世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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<   2008年 09月 ( 7 )   > この月の画像一覧

ガラスの鍵

長い間、僕の録画テープのストックの中に「ガラスの鍵」というタイトルの作品がありました。

いつ、どういう経緯で録画したのか、全然記憶にありませんし、そもそも、このタイトルから判断して、たぶんむかし見たジェーン・バーキンの出演作だろうぐらいに勝手に思い込んでいたこともあったと思います、それならなにも慌てて見ることもないかという気持ちで、そのままにしていたのかもしれません。

この「慌てて見ることもないか」という思いも、自分にしてみれば、それなりの理由があってのことだったのですが。

そして、こんな感じで、録画してもズボラを決め込んで見ないままほったらかしている作品が結構あり、これもまたそのうちの一本として、また、既に見ている作品だという思い込みも加わって、そのままにしていたのだと思います。

しかし、つい最近、偶然ジェーン・バーキンの出演作品の紹介記事の中に「ガラスの墓標」(ピエール・コラルニック監督、1969年)というタイトルの作品があるのを発見して、自分の長年の錯覚に気が付きました。

僕の持っているあの作品が、ジェーン・バーキンのものでないとすると、あの「ガラスの鍵」とは、いったい何なのだという疑問にぶち当たったのです。

なんとなくタイトルのイメージからすると、山口百恵の東宝作品のような感じもするしなあ、などと暢気なことを思いながら作品を見始めて、びっくりしました。

これは、アラン・ラッドが主演しているダシール・ハメット原作のハードボイルド映画でした。

しかも、こんなにクールでハードな美しいアラン・ラッドを見るのは始めてです。

男優を賞賛するのに、「美しい」などというこの手の形容詞を使うのは、ちょっと気が引けますが、「チャイナタウン」1974のジャック・ニコルソンにも同じような賞賛の誘惑を感じたことを思えば、なにも不思議なことではないかもしれません。

たしかあの作品もハードボイルド映画でしたものね。

そして、この初対面の「ガラスの鍵」を知らなかったというショックは、おそらく、いつの間にか自分には映画のことなら知らないことはないという驕りと思い上がりを、見事に叩き潰されたショックだったと思います。

さて、そんなわけで、慌ててこの作品の情報を掻き集めることにしました、とにかく「知るはイットキの恥」ですものね。

この1942年に作られた市長選をめぐる悪徳政治家たちとその黒幕の陰謀と抗争をスキャンダラスに描いた「ガラスの鍵(The Glass Key)」は、かつて1935年にジョージ・ラフト主演、フランク・タトルの監督で撮られた大ヒット作品のリメイクなのだそうです。

アラン・ラッド主演のこの作品では、無理やり敵同士を結び付けてしまうラストの、唐突にして強引な結末の持って行き方には「本当かあ?」という違和感もありましたが、それにしても、たった7年の間隔しかないリメイクとは、当時にあっても随分と性急な印象を与えたに違いないと感じられてなりません。

しかし、それは逆に言えば、当時のアラン・ラッドの人気の凄さ(前作「THE Gun for hire」1942が大当たりし、大ブレイクしたラッドが一気にスターダムにのしあがりました)が、パラマウントを躊躇なく自社の誇る大ヒット作品のリメイクに踏み切らせた、つまり大袈裟ではなく、ジョージ・ラフトを継ぐクールな殺し屋としてのニュースター「アラン・ラッド」に社運を託したと素直に見たほうが、なんだかすんなり納得できるような気がします。

ある本には、当時のアラン・ラッドをこんなふうに賞賛しています。

「よれよれのトレンチコートと目深に被った中折帽子というスタイルは、ボガートも有名だが、ラッドのそれは圧倒的にサマになっている。
映画の中でラッドは、ほとんど笑みを浮かべない。
喋るときもかすかにしか口を開けず、低音で呟くように喋る。
眼光は鋭く相手を見据え、いつでも拳銃を抜けるようにさり気なく身構え、撃たれる前に相手を撃ち殺すために、相手の底意を見透かすような冷笑を絶えず浮かべている。」

このように描かれるアラン・ラッドのクールな演技は、現在に至るまで多くの作品に多大な影響を与えたとされており、例えば、「THE Gun for hire」1942の冒頭、殺し屋アラン・ラッドが仕事(殺し)に出掛ける準備をしている場面、粗末な部屋で黙々と拳銃の点検をしているところに迷い込んできた野良猫にミルクをあげる孤独な姿は、多くの映画人に深刻な影響を与えたといわれました。

例えば、ジャン・ピエール・メルビルは、後年「サムライ」でアラン・ドロンの演技に、このシーンを反映させて、アラン・ラッドへのオマージュとしていることは、つとに知られているところです。

そして、フィルム・ノワール史上の傑作とされる「殺し屋稼業」(フランク・タトル監督1942)、「ガラスの鍵」(スチュアート・ハイスラー監督1942)、「ブルー・ダリア」(ジョージ・マーシャル監督1946)の三本でコンビを組んだこのアラン・ラッドとヴェロニカ・レイクは、ボガート=バコールと並ぶ40年代を代表するカップルといわれました。

その成功の要因が、このふたりが、双子の兄妹のように似通ったスタイリッシュな無表情にあって、その喜怒哀楽の感情を失った無表情が、そのまま現実への深い絶望感を表しており、当時厳しい現実に打ちひしがれていた観客の共感を得たと見られたからでした。

焦燥にかられたようなあのハンフリー・ボガートの苦渋に満ちた無表情と比べると、この双子の兄妹ヴェロニカ・レイクとアラン・ラッドの無表情は、まるでファッション・ショーのモデルたちのような現実離れした優雅さがあり、厳しい現実に苦しんでいた観客に現実逃避の一時の安らぎを与える魔力があったのかもしれません。

しかし、当時戦時下にあった日本では、残念ながらヴェロニカ・レイクとアラン・ラッドの40年代の隆盛をリアルタイムで知ることはできませんでした。

それに、遅ればせながらに見たあの「シェーン」によって、僕たちがアラン・ラッドの真価の一端をわずかにでも知り得たといえるかというと、それは随分と疑問だと思うしかありません。

一説には、40年代にフィルムノワールのスターとして輝いたアラン・ラッドの集大成をジョージスチーブンス監督が、西部という舞台を借りて見せたのだといわれています(ラッドの人気は、当時すでに下降線をたどり始めていました)。

ですので、「シェーン」は、いわゆる正義が悪を懲らす伝統的な西部劇ではない、殺し屋が殺し屋を撃ち殺すことによって、自分もまた、善良な市民には無縁の、つまりシェーンが敵の殺し屋を「撃ち殺す」ことによって、自分もまた社会に溶け込めないアウトローの同類であることを自己証明してみせてしまったのだ、だからあのラストは、どうしても市民社会から背を向けて立ち去らねばならない、いわばフィルムノワールだったのだという説です。

なんだか「勝ったのは、わしたちではない。あの百姓たちだ」みたいですよね。

「世界映画人名事典・男女優編」のアラン・ラッドの項には、その晩年についてこんなふうに書かれています。

「1964年1月29日、アルコール中毒の鎮静剤の飲みすぎによって、死亡。当時、数年間というものは、極度のアルコール中毒にかかり、1962年にはアクシデントといわれたが、銃で怪我をするという事故を起こしていた。」

この文章からうかがわれることは、夢破れた絶望のなかにあったラッドが、度重なる自殺未遂の試みと失敗の果てに、やっと成功に漕ぎ付けたクールでハードな服毒自殺というふうに読めてしまいます。

(1942パラマウント)監督スチュアート・ヘイスラー、原作ダシール・ハメット、脚本ジョナサン・ラティマー、撮影セオドア・スパークル、音楽ヴィクター・ヤング、
アラン・ラッド、ヴェロニカ・レイク、ブライアン・ドンレヴィ、ボニータ・グランヴィル、リチャード・デニング、ジョセフ・カレイア、ウィリアム・ベンディックス、エディー・マー
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by sentence2307 | 2008-09-28 08:39 | 映画 | Comments(272)

天然コケッコー

この「天然コケッコー」を見た当時、僕の友だちが、こんなことを言っていたのを思い出しました。

「この作品って、ずいぶん説明不足みたいなところがあるよな」と。

実はそのとき、僕も彼と同じ印象を持ったのですが、そう思ったことが別に不快ではなかったので、その場では彼に同調しませんでした。

しかし、ちょっとショックなその彼の言葉は、意識していなくとも、いつまでも僕のなかに残っていたのだと思います。

それは、この作品が、確かに「説明不足」という印象でありながら、それが決して不快ではなく、むしろ「心地よさ」に通じているという奇妙な感覚です。

そして、この作品を二度目に見たとき、その訳が、なんとなく分かってきました。

これは、あくまでも、そよの視点、そよの感性で描かれたことだからだ、と。

ここでは、彼女が「見たい」と思ったことだけが描かれていて、「見たくない」と思ったことは、目をそらすようにしてしか描かれていないのだ、と。

例えば、父親が大沢の母親(元は恋人の関係だったらしく、付き合っていたけれども振られたという事情もあるらしいのです)と浮気しているのではないかという疑い(それらしい現場も彼女は見ています)を、映画は「それ以上」追及しようとはしません。

しかし、その物語の中絶は、「説明不足」という印象を与えるどころか、まるで親の浮気という事実を知るのが怖くて、かえって、慌てて目を覆ってしまう思春期の少女の動揺する感性を瑞々しく表現していることに気づかされます。

また、いよいよ卒業という日、約束のキスを大沢から求められたそよが、逆に、自分から大沢に仕掛けることによって、彼を戸惑わせ動転させる場面(そよのキスには「愛がない」と大沢に言わせています)がありました。

「されるより、自分からしてみたい」や「不安なことは、あえて知りたくない」と思うこのそよの感覚・そよの視点・少女のリアリズムを忠実に再現できたからこそ、この作品が思春期の瑞々しい少女の感性を僕たちにリアルに伝えることができたのだと思います。

生前、黒澤明監督は、よくこんなことを言っていました。

自分は、映画を作るに際して、たったひとことで語れてしまえるようなシンプルなストーリーを目指している、と。

百姓が侍を雇って野武士と死闘を繰り広げる話とか、余命幾許も無い下級官吏が、自分の生きていた証をこの世に残すためにあらゆる圧力を撥ね退けて児童公園造りに残り火のように最期の生命力を燃え上がらせる話とか。

そんな具合に、この「天然コケッコー」を、もし、ひとことで言い表すとすると、どんなふうになるだろうかと考えてみました。

静かにゆっくりと何かが始まろうとしていながら、一方で、静かにゆっくりと何かが終わろうとしている物語、でしょうか。

これではあまりにも抽象的すぎるかもしれません。

そよと大沢との距離が、穏やかな田園風景につつまれて、一年の時間をかけて少しずつ縮まっていくのと同じ速度で、そよが愛した友だちや家族、そして分校そのものが静かに終わろうとしている離散と崩れのかすかな気配に揺らいでいく感じを、無味乾燥なこんな言葉でしか表現できないことに少し苛立ちを感じます。

しかし、こう書けば、成長していく少女の「ときめき」と、時間の経過のなかでどのように足掻いても避けようのない「崩れ」とが、まるで別の物のようになってしまうかもしれません。

まるで別もののように感じていた「ときめき」や「崩れ」が、同じ時間帯のなかで、混在し続けながら、一見穏やかな田園の日常生活においても、静かに、ゆっくりと、確実に動いていることを描いてみせてくれたのだと思います。

それは、そよが呟くあの言葉「もうすぐ消えてなくなるかもしれんと思やあ、ささいなことは急に輝いて見えてきてしまう」のとおりなのだと思います。

しかし、それにしても、現実においても映画でも、学校という場所が、こんなにも好きでたまらない子供たちを見るというのは、僕にとっては初めての経験でした。

(2007ピクニック・アスミック・エースエンタテインメント)監督・山下敦弘、原作・くらもちふさこ、脚本・渡辺あや、撮影・近藤龍人、照明・藤井勇、編集・宮島竜治、音楽・Rei harakami、主題歌・くるり「言葉はさんかく こころは四角」、プロデューサー・小川真司、根岸洋之
出演・夏帆、岡田将生、柳英里沙、藤村聖子、森下翔梧、本間るい、宮澤砂耶、夏川結衣、佐藤浩市、斉藤暁、廣末哲万、黒田大輔、大内まり、田代忠雄、二宮弘子、井原幹雄、中村朱實、渡辺香奈、岩崎理恵、大津尋葵、峯崎雄太、前田想太、浅田茂人、能島瑞穂、上田静香、服部富士美、大畑喜彦、新垣昌利、
第81回 キネマ旬報ベスト・テン 日本映画ベストテン第2位、第70回 朝日ベストテン映画祭 最優秀作品賞(第1位) 、第29回 ヨコハマ映画祭 日本映画ベストテン第2位 、「映画芸術」誌 2007年度作品ベストテン 第3位、第31回 日本アカデミー賞 新人俳優賞(夏帆) 、第32回 報知映画賞 最優秀新人賞(夏帆)、第29回 ヨコハマ映画祭 最優秀新人賞(夏帆) 、第32回 日本インターネット映画大賞 最優秀新人賞(夏帆)
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by sentence2307 | 2008-09-23 11:38 | 映画 | Comments(26)

クローズド・ノート

この作品の封切り当時、例の舞台挨拶の騒動があったために、大方の関心が沢尻エリカの場外での不適切な態度への非難と弁護に集中して、作品それ自体について論じられたものが少なかったような印象を持ちました。

そして、2007年度のキネマ旬報のベスト・テンが発表されとき、この作品が思っていた以上に低いランクだったのには、ちょっと意外な感じを受けたことも確かでした。

その惨憺たる評価を実際の順位(91位でした)によって数字的に知らされたとき、もし、あの騒動がなかったなら、もう少しこの作品に対する評価が違ったものになっていたかもしれないという気がしました。

その意味で、この作品の製作に携わったすべてのスタッフやキャストに対する、そして、そもそもこの作品自体に対する沢尻エリカの責任は重大なのだろうなと思います。

しかし、一方で、観客に負の先入観を与えてしまい、さらに演技それ自体もそこそこ稚拙であったことなどが相俟って、かえって竹内結子の優しくおおらかな演技が一層際立って見えたということがあったのかもしれません。

事実、竹内結子のキネマ旬報主演女優賞受賞対象作品には「サイドカーに犬」や「ミッドナイトイーグル」に加えて「クローズド・ノート」のタイトルもしっかりと記されていました。

どんなに親密なしっとりとした演技を要求されても、相手を拒むような例の一本調子のぶっきらぼうなセリフ回ししかできないことと、見惚れるほどの美貌とが、沢尻エリカという女優像に一層のネガティブな相乗効果を与えてしまい、なおさら「美貌を鼻に掛けた高慢でとてもいやな女」のイメージを作り上げてしまうという負のサイクルを、いい加減どこかで断ち切らないと、女優生命を縮めかねないという危惧を感じます。

女優にとっての美貌とは、むしろ、ハンディと観念した方がいいくらいのものなのかもしれません。

さて、この最初からケチのついてしまった作品が、もしどこかでうまく展開できていたら、不評をはね返すだけの力強い作品になったかもしれないという起死回生の分岐点がありました。

伊吹(竹内結子)が残したノートの切り取られた最後の一ページ、そこには、死してもなお香恵(沢尻エリカ)と石飛(伊勢谷友介)に重くのし掛かっていたもの(不意に中絶させられた時間のなかで、伝えられずに彷徨い続ける「愛の言葉」への悔恨)が一挙に解消するという伊吹が遺した癒しの言葉が書かれています。

ですので、沢尻エリカがこの手紙をどんな気持ちで読み上げたのだろうかと、香恵(沢尻エリカ)が石飛(伊勢谷友介)の前で読み上げる個展の場面を繰り返し見てみました。

しかし、これは違うな、と思いました。

この紙切れに書かれている言葉だけで観客の心を捉えようとしてはいけないのかもしれません。

石飛への熱い思いを抱きながら、伊吹はプライベートなノートにこれらの言葉を書き連ね、そして、改めて読み返し、微苦笑とともに深い息をついたあと、そのページをノートから引き千切って、紙飛行機にして窓から飛ばしたのです。

これは誰かに語り掛けるために書いた手紙ではないし、それにノートから引き離して窓から飛ばすという行為(結局は「放棄された言葉」なのです)も理解して込めることが出来なければ、きっと観客を感動させることなどできなかったのだと思います。

伊吹は、引き篭もりから登校できるまでになった生徒に笑顔で手を振り、やがて不慮の事故にあい落命します。

これだけの背景を抱えた「遺書」を読み上げるには、沢尻エリカのあの一本調子のセリフ回しでは、到底伝えることができなかったのだと思います。

さて、この小文を書くために久し振りに「キネマ旬報」の2月下旬号というのを引っ張り出して眺めていたら、とんでもないことを発見しました。

実は、この「クローズド・ノート」91位というのは、あるひとりの投票者が3点を入れた結果によってランクされたものです。

その人の名前は、朝日新聞記者の石飛徳樹、登場人物と同じ名前です。

もし、同姓ということだけが「クローズド・ノート」に一票を投ずる理由だったとしたら許せない気がします、いちど本人に当たって確かめてみなけりゃあいけないかもしれません。

(2007東宝)監督・行定勲、製作・島谷能成、安永義郎、細野義朗、村松俊亮、宍戸健司、プロデューサー・甘木モリオ、プロデュース・春名慶、エグゼクティブプロデューサー・市川南、脚本・吉田智子、伊藤ちひろ、行定勲、撮影・中山光一、美術・都築雄二、編集・今井剛、音楽・めいなCo.VFXプロデューサー・篠田学、衣裳デザイン・伊藤佐智子、照明・中村裕樹、録音・伊藤裕規
出演・沢尻エリカ、伊勢谷友介、黄川田将也、サエコ、山口愛、田中哲司、板谷由夏、粟田麗、石橋蓮司、篠井英介、中村嘉葎雄、永作博美、竹内結子
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by sentence2307 | 2008-09-21 11:34 | 映画 | Comments(762)

トニー滝谷

朝食のテーブルに新聞を広げ、さて台風はどうしたんだと思いながらページをめくっていたら、とつぜん市川準監督の逝去の記事に接して、びっくりしました。

脳内出血ですか、59歳の早逝を伝えるその記事を幾度も読み返しながら、そのたびに、「まだまだ若いのに」と反射的に思い浮かべてしまうお座なりな言葉と、我ながら随分と冷静陳腐な儀礼的なお悔やみの言葉しか湧いてこないことに対して、なんだかとても腹立たしく感じられてなりません。

事実以外のことは、なにがあっても報じるものかと、あまりにも頑なに無味乾燥にこだわったその新聞記事も、僕を随分苛立たせたのかもしれません。

市川準監督作品が与えてくれた多くの感動のほんの一部(底深い孤独感と、まったく同じ場所にあった優しさ)でさえ、僕はまだまだ理解できていないし、そして、少しも消化していないのに、という悔恨の思いが、自分自身へ向けられた腹立たしさに繋がったのかもしれません。

最近見た「あしたの私のつくり方」の全編に漂っていたものは、誰にも心を開くことができない少女の痛ましい孤独が描かれていました。

他人から傷つけられ、自分を守るために心を閉ざし、「親友」というブランドに扮した他人のために、笑顔を作ることに疲れてしまい、スポイルされた少女たちが、孤独のなかで「自分」の存在価値の無意味さに囚われ、こんな自分などこの世にいない方がいいのだと自殺の衝動に心を揺らしながら、その絶望感の果てで「無意味」と立ち向かい、煩悶し、やがて、無様でもすべてを抱え込んで生きていくことの意味を見出していくという作品です。

無愛想で、決して見栄えは良くはないけれども、自分らしく素直に生きていくことの意味を見出していくというそういう映画でした。

この社会に馴染めず、閉塞された小さな社会の居場所を失ってスポイルされ、いっそ死んでしまおうと決意する絶望感のどん底(この社会に取りすがることをやめた瞬間)で、少女たちはこの世で生きてていい自分だけのささやかな領分を遠慮がちに見つけ出していきます。

たとえ、そこに至るまでの過程は痛ましくとも、「あしたの私のつくり方」という作品は、いわばこの世界に回帰しようという希望の映画でした。

だから、この僕にも感想が書けたのかもしれません。

しかし、「トニー滝谷」を見たとき、僕の楽観は打ちのめされ、自分の中からは、どうもがいても、ただのひとことの感想の言葉も出てきませんでした。

あの「あしたの私のつくり方」のベースにあるものが、いつかは人と心を通わせたいと願う希望なら、「トニー滝谷」という作品を支配しているものは、二度と人間なんか信じるものかという絶望感です。

そして、帰する場所は、常に「閉ざされた心地のいい孤独の場所」です。

ここには、人間は希望なしには生きられないし、ひとりでは生きていけないという陳腐な楽観を厳しく拒む絶望感が潜んでいます。

それがどういうものなのか、もう少し、市川準の作品を見ていけば、きっと、これから撮られるであろう作品のなかに、その答えが見つかるかもしれないと思っていた矢先の訃報でした・・・。

(2005ウィルコ・東京テアトル)製作・橋本直樹、米澤桂子、プロデューサー・石田基紀、企画・市川準事務所、アシスタントプロデューサー・樋口慎祐、監督脚本・市川準、助監督・早川喜貴、監督助手・田中祐巳子、平体雄二、原作・村上春樹 「トニー滝谷」、撮影・広川泰士、撮影助手・桐原峰雄、志田貴之、和田裕也、撮影応援・松田克義、音楽・作曲・編曲・演奏・坂本龍一、美術・市田喜一、照明・中須岳士、編集・三條知生、
出演・イッセー尾形、宮沢りえ、篠原孝文、四方堂亘、水木薫、草野徹、谷田川さほ、小山田サユリ、山本浩司、塩谷恵子、猫田直、山崎彩央、塩山みさこ、田中靖夫、ケネス・エマーソン・フランクル、三原佳子、木野花、
ナレーション・西島秀俊
2005.01.29 テアトル新宿/ユーロスペース 75分 カラー
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by sentence2307 | 2008-09-20 20:13 | 映画 | Comments(1)

大阪の宿

この五所平之助監督作品「大阪の宿」を実際に見るずっと以前から、水戸光子と川崎弘子の傑出した演技に対する絶賛を幾度となく聞いてきました。

そして、この作品を実際に見て、うらぶれた下宿屋で女中としてコキ使われる彼女たち、下積みの女たちの哀歓が余すところなく演じられていることも確認し、僕が聞いてきた絶賛がいささかたりとも誇張でなかったことを深く納得しました。

稼ぎのない亭主との腐れ縁を絶つこともできず、金銭の苦労が絶えないおりか(水戸光子)は、亭主にみつぐ借金の申し込みを下宿屋の女将から無碍に断られたことから、切羽詰まって下宿人の金に手をつけ、それが発覚し、働き場所を追われて更に不安定なその日暮らしの生活に追い詰められていきます。

あるいは、僅かな給金のために、ひとり息子と離れ離れに暮らして働かなければならないおつぎ(川崎弘子)にとって、この惨めな生活に耐えることのできる唯一の夢である息子との逢瀬を女将に撥ね付けられ、憤慨しながらも、彼女に出来ることといえば、せいぜい旅館の名入りの湯飲み茶碗を土間に叩き付けることくらいでした。

もし、これが溝口健二作品だったなら、主人の理不尽な扱いに対し、誇りを傷つけられたことへの怒りに逆上した女は、台所から包丁でも持ち出し、明らかな殺意をもって主人を追い掛け回すくらいの炸裂する怒りの描写があったかもしれない痛切な場面です。

しかし、ここに描かれている善良な彼女たちは、主人の理不尽な扱いに対しても、憤りを抑え、その不運をただめそめそと悲しむばかりで、いささかの反抗の素振りもみせようとはしません。

そして、もしかしたらこれが、五所監督好みの女性像であることも容易に想像がつきました。

そう見ていけば、さらにラスト、大阪を離れる三田(佐野周二)の送別会に集まったウワバミ(乙羽信子)や田原(細川俊夫)など負け犬たちを、無力な三田の目を通して諦念とともに温かく見つめる五所監督の共感が描かれているという見方も、あるいは考えてもいいことかもしれませんが、しかし、それだけでは、なんだかこの映画のすべてを味わい尽くしたとはいえないような気がします。

最後の送別会の場面に、ついに姿を見せなかった女性が三人いました。

ただ憧れをもって眺めていたにすぎないショーウィンドウの中のお嬢さん・井元貴美子(恵ミチ子)、旅館「酔月荘」の第三の女中お米(左幸子)、そして、三田に偽の布地を売った貧しいお針子・おみつ(安西郷子)です。

しかし、朝の通勤で擦れ違うだけの憧れの先輩の娘・井元貴美子は、父親の自殺と共に行方知れずとなってしまいます。

そして、「酔月荘」第三の女中お米は、格式を重んじた下宿屋から下劣な連れ込み旅館へと変節する墜落過程において才能を開花させ女将の信頼を最も獲得して、戦後の猥雑を生き抜くしたたかさを予感させています(この延長線上に「にっぽん昆虫記」を思い描いたとしても、それほど突飛な想像ではないかもしれません)。

また、病身の父を抱えたおみつは、三田に偽の布地を売りつけた(単に仲介しただけかもしれません)責めを一身に負って、支給された生活保護費を渡しに来たその夜に、同じ下宿人の野呂(多々良純)に処女を奪われ、そのことに責任を感じた三田の救いの手も厳しく拒絶して立ち去ります。

五所監督が、たぶんその好みから、水戸光子や川崎弘子に心捉われ丹念に彼女たちの演技を追っていたとしても、僕としては、この安西郷子の演技こそは、彼女の生涯最高の演技と見ています。

(1954新東宝)監督脚色・五所平之助、原作・水上滝太郎、脚色・八住利雄、撮影・小原譲治、音楽・団伊玖磨、美術・松山崇、録音・道源勇二、監修・久保田万太郎、照明・矢口勇
出演・佐野周二、細川俊夫、乙羽信子、恵ミチ子、水戸光子、川崎弘子、左幸子(お米)、三好栄子、藤原釜足、安西郷子(おみつ)、田中春男、多々良純、北沢彪、十朱久雄、中村彰、水上貴夫、若宮清子、城実穂

1954.04.20 14巻 3,333m 122分 白黒



【付録】

以下は、「大阪の宿」を漱石の「坊ちゃん」にダブらせて書き始めようと試みたものですが、結局は最後まで書ききれずに頓挫してしまいました。狙いは面白いかな、と思ったのですが・・・。


むかし学生だった頃、悩まされたもののひとつに読書感想文の宿題がありました。

それなりに読書は好きでしたが、ただ漫然と読むのと、それをまとまった感想文として文章に纏め上げるのとでは、大変な違いです。

「あら筋を書いては駄目」という制約も重荷でした。

しかし、あるとき、ある法則を発見したのです。

例えば、漱石の「坊ちゃん」。

この小説の感想文を書いている人たちのキイワードが、判を押したように「すかっと爽快」なのに違和を感じたところから始まりました。

いわば、体制に迎合する俗物たちを鉄拳でもって懲らしめるということを「爽快」というのなら、それに続く、激情にまかせて奮ったその暴力を理由に、もはやその場所には居ることができずに、自らが起こした事態の収拾と責任をとるために、職も土地も離れなければならなくなってしまうということが、どういう「爽快さ」なのかという違和感でした。

短気で癇癪もちだった漱石が、後先のことを考えず、一瞬の逆上に身をまかせて怒鳴りまくったという「爽快さ」(たしかに本人は「爽快」だったに違いありません)が「坊ちゃん」という小説に一部反映しているとしたら、そういう病理を視野に入れた感想も成立するのではないかと考えたのでした。

「純粋」であったはずのものが、付きまとう俗事から汚され貶められ、結局のところ、「逃避」するしかなかったこの「違和感」を手繰って自分なりに深めていけば、他人とは少し違った感想文が書けることに気がつきました。

五所平之助監督の「大阪の宿」を見たとき、これは「坊ちゃん」だなと思い当たったとき、かつてのこの「法則」を思い出したのでした。

この五所作品は、漱石の自己中小説「坊ちゃん」よりもさらに明確に、すべてに挫折し、思い屈してその土地を追われていく男の絶望感が、客観的に描かれているといえます。
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by sentence2307 | 2008-09-17 23:08 | 映画 | Comments(2)

Keiko

本当に久し振りに、このクロード・ガニオン監督作品「Keiko」1979を見ました。

この作品を見た当時、それまでは当然のように思っていた「映画」に関する約束事や常識が、ことごとく根底から突き崩される衝撃を受けたことを思い出します。

猥雑な都会であてどなく生きるひとりの女性を、まるで動物の生態観察のように捉えることで細部のリアリティを表現しようとしたその姿勢は、作為的な虚偽を積み上げ強引にひとつの結論に導こうとするドラマ臭から解放されるとともに、説明的な動作や表情による演技を丹念に追うことの制約から自由になったカメラもまた、そのポジションという拘束から解き放たれ、Keikoの孤独により深く迫れたのだと思います。

そのひとつに、この作品の出演者全員が、オーディションで選ばれた素人たちによって構成されていたということもあったかもしれません。

訓練された職業俳優なら、決して肯定できるはずもない曖昧な所作やよく聞き取れない発声や語尾が立ち消えるような頼りないセリフまわし(従来なら、これら無意味な所作と、聞き取れないセリフ回しなどは、当然に退けられて然るべきものとして、除外され、矯正され、整理される否定の対象でした)が、この作品では、それがかえって新鮮で魅力的な初々しさに見えてしまうのが不思議なほどです。

稚拙だとか、たどたどしいとか指摘されかねない所作が、実は、溢れるような思いを自制・抑圧して、失意と諦念の中で生きる都会の女性の孤独と空虚を、鮮烈に描き出していることを実感したのだと思います。

思いを上手く相手に伝えられずに、意識すればするほど尚更ぎこちない振る舞いにとらわれ、凝り固まり、自信なくぐずぐずと口ごもり、自らの無様さに戸惑いながら、気まずく言葉を飲み込んでしまうあの適齢期を迎えて揺れ惑うKeikoのみずみずしさは、葛藤のすえに傷ついていく痛ましさと、苦しみに歪む表情の隅々をとらえるカメラによって、実に見事に表現されていたのだと思います。

そこで描かれていた「躊躇」は、猥雑な都会で、OLとして自由気ままに何不自由なく暮らしている彼女を見舞う男たちとの出会いと裏切りに直面するたびに、常に問い返される「この選択で本当にいいのか」とためらう深い孤独感と同義だったからかもしれません。

やがて、Keikoの孤独を理解し、支えてくれる存在として、会社の同僚カズヨが現れ、ふたりだけの飲み会のあと、互いの孤独を癒しあうように女性同士の関係が結ばれます。

もし、Keikoが、カズヨとの関係を持つことがなかったなら、きっと、さらに長い間、彼女は苦しみの中で足掻き続けなければならなかったかもしれないというもうひとつの局面で、しかし、彼女を癒すはずのこの道ならぬ関係(1979年当時、同性愛は、多くの人々の意識の中では未だ公民権を得ていない忌避される関係でしかありませんでした)も、Keikoに身動きとれない新たな苦しみを与えずにおかなかったものでもありました。

世間の常識に背を向けて生きる代償としての指弾に立ち向かうだけの決心もつかないKeikoは、やがてカズヨに別れを告げる失意の置手紙を記すところまで追い込まれていきます。

「こんなやり方しか出来なかった私を許してください。
あなたと居て、あなたに会えて、本当に嬉しかった。
あなたほど私の気持ちが分かってくれる人はいなかったし、あなたほど優しさの分かる人ってなかった。
でも、しょうがないこと、どうしようもないことだらけで、そんなことに押し潰されては、私、まるで駄目になってしまいそうに感じるの。
でも、本当は、本当は、とってもさみしい・・・」

お互いの「孤独」を理解し、その傷ついた心を重ね合わせるように結ばれたカズヨとの痛ましい負の関係に、Keikoは、その意識の弱さから、守られ続け、優しさをただ与えられるだけの平穏に身を浸すことにも怯え続けなければならない閉塞状況に耐えられず、カズヨとの生活を棄て、親から強いられた「結婚」を選択します。

自分の気持ちを押さえつけ、微かな自由への意思も押し潰されて、定められた運命に従順にしたがっていくしかない無力な日本人女性の無残な受身の姿を、客観の視点を持ったこのクロード・ガニオン作品は丹念に描き出しています。

そして、そのKeikoの結婚相手に、冒頭の映画館のシーン(そこで上映されていた映画は高林陽一監督の「往生安楽国」でした)で「痴漢」として登場していた同じ男を、悪意をもって配しています。

「自由」を手にすることが出来たかもしれない反逆のチャンス(この世界での唯一の理解者・カズヨとの生活)を、ただ世間体を憚ることであっさりと放棄し、自ら社会の旧態依然たる良識にがんじがらめに囚われていくKeikoは、結局その臆病さの代償を払うかのように、親が決めた見合いの相手=痴漢男との愚劣な結婚に屈服します。

式場での場面、取り繕った彼女の卑屈な笑みのなかに、ガニオンは、彼女の暗澹たる未来への痛切な暗示を描いてみせていました。

(1979ヨシムラ・ガニオンプロ=ATG)製作・ユリ・ヨシムラ・ガニオン、クロード・ガニオン、監督クロード・ガニオン、脚本クロード・ガニオン、撮影アンドレ・ペルチエ、音楽・深町純、美術・橋本敏夫、録音・渡辺芳丈、照明・アンドレ・ペルチエ、編集クロード・ガニオン
出演・若芝順子、きたむらあきこ、池内琢磨、橋本敏夫、中西宣夫、中村隆、寺島千春、高岡由起子、松島路子、鳶野克巳、森山浩一、荒川正也、松崎勤、山中直美、宮本はじめ、大坪悦子、久保充
1979.11.17 119分 カラー
1979年度キネマ旬報ベストテン日本映画第3位、1979年度報知映画賞特別賞受賞、1979年度日本映画監督協会新人賞(クロード・ガニオン)受賞



クロード・ガニオン監督
1949年カナダ・ケベック州生まれ。70年代に約10年間、監督、編集者として過し、 日本滞在の決算として『Keiko』79を発表した。京都に暮らす23歳OLの暮らしを、 ドキュメンタリータッチで綴ったこの映画は、開放的な性描写や即興演出の斬新さから、当時大変な話題を呼んだ。 ATG配給で長編デビューした彼は、外国人としては異例の日本監督協会新人賞を受賞した。カナダ帰国後に監督した実話に基づく感動ドラマ『ケニー』87はモントリオール映画祭アメリカングランプリ受賞、ベルリン映画祭ユネスコ賞受賞他、多くの賞を受賞し、全世界40か国以上で公開された。1994年、ヨーロッパの大手テレビ局TF1の依頼を受け、監督、共同脚本、共同製作として参加した『トーマの愛のために』は、 38.2%のトップ視聴率の成功を収めた。そのほかの監督作に『セント・ヒヤシンス物語』82、『スロウタイム』85、『ピアニスト』91、『リバイバル・ブルース』04、『窯焚』05など。
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by sentence2307 | 2008-09-09 21:54 | 映画 | Comments(10)

恋空

この映画の猛烈な評判の悪さを、ネットで始めて知りました。

結構感動してこの作品を見てしまった僕としては、ちょっと驚きです。

とはいうものの、その非難をよく読むと、それは大きく分けて2種類あるみたいで、ひとつは、新垣結衣の清純なイメージを汚されたり壊されたりしたことに対する腹立たしさ(あるいは、こんな汚れ役の映画に出演させるなよ、というマネージャーへの非難までありました)で怒りをぶちまけたファンからの猛烈な非難、もうひとつは、高校生活を「こんなふうに」描いたことに対する苛立たしさや鬱憤をぶつけた「高校生活擁護派」からの非難、ということが出来るかもしれません。

なんだ、同じじゃないかと思われるかもしれませんが、よく考えてみれば、このふたつの非難の立場は、相当違います。

前者の立場は、新垣結衣が主演さえしていなければ、ストーリーに対する非難は二次的あるいは間接的なものにすぎず、つまり「100%容認」はできないけれども、もしこれが他の女優で演じられていたら、このスキャンダラスな映画も結構冷静に見ることができたかもしれないと考える立場です。

おそらく「高校生活擁護派」の立場からなら、ここに描かれている無軌道な高校生の行為(ストーカーまがいに付きまとい無理やり強いる初体験、レイプ、妊娠、流産、雑魚寝セックス、自殺未遂、そして貧しい家庭で育った非行少年との交際と癌死による別れ)をことごとく否定するに違いありません。

しかし、それが「新垣結衣の熱烈なファン派」だったら、例えば、妊娠は容認できないけれども、最愛の人とのセックス(それを学校の図書室でするかどうかは別として)くらいならOKかも、とか、金髪の非行少年だからといって、それで好き嫌いを判断する材料とはしない、という感じで、この作品に描かれている過激な事柄の幾つかは「条件付き」で容認しようとする人も結構いるような感じを受けました。

実は、こうして「非難」のコメントばかり読まされていると、この世界のほとんどの人たちが、寄って集ってこの作品を非難しているような錯覚におちいりますが、しかし、一方においては、この作品のキャッチコピーにもあるとおり、「1,600万人が涙し、そして支持された作品」でもあることを忘れてはいけないことかもしれません。

そして、その落差のなかにこそ、僕を惹きつけてやまなかったこの映画の本質が隠されているような気がします。

しかし、この映画が、作品自体の完成度によって支持されてたのでないことくらい、きっと誰もがわかっていると思います。

ひたすら過激な素材に寄り掛かって、過激な盛り上がりのポイントを通過させるために、物語に引きずられて演出を最初から放棄してしまったようなこの安直な作り方は、多くの映画に対する冒涜ですらある。

しかし、それらの強烈なキイワードの圧倒的な魅力によって、とにかくこの映画を最後まで見通すことができたのもまた、事実です。

非難のなかには、この映画を、「無理やりの初体験、レイプ、妊娠、流産、自殺未遂、そして貧しい家庭で育った非行少年との交際と癌死による別れ」など極端なキイワードや妄想を寄り合わせただけのゴミのような映画だといった罵倒もありました。

しかし、象徴的な言葉の持つ妄想性に寄り掛かるのが、ケータイ小説の「見出し小説」たる所以だと分かれば、そんなに目くじら立てるほどのことでもないような気がします。

穏やかな恋愛や、豊かで満ち足りた結婚への「憧れ」が、結局はどこまでも妄想でしかないのと同じように、この映画で描かれていた諸々の陰惨な出来事も、ただの絵空事だと思えば、それほど腹も立たないと思うのですが。

ひょっとしたら、レイプや妊娠や流産や自殺未遂などをもたらす過酷な恋こそ、もうひとつの「憧れ」なのかもしれないような気がしてきました。

(2007東宝)監督・今井夏木、プロデューサー・森川真行、那須田淳、エグゼクティブプロデューサー・濱名一哉、企画・三野正己、脚本・渡邉睦月、撮影・山本英夫、音楽・河野伸
出演・新垣結衣、三浦春馬、臼田あさ美、中村蒼、波瑠、深田あき、浅利陽介、大和田健介、松井絵里奈、大平奈津美、山本龍二、高橋ジョージ、香里奈、麻生祐未、浅野ゆう子、小出恵介
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by sentence2307 | 2008-09-06 14:48 | 映画 | Comments(0)