世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

<   2009年 08月 ( 4 )   > この月の画像一覧

容疑者Xの献身

学生時代には、誰よりも突出して成績が良かったようなヤツが、社会に出てから思わぬ不遇をかこっている噂などを聞かされると、社会で生きることの厳しさを、つくづく思い知らされることがあります。

人それぞれに持って生まれた性格や、他人との付き合いのうえでの天性の気配りのセンスとか、世渡りの上手下手など、学生時代にブイブイいわせた「点取り技術」だけではどうにもならない部分での世間の評価は厳しく、学生当時、クラス一番の秀才だったヤツが、いまではウダツの上がらない万年外回りの営業マンなどにこき使われてうんざりした汗をかいているなんていう話は、自分も含めて結構ザラに聞く話だと思います。

「容疑者Xの献身」における湯川と石神の関係を眺めながら、なんだかそんなセチガライことを考えてしまいました。

見るからに御清潔感溢れる好青年・誰からも等しく好意をもたれる恵まれた天才・湯川と、見かけも貧相で、うまい世渡りもできず、世に入れられず失意を抱えながら社会に押し潰されるように息をひそめて俯いて生きる数学の高校教師・不遇な天才・石神との対比が、やはりこの映画を見るうえでのダイナミズムといえるかもしれません。

しかしこの二人、それにしても、どうしてこうも生きる方向性が違ってしまったのでしょうか。

大学時代、偶然に出会った彼らは、ともに学問を孤独に愛する共通の明晰さを理解しあい、そして深い絆で結ばれながらも、湯川は大学教授という社会的な地位を得たのに、石神は不遇のなかで絶望しながら生きるという不運にみまわれています。

この理不尽なギャップについて、僕たちが、極力妬みや反撥心などの雑念を抑えながら、もし、客観的に、「あいつと俺とは、いったい何が違うんだ」という純粋な疑問をつきつめていっても、きっと明確な答えを見つけ出せないまま、結局は、この映画で描かれているような破滅的な成り行きを辿らざるを得ないのだとしたら、それも随分疲れる運命論で決め付けられてしまうのだなあとイササカうんざりしてしまいました。

天才数学者でありながらウダツのあがらない高校教師にあまんじている石神哲哉のように、結局社会に対する怒り(この場合は、犯罪の加担というカタチになりますが)にしかつながらないとしたら、なんという絶望的なシチュエーションかと、胸がツカエ、息詰まるような遣り切れない気持ちだけが残ってしまいました。

多くの推理ものの映画から得られる独特のスカッとしたものが得られなかったのは、こうした重々しいテーマが挟み込まれていたからかもしれませんが、しかし、どうもそれだけでもなかったような気もします。

映画を見たあとで、いつも自分がよくやるのですが、感想をひねり出そうとして訳が分からなくなったときは、一歩さがってこんなふうにラディカルな問いを自分に課してみます、「この映画に本当に感動したか?」と。

自分が、果たして「容疑者Xの献身」という映画に本当に感動しただろうかと問われてみれば、改めて、それは多分「しなかった」と答えると思います。

権力に寄り添う「良き天才」が、「悪しき天才」の完全犯罪を頭脳によって突き崩すという頭脳ゲームをスポーツのように楽しむのなら、湯川の中途半端さを際立たせないような、どこまでも能天気なスポーツ感覚の向日性の描き方が必要だったのではないか、という気がします。

天才の作った難問を、もう一人の天才が解明すること(たぶんこれだけなら、「遊び感覚」の範疇で語られるべきものです)が、同時に相手を窮地に追い込むことを認識しながら「そう」せずにはいられないことに関して、当の湯川教授はどう考えているのか、あらゆる不正は解明されなければならないし、裁かれ、そして断罪されなければならないのだという正義感と倫理観に凝り固まった偏執に囚われているわけでもなさそうな湯川教授が、なぜ、偽りの罪に服そうとしている石神哲哉の「嘘」を更に暴き、もうひとつの殺人まで暴く必要が果たしてあったのかが理解できませんでした。

湯川のその「冷徹さ」は、石神哲哉が隣家の主婦・花岡靖子のアリバイ工作のために、名もなきホームレスを冷静に殺してしまう「冷酷さ」と同質のもののような気がします。

それでもシャーロック・ホームズみたいに、見過ごしても全然気にならないようなゲーム感覚で物語が語られるのならともかく、生々しい生活臭(虐げられた者の怨念みたいなものだと思います)が、この映画では、あまりにも前面に現れすぎてしまっていて、スポーツ感覚では済まされない遣り切れない思いにさせられるのが、ひとつの理由だったかもしれませんし、さらにもうひとつ、この映画でどうしてもひっかかるものがありました。

石神哲哉が命に掛けて守ろうとした隣家の主婦・花岡靖子です。

別れたDV亭主に付きまとわれ、相変わらずの暴力に苦しめられたすえに、思い余って主婦・花岡靖子は、暴力亭主の首をコタツのコードで絞め殺してしまいます。

この成り行きを偶然に知った石神哲哉は、以前から花岡靖子に思いを寄せていたこともあって、彼女の苦境を完璧なアリバイを創作することで救おうとしますが、最初のうちの花岡靖子は、石神哲哉のアドバイスのとおりに動くものの、次第に指図されることに苛立ちを募らせたすえに、こんなふうにキレてしまいます。

「これじゃあ、以前とちっとも変わってない、亭主が石神哲哉に代わっただけじゃないの」と。

しかし、このセリフは明らかに変です。

DV亭主が、彼女を理不尽な暴力によって苦しめ続けたのに対して、石神哲哉はただ彼女を助けようとしているだけなのです、石神の恋情を知ったために、それが彼女には同じように「重たいだけの拘束」としか感じられなかったとしたら、身に降りかかった状況というものを一切考慮しよしとしない身勝手な女の感情的な言葉にすぎず、ストーリーはこの一言によって完全にぶち壊されるという、これは随分絶望的な状況なのではないかという気がしました。

もしかしたら、彼女は最初から石神の救助など必要としなかったのかもしれない、この凶行から、娘の関与を外すことさえできれば(父親の腕には、抵抗を封じた娘の指の痕跡が痣としてくっきりと残っていました)、彼女だけなら最初から自首する積りだったのだろうか。彼女は、どこまで石神哲哉の思いを受け入れようとしたのか、結局なにひとつ分かりませんでした。

これは、石神哲哉の思いに対する花岡靖子の拒絶の物語なのかという袋小路にまで行き着いて、ついに「感想」は迷宮に迷い込んでしまいました。

(2008東宝)監督:西谷弘、製作:亀山千広、企画・大多亮、エグゼクティブプロデューサー・ 清水賢治、畠中達郎、細野義朗、プロデュース・鈴木吉弘、臼井裕詞、プロデューサー・牧野正、和田倉和利、プロデューサー補・大西洋志、菊地裕幸、脚本:福田靖、撮影:山本英夫、音楽:福山雅治、菅野祐悟、照明・小野晃、美術・部谷京子、整音・瀬川徹夫、録音・藤丸和徳、編集・山本正明
出演:福山雅治、柴咲コウ、北村一輝、松雪泰子、堤真一、ダンカン、長塚圭史、金澤美穂、益岡徹、林泰文、渡辺いっけい、品川祐、真矢みき、
[PR]
by sentence2307 | 2009-08-30 10:00 | Comments(0)

ハリウッドランド

むかし、ブラック系のアメリカン・ジョークで、こんなジョークを聞いたことがありました。

スーパーマンが拳銃自殺を試みようとしても、もともと拳銃の弾など撥ね返してしまう超人の彼は、どうしても死ぬことができず、それならばと鉄道自殺を企てても、機関車よりもチカラが強いスーパーマンは、やはり、轢かれるどころか列車を持ち上げてしまうばかりで、死ぬに死にきれませんでした、という辛口の小話だったと思います。

その話を聞いたのは、きっとスーパーマン俳優ジョージ・リーヴスが、すでに自殺した後のことだったに違いありませんから、このジョークを聞いたときに、彼の自殺を踏まえたこの話の残酷さを、自分がどれくらい認識できたか、今となっては思い出すこともできません。

このジョークに出会ったとき、自分がもう少し「大人」だったら、このスーパー・ヒーローに対する彼を見る世間の冷ややかな眼差しと、冷笑を込めたような独特の揶揄を、少しでも理解できたのになあと、この映画を見ながら考えました。

この「ハリウッドランド」という映画が描いているものは、スーパーマンという当たり役を手に入れ、子供たちのヒーローになってしまったために、一俳優として彼が直面し、また、浴びせかけられねばならなかったそういう「揶揄の視線」や、偏見に満ちた「冷笑」だったのだと思います。

次第に彼は「スーパーマン」という偏見と呪縛のなかで、「俳優」であることを奪われていきます。

ようやっと手にした端役で出演した「地上より永遠に」の試写会場において、多くの映画人から浴びせられる揶揄の言葉から、彼はそのことをしたたかに思い知らされます。

そして、このシーンを見ながら、ふっとあることを思い出しました。

渥美清が亡くなったとき、どこかのテレビ局で彼の死を追悼するドキュメンタリーが放送されました。

最後の「車寅次郎」を、深刻な段階に差し掛かっていた業病に蝕まれ、動かなくなっていた自分の体に、さらに鞭打つようにして演じているロケ現場の渥美清の悲痛な姿を、そのドキュメンタリーはとらえていました。

そして、その番組の最後で渥美清は言います「飛び続けることのできないスーパーマンを、映画を見に来るお客さんは許しちゃくれないからね。スーパーマンは、いつでも飛んでなくっちゃいけないんだ」と。

死なない限り、「車寅次郎」に笑わせてもらおうと映画館に詰めかける観客も、あるいは彼に取りすがるスタッフも、そして、さらに彼が「車寅次郎」以外の役を演じることも、あるいは休むことも、決して許しはしないだろうということを誰よりも渥美清自身が知っていたからだったと思いました。

彼は、すでに「渥美清」というひとりの俳優などではなく、「車寅次郎」以外の何者でもなくなってしまっていたからだと思います。

そのドキュメンタリーを見ながら、画面に大写しされる病み疲れたその老人は、「車寅次郎」という役に蝕まれ、「俳優」はおろか「人間」であることも失った荒廃した人間の抜け殻のように感じました。

この「ハリウッドランド」という映画の感想を幾つか読んでいくと、落胆を表明した多くの感想に出会いました。

そして、その多くは、ジョージ・リーヴスが果たして自殺だったのか、他殺だったのか、映画の最後でも、この結論が下されようとしていないことへの不満だったと思います。

しかし、いくら探しても「犯人」は見つからないかもしれないし、確たる自殺の証拠を探し当てることもできないかもしれません。

それは、きっとこの作品のテーマにとって、そういう解明をさほど重要なこととは判断しなかった証しだったからだろうと思います。

たとえむかし、仮面ライダーを演じたことがあるからといって、俳優としてのそのキャリアを非難されるような土壌がない日本とは、ちょっと事情が違うのかもしれませんが。

(2006アメリカ)監督・アレン・コールター、製作・グレン・ウィリアムソン、脚本・ポール・バーンバウム、撮影・ジョナサン・フリーマン、音楽・マーセロ・ザーヴォス、美術・ レスリー・マクドナルド、衣装・ジュリー・ワイス、編集・マイケル・ベレンバーム
出演・エイドリアン・ブロディ、ダイアン・レイン、ベン・アフレック、ボブ・ホスキンス、ロイス・スミス、ロビン・タニー、ラリー・セダー、ジェフリー・デマン
[PR]
by sentence2307 | 2009-08-24 14:40 | 映画 | Comments(171)

鶏はふたたび鳴く

映画がはじまり、流れ過ぎるスタッフの字幕を何気なく眺めていたら、原作者に椎名麟三の名前が出ていたので、あわてて「煙突の見える場所」の製作年を確かめてみました。

確か「煙突の見える場所」も、同じく椎名麟三の原作だったことを思い出したからです、なるほど製作年は1953年とありました。

この「鶏はふたたび鳴く」が、1954年の製作ですから、あの「煙突の見える場所」で得た高い評価によって、もう一度、五所監督は、椎名麟三の原作を採用してみようとしたのかもしれません。

記事によると、この作品は、コンビ3作目と書かれていました。

確かに善良で馬鹿正直な人間の設定などに椎名麟三と五所平之助の共通点は幾つかあると思いますが、しかし、ピッタリと重なり合うかといえば、どうもそうとは思えません。

なにか決定的なところで相容れない異質なものがあるに違いないという思いをずっと抱き続けてきました。

例えばそれは、椎名麟三の小説の印象として、絶望的な状況の中で貫かれる飄々とした求道精神とか、登場人物たちの世間や他人に対する距離のとり方など、いままで観てきた五所平之助作品と比較してみれば、あえて「神」などという大仰なモノを持ち出すまでもない、そこには俗世に生きることの素晴らしさだけで充足できている庶民の生き方を描くだけで完結できてしまっている、もはやそれだけで十分な五所監督の物語世界を確信している自分にとっては、「神」を持ち出すなど、ただただ気恥ずかしく、気後れをさえ感じるだけにすぎない気がします。

「煙突の見える場所」や「大阪の宿」で描かれている人間たちは、もっと「俗世間」にべったりと密着していながら、同時にその世界に受け入れられない疎外感を絶えず抱いているような孤独な人物たちです。

しかし、それが決して暗さに繋がるわけでもないし、身動きできない絶望に繋がるわけでもありません。

この「鶏はふたたび鳴く」は、僕にそういった印象を更にはっきりとイメージさせた作品でした。

この映画を図式的に説明すると、食い詰めた流れ者の労務者たちと、「死ぬ時は一緒に死のう」と決めた自殺同盟で結ばれたハンディを抱えた3人の娘たち、そして、社会に適応できない異質な彼らを排除しようとする共同体という巨大な存在との確執が描かれています。

そこに、会社の金を横領した詐欺師が絡んでストーリーを掻き回して展開するという喜劇風なドタバタの側面はあるにしても、その「掻き回し」は、あたかもそのおどけた体裁の背後にある、弱々しい異端者が、巨大な共同体から敗北者として強引に弾き飛ばされるという本当の硬質なテーマを、気恥ずかしげにカモフラージュしているようにさえ見えてきました。

それは、また、「煙突の見える場所」や「大阪の宿」で描かれていたことと、よく似ていることに気づかされます。

そして、五所平之助という監督は、決して安易な「和解」を描こうとしない監督なのではないかという気がします。

雇主の突然の自殺によって天然ガス試掘の仕事を失い、絶望の只中にあった労務者たちは、「石油技師」を名乗る詐欺師によって、石油発掘の希望を与えられます。

たとえそれが、つかの間の「夢」にすぎなくとも、「夢」を与えられて活き活きと仕事に没頭する彼らの姿を見て、死ぬことばかり考えていた娘たちも生きる意味を見出します。

娘たちも労務者の中にも、薄々それが詐欺師の嘘なのではないかとちょっぴり疑いながら、与えられた「夢」をしっかりと受け止め、疑いもせずに生きる糧に肯定して生きようとする労務者たちの生き方を見て、騙されることを恐れていた者たちも、やがて生きる(それだけで、素晴らしいのだ)ということの意味を見出したのだと思います。

この世には何も「真実の夢」と「虚偽の夢」とがあるわけではなく、ただ「夢」があればそれだけで十分、生きることはもっと単純であってもいいのだという彼らが到達した境地は、しかし共同体にとっては相容れるものではないことを、この映画は彼らが土地を追われるラストでしっかりと描き出していました。

(新東宝)監督・五所平之助、製作・内山義重、脚本・椎名麟三、撮影・小原譲治、照明・折茂重男、音楽・黛敏郎、録音・根岸寿夫、美術・下河原友雄、
出演・佐野周二、伊藤雄之助、中村是好、南風洋子、小園蓉子、左幸子、坂本武、渡辺篤、佐竹明夫(片桐余四郎)、東野英治郎、三好栄子、沢村貞子、飯田蝶子、柳谷寛、小高まさる、谷麗光、小倉繁、杉寛、小峰千代子、
1954.11.30 13巻 3,230m 118分 白黒
[PR]
by sentence2307 | 2009-08-16 09:55 | 映画 | Comments(144)

魚河岸帝国

いま見逃せば、二度と見るチャンスがめぐってこないかもしれないと危惧される映画(多くは大量生産された無名のプログラム・ピクチャーです)などは、努めて見るようにしています。

二度と見られないかもしれないと思う基準は、例えば、ネットで検索しても、まともな情報がなにひとつ存在しないということなども、ひとつの目安になっているかもしれません。

戦前に寛プロで活躍した並木鏡太郎が、戦後新東宝で撮った「魚河岸帝国」1952は、まさにそういう作品だったと思います。

たまたま「日本映画専門チャンネル」のプログラムを見ていて偶然に見つけ、さっそくチェックをしておきました。

日本映画史上に燦然と輝く多くの巨匠たちのように、自分の中から溢れ出る独自のイメージを大切にして、あらゆる周囲の抵抗障碍を排して信念を貫き、ついには「芸術作品」を完成させるという創作態度もひとつの生き方なら、会社から求められるままに求められるとおりのものを創造するという職人的なプログラム・ピクチャーの仕事も、同じように尊重されなければならないのではないかと、最近とみに思うようになりました。

うだつの上がらないサラリーマン生活を長いあいだしていると、どうしてもB級映画とその監督に対して、こんなふうな同情的な考えに傾いてしまうのも、あるいは無理からぬことなのかもしれません。

単なる「寸景」としてではなく、映画の舞台として、どっぷりと「魚河岸」が扱われるというのは、随分と珍しいことなのだと映画の解説をした女性アナウンサーが話していました。

市場を扱った映画なら、これまで結構見てきたような気がするので、「本当かなあ」という気持ちで見ていたのですが、結局この映画が終わるまでに、これに類する「魚河岸」映画を、具体的には、なにひとつ思い出すことができませんでした。

この映画で描かれている多くの人間が蝟集する「魚河岸」の圧倒的な猥雑感は、同タイプの映画に思いを馳せるなどという雑念を封じるだけの迫力があったということなのかもしれません。

ひとりの男をめぐる女二人の恋の鞘当てを描いた主たるストーリーよりも、むしろ、その背景に映し出されるおびただしい魚河岸の人たち、戦後社会を生き抜こうとしている生活者のパワーに圧倒された映画だと思います。

冒頭、山村聡演じる社長の「帝国」が、新入りの運転手・塚本良介(田崎潤が演じています)の運転の技量を確かめるというよりも、むしろ度胸試しのために、オート三輪で魚河岸の雑踏のなかを猛スピードで走り抜けることを強要するシーンがあります。

忙しくひしめくようにして立ち働いている市場の人々のなかに、オート三輪は猛スピードで突っ込んでいきます。

人々は驚愕し(言うまでもなく、運転手自身が驚愕し、恐怖で顔を引き攣らせています)、あやうく飛びのき、罵声を浴びせかけながらも、次の瞬間では何事もなかったように、再び忙しそうに足早に去っていく姿が描かれています。

これら猥雑な人の群れは、まるで虫の集合体のように見え、一人くらい轢き殺しても一向に差し支えないのではないか、という気にさせられるくらいです。

それが「戦後」という時代が持った活力の生き生きとした真の姿だったのような気もします。

ここに映し出されている人たち、その猥雑さのなかで右往左往している人間たちのことごとくが、現在では、おそらくはほとんど死に絶えてしまっているだろうという感慨も含めて、映画の不思議さと残酷さを痛感しました。

生々しい映像に気を取られて、本編のストーリーは「二の次」みたいな言い方をしたことを、ここで少し訂正しなければならないかもしれません。

確かにこの映画に描かれているのは、善良な青年をめぐる二人の女の恋の鞘当てを描いた恋物語であり、恋の結末が、社長の娘ではなく、足の不自由な貧しい女の方を選択するというあたりも、いかにも映画的だと感じました。

しかし、この娘の足を不自由にしたのが、青年自身が起こした事故によるものだとなれば、簡単にハッピーエンドで片付けられない深刻な行く末を感じさせないわけにはいきません。

娘の心の片隅には、男が自分と結婚したのは、事故によって自分の足に障害を負わせた責任と義務からに違いないという疑心がいつまでもくすぶっているだろうし、そんなふうに思い続ける限り男の愛情を確信することなど、できるはずのものではありません。

男にしたところで、結婚を決意させたその「義務と責任」の信念が揺らぐような事態に至れば、なおもその虚妄の観念を堅持して自己犠牲に甘んじられるかどうかきわめて疑問ですし、そもそもエゴがぶつかり合う結婚生活を「義務と責任」などという弱々しい観念によって無謀にも維持しようと思い立ったこと自体に最初から無理があったような気がします。

映画の最後、疾駆するオート三輪の運転席に並んで腰かけている二人は、どちらかが軽い冗談の積りで投げ掛けた軽口が相手に素直を受け取られず、遠慮気にではあるものの少しむかっ腹を立てて、互いに顔をそむけ合う象徴的なシーンで終わっていることが、とても印象的でした。

この若夫婦を近々みまう気持ちの行き違いのぎすぎすした結婚生活の延長線上に「何がジェーンに起こったか」がなければいいのですが・・・。

(1952新東宝)製作・野坂和馬、佐野宏、監督・並木鏡太郎、脚本・池俊行、戸田伊太郎、原作・宮本幹也、撮影・鈴木博、構成・小国英雄、音楽・斎藤一郎、美術・河野鷹思
出演・花柳小菊、田崎潤、片山明彦、野上千鶴子、龍崎一郎、山村聡、三條利喜江、三原純、伊藤雄之助、千秋実
1952.03.14  10巻 2,820m 103分 白黒
[PR]
by sentence2307 | 2009-08-01 15:45 | 映画 | Comments(116)