世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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山桜

ここのところ(10年ほどになるのでしょうか)藤沢周平作品がもてはやされているようで、小説の映画化作品を立て続けに見てきました。

大いに話題になったあの「たそがれ清兵衛」2002からだとすると、この「山桜」で、ちょうど5作目に当ることになりますね。

「たそがれ清兵衛」のあと、「隠し剣 鬼の爪」2004、そして「蝉しぐれ」2005「武士の一分」2006と続いたんでしたよね。

どの作品も結構話題になったので、そうしたなかで作られた「山桜」は、作る上で、それなりのプレッシャーはあったと思います。

それまで必ずラストにあった剣客同士の壮絶な死闘場面を期待していた友人たちには、この「山桜」は、ちょっと期待はずれの部分もあったかなという話しも聞いたことがありましたが。

しかし、自分が今回見た印象からすると、友人たちのそのような不評は見当違いの部分も有り同調できないというのが僕の本音です。

いや、むしろこれまで撮られてきた作品の視点そのものへの違和感の方がコトサラに際立ったくらいでした。

「たそがれ清兵衛」は、正直、真田広之よりも幸薄い宮沢りえの耐える演技の方が強烈に残っていますし、「隠し剣 鬼の爪」なら、永瀬正敏よりも、なんといっても松たか子の控えめな東北女性の芯の強さの魅力の方がはるかに勝っていたと思います。

「蝉しぐれ」にしても、待ち続けるおんな・木村佳乃が演じたひたむきに耐えるおんなの存在感に胸打たれましたし、「武士の一分」でも、檀れいが演じた自分を殺して夫につくす一途な妻の健気さの方にこそ物語を大きく支配していた力があったと思います。

物語の骨格は、明らかにそのような女性たちの物語なのに、相も変わらずラストの剣客たちの壮絶な死闘場面の描写にこだわり、比重をかけすぎたために、なんだか妙な偏りの印象と違和を感じさせたのかもしれません。

まあ、こんなふうに断言してしまってはいけないのかもしれませんが、物語のパターンとして、強すぎる孤独な剣客と薄幸の女性とが「ある事件」をめぐって織り成す物語という作品ばかりを立て続けに見ていると、(個々の作品は本当に素晴らしい物語なのに)どうしても「またか」というマンネリ感が付きまとい、「それなりの感動」を受けるもう片方で、いささかウンザリした思いに捉われたこともまた事実でした。

そんな印象を持っていたときに、篠原哲雄監督作品「山桜」に出会いました。

そして「なるほどな」と納得するものがありました。

いままで藤沢周平作品の映画化といえば、多くの作品が「孤独な剣客」の側に焦点をあてられすぎて作られていたのではないか、しかし、彼の小説世界(思えば、藤沢周平作品は、とても女性的な作品です)を精密に伝えるのには、むしろ「耐える女性」の物語として描いた方がはるかに相応しかったのではないかという印象を「山桜」を見て強く感じました。

「山桜」は、そんなふうな自分の長年の思いが、とてもいい関係でスッポリとツボに嵌るという好印象を覚えた映画だったのですが、見ていてひとつだけ違和感を覚えた部分がありました。

2度目の嫁ぎ先からも離縁されて出戻ってきて、打ちひしがれている娘・野江(田中麗奈が好演しています)に対して、 檀ふみ演じる母親の瑞江が、「あなたは、ただまわり道をしてきただけなのですよ」と慰めの言葉をかける場面があります。

この場面は、やがて野江が意を決して、手塚弥一郎の母親を訪れるという場面の直前に用意されている場面ですから、あきらかに説明のしすぎというか、あまりにもくどい感じをうけ、これでは母親の瑞江が、まるで来たるべき娘の運命を言い当ててしまう預言者のようではないか、はたして原作でもこんなふうに、母親の瑞江は、娘・野江を弥一郎の母親の元へ行くことを促すような描かれ方をしているのだろうかという疑念にとらわれ、原作を確認せずにはいられなくなりました。

さっそく図書館に行って、この「山桜」が収載されている「藤沢周平全集 第五巻」をみてみました。

結構短い小説だったのには、すこし意外な感じを受けましたが、やはり、予想したとおり、母親が娘に「あなたは、ただまわり道をしてきただけなのですよ」などと言う部分はまったくありませんでした。

小説のなかでは、自分のことを思い続けてくれていた弥一郎の気持ちを知り、野江が自身で「自分はまわり道をしてきたのかもしれない」という思いを抱いて、だから自分から弥一郎の母親に会いに行こうとしたのであって、もし、母親の瑞江からあのように諭されたことで会いに行ったのにすぎないのだとすれば、これは物語の根幹にかかわる大きな問題です。

つまり、どこまでも母親の影響下から脱しきれず、自分の運命の選択も、たえず親に委ねるしかない世間知らずの箱入り娘の物語にすぎないと感じたからでした。

単にそういう動機で、弥一郎の母親を訪ねたのだとしたら、すでに失敗に終わったふたつの結婚を選択したときとナンラ変わらない自我を喪失したアヤツリ人形でしかない親掛かりの我がまま娘の物語にすぎないと思いました。

藤沢周平の原作には、野江自身が、「自分は、人生のまわり道をしてきたかもしれない」と思う描写が三箇所でてきます。

まず、野江が茶の湯を習っていた17歳の頃から、弥一郎が野江のことを気にかけていたということを彼女がはじめて知ったとき。
「生けた桜の花のむこうに、手塚弥一郎の笑顔が浮かんでいるのを感じながら、野江は自分が長い間、間違った道を歩いてきたような気がしていた。だがむろん、引き返すには遅すぎる。」

次は、桜の枝を手折ってくれた弥一郎から「いまは、おしあわせでござろうな?」と問い掛けられたとき、野江がとっさに「はい」と答えてしまったことを悔いる場面です。
「しあわせか、と鋭く問い掛けてきた弥一郎の顔が浮かんできた。そのひとに、しあわせだと答えるしかなかった自分があわれだった。もっと別の道があったのに、こうして戻ることができない道を歩いている。自分をあわれむ気持ちが、野江の胸にあふれてきた。」

そして最後、小説では、農民を食い物にして不正な私欲を満たす藩の重鎮・諏訪平右衛門を斬り、処分を保留されたまま入牢している弥一郎の留守に、彼の母親を訪ね、まさに家に招じ入れられようとするとき、野江は突然発作のような嗚咽に見舞われます。
「履物を脱ぎかけて、野江は不意に式台に手を掛けると土間にうずくまった。ほとばしるように、目から涙があふれ落ちるのを感じる。とり返しのつかないまわり道をしたことが、はっきりとわかっていた。ここが私の来る家だったのだ。この家が、そうだったのだ。なぜもっと早く気づかなかったのだろう。」

多くの人が、自分の帰るべき場所がわからず、あてもなくさまよい続け、「ここは自分が本来いるべき場所ではない」と思いながら生きている喪失感と絶望感に満ちた現実が暗示されている痛切な場面です。

しかし、この部分を映画は、座敷にあがって正座した野江が、持ってきた桜の枝を弥一郎の母親に渡したのちに、弥一郎の母親から「あのことがあってから、たずねて来るひとが1人もいなくなりました。さびしゅうございました。ひとがたずねて来たのは、野江さん、あなたがはじめてですよ」と語りかけられたのを切っ掛けに、はじめて落涙しています。

いかに自分がこの家に必要とされ、そして待たれていたかということを野江がどのように感動したかを、具体的に観客に分からせるために、シナリオは母親に懇切丁寧に彼女の苦境を説明させたうえで、野江の感動をもまた説明しようとしたのだと気がつきました。

しかし、野江が弥一郎の(物体としての)「家」にじかに触れて、ここが自分の来るべき真正な居場所だったのだと気がつく直截的な実感として情感で理解すべき原作の意図が、その映画化においては理屈で理解しなければならない母親の述懐にこめた説明に改変されてしまったことは、如何にも残念でなりません。

それほどまでに説明をしなければ、観客は理解できない鈍感で愚かなものとしか考えられていなかったのか、という惨憺たる気持ちにさせられてしまいました。

しかし、それにしても、野江を演じた田中麗奈が、弥一郎の母親に待たれていたことを知り、そして、こここそが自分の居場所だと感情を高めて落涙する演技には、正直感動しました。

役者冥利につきる役柄と、それに十分に応えることのできた田中麗奈の演技だったと思います。

そして、この場面を見ながら、ふいに「東京物語」のラスト、義父の笠智衆と対座した原節子が、ひとりで生きていくことの辛さに一瞬泣き崩れる場面を思い出していました。

しかし、あの場面で、原節子がどのような泣き顔で嗚咽したのか、どうしても思い出せません。

この過酷な世界で孤独な女が、ひとりぽっちで生きていかなければならない痛切さだけは、はっきりと思い返すことができるのに、その泣き顔がどんなだったか、どうしても思い返すことができないのです。

過日、その場面を見る機会がありました。

そのシーンでさめざめと泣く原節子は、両手で顔を覆っていて、その悲嘆の表情はうかがい知ることができないようになっていました。

やはり、役者に陳腐な演技など決して許さなかった如何にも小津安二郎らしいやり方だったのだという思いと、たとえ悲嘆の表情が両の手で覆い隠されていたとしても、これから先も孤独の中で余生を生きていかなければならない中年女の痛切な孤独だけは、何十年後の観客にも、はっきりと印象付けることのできた小津演出の冴えを確認したような気になりました。

(2008)監督:篠原哲雄、原作:藤沢周平「山桜」(新潮文庫『時雨みち』所収)、企画・小滝祥平、梅澤道彦、河野聡、鈴木尚、製作・川城和実、遠谷信幸、遠藤義明、亀山慶二、脚本・飯田健三郎、長谷川康夫、撮影・喜久村徳章、美術・金田克美、照明・長田達也、音楽・四家卯大、主題曲/主題歌・一青窈、録音・武進、編集・奥原好幸、助監督・山田敏久、SFX/VFXプロデューサー・松本肇、
出演・田中麗奈、東山紀之、村井国夫、篠田三郎、檀ふみ、富司純子、北条隆博、南沢奈央、千葉哲也、高橋長英、永島暎子
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by sentence2307 | 2011-04-29 21:32 | 映画 | Comments(0)

白魚

録画したテープは、ほぼ五十音順に整理しています(というか、実態は、単にそれらしく並べているだけですが)。

なので、ある映画を見たあと、すぐにまた似たようなタイトルを見るなんてことは、別段珍しいことでもなんでもなく、なにも緻密な計算や理由があるわけではなく、たまたま、隣り合っていた作品という理由にすぎません。

なにを見ようかとあれこれ考えるのがカッタルイときなど、よくこの「ずぼら」を決め込んで片っ端から映画を見倒すことにしています。

映画は、系統的に見なければ駄目だと厳格に考えている人などには、僕のこのあまりのアバウトさには、とても我慢のならないことだろうと思いますが、しかし、弁解するわけではありませんが、この見方にもトキニハそれなりに効用もありまして、系統立って見ていては、決してめぐり合うことできない作品に(ときには珍品にも)邂逅できるのです。

最近、そういう作品のひとつに熊谷久虎監督の「白魚」1953がありました。

コレ、どこかで聞いたような気もするタイトルだったのですが、どうしても思い出せません。

実は、少し前に松本清張原作の映画化作品、堀川弘通監督の「白と黒」1963を見ています。

この作品は、名優・仲代達矢を特集した企画の1作として放映されたものでした。

松本清張作品の映画化といえば、社会の底辺で虐げられて生きる者たちの復讐として「犯罪」を位置づける視点で作品化されることが多かったと思いますが、しかし、この堀川作品「白と黒」では、ラストの「驚愕のどんでん返し」というシュチエーションにばかり気を使いすぎて、肝心の「社会的弱者への思い入れ」の視点が欠落してしまって、なんだか肩透かしをくわされたような印象を持ちました。

1960年の「黒い画集・あるサラリーマンの証言」で高い評価を得た堀川監督が、ふたたび同じ松本清張の原作に挑んだという意欲作でした。

とにかくあの「黒い画集・あるサラリーマンの証言」は、同年のキネ旬ベスト10において、師匠・黒澤明の「悪い奴ほどよく眠る」を抑え、輝かしい第2位にランクされたという堀川監督の持ち味をいかんなく発揮した師匠へ恩返しができた作品です。

それだけではありません、この1960年という年は、映画史にとって只ならぬ年でした。

外国映画では、トリュフォーの「大人は判ってくれない」、ゴダールの「勝手にしやがれ」、ブレッソンの「スリ」等映画界の新たな潮流が湧き上がってくる一方で、フェリーニの「甘い生活」やヴィスコンティの「若者のすべて」という油の乗った巨匠たちの作品が公開された年でもありました。

しかし、なによりも、それらの世界の新しい波を受け、日本においても新たな視点の映画が数多く撮られました、大島渚の「青春残酷物語」や吉田喜重の「血は渇いてる」が発表された年でもあります。

ちなみに、この両作品のキネ旬ベスト10における評価は、「青春残酷物語」が第18位、「血は渇いてる」が第29位だったのに対して、小津監督の「秋日和」が第5位だったことと考え合わせると、小津監督が吉田監督に絡んだという例の「華正楼事件」の遠因が、どうもこのあたりに潜んでいたのではないかと考えるのは少し穿ちすぎでしょうか。

しかし、日本の映画界が大きな転換期を迎えていたこの怒涛のような転換期に堀川監督の「黒い画集・あるサラリーマンの証言」が一定の評価を得たということは、やはり堀川監督に相当な自信を与えたに違いありません。

ただ、個人的には、「現在」において、目の前に「黒い画集・あるサラリーマンの証言」と「青春残酷物語」あるいは「血は渇いてる」を並べられて、どれかに一票を投じなければならないとしたら、他の二作品を差し置いて「黒い画集・あるサラリーマンの証言」に投票するのはなかなか困難に思うかもしれません。

こうした期待作というプレッシャーの中で撮られたのが「白と黒」だったと思います。

ですので、なおさら、そのプレッシャーに押しつぶされたような「白と黒」には、ちょっとガッカリしました。

たぶん、当時の観客も同じように考えたかもしれません。

そんな落胆を引きずりながら、なんとなく惰性みたいに手に取ったのが、同じ「白」のタイトルが付けられている熊谷久虎の戦後初の監督作品・原節子主演の「白魚」という映画でした。

ですから、この作品を見ようと思い立った理由といえば、ぶっちゃけ、たまたま隣に並んでいたということくらいしかありません。

そんなダレた気持ちで見始めた「白魚」でした。

物語は実に平凡、料亭の女将が、スランプに悩む小説家を献身的に尽くし、励まして、ついには再生させるという物語です。

しかし、話に起伏が乏しく、そもそも原節子扮する女将が、なぜ売れない小説家を好きになるのか、その経緯がよく分かりません。

それはまるで、「小説家」っていえば名前だけでカッコいいから、もう小説家であればなんでもOKみたいな、特殊な「職業」に対する芸術コンプレックスというか偏見というべきか、結局は無知の迷妄にすぎないのではないかと勘繰りたくなるような、きわめて低次元な描写力といわないわけにはいきません。

見ていくうちに募っていくそんな侮りもあって、きっと油断していたのだろうと思います、次第に映画が大詰めにかかるにおよんで、突如、原節子の演技が急変したのです。

なんだかやたら高揚し、鬼気迫るというしかない迫真の演技で、全身泥だらけになるのも構わず、形相は凄惨そのもの、裾の乱れなどお構いなしに、のた打ち回るわ、身悶えるわ、まるで逆上するかのように山登りをはじめたのでした(下車した駅が御殿場なら、その山はきっと富士山です)、そりゃあ驚きました、なによりも原節子の突然の変調に驚愕し圧倒されたのだと思います。

こういうのを衝撃っていうのでしょうね。

ストーリー的には、確かに原節子の山登りを支持するそれなりの筋立てならありました。

売れない小説家が泥酔の果ての暴言を吐きます、この冷ややかな世間を呪い、俺はこれから富士山頂まで行って自殺してやるとかなんとかわめき散らし、さっさと山を登りだしました。

小説家の暴言はともかく、突飛な行動に驚いた女将は、小説家を押しとどめようと、あわてて後を追うというシュチエーションです。

しかし、女将は先を行く小説家を暗闇の中に見失い、折からの暴風雨もあって、ずぶ濡れになり、暗闇の中にひとり取り残されてパニクりまくり、半狂乱になって小説家の名を呼びながら、全身泥だらけになってのた打ち回ります、この一心に山を登り詰めていく大仰な演技(もはやこれは「演技」などというものではありません、ひたすら自分を痛みつけるためだけの狂気の自傷行為そのものです)と延々と続くその異様な絵柄は、きっと僕と同じように当時の観客にも「なにもそこまでしなくとも」という思いを与え辟易させたに違いありません。

しかし、その「辟易」を逆に言えば、僕たちはこの映画から突き放されてしまったということでもあります。

と、この映画の感想は、当初の予定としては、ここまで書いたあとで、このシーンがファンクの「新しき土」で初々しい原節子が演じた噴火する山中を彷徨する最後の場面と符号すると結論付けて終わりにしようと考えていました。

つまり熊谷久虎監督の原節子へのオマージュくらいにまとめれば、一応コラムらしい体裁は整うのではないかと。

しかし、気持ちの中に、あるワダカマリが錘のように残り続けました。

それがなんだかは、分かりません。

分からないままに、コラムを書いた後で、いつもそうするようにスタッフの名前を書き出していきました。

「撮影・会田吉男」とありました。

あっと思いました。

原節子の本名は、「会田昌江」です。

この「白魚」の撮影を担当した会田吉男がその次兄であること、そうだとすると、その次兄は確か撮影中に事故死したと聞いたことがありました、とここまで考えたとき、二度目の「あっ」が口から飛び出しました。

早速、ネットで検索しました。

ありました、ありました。

次兄・会田吉男が撮影中に事故死したという当の作品こそ、この「白魚」でした。

《昭和28年(1953)原節子の1年ぶり復帰作品「白魚」は6月6日にクランクインした。
そして7月10日の静岡県御殿場ロケの際にその事故は起きた。
午後7時頃、御殿場の駅構内で「白魚」を撮影中、線路上でキャメラ・ポジションの検討をしていた会田吉男ほかスタッフは、下り列車929号に轢かれた。
原因は、スタッフの連絡ミスと運転手の連絡ミスが重なったためとされている。
会田は急遽御殿場の北駿病院に運ばれたが、翌11日午後1時15分死去した。
義兄・熊谷久虎が監督する映画を撮影中に、二番目の実兄のキャメラマンが、自分の目の前で列車に轢かれ死ぬという悲劇を原節子は経験した。
そしてその1週間後の7月20日、小津安二郎の「東京物語」がクランクインし原節子は、生涯最高の演技をスクリーンに残した。
そして、8月5日東宝作品「白魚」は封切された。》

「東京物語」の原節子の抑制された演技が圧巻なら、別な意味で「白魚」の富士山頂での演技も圧巻というしかありません。

【事故の顛末】
熊谷監督は日支事変の時「安部一族」と「指導物語」「上海陸戦隊」という映画を作っていて、いずれも戦意高揚映画だったが、ある意味では既に過去の人と思われていたこの監督を東宝が起用したのは、原節子というスターの存在と無関係ではない。

それにしてもこの白魚は、とても奇妙な映画で、現代に反発する主人公の(上原謙)が、突然銀座のバーから、夜中に富士山に登りに出かけ、山頂から日の出を見て、一切の混迷や苦悩から解脱するというストーリーだ。

その主人公がどんな悩みを持っているのかなど理解できなかったし、またそれらの混迷や苦悩が、富士山に登って日の出を見ただけで解脱出来るというなら世の中苦労は無いと思った。

ところがこの映画のため、会社と熊谷一族は大変な不幸と、犠牲を払う結果になった。

そのロケは深夜、御殿場駅で撮影した。

熊谷監督と言う人は、一口に言うと異常に信仰心の強い人だった。

例えば、熊谷監督は、セットの撮影でも仏壇を飾るといい、その仏壇に蓮の花を供え、その蕾が開花するところを撮りたいと言う。

蓮の花は、朝の光で咲くというので、それを人為的にやることになり、その時チーフだった望月という女性が夜明け前に上野の不忍池に通い、一輪の蕾が開く一瞬の撮影にたいへんな時間や労力をかけたりしたこともあった。

御殿場であの事件が起きたのは、撮影も半分ぐらい進んでいた時、ちょうど上原謙と原節子が、ホームで汽車を降りるシーンだった。

その頃、御殿場線にはSLが使われていて、それを夜間ロケで撮っていたが、熊谷監督は汽車がホームに入ってくるところを線路の真ん中にキャメラを据え、正面から撮りたいという。

自分は機関車を撮る事にかけては、日中戦争中「指導物語」という作品で撮っているから自信があり、その意欲をここでも示したいという気負いがスタッフを圧倒したかもしれない。

自信に満ちた指揮官として段取り等を説明したが、反面、はたして計画通りに行くだろうかと一同はひそかに不安になったと思う。

だが監督の確固たる意向はスタッフを圧倒するほど揺るぎないものだったので、躊躇なく一同は監督に従うこととなった。

特に、御殿場駅のホームに入ってくる機関車の前にキャメラを据える会田カメラマンにとって、日中戦争以来監督としてメガホンを取ることから遠ざかっていた義兄熊谷への思いや、当然のことながらプロ意識もあったろう。

それにしても、この撮影に一度のテストもなく、いきなり本番というのは、いま思えば確かに無謀なことだったと思う。

そうせざるを得なかったのは、汽車の運行が撮影のために特別組まれたものなどではなく、通常のダイヤだったからだ。

前の駅で助監督が機関士とは打ち合わせのために乗り込んだのが、せめてもの安全対策だったろうか。

撮影現場でもキャメラをロープで縛り、その端をホームの上にいるスタッフが持っていて、緊急のときはホームの上に引き上げるためだった。

そんなふうにキャメラの避難は考えても、二人のキャメラマンの非難については、何の方策も考えていなかった。

人間は自分で勝手に逃げると考えていたからである。

会田キャメラマンはファインダーの中に、機関車をしっかり捕らえるため、線路上の中央に、でんと腰を据えていた。

一方キャメラ助手も、接近して来る機関車にピントを合わせるため、逃げ腰では仕事は出来ない。

監督は時として独裁者でなければ仕事は出来ないから、目的に向かって確固たる指導性が求められ、裏方はその強い信念に貫かれる監督にむしろ望んで従う。

問題は彼がどんなタイプの独裁者かと言うことである。

闇の中から汽笛が聞こえ、やがて轟音と共に煙を吐いて汽車が駅に入って来る。

そして、プラットホームの端に見えたかと思うと、見る間に中ほどまで突進し、予定位置には止まるシーンだった。

キャメラはそれを真正面から捉えるカットだった。

巨大な黒い塊が轟音を立てて通り過ぎた。

その時キャメラを縛ったロープを持った者が思わずロープを放したが、一千数百万円したキャメラは、闇の中に消し飛んだ。

しまった! 大変な事になった。

「キャメラマンはどうした」

汽車が止まらなかったわけを機関士はこう話した。

それは予想も付かない事態が起こったからで、闇の中から明るいライトの中へ入ったとたん、汽車に向かって並んだライトの強烈な集光を浴び、機関紙士は一瞬のうちに目が眩んで頭が真っ白になり、同乗していた助監督も同じことだった。

二人は何が何だか分からなくなり、自分がどうなったのかも思い出せないほど混乱していた。

真暗な中、しかも動く機関車を、撮影することでライトマンは、ホームの先端から、キャメラの前まで5キロ、10キロのライトを配列し、そうでもしなければ夜間では黒い機関車は映らない、とにかくすべてがテストなしの本番なのである。

やってみなければ分からないと言う結果が、そうした事故に繋がったのかもしれない。

誰も声が出せなかった。

専門家とベテランがいるのに起きてしまった珍しい事故とはいえ、会田キャメラマンは実際に亡くなり、助手の一人は半身に怪我をするという大事故になった。

だがその後「白魚」の撮影は会田キャメラマンの親友、山田一夫キャメランが引き継ぎ完成させた。

だが次兄を失った原節子は、暗い顔や悲しい顔を一度たりとも見せることなく、相変わらず熊谷監督を盛り立て、あの美しい笑顔で「白魚」の撮影を完成させると、スタッフを多摩川の川船を借り切って「白魚」の完成祝いとスタッフ慰労の宴を開いた。

身を切るような悲しい思いは当然あったろうが、原節子は笑顔で我々の労をねぎらってくれたのだと思う。

それからあと10年のあいだ、原節子は女優として働いたが、たぶんそれは、兄会田吉男キャメラマンの家族の生活をフォローするための10年間だったと思う。

こうして日本を代表する名女優原節子は、引退するにはまだ早すぎると言われつつ、その女優生涯を閉じた。

(1953東宝)監督製作脚色・熊谷久虎、脚色・西島大、原作・真船豊、撮影・会田吉男、美術・中古智、照明・大沼正喜、音楽・伊福部昭、録音・小沼渡、
出演・原節子、岡田茉莉子、設楽幸嗣、上原謙、伊藤雄之助、二本柳寛、小泉博、三津田健、村上冬樹、広瀬嘉子、蘭かず子、三好栄子、出雲八重子、堺左千夫、佐田豊、
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by sentence2307 | 2011-04-09 21:11 | 映画 | Comments(100)