるいは不快感を持たれたかもしれません。

その辺は彼にヤンワリと注意しました。

堅苦しいみたいですが、相手の気持ちが分からないようでは、営業なんてできるものではありません。

普段なら、ここは若手社員の教育のためにはいいチャンスなので、ヒトクサリ「人の道」の訓戒をたれるところですが、やめました。

というのは、その余分に書かれたメモというのが大変面白かったからでした。(本論がつまらなくて、余談の方が余程楽しい先生というは、よくいらっしゃいますものね)

メモの冒頭には「片付けられない女」と書かれていました。

その横に「ADHD」とあり、矢印で「注意欠陥多動性障害」につなげてあります。

付近には、「発達障害」「行動障害」などと、ごちゃごちゃ書いてありました。

ここまでなら、なんだか小難しそうな感じがしますが、難しいのはここまでで、あとは箇条書きで具体的な事柄が列挙されているだけでした。

それがとても面白いのです。

*注意力が散漫で落ち着きがない。(小学校の頃に、よく言われ続けました。)

*強い貧乏ゆすりや早口で喋る。(自分に自信がないからだと担任の先生に言われたものです。いまとなっては詮無いことですが「余計なお世話だ」と言い返せばよかったと思います。こういうことのひとつひとつが、知らず知らずにトラウマになってしまっているんですよね。どうしてくれるワケ?)

*思いついたことを黙っていられず、つい喋ってしまう。(授業中だぞ。少しは黙っていられないのかと、「このお!」とチョークを投げつけられたこともありました。いまなら、サッと受け取ってしまうのですが。)

*相手の話が終わる前に、さえぎって喋ってしまう。(なかなか友達ができなかったわけが分かり掛けてきました。)

*不注意、気が散りやすい、忘れ物をしやすい。(年中です。つい最近も携帯を落としてしまいました。「信じランナイ」と会社の女の子から冷笑を浴びせられました。)

*先延ばし。(期日までにしなければならない仕事や用事があるのに、目先のことや自分の興味のあることに気を取られて、すぐに取り掛からなかったり、つまらない言い訳をつけて先延ばしにする、そう、これはまさに「自分」です。)

そのあとは、加速がついたみたいに、惨憺たる言葉群が(「僕の性格が」といってもいいくらいなのですが)、記されていました。

*だらしない、整理整頓ができない、ミスが多い、刺激が多い道を選ぶ、物を無くしやすい、金銭の管理ができない、遅刻が多い、不器用、危険な行為をする、仕事が完成しない、退屈に耐えられない、気分がかわりやすい、気ぜわしい、

そして、ここまでの箇条書きがすべて大きく丸で囲まれて、先ほどの「ADHD」に矢印でつなげられています。

「症状が重くなると対人関係がうまくいかず、摂食障害やリストカットにまで及んでしまうこともある。」

いままでは僕に対する罵りの言葉でしかなかったあれら忌まわしい言葉の数々は、僕の人間性の欠陥に起因すべきものではなくて、すべてはその「病気」のせいだったんですね。

いままではただ闇雲に「だらしない自分」を責めていたわけですから、随分可哀想なことをしてくれました。

病気なら仕方ないじゃないですか。

そうなんだ、そうなんだ、なんだか自分が解放されたような近年にない爽やかな気分です。

このメモの執筆者の好青年に、なんかご馳走しなくっちゃな。
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by sentence2307 | 2008-05-10 21:53 | 徒然草 | Comments(0)

ウサギと亀

連休が途切れた日に、若手を対象とした社員研修がありました。

わざわざ連休のサナカにどうして研修なんてするのか、会社への忠誠心を試そうとするタクラミではないかなんて勘繰りたくなりますよね。

どちらにしても、なんともいじましい踏み絵的な企画で、取締役の顔色をうかがう小心な中間管理職たちが、額を寄せ合っていかにも考え出しそうな姑息なアイデアです、会社も本当にツミなことをヤラカシます。

まあ、自分たちとは仕事の系列がことなるので、ウチラとは関係ないとばかりに知らん振りを決め込んでいたのですが、その講演会の聴衆が淋しいので臨時に人を出してくれないかと各部に要請がありました。

フタを明けたら、出席者が意外に少ないので、講師の手前、各部から三人出すようにとの割り当てです。

頼まれれば、浮世の義理というやつで断れませんので、最年少の三人を拝み倒して出席してもらうことにしました。

講演が終わるまで会場に座っていればいいのですが、しかし、午前中のたった一時間弱の拘束とはいえ、その日の休暇がまるごと台無しになってしまうという仕事です。

正午を回ってしまっては、もうどこにも出かけることなんかできません。

こんな役は御免こうむりたいのですが、「申し訳ないけれども、これも仕事なら仕方ないじゃないか」と若い連中をどうにか説得しました。

罪滅ぼしに上への報告書は自分が作るから、講演の要旨をメモしてきてくれないかと依頼しました。

講演していただく先生は、W大学の心理学の先生で、演題は「楽観主義でいこう」というのだそうです。

聞く前から、「講演」の内容が、なんだか予想できてしまえる演題ですが。

おそらく、最近テレビのCМでよく見かける椎名拮平の「プラス思考でいこう」というのと、きっと大差ないのだろうなと思います。

翌日、講演の要旨を書いた三人のメモが届けられました。

さてさて、連休をお釈迦にさせてしまった三人の若手に対する罪滅ぼしに、軽く報告書でもでっち上げますか。

三人のメモをまとめると、こんな感じになります。

アメリカの心理学学会のセリグマン博士(きっと、偉い人だと思います)によると、悲観的な考え方の人は、それが一時的なことなのに、「いつも、そうだ」「ずっと、こうなんだ」というふうに永続的に考えてしまい、ひとつのことがうまくいかないと、総てを駄目だと思ってしまうというのです。

これを悲観の永続化と普遍化といい、一方、楽観的な人の考え方は、「今日のこと」に限定して話を広げないようにするそうです。

そして、楽観主義とは、「希望」のことなのだそうですヨ。

だからといって、いつも楽しくて満ち足りていて、なにも苦しみがないということではない。

そうではなく、失敗したり、苦しい経験をしても、それは「行動」によって必ず変えることができる、そう信じる信念を持つことが楽観主義である、大切なのは、壁にぶつかったとき、自分が自分にどんな説明をしているか、無意識にしている自分との対話に気づくこと、自分が物事を悲観的に考えがちだと気づいたら、それを直すために自分への反論を練習することで、その考え方の習性はかなり前向きに変えることができる、というのです。

これだけなら、あまりにも抽象的すぎて、よく理解できないかもしれない、理解を容易にするために、講師は「ウサギと亀」の喩え話をしてくれたそうです。

この物語は、油断大敵の教訓があるが、そればかりではない。

亀が勝ったのは、別に相手がウサギだったからではない。

要するにウサギは亀を見て走ったが、亀は自分のゴールを見つめ続けたから勝ったのである。

つまり、亀が勝ったのは、別に相手がウサギだったからではなく、相手がだれであろうと、ただ自分の目標に向かって、自分の道を、全力で、休まず、歩んだだけだ。

そういう人が最後に勝つということである(そうかなあ?)。

目標や進む道が決まったら、それに向かって進む一歩一歩の大切さ、ときには、ウサギのようなスピード感が必要なときもある(やっぱり必要なんだ)が、目標には楽観主義で進むことも大切なことなのではないか。

三回読み返しました(もっと読み返すべきだったのでしょうか)。

別に要約は間違っていないと思います。

亀は亀で必死に歩いただけで、ウサギの油断というやつは予想外だったわけだからなあ、どう脚色しても、この例え話が本論とうまくつながりません。

こんなメチャクチャな話、いくら報告書の名手といえどもお手上げです。

まあ、仕方なく、三人のメモに共通して書かれている「プラス思考を保つための行動目標8箇条」なるものを書き出してお茶を濁すしか手はありませんでした。

総局長もそこまでは読まないだろうと祈るしかありませんが。

1.ありのままの自分を受け入れる。
2.仕事を楽しむ。
3.仕事の結果について考えすぎない。
4.どんな仕事でも一生懸命取り組む。
5.自分が役に立つことは何かを考え実行する。
6.他者よりも優れた点を見つける。
7.他人が持っていない自分の良さを知る。
8.自分の才能が発揮できるポジションを知る。

それにしても、こんな「ウサギと亀」で、営業成績あがるかな?
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by sentence2307 | 2008-05-06 15:07 | 徒然草 | Comments(0)

天使の恍惚

それほど素晴らしい出来とも思えない若松孝二作品「天使の恍惚」が, 作られてから30年以上も経過してしまった現在,この映画が描くようにテロが「お伽話し」では済まなくなった情況のなかでも、それほどの困難も伴うことなく、一般人も結構頻繁に鑑賞することが出来るのは,この作品が「ATG」という特異な条件によって作られたことと,それに加えて「日本映画専門チャンネル」で「ATGアーカイブ」という企画があり、結構定期的にATG作品をオン・エアーしていることと無関係ではないような気がします。

そういう幸運な条件がなければ,必ずしも繰り返し見るに耐え得るような先見性や映画的な価値(長い時間の経過にも淘汰されることのない自立した作品性)を有しているとは決して思えないこの作品の「厚遇」の在り方に,ちょっと複雑な思いを抱いています。

極めて「政治的なメッセージ」を持ったこの映画が,もし作られた当時の本来の「政治性」を現下の日本でも有効に反映させる姿勢で臨めば,現実的なテロルにいつ遭遇するかもしれない逼迫している現状からすると,きっとこんなふうに普通に目にすることは困難だったかもしれません。

政治的でない部分で守られ続けているこのきわめて過激な政治的メッセージを有したスキャンダラスな映画は,「表現の自由」と「公開の自由」を保障・許容した寛容な社会において,こんな具合に「垂れ流し」的に冗長に上映され続けることによって、むしろ逆に本来の毒を失い,「不出来で滑稽な晒しもの」として、却って大衆から失笑をかう存在にまで貶められている印象さえ受け、結局それは「反面教師」であることさえ無様に失った作品でしかなくなってしまったような感じさえしました。

まるで、高名な大女優が、有り余る金に飽かして、世間知らずの息子を勝手し放題・放蕩し放題に甘やかし、放任した結果、取り返しのつかないまでに増長させ、やがて薬物に手を染め中毒になり、ついには司法の裁きを受け獄に下るというあの芸能スキャンダルを彷彿とさせるものがあります。

この映画が、映画中で語られる有名な言葉
「問題は,水準なんかで語るべきではなかった,力量の標準なんてなんの意味もなかったのよ。
本気で孤立できるヤツ,自分の体だけで闘えるヤツ,孤立を恐怖して何が出来る。
孤立した精鋭が世界を変える,世界をつくる。
市民なんか何時まで経っても市民でしかない。
大衆なんか何時まで経っても大衆でしかないじゃないか。
孤立した精鋭が世界をつくるんだ。」

これは、警察へのテロを続けていた彼らの反権力闘争が、やがて大衆からの支持を得られないと分かった混迷と絶望のなかから、ついには大衆に向けて爆弾を投擲し、銃口を向け、あるいは大量の爆薬を密かに体に撒きつけて炸裂させるために幸福そうな人ごみのなかに何食わぬ顔で紛れ込む、という錯乱を正当化する論拠となった神経症的な「笑えない」言葉だと思います。

そして,支持はおろか対峙すべき明確な問題をさえ日本の中で見出すことができなかった彼らは,浅間山荘やテリアビブへと追い詰められていったのだと思います。

皮肉なことにピンク映画の尻尾を断ち切れずにずるずると引きずっていたこの作品が、「性」と「革命」という退路を確保して、あるいはそれが、この作品を「延命」に導いたのかもしれません。

あるいは、「エロ」よりも「政治」の方が高尚だという偏見も一役かったのかもしれません・・・。

(1972若松プロダクション・日本ATG)企画・制作・若松孝二 葛井欣士郎、監督・若松孝二、助監督・沖島勲、脚本・主題歌・作詞・出口出(足立正生)、撮影・伊東英男、撮影助手・川島義和・ 和光晴生・高間賢治・橘満、音楽・山下洋輔トリオ、作曲・秋山ミチヲ、録音・杉崎喬、効果・秋山実、照明・磯貝一、照明助手・前田基男、福井通夫、編集・出口出(田中始)、製作主任・岩淵進、製作進行・山田力、効果・福島効果グループ、スチール:中平卓馬、現像・東映化学
出演・吉沢健、横山リエ、秋山ミチヲ、荒砂ゆき、山下洋輔トリオ(山下洋輔、森山威男、中村誠一)、足立正生、本田竜彦、大泉友雄、三枝博之、小山田昭一、小野川公三郎、和島真介、岩淵進、布川徹郎、渡辺亜人、古旗吾郎、神野ジーナ、大橋真理、ゲーリー・ドーレン、ダーロー・エヴァンス、松島真一、柴田秀勝、吉田潔、
1972.03.11 90分 パート・カラー
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by sentence2307 | 2008-05-04 18:33 | 映画 | Comments(629)

女の座

成瀬巳喜男作品に見られる小津安二郎の影響について、例えば具体的に「母は死なず」と「父ありき」の相似について考えていたとき、実はもう一組同じような印象でぼんやり思い浮かべていた作品がありました。

小津監督の「東京物語」と、1962年に成瀬監督が東宝で撮った「女の座」です。

なぜ、そう感じたかというと、それは、この映画のラストシーンで老夫婦(奇しくも笠智衆と杉村春子が演じていました)が、親の財産をめぐって牽制し合っているそんな子供たちより、むしろ、健気に尽くしてくれる血の繋がりのない長男の嫁の方に情愛を感じ、これからも一緒に暮らしていこうと語り掛ける場面を見ながら直感的に感じただけのことなのですが、しかし、この成瀬作品「女の座」に対する当時の批評を読んだとき、そのあまりの素っ気無さというか、お座なりな評価に少し驚いた記憶があります。

それは、この作品を、スター総出演の総花的で大味な平凡な作品である、「大スター総出演」という会社側の要請を受けて、成瀬巳喜男は、俳優それぞれの顔を立てることに腐心した妥協的で、多くの出演者を捌くために無理やり設定した不自然な「大家族映画」にすぎないというのです。

しかし、そのとき、この作品評が、本当にこの作品を精密に吟味検証したうえでの批評だったのかという疑問が湧いてきて、その取って付けたような常套句の羅列に少し腹が立ちました。

「スター総出演」が前提にあるということだけで(「そんなスターの顔見世映画が、いいわけがない」という先入観だけで)作品の出来を判断し、お約束のように「総花的」(東宝のスターシムテムへの妥協と奉仕の産物ということなのでしょう)と一蹴し、そして当然のごとく「大味で平凡な作品」と結論づけたのかと思うと、見かけの「ラベル」によって映画の出来を決めて掛かるという旧態依然とした悪弊というか、褒め上げるか貶すかというスタンスが見る前から既に出来上がっているような批評の仕方に疑問を感じました。

この作品のダイナミズムは、後妻の母親(杉村春子)の前に、先の婚家先に残してきた子供(宝田明)が、突然成人になって現れるところから、一挙に出演者各人各様のそれぞれの立場が緊張状態に高揚するところにあると思います。

後妻である母親には、息子の突然の出現は嬉しい反面、婚家への遠慮もあり、それに、別れて以来ずっと、息子のことなど省みることもなかったという負い目もあるものの、母親に会ってすぐに借金の申し出をするような、なにやら良からぬ素行の息子に危惧を感じるものの、その借金の申し出を拒絶できないでいます。

母親は、そのことで煩悶しますが、「後妻」という立場から、夫や義理の娘たち=「他人」ばかりのこの大家族の誰にも到底相談ができないなかで、ただひとり相談できるのは嫁の芳子(高峰秀子)だけでした。

そんなふうに母と息子の橋渡しをする嫁・芳子は、次第に「息子」の暗い過去を知ってしまう立場に立たされ、「息子」に思いを寄せる長女・梅子(婚期を逸している義姉という状況です)の結婚の意志を、母親の手前理由は明らかにできぬままに阻むという役割を担わされます。

さらに厄介なことには、当の息子の方は芳子に思いを寄せているという事態を錯綜させるオマケまでついているので、まるで三竦みの状況を呈しています。

この三者の緊張関係が極点に達し、一挙に爆発して家族の絆の脆さが露呈したとき、母親も嫁も、この家族から疎外された存在であることが明らかにされることを受けて、前述の老夫婦からの共棲の申し出が描かれるのですが、しかし、それは「東京物語」に描かれていた最後の「救い」に匹敵するだけのものでは到底ありませんでした。

実のところ、「大家族」から疎外された者同士、せめて肩寄せあって生きていこうという追放者の苦々しい印象しか残りませんでした。

思いは結局、あの「東京物語」の最後に示された「救い」の印象とはいったい何だったのだろうという所に落ちていきます。

血の繋がった子供たちの、身勝手で冷ややかな行為や仕打ちに、諦念しながらも老父は、しかし子供たちに対して憤りをみせたわけではありません。

あの場面は、そんなふうには描かれてはいない。

老父は、ただ黙し、時の流れに任せて何もかもをただ遣り過ごそうとしているかのように見えます。

しかし、一方、老親のためにできる限りの誠意を尽くした嫁が、その深い思いのなかでかすかに揺れた「迷い」の告白したとき、老父は彼女に対してひたすらな「赦し」を与えています。

繰り返される懺悔に対して、繰り返し「赦し」を与えているのです。

「東京物語」におけるこの清浄な場面を繰り返し見続けているうちに、僕たちもまた浄められ、赦されるような境地に導かれるような気がします。

やはり、成瀬作品「女の座」もまた、残念ながら「東京物語」とは、似て非なるものなのだなあと実感しました。

(1962東宝)製作・藤本真澄 菅英久、監督・成瀬巳喜男、助監督・川西正純、脚本・井手俊郎 松山善三、撮影・安本淳、音楽・斎藤一郎、美術・中古智、録音・藤縄正一、整音・下永尚、照明・石井長四郎、編集・大井英史、スチール・秦大三、製作担当・井上卓之、現像・キヌタ・ラボラトリー、
配役・笠智衆、高峰秀子、司葉子、星由里子、淡路恵子、草笛光子、三益愛子、杉村春子、北あけみ、丹阿弥谷津子、宝田明、団令子、三橋達也、小林桂樹、夏木陽介、加東大介、大沢健三郎、大村千吉、関田裕、音羽久米子、一の宮あつ子、潮田満、三田照子、塩沢とき、坂部尚子、坂部紀子、小西ルミ、香川良介、大塚国男、谷晃、西条康彦、三浦敏男、河辺昌義
1962.01.14 8巻 3,041m 白黒 東宝スコープ
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by sentence2307 | 2008-05-02 21:56 | 映画 | Comments(1957)