世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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以前、清水宏監督「霧の音」1956を見て、キネマ旬報刊「日本映画作品全集」に掲載されている「霧の音」の作品解説と随分食い違っていたのに気がつき、その相違点について書きました。

しかし、改めて読み返してみると、いくら無意識に書いたにしろ、その得々とした書きぶりが、いかにも嬉しそうで、それだけに嫌らしく、なんだかうんざりしてきました。

随分恥ずかしいことをしてしまったみたいな後味の悪さだけが残りました。

きっと、権威あるキネマ旬報の映画解説書のミスを発見したというので思わず狂喜し、一気に書き上げたその気持ちを考えれば、我ながら自分がなんだかいじらしくて可哀想にさえなってきました。

しかし、冷静になって考えてみれば、小説などを映画化するにあたって本編と少しくらい違っていたり(あるいは大幅でも)改変されることは往々にしてあることで、なにも鬼の首をとったみたいに喜ぶほどのことでもなかったのだと今にして少々反省しています。

あの作品全集の解説にあった齟齬も、ちょっとした行き違いだったに違いありません。

実は、「霧の音」を見たあとすぐに島耕二監督作品「女性操縦法 “グッドバイ”より」(以後「グッドバイ」といいますね)を続けて見たのです。

こちらの方は、改変どころの騒ぎではありません。

小説「グッドバイ」は、太宰治が新聞に連載を始めた矢先に、例の心中事件(太宰の自殺願望に巻き込まれた無理心中だといわれています)によって中断してしまった新聞小説の映画化です。

ほんの冒頭部分が書かれただけで分量としてもごくわずか、僕も青空文庫で読んでみたのですが、う~ん、たったこれだけの素材をあれだけふくらませ一応の形に整えたわけですから、巧拙とかはともかくとして、意欲と努力は十分に評価してもいいかな・・・とは思ったのですが、如何せん世評のほうがその努力を評価してないみたいですね。

そもそも、当の小説の方も当初からそれほど好意的なコメントもなかったように聞いています。

心中直後に発行された文芸雑誌には、作家仲間のこんなコメントも掲載されているそうです。

《友人の小説家・今宮一は追悼に「女の人と死んだからどうだということは、微塵もない。「グッド・バイ」の書き出しを読んで、ああ、きみ、こんな小説を書いてはいかんと、叫びたい気持ちだけはある。あんな小説、何回つづくつもりかしらんが、あんな調子で書きつづけたら、黙っていても生命取りだと、身の毛のよだつ思いであった」(「文芸時代」8月号)と書いた。》

熱烈な太宰のファンならともかく、現在でもこの小説のまとまった評価をあまり聞いたことがありません。

あるいは、評価するほどの分量もないので、良し悪しのコメントなどしたくてもできないといったところなのでしょうか。

しかし、未完の小説ならともかく、映画の方は、一本の完結した喜劇として世に出たわけですから、世間からのそれなりの洗礼を免れるわけにはいきません。

そして、僕自身としても、この作品を見た直後、幾らなんでもこれはひどすぎるのではないかというのが偽らざる印象でした。

構成は稚拙で、ストーリーにメリハリがありません、無節操に暴走するディテールは重層し、交通整理のつかないまま惨憺たる結末を迎えたという感じです。

見たあとは、なんだか消化不良のモヤモヤ感だけが残り、喜劇を見たという(これが「喜劇」だったらの話ですが)独特の爽快感がまったくといっていいほどなく、むしろ、後味の悪い不快感だけが残りました。

「なんだ、この不快感は?」という感じです。

そんなわけですから、このモヤモヤを後々まで引きずらないためにも、この不快がなにに基づいているのか、はっきりさせようと考えました。

しっかりとしたリセットでもしなければ、自分の中にいつまでも澱のようなものが蟠り、新たな映画を楽しむなんて気分になれません。

是非ともここは自分自身のモヤモヤを晴らすためにも、一度この映画の錯綜した劇中人物の相関図をちゃんと整理して、すっきり納得したうえで、新たな映画を楽しもうと考えました。

この物語は、雑誌編集者でプレイボーイの田島(森雅之が演じています。有島武郎の息子なんですってね、今回初めて知りました。)が、降って湧いたような富豪令嬢の結婚話を成就させるために、それまで愛人関係にあった女性たち4人に対して、偽計を弄して別れようとするかなり強引な物語です。

「偽計」というのは、郊外に疎開させていた本妻がいよいよ帰郷してきたと愛人たちをダマクラかして、一挙に関係を整理してしまおうという算段です。

美人の本妻と直接対決させれば、愛人たちもすんなりと諦めるに違いない(しかし、美的に劣るという劣等感だけで、愛人たちが田島の要請をすんなり受け入れ別離に同意するとは到底思えません)と確信した田島は、ショックを受けた彼女たちに、すかさず「グッドバイ」と言って引導を渡してしまおうと企んでいます。

その美人妻のダミーとして仕立てあげられるのが、たまたま以前から会社に出入りしていたカツギ屋のきぬ子(高峰秀子が演じています)です。

このカツギ屋の「きぬ子」の正体は、実は富豪令嬢で、そしてさらに、田島の4番目の愛人のケイ子の親友でもあるということが最後に明かされますが、しかし、ここまで映画を見てきて、幾つかの疑問にぶつかりました。

カツギ屋のきぬ子が、あえて田島の会社に出入りをはじめたのは、親友・ケイ子から何らかの依頼があったからという前提でもなければ、この話はどうにも説明がつかないような気がします。

そしてケイ子が、あえて親友きぬ子に依頼することといえば、たぶん、田島の監視とか、もしくは田島の本心を探ってほしいという漠然としたものくらいしか考えつきません。

しかし、なんの切っ掛けもないのにケイ子は、いくら親友とはいえ、そんな唐突で不躾な相談をするものだろうかという疑念が湧きました、必然性が求められる物語の構成上からみても、なんだか脈絡がなく不自然な感じがします。

むしろ、ここは、田島が恋人関係を清算しようと画策しているという情報を察知したケイ子が、不安のあまりいち親友のきぬ子をたよって今後のことを相談したと考えるのが自然に思えます(その相談の結果として、きぬ子は、田島を嘘の結婚話で誘って、彼を試すという罠を発案したと考えるのが、どうも自然に思えます)。

つまり、「ケイ子の依頼」から、きぬ子は罠としての「結婚話」を考案し、それに動かされた田島が、愛人たちと手を切る必要に迫られて、そのハカリゴトの道具としてきぬ子をスカウトしたと順序づけられます。

つまり、時系列的に書けば

「ケイ子からの依頼」→きぬ子考案の「嘘の結婚話」→田島の「きぬ子の偽妻」と「グッドバイ作戦」作戦→作戦に危機感を感じた「ケイ子からの依頼」→

こんな感じの循環になり、どこが最初か分からないような堂々巡りを呈しています。

「なにか」のアクションの前に、「なにか」が存在しなければそれは動きようがないという八方すくみの図式です。

これって確か「自家撞着」とかいうんですよね。

そのほか、突っ込みどころは随所にあるのですが、その度に見直していた幾度目かに、偶然本編の最後に「映画手帖」とかいう短い解説(「グッドバイ」ほか数本の解説でした)が付されているのを見つけました。

そして、それを見てびっくりしました。

この映画を作るための小説を青柳信雄プロデューサーが太宰治に依頼し、承諾してくれたお礼に、高峰秀子と太宰治は鎌倉の料亭で顔合わせをしたというのです。

そして、そのときの太宰の印象を高峰秀子は、まるで「ドブから這い上がった野良犬のごとく貧弱だった。」とズバリ「わたしの渡世日記」につづっているそうなのです。

教祖・太宰治をこんなふうに言い切った人をはじめて知りました。

三島由紀夫でさえ、かなり辛らつに批判したとはいえ、それは同じ根を持つ太宰に対するコンプレックスの裏返しでしかなく、重篤な病を抱えた者同士の病気自慢みたいなものに思えてしかたありませんでした。

それは、同病相哀れむに根ざした「呪縛の自己証明」でしかないようにも思えたものでした。

名著「わたしの渡世日記」は、自分も何度も読んでおり、しかし強く印象に残っているところといえば、山本嘉治郎の部分や黒澤明の箇所部分くらいで太宰治について書かれた箇所などあったかなあと半信半疑でした。早速、図書館にいって「わたしの渡世日記」上下巻を借りてきました。

ありました・ありました、はは~ん、これですか。ちょっと長くなりますが、重要なところなので、ちょっと書き写しますね。

《昭和22年の夏、青柳信雄プロデューサーは、23年春の大作として「太宰治書下ろし、高峰秀子主演」の映画を企画した。太宰治からは間もなく承諾の返事が届き、ある日、私は太宰治にお目見えすることになったのである。
青柳信雄プロデューサーの肝いりで、鎌倉の料亭へ彼を招待して一献差し上げようじゃないか、というわけで、私たちは新橋の駅で彼と待ち合わせた。
昭和22年といえばまだ敗戦後2年、町ち行く人々の服装はまだ貧しかった。
それにしても、である。
新橋駅に現れた太宰のスタイルは、ひどかった。
既にイッパイ入っているらしく、両手がブランブランと前後左右に揺れている。
ダブダブのカーキ色の半そでシャツによれよれの半ズボン、素足にちびた下駄ばき。
広い額にバサリと髪が垂れ下がりへこんだ胸、ヌウと鼻ののびた顔には彼特有のニヤニヤとした照れ笑いが浮かんでいる・・・。
作家の容姿に、これといった定義があるわけではないけれど、とにかく、当代随一の人気作家太宰治先生は、ドブから這い上がった野良犬のごとく貧弱だった。
・・・・玄関に出て下駄をつっかけた太宰治は、ヒョロヒョロとした上体をクルリとまわすと、あがりがまちに膝をついて見送りに出ていた女中に向かって叫んだ。
「もっと飲ませろい、ケチ!」
・・・
「グッドバイ」の原作は、なかなかできてこなかった。
青柳信雄がひったくるようにしても持ってきた何枚かの原稿に在るヒロインは、「彼女は小さな丸顔で、手足も上品に小さい」とあった。
上品かどうかは知らないが、鎌倉の料亭でチロリとこちらをうかがっていた太宰治の酔眼は、作家としての正気は失っていなかったらしい。・・・》

人間観察が鋭いということは、過剰に人目を気にするということでもあり、それは過酷で複雑な生い立ちが、情緒を歪ませ過敏にさせた証明でもあるのかもしれません、そういう意味では、それぞれ感情の表出のかたちは違っても、高峰秀子と太宰治は同じタイプの人間だったのではないか、太宰の発した「もっと飲ませろ、ケチ」は、太宰治の精一杯のサービスだったかもしれないと、するどい直感で高峰秀子が感じとっていたかもしれません。

当然、このエピソードは、ぼくの「グッドバイ」に対する作品評価にも少なからず影響を与えないわけにはいきません、当然です。

映画鑑賞というものは、そういうものなのです。

(1949新東宝)製作・青柳信雄、監督・島耕二、脚本・小国英雄、原作・大宰治、撮影・三村明、音楽・鈴木静一、美術・下河原友雄、録音・神谷正和、照明・大沼正喜
出演・若原雅夫、清川玉枝、高峰秀子、森雅之、江川宇礼雄、斎藤達雄、霧立のぼる、三村秀子、 藤間紫、一の宮あつ子、清川虹子、
製作=新東宝 配給=東宝 1949.06.28 10巻 2,712m 99分 白黒
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by sentence2307 | 2012-04-13 23:05 | 映画 | Comments(3)