世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

<   2010年 03月 ( 1 )   > この月の画像一覧

この「ベンジャミン・バトン」を見たとき、優れた映画というのは、その作品を一度見たら決して忘れられないような極めて固有な映像を持っているものなのだなあということに改めて気づかされました。

そういえば、いままで出会ってきた映画から、そういうインパクトのある「映像」を、とりたてて意識することもなく、きっと自分なりに選択し、受け入れてきたのだと思います。

自分の中に刻み込まれたそれら「映像」は、もはや思い浮かべるなどという迂遠な手続きさえ必要とせず、自分の中でしっかりと「居場所」を定めて、まるで固有の臓器のように、既に「そこに存在しているもの」として在るのかもしれません。

それらのシーンをいま思い返してみれば、衝撃的なその映像は、もしかすると「象徴的」などという月並みで思わせ振りな理屈づけなど決して許さないくらいの、それ自体で既に自立・完結した確固たる存在感を持った映像として、自分の中に位置づけられているように思います。

例えば、廃墟に逆さ吊りされたキリスト像が、見捨てられた者たちを悲しげに見守り続けているかのように、象徴的に常に背後に映し出されていた「灰とダイヤモンド」の、微かな希望がほのめかされながらも、しかし絶望的な死の予感と不吉な影に覆い尽くされた暗示的なシーン、そのあとに続く、官憲の銃弾を受けてもがき苦しみながら、まるで見捨てられた野良犬のように惨めにゴミ棄て場で死んでいくテロリスト青年の無残で無意味な死の映像などが、「そう」だったと思います。

しかし、それらは決して観念的なものとして整然とあるわけではない、自分のなかにもっと深く深刻に関わっているような気がします。

それらの「映像」をひとつひとつ浮かび上がらせる回想に囚われ、執着し、想念の深みに降りていくとき、一方で、もうひとつの映像(例えば黒澤明の「七人の侍」の1シーンなど)が浮かび上がってきたりします。

それは、村の防御の作戦上、川向こうにある家々を放棄しなければならなかったうちの一戸・水車小屋に住み続けることに拘ってきた長老一家が、野武士の夜襲を受けて、ついにその家が炎上するシーンです。

三船敏郎演じる竹千代は、炎の中からかろうじて泣き叫ぶ赤ん坊だけは助け出すことができて、川に浸りながらこう叫びます「俺もこのとおりだったんだ」と。

僕の中に収められた映像群にも、この「俺もこのとおりだったんだ」という思いがあったからこそ、自分の中に定着したのだろうと思います。

マチェックがゴミ捨て場で野良犬のようにもがき死んでいくシーンを見ながら、「俺もこのとおりだったんだ」という思いがぴったりと合ったからこそ、自分の中に定着したのだろうと思います。

・・・などと書いてみると、随分と大仰な感じに受け取られてしまうかもしれませんが、要するに、映画を見たあとでも、お気に入りの作品の映像が満載されたプログラムやカタログを見返して、その映画のことを繰り返して思い返すことが好きという、ただそれだけの懐古趣味でしかないのかもしれません。

しかし、それにしてもそういう存在感のある「映像」を持った作品というのが、ここのところすっかりなくなってしまったなという思いに捕われていたとき、この「ベンジャミン・バトン」のラストシーンに出会いました。

そのラストシーン、いまではすっかり老いてしまった恋人デイジー(ケイト・ブランシェットが好演しています)が、かつて愛し、そしていま赤ん坊として命果てようとしているベンジャミン・バトンを抱きかかえている場面です。

その姿は、一見、母親の腕の中で安心しきって寝入っている赤ん坊のやすらかな顔を、愛情深くじっと見入っている崇高な母子像の絵柄を借りながら、しかし、実際は、人生という膨大な時間を「老い」から生き始め、そして、今まさに、赤ん坊として命果てようとしている恋人ベンジャミン・バトンの奇妙な逆行の人生を、その傍らで見続けてきた(共にしてきた、とは到底言えません)彼女が見取っているという衝撃的な意味合いに捻じ曲げた場面でもありました。

もしかしたら、この物語を書いた作者は、赤ん坊を抱いた母親の崇高な図から、その「崇高さ」の印象だけをすっかり別物に入れ替えてしまったら、どんなにか面白いだろうという悪戯心に囚われただけの衝動的な瞬発力だけでこの矛盾多き物語を作ったのではないかと勘繰りたくなるくらい、老いて生まれ、赤ん坊として死ぬという着想は、どんなに深刻に描かれようと、よく考えてみれば少し無理のある設定のような気がしました。

そういえば、ちょっと引っ掛かかる場面もありました。

時間を逆行してどんどん若くなっていくベンジャミン・バトンが、自分がいつかは家族を養えなくなる身になってしまうであろう来るべき将来に怯えて、家族の前から身を隠したあとの何年か後、青年となり、そして少年となったときに彼女の前に現れてくる場面です。

そこには、かつての記憶を徐々に失いつつある存在としての少年が描かれていました。

そうそう、「記憶」の問題です。

物語の作りが、その奇抜さに負けてないくらい見事なので、自分も抵抗なくベンジャミン・バトンが「人生を逆行」していることをすっきりと受け入れてはきたのですが、しかし、思えば彼の中にある「記憶」の逆行のカタチがどうしても理解できないと気がつきました。

そう強く思ったのは、少年期のベンジャミン・バトンの「記憶の消え方」の部分を見たときでした。

普通、老人たちは、老いていくに従って、徐々に記憶を失っていくのでしょうが、老いて生まれてきたベンジャミン・バトンの、その時の「記憶」の状態はどうだったのだろうかと気になりだしました。

少年期に差し掛かったベンジャミン・バトンの、それまでの記憶が消えてしまった状態は、「失われる」というのとは少し違う描き方でなければ、なんだか辻褄が合いません。それとも、生まれたときには前世の記憶でもあったのでしょうか。

それにしても、若返りを続ける果てに消滅してしまうような死を迎えるベンジャミン・バトンの死は、多くの人間の老いて死ぬ「憐れな死」とは、まったく別物だということだけは、はっきりと分かります。

年老いていくに従い、親しい友人たちを次々と失い、愛する家族とも死別し、この世に心を交わすことのできる親しい知人は誰ひとり残っていない孤独と孤立、そしてやがて更に年老いて衰弱し、思うように体も動かなくなったのち、実際にはもうとっくに忘れ去られた存在であるのに、遅ればせながらの「死」によって改めて世間にひっそりと知らせるような死、「あの人、まだ生きていたのか」と思わせるだけの「死」を誰にも見取られずに死んでいくのと、どちらがいいかという思いにかられました。

しかし、老いの惨めささえ意識できなくなってしまうベンジャミン・バトンの死は、もっと耐え難いものであることだけは分かります。

(2008アメリカ)監督・デヴィット・フィンチャー、製作:キャスリーン・ケネディ、フランク・マーシャル、セアン・チャフィン、脚本:エリック・ロス、撮影:クラウディオ・ミランダ、VFX:デジタル・ドメイン、マットワールド・デジタル、ローラVFX、他全8社、プロダクションデザイン:ドナルド・グラハム・バート、編集:カーク・バクスター、アンガス・ウォール、音楽:アレクサンドル・デプラ、衣裳デザイン:ジャクリーン・ウェスト
出演・ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ティルダ・スウィントン、ジェイソン・フレミング、イライアス・コティーズ、ジュリア・オーモンド、エル・ファニング、タラジ・P・ヘンソン、フォーン・A・チェンバーズ、ジョーアンナ・セイラー、マハーシャラルハズバズ・アリ、ジャレッド・ハリス、デヴィッド・ジェンセン、テッド・マンソン
[PR]
by sentence2307 | 2010-03-21 08:37 | 映画 | Comments(3)