世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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アバター

遅ればせながら、話題の本格的3D映画「アバター」を見ました。

多くの人が書いているとおり、確かにこの映画が、いままでの「西部劇映画」の筋立てをなぞっただけという印象は否めず、僕も同じような失望をちょっぴり抱いたのは事実でした。

多くの観客が「西部劇映画の筋立てをなぞっただけ」と失望し、あからさまな冷笑や非難を隠そうとしなかった理由の真意は、たぶん、多くの人たちが、新たな映像の時代の幕開けにふさわしい斬新なストーリーを、この記念すべき作品に望んでいたからだと思います。

しかし、実際に見せられたものは、「西部劇映画」を換骨奪胎したみたいな旧態依然の、しかも鬼の海兵隊まで登場するという奇妙奇天烈な期待はずれの作品だったことへの戸惑いと苛立ちがあったからでしょう。

たしかに、マーロン・ブランドのアカデミー賞受賞拒否以来(授賞のステージで映画界の長年にわたるインディアンに対する差別的扱いへの代理人による抗議文の代読事件)、いまに至るまで、西部劇の製作はとてもデリケートな政治的ジャンルとなってしまい、撮るのにも相当に気を使わなければならなず、そんなに苦労するくらいなら、わざわざ撮ることもないかと敬遠されて、その事件以来このジャンルの作品数は極端に少なくなってしまいました。

さらにいえば、アメリカン・ニューシネマの作品群やサム・ペキンパーの作品にも、旧弊な人種差別の視点を嫌うその萌芽がすでにうかがわれていたのではないかと思います。

このように映画史的に見れば、西部劇の凋落は、きわめて必然的な経過をたどってきたといえると思います。

しかし、こうした風潮のなか、映画史的にハンディを負ったテーマ・西部劇をアエテ前面に掲げた「アバター」が、ホントウに100%期待はずれの作品だったかというと、自分的にはそうでもありませんでした。

あらためて観客の冷笑や非難の中身をよく見れば、それらは「愛憎」相接した映画に対する過剰な愛情の証しみたいなものとして「冷笑や非難」があったにすぎません。

そう考えれば一概に否定するのもなんだか大人気ないように思えてきました。

しかも、本格的3D映画作品をスタートさせるにあたって「西部劇」を採用したというのも、本当のところ、なんだかちょっぴり嬉しくもありますし、面白いココロミだなとも思いました。

アメリカ映画史年表には、エディスン社のエドウィン・S・ポーターが1903年に撮った「大列車強盗」が、世界で始めての活劇映画であり、各地で圧倒的な歓迎を受けたと記されていますし、このヒットを受けて、ポーターはその後も、「銀行大強盗」「小列車強盗」などを撮っています。

このアメリカで最初に撮られた劇映画が、「大列車強盗」というキワものの西部劇だったことが、本格的3D映画のスター作品というものを考えるうえで、とても興味深い。

その「アバター」についての感想のどれもが、「西部劇的」作品であることを、漠然と否定的にしか捉えておらず、アメリカ映画史的に見てどうなんだという視点から論じられたものがイッコウに見当たらないのが、なんだか残念で仕方ありません。

あるいは、「西部劇」に雰囲気的に似通っていると指摘してもののなかでも、さらに踏み込んで、「どの映画に酷似している」とまで特定の作品を指摘しているものがないのも、とても残念に感じました。

たとえば、インディアンとの混血の青年が、白人のスパイとなってインディアンに成りすまして部族に紛れ込み、酋長の信頼を得て戦士になってのちに、部族の酋長の娘と恋仲になって愛を語り合う過程で、白人たちの理不尽な横暴に接して、インディアンとしての誇りと怒りに目覚めた彼は、雄々しい戦士として白人との戦いに立ち上がる・・・なんていう筋立ての西部劇映画なら、なんだか見たことがあるような気がしますし、簡単に探せるのではないかと考え、休日の一日を使って、いままで撮られたすべての西部劇の中から「アバター」を探し出してみようと無謀にも思い立ちました。

まずは、どのように探すか、です。

思いつく限りの名作と言われる作品を片っ端から(というわけにもいかないでしょうから、結局50音順のリストをサイトから見つけ出し)リストアップして、そのストーリーを個々に攻めていくとか。

残念ながら個々の作品のストーリーまで明確に思い出す自信がないので、記憶を呼び覚ますヨスガとして「検索エンジン」に頼るしかありませんが。

さもなくば、代表的な西部劇スターを何人か選んで、その出演作を個々にあたっていくか、それなら、まずはインディアンがもっとも似合う俳優からたどるのば早道かとも考えられます。そうそう、監督の名前で検索という手もありますよね。

いっそ、「西部劇 酋長の娘」と直接打ち込んでネット検索してみようか、どんな作品がヒットするのか見てみるのも面白いかもしれないなど、などといろいろなアイデアが浮かんできました。


まあ、休日の時間つぶしには、適当かもしれません。

発表に値するほどの研究結果が得られればいいのですが。

乞う、ご期待というところです。

(2009アメリカ)監督ジェームズ・キャメロン、製作総指揮コリン・ウィルソン、レータ・カログリディス、製作ジェームズ・キャメロン、ジョン・ランドー、ジョシュ・マクラグレン、脚本ジェームズ・キャメロン、撮影マウロ・フィオーレASC、音楽ジェームズ・ホーナー、編集ジェームズ・キャメロン、ジョン・ルフーア、スティーヴン・E・リフキン、主題歌レオナ・ルイス「I See You」
出演サム・ワーシントン、シガニー・ウィーバー、ゾーイ・サルダナ、スティーヴン・ラング、ミシェル・ロドリゲス、ジョヴァンニ・リビシ
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by sentence2307 | 2011-02-20 11:47 | 映画 | Comments(2)
千葉泰樹監督作品「下町」を見ていて、まず最初に思ったことは、行商する親とともに各地を廻っていたという幼い頃の作家・林芙美子(ほとんど「放浪」に近かしいものだったとされています)のことでした。

この映画の主人公・矢沢りよ(山田五十鈴が演じています)は、いまだシベリアに抑留されている生死の別さえ分からない夫の帰りを待ち続けながら、お茶の行商をしてその日暮らしの生活をおくる子持ちの中年女です。

一家のあるじを欠いた家庭を女手ひとつで遣り繰りしていくには、日々の暮らしはあまりにも厳しく、それは極貧といってもいいくらい逼迫した生活の様子が描かれています。

いまは知り合いの女性(村田知栄子が演じています)の家の一室に間借りしているのですが、なにやらいかがわしい仕事をしている彼女から、そんな儲からないお茶の行商などやめて、人の妾にならないかと誘われたりしています。

男の庇護がないために屈辱的な辱しめを受けながらも日々の暮らしにどうにか耐えて、切羽詰った毎日を行商を続けているりよは、ある下町で、気のいい親切な男・鶴石(三船敏郎が演じています)と出会います。

幾たびか彼の小屋(工事現場の番小屋ふうに見えます)でお昼の弁当を使わせてもらっているうちに、彼の寄せる好意と、その朴訥さに次第に心引かれていき、やがて、りよもまた燃え上がるような恋心を抱きはじめます。

結局その恋は、運命のいたずらのような「すれ違い」と、鶴石の突然の事故死によって、あまりにもあっけなく終わってしまうのですが、しかし、この悲恋物語の発端の、切っ掛けになる出会いの場面を見ているうちに、なんだか不意に、幼い林芙美子が親に連れ回されながら行商して歩いていた頃の「切実な思い」みたいなものが、ふっと浮かび上がってきたのでした。

おそらく、幼い芙美子は、行商をする母親が、行く先々で販売の声を掛けるそのたびに、住民たちから冷ややかに拒絶され、ののしられ、追い立てられる哀れな姿を幾たびも見てきたに違いありません。

しかし、同じように貧しい暮らしを強いられている下町で生活している人々もまた、食うや食わずの毎日の生活に追われており、贅沢品でしかないお茶など買う余裕がないというのも、それもまたひとつの現実だったことを、賢い少女・芙美子は、貧乏人がどうモガイテも、この極貧と言う苦境から逃れようもない無限の悪循環地獄のような閉塞を悟ったに違いありません。

あるいはまた、多感な少女は、以下のような「現実」も、ひとつの本能的な「怯え」として幼心に感じ取っていたかもしれません。

みすぼらしい身なりをした行商女といえども、それでも女であることに変わりなく、貧しすぎて有り余る性欲をもてあました野卑で好色な下町の男たちから、性欲処理の対象としてその肉体を常につけ狙われ、そのカラダを舐め回されるような淫靡な眼差しにあぶられ、そして、現実にそうした危機的な場所に幾度も足を踏み入れたに違いありません。

品物は売りたいけれども、しかし、だからといって、けだもののような下卑た男たちの一時の「慰みもの」などになってたまるか、という警戒心も、当然りよは、経験知として持っていただろうし、その警戒心を幼い芙美子にも話していたかもしれません。

以上のことを当然あるべき前提として考えると、冒頭のりよと鶴石の心温まる出会いの場面には、そのりよの警戒心も、鶴石の「欲情」もなく、見ている方が拍子抜けしてしまうくらい清潔感に満ちた「爽やかな出会い」の場面であることが、どうしても不自然に感じてしまいました。

事実、林芙美子が本当にこのように書いた場面だったとしても、それなら尚更に不自然です。

あの猜疑心に満ちた女流作家・林芙美子が、こんな善良な人間を書くでしょうか。

たとえ書いたとしても、彼女が心底、人間をそんなふうに信じていたなどとは、到底思えません。

りよと鶴石の二人を除いたこの映画に登場するすべての人々は、自分の利益のためなら、徹底的に他人を利用し、騙し、貶めようとする悪意に満ちた人々です。

善意に満ちた人など、ただの一人も登場してはいません。

それが、女流作家・林芙美子が描いてきた人間像でしたし、あるいは、当のご本人さえ、そのように「毒」を吐き散らしながら生きたことを僕たちは、すでに知っいます。

だからこそ、この主人公・りよと鶴石の善良さが、とりわけ不自然に思えるのです。

しかし、よく考えてみれば、この不自然な非現実性は、まるで現実離れした「突飛な」非現実だとまではいえないような気がしてきました。

とても「ありえない夢」とか「ありえない願い」ではあるとしても、不可能とまではいえない、かすかな可能性まで否定することはできないくらいのボーダーライン内には辛うじて位置しているくらいのものなのかもしれません。

そのかすかな可能性というのは、「もしかしたら、ある日突然、苦境にある自分たちに善意を寄せてくれる人が現れる」程度の、かすかな「現実」として・・・とここまで考えてきたとき、突然分かったのです、この「かすかさ」こそ、貧しい行商人の娘として、厳しい現実の辛酸をなめつくした少女・芙美子のささやかな夢・せめてもの願いだったのではないかと。

みじめな自分たちを、この惨めでむごたらしい境遇から救い上げてくれる善良な「おじさん」が、ある日突然自分たちの前に立ち現れ、救いの手を差し伸べてくれる「夢」と「願い」とが、この冒頭の現実離れした部分に描き込まれているのだと。

この少女のつかの間の夢が描かれた映画「下町」こそは、それはまた、一方では、厳しい現実に絡め取られ、決して逃れるスベのないことを痛いほど分かっていた貧しい行商人の娘・芙美子の(常に末尾は破綻で終わるしかなかった)絶望の記憶でもあったのだと思います。

しかし、この映画を見終わったあとの、更なるこの後味の悪さは、尋常ではありません。

それも単なる「少女の絶望?」

いやいや、そんな綺麗ごとではすまされない更なる何かが、この映画に潜んでおり、観賞後感とでもいうべきものを、とても後味の悪いものにしているのだと本能的に感じました。

ラスト、鶴石の死を知らされ、将来へのかすかな夢をも打ち砕かれたりよが、絶望のどん底で、何台ものトラックに追い抜かれながら、土手の道を放心して悄然と歩みを進めていく場面で、この映画は終わっています。

そういえば、これと似た場面を、以前どこかで見たことがあると思っていたら、そうそう、デ・シーカの「自転車泥棒」のラストシーンです。

仕事に就くために、どうしても必要な自転車を盗まれてしまった父親が、町中を必死になって探し回ったけれども、ついにその自転車を見つけ出すことができず、思い余って、スタジアムの駐輪場で他人の自転車を盗もうとして見咎められ、罵倒され、こづきまわされ、まさに警察に突き出されようとしたあの場面に続くシーン、父親と息子とが悔恨と絶望と悲しみとの只中でふたりして帰路に着くあの場面です。

スタジアムの駐輪場において群集から罵られ、小突き回される泥棒になりさがった惨めな父親に息子は泣きすがり、群集に「父を許してほしい」と訴え懇願します。

父親の罪を知り、群集の罵る意味も十分に理解したうえで、それでも父親を許して欲しいと泣きながら群衆に必死に訴える胸打つシーンでした。

父の弱さと浅はかさ、父親の犯した罪、それらをすべて十分に認識したうえで、それでも家族のために苦しんだ父親の誠実さを知っている子供は、群集に父親の放免を泣きながら懇願したのです。

厳しい現実に苦しみ、そして、傷つきながらも家族のために懸命に生きた父親の、その卑弱さを見つめる少年の眼差しはどこまでも優しく、父の犯した罪をともにすべて受け容れた子供は、たぶんその時、愚かしい概念だけの「正義」を乗り越えて、父と子の真実の絆を得たのだと、絶望の中で放心して歩き続ける父親の傍らをつかず離れずして心配そうに父と歩みを伴にする息子の姿を見て痛感したラストシーンでした。

しかし、それに引き換えて、「下町」のラストで描かれたこの母子の関係は、どうだったでしょうか。

愛する人の突然の死によって、つかの間に灯った希望を打ち砕かれ、惨憺たる絶望のなかで母親は、歩き続けています。

少し遅れがちに歩く息子には、母親がなぜ悲しみ落胆しているのかを察することができないどころか、いま母が悲しんでいる状態にあることすらも分からないようにさえ見えます。

その証拠に、彼は、帰らぬ父親を連想させる「異国の丘」を歌い続けています。

その歌は、もしかしたら、いまの母親にとって、打ち砕かれ閉ざされた将来を暗示させるもっとも聞きたくない歌だったかもしれません。

そんなことはお構いなしに、息子は、無邪気に、そしておおらかに歌い続けています。

母親は苛立ち、親の苦境を察しようとしない暢気すぎる息子に敵意の眼差しで憎々しげに睨みつけますが、すぐに思い直して、燃え上がる怒りを押し殺しながら、「諦めるより仕方がない」とでもいうように、能天気に歌い続ける息子を抱き寄せて歩み去ります。

しかし、息子を抱き寄せるこの場面からは、残念ながら息子に対する一片の愛情すらも感じ取ることはできませんでした。

たぶん、そういうふうには、描かれていなかったからでしょう。

むしろ、まるでこの場面は、彼女にとって、息子もまた、自分に対して無関心で冷ややかに接するにすぎない他人の一人と描いているようにさえ思えました。

もしそうなら、「自転車泥棒」の父に寄り添う息子と比較するまでもなく、それではあまりにもさびしすぎます。

そうなのです、冒頭の鶴石との出会いが、少女・芙美子の夢に発する歪んだ妄想にすぎなかったように、もしかしたらこの場面もまた、他人をまっすぐに見ることの出来ない芙美子の被害妄想からの歪んだ視点が生んだ産物だったのかもしれません。

しかし、同時に、そうした被害妄想をイッタイ誰が非難できるだろうかという思いに囚われました。

他人から寄せられるあらゆる行為、それがたとえ善意からのものであったとしても、思わず身構え、疑心暗鬼に囚われてしまうこの被害妄想の原初は、やはり彼女の幼少期において、過酷な環境にあって他人からいかに傷つけられたかの忠実なバロメーターだったのだとしたら、この芙美子の疑心暗鬼を一概に非難することなどできるはずがないという暗澹たる思いに囚われた映画でした。

(1957東宝)制作・藤本真澄、監督・千葉泰樹、原作・林芙美子、脚本:笠原良三、吉田精弥、撮影・西垣六郎、音楽・伊福部昭、美術・中古智、照明・石井長四郎、金子光男、録音・小沼渡
出演・山田五十鈴、三船敏郎、田中春男、村田知栄子、亀谷雅敬、多々良純、淡路恵子、馬野都留子、沢村いき雄、鈴川二郎、中野トシ子、土屋詩朗、広瀬正一、佐田豊、五十嵐和子、中山豊、岩本弘司
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by sentence2307 | 2011-02-12 12:56 | 映画 | Comments(4)

下町(ダウンタウン)

なにも成瀬巳喜男監督だけが林芙美子の小説を映画化したわけではなかったことを、他の監督が撮った林芙美子原作の映画化作品に接するたびに、あらためて気づかされます。

でも、そういうふうにして「気づかされた」としても、少し時間が経ってしまえば、いつの間にかまた元の「林芙美子原作の映画化は成瀬だけ」みたいな先入観に戻ってしまうのは、それだけ成瀬巳喜男の繊細な演出が際立って素晴らしく、林芙美子の小説のエッセンス(悲壮感や諦念、それらを覆った悲観主義など)を絶妙に汲み取って描きあげることができたからだと思います。

そこに成瀬巳喜男演出というスタンダードが屹然とそびえていたからこそ、他の監督がどのようにして林芙美子の小説を「料理」したのかという興味も湧いてくるわけですが、そんなふうに考えていたあるとき偶然に、成瀬巳喜男が長い低迷期を脱する契機となった「めし」1951(実に16年ぶりにキネ旬ベストテン入りの第2位となって「名匠」の名を不動のものとし劇的な復活をとげた作品といわれています)の映画化が、最初は千葉泰樹監督が当たるはずだったというイキサツ(千葉監督の急病で代役に成瀬監督が起用されたそうなのです)があったことを知りました。

「めし」1951は、映画監督・成瀬巳喜男を考えるとき、とても重要な位置づけにある作品です。

「低迷脱出」だけでなく、林芙美子原作「めし」に出会うことによって映像作家として安定した上昇気流に乗ることができ、それによって一層の成熟を果たし、最高傑作「浮雲」に至る道筋をも定めることができた重要な契機となった作品といわれているからでしょう。

この作品「めし」によって、従来、ともすると甘ったるい叙情に流されがちといわれた成瀬が、何気ない生活の細部に心理のアヤを的確に表現できる日常のリアリズム描写力を、ついにマスターしたとされています。

もし、その「めし」の映画化を千葉泰樹監督が当たったとしたら、成瀬のその後の「稲妻」1952「妻」1953「晩菊」1954「放浪記」1962などという秀作群が果たして存在したかどうか、戦後日本の映画史を考える上でも大きな分岐点であったことは間違いなく、成瀬監督の「めし」が作られていなかったとしたら、この現在に僕たちは少し毛色の違った「成瀬巳喜男作品」を見せられていたかもしれません。

そもそも、この小説は、朝日新聞に連載中に映画化の権利を松竹と争い、東宝が落としたという経緯がありました。

しかし、林芙美子の急逝により、未完となった小説の最後をどのようにするかで脚色に当たった田中澄江(林芙美子側)と井出俊郎(藤本プロ側)は、当初、夫婦関係の破綻で終わるという脚本を書いたとされています。

しかし、その結末を、「よりを戻す」ことに変えたのは、会社側が女性客を意識しての興行的判断からだったからだと伝えられています。

たとえ倦怠期であろうと円満な夫婦関係を選択した妻の、自分を殺して日常の平穏に戻る女の抑制的な諦念の要素が欠けていたとしたら、はたして成瀬巳喜男の特色が十分に発揮できたかどうか、きわめて疑問だったといわざるをえません。

「もし、林芙美子が、急逝せずに結末に夫婦の破綻を書いてしまっていたら」

「もし、千葉監督が急病にならなかったら」

「もし、成瀬が松竹に留まったままだったら」

いくら「もし」を連ねても、なんの意味もないことは、十分に承知しているつもりですが、運命とか巡り合わせって、なんだか不思議な感じがしますよね。

林芙美子が急逝したのは、1951.6.28、そして、「めし」の封切りは1951.11.23でした。

林芙美子の死の年に、彼女の小説を映画化することによって、成瀬巳喜男は映画作家として飛躍のスタートを切ったということだって、相当に鳥肌ものだと思います。

映画化された林芙美子作品というのを、ちょっと調べてみました。

木村荘十二監督『放浪記』(1935 PCL)夏川静枝・堤真佐子
豊田四郎監督『泣虫小僧』(1938東宝)林文雄・逢初夢子
渋谷実監督『南風』(1939松竹)田中絹代・佐分利信
成瀬巳喜男監督『めし』(1951東宝)上原謙・原節子
池田忠夫監督『あわれ人妻』(1951松竹)若原雅夫・角梨枝子
原研吉監督『うず潮』(1952松竹)月丘夢路、佐田啓二
成瀬巳喜男監督『稲妻』(1952大映)高峰秀子・浦辺粂子
堀内真直監督『真珠母』(1953松竹)淡路恵子・三橋達也
成瀬巳喜男監督『妻』(1953東宝)上原謙・高峰峰子
森一生監督『絵本猿飛佐助』(1953新東宝)水島道太郎・喜夛川千鶴
成瀬巳喜男監督『晩菊』(1954東宝)杉村春子・沢村貞子
久松静児監督『放浪記』(1954東映)角梨枝子・岡田英次
酒井辰雄監督『若き日の誘惑』(1954松竹)大木実・藤乃高子
成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955東宝)高峰秀子・森雅之
千葉泰樹監督『下町』(1957東宝)山田五十鈴・三船敏郎
久松静児監督『女家族』(1961東宝)新珠三千代・三益愛子
成瀬巳喜男監督『放浪記』(1962東宝)高峰秀子・田中絹代
斎藤武市監督『うず潮』(1964日活)吉永小百合・奈良岡朋子
大庭秀雄監督『稲妻』(1967松竹)倍賞千恵子・藤田まこと

こう見てくると、やはり成瀬巳喜男の林芙美子作品の映画化に対する充実振りがうかがわれることが分かります。

さて、だいぶ寄り道が過ぎてしまいましたので、急いで本題の「もし、他の監督が林芙美子の小説を撮ったら」に返りますね。

因縁話めきますが、そういう意味でも千葉泰樹監督の「下町」は、成瀬監督作品と比較するうえにおいて、もっとも相応しい作品といえるような気がします。

しかし、その前に、僕が千葉泰樹監督の名前を強烈に意識した作品「鬼火」を生み出した当時の日本の映画界の状況から話し始めなければならないかもしれません。

日本映画の全盛期、昭和30年代に、邦画各社が中短編映画を数多く製作しはじめ、新人監督や脇役俳優の格好の活躍の場となりました。

まず1952年、松竹は「シスター映画」と呼ばれる中篇映画の製作をスタートさせます。

上映時間はおもに40分~50分程度の作品で、これを併映作として2本立ての封切りのローテイションを維持しようとしました。

ネーミングの「シスター映画」とは、姉妹篇を意味するSister Pictureからきていて、俗に「SP版」とも呼ばれています。

第1作は西河克己監督のデビュー作「伊豆の艶歌師」1952で、その後も、新人監督を起用して断続的に製作されていきます。

そして、このシステムから小林正樹監督の「息子の青春」1952、野村芳太郎監督の「鳩」1952が作られ、それぞれデビューをはたしています。

その後、松竹では路線として「SP版」というのはなくなっていくものの、中篇映画の製作は継続され、「愛と希望の街」1959で大島渚、「二階の他人」1961で山田洋次がデビューしています。

つまりこれは、監督昇進への登竜門ともいうべき一応の成果をあげることのできたシステムでした。

この、松竹の「SP版」に続いて、各社も中篇映画の製作に追随するかたちで開始します。

1954年には東映が2本立てに踏みきり、その併映用作品として「娯楽版」と銘打った子供向けの連続活劇ものの中篇映画を製作します。

まず「真田十勇士」3部作を第1弾に、「新諸国物語・笛吹童子」3部作、「里見八犬伝」5部作、「新諸国物語・紅孔雀」5部作などが製作され、なかでも「笛吹童子」「紅孔雀」は、大ヒット映画になり、ここから中村錦之助や東千代之介といった新たなスターが生まれます。

1956年に入ると日本映画6社がこぞって2本立てを実施することになり、東宝でもこの年、1956年から名匠・名優を惜しげもなく起用して「ダイヤモンド・シリーズ」と銘打った力のこもった併映用中短編を次々に製作していきますが、その第1作で、しかもシリーズ代表作とも評価されているその「鬼火」が、千葉泰樹監督作品でした。

この時期に撮られた印象深い作品としては、ほかに丸山誠治「憎いもの」1957、山本嘉次郎「象」1957、堀川弘通「琴の爪」1957、筧正典「新しい背広」1957、そしてこれから感想を書こうとしている「下町」もあるのですが、こう見ていくと、東宝では松竹と異なり、新人ではなくベテラン監督を起用し、豪華な俳優陣で、力のこもった作品を投入していたことが分かりますね。

さて、自分としては、成瀬巳喜男演出ではなく、「もし、他の監督が林芙美子の小説を撮ったら」というテーマを設定して、千葉泰樹監督の「下町」について書くつもりだったのですが、書くうちにどんどん論旨は横道に逸れまくりで、許された時間も使い果たし、もはや自分のチカラでは、この一文を本題に戻すことが絶望的になってしまいました。

千葉泰樹監督の「下町」論は、後日改めて書き直したいと思いますので、あしからずご了承ください。

では、また。

(1957東宝)制作・藤本真澄、監督・千葉泰樹、原作・林芙美子、脚本:笠原良三、吉田精弥、撮影・西垣六郎、音楽・伊福部昭、美術・中古智、照明・石井長四郎、金子光男、録音・小沼渡
出演・山田五十鈴、三船敏郎、田中春男、村田知栄子、亀谷雅敬、多々良純、淡路恵子、馬野都留子、沢村いき雄、鈴川二郎、中野トシ子、土屋詩朗、広瀬正一、佐田豊、五十嵐和子、中山豊、岩本弘司、
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by sentence2307 | 2011-02-06 16:10 | 映画 | Comments(114)

AV女優の人生

先日、ある新聞の書評欄で面白い記事をみつけました。

書評欄は、これでも結構、気をつけて読んでいる方なんですよ。

ただ、書評とはいっても、あのお偉い先生が専門専門で書く例の堅苦しい書評ではなくて、「編集者発」とかいうサブタイトルがついているちょっと柔らか目の、ぶっちゃけ自社本の宣伝コラムのようなものだと考えてください。

書籍名は、「ラフな裸婦たちの満たされた本音トーク」というもので、著者は、森下くるみという人、そして、つらつら読んでいくと、どうもこの森下さんも同業の元AV女優さんだったらしいことが、だんだん分かってきます、きっとその元職の人脈をたどって書かれた内輪話的な本なのだろうと思います。

さらに、このコラムを書いた人というのも青志社書籍編集部の岩崎輝央とかいう人で、多分、この本の編集担当者だったんじゃないかなと推察しました。

そうじゃなければ、この程度の本に、これだけ恥ずかしげもなく無節操なヨイショをするなんて、ちょっと考えられませんしね。

最初、この書名の見たとき、「ラフな裸婦たちの【満たされない】本音トーク」の読み間違いではないかと、再度読みかえしたくらいでした。

いやいや、確かに【満たされた】と書いてあります、間違いありません。

へえ~、こんな肯定的なタイトルを恥ずかしげもなく大真面目につけたのだとしたら、その浅墓さに、なんかコッチまで赤面してしまいました。

レストランで鍋物料理を注文して、配膳されてきたその料理というのが、いやに底の浅い薄っぺらな鍋の中に、ショボい料理が頼りなげに横たわっているだけの、ちょうどアノ絶望感に匹敵するような、なんとも「芸」のない寒々しいタイトルです。

この書名から本の内容を推察すれば(それも、ゴク良心的に見積もっての話しですよ)、そのまんま「アタシ、AV女優になってホント良かったわ」という開き直りの本に違いありません。

そして、まさにそのとおりでした。

ちょっと、その部分を記事から引用しますね。

といっても、その量たるや全体の50%に匹敵してしまうくらいなのですから、引用どころの騒ぎではありませんが。

《本書には、現代を生きる若い女性の姿も色濃く現れています。
どの女優さんにも、「借金まみれ」「家庭に問題あり」なんてありません。
少し好奇心旺盛だったり、現状に満足できていない今どきの女性たちが、自分の嗅覚でアダルト業界にたどりついたのです。
さて、何人目かのインタビューを終えた帰りの居酒屋でのこと。
「今日の女優さんが話した『AVにでていなかったら、つまらない人生だったと思う』って、いいですね」と言う私に対して、飲みながら森下さんが一言。
「ああいう話を聞くと、本当の意味で、人生って自分のものだなって思いますね」》

なんですか、このコメントは。この人たち、自分がなにを言っているのか、本当に分かっているのでしょうか。

「借金まみれ」や「家庭に問題あり」なんて事情がなにひとつないのに、自分からすすんで裸体と痴態を、アエテ公衆の面前にさらすことでしか、人生を自分のものだと実感できないのだとしたら、そりゃあ家庭には問題がないのかもしれませんが、明らかに「当人に問題あり」でしょう。

我慢ができないくらい男とのSEXが好きで好きで仕方がないのなら、いまの時代、相手になる男なんていくらでもいるのですから、どこででも調達して、隠れて性欲処理すればいいじゃありませんか。

だいたい「借金まみれ」や「家庭に問題あり」を否定しておいて、「公衆の面前に痴態をさらす」、それで「金を取る」というあたりが、どうも怪しい。

ここまで書いてきて、ちょっと待てよ、と思いました。

有り余る過剰な性欲を持て余して、その性欲処理の相手を、チマタを彷徨して探すというのは、「東電OL殺人事件」を思い返すまでもなく、考えてみればとても危険極まりない行為ではありますよね。

過剰な性欲処理のお相手をしてくれる人が、善良で安全な人ばかりでないことは、大いに予想できますしね。

それならば、たとえビデオに撮られてしまうというリスクをおかしてでも、AV出演という選択肢は、安全なお相手と、わが身の安全も保証されるという意味において、そーゆーひとたちにとっては、願ってもない「場所」なのかもしれないなと思い当たりました。

でも、「借金なし」や「家庭に問題なし」ってホントでしょうか。

溝口健二の作品の中で、すこぶる悪評だった「夜の女たち」という戦争直後の娼婦を描いた映画がありました。

ちょうどあの映画のことを頭の隅に思い浮かべながら、この駄文を書きました。

あの映画に描かれていた女たちこそ、「借金まみれ」「家庭に問題あり」の女たちでした。

悪意の男たちから身も心も傷つけられ社会の底辺に堕されていった女たちです。

彼女たちは自分を堕落させた身勝手な男たちを恨み、蔑視の視線を投げ掛けてくる世間を呪いながらも、生活のためには仕方なく汚らわしいSEXに身を汚さざるを得ませんでした。

しかし、彼女たちは、売春に身を汚しながら、いつかはきっとこんなケガラワシイ仕事から足を洗い真っ当な生活に戻ることを夢見ています。

しかし、あの売春婦たちが夢見た夢を、この書評に描かれていたAV女優たちは、果たして持っていたのだろうかと疑わしい気持ちになりました。

愛情もない相手と性交し、ひとりでヨガリまくって自足することだけが目的で、「AVにでていなかったら、つまらない人生だったと思う」と充実感をかたり、幾ばくかの金を満足気に受け取る現代のAV女優と、「夜の女たち」に描かれた娼婦たちとに、もしなんらかの違いがあるとすれば、こんなケガラワシイ生活を早く精算して清らかな生活に戻りたいと夢見た夢の存在と、そして不在との違いかもしれません。

書評の最後に、突然、それこそポツンと【1300円】の値段が、なんの断り書きもなく表示されていました。

ちょっと考えれば、すぐに本の値段であることの察しはつきましたが、この絶妙なレイアウトとタイミングは、まるで現代のAV女優のお値段みたいに錯視させ、また、そのくらいの値段が相応しいのかもしれないと思わせてしまうものが確かにありました。
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by sentence2307 | 2011-02-05 17:58 | 映画 | Comments(1)