世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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執炎

フランソワ・オゾン監督の「エンジェル」を見て、久しぶりにヨーロッパのスタンダード・ストーリーを堪能し、満ち足りた気分になりました。

実際になにをもってヨーロッパのスタンダード・ストーリーというのか、十分な根拠があって言っているわけではありませんが、裕福な貴婦人が貧しく酷薄な青年に恋をして、裏切られたすえに、棄てられて破滅するという物語は、スタンダードと思えるほど、ヨーロッパの映画や小説では、よく出会った物語のような気がします。

「夏の嵐」とか「ボヴァリー夫人」とか「赤と黒」など、みんなその手のタイプの物語ですよね。

フランソワ・オゾン監督の「エンジェル」は、まさに、そのようにしか生きることのできなかった女性の運命的な生と死の物語を、格調高く描き上げた作品だったと思います。

そして、この「エンジェル」を見ながら、日本独自のスタンダード・ストーリーといえるものが、果たしてあるだろうかという思いに囚われました。

それなら、もちろん、一も二にもなく「心中もの」だろうと、頭に浮かんできた作品を数え上げていきました。

「心中天網島」とか「曽根崎心中」とか、少し違うかもしれませんが、「近松物語」とか。

あれもこれも、と数え上げていくうちに、蔵原惟繕監督の「執炎」に辿りつき、そこで少し複雑な気持ちになりました。

むかし見てすごく感動した(と思い込んでいる)映画を、時間が経ってから再び見直してみると、この作品を当時どうしてあんなふうに感動したのだろうかと、ちょっと見当がつきかねる映画というのが結構あったりします。

僕にとってのそういう作品が、蔵原惟繕監督の「執炎」でした。

戦争によって相思相愛の男女の愛が、無残に引き裂かれる悲恋を、反戦の思いをこめてラディカルに描いたシリアスな映画です。

僕としてもリアルタイムでこの作品を見たわけではなく、封切りからかなり時間が経過してから並木座か文芸地下あたりで見たのだと思いますが、その頃も依然として評価の高かった作品だったという記憶はあります。

いまだって手近にある解説書をペラペラとめくってみれば、この作品を「蔵原惟繕監督の最高傑作」と謳いあげる賛辞を容易に見つけることができます。

そういう予備知識とか、当時の映画青年たちの熱い解説などにも影響されて、自分としてもなんとなく感動してしまったのかもしれませんが、つい最近になって、再びこの映画を見るチャンスがあって、意外なことに気がつきました。

今回も当時からずっと持ち続けている好印象に支えられて見たわけですが、しかし、このとき不意に出会った違和感を、まずは率直に書いておこうと思います。

若妻きよの(浅丘ルリ子が演じています。これが主演100本目の記念作だったそうです)は、戦地で負傷した瀕死の夫・拓治を、誰もが絶望視していた危険な状態から、必死の看病によって奇跡的に蘇らせた経験を持っており、それ以来、夫を奪う戦争というものに特別な憎悪を抱いています。

そして、夫との平穏な生活を守るために、人里を離れた山奥で2人だけの静かで幸せな生活を続けていました。

しかし、迫りくる戦況の悪化によって、再び拓治は召集されて戦地に連れ去られてしまいます。

愛する拓治(伊丹一三→十三が演じています)を兵隊に取られ、離れ離れに暮らさねばならないことを嘆き続けたきよのは、拓治のいない現実に耐えることができず、悲しみのあまりついに自失してしまいます、つまり心神喪失の状態でしょうか。

彼女がそんな心神喪失状態でいるある日、拓治の戦死の報が届けられます。

しかし、心神喪失の状態にあるきよのには、拓治の死を認識することができません。

きよのは拓治の死を知ることもなく、日々を自分だけの世界の中に閉じこもって軽やかに暮らし続けます。

このまま記憶が戻らなければ、この状態は、あるいは「幸い」といえる状態なのかもしれません、もし、このままの状態で彼女にも死が訪れたなら、確かにそれは、とても幸運なことだったかもしれません。

しかし、正気にかえってしまう日が、不意にきよのに訪れます。

正気に戻った彼女は、拓治のいない現実におびえ動転し、不吉な不安のなかを必死に拓治を求めて家へと走り帰りますが、彼女を待っていたものは、仏壇に飾られた拓治の遺骨と遺影でした。

かつて戦争によって愛する夫との別離を強いられ、悲しみに耐え切れないあまり我を見失い、そんなふうに心を閉ざさなければならなかったあの日と同じように、長い空白の時間をくぐりぬけてきた彼女の前に待っていたものは、さらに痛切な夫の死という無残な事実でした。

そして、そのあとで語られる絶望したきよのの自殺は、十分に説得力のある鮮やかなストーリー展開であり、僕の記憶のなかに極めて鮮やかな痕跡を残し続けたのだと思います。

しかし、今回この映画に再会した僕は、自分の記憶のすべてを裏切るような、とても意外で衝撃的な「もの」を見てしまったのだと思います。

それは、仏壇に飾られている「拓治の遺影」でした。

僕の記憶では、この遺影は、観客にきよのの悲しみを観客に更に印象付ける悲壮で重々しい効果的なものだったからこそ、この作品を強烈な印象と共に記憶してきたのだと思います。

しかし、そこにあった「遺影」は、僕の記憶の中にある「もの」とは、まったく別物でした。

そこにあった実際の映画の遺影は、僕たちがよく知っている皮肉屋でプライドが高い(プライドが傷つけられれば容易に死を選択できるくらいの「高さ」であったことが既に証明されています)伊丹十三そのままの、皮肉な薄笑いを浮かべた遺影でした。

きっと映画の意図からすれば、その遺影はきよのに優しく微笑みかけ、殊更に戦争の無残さを強調して、観客を物語のクライマックスへといざなう「微笑」のはずだったものが、すでに伊丹十三の華やかな成功と挫折、そして無残な結末を既に知ってしまっている僕たちにとって、この皮肉な笑みを、手放しの善良さとして額面どおり受け取れるわけもなかったからだと思います。

そして、その微苦笑ともつかない会心の笑みをよくよく見ていると、もしかしたら拓治は、きよのと離れて軍隊に入ったことで、はじめて心の平穏を得たのではないかと思えてしまうほどの微笑に見えてきました。

例えば、きよのが拓治を心から愛していたように、拓治は彼女の愛情に匹敵するだけの気持ちを持っていたのだろうか。

きよのの強引な求愛を前にして、拓治はたじたじと戸惑い、彼女に対して同意とか拒絶とかを表明する以前に、きよのの求愛に圧倒され、ただ引きずられたにすぎないのではないか、という気がしてきたのでした。

もし、あの写真が軍隊で撮られた写真なら、その会心の笑みは説明がつくような気がしました。

つねに愛されていないと気のすまない女に、脅迫的に絶えず付きまとわれ、あてつけがましく愛の応答を強いるきよのから逃れる唯一の場所が、この軍隊ではなかったのか、きよのの過剰な干渉から逃れることのできた唯一の場所・軍隊に身を置くことによって拓治の晴れ晴れとした開放感が微笑となって、あの遺影に写し出されていたのではなかったのかとまで考えてしまいました。

そんなふうに僕が考えたのは、あまりにも慌しく、そして呆気なく僕たちの前を走り去っていった伊丹十三という才人の早逝が悔やまれてならないことがあったからに違いありませんが、あるいは、この映画の中で図らずも遺された自嘲を湛えた「遺影」が、大衆の過剰な要求に、ついに最後まで応えを出し続けることができなかった伊丹十三の栄光と挫折を思い出させたからかもしれません。

(1964日活)企画・大塚和、監督・蔵原惟繕、脚本・山田信夫、原作・加茂菖子、撮影・間宮義雄、音楽・黛敏郎、美術・松山崇、録音・福島信雅、照明・吉田一夫、編集・鈴木晄、
出演・浅丘ルリ子、伊丹一三、芦川いづみ、平田大三郎、松尾嘉代、上野山功一、河上信夫、山田禅二、加原武門、入江杏子、石原初子、重盛輝江、紀原土耕、村田寿男、久松洪介、鈴木三右ヱ門、信欣三、細川ちか子、宇野重吉

1964.11.22 11巻 3,303m 白黒 ワイド
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by sentence2307 | 2009-05-30 13:50 | 映画 | Comments(0)

笑の大学

録画する際にチャンネルの設定を間違えて、まったく別の映画を録画してしまうなんてことが、結構あります。

何ヶ月も経ってから、ケースに記されたタイトルを信じて再生ボタンを押して、はじめて間違いに気が付くという始末です。

以前なら、そんなとき、見損なってしまった映画のことばかりに気持ちがいってしまい、癪に障って、折角録画した作品まで消去してしまうなんてこともありました。

しかし、考えてみれば、そういう偶然(見たいとは思っていなかった作品が、逆に見られるという成り行き)もなかなかオツなものではないかと最近思うようになりました。

自分の選択の基準に囚われて、普通なら絶対に見るはずもない作品を、こういうかたちで見る機会を得られるというのは、ある意味、自分の狭い価値観の限界を教えてもらえるチャンスでもあるかもしれないからです。

「笑の大学」は、そんなふうな出会い方をするのには、最も望ましい時間の経過と印象の成熟を持った作品だったといえるかもしれません。

作品の印象は、やはり強烈な部分だけを残して、薄い部分はどんどん忘れつつあります、それと同時に、この映画は「こういう作品だ」と決め付けた自分の凝り固まった固定観念を思い知らされるいい機会だったかもしれません。

時間の経過による、そういう自分と作品とのイビツなギャップを知るということは、とても素晴らしい体験をさせてくれることを、この「笑の大学」は教えてくれたと思います。

先入観が自分の中でコチコチに固定化されてしまえば、それから先は、自分からは二度とその作品を見ようなどという意欲は失われてしまうはずで、今回こんなかたちで録画設定を間違える偶然がなければ、この「笑の大学」という作品を、こんなふうにして見ることもなかったかと思うと、こういう偶然て大切なのかもしれないと思えるようになりました。

さて、この「笑の大学」という作品に対する自分のなかにある「固定観念」というヤツを少しだけ書いてみますね。

普通言われている権力への抵抗のカタチとしては、権力からのすべての働きかけを拒絶して信念を貫き、死を掛けて徹底抗戦するのがひとつの行き方だとすれば、稲垣吾郎演じる椿一の闘い方は、権力者からの無理難題をすべて受け入れ折り合いながら、どうにかして作品を優れたものに仕上げていこうという行き方です。

死をもイトワヌ徹底抗戦の方は、格好もいいし、同志からの賞賛も得やすい。

それに反して、権力者にぴったりと寄り添いながら折衷案を模索してどうにか行き場を切り開こうとする行き方は、日和見と誤解され、裏切り者と非難され、臆病者と軽蔑されたうえで排除され、悪くすると末期の連合赤軍のような内部処刑くらいは喰らいかねないオソレさえある。

検閲官の言いなりになって台本をどんどん書き換えていく椿一に対して、座員たちは、その不甲斐ない椿を「権力の犬」と罵って殴りつけたというエピソードも語られています。

「マイケル・コリンズ」や「麦の穂を揺らす風」みたいな作品を堂々と世に送り出す風土の国から見れば、なんとも女々しい「笑の大学」ではありますが、しかし、ここには考える価値が十分にそなわった「大人の問題」が内包されているという気がします。

むしろ、憎しみから躊躇なく敵を虐殺し、その憎悪の達成感から心底快笑するような「マイケル・コリンズ」や「麦の穂を揺らす風」の異常さにはどうしても付いていくことのできない自分にとって、この現実的な「笑の大学」のテーマは、成熟した大人のテーマだと思いました。

しかし、それなら何故、設定間違いでもしなければ、二度と見ることもない「戸棚」に仕舞い込んでしまったのかといえば、あのラストの場面、椿一が心通わせたと思い込んだ検閲官サキサカに、チカラない庶民の闘い方を滔々と話し始めた場面で、自分はこの作品に失望し、その失望感が作品の悪印象につながり、「その程度の作品」という記憶の固定観念の棚に仕舞い込んだのだと思います。

しかし、再度この作品を見て、その印象が、随分と早計すぎた結論であることを悟りました。

この作品が、椿一の闘い方の物語であるよりは、むしろ、検閲官サキサカの、人を楽しませることに何の意味があるのだと問い続け、そして、答えを得ていく物語なのだと分かりました。

(2004東宝)原作・脚本:三谷幸喜、監督:星護、製作:亀山千広、島谷能成、伊藤勇、企画:石原隆、プロデューサー:重岡由美子、市川南、稲田秀樹、アソシエイトプロデューサー:小川泰、佐藤玄、エグゼクティブプロデューサー:前島良行、音楽:本間勇輔、撮影:高瀬比呂史、美術:清水剛、照明:小野晃、録音:田中靖志、装飾:高畠一朗、編集:山本正明、スクリプター:外川恵美子、監督補:加門幾生、製作担当:牧義寛
出演・役所広司、稲垣吾郎、高橋昌也、小松政夫、石井トミコ、小橋めぐみ、河野安郎、長江英和、ダン・ケニー、チュフォレッティ、吉田朝、陰山泰、蒲生純一、つじしんめい、伊勢志摩、小林令門、眞島秀和、木村多江、八嶋智人、加藤あい、木梨憲武
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by sentence2307 | 2009-05-24 17:04 | 映画 | Comments(0)

禍福 (前篇・後篇)

ストーリーが展開するために必要な、いわば物語の推進力みたいなものが、登場人物たちの葛藤や軋轢によって生み出されていくものなら、この成瀬巳喜男作品「禍福」は、僕たちにとても奇妙な印象を抱かせる作品だと思いました。

なぜそのように感じたかというと、この壮大な愛憎劇のなかで繰り返し描かれる衝突は、つねに奇妙な形で収束されて、その都度繰り返し挫折を強いられるという印象を抱かされるからかもしれません。

愛する者の背信行為によって生じるはずのそれぞれの憎悪が、その都度あまりにもあっけなく、そして、それが奇妙な相似形を保ちながら、ことごとく挫けてしまうということでしょうか。

愛する人の思いを裏切り、そして自分を傷つけ・苦しめた相手に対して、当然抱くはずの憎悪は、その都度、登場人物たちの無責任な逡巡と、なりゆき任せのような煮え切らない態度によって、当初観客が当然に思い描いていたストーリー展開とは、まったく別の方向へ動き始めていくという局面に、絶えず晒される(正直なところは「裏切られる」とでも言った方が相応しいのですが)ことになるからだろうと思います。

例えば、その最初の例としては、豊美(入江たか子)との結婚まで約束した皆川(高田稔)が、経済的苦境にある実家の父親から強硬に仕組まれた持参金付きの娘との結婚に、反発しながらも肉親のシガラミに囚われて断り切れず、仕方なく見合いだけはしなければ義理が立たないということで帰郷する物語の発端部分に、それはまず登場します。

許婚者・豊美には、心配はいらない、すぐに戻ってくるからと言い残して、気の進まない見合いに臨んだはずの皆川は、幼馴染でもある美しい見合いの相手・百合恵(竹久千恵子)に逢うと、すぐに心惹かれてしまいます。

この場面の描写は、観客には、皆川の一方的な「ひと目惚れ」のように見えてしまうかもしれません。

しかし、たとえ「ひと目惚れ」にしても、東京には許婚者が待っている身であり、心配は要らない、自分はただ親への義理から嫌々いくのだから待っていてくれとまで言って帰郷しているのです。

それをすんなり心変わりするなんて、あまりといえばあまりの仕打ちです。

物語は、そのとき棄てた許婚者のお腹には皆川の子供が宿っており、結局皆川には、告げられることのないまま、この子供はひそかに産み落とされ、物語はさらに錯綜していくこととなります。

そして、もう一度、似たパターンが繰り返されることになります。

豊美が働いている洋裁店の客として現れた百合恵と豊美は、意気投合して友人つき合いを始めますが、やがて彼女が皆川の妻だと知って驚きながらも、豊美はどうしても百合恵個人を嫌いになることができません。

まさにこれは、皆川が百合恵に出会って、彼女の魅力に囚われてしまい、どうしても別れられなくなってしまった「あの状況」とまったく同じケースです。

この映画の随所に仕掛けられている罠は、もっとも憎まなければならないはずの相手をいざ前にすると、その魅力に囚われてしまい、いままで自分が最愛の人だと思っていた相手が急激に色褪せてしまうという挫折を繰り返すことによって、ストーリーは縺れに縺れ、こじれにこじれてしまいます。

考えてみれば、その後繰り返し製作され、ヒットした大恋愛メロドラマ(運命的な出会いによって、ただひとりの人への愛を一途に貫く)といわれる作品と比べるとき、この作品の特異さは、きわめて際立った特徴を有しているといえるかもしれません。

みんながみんな、こんなにも惚れっぽかったら、物語は根本的に成立しなくなるだろうし、後年に撮られる「浮雲」を知っている僕たちにとって、この作品にみせている成瀬巳喜男の集中力の途切れが、そのまま作品に反映してしまったかのような印象を受けた作品でした。

(1937東宝東京)監督・成瀬巳喜男、原作・菊池寛、脚色・岩崎文隆、撮影・三浦光男、美術・北猛夫、録音・鈴木勇、音楽・仁木他喜雄(前篇)、伊藤昇(後篇)
出演・入江たか子、高田稔、丸山定夫、英百合子、船越節子、生方明、伊東薫、入江たか子、御橋公、伊藤智子、竹久千恵子、汐見洋、三条利貴江、逢初夢子、大川平八郎、嵯峨善兵、神田千鶴子、清川玉枝、

(前篇)2138m 9巻 10月 1日 日本劇場、(後篇)2151m 9巻 11月 11日 日本劇場
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by sentence2307 | 2009-05-10 09:59 | 映画 | Comments(190)
地上波初放映というこの作品、見逃していたので、「面白くなければ、すぐにやめてしまおう」という中途半端な気分で一応見始めました。

見ていくうちに、いつの間にか映画の中にどんどん引き込まれていったのだと思います、そして、ついに最後まで見通してしまいました。

若くして離婚した母親は、自分の幸せよりも、常に一人息子のことだけを気遣いながら、東京で勉学に励んでいると信じる息子への送金のために、過酷な生活と必死に格闘し続けてきました。

息子は、そうした母親の期待に応えることのできない無気力な自分に負い目を感じながらも、東京でどうにか生活を確立させていきます。

離れ離れに暮らしてきたそのような十数年の、いわば息子の「負い目の物語」がまず前置きとして描かれたあとで、既に末期の癌に罹病している母親を東京に呼び寄せて、わずかに残された親子の時間を共に過ごすという濃密な後半部を持ったストーリーです。

この物語を支えているのは、常に子の行く末を気遣う母親の「思いの深さ」と、その思いに十分に答えることのできない息子の母親に対する「負い目の重さ」との悲しいバランスが、この映画に、ある種の気高かさを与えているのだと感じました。

しかし、こうした印象は、必ずしも初めての経験ではありません。

小津安二郎の「父ありき」を見た時にも、同じようなことに感動したことを思い出しました。

しかし、この作品と「父ありき」で受けた「ピュアな感動」を並べて比較してみると、この「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」が、あの「父ありき」ほどの透明感を持っているだろうかという疑念に捉われました。

透明感というのは、もちろん、作品の優劣というような意味合いではありません。

実際に現実を生きる人間たちの実話性が持っている無軌道なチカラというか、計算されつくした虚構などは優に撥ね返してしまうような活力、筋書きという枠に収まらないリアルさのことを示しています。

観客を感動させるために、「当然こうあるべき」という緻密な計算によって隅から隅まで計算して創作される虚構から、外れていく生々しい人間の矛盾錯綜した意識と行動とでもいうべきなのかもしれません。

目の前で、だんだん衰弱していく病魔に取り付かれた母親を前にしても「何もしてあげられない」と自分を責め続ける息子の、罪の意識に根ざす切実な思いのすべてを、たぶん母親は許しています。

許しながらも、抗癌剤による闘病の苦しみに耐え切れずに力尽き、死を徐々に受け入れていく母親の衰弱していく悲痛な過程が描かれています。

そして、この悲痛な描写の部分に、僕は違和感を覚えましたのだと思います。

なにしろ、息子は、いままで苦労を掛け続けてきた母親に、東京の生活がどうにか安定したいま、なんとか恩返しをしたいと考えて東京に呼び寄せています。

いままで苦労を掛けてしまった分、母親にはこれから楽をしてもらいたい、穏やかな生活を送ってもらいたいと願った息子の贖罪の物語の一連の流れの中で、抗癌剤の副作用にのたうち苦しむ母親の姿が描かれる唐突さに、物語の流れに融和できないまま自分は、結局ひとり取り残されたような違和感を覚えたのだと思います。

なにしろ、抗癌剤治療の話があったとき、確か母親はそれほど乗り気ではなかったと見受けられました。

抗癌剤治療の苦しみを医師から聞いていた息子も、幾分のためらいを見せていたのは、彼の脳裏に医師から受けたリスクの話が残っていたからに違いありません。

しかし、その親子の逡巡を断ち切るように、同席していた恋人の(何も知らない)松たか子が、オカンに向かって、
「あなたは、東京の皆から愛されている。あなたを失うことは自分たちには悲しくて耐えられない。あなたを愛している自分たちのためにも、ぜひとも抗癌剤治療を受けて延命の努力をしてほしい」
と強い口調で勧めています。

延命を願う松たか子の思いと行為が、純粋な愛情から発せられていることは、たぶん疑いようもない事実だろうと思います。

しかし、その彼女のアドバイスによって、そのあとに続く一連の抗癌剤治療に苦しむオカンの惨たらしい悲痛な場面が展開することは、いったいなにを意味しているのか、考えさせられてしまいました。

この種の愛情表現(愛のために)には、世の中をいい加減に生きている人を服従させずに置かない抵抗し難い正当性があって、だから松たか子から浴びせ掛けられた「愛情告白」の前では、この親子は、なすすべもなく、地獄のような苦痛を耐え忍ばなければならない無益で余計な苦痛を選択するしかなかったのだと思います。

そして、そのとき既に彼女が、息子と別れてしまっていることが後になって判明するに及んで、この作品は、薄幸な母子に対する松たか子の悪意の物語なのではないかと邪推したくなるほどでした。

オカンが亡くなったその通夜の晩、息子は、苦労の掛け通しだった母親の亡骸の傍らに添い寝をする描写がありました。

なによりも息子に仕事があることを素直に喜んでくれた母親の遺志が暗示されたあとで、母の教え通り通夜の晩にも仕事をこなして、母親との約束をやり遂げ、彼は満足気に母親の亡骸の傍らに身を横たえます。

母親が息子に一番望んでいたことを成し遂げた彼は、きっと達成感と満足感とに満たされ、在りし日の母親の面影に包まれて、母親の亡骸の傍らにその身を横たえたのだと思います。

映画がここで終わっても一向に差し支えなかったのではないかというのが、僕の率直な感想です。

しかし、映画はここでは終わらずに、再び松たか子が現れて、
「東京見物させてもらっただけで、一生分の親孝行をしてもらったようなものだ、十分に満足しているとオカンが言っていた」
と息子に告げます。

映画のこの辺りでは、僕のなかでは既に映画は完結してしまっていたので、はっきり言ってこのセリフは邪魔でした。

息子はきっと、こんな慰めの言葉を聴いても、もはや癒されるとか癒されないとかの心の状態から、途轍もない隔たりを感じていたのではないかと思えてなりません。

僅かな時間であっても、母親と共に暮らすことができたこと、そして彼女の死を見取ったことで、この親と子を隔てていたものが、既に氷解したに違いない、それが、あの添い寝の場面に象徴されていたのだと思います。

ですので、あの場面に強引に割り込んできて「オカンは、満足していたって言ってたわよ」などとわざわざ余計なことを言いに来るモトカノに対して、きっと、僕だったら、思わずカッとなって、「分かったようなことをぬかすな!」くらいのことは、言ってしまっていたかもしれませんね。

(2007松竹)監督:松岡錠司、原作:リリー・フランキー、脚本・松尾スズキ、撮影・笠松則通、音楽・上田禎、
出演・オダギリジョー、樹木希林、内田也哉子、松たか子、小林薫、伊藤歩、勝地涼、平山広行、猫背椿、冨浦智嗣、田中祥平、谷端奏人、渡辺美佐子、佐々木すみ江、原知佐子、結城美栄子、荒川良々、辻修、千石規子、小泉今日子、宮崎あおい
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by sentence2307 | 2009-05-09 18:41 | 映画 | Comments(684)