世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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グラン・トリノ

この作品「グラン・トリノ」についての多くの人の感想文に接していて、つよく感じたことがひとつありました。

それは、この映画について語り始めるとき、誰もが合言葉のように「頑固で偏屈な老人」という言葉を、まず使っておかないと、安心して語りだせないような感じがします。

そこのところがどうしても気になって仕方ありませんでした。

なんで、そんな些細な言葉だけのことにコダワルのかと言われてしまうかもしれませんが、しかし、自分も頑固で偏屈な方だからこそ、ヒトのことを最初から、そんなふうに決め付けられては堪らないなという気がしたのかもしれません。

きっと、そういう人だって、別に生まれながらの頑固で偏屈だったわけじゃない、きっと、鎧のように「頑固で偏屈」にならずにはおられなかった理由、たぶん他人によって傷つけられたことによって、そうせざるを得なかったに違いないし、また、その傷の深さを示す結果みたいなものであって、それを無神経に最初から「頑固で偏屈な老人コワルスキーは・・・」などと決め付け、語り始めてしまうような文章そのものが、コワルスキーという人間像への理解を最初から放棄したような駄文に思えて仕方なかったのだと思います。

「頑固で偏屈なオレにだって、言い分くらいはあるんだ」という感じでしょうか。

その部分の理解が抜けてしまえば、この作品「グラン・トリノ」は、まるで日本のあの仁侠映画、理不尽な仕打ちを忍耐の限界まで我慢しながら、ついにキレて、最後には華々しい殴り込みの報復で終わる高倉健の仁侠映画みたいなものになってしまうような気がします。

それに、僕をもっとも痛打したのは、巨悪を憎み、ケダモノのような犯罪者たちを情け容赦なく撃ち殺してきたあのダーティハリー→キャラハン刑事の生涯の最後が、この作品に描かれているようなアジアの辺境から逃れてきた弱きマイノリティの苦境を救うための身代わりとなって、皮肉にも撃ち殺される側に回ることで完結してしまうのなら、たとえそれが人道的な尊厳に満ちた重厚な名作であったとしても、個人的な心情でいえば、随分とさびしいことと、なんだか堪らない気持ちになってしまったのかもしれません。

この作品に貫かれている思想は、ハリーが起爆させた暴力の爽快さとはまるで無縁の、まるでガンジーの無抵抗主義のような弱々しさでしかないのではないか、それは決して若きハリーが、その壮烈な銃撃によって示した巨悪に向けた偏見の猛々しい爽快さに繋がるようなものではないと感じ、最初この映画を見たときの僕は、その落差に正直戸惑い、落ち込んでしまいました。

この失速と後退を老いたイーストウッドの贖罪の現われという結論があり得るのなら、たぶん受け入れることができても、ダーティハリーの変節(暴力否定)ということなら、到底受け入れられないことと心ひそかに思ったのかもしれません。

コワルスキーは、朝鮮の戦場でしてきた数々の殺人、躊躇なく人を撃ち殺し、銃剣で何度も刺して殺し、17歳の子供をシャベルで殴り殺したという残忍な行為と過酷なその記憶、それらをただ神父に懺悔しただけで都合よく許されてしまうような心の平安を強く拒否し続けます。

それは、彼が死地へ赴く決意をする最後の場面で、教会に行く場面に、はっきりと描かれています。

妻が生前望んでいた「教会に行って懺悔をしてほしい」という彼女の望みをコワルスキーは「文字通り」叶えるために、「教会に行って懺悔をする」という場面で、その確固たる意思を逆に明らかにしています。

「父よ、私は罪を犯しました。」とコワルスキーは、若き神父に語りかけます。
「どんな罪だね。」
「まず、1968年にベティ・ジャブロンスキーにキスしました。妻は別の部屋にいた。なりゆきで。」
「それから」
「ボートを売って900ドル儲けました。税金を払わなかった盗みです。そして、最後に2人の息子との間に溝ができた。付き合い方が分からなかった。」
神父は、尋ねます「それだけ?」
「それだけ? ずっとそれが気になっていた。」

この場面は、コワルスキーにとって、戦場で犯した数々の残虐な殺人は、教会のおざなりな懺悔なんかで許されるようなものではないこと、自らの意思によってした行為だからこそ、教会やそこでの懺悔の拒否を描くことを通して、自らを罰する確固たる意思を示した場面だったと思います。

教会で許される些細なことだけについてのみ、コワルスキーは神に許しを乞うたのです。

死地に赴く彼の決意を変えさせることができないと知った神父は、コワルスキーの背中に投げかける「心に安らぎを」という問い掛けも、薄い笑みとともに「俺の心は安らいでいる」と返す言葉によって、これから彼が向かおうとしているのは、弱々しい身代わりの死などではなく、自らの意思で行った行為の決着をつけるための、強い決意が語られているのだと思いました。

それが、ダーティハリーの最後なら、あるいは「そう」かもしれないと、なんだか納得できる気持ちになりました。

そんなふうにダーティハリーの爽快な銃撃場面の数々を思い返していたとき、ある無関係な場面が不意に浮かび上がってきたのでした。

アメリカン・ニューシネマのサキガケ的映画「イージー・ライダー」の最後の場面、放浪者キャプテン・アメリカとビリーが、オートバイで南部の原野を走行中に、併走してきたトラックの薄笑いを浮かべた男たちから面白半分に撃ち殺されるという無残な場面です。

自由に対する病理のようなアメリカの根深い憎悪と偏見の実態を痛ましい叫びのように描いた衝撃的なシーンでした。

しかし、そんなふうに僕たちが、撃ち殺される側の悲惨を「イージー・ライダー」によって知らされ衝撃を受けたその数年後に、「ダーティハリー」の射殺する側の偏見の爽快さ心動かされたのだとしたら(実際にそうでした)、それはどういうことだったのだろう、という思いに強く囚われました。

これは、「自由」や「暴力」の問題を大きく包み込んで支配している「映画を面白がる」ということについての、当分解けそうにない宿題かもしれません。

(2008ワーナー・ブラザース)監督製作クリント・イーストウッド、脚本ニック・シェンク、原案デビット・ジョハンソン&ニック・シェンク、製作ロバート・ローレンツ、ビル・ガーバー、製作総指揮ジェネット・カーン、アダム・リッチマン、ティム・ムーア、ブルース・バーマン、撮影トム・スターン/美術ジェイムズ・J・ムラカミ/編集ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ/衣装デボラ・ホッパー/音楽カイル・イーストウッド、マイケル・スティーブンス/編曲&演奏指揮レニー・ニーハウス世界配給ワーナー・ブラザース映画(ワーナー・ブラザース・エンターテイメント・カンパニー)、ワーナー・ブラザース映画提供/ビレッジ・ロードショー・ピクチャーズ提携/ダブル・ニッケル・エンターテイメント、マルパソ作品/原題Gran Torino、一部地域の配給はビレッジ・ロードショー・ピクチャーズが担当。主題歌:ジェイミー・カラム

出演クリント・イーストウッド、ビー・バン、アーニー・ハー、クリストファー・カーレイ、ジョン・キャロル・リンチ、ブライアン・ヘイリー、ブライアン・ハウ、ウィリアム・ヒル、ジェラルディン・ヒューズ、ドリーマ・ウォーカー、コリー・ハードリクト、スコット・リーヴス、
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by sentence2307 | 2010-06-27 08:52 | 映画 | Comments(117)
休みの日、別になにもすることがないときなど、たまに近所の図書館に行って暇を潰すことがあります。

館内でのコースは、だいたいいつも決まっています。

まず映画関係が並んでいる書棚を見て、新刊本が入っていれば借りてから、シナリオの棚をのぞきます。

多くのシナリオや脚本をざっと見た後で、最後は「小津安二郎全集」を手にとって、任意のページを少しだけ読みふけります。

こんな走り読みは、小津監督や野田氏に対して失礼極まりないことは重々承知しているのですが、このようなズボラな読み方をしてさえも、研ぎ澄まされたあの小津映画の緊迫感は、如何なく伝わってくるところがすごいと思います。

精神が高揚したところで、あとはぶらぶら書棚から書棚を見て歩くという具合いでしょうか。

しかし、あるとき、「小津安二郎全集」のすぐそばに、堤春恵の「仮名手本ハムレット」があるのを見つけました、びっくりしました。

どうしていままで気がつかなかったのだろうか、と我ながらその迂闊さが不思議なくらいでした。

僕が見た数少ない芝居のなかで、この作品「仮名手本ハムレット」ほど、心惹かれた作品は他になかったといってもいいくらい感動した舞台でした。

まず、設定が素晴らしいと思いました。

明治初年、日本が欧米列強に追いつくために、知識人が大慌てで西洋文明を取り入れようとしていた頃の話です。

そんな頃、ある開明的な男爵が、ニューヨークのメトロポリタン・オペラハウスで見た「ハムレット」の素晴らしさに感激し、その感激の思い出が忘れられずに、ぜひ日本に移植したい、どうにか上演して、日本演劇界に歴史的な第1歩を刻印したいと願います。

しかし、残念ながら日本には、まだハムレットを演じることができる役者がただのひとりもおりません。

役者といえば、「忠臣蔵」を得意として演じる歌舞伎役者くらいしか存在しないという設定です。

最初、役者たちは、「こんな西洋芝居なんか、自分たちにできるわけがない」と拒否反応を起こし、理解もできない西洋劇を無理矢理演じることに、どんな意味があるのだと突っ放ねます。

それは、ドラマの流れや本質を理解できないことの苛立ちであり、そして、その裏には、自分たちには、所詮「忠臣蔵」しか演じられないのだという卑下と自嘲もあったかもしれません。

しかし、若い役者の中にひとりの知恵者が現れます。

「忠臣蔵」と「ハムレット」とのあいだに意外な共通点のあることを次々と指摘していくのです。

勘弥 成田屋の由良之助は、一力茶屋で太鼓もちや仲居相手に馬鹿をつくしながら、腹の中では敵討ちのことばかり考えているのだろうか。
薪蔵 へい、そこのところあっしは、由良之助のいえども木石じゃねえ。一方では敵討ちに心を砕きながらも、一方ではその重苦しさを忘れようとして、わざと馬鹿遊びに身を入れる、という風にいたしやした。
勘弥 そこだ、ひとつそれを手本にハムレットの長台詞を演ってみちゃあどうだね。
薪蔵 由良之助をハムレットの手本に! 
勘弥 そのとおり。大星由良之助とハムレット、ふたりながら、敵討ちの企てを周囲から隠すためにおのれの姿をいつわる。いわば、にわかづくりの役者。由良之助は敵、師直方の間者をたばかるため、祇園町の茶屋で色狂い。そして、ハムレットは、叔父クローディアスの目をあざむくために気の違った振りをする。
徳次郎 てえしたもんだ。英国のシェイクスピア、とやらいう作者は、「仮名手本忠臣蔵」を読んで、この「ハムレット」を書いたんじゃなかろうか。
梅松 それじゃあシェイクスピアは、日本語が読めたのかもしんねえな。

こうして、役者たちは、それぞれの方法を見つけて、ハムレットの真髄を理解し、演技に開眼するという物語でした。

この劇中劇は、残念ながら、座主の借金のために芝居小屋を失うことで、ついに「ハムレット」は、上演されずに終わるのですが、僕が感動したのは、この役者たちが、自分たちの限られた価値観を精一杯駆使することによって、煩悶のすえに、未知のモノを自分たちなりにどうにか理解しようとしたその姿勢にありました。

「なにかを理解する」ということについて、いままでこんなふうに語られたことがあったでしょうか。

荒唐無稽の直感的な理解というのなら、それならいくらも語られてきたでしょうが、突然眼前にシュッタイしたそれまでなんの予備知識のなかった異文化の事柄を、自分たちの価値観に繋がるものとしての解読をはたして、このように理解すること、いや、そのように理解をしない限り、真の「理解」はないのだということを強く感じたのでした。

しかし、この説明では、なぜ自分が、この戯曲にこれほどまでに思い入れ、感動したのかが、まだ皆さんには十分に伝わっていないかもしれませんね。

まあ、インパクトが弱いというやつですよね。

これには、さらにバックボーンとしての重要なひとつのエピソードがあるのです。

そのことを書いておかない限り、十分な理解は難しいかもしれませんので、やっぱり書いておこうと思います。

僕の息子が、ようやっとカタコトを話し始めた幼児の頃のことでした。

当然、幼児ですから、例の「よだれ掛け」というものを、まだ着用していました。

その彼が、妻のブラジャー姿を見、当のブラジャーを指差して「おっぱい掛け」と言ったのです。

妻は軽く一笑に付しただけで、きっとすぐに忘れてしまったことでしょうが、僕のなかには、強烈にその言葉は残りました。

まさに、そのとき、幼児だった息子は、「自分の限られた価値観(既知の「よだれ掛け」という概念)を精一杯駆使して、未知のモノ(ブラジャー)を自分なりの限界の中でどうにか理解し・言葉化した」のだと思います。

「仮名手本ハムレット」を見たとき、すぐにその共通性を直感しました。

それ以来、ブラジャーを見ると、「おっぱい掛け」という言葉がどうしても脳裏をヨギリます。

ですので、もし僕が、ブラジャーをジロジロ見ることがあっても、それは「価値観の在り様」について必死に思いを致しているのであって、決してヨコシマな動機から、ジロジロ見ているわけではありません。

まあ、もっとも、最近は、残念ながらそんな機会も全くありませんが。
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by sentence2307 | 2010-06-22 20:54 | 徒然草 | Comments(292)

恋は異なもの味なもの

この作品に、どうしてこんなにも感動してしまったのか、自分でもとても不思議です。

きっと、映画を見ていたそのときの気持ちが、とても不安定な状態になっていたからかもしれません。

しかし、普通に生活していたら、多かれ少なかれ、誰でもそういうときってありますよね。

そのことを友人に話したら、「そんなふうな気分の時に見て、たまたま感動した映画を、冷静な心理状態に見て評価した作品と同列に置くのは、客観性に大いに疑問がある」といわれてしまいました。

すぐにその言葉に反論しようとしたとき、不意に、学生時代に、激論の果てにある友人から、同じ言葉を浴びせられたことを思い出しました。

そうか、あのときも同じような会話を交わし、自分も若かったせいで感情の高ぶりを抑えきれないまま言葉に詰まって反論できずに、結局言い負かされてしまったという悔しい思い出です、思い屈したその場面だけ、なんだか鮮明に思い出しました。

思えばあれから、ずいぶんと長い時間が経ってしまったのですが、あのとき言い返せなかったことを、いまなら明確に言い返せるような気がします。

日々の暮らしをどうにかこうにか凌いでいくような生活で「冷静さに欠ける」状態でいるほうが、冷静でいられるよりも、はるかに多いなんてことは、ごく当たり前の状態なわけで、そんなふうな中で孤独に陥ったり、やり場のない憤懣に動揺したり、底深い悲しみの泥沼に足を取られ滅入ったり、局面は様々ではあるにしろ、そうしたややこしいものに直接向き合うことを避けるために、映画を見たり、音楽を聴いたり、小説を読んだりするのではないか、人間にはそういうことが、どうしても必要なのであり、そうした中でたまたま思いが重なって感動したとしても、それが「間違った感動」だなどとは決して思いません。

そもそも「客観的な感動」などというものが、はたして存在するのかという気持ちです。

しかし、感動した作品を友人に話す場合、その映画の世評が高く、よく知られている作品ならともかく、あまりにもマニアックな作品だと、相手の無知を揶揄するみたいな自慢話となるおそれもあり、かえって嫌味になってしまうので、そこは余程の注意が必要なのですが、その点、この作品、瑞穂春海監督の「恋は異なもの味なもの」は、そのものズバリの危険性を秘めた作品であったことは確かで、話の切り出しにはもう少し相手の自尊心を傷つけないような繊細な心配りを必要としたかもしれません。

さて、原作者がどこまで意識していたかは不明ですが、この作品には、ふたりの女性が、絶妙な対照で描かれています。

ひとりは、この作品の舞台となる寄席の娘・光子(雪村いづみ)と、そして、その寄席の下働きをしている咲子(津島恵子)です。

光子は英文科を卒業し、いまは貿易会社に勤めている、見るからに恵まれた環境で自由にのびのびと生活をエンジョイしている現代娘ですが、咲子は、過酷な出自によって世間のシガラミと義理とで今の生活に雁字搦めにされている女性です。

周囲には誰ひとり彼女に対して悪意を持っている人間などいないのに、いや、むしろ好意に満ち満ちているのに、彼女にはその好意が重く圧し掛かっています。

寄席を経営している主人(日守新一)は、両親を早く亡くした咲子を引き取り、養育してきました。

そのことは咲子も十分に分かっていて寄席を懸命に手伝っています。

そこには、世話になった主人への恩返しという理由と、もうひとつ、許婚関係にあるこの家の長男がフランスから帰ってくるのを待っているという理由があります。

おそらく、孤児だった彼女を親身になって世話してきた情の厚い主人のことですから、幸薄い彼女を不憫に思って、無理やり長男との婚約を善意から勝手に決めてしまったくらいのことは、十分予想ができます。

しかし、そうした好意のすべてが、彼女をさらに辛い立場(無視され、見捨てられた女)に追い込んでいます。

しかし、咲子は、自分の感情を表に出さず、不安や悲しみや憤りさえも抑え付けて、快活に振舞うことで耐えるしかできない慎ましやかで古風な娘です。

他人の冷ややかな無関心と悪意によって、人はどれだけ傷つけられてしまうのかを、鮮烈なリアリズムで描ききった成瀬巳喜男作品では、決して描かれることのなかった「好意」と、その「好意」によって逆に深く傷つけられてしまうこの過酷な設定は、もしかすると、このような軽喜劇のカタチをとらなければ、決して描くことのできないものだったかもしれません。

さらにストーリーは、光子に持ち込まれた縁談話の相手(藤木悠)が、実は咲子に好意をもっていることを知り、さらに「自分のことは諦めてくれ」と伝えてきた兄からの手紙を受けて、ふたりの仲を取り持つという月並みな大団円の結末になだれ込んでいくのですが、しかし、ふたりの旅立ちを見送ったあと、ひとり残された光子の孤独までが、しっかりと描き込まれていることに手放しで感動してしまいました。

これからは咲子の仕事を引き継いで寄席の仕事をやっていこうという光子の決意を描いて終わるこのラストシーンに、人生の皮肉で過酷な一周期を俯瞰してしまったようなショックを受けたのかもしれません。

(1958東京東宝)製作・佐藤一郎、山崎喜暉、監督・瑞穂春海、脚本・長瀬喜伴、津路嘉朗、撮影・遠藤精一、音楽・神津善行、美術・小島基司、録音・酒井栄三、照明・伊藤盛四郎
出演・森繁久彌、雪村いづみ、津島恵子、日守新一、一竜斎貞鳳、田武謙三、河美智子、高橋とよ、藤木悠、重山規子、向井正江、三條利喜江、田中志幸、露木清、倉橋仙吉、菅井きん、塩沢登代路、歌川千恵、出雲八重子、一竜斎貞丈、坂内英二郎、田中章三、背山哲子、木村俊恵、氏家真紀、光丘ひろみ、綾川佳子、須永康夫、田辺元
1958.04.01 10巻 2,635m 白黒
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by sentence2307 | 2010-06-20 07:41 | 映画 | Comments(172)