世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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七人の侍

「七人の侍」がTVで放映されるたびに、どうしても見てしまいます。

しかし、この作品のことを「隅から隅まで分かっているはず」と思い込んでいた確信が、そのたびにあっけなく崩されてしまうことも事実です。

今回見たときの発見は、死んでいく侍たちがすべて野武士の「種子島」による銃撃によって殺された、ということを始めて意識的に知った(ヘンな言い方ですが)ことでした、随分暢気で迂闊な話なのですが。

しかも、そのすべてが、あまりにも不意であっけなさすぎる印象も改めて実感しました。

まず最初の犠牲者、千秋實演じる薪割り流の林田平八。

先制攻撃のために野武士の隠れ家に夜襲を掛けた際、連れ去られた妻を見つけた百姓・利吉が思わず飛び出したのを静止しようとして、銃撃されて落命します。

侍たちのなかでも、まず最初に死ぬのが平八というところに、この作品の周到なクワダテを感じたものでした。

町の茶屋の裏で薪割りをしていた平八を見出した五郎兵衛が、勘兵衛に平八のヒトトナリを話すセリフがあります。

「腕はまず中の下、しかし、正直で面白い男でな。その男と話していると気が開ける。苦しいときには、重宝だと思うが。」

しかし、その平八の死は、皮肉なことに、その苦しい壮絶な死闘が始まるずっと以前に訪れてしまっています。

そして、「苦しいときには、その男と話していると気が開ける。」と話した五郎兵衛も、やがて死闘の最中に野武士の襲来を食い止める辻で、野武士たちの銃撃によって落命します。

ただ、五郎兵衛の死を招いたこのときの野武士の襲来には、伏線がありました。

その少し前の場面で、種子島の銃撃に手を焼いたことを受けて久蔵が、夜陰に乗じてひとり「種子島」を奪いに出かけ、明け方に「種子島」を携えて戻ってきます。

ストイックな久蔵を敬愛していた勝四郎は、その抑えがたい尊敬の気持ちを久蔵に伝え、そして、それだけでは満足できずに、菊千代にも話しています。

勝四郎が、野武士から種子島を奪ってきた久蔵の手際をあまりにも褒め上げるので、対抗心を燃やした菊千代は、ひとり抜け駆けして、自分も野武士から種子島を奪ってきますが、勘兵衛から「抜け駆け」を咎められたうえに、追ってきた野武士の猛烈な襲撃を誘発してしまい、結果的には、片山五郎兵衛の死の切っ掛けを与えたようになってしまいます。

五郎兵衛の亡骸をひとり見詰める菊千代のショットは、その死がすべて自分の軽率な行為から発せられたという罪の意識を抱いていることを十分すぎるほど表していました。

菊千代のその後の壮絶な闘い振りが、贖罪の気持ちに根ざしたものであることを僕たちに納得させるものであると同時に、そのあとの久蔵の突然の死に対する、まるで敵討ちのような壮絶な菊千代の死に繋がっていきます。

侍たちの死の切っ掛けを作ってしまったことに対する一連の疚しさみたいなものの「決算」が、壮絶な菊千代の死に繋がっていったのだと実感しました。
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by sentence2307 | 2009-02-23 12:45 | 映画 | Comments(641)

わかれ雲

引っ込み思案で、世間の冷たい仕打ちに抗しきれず、いつもめそめそ泣いてばかりいるような受身で消極的な「いじめられ役」(ともに五所監督による1932年作品「天国に結ぶ恋」や「不如帰」の哀愁ただようイメージが強烈でした)の多かった川崎弘子が「大阪の宿」における下宿屋の中年女中で示した傑出した演技によってイメージを一変させられました。

貧乏人など、所詮は金持ちにすがって寄生虫のように生きるしかない無力で惨めな存在にすぎないのだと、宿の女将から横っ面を札束ではたかれるような蔑みを受けても、ただ俯いて耐えるしかなかった社会的弱者「おつぎさん」の震えるような悔しさと怒りを痛切に演じたあの衝撃は、僕の中の映画的記憶のなかでも、とりわけ傷のように鮮烈に刻み込まれたもののひとつでした。

もう決して若いとはいえない中年女が、この世の中をひとりで生きていくということがどういうことなのか、遠く離れて暮らす息子に逢いたいという思いを果たせないでいる痛ましさと切なさを込めて、まるでそれを水彩画のような淡白さで描いていることに、まずは驚嘆させられました。

社会的弱者ゆえに辱めを受け入れざるを得ず、その不当な虐待をじっと耐え、鬱積する悔しさや憤りを自分の内部で押し殺しながら生きていくことしかできない理不尽さを、言葉にしてしまえばただの毒々しいだけのアカラサマな悲惨を、五所監督は、もっと別の印象として、いわば場違いな清々しさによって描こうとしているような違和感(むしろ、ファンタステックな感じ)を覚えました。

弱者の虐げられた日常と絶望を描きながら、だからそこに「絶望」を描こうというのではなく、むしろ、それでもなお「ささやかな希望」を描いてしまおうとするところに五所平之助監督作品の真骨頂があるように思うし、そこにこそ状況に捉われない独特の温かみが醸し出されてくるのだと気がつきました。

「わかれ雲」を見たとき、僕はこの作品で演じた川崎弘子の抑制された演技が、「大阪の宿」を経たことによる演技的洗練の到達を示しているのだろうかと考えていました。

しかし、実は「わかれ雲」が1951年の作品であり、「大阪の宿」がその3年後の1954年の作品であることを少し後で知り、当時僕が抱いた「演技的洗練の到達」という直感が、単なる誤解にすぎなかったと知ったのですが、しかし、その誤解し続けた期間は、きっと僕にとっては、蜜月のようなものだったと思います。

「わかれ雲」で語られる手放しの善良さは、映画を見ることの幸福感と安心感を僕たちに与えてくれました。

僻みと孤独から心が折れて、誰とも打ち解けることのできないでいる屈折を抱えた娘が、旅先で出会った農村の人たちの善良さによって徐々に癒されていくという、寒々しい人間関係や熾烈な世界観を描き続けた小津安二郎や成瀬巳喜男なら決して描こうとしなかったこの随分と甘々な稚戯に等しい楽観を十分に承知したうえで、しかし、この「わかれ雲」を前にして、人間の善良さを信じようとすること、さらには、善良であろうとすることが、そんなにも「芸術的」に劣ったことであるのか、この作品を見ながら考えさせられてしまいました。

妻を亡くした父親は、女親を失ったひとり娘を心配して後添えを貰い、亡き母を忘れられない娘は、継母と打ち解けられない葛藤に苦しみ、後妻の若き継母も娘との越えられない壁に苦しんでいます。

また、そうしたねじれきった母娘関係を自ら作り出してしまった父親は、ふたりの間に立ち入れないまま、苦しみ続けています。

誰もが誰ものことを気遣いながら、傷つけ合わずにはおかない膠着状態のなかで、娘は信州の農村の人々の善意によって徐々に心を開いていく過程で、父親と再会します。

誰かを愛することで優しさを取り戻した娘を見て、罪悪感に苛まれていた父親は、やっと安堵の表情を浮かべます。

継母に済まなかった、帰って詫びたいと話す娘の言葉を受け止める三津田健の最良の(受けの)演技を見たと思いました。

そして、そこまで考えてきたとき、あるひとつの「写真」を思い浮かべました。

東宝争議の折、五所監督は左翼思想とはまったく無縁だったにもかかわらず、組合活動に理解を示し、あるいは同情し、デモなどにも熱心に参加して、先頭に立ってスクラムを組んで行進したということを伝えられています。

そしてそこには、その雄々しい写真が新聞に掲載されたために、パージの対象になってしまったという事件も付されています。

たぶん「善良」とは、そういうことなのだと思います。

失笑するか、侮るか、それともそうした人間の営みを愛しいと思うか、五所平之助作品を見るたびに、僕たちが微妙に試されているような気持ちにさせられるとしたら、その直感はあながち間違ってはいないかも知れません。

(1951スタジオ・エイト・プロ・新東宝)製作・平尾郁次、波根康正、内山義重、監督・五所平之助、脚本・館岡謙之助、田中澄江、五所平之助、撮影・三浦光雄、美術・久保一雄、照明・石川緑朗、録音・長岡憲次、音楽・斉藤一朗、監督補佐・長谷部慶治、製作主任・加島誠哉、
出演・沢村契惠子、川崎弘子、沼田曜一、三津田健、福田妙子、倉田マユミ、谷間小百合、岡村文子、大塚道子、岩崎加根子、宮崎恭子、関弘子、稲葉義男、中村是好、深見恭三、柳谷寛、小峰香代子、田中筆子、塩谷益義、加島春美、石島房太郎
1951.11.23 10巻 2,767m 101分 白黒
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by sentence2307 | 2009-02-23 12:39 | 映画 | Comments(2413)

殺人容疑者

もうずっと以前の話になりますが、宇野重吉が主演していた「蜘蛛の街」という作品をたまたま見て、その畳み掛けるような話運びの巧みさに驚かされて、その監督が鈴木英夫という名前であることを始めて知りました。

多分、最後まで途切れることなく、その作品をつらぬいている張り詰めた緊迫感や、畳み掛けるようなダイナミックな演出が、大げさではなく、まるでヒッチコックの巧緻とナンラ引けを取るものではないという衝撃を受けたからだと思います。

ただ、そのときの不意打ちを食らった鮮烈な印象は、予備知識のない自分にとって、どこにも繋がりようのない孤立した感動として自己完結させざるを得ず、行き場のないモヤモヤだけが残ったかんじがしていました。

しかし、それからかなり経ったあるとき、不意に友人から聞いた話を思い出したのです。

以前、映画通の友人が熱く語っていたことがある伝説の「三部作」(殺人容疑者、死の追跡、彼奴を逃がすな)というのを撮った監督と、この「蜘蛛の街」の監督こそ同一人物だったのだと。

それは「蜘蛛の街」を見てからでも相当の日数が経っていたのですから、暢気といえば随分暢気な話だったと思います。

そして、ここにきて、ようやく念願の「殺人容疑者」を見ることができました、聞きしに勝る秀作でした、心の底から堪能しました。

出演者全員が、飢えた狼のような怒りと殺意とを全身からギラギラと漲らせています、欲望に駆られ、この熾烈な現実を生きるためになら何をやってもいいのだと憑かれたように殺人を重ねる犯罪者と、そして、その殺人犯を執念で追う捜査官たち(彼らとて「憑かれていた」のだと思います)の誰もが、切羽詰った戦後の極限を生きる切実な表情と存在感を煌かせていました(本当は、黒光りさせていました、と書きたいところですが)。

場面には、遠くの街路を進駐軍の兵隊が何気なく歩いている姿が普通に写り込んでいるあたりも、世情がいまだ定まっていない緊迫感をリアルに醸し出している感じがしました。

たぶん、この作品を見た多くの観客は、このギラギラ感から、黒澤明の「野良犬」やジュールス・ダッシンの「裸の町」を連想したかもしれません(あるいは、その影響下から作られたのかも)。

僕としても、そう思うことを無碍には否定しようとは思いませんが、ただ、この作品が「野良犬」と決定的に異なるところがひとつだけある、そこのところを指摘しておかないと、自分としてはその意見にモロテをあげて同調するわけにはいかないという感じです。

作品全体として黒澤明の「野良犬」は、犯人の帰還兵の青年に対して、あるいは、さらに言えば祖国日本から使い捨てにされ何もかもを失った彼の「絶望と憤り」に対して、黒澤は犯罪を弾劾する姿勢の奥に、その青年を必ずしも全否定しない切実な共感を微かに残しているように思われました。

この「野良犬」も、黒澤作品の特徴である、虫けらのようなどんなに卑小な人間でも、存在の意味と生きる真実を持っているのだ、というメッセージが込められていたのだと思います。

当時にあっては、犯人のこの人間的な掘り下げは、確かにドラマに厚みと奥行きを持たせることができた革命的な営為だったと思います。

ただ、この考えが一般化してしまい、力量のない演出者たちの乱用がはじまると、「盗人にも三分の理」みたいなヘンな話になってしまうように思えてなりません。

例えば、コンニチのテレビのサスペンス・ドラマによくある設定で、崖の端まで追い詰められた犯人が、なぜ自分がこのような犯罪を犯さなければなかったのかを、(むかしの怨念とかをムシカエシテ)言い訳のように切々と語る場面など、僕には「野良犬」から発せられたものの歪曲解釈というか、あまりに酷い拡大解釈のようにしか感じられません。

物語の最後に、自分の犯罪行為の言い訳をして自己正当化をはかる犯罪者を描くことで、犯人像を安直に人間探求してしまうことによって、最近のドラマからナニカ重要な部分が失われてしまったような気がします。(手をつないで全員が同着になるように歪められた虚偽の運動会みたいなものかもしれません)

それに引き換え「殺人容疑者」に登場する犯人は、完膚なきまでに小気味いいほど徹頭徹尾悪いヤツに描かれています。

手下が警察に目を付けられたことを知ったボスは、その手下から足のつくのを恐れ、連れ去った車の中でナイフで刺したあとに至近距離から拳銃で撃ち殺すという念の入れ方で始末します。

ボスを鬼気迫る演技で好演しているのは、若き日の丹波哲郎でした。

しかし、出演者の名前には、「丹波正三郎」と記されています。

念のために、JMDBで丹波哲郎の出演作を検索してみました。

ところが、丹波哲郎の出演作の中に「殺人容疑者」のタイトルがありません。

欠落している、大発見だ、と喜んだまではいいのですが、考えてみれば、名前が違うのだから、記されていないのは当たり前か、とすぐに思い直しました。

なんかすっかり気疲れてしまったので、改めて「丹波正三郎」で検索する意欲を失いました。

(1952電通DFプロ・新東宝)製作・大條敬三、監督・鈴木英夫、船橋比呂志(蜷川親博)、脚本・船橋比呂志、構成・長谷川公之、原作・高橋秀夫、撮影・植松永吉、山田申策、照明・廣田三郎、録音・田中啓次、音楽・齊藤一郎、協力・警視庁、科捜研
出演・石島房太郎、大町文夫、三田国夫、恩田清二郎、丹波正三郎、土屋嘉男、纓片龍雄、小林昭二、高野二郎、田中一彦、沢晃二、橋爪輝雄、中原成男、今村源平、高本勝彦、池田秀男、谷三吉、霞涼二、高橋理、ジプシー・ローズ、野村昭子、水内立子、鈴木キワ子、中村洋子
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by sentence2307 | 2009-02-15 18:54 | 映画 | Comments(2)
最近、ちょっとショッキングな映像を見たので、心覚えにこのブログに残しておこうと思います。

いつもの習慣で、寝る前に、ひととおりニュースを見てから就寝しているのですが、2月5日(木)の夜も、そんな感じで、23時を少し過ぎた時間帯に、チャンネルのスイッチをあちこち押していました。

見る番組といえば、その日の気分しだいで、12チャンネルのワールド・ビジネス・サテライトか、6チャンネルのNEWS23か、4チャュンネルのNEWS ZEROのうちのどれかと決まっています。

そんな感じで、23時を少し過ぎたくらいの時間帯に、チャンネルのスイッチをあちこち押していたところ、たまたまNEWS ZEROの特集コーナーで(実際は、こんな呼称ではないかもしれませんが)、ちょっと衝撃的なルポを放送していました。

場所は新宿と思しきあたり「精神病者相談室」みたいな所です。

そこに勤務しているのは、精神病に苦しむ本人や家族のための相談員でした(きっと、行政関係の人なのだと思います)。

そこにひとりの娘が、母親のことで相談に訪れます。

ただ、母親とはいっても、事実上絶縁状態で、ここ何年も逢っていません。

最近、その一人暮らしの母親の異常行動が目立つという苦情が、たぶん地域のひとから寄せられ、どうにかしてくれと言われたのだと思います、そこで仕方なく娘は相談に訪れた、という感じでした。

しかし、どのような医療措置をとるにしろ、金銭的な余裕は自分にはないと娘は訴えています。

改めて番組表を見ると、こんなサブ・タイトルがつけられていました。

「母が突然妄想を訴え異常行動・・・《盗聴され殺される》家族に試練」

そこで相談員は、娘の母親と逢う約束をします。

すると彼女は、アパートの部屋はすでに多くの敵に見張られ盗聴されており、おまけに物凄い電磁波が満ちていて、とてもいられる状態ではない、とホテルで逢うことになりました。

実際に見るその怯えた様子は、やはりタダゴトではありません(当然顔にはモザイクが掛けられ、実際にはその切迫した様子は分かりませんが)。

いままでボクも多くの狂気を扱った映画を見てきましたが、狂気を演じた俳優と、この現実の病者との決定的な違いは、食事もせず、ほとんど眠れていないにもかかわらず、怯えや恐怖の極限の緊張感に引きずり回され、憑かれたように生きていくしかないその異常なパワフルさにあると感じました。

彼女は一人暮らし、ごく普通の平凡な女性でした。

高学歴で、社会で活躍した立派な経験もあり、恵まれた結婚もして二人の子供に恵まれ、幸せな家庭生活をつい数年前まで送ってきました。

ところが突然、彼女の人生に過酷な試練が襲い掛かります。

ひとつは離婚、そしてもうひとつは二人の子供たちが独立して、自分の元から相次いで離れていったことでした。

ある日突然ひとりきりになってしまった彼女は、アパートの一室で暮すことになります。

長い期間、まるで社会からも家族からも見捨てられたような孤独に晒されたために、徐々に精神の均衡を崩していった痛ましい過程が、おびただしいゴミが散乱した惨憺たるその部屋から伺われるように思えました。

冷蔵庫に詰め込まれた大量の食料はすでに腐り、そして冷凍庫に無造作に放り込まれた生ゴミの醜悪さは、日常感覚が徐々に歪みながらも、その歪みをなんの不思議もなく受け入れていった醜悪さを、そのまま表しているような気がしました。

しかし、その醜悪さ、その異常さは、突き放したような客観的な恐怖感を示唆しているというよりは、言葉を交わす相手もなく、ただひとり孤独に裂かれた痛ましさと、ごく身近な危機感をリアルに感じさせられました。

床下から湧き上がる電磁波を防ぐために、敷き詰めたダンボールや斜光資材の上に座布団を据えて、それがまっすぐに小さなテレビに向けてすえられている何気ない映像は、彼女が小さなテレビをじっと見詰めながら、少しずつ歪められていった孤独な時間の残酷な重みと深刻さを表現し尽くしていると思いました。

相談に来た娘は、奇妙な妄想に囚われ、延々と話し続ける異常な母親の姿に戸惑い、恐れ、できることなら回避したいという気持ちから、どうしても母親に話しかけることができません。

しかし、相談員は、現実からただ顔を背けるばかりの娘を、この世で母親を救えるのは肉親しかいないのだと一喝します。

そのひとことによって、娘は真正面から母親に向き合い、そして語り掛けたとき、母親も狂気のなかから、僅かばかりの従順さを取り戻して応えました。

それは、僕にはとても感動的なシーンでした。

長年見捨てられていた母親が、初めて肉親から語りかけられ、現実に生きている人間と言葉をかわすことによって、少しだけ現実に引き戻された瞬間だったのでしょうか。

病名は、遅発性統合失調症。長い独居生活によって女性の発症率が高い精神疾患だということです。
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by sentence2307 | 2009-02-07 17:35 | 徒然草 | Comments(136)

愛と死の記録

企画総務課の村田さんと気まずくなったそもそもの発端とはなんだったのだろうと、ぼんやりと考えていたら、やっと思い出しました。

そうそう、飲み屋で同僚と飲んでいたときに、一緒に飲んでいた企画総務課の村田さんが、「最近のタモリ、随分と年取ったなあって思いませんか」と感慨深げにしみじみ語り掛けられたことから、この話は始まったのでした。

「タモリばかりじゃありませんよ。タケシだって、さんまだって、昔のハチャメチャな頃を知っている者からすれば、随分とおとなしくなってしまって、なんだか淋しいですよ。
芸能界では、もうれっきとした大御所なんですから、仕方ないんでしょうがね(タケシなどは、もはや「世界のタケシ」ですよ)。
それだけボクたちも年取ったということなんでしょうかねえ」

あっ、これはいけない、定年の近い村田さんと話すには、ちょっと湿っぽい方向に脱線しそうだと咄嗟に危険を感じた僕は、あわてて話題を軌道修正させるために、「タモリが、熱烈な『サユリスト』ってこと、知ってました?」と振ってみました。

実は、当の村田さん自身が熱烈な「サユリスト」であることを、密かにある人から聞いて知っていたので、湿っぽくなった会話を活性化させるために、あえて村田さんが喜ぶ方へ話の水を向けようとしたのですが、結果的には、これがいけなかったのです。

吉永小百合が、いつまでも美しく、稀有なほどに崩れない、隙のない上品さを保っている素晴らしい女性であることは、十分に承知しています。

しかし、それが、女優としての評価と関係があるかといえば、多分ありません。

これは、ボクの持論なので仕方がないのですが、100本余の映画に主演した女優としては、代表作といえるものがまるでない、とこのとおりのことを(おそらく魔が差したのだと思います)村田さんに話してしまいました。

愛する吉永小百合をコケにされたサユリスト・村田さんは、もちろん、激昂しました。

「吉永小百合に代表作がないだと!」

逆上した村田さんは、吉永小百合の代表作と思しき作品を「あれは、どうだ」「これは、どうなんだ」と次々と上げていきます。

ナリユキからこんなことになってしまったのですが、かといって自分に嘘をつくわけにもいきません(相当酔っていたのだと思います)。

僕は、村田さんが上げる作品をことごとく理由つきで否定するハメになりました。

吉永小百合の演技を否定し続けながら、まるでこれじゃあ、吉永小百合を大根役者だと言っているのと同じではないか、と頭の片隅でぼんやりと考えていました。

本当は、和気藹々と美味しいお酒が飲みたかっただけなのに、とんでもない騒ぎになってしまい、その夜は、まさに喧嘩別れの呈で終わりました。

翌日すぐに村田さんの所に、いつもと変わらぬ調子で雑談でもしにいけば、「酒の上のこと」で済ませられたかもしれないのに、迂闊にも忙しさにかまけて、その和解のチャンスも逃してしまいました。

もうあれから随分日にちが経ってしまっています。

いまさら、なにもなかったみたいに話にいくのも白々しいし。

この紛糾した事態の収拾もさることながら、一方で、それ以来、吉永小百合に代表作と呼べるものが、果たしてあるのだろうか、と自問する日々が続きました。

しかし、どうしても思いつきません。

そして、ある日、総局会議が終わったあと、思い切ってタチバナ専務に吉永小百合の代表作を聞いてみました(ちなみに専務も社内では有名なサユリストです)。

「そりゃ君、『愛と死をみつめて』に決まっとるじゃないか。」

「ああ、そうか!」

専務のひと言で、(専務には大変申し訳ありませんが)別の作品が天啓のようにひらめきました。

「愛と死の記録」です。

そうだそうだ。

当時、相次いで見た両作品です、しかもこの二作品は表裏の関係にあるといってもいいほど似通った作品です。

だから、なおさら比較的にみたのかもしれません。

軟骨肉腫で道子を失った誠(浜田光夫が演じました)の喪失感と、白血病で幸雄を失った和江(吉永小百合が演じています)の喪失感を比較したとき、不意の死によって突然思いを断ち切られたような「愛と死の記録」の和江の喪失感の無残さの方が、僕には、はるかに胸に応えました。

そうだ、「吉永小百合の代表作には、『愛と死の記録』がありましたよ」って、明日また村田さんの所に行ってみようと思います、いまさら何だと張り倒されるかもしれませんが。

(66日活)企画・大塚和、監督・蔵原惟繕、助監督・木下喜源、脚本・大橋喜一、小林吉男、撮影・姫田真佐久、音楽・黛敏郎、美術・大鶴泰弘、録音・紅谷愃一、照明・岩木保夫、編集・丹治睦夫、製作担当者・山野井政則、スチール・目黒裕司、
出演・渡哲也、吉永小百合、中尾彬、浜川智子、佐野浅夫、滝沢修、垂水悟郎、三崎千恵子、鏑木はるな、芦川いづみ、漆沢政子、日野道夫、河瀬正敏、萩道子、
1966.09.17 8巻 2,530m 白黒 ワイド
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by sentence2307 | 2009-02-01 14:55 | 映画 | Comments(168)