世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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<   2008年 10月 ( 7 )   > この月の画像一覧

18禁・藤十郎の恋

なにかの切っ掛けがあるたびに、必ず多様性を持ったある特定の作品を想起してしまうという、ほかに類型のない象徴性を持った孤高の作品が「スタンダード」というなら、僕にとってのその作品のひとつに、山本嘉次郎監督作品「藤十郎の恋」1938があります。

ただ、この作品を見た当時、なぜ自分がスタンダードだと思ったのか、きっと感覚的な直感にすぎなかったために、それ以上の理由まではあえて考えなかったと思います、たぶんその必要もなかったでしょうから。

しかし、つい最近、エリア・カザン監督の「エデンの東」の一シーンを見ていて、突然その理由が分かりました。

母親に見棄てられ、父からも疎んじられて、誰からも必要とされないその孤独のためにすっかり捻くれ、性格も歪んで捨て鉢になっていたジェームズ・ディーンが、夜の遊園地でたまたま兄の恋人・ジュリー・ハリスと出会って、ともに乗った観覧車で、互いの孤独の痛みを始めて理解しあい、惹かれあい、この世に生きる空虚を埋めあうように、躊躇のなかで唇を寄せ合うあの痛々しい場面です。

しかし、あの場面のふたりは、ただ性急に「アイ・ラブ・ユー」と抱擁し、キスしたわけではありません。

誰にも告げられなかった自分の孤独と哀しみを始めて理解してくれたとはいえ、相手は兄の恋人です。

兄の恋人を愛するその疚しい思いは、きっとジュリー・ハリスにしても同じだったはずです。

しかし、相手を思い合う溢れ出る思いは、もはやふたりにとって留めることも誤魔化すこともできないほどに燃え上がり、遂には、あの痛切なラブシーンとなったのだと思います。

僕としては、あれほどまでには人を愛したことも愛されたこともないので、内容的には「エデンの東」のラブシーンというのは、まったくの絵空事にすぎないのですが、あの「かたち」ということだけなら、少しだけ経験、というか「学習」したことがあります。

きっと、僕のその貧しい経験と記憶が、「エデンの東」の一シーンによって、「藤十郎の恋」をスタンダードだと思い至らせた理由につながるものを感じたからかもしれません。

一般的にいえば、キスをするときのタイミングというのは、会話が途切れ、一瞬凍りついてしまったような気まずい空気を、うまく捉えて、逆に積極的に利用して成就に持って行くことだと思います。

そのときの間合いというか、一般的なナリユキは、男の方が唇を少しだけ女性の唇に寄せ掛ける仕草をみせておいて、相手の「乗り気」か「拒むわけではない」ことを確認してから決行、初めて唇と唇が合わさるという仕儀と相成るわけですが、しかし、この女性の側の一瞬の判断(迷い、あるいは打算)を伺い待つ男の気持ちというのが、物凄く微妙なのです。

「ここで拒まれたら、どうしょう」

来るべきショックもそうなのでしょうが、しかしそれはずっと後のことで、当面この場での格好がつきません。

仕掛けた責任を取って、泣いて縋り付くような演技を敷衍させてしまうと事態はさらに混乱を来たすでしょうし、「わっははは」と笑って誤魔化して、冗談にして収めてしまうにしても、引き続き平静を取り繕わねばならないその後も相当なテンションを必要とするとなると、やはり気が重くなります。

そして、それは男の側ばかりではなく、きっと、女性の側の「一瞬の判断」のなかにも、こういった思惑のすべてが混沌として含まれているのだと思います。

山本嘉次郎監督作品「藤十郎の恋」において、坂田藤十郎(長谷川一夫)が、女性のこの「一瞬の迷い」の中身を自らの演技に生かすために、お梶(入江たか子)に偽りの愛を仕掛け、逡巡のすえに藤十郎との情交を受け入れるまでにいたる艶かしい迷いと決意を、一連の「仕草」として見極めたいと願う残酷な欲望は、なんだか「映画を見る」という行為の根源的なものを示唆しているような気がします。

そう考えると、やはり「藤十郎の恋」は、人間の欲望を象徴的に絡めとることに成功した映画のスタンダードなのだと思いました。

(38東宝映画・東京撮影所)製作・田村道美、演出・山本嘉次郎、製作主任・黒澤明、脚色・三村伸太郎、原作・菊池寛、撮影・三浦光雄、作曲演奏・宮城道雄、編曲指揮・菅原明朗、演奏・P.C.L.管弦楽団、箏・宮城道雄、浄瑠璃・豊竹厳太夫、三味線・鶴沢猿七、美術監督・小村雪岱、装置・島康平、録音・道源勇二、編集・岩下広一
出演・長谷川一夫、藤原釜足、汐見洋、御橋公、滝沢修、小杉義男、市川朝太郎、中村健峰、小島洋々、生方賢一郎、山田長政、徳永文六、藤輪欣司、三木利夫、生方明、斎藤英雄、柳谷寛、入江たか子、山懸直代、伊達里子、清川玉枝、音羽久米子、高峰秀子、清水美佐子、三條正子、沢井三郎、永井柳太郎、横山運平、片岡右衛門、市川福之助、中村蝶太郎、片岡燕之丞、中村蝶吉、市川登喜助、中村山左衛門、巽寿美子、
1938.05.01 日本劇場 14巻 3,334m 122分 白黒
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by sentence2307 | 2008-10-25 11:46 | 映画 | Comments(118)

サイドカーに犬

この映画について、ある友人が、ひとことでこんなふうな感想を話してくれました。

「薫は、ひと夏をヨーコさんと過ごすことによって、少女から大人の女に成長したんだよね。」

常識などにはあまり捉われず、大まかでさっぱりとした性格のヨーコさんから、薫はいままでの大人たちから受けたことのないカルチャーショックを受けたということは、彼女の周りそういう大人がいなかったというだけで、ヨーコさんの影響によって「大人の女」になったと言い切るのは、ちょっと無理があるような気がします。

ヨーコさんは、大人の女というよりも、むしろ、自由な子供のおおらかさ・無邪気さを持ち続けている大人らしからぬ大人といった方が適切なように思うし、だから薫が、ヨーコさんの「大人のくせに」常識の枠に囚われない子供っぽさを有していることに深く共感し、次第に他人に心を開くことを覚えていったと思う方が無理なく理解できるように感じました。

しかし、彼女が他人に僅かながらでも心を開くことを覚えたといっても、それは、「大人」に対して心を開くという意味ではないし、ましてや「大人の女」になるということとも、全然違うように思います。

それまでの薫は、両親の不和の元で、自分を抑えつけ、びくびくしながら暮らしてきました。

いつ崩壊するか分からない不安定な家庭のなかの当事者として、鋭敏な感受性と現実感覚を持っている子供なら、近未来の崩壊を予知させるその恐怖心から、あえて目の前の現実に対して心を閉ざし、無関心を装う無邪気さでもって、その恐怖感から逃れたいと思うことは、厳しい環境で成長しなければならない子供なら、ごく普通な心情のように思います。

そんなふうに欲しいものを欲しいと素直に表明できる子供らしさを既に放棄してしまった薫に、母親の家出後、突然彼女の前に現れた型破りの女性ヨーコさんは、薫が欲するあらゆる物を与えようとします。

乗れなかった自転車乗りを教えたことに始まったヨーコさんと過ごした不思議なそのひと夏は、ヨーコさんが薫に、それがたとえどんなにつまらない物でも、彼女の欲しがる物を与え続けた蜜月ということができるかもしれません。

それは何故かと糾されると、とても困るのですが、たぶん、ヨーコさんもまた、薫と同じような孤独な少女期を過ごしてきた女性だったからではないかという気がしたからです。

他人と上手くコミュニケーションがとれない内気で不器用な少女になにかを与えてあげたい、自分も「そう」だったからこそ、ヨーコさんが薫を見つめる眼差しには、そうした憐憫と郷愁の淋しい光のようなものが感じられたのだと思います。

しかし、あのラストシーン、薫が、いまでも住んでいるというヨーコさんの家の近くまで来ながら、しかし、結局は会わないまま引き返そうとする場面には、自分と同じように孤独な少女時代を引きずって現在に至るヨーコさんを予感したからでしょうか。

ヨーコさんに逢ってしまえば、思い出したくも無い自分の過去と対面しなければならないことを恐れたからでしょうか。

どのように考えても、どうしても分かりませんでした。

(2007ビーワイルド)監督・根岸吉太郎、脚本・田中晶子・真辺克彦、原作・長嶋有、プロデューサー・田辺順子、音楽・大熊ワタル、音楽プロデューサー・佐々木次彦、撮影・猪本雅三、編集・小島俊彦、美術・三浦伸一、録音・横溝正俊、照明・金沢正夫、製作者・若杉正明、細野義朗、柳田和久、主題歌・「Understand」 YUI (Sony Music Records、STUDIOSEVEN Recordings)、挿入歌・「いい事ばかりはありゃしない」 RCサクセション(キティレコード)
出演・竹内結子、松本花奈、谷山毅、川村陽介、鈴木砂羽、トミーズ雅、山本浩司、寺田農、松永京子、伊勢谷友介、温水洋一、樹木希林、椎名桔平、古田新太、


*  *  *


サイドカーに犬【別バージョン】

この映画の幾つもの感想を次々に読んでいくと、頻繁に、小学4年生時代の薫を演じた松本花奈に対する賞賛にたびたび遭遇します。

もしかしたら、その数は主演女優賞を獲得した竹内結子を上回っているかもしれない、という印象さえ受けるくらいでした(竹内結子の主演女優賞受賞対称は、この作品のほかに、確か「クローズド・ノート」と「ミッドナイトイーグル」とが上げられていました)。

しかし、その松本花奈に対する賞賛のどれにも「どう良かったか」の理由は、明確に書かれていないのが、これら「賞賛」の共通した特徴のような気がしました。

つまり、それは、松本花奈の演技の「どこ」とは具体的に指摘できないけれども、良かったということだけは感覚的に分かる、というモドカシサを伴った「賞賛」だったからでしょう。

たぶん、その「どこ」と明確に指摘できない「賞賛者たち」のモドカシサや戸惑いは、それはそれで、誠実さという意味において正しかったのだと思います。

だって、どんなに気をつけて子役・松本花奈の演技を注視しても、その演技を賞賛するにたりる決定的な場面を具体的に上げることに困難を感じてしまうくらい、松本花奈は、きわめて淡々と抑制して「小学4年生」を等身大で演じており(しかし、それ以上でもなかったところを見ると「抑制」は当たっていないかもしれません)、唯一のヤマ場といえば、父親との別れ際、ワンワンと吠えて自分を手放す駄目な父親に体当たりで抗議する場面でしょうが、それだって、「犬の声」と「犬の感情」とを借りなければ、怒りを親に素直にぶつけられない屈折した(というよりも「無力な」というべきだと思いますが)少女を努めて無表情に演じていたことくらいです。

しかし、その抑制された感情の炸裂を「無表情」によって演じたということだって、それは言ってみれば「演出」のレベルのことなのであって、決して「演技力」として評価するほどのものではないとすれば、つまり、ここから結論づけられるものは、この作品において松本花奈の演技というものは、「なかったのだ」ということになってしまうかもしれません。

そして「賞賛者たち」のモドカシサや戸惑いも、まさに、ここにあったのだと思います、「不在なものへの感動と賞賛」。

この作品において、観客が戸惑いながらも松本花奈の演技・無演技になんだか感動したという理由も、まさにそこにあったのだと思うのです。

小学4年生の薫は、ただ大人たちを見ています、それは見ているしかないほどに無力だからです。

子供を簡単に見捨てる大人たちの身勝手な行為を受け入れるしかない無力な子供は、犬のようにペットであり続けることで棄てられることだけはマヌガレルかもしれないという怯えのなかから、ただ大人たちを見ていたのだと思います。

あの、父親との別れ際、ワンワンと吠えて自分を手放す駄目な父親に抗議する薫は、まさにそのことを言っているのであり、あなたは自分の娘を棄てるのか、自分はあの「犬」以下なのか、という無力な抗議だったとだと思う。

ラストシーンで、成長した薫が、かつてのヨーコさんの所在を知って、もしそこで、ほのぼのとした懐かしい「同窓会」のような邂逅が描かれてしまっていたら、この作品は、まるでタイプの違う作品になってしまっていたと思います。

しかし、成長した薫は、結婚間近の弟から教えてもらったヨーコさんの居る住所の近くまで行きながら、結局は会わないまま引き返します。

会ってしまったら、むかしのあの自分に会わなければならなくなる、現在の自分もまたどれほどの違いがあるというのかと、薫が初めて気づき、ヨーコさんとも(彼女のおかげで自転車にも乗れるようになった)自分とも会うことを断念したラストシーンだったのだと解釈しました。
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by sentence2307 | 2008-10-19 15:44 | 映画 | Comments(0)
うちの会社には、幾つか同好会があります、なんだか高校みたいですが。

共通の趣味を持つ人たちが適当に集まって、任意の小さなグループを作り愉しむという、それだけなら、それこそ他の会社でもたくさんあると思いますが、うちの社の同好会というのは、会社が認定すれば補助金が貰えるという同好会です。

労務管理の施策のひとつだと聞いたことがありますが、しかし補助金を受ける以上、年度末には面倒な会計監査をして会社に報告書を提出しなければなりませんので、そういう鬱陶しいことを敬遠するグループは、最初から登録の申請などしません。

ですから、本当のところ「同好会」以外の無認可グループが幾つくらいあるのかは、まったく不明です。

その公認された同好会にアララギ系の「短歌の会」というのがあります、伝統ある「俳句の会」と並び称されるほど歴史ある会なのですが、会員の数からいえば、100人近い会員のいる「俳句の会」に比べると、「短歌の会」の方は僅かに5人、風前のトモシビというか、いつ解散してもおかしくない、ほとんど壊滅状態にある会だと聞いたことがありました。

実は最近、その「短歌の会」の世話人・磯部さんから、「短歌の会」に加入しないかというお誘いを受けて困っています。

磯部さんは、昼休みの5分前頃になると食事に誘いに来ます。

彼は、わが部を総括する取締役でもあるので、なかなか断わりづらく、3回に1回くらいは仕方なく食事に付き合いますが、食事をしながらの雑談に応じていると、最後には結局短歌の素晴らしさに行き着き、加入の勧誘を受けるというパターンが続いて、そのたびにうんざりさせられています。

「君が入ってくれないと、短歌の会が潰れてしまうヨ」と泣き落としにあったこともありますが、僕としても、できることならお役にたちたい、大抵のことには協力する覚悟でいるのですが、なにしろモノは短歌です、そう簡単にアイヨと言って出来るようなシロモノじゃありません。

適当に誤魔化していればいいとはいっても、どう誤魔化していいのかさえも分からないくらいの門外漢なのですからお話になりません。

だいたい、歌を詠むタシナミもないのに、無責任な承諾などできるわけがないじゃないですか。

分かって下さいよなどと、こちらも泣き落としで応じています。

しかし、いまや世間では、「短歌」は若い女性たちのトレンドです、こんなおじさんにではなく、なぜ若い女性を勧誘しないのかと、みなさん、不思議に思うでしょ。

しかし、その辺は、この「短歌の会」が長年培ってきた固有のドドメ色のイメージというか、若い女性を寄せ付けない深い理由があるのです。

今の磯部さんの前の世話人は、石田さんという方でした。

退職してからも20年ほど、OBとして「短歌の会」の世話人を引き受けてくれていました。

ご自身も啄木風の重苦しい生活歌を得意として詠み続け、社内月報には、きまって石田さんの重厚で深刻な生活歌が掲載されたものでした。

それらの歌は、若い女性が好むような爽やかで明るい歌では到底ありません。

そして、その暗い重苦しい歌風の極め付きというのを、石田さんは80歳を少しすぎて亡くなる人生の最後にお残しになられました。

亡くなる直前に詠んだ歌なので、きっと辞世の歌とでもいうのかもしれません。

紹介された「社内月報」が手元にないので、歌そのものは正確に再現することはできませんが、意味はこんなふうな壮絶な歌でした。

「老衰のために、ただ寝たきりで、もう体の自由が利かない。意識だけはしっかりしているのに、排便・排尿も制御できず、ただ出るにまかせている。これほどの地獄があるだろうか。」

老衰によって壊れ滅びていく肉体の機能を、醒めた明確な意識でどこまでも観察し続けているという終末を迎えた人間の絶望的な在り方を寝釈迦仏に例え、流麗な語句と文体で綴った壮絶にして強烈な辞世の歌でした。

しかし、若い女性たちは、それを「流麗」などとは受け取らなかったようで、あの歌以来、「短歌の会」は女性たちから完全に見放されてしまいました。

そのことは磯部さんにも、たびたび言上しています。

誤解を解いて若い女性たちを取り込まなければ「短歌の会」の生きる道はない、悪いイメージを持たれているなら、早くその誤解を解いて、開かれた会にすることがまずは必要なのではないのですかと。

磯部さんは言いました。

「私は、石田さんとは違いますよ。石田さんは、ああいう重厚豪快な歌風でしたけれども、私はこう見えても女性的な優しい歌が好みなのですよ。」

「はあ」

「あなた、与謝野晶子を知っていますか。」

「きみ死にたもうことなかれ、でしょ」

ふだん磯辺取締役のことを、陰では「ことなかれ主義」と揶揄しているので、変にゴロがあってしまって、瞬間的にひるみました。

「それだけじゃない。キミ、この歌知ってますか」と言って呟いたのが例の「柔肌の熱き血潮に触れもみでさびしからずや道を説く君」でした。

そのときの磯部さんの表情は「どんなもんだ」といわんばかりの満足げな顔でした。

どれほどこの歌が好きか、それだけで十分に察することができました。

僕としても、もしこれが「きみ死にたもうことなかれ」の方だったら、どうにでも調子を合わせて磯部さんに「迎合」することができたと思います。

しかし、磯部さんがこの歌をとても好きなように、僕はこの歌が虫唾の走るほど嫌いなのです。

カチンときました。キレました。

純情な古典の先生が恋の和歌を一生懸命解説しているのに、すれっからしの女子生徒が、「女の体も知らないくせに、なに分かったふうな恋の話なんかしてやがんだよ、馬鹿野郎。ちょっとこっち来い、てめえ、つべこべぬかしてないで、アタイの胸触ってみろってんだよ。」ていう歌ですよね、ちょっとタケシが入ってしまいましたが。

この歌には、耐えられないくらいの嫌らしい女の驕りがある、女の体の前では、すべての男が屈服しないはずがないという思い上がりと、文学というものをゴク歪んで観ているフシもうかがわれます。

女を肉体的に知らなければ、恋の歌を解釈できないと思うのも、そもそも錯覚。

だいたいこの「触れもみで」が嫌なのです。

女性を知らないまま、恋の歌を研究し、その情熱的な恋の歌に歌われている崇高な女性像への、その憧れは、生身の女性じゃないから美しいのだと思うのです、文学とはそういうものだし、たぶん映画もそうだと思う。

もし「知ってしまったら」、「触れてしまったら」、その瞬間に天使は地上に堕ちて平凡で臭いばかりの動物に変えられてしまうのだけなのに。

この与謝野晶子の歌の僕なりの失望を磯部さんにどの程度理解してもらえたかどうかは分かりませんが、今回のお誘いは、折角なのですが、お断りしようかと思っています。
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by sentence2307 | 2008-10-14 22:56 | 徒然草 | Comments(1)

松ヶ根乱射事件

先週のお昼休みに、たまたま給湯室で顔を合わせた庶務課の若い女子社員(仮に、かすみちゃんとしておきましょうか。練馬の大泉から通勤してくるとても可愛らしい娘さんです)から、「映画を監督で見て、失望しちゃいました。」と恨めし気に言われたことがありました。

最初、彼女が何のことを言っているのか咄嗟には分からなかったのですが、すぐに、少し前、お酒の入ったミーティングの席上、興がのった勢いで、映画の見方について彼女にあるアドバイスをしたことを思い出しました。

たぶんそのとき「映画を漫然と見るだけじゃなくて、監督で見るようにすると、興味がさらに深まるよ」みたいなことを偉そうに言ったのだと思います。

少しお酒が入っていたので、そんな馬鹿みたいなことが平気で言えたのでしょうが、そのような差し出がましいお節介は、僕のもっとも忌み嫌うことであり、シラフなら決してそんなことを言うヒトではありません。

まあ、酔っていたとはいえ、言ってしまった以上は、責任をとらなければなりません、とはいえ別段間違ったことを言ったわけでもないので、その「失望した」理由というやつを彼女に訊いてみることにしました。

彼女は言います
「以前見た『リンダ リンダ リンダ』と『天然コケッコー』が、とても素晴らしかったので、教えてくれたあのアドバイスに従って、わざわざ監督名(山下敦弘です)を調べ『松ヶ根乱射事件』を見に行ったんです、彼氏誘って。そしたら、なんですか、アレ。彼氏に、君はいつもこういう映画見ているのって呆れられちゃいました。」

そうか、アベックで見るには、『リンダ リンダ リンダ』や『天然コケッコー』なら「イイ感じ」だったかもしれませんが、『松ヶ根乱射事件』とくるとどうなんでしょう、かすみちゃんを見る彼氏の眼も変わってきて、ちょっと「ヤバイ」ことになるかもしれません。

しかし、だからといって、監督で映画を見るということ自体は、別に間違っているわけではないし、そのためにデートが散々な結果になって彼氏との仲がヤバクなってしまいそうだとしても、それのどの辺りまで僕に責任があって謝罪しなければならないのか、いや、そもそも、そういうことを僕が謝るべきなのかどうかなどとウジウジ躊躇しているあいだに物凄く気まずい空気をつくってしまったみたいで、ダンマリのかすみちゃんは軽いため息をひとつ残して、気だるそうに給湯室を出て行ってしまいました。

結局かすみちゃんとのお話は、これでオシマイなのですが、ひとつだけ僕の気持ちの中に引っ掛かるものが残りました。

果たしてかすみちゃんは、あんなにも腹立たしいという作品を本当に見たのだろうか。

そして『松ヶ根乱射事件』と、『リンダ リンダ リンダ』や『天然コケッコー』とは、それほど違う作品なのだろうか。

『天然コケッコー』の、茫洋とした不安定感の中で、しっかりと育まれていくもの・確実に失われていくものの両棲している現実の残酷さの捉え方には、山下敦弘の映像作家として手ごたえのようなものを感じていましたので、僕に、「松ヶ根乱射事件」を「リンダ リンダ リンダ」や「天然コケッコー」のようには楽しめなかったという告白した彼女の感じ方が、むしろ山下敦弘が描こうとしているものをなんとなく感じさせてくれた絶好の契機になったのかもしれません。

地方都市という閉鎖社会の、あまりにも近すぎる人間関係の殺伐さのなかで絡め取られ、息が詰まるような退屈な日々のやり場のない鬱屈から、山下敦弘の描く登場人物たちは、閉塞感を打破するように苛立ちの歌を叫びあげ、恋をし、そして見えない壁に向かって突如発砲する、そうせざるを得なかった焦燥感の在り様を感じることができました。

なぜか、ここで描かれている村は、今村昌平が「にっぽん昆虫記」で描いたのと同じ村ではないかという気がして仕方ありませんでした。

僕は言いたい。大泉のかすみちゃん、元気出して。
彼氏の一人や二人が、なんだっていうんだ、もっと大志を抱いてください。

だってよく言うじゃないですか。「大泉ィー・アンビシャス」って。
(蛇足ながら、これは例のボーイズ・ビー・アンビシャスっていう、いわば駄洒落です。分っかるっかなー)

(2006)監督脚本・山下敦弘、脚本・向井康介、音楽・パスカルズ、企画・製作者・山上徹二郎(シグロ)、プロデューサー・渡辺栄二、製作者・大和田廣樹(ブロードバンドタワー)、定井勇二(ビターズ・エンド)、大島満(バップ)
出演・新井浩文、山中崇、キムラ緑子、三浦友和、安藤玉恵、鈴木智香子、宇田鉄平、西尾まり、木村祐一、川越美和、中村義洋、康すおん、でんでん、烏丸せつこ、光石研


山下敦弘
1976年8月29日愛知県出身。高校時代にビデオカメラで映像制作を始める。1995年、大阪芸術大学映像学科に進学し、寮の先輩である熊切和嘉と出会い、「鬼畜大宴会」(1997)にスタッフとして参加する。そこで知り合った同期のメンバーで「夏に似た夜」(1996)「腐る女」「断面」(1998)などの短編を発表。1999年、卒業制作として初の長編「どんてん生活」を完成させ、これを機に制作団体「真夜中の子供シアター」を発足する。「どんてん生活」は2000年ゆうばり国際ファンタスティック映画祭のオフシアター部門のグランプリを受賞したほか、各国の映画祭で笑いの渦を巻き起こした。第2作「ばかのハコ船」は東京国際映画祭の助成金をもとにプラネット+1と共同制作、そのオリジナリティあふれる世界観が絶賛される。続く「リアリズムの宿」では、主演に長塚圭史と山下組常連の山本浩司、音楽にくるりを迎え、つげ義春の原作に挑み、興行的にも好成績を残した。2004年は兄妹の禁断のエロスという新しいジャンルに挑んだ「くりいむレモン」も公開され話題を呼んだ。そして、2005年に公開された「リンダ リンダ リンダ」ではブルーハーツをコピーする女子高生バンドを見事に描き切り、3ヵ月にも及ぶロングランを記録した。2007年は本作のほか、くらもちふさこの人気漫画が原作の「天然コケッコー」(「天然」と「松ヶ根」により報知映画賞監督賞を史上最年少で受賞)とオムニバス作品「ユメ十夜」が公開され、いま最も注目されている監督である。
Filmography
1997年 「腐る女」16mm/10min
2001年 『どんてん生活』16mm/84min
2003年 『ばかのハコ船』35mm/111min
『汁刑事』(「最も危険な刑事まつり」の一篇)DV/10min
「その男、狂棒に突き(ハート)」DV/38min
 大正九年ビデオクリップ『祝祭日』ビデオ/3min
2004年 『リアリズムの宿』35mm/83min
  『くりいむレモン』DV/78min
  「不詳の人」DV/64min
2005年 「道」DV/46min
 『リンダ リンダ リンダ』35mm/114min
 「キズナドラマ」DV/3.5min×6話
2007年
 『ユメ十夜 第八夜』
 『松ヶ根乱射事件』35mm/112min
 『天然コケッコー』
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by sentence2307 | 2008-10-14 22:49 | 映画 | Comments(42)

プラダを着た悪魔

ここのブログのコンセプトは、「世界のあらゆる映画を見まくる」というだけで、別に、見た映画のすべてにわたって感想を書くなどと言っているわけではありません。

その辺は言葉を選んで慎重にスタートしておいて本当に良かったと思っています。

初めからそんなふうに意気込んで宣言していたら、いまごろ息切れと自己欺瞞とで大変なことになっていただろうなと思います(それほどでもないか)。

数ある映画のなかには、僕がどう逆立ちしたって、感想はおろか鼻血も出ない(知ったかぶりも通用しないような)作品なら、それこそゴマンとあると思います。

例えば、この「プラダを着た悪魔」もそうでした。

だいたいファッションなんて知識もなければ興味もない。

世界の著名なデザイナーの名前さえただの一人も知りませんし、イマドキの流行や業界の事情なども絶望的なくらいに無知なので、たとえ自分がとんでもない代物を着込んでいても、そもそも恥ずかしいという認識さえないのですから始末におえません。

「そんなもん、どーでもいいだろう」なんて開き直るくらいなら、なにもわざわざ、こんな嫌味っぽいことをウダウダ書き始めなくたっていいようなものなのですが、しかし、あれこれと理屈をつけて「スルー」を決め込むはずだったこの映画、ある場面で突然、僕に「スイッチ」が入ってしまったのです。

その場面は、一流ファッション誌「ランウェイ」のカリスマ編集長ミランダ・プリーストリー(メリル・ストリープが演じています。きっとお遊びでストリープのスペルをイジクリ回した命名だと思います)が、グラビア撮影のためにモデルの着る服のコーディネイトを、スタッフとあれこれ考えているシーンでした。

スタッフが同じような色のベルトをかざして、どちらがいいか、ミランダにアドバイスを受けているときに、傍らにいる入社したての新人アシスタント・アンドレア・サックス(アン・ハサウエイが演じています)が、「どっちだって、いいじゃない」というふうにクスッと笑ったことを、ミランダが見咎め、「あんたなんか、なんにも分かってないくせに」と、その微妙な色合いが成立した錯綜したファッション史を滔々とヒモトキながら厳しく諌める場面です。

諌めるといっても、僕には具体的にどういうところがツボだったのか、テープを何度巻き戻して眺めてみても皆目分かりませんでしたが、しかし、咎められたアンドレアの「無知」が、僕の「無知」と同質のものだということだけは、はっきりと分かりました。

最初から取っ付きにくいと感じていたこの映画に、手掛かりみたいなものを感じた瞬間だったのだと思います。

同じように見えるベルトが、業界において如何に紆余曲折を経て、ひとつの流行として結実し、それぞれの系譜をもって確立されてきたのか、ミランダ・プリーストリーは、その「営為の歴史」をアシスタント・アンドレア・サックスに誇らしげに語ってきかせます。

カリスマ編集長には、無知なド素人が、なんにも知らずに「表面的な常識」だけで自分たちの営為を笑ったことが、どうしても許せなかったのだという場面です。

しかし、この映画のラストにおいて、ファッション界に愛想を尽かしたアンドレア・サックスが、この業界から軽やかに脱していくことを肯定的に描いている(無知なド素人の「表面的な常識」の方を支持しているラストだと思います)ことを考えると、ミランダが熱く語っていたあの場面が、この作品のなかでどういう位置づけになるか、なんだか微妙な感じが残りました。

ファッション界に愛想を尽かすアンドレア・サックスに肩入れするラストによって、ミランダの熱弁は、熱く語れば語るほど、ただの空虚な言葉の羅列としてますます逆説的に揶揄され、否定されるべきものとして描かれているとすると、熱弁を工夫しながら、それが同時に揶揄されるべきもの・否定されるべきものとして二重の意味合いのなかで演じねばならなかったメリル・ストリープに課せられたものとは、いったいどういうものなのだったのだろうと考えていくと、次第に頭の中が混乱してきました。

きっと、あの役は、どのように熱く演じても、結局のところ決して深められることのない、そしてどこまでいっても観客の共感を得ることのできない不毛な役柄だったのだと思います。

そして、いくら演じても演じ切れないもどかしさが、名優メリル・ストリープ自身を苛立たせ、ついには凄まじいスッピンを晒さねばならないほどの焦燥感をもたらし、文字通り「素顔の迫力」をもって、観客を驚愕させるしか手がないと思い詰めさせたのかもしれません。

まあ、とにかく、十年一日バーゲンで買ったただ一着の「ヨーク・ブランド」のスーツと、ヒャッキン・ブランドのネクタイで通している僕にとっては、ファッション業界の虚実を描いたこの作品に対する無縁さ加減は、実に切実なるものがありました。

(2006FOX)監督・デビッド・フランケル、製作総指揮・カレン・ローゼンフェルト、ジョー・カロッシオロ・ジュニア、製作・ウェンディ・フェネルマン、脚本・アラン・ブロッシュ・マッケンナ、原作・ローレン・ワイズバーガー、音楽・セオドラ・シャピロ、撮影・フロリアン・バルハウス、美術・リリー・ギルバート、編集・マーク・リボルシー、衣装デザイン・ジョセフ・オーリン、衣装・パトリシア・フィールド、
出演・メリル・ストリープ、アン・ハサウェイ、スタンリー・トゥッチ、サイモン・ベイカー、エミリー・ブラント、エイドリアン・グレニアー、
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by sentence2307 | 2008-10-14 22:48 | 映画 | Comments(14)

フラガール

僕の知人にも「テレビで映画を見るなんて許せない」と喧しく言うピュアな映画ファンが、結構います。

最初その意見を聞いたときは、随分子供っぽいことにこだわる考え方をするんだなあくらいにしか考えていませんでした。

しかし、その非難の趣旨が、テレビのチマチマした小さな画面で、大きなスクリーンで見ることを前提に作られた映画の、技術も含めた本来的に持っている作品意図が正確に伝わるものなのかという危惧と、そればかりでなく、さらにその奥にある、もっと根深いメディア間対立を象徴するような原則論的・歴史的な問題を突いているのだということに遅ればせながら気がつきました、随分迂闊な話です。

後者の、映画とテレビの対立ということに関しては、軽々な感想を述べるような見識を持ち合わせているはずもありませんが、大味なあのテレビ画面に、映画の繊細な表現が「伝わるものか」みたいな一方的な非難の方には、全面的に賛同しかねる部分があります。

先週テレビで放映していた「フラガール」をたまたま見ていて、そう感じました。

スクリーンで映画を見るということが、「当事者的」にとか、あるいは映像の真っ只中にどっぷりと浸かり込んで観るという状況にあるのに対して、小さな画面で見る行為には、切迫性から一歩しりぞいて観る者をより客観的な視点で見させてくれるという利点が(それこそが、「映画」の核心を見誤らせる元凶そのものではないか、と糾弾されそうですが)あるような気がしました。

多くのエピソードが絡み合う錯綜した物語のなかから、太い一本の線(物語の核心、みたいなものかもしれません)がはっきりと浮き出してくることが分かるというか、作品を俯瞰的に見る客観の視点を獲得することができるという感じです(だから、その「客観的視点」てなんなんだよ、それこそが・・・いやいや、もう少し聞いてくれます?)。

この「フラガール」は、米国アカデミー賞にノミネートされたメガヒット作品です。

分かりやすいサクセスストーリーで、そのぶん、いままで見てきた李相日の仕事「BODER LINE」や「スクラップ・ヘブン」の延長線上に、このメジャーな作品を置くことに多少の抵抗感というか、自分を納得させることに少しだけ努力と時間を必要としたことは確かでした。

しかし、今回テレビで見た「フラガール」には、その「太い一本の線」を、象徴するようなシーンを見つけることができました。

李相日のブレ(「ブレ」は失礼だろう。)を理解するめに要した時間の、ちょうど到達した地点に、つまり「しなやかに分かりやすい」ということが、それほど非難されるようなことではない、という認識に至った同じ場所に今回のテレビ放映があったという感じでした。

この映画は、エネルギー需要が石炭から石油へと変換する時代の大波を受けて各地の炭鉱が閉山に追い込まれていった昭和40年、福島県いわき市の炭鉱会社が、地元の温泉を活用し新たにレジャー産業に活路を求めて「常磐ハワイアンセンター」を建設しようという時代背景を据えて、ショーの目玉になる炭鉱娘たちのフラダンスのショーのため、本場ハワイでフラダンスを学び松竹歌劇団で踊っていたという平山まどかを東京から招いて、地元の娘たちのダンス特訓を始めるという設定です。

この事業を起こすためには、過去数世代にもわたる鉱山で生きてきた地元住民たちの旧い価値観とのぶつかりも描かれ、その軋轢を克服して開設に漕ぎ付ける大きな切っ掛けとして、炭鉱娘たちのフラダンスショーの立ち上げの涙と笑いを絡めた奮闘記が描かれています。

そこには、時代に息を止められそうになっている現実を直視しようとしない、死を間近にしても旧い価値観を必死に守り通そうとする観念的な「虚」が、生き続けるためにそれらを全否定して現実を直視し、のたうちまわってでも「実」を取る苦闘が描かれています。

その価値観の変遷を具体的に映像化し得た傑出した象徴的なシーンがありました。

松竹歌劇団で踊っていたという指導者・平山まどかは、フラダンスの基本的な動きさえできない常磐炭鉱の娘たちに、まず「私は・あなたを・心から・愛します」という所作を教える場面があります。

その行為は、フラのことを何も知らない娘たちの興味を引くための、ただの「lesson 1」の意味でしかないし、指導者・平山まどかにとっても、ただの「型どおりの振り」でしかありません。

しかし、娘たちが、多くの失敗を繰り返しながら、そして、プロの踊り手となることの厳しさに晒されながら、それらをひとつずつ克服してプロの踊り子として立派に成長していく過程で、指導者・平山まどかもまた、いままで単なる「仕事」でしかなかったフラの意味する本質を、娘たちの上達と同じ速度で悟っていくというその感動的な接点が、あの別れの駅舎の場面だったのだと思います。

娘たちは、いままさに村を立ち去ろうとする平山まどかに向かって「私は・あなたを・心から・愛します」と踊り掛け、指導者・平山まどかもまた、そのとき初めて、娘たちに自分がなにを教えてきたのかに気づきます。

自分が本当にわかっていたかどうかも疑わしいフラダンスの「本質」・人に心から愛を伝えるという切実なメッサセージを、指導者・平山まどかは、そのとき娘たちから学んだのだと思います。

きっと、消え去ろうとしていた炭鉱が何かの象徴だったように、始まろうとしていた「常磐ハワイアンセンター」も何かの象徴だったに違いありません。

(2006シネカノン)監督・李相日、製作:李鳳宇、脚本:羽原大介、企画・プロデュース:石原仁美、美術・種田陽平、音楽:ジェイク・シマブクロ、テーマソング:ジェイク・シマブクロ「Hula Girl」(フラ・ガール)、劇中歌:「Wish on my star」(英語版:ジェニファー・ペリ、日本語版:照屋実穂)、演技・振付指導:カレイナニ早川
出演・松雪泰子、岸部一徳、蒼井優、徳永えり、山崎静代、池津祥子、浅川稚広、安部魔凛碧、池永亜美、上野なつひ、内田晴子、直林真里奈、近江麻衣子、楓、栗田裕里、田川可奈美、千代谷美穂、豊川栄順、中村雪乃、中浜奈美子、半澤佑子、泉麻奈美、豊川悦司、富司純子、高橋克実、小野愛莉、高橋朗、畠みゆう、鈴木寛弥、寺島進、三宅弘城、志賀勝、大河内浩、菅原大吉、眞島秀和
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by sentence2307 | 2008-10-13 09:01 | 映画 | Comments(189)

白夜

先々週の水曜日にあった月例の取締役会の決定というのが、この先週、各部署・各課に回覧されてきました。

それを見た社員全員は、みんなビックリ、腰を抜かしてしまいました。

そこには、海外の商取引に関係している部署と関連する各課の営業マンは、今後、商取引の相手国のポピュラーな名前を「通称」として名刺に刷り込み、商談の際には、そのネームの方を使って営業にイソシムようにという破天荒な「試み」のお達しです。

一度読んだだけでは、なにがなんだか理解できません、「どういうこと?」という疑問の声がアチコチから上がるのも当然です。

正直なところ、社員の反応は、「取締役会が、また、変なことをいってきた」という不信感しかありませんが。

この世界経済の厳しいご時世に、もっと考えなければならないことがヤマとあると思うのですが、こんな愚にもつかないこと(聞かなくたって、きっと「そう」です)を真剣になって議論しているのかと思うと、日々無謀な売上の負荷に押し潰されそうになっている社員のあいだに、「もう、どうでもいいや」みたいな捨て鉢な脱力感の蔓延というか、なんだか退廃的なムードまで漂ってしまいますから、ココはひとつ職場の士気を保つためにも、すみやかな対応が必要になってきます。

一応、課を代表して、僕が、部を統括している山田さんに、この回覧の真意を聞いてきました。

年長者ともなると、こういう間抜けな仕事が、実に多くなってくるものです、いたずらに歳を重ねてしまった報いかもしれませんね。

山田統括が話してくれたところによると、この奇妙な発案は、今年傍系の子会社から電撃的に昇進してきた辣腕の渡辺取締役からの意見が採用され、取締役一同「面白い、やってみようじゃないか」ということになったらしいのです。

山田さん「まあ、文字通り、アメリカさん相手の交渉なら、ジョーとかヘンリーとか『源氏名』名乗って商談しろってことだろうな」

「なんでまた?」

理由は、外国人にとって日本名の中に発音のしづらい「音」が多々あり、そのことでしばしば商談がスムーズにいかないことがママあるらしいのです。

例えば、彼らには「つ」が上手く発音できない、「松本克巳」が、「まちゅもと・みちゅみ」みたいになってしまう。

赤鬼のような異国の大男に、真剣な顔で「ちゅーちゅー・ちゅーちゅー」やられたら、呼び掛けられるたびに拍子抜けして気が萎え、値切れるものも値切れなくなる、つまり商いの切っ先が鈍ってしまうという意見があったらしいのです。

そんな瑣末なことが障碍になって、大事な商談に支障がでるくらいなら、いっそのこと日本名のほかに、アチラさんが親しんでいるような発音し易い営業用の名前を使えばいいではないか、というわけなのです。

「キミ、難局に当たるには、もっと柔軟な頭を持たにゃあいかんよ」くらいはいったかもしれません。

「柔軟」と「迎合」の境界線をどのあたりに引くかはともかく、かなり難しい問題であることだけは確かです。

でも、なんだかこの発想、創氏改名などという歴史上の暗い記憶を揺さぶりかねない危ういものを感じてしまいますが。

しかし、取締役会の決定とあれば、たとえそれが「生類憐れみの令」のたぐいの馬鹿げた決定であっても、そして、海外との交渉などなにひとつないわが課でも、末端とはいえ管理職のハシクレたる者、社の大方針には率先して姿勢を示さなければなりません。

つまり、ここでもやはり年長者の自分が実験台(生まれて初めてイングリュッシュ・ネームを命名してもらえます)ということになりました。

女子社員は大喜びで、盛り上がっていましたが、命名されるそれら数々の英語名の対象が、常にこの「僕」と結びつけられることになるのですから、その悲惨さは、たまらないものがあります。

「ブラッドなんてどうよ?」が、即この僕とダブルイメージされるわけですから、その途轍もない落差(彼らの頭の中ではブラッド・ピットが僕と重なるわけです)に「ワッハッハ!」の大爆笑を誘わないわけがありません。

下手をすると女性社員から「ヘーイ、ブラッド」と呼ばれかねない雰囲気でした。

そんなふうに散々にイジラレ・キャラを演じさせられ、何日か経ったときのことでした。

やはりその日もイジラレ・キャラを演じさせられ、夕方疲れきって会社を出ました。

会社も随分と罪な管理職いじめの御触れを出したものです、やれやれと思いながら駅への道を歩いていたら、隣の課の橋本さんに呼び止められました。

あちらの課も事態はだいたい同じようなもので、橋本さんもイジラレ・キャラを演じさせられているクチです。

そこで「御同役、お互い大変ですな」という感慨を述べました。

しかし、橋本さんの方は、少しニュアンスが違うような、ただ傷つけられただけでない寂寥感みたいな、ちょっと深刻な印象を受けましたので、「何かあったのですか」と聞いてみました。

橋本さんは、こんな話をしてくれました。

橋本さんの課には、フィリピンの支社から研修のために配属されて、こまごまとした雑務をこなしているごく若いフィリピン女性が働いています。

仮に、ミス・ステファニーとしておきましょうか。

彼女が、その日の帰り際に、今回の取締役会のお達しに対して、日本人の社員全員が、疑問も持たず唯々諾々と素直に従おうとしていることに、憤慨というか失望したと橋本さんに伝えに来たというのです。

自分たちは日本に憧れ、こうして日本で働けることを幸せに思い、喜びを感じている。

それに、仕事も満足に出来ないような未熟で貧しい私たちに、別に嫌な顔ひとつせずに親身になって仕事のこと・日常のことなどなにくれとなく面倒をみてくれることに心から感謝している。

だから私たちは、大好きなこの日本と、素晴らしい日本の人たちを理解するために、早く言葉をマスターしたいと思っている。

難しい発音の日本の名前も、一生懸命勉強して、大好きな日本の友人たちの名前を正しい発音で呼べるようになりたいと思って努力しているのに、あの「取締役会のお達し」には本当に失望した。

商売のために、外国人が発音しにくいという理由だけで大切な名前を棄てるのか。

その名前を美しいと思って、上手に発音したいと願って勉強してきた私たちは、なんだか辱められたような気がする、日本人は自分の名前・自分の文化にもっとプライドを持っていいのではないですか、と言われたというのです。

その言葉に物凄く感動してしまった橋本さんは、日本の商習慣を弁解したいという思いと、むしろ、なにか言葉に出来ない孤独感のようなたまらない感情に襲われ、そのまま彼女を帰すことができず、強引なくらいの勢いで食事に誘い、お酒も飲んだそうです。

その夜も、それからあとも、別になにがあったというわけではありません、ただ、若い女性と実にたくさんの話しができたというだけのことにすぎません。

しかし、気持ち的には、どうしようもなく彼女に傾いていて、冷静に見れば、入れ揚げていたという状態だったと、その夜の橋本さんは静かに話してくれました。

ということは、現在の橋本さんはもう冷静なのだなと直感しました。

そこで僕はもう一度「何かあったのですか」と聞いてみました。

今日、昼休みに屋上でひとり、給水塔の影で弁当を食べていたら、聴きなれたステファニーの声が、給水塔の向こうから聞こえてきたので、ハッとして思わず聞き耳を立てたのだそうです。

特徴のあるたどたどしい日本語が、すぐに彼女のものだと分かりました。

「日本人は、どうして自分の国のことにプライドを持たないのですか。商売のために名前を棄てるなんて。難しい発音の日本の名前を正しい発音で呼べるようになりたいと思ってワタシたち努力しているのに、とても失望しました、とても悲しい」

橋本さんに熱く語り掛けたときには、もう少し流暢な日本語だったことを思うと、そのたどたどしさには、相手が誰であれ、回を重ねたであろう彼女の負の熟練を感じることができたと思ったそうです。

橋本さんのその感想は、彼自身が受けた深く痛々しい失望でもあったのだろうなと思いました。

しかし、ステファニーが、ただ食事やお酒にありつくためだけに取締役の決定した「創氏改名」の方針に憤る振りをしていただけだったのなら、この話にはまだまだ救いはあるのだと思うと橋本さんは言いました。

そう、それが空腹を満たすためだけのただの演技に利用されたものであってくれたなら、そしてそれが彼女の小さな狡猾に帰するものにすぎないのなら、深い所で誰ひとり傷つかずに済む。

きっと、もっとも悲惨なのは、戦争に繋がる記憶を持ったアジアの貧しい少女が、日本の繁栄の中で傷ついたそのこと・真意を理解してもらおうと、必死になって日本人のあいだを彷徨い歩いてその焦燥から誰彼構わず真意を説いて回り、そのたびに失望を重ねているという構図なのかもしれません。

橋本さんのこの話を聴きながら、なぜかヴィスコンティの「白夜」を連想していました。
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by sentence2307 | 2008-10-04 11:14 | 映画 | Comments(2)