世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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面影

東宝争議の記録を読んでいると、必ず出てくる記事があります。

それは、この昭和23年という年に東宝が封切りした映画が、争議の影響のために、結局たった4本しか封切ることができなかったという記事です。

その映画というのは、関川秀雄監督の「第二の人生」(2月3日封切)、五所平之助監督の「面影」(4月43日封切)、黒澤明監督の「酔いどれ天使」(4月26日封切)、豊田四郎監督の「わが愛は山の彼方に」(5月8日封切)ですが、黒澤明監督の「酔いどれ天使」は、見る機会が多く、テレビで放映されるたびに見ているので、きっと年に1回くらいは必ず見ているという感じです。

豊田四郎監督の「わが愛は山の彼方に」は、フィルムセンターの豊田四郎監督の特集上映のときと、日本映画専門チャンネルの特集放映の際に見ていますから、少なくとも二度は見ている勘定になります。

確か池部良が医師の役を演じていて、無医村に赴任して村の人間関係に巻き込まれるという話だったと思います。

この作品で、特に印象に残っているのは、看護婦を演じた中北千枝子が、いままで見たこともないような、愛欲に苦しむ女性を抑えた演技でくるおしく演じていたことでした。

それまでの僕の中北千枝子の印象は、世間話を愚痴る近所のおばさん役(成瀬作品の影響大です)程度の印象だったので、「女」を演じたその生々しい演技には目の覚めるような思いを抱いたと同時に、豊田監督の力量のほどを見せ付けられたような気がしたものでした。

「素晴らしき日曜日」で見せた善良さとはまた違う中北千枝子という女優の一面を鮮烈に感じた作品でした。

この争議の年、昭和23年に東宝が4本しか作らなかったとしても、例えば別の年に200本作った場合の作品自体の出来具合の違いがどこかにあるのか、と問われれば、その答えに窮することは理解しているのですが(あえて言えば「粗製濫造」という理由はあるかもしれません)、しかし、東宝争議の記事を読み、「この年は、4本しか作られなかった」というクダリに出会うたびに、まだ見る機会のない関川秀雄監督の「第二の人生」と、五所平之助監督の「面影」という2本の作品をますます意識しないわけにはいきません。

意識するたびに、仕方なく手近の資料を引っくり返してこの2作品についてチョコチョコ調べることで気を紛らわしてきました。

ある解説書には、これらの作品について、要領よくこんなふうに紹介されています。

関川秀雄監督の「第二の人生」については、「敗戦直後の社会問題のひとつとして当時クロース・アップされた戦災孤児の問題に関川秀雄監督が本格的に取り組んだ作品」とし、さらに、「作者の深い現実描写とヒューマンな視点を通して日本への批判を行っている点が注目される」と締めくくられていました。

高揚した文章の調子からすると、これだけでも随分な意欲作ということが察しられますし、映画評論家・佐藤忠男の解説には、ニコライ・エックの「人生案内」を引き合いに出していました。

これってほとんど絶賛じゃないですか。

その同じ文章のなかで、さらに佐藤忠男は「面影」については、「完全にブルジョア的な恋愛心理劇」と書いています。

これは決して「左翼的でないから駄目な作品だ」と貶しているわけではありません。

むしろ、この一文によって、大争議という混乱した時期に、こうした鷹揚な「ブルジョア的な恋愛心理劇」を撮った五所監督の、時代に右往左往しない人間性を述べたかったのだと思います。

この相反するふたつの解説を前にして、僕の気持としては、五所平之助監督の「面影」に方に気持が動いてしまうのは、時代に囚われない自由さを持った五所監督の生き方への共感からすれば、必然の成り行きだったかも知れません。

そして、最近やっと、積年の夢だったその「面影」を見ることが出来ました。

まずは、その迫力ある映像に魅了されました。

それはきっと映画にカツエタ人々の切迫した気持が撮らせたに違いない切実な映像の力だと思いました。

過酷な人間関係の苦悩に歪む浜田百合子や龍崎一郎や菅井一郎の表情を、なんの躊躇も、なんの衒いもなく、真正面から描写するその率直さには驚かされます。

僕が知り得たこの映画の紹介文は、実に簡潔でした。

「恩師の妻を愛してしまった男の物語」とか、もっと大雑把なのは「三角関係の行く末を描いたラブロマンス」なんていうのもありました。

しかし、この映画が描いているものが、単なる「三角関係」の物語なのでしょうか。

男(龍崎一郎が演じています)は、初対面の恩師の妻(浜田百合子)に亡き妻の面影を見て動揺します。

それは、彼が、失った妻を深く愛していたこと、そして、いまでも忘れられないでいる苦悩を示していて、もし恩師の妻が、亡き妻に生き写しでなければ、男が心を動かされることもなかったはずです。

そして男は、恩師の妻に、いまの生活に後悔はないかと訊きます。

この場面を見た当初、幸福に暮らしている彼女に対して、そんな質問は、随分と余計なことだろうと思いました。

しかし、男のその「質問」は、最愛の妻を失い、妻との愛の記憶と、その喪失に苦しむ彼にとって、妻の「面影」に対して訊くには、当然すぎる問いだと確信するようになりました。

老教授との形ばかりの生活の中に、どのような愛の真実があるのだと、まるで詰問するように問い掛けます。

それは、自分と妻とが共に過ごした愛の記憶の言わせている自分自身に向けられた問いにすぎないものだったかもしれません。

しかし、恩師の妻にとってその問いは切実で、改めて現在の、若さと引き換えにしたような安定した生活に迷いを起こさせます。

「本当にこれでよかったのだろうか」と、老教授との生活を彼女は、取替えしのつかない過ちのように苦しみ悶えます。

老教授も、肉体的に彼女を満足させてあげられないことに自責の念を抱いていることが明かされます。

「三角関係」という言葉からニュアンスされるものが、自らの欲望に忠実に、相手を我がものにしようと意図する過激でアクティブな摩擦と葛藤なら、この「面影」に描かれている愛憎の様相は、むしろ対極に位置する人間模様に思えました。

男は亡き妻の面影に動揺し、そして傷つき、恩師の妻も、男が傷ついた分だけの苦しみを受け、そして彼女が受けた痛みが、すべて老教授に起因しているかのような相克の地獄絵のなかにこの三人はのた打ち回っています。

そして、この三人は、もし相手を許せば、同じだけ傷つけることになることも十分に察しています。

これ以上、平穏な家庭に波風を起こさないように静かに立ち去る男と、かすかな気まずさを抱えた夫婦を暗示的に描いているこのラストは、しかし修復不能な事態の悪化は、実はもっともっと以前から二人の間にあったのではないかと、ふと思わせるものがありました。

(1948東宝)製作・井手俊郎、監督・五所平之助、脚本・館岡謙之助、原案・五所平之助、撮影・木塚誠一、音楽・高木東六、美術・河東安英、録音・空閑昌敏、照明・岸田九一郎、
出演・出演龍崎一郎、菅井一郎、浜田百合子、若山セツコ、笠智衆、赤木蘭子、大久保進、出雲八重子、望月伸光
1948.04.04 10巻 2,630m 96分 白黒
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by sentence2307 | 2009-03-21 16:41 | 映画 | Comments(35)

神阪四郎の犯罪

人間が4人いれば四通りの真実がある、と描くこの久松静児監督作品「神阪四郎の犯罪」のストーリーの奇抜さは、以前から聞いてイメージしていた評判ほどのものではなかったというのが、まずは最初の印象でした、きっとそれを失望と言い換えても、いいかも知れません。

例えば、この作品が躍起になって証明しようとしているものといえば、神阪四郎が「金にだらしなく、女には手が早い」という証人たちの証言が、どこまで真実かという程度のことで、脛に傷を持つ者たちの悪意に満ちたタクラミが背後にあったとしても、それがいったい何ほどのものなのか、という気持ちしか残念ですが持てませんでした。

「神阪四郎の犯罪」は、長い間、いつかは見てみたいと気に掛けていた作品です。

作品の出来如何はさておいても、あるいは、鼻につく森繁久弥の大仰な演技を差し引いたとしても、自分が長い間「見てみたいと願い続けてきた思い」が叶っただけでも、いつもなら、その達成感によって、過剰な思いを作品の評価にまで及ぼして作品を過剰に褒め倒すという性癖が、確かに自分にはありますし、否定もしませんが、それも映画を見る楽しみのひとつと考えている自分にとって、それなら、よりにもよって、なぜ「神阪四郎の犯罪」だけは、どうしても受け入れることができなかったのか(その感情は、むしろ腹立たしさといった方がニュアンス的には、ふさわしいかもしれません)、「あらゆる映画を弁護する」ことができなかったのか、しばらくは自分にも分かりませんでした。

この作品を見たのは、「日本映画専門チャンネル」です。

今年の5月から、いよいよ「裁判員制度」が始まるというので、日本映画専門チャンネルでは、いわゆる「裁判もの」の映画を特集しています。

それら類似の裁判映画を何本も見ている中で「神阪四郎の犯罪」も見たわけですが、この作品と同時に「それでもボクはやってない」を見たことが、僕の苛立ちの原因だったかもしれないと思えてきました。

「それでもボクはやってない」は、突然ある事件に巻き込まれた平凡な青年を主人公にした作品です。

朝の通勤電車の中で痴漢の嫌疑をかけられ、駅で身柄を拘束されます。

そして検察庁で取調官から、罪を認めて謝ってしまえば、無罪放免になるのだから、「した」と認めてしまえと言われたとき、「していない」青年は、「自分はしていないのだから、したとは言えない」と言い続けて、ついには裁判に掛けられてしまうというストーリーです。

この作品のダイナミックなところは、彼が「痴漢をしたのか・しなかったのか」が追求されていく後半よりも、むしろ、「したと言ってしまえば、許してやるぞ」と検事から恫喝される前半にあったのだと思います。

この裁判が進行していくに連れて、次第に明らかにされていくものが、本当は、彼が痴漢をしたか否かではなく、「認めなかった」ことによって問われている「罪」なのだと分かり始めてきます。

青年は、あるとき不意に痴漢と名指しされ、彼がその嫌疑を否定すればするほど、普段なら気づかない強権の不気味な存在が徐々に姿を現わしてきます。

権力の機関から一旦「犯罪者」と決め付けられてしまったからそこ、たとえそこで権力自身が誤りだと気がついたとしても、もはや後戻りできるわけもなく、また、決してミズカラ非を認めようともしない権力というシステムの硬直を、「それでもボクはやってない」という作品は描いています(一方では、自ら「罪」を認め形式的な謝罪さえすれば、すぐにでも社会復帰できるという実に心地よい免罪の甘やかで姑息な誘惑装置も兼ね備えています)。

しかし、この作品「それでもボクはやってない」において描かれていた「屈辱的な免罪」を拒むという意思は、なにも英雄的な反抗とか、ましてや権力に対してひれ伏すことを拒む「不服従」などという荒唐無稽の大袈裟なものではなく、いわばただの「痴漢行為=破廉恥罪」だったからこそ、僕たち観客を心から感動させることができたのだと思います。

そして、「自分はやっていないのだ」と訴え続ける持続の行為が、実は権力者のメンツに象徴される機構の虚妄と弱点を痛烈に突くことになり、だからこそ的確に権力の逆鱗にも触れてしまい、ひとりの無辜の市民を、なにがなんでも「犯罪者」に仕立てあげずには置かない微かな誤謬によるシステムの深刻な硬直が見事に明かされたのだと思います。

それは権力が、無力な一般市民を威信に掛けて断罪の場に引き摺り出し、とりあえず「犯罪者」に仕立てあげなければ、権力のメンツがつぶされ、また、ただの隠蔽の機能しか果たし得ない「裁判」というものの根源的な問いが発せられてしまうという危機感の現われでもあったからだと思います。

きっと「それでもボクはやってない」という作品は、権力の横暴を憎む人間を怒りへと駆り立てる限りないパワーを有している作品なのだと思いました。

それに比べれば、神阪四郎が、本当に「金にだらしなく、女には手が早い男」だったのか程度の「真相」を探求するこの作品に、「それでもボクはやってない」を見、テンションをMAXまで上げてしまった身からすると、当然この「神阪四郎の犯罪」は白け返らざるを得ず、作品に対する興味をいっぺんに失ってしまいました。

会社の金を横領し発覚を恐れた神阪四郎が、その穴埋めのために文学少女の指輪の詐取をねらい、心中に見せ掛けた行為を糾弾する裁きの場で、たとえそれが濡れ衣だったとしても、しかし、神阪四郎を演じる森繁の演技の過剰さと芸達者振りは、彼を罠に陥れようとした男たちが、世事に長けた神阪を今なんらかの手段で葬ってしまわなければ、今度は逆に自分たちの身が危なくなるぞという連想を容易に許すだけの強烈な演技力であり、それが却って、どちらにしても同じ穴の狢ではないかと思わせてしまう、作品自体に対する逆効果の役割を果たしてしまった皮肉な印象しか持てませんでした。

前述した僕の感じた失望や憤りは、もしかしたら、すべて森繁の過剰な演技に帰すべきものだったかもしれません。

しかし、こんな不幸な遭遇しかできなかったことに対する悔いもないわけではありません。

この映画「神阪四郎の犯罪」を、もうすこし落ち着いてから、雑念を払ったところで、独立した作品として、再度見直してみようかなと思いはじめています。

もしかしたら、俳優陣の過剰な演技(森繁が五通りの人格を演じ分けています)を楽しむことこそが、この作品の本当の価値を理解するための重要な要件だったのではないかと遅まきながら思えてきました。

(1956日活)監督・久松静児、製作・岩井金男、原作・石川達三、脚色・高岩肇、撮影・姫田真佐久、音楽・伊福部昭、美術・木村威夫、録音・八木多木之助、照明・岩木保夫、
出演・森繁久彌、新珠三千代、二木まこと、左幸子、金子信雄、高田敏江、宍戸錠、清水将夫、深見泰三、宮坂将嘉、伊達信、下条正巳、宮崎準、杉幸彦、若原初子、新井麗子、藤代鮎子、渡規子、広岡三栄子、轟夕起子、滝沢修、竹内洋子、大森暁美、柳瀬志郎
1956.02.25 12巻 3,468m 白黒
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by sentence2307 | 2009-03-18 17:08 | 映画 | Comments(2)