世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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母情

子供の頃、親によく「この子は、大人の顔色を読む可愛げのない子だ」といわれて育ちました。

もちろん、いい意味ではありません。

きっと、親たちは、子供らしさに欠け、みっともない程おどおどとした内気すぎる不肖の息子を、心底嫌っていたのだと思います。

たとえ親たちから嫌われても、そんなことなど一向に気に留めず悠然と遊び興じているオウヨウな子供だったのなら(いまにして思えば、それこそが「子供らしさ」だったのですね)、苦労はしなかったのですが、薄気味悪いくらいに気を使う臆病な子供だった自分としては、背負い切れないほどのプレッシャーを抱え込んで、子供らしく振舞おうと一層焦り、しかし、そう意識すればするほど、却って演技のようなワザとらしさばかりが目立ってしまう結果を招き、これがまた親たちの勘にさわって、タチの悪いひねくれ者の嫌味としか捉えられず、さらに親たちを苛立たせたのかもしれません。

思えば惨憺たる子供時代だったのだと、いまにして痛感します(そうそう、平山秀幸の「愛を乞うひと」に出会ったとき、自分のほかにもこのような感性に耐えてきた人が世の中にはいたのかと驚き、長年の「憑き物」から解き放たれるような気がしたものでした)。

きっと、自分のようにしか振舞えない不器用で目障りなタイブの多くの子供が、親たちから生理的に嫌悪され、疎んじられ、拒絶され、憎まれ、不運にも凶暴な親であったなら虫けらのように殺されてしまう場合だって大いにあるのだと最近になって痛感します。

しかし、成長するにつれて、こんな自分と似たようなタイブの人間を敏感に嗅ぎ分けることができることに気がつきました。

別にたいした能力ではありませんし、悪くいえば「他人の顔色を読む」程度以上のことではありませんから、まあ、とどのつまりは、どうでもいいつまらない能力なのですが、ある時期、清水宏監督作品を何作か立て続けに見たとき、直感的に、この監督こそ、自分と同じように「他人の顔色を読む」タイプの人間だと分かりました。

たとえば、小津監督作品を通して感じる小津安二郎という人のイメージは、他人の思惑などに少しも気にせず、堂々と強靭な意志を貫き通すことのできる人だと分かります。

人間に対する確固たる信念、透徹した道徳的価値観を見定めていて、だからなおさら、過酷な社会の重圧の下で屈服させられ、生来有していたはずの正義と誠実を社会生活の中ではついに実現できず、そうした限界のなかで自己欺瞞に晒されながら生きるしかない小市民の自己卑下と怒りとを、抑制されたカタチで巧みに表現できたのだと思います。

あるいはまた、成瀬巳喜男なら、そうした絶望感を抱え込む生活者が、生きていくために必要とする技術としての、極めて個人的な「諦念」を、痛ましさの側面から徹底的につきつめることによって、その背後にある大きな時代のうねりと過酷な社会状況とを鮮明に浮かび上がらせることができたのだと思います。

演出指導にあたり、成瀬巳喜男は、役者には演技的な要求は何もしなかったといわれています、むしろ過剰な演技を嫌い、できれば何もしてほしくなかったとさえ考えていたともいわれています。

それは、人間が、ある一定のシチュエーションの中で生きるしかない限界的な生き物であることを精密に衝いている表現だったのでしょうし、役者たちがあえてなにも演じないことで、なによりも的確に庶民の「諦念」を表現することができたのだと思います。

そのような成瀬演出を考えるにつけ、その演出術の原点には、清水宏の影響がかなりあったのではないかという思いに捉われます。

このことに関して、清水宏の年賦に、ある象徴的なエピソードが記されていました。

「蒲田撮影所の入社が決まり、池田義信組の助監督となった清水は、学生服を着たままでカメラの脇にデンと立ったままおよそ働かず、演出術を研究しているのだと嘯いていた」とされ、「それで『銅像』というアダ名がつけられた。弟デシの成瀬巳喜男が働こうとすると叱った」とされています。

さらに、「清水は、役者の表情よりも、ストーリーから生まれる画面を想像して、その画面から逆にストーリーを表現しようとした。これは、彼の新しい方法であった。だからロングの人物でも、それが全体の雰囲気を十分に表現することもでき、役者の背中から撮って、顔なんか向こうに向けていても、十分に全体のニュアンスをだしている。役者の表情に頼って芝居の押しをする代わりに、カットの細かさによって役者のアクティングを分解して、それを清水らしいアングルで捉えて、その積み重ねでもってストーリーを押していく。これはひとつの映画の重要な技術だが、彼はその点がうまかった。(岸松雄)」と記述されています。

ここに書かれている演出理論を実践した作品を挙げるなら、それこそ幾らでも簡単に列挙できるような気持でいました。

しかし、実のところ、具体的に「どれか」となると、これはなかなか難しい選択だと始めて気がついたのです。

思い入れの強い作品は、それなりにその「思い入れ」が邪魔して、『役者の表情に頼って芝居の押しをする代わりに、カットの細かさによって役者のアクティングを分解して、それを清水らしいアングルで捉えて、その積み重ねでもってストーリーを押していく』などという冷静な分析など到底できそうにありません。

そんな「ありそうで実はない」という戸惑いに中にいたとき、1950年作品「母情」を見ました。

この作品の存在は、情報としてなら以前からかなり詳細にわたって認識していたと思いますし、また、その製作年度からみても「小原庄助さん」と「その後の蜂の巣の子供達」の間に位置するという清水宏監督にとって、きわめて重要な時期に撮られた作品ということができるでしょう。

しかし、そのような認識があり、しかも幾度か見る機会があったにもかかわらず、そのたびに躊躇し、結局やり過ごして見なかったというのには、少し理由がありました。

僕が接した解説書には、この作品について、だいたいこのように記述されていたと思います。

「お人好しの女主人公は、父親のちがう子供を3人生んだが、さえない人生を新規にまき直すために新しく酒場を開こうと思い立ち、子供たちを一時親類縁者に預けるため、子連れで子預け探しの旅に出るという中年女(あるいは、清川虹子は若い役だったのかもしれませんが)の物語である。
おとなしい2人の子供の方はすぐに引き取り手が見つかったものの、反抗的で寝小便癖のある長男だけは引き取り手がなく、仕方なく最後に頼みの綱と頼ったかつての「婆や」、いまは峠で茶屋を営む老婆の元目指して、母子2人の預け先探しの旅は続けられますが、その婆やから親子の情を諭されるというストーリーである。」

このあらすじの一文から、この映画が、子供の預け先を探し求める母親の物語という印象を受けたとしても、無理はありません。

実際、自分もまたそのような印象を受けて、なんとなく興味が半減し、見る意欲を喪失してしまったひとりでした。

しかし、実際にこの作品を見ると、このあらすじの記述が、かなり見当はずれであったことが分かります。

母親が、いまはすっかり老いさらばえた兄弟を訪ね歩き、子供を預かって欲しいと無理やり頼み込むその傍らで、子供たちは何気ないふうを装いながら、実の母親のその非情な依頼話にじっと耳を傾けている姿が映しこまれています。

いままさに自分たちが、母親によって見知らぬ他人の家に置き去りにされ、見捨てられようとしている子供たちの不安な心情が、痛いほど描きこまれていました。

「母情」というタイトルにしては、この映画には、いままさに子供の養育を放棄しようとしている母親の心情が精緻をきわめて描かれているとは決して思えません。

その代わり、不安な気持ちの動揺に必死に耐え、平静を装って、自分たちの身柄のやり取りを話し合う無残な大人たちの会話にじっと耳を傾けているしかない無力な子供たちの痛ましい姿が描かれていました。

子供たちが大人の「顔色を読む」とは、こういうことだったのだと気がつきました。

たとえ過酷な境遇に堕され、自分ではどうしようもできない悲惨な運命に見舞われようとも、大人に寄生することでしか生きるすべのない無力な子供たちは、どんなことがあっても「なにも知らぬ気に」無邪気に遊んでいる振りをするしかないことを、清水宏監督はちゃんと知っていたのだと思います。

彼の年譜には、小学生の頃、両親の夫婦仲が悪かったため祖父の手で育てられたこと、そして、その頃から「腕白大将だった」ことが記されています。

僕たちの清水監督に対するイメージも長い間「腕白大将だった」のに、どうして「蜂の巣の子供達」などという繊細な映画を作ったのか、どうして「大仏さまと子供たち」だったのか、そのギャップが長い間とても不思議でした。

しかし、清水監督が「大人の顔色を読む可愛げのない子供」だったのなら、僕の疑問は一挙に氷解することになります。

(1950新東宝)監督製作脚本・清水宏、脚本・岸松雄、製作主任・山本喜八郎、撮影・横山実、音楽・古関裕而、美術・伊藤壽一、編集・笠間秀敏、録音・根岸寿夫、照明・横井総一、助監督・石井輝男
出演:清川虹子、徳川夢声、黒川弥太郎、飯田蝶子、坪内美子、宮川玲子、清川玉枝、山田五十鈴、古川緑波、浦辺粂子、望月優子、伊達里子、明美京子、白木純子、加藤欣子、徳大寺君枝、花岡菊子、杉寛、坪井哲、若月輝夫、尾上桃華、石沢健二、小島昭治、浅田歌子、
1950.06.28 9巻 2,347m 86分 白黒
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by sentence2307 | 2011-03-27 21:56 | 映画 | Comments(3)

文楽の絶句

子供の頃、多くの家にはまだラジオしかなく、家族が夕餉の膳を囲みながら、そこから流れる番組に耳を傾けていました。

夕方は子供向け番組が組まれていて、「赤胴鈴之助」の「ウーリャーター」などを胸をときめかせて聴いていたことを鮮明に覚えていますし、夜ともなれば親が聞き入っている「落語」や「浪曲」などを、傍らで(あるいは、すでに寝床に横になって)一緒に聴きました。

たぶん僕たちの世代は、そんなふうに、ごく身近に落語というものが自然に存在していた世代だったと思います。

毎日のように名人上手の噺家が、日替わりくらい頻繁に落語を聴いていました。

ですから、物心つく頃には、すでに落語への理解が、相当に身に備わっていて、それは好き嫌いを超えて「素養」とでもいっていいくらいのものだったと思います。

なので、たとえば、幼い自分が、噺家たちが落語の中で話している単語をなんとなく覚え、その意味するところをなんとなく理解(イメージとしては、かなり正確・的確に理解)もしていたと思います。

例えば、遊び人のハチ公や道楽息子のコータロウの登場する噺に必ず出てくる「じょーろかい」という言葉など、その独特の言葉の響きをいち早くを覚えたものです。

そして、おそらく、その言葉の意味するところも、ストーリーの流れのなかから、子供なりにかなりの部分正確に理解しただろうと思います。

ある特定の場所(「廓」です)で、そこにいる女の人と「遊ぶこと」だということくらいは少年たる自分にも見当がつきました。

しかし、その「遊び」の中身については(イメージとしてなら、だいたいは見当がついていましたが)分からなかったということにしていたのだと思います。

いま思えば、そのとき「分からなかったことにしていた」中身について、自分が思春期に向ってだんだんと成長するにおよんで、あの「じょーろかい」なるものが「女郎買い」であることに、ある日突然気づき、それがズバリ「男と女が性交すること」に繋がったとき、少年の頃になんとなく感じていた男女がまぐあう交合のイメージと差して違ってはいなかったことが判明し、むしろ、あの頃、自分が「分からないことにしていた」ことの、さらに奥にあるものにも気がついたのかもしれません。

おとなの男たちが、なぜ、必要な生活の資金までをもつぎ込んでまでして、あえて「じょーろかい」などというものをせずにはいられないのか、そのこと自体が、思春期以前のイマダ「性欲」を獲得できていなかった自分には、実感として正確には分からなかった(分からないことにしていた)のだと気がついたのでした。

そして、自分もまた「性欲」を獲得したことに目覚めたとき、「じょーろかい」→「性交」が、こうゆーものだったのかと実感として理解したとき、身の周りにある多くのモノゴトのことごとくが、ただの上辺だけのマヤカシなのかと失望もしました。

みんな、本当はギラギラのカオスのような性欲を抱えて、そして内心では折りあらば淫らな欲求を満たしたいと機会を狙っているのに、日常では平然と上辺だけをとりつくろった誤魔化しの虚偽の生活をおくっているのかという嫌悪です。

しかし、始末に悪いのは、自分もまたその「性欲」というやつを抱え込んでいるひとりであり、そうである以上、その「失望」や「嫌悪」が自分にも向けられていることで、ただの綺麗ごとの「失望」や「嫌悪」では済まない点にあったのです。

「失望」や「嫌悪」のこちら側で生きるということが、「大人になる」ということなのかというもうひとつの「失望」や「嫌悪」に囚われ、身の周りの多くのものが、少年のときに感じたことと、その容貌をことごとく変じさせてしまったとき、「落語」だけは裏切ることなく、少年のときに出会ったままのなにひとつ変わることのない姿で自分の傍らに存在していました。

最初から「性」を揶揄し、人間が「性欲」に支配される無様な姿を滑稽さをもって批判的に描く「落語」の姿勢には、自分にとって救いだったのだと思います。

そのとき以来、僕は「落語」というものの姿を指示し信用することにしています。

ただ、自分が長ずるにおよんで、名人といわれた噺家たちが次々と亡くなっていくに従い、時代が移ろい、世の中に凡庸な噺家だけになってしまったとき、「名人上手」という人たちが極めて特別な存在であったことを思い知りました。

現在の芸術家気取りをした了見違いの落語家や、金儲けばかりが上手な噺家ばかりになってしまった寄席にも、いつしか足が遠のきました。

話し手の善良な人柄がにじみでてこそ、はじめて落語に笑えるのであって(志ん生を前にしたとき僕たちはすぐにでも笑いで反応できるように顔の筋肉を弛緩させて待ち構えていたものでした)、庶民より賢く、庶民より金儲けが上手で、庶民よりうまく立ち回ることのできる要領のいい「エセ芸術家」の噺なんて、馬鹿らしくって誰が好きこのんで耳を傾けると思います?

おおらかな志ん生の包容力と、文楽の完璧な噺(同じ話しを正確にかつ数秒の違いで常に話しました)の世界に取り込まれる安心と快楽・・・と前置きが長くなりましたが、これだけのことを書かないと、表題の「文楽の絶句」を書くまでに至りませんでした。

昭和46年8月31日、八代目・文楽は、東京・国立小劇場に出演して、持ちネタ「大仏餅」を話しているとき、途中で話しにつまり、絶句しました。

落語をこよなく愛する者たちのあいだでは、いまだに語り継がれている衝撃的な「事件」です。

そして、そのとき文楽は、「勉強し直してまいります」とだけ言い残して引き下がり、その後、一度も高座にはあがることなく、その年の暮れに亡くなりました。

この話しだけなら、つねに完璧を目指した落語家・文楽が、迫り来る老いに打ちのめされ、言葉に詰まり、ついに高座を降りたというだけのさびしいエピソードにすぎません。

しかし、その少し前にも高座で危なっかしい場面が幾つかあって、老いを感じていた文楽は、稽古には余念がなかったと伝えられています。

しかし、それは、ネタの稽古ではなかった、驚くべきことに、もしいつかどこかで自分が絶句したときに述べるための口上(「勉強し直してまいります」)を稽古していたのだということを知って、その引き際の覚悟に驚愕し、打たれ、総毛立ちました。

人生の引き際を心得、決然とした見事な最後だったのだと、このエピソードを思い出すたびに、身が引き締まる思いをします。

喪失感を抱えながら、今日もまた、八代目・文楽のCDを聞いている次第です。
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by sentence2307 | 2011-03-06 10:53 | 徒然草 | Comments(3)

渡り鳥いつ帰る

去年、キネマ旬報社から刊行された「高峰秀子」の表紙には、ふたつのサブタイトルが付されていました。

ひとつは「高峰秀子自薦13作」、もうひとつが「高峰秀子が語る自作解説」というものです。

そう聞いてしまったら、それこそすぐにでも読んでみたくなるのが映画ファンというものですよね。

数多くの名作に出演した名優・高峰秀子が、自身どういう作品をベストだと考えていたのか、また、個々の作品について、どうコメントしているのか、是非にも読んでみたくなる心憎いばかりの宣伝文句じゃありませんか。

まあ、刊行から随分時間も経っていることですので、エッセンスだけでも、ちょっとばかし引用させてもらおうかなと虫のいいことを考えました。

すこし書くだけなら、まさか営業妨害にもならないだろうと勝手に考えることにして、佳作「渡り鳥いつ帰る」について少しだけ書いてみることにしますね。

ちなみに、これが永井荷風作品の初めての映画化作品なんだそうですってね。

印象としては、もっと多くの映画化作品を思い出せそうな気もしたので、これは意外でした。

引用してみるのは、「高峰秀子が語る自作解説」の方からで、その正式のタイトルは「女優・高峰秀子の航跡」です。

そこに書かれている多くの作品についてのコメントは、僕たちが抱いてきた作品の印象とは、すこし違う高峰秀子の率直なものいいに出会うことが多く、それだけに一層リアルな感じを受けたのかもしれません。

例えば、その最たるものが作品「渡り鳥いつ帰る」についてだったような気がします。

高峰秀子は、「渡り鳥いつ帰る」について、こんなふうに記していました。

この作品の「スチールなんか私が主役みたいに写っているけど、実は私はワンシーンしか出てないの。多分この作品がちょうど『浮雲』のあとだったので、私が出るとお客が入るっていうわけで、急に台本に私の場面を書き足したのね。でも話しの筋には全然関係ない役だからね。」

この部分を読んだとき、実は物凄いショックを受けました。

自分が邦画を鑑賞するうえで座右に置いて常に参考にしているガイドブックに、ずっと以前キネマ旬報社から刊行された「日本映画作品全集」(刊行は1973年と書いてあります)という本があるのですが、その「渡り鳥いつ帰る」の項には、こんなふうな解説が掲載されていたのでした。

「女将に田中絹代、相手に森繁久彌が扮するほか、久慈あさみ、淡路恵子、桂木洋子といったスターが艶を競い、なかでもお目見え娼婦を演じる高峰秀子のちゃっかりぶりが面白さを際立たせた。」

それには僕も、まったく同感でした。

そしてこのクダリなら、この本を購入したときから現在に至るまで、幾度となく読み返している部分なので、自分のなかには、もうほとんど固定観念のように定着していて、この作品の自分自身の評価でもあるといっても過言ではないという考えも揺ぎ無いものになっていると思います。

それに、この作品における高峰秀子の存在感の大きさも、まさに、ここに書かれているとおりの見事に「面白さを際立たせた」存在であったと感じていました。

この作品に登場する他の娼婦たちが、ただ「可哀想なだけの女たち」として描かれているのに対して、高峰秀子が演じた街子は、あきらかに距離をとった客観的な描かれ方をしており、それこそがこの映画を哀れで重苦しいだけの閉塞感から観客を救い、あるいは一挙に開放感を与える役割を担っていると感じました。

ですから、高峰秀子の演じたあの幾分ふてくされた娼婦・街子が、もしこの作品に描き込まれていなければ、この映画は、虐げられ絶望のなかで自壊していく哀れな女たちばかりが描かれるというナントモ均衡を欠いた惨憺たる被害妄想映画となってしまったに違いありません。

高峰秀子自身が言及していたスチール写真も、確かに「高峰秀子」を前面に押し出した取り上げられ方をしていて(ネットで確認しました)、しかし、この扱いにいままで不自然に感じたことがないくらい、この作品における街子=高峰秀子の存在を、必然的な役どころと感じていただけに、高峰秀子のあの「ひとこと」には虚を突かれたような意外感をもったのだと思います。

哀れな女たちがそれぞれに破滅する運命を描いた悲しい本筋からは少しはずれて設定された高峰秀子=街子のこの役は、だからこそ、演出の明確な意図としての効果をねらった計算されつくされたものとして、あるいはまた、その効果も十分に発揮されたものと考えてきた自分にとって、あの高峰秀子の「ひとこと」はショックだったのだと思います。

「『浮雲』のあとで、私が出るとお客が入るっていうので、急に台本に私の場面を書き足したの。話しの筋には全然関係ない役だから。」という述懐の本質にあるものは、興行的な配慮からなされた「適当さ」にすぎません。

それはまさに、長年培ってきた僕の固定観念を根底からくつがす衝撃発言でした。

しかし、冷静になって、その問題のワンシーンをあらためて見直してみると、これが興行的な配慮から急遽付け足されたなどとは、やはり到底信じることができない、田中絹代との緊迫したやり取りが交わされていることを改めて確認しました。

それなら高峰秀子の語った「ワンシーン出演」の発言は、なんだったのか、と考えたとき、ふっと思いついたことがありました。

もしかしたら、「あれ」は、高峰秀子がよく口にした照れ隠しの一種だったのではないかと。

他者の悪意や狡猾さに対してなら決して辛らつさを隠さず、どこまでも攻撃的にならずにおられない彼女なら、自分自身に対してもそこは容赦なく、ヤイバを自らに突き立てずにおかない人という印象を持っていました。

前作の成瀬作品「浮雲」で高い評価を得た彼女が、ただのチョイ役なのに、会社側の意向を一身に受けて広告媒体に破格の扱いをされたことへの、他の出演者たちへの配慮というか、むしろ遠慮や気兼ね、更には負い目のようなものが彼女にあのように言わせたのではないかと思えてきました。

高峰秀子は、他人の誠実さに対しても射抜くような透徹した眼差しを持っていた人だったと思います。

いかなるときも決して大女優ぶることなく、自分を貶めることを十分すぎるくらいに心得ていて、自己卑下をこそ最も得意とした人だったように見受けました。

だからこそ、「渡り鳥いつ帰る」の自分の演技について、あんなふうな言い方をせずにいられなかったのではないのでしょうか。

しかし、高峰秀子が演じた「渡り鳥いつ帰る」のあのワンシーンは、決して手抜きでも生半可なものでもありません。そう感じました。

強欲な女将を見事に演じる田中絹代をむこうに回して、一歩も引けを取らない娼婦・街子のすれっからし振りを演じてみせる彼女が、その場にいる者たちを煙に巻いてしまうという圧巻の印象的な場面です。

女将が「むかしと違って今は、あんたたちを前借で縛るなんてことがない、あんたたちは何しようと自由さ」と言うと、その言葉を受けて、「そう、民主主義ですからねえ~」と高峰秀子の娼婦が、そのままの言葉を受けて繰り返す場面です。

幾分不貞腐れ気味に語られるそのひとことには、「もしそれが民主主義なら、随分とひどい民主主義もあったもんだ」とでもいうように、その「民主主義」という言葉の裏に隠された女将の強欲と、寄ってたかって自分を食い物にするこの下劣な現実と社会に対して反吐を吐きかけるような嫌悪と揶揄、皮肉と憤り、非難と軽蔑が、総体としてのバイタリティとなって噴出した「決して負けない女」の強烈な表出だったと感じました。

僕が、長年読み親しんできたあの解説「お目見え娼婦を演じる高峰秀子のちゃっかりぶりが面白さを際立たせた。」は、決して誤解でも錯覚でもなかったことを今回改めて確認した次第です。

虐げられつづけた日本女性に対して、希望を与えるようなエールのごとき演技を見せてくれた名女優・高峰秀子さんのご冥福をお祈りします。

しかし、この「渡り鳥いつ帰る」を語るにあたり、卓越した演技を見せた女優という意味でなら、それは娼婦・栄子を体当たりで演じた淡路恵子をあげないわけにはいきません。

生活費を稼ぐために過酷な売春によって、ついに心臓病を悪化させ休養を申し出た同僚の娼婦・民江(久慈が抑制されたいい演技を見せています)に対して、強欲な女将は、聞こえよがしに「いまどきの女たちは、体を売ることなんてなんとも思っちゃいないのよ。むしろ、好きなことをして、そのうえお金まで貰えるんだから、こんなにいい商売はないくらいに思っているさ」などと嫌味なことを毒づきます、そして、同僚・民江へ向けられた身勝手な女将のその暴言を、栄子は憤りを抑えながら聞いています。

立場の弱いものをどこまでも食い物にしようとする酷薄な女将への栄子の内に秘めた憤りが、やがて女将の愛人で娼家の亭主でもある伝吉(運命に弄ばれる哀れな男妾を森繁久彌が見事に演じています)の報復のような誘惑につながっていきます。

さっさと離婚届にハンコを押して一緒にどこかへ逃げようと誘う栄子の誘惑に、別れた女房や子供にどこまでも未練を残す煮え切らない態度をひきずる伝吉へ、栄子はついに怒りを爆発させます。

「はっきりしないのね、トオサンは。子供には会いたいし、藤村のカアサンとは別れられないし。そうなんでしょう。うそ、やっぱり今の家業に未練があるのよ、女の血を搾り取る魔窟がさ。なんだい、淫売屋の亭主が。私はね、たとえ一日でも二日でも、あんたを従わせてカアサンにべそかかせたら、それで気が済んだのよ。いったい子供子供って人並みなことが言える男なの、あんたは。なんて顔よ、それりゃ。つまらない男ったらありゃしない。カアサンに言っといてよ、体を売って大した事じゃないなんて思っている女なんかいないんだって、むかしもいまもね。分かったら早く出ていってよ!グズクズしていると水引っ掛けるわよ」と栄子は、蔑まれたことの憤りを高揚させ、怒りを炸裂させて、伝吉に水をぶっ掛けます。

栄子が怒りを爆発させるこの修羅場の切っ掛けとなっているのが、伝吉が大事そうに上着のポケットから取り出す小鳥の死骸です。

たとえ死んでしまっても、長いあいだ可愛がっていた小鳥を捨てきれない伝吉の未練と煮え切らなさ、なにひとつ現状を変えることができずにただ立ち往生するだけしかできない男の不甲斐なさを目の当たりにした娼婦・栄子の怒りのありどころを見せ付けた淡路恵子生涯最高の圧巻の演技を示した秀逸なシーンでした。

「渡り鳥いつ帰る」から2年後の1957年、淡路恵子は「下町」と「女体は哀しく」の演技によってブルー・リボン助演女優賞を受賞します。

千葉作品「下町」において、療養中の夫を助けるために体を売るという善良な女を演じ高い評価を得たあの素晴らしい演技につながるものが、すでにこの「渡り鳥いつ帰る」で窺い知ることができると確認することができました。

ちなみに、この同じ年のブルーリボン新人賞は、石原裕次郎に贈られています、いままさに日本映画が黄金時代を迎えようとしている幕開けを告げるような年だったのでしょうね。

ついでといってはなんですが、「高峰秀子自薦13作」というのを以下に記しておきますね。

①山本嘉次郎監督「馬」
②山本嘉次郎監督「春の戯れ」
③豊田四郎監督「雁」
④木下恵介監督「二十四の瞳」
⑤成瀬巳喜男監督「浮雲」
⑥野村芳太郎監督「張込み」
⑦稲垣浩監督「無法松の一生」
⑧成瀬巳喜男監督「女が階段を上る時
⑨松山善三監督「名もなく貧しく美しく」
⑩松山善三監督「山河あり」
⑪成瀬巳喜男監督「放浪記」
⑫増村保造監督「華岡青洲の妻」
⑬豊田四郎監督「恍惚の人」

(1955東京映画・東宝)監督・久松静児、製作・滝村和男 三輪礼二、原作・永井荷風「春情鳩の街」「にぎりめし」「渡り鳥いつかへる」、構成・久保田万太郎、脚本・八住利雄、撮影・髙橋通夫、玉井正夫、美術監督・伊藤熹朔、美術・小島基司、音楽・團伊玖磨、録音・西尾昇、照明・今泉千仞、企画・佐藤一郎、助監督・板谷紀之、
出演・田中絹代、森繁久彌、高峰秀子、久慈あさみ、淡路恵子、岡田茉莉子、水戸光子、桂木洋子、太刀川洋一、織田政雄、富田仲次郎、春日俊二、植村謙二郎、藤原釜足、左卜全、浦辺粂子、藤原釜足、月野道代、加藤春哉、春日俊二、中村是好、深見泰三、植村謙二郎、勝又恵子、二木てるみ
1955.06.21 13巻 128分・35mm・3,515m 白黒
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by sentence2307 | 2011-03-05 10:48 | 映画 | Comments(2)