世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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山田五十鈴、逝く

《7月9日午後7時55分、多臓器不全により東京都稲城市内の病院で女優・山田五十鈴死去、享年95歳》というニュースに接したときには、驚いたというのではないにしても、やはり、不意を突かれて、なんだかしばらく呆然となってしまいました。

田中絹代、高峰秀子と日本映画を支えた大女優を立て続けに失ってしまったうえでの、さらにこの訃報だったのですから、やはりこれは本当の意味での喪失感だったのでしょう。

そして、日本映画を代表するビッグネームのこの三人の大女優の名前を、こうして並べて眺めていると、あることに気がつきました。

人生経験の乏しい少女の年齢で早くも映画界入りさせられ、しかし、そうした経験の欠如を補い、あるいはある程度誤魔化すことさえできたかもしれない義務教育的教養からも見放された彼女たちが、どのようにして演技の工夫をしていったのか、その後、波瀾に満ちた人生を経て、それぞれに違う答えを彼女たちなりに手探りで得たとしても、彼女たちのあの卓越した演技が、それら過酷だったり華々しかったりの人生から得ることのできた代償とか教訓のようなものであったとは、どうしても考えられません。

むしろ、彼女たちが少女の時、満足な義務教育を受けられなかったことの劣等感がバネとなり、その知的飢餓感だけを頼りに鞭打つようなみずからの「想像力」や「感覚」によって、演ずる役の内面、感情の深みに分け入ることができたのではないかと思います。

少なくとも彼女たちは、いつまでも「お姫様」や「お嬢様」のままではいなかった、なぜなら、空虚を抱えた彼女たち自身が「そうではないこと」「演技者と自分」とは別人であることを十分に知っていたからです。

そして、そのみずからの「空白」に真っ向から敢然と立ち向かったのが、たぶん女優・山田五十鈴だったのだと思います。

「唐突」とか「奇異」として語られることの多い1950年民藝の俳優・加藤嘉との結婚と、その後の左翼独立プロ作品(山本薩夫監督の「箱根風雲録」や亀井文夫監督の「女なれば母なれば」「女ひとり大地を行く」)への出演が、彼女の劣等感や飢餓感に基づく善良な「無知」の反映のようにみえてなりません。

その背景には、敗戦直後、すべての価値観と体制とが揺らぎ、すぐ眼の前に共産革命が迫っていると誰もが信じた戦後動揺期にあって、能天気な「チャンバラ映画」は蔑み嘲られる代わりに、まことしやかに「人民解放映画」が作られた時代があったのでした。

まあ、こう見れば、山田五十鈴の選択が、きわめてトレンディではあったといえるにしても、しかし、それは、自分のそれまでのキャリアと、そして「普通の社会的感覚」の持ち主なら、まずは選択しない常識域を脱した不見識な行為だったと言わざるを得ない。

なぜなら、まさに女優・山田五十鈴こそが、それまで「お姫様」を演じ続けてきた張本人だったからです。

彼女のその選択は、ただの「自己否定」でしかなく、過去のものを受け継いだものでも、現在を将来につなげる行為でもなかったというしかない。

しかし、人間の選択が、すべて「建設的」でなければならないかといえば、そうでもない、というのが、山田五十鈴という女優だったのかもしれません。

左翼的演技者が、演技を組み立てる上で「ある方向性」=権力的道具としての人物を演じるに対して、山田五十鈴は「箱根風雲録」や「女なれば母なれば」や「女ひとり大地を行く」においてさえも、皮肉にも「お姫様」を演じる際に深めたと同じ劣等感リアリズムで演じ、左翼の演技者たちの演技をはるかに凌ぐ演技を見せました。

その後、3年ほどでこの結婚は破綻しますが、女優・山田五十鈴は、この期間においてさえ、演技的には、なにひとつ失わなかった。

彼女は、1956年「流れる」「猫と庄蔵と二人のをんな」、1957年「蜘蛛巣城」「どん底」「下町」で2年連続キネマ旬報主演女優賞を獲得します。

結婚の破綻のダメージを感じさせないそのタフな快挙が、「男は芸のこやし」というやっかみ半分の言葉に結びついたのかもしれません。

その言葉を山田五十鈴自身がいったのか、それとも「恋多き女」などというスキャンダラスな言葉とセットでマスコミが作り出した言葉だったのかは、確認はできませんが、いずれにしろ、赤旗が乱舞し、インターナショナリが高らかに歌い上げられ、怒号渦巻く炭鉱町の労働争議に巻き込まれる爆発頭の主婦などという、どーにも捉えどころのない役どころを、赤だろうと青だろうと関係なく、実に誠実に深め、やがて「流れる」や「猫と庄蔵と二人のをんな」、「蜘蛛巣城」や「どん底」、「下町」などに続く演技としても、いささかの違和感も遜色もなく演じきったのでした。
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by sentence2307 | 2012-07-29 18:34 | 映画 | Comments(0)

地獄に堕ちた勇者ども

先日、法科大学院に通っている親戚の子が、ふらりと我が家に遊びにきました。なんだか見るからに疲れ気味です。

それはそうかもしれません。最近の法科大学院を取り巻く状況はかなり厳しく、聞くところによれば、入学者数が激減して大学院経営は大打撃をこうむり継続が困難になって、ついに廃止されるなんて法科大学院もチラホラ出始めているそうじゃないですか。

そもそも、当初は、司法試験の合格者を3000人まで引き上げるとかなんとかいっちゃって、すごい鼻息だったこの法科大学院、その当時は誰もが、もしかすると自分も司法試験に「合格!」ってなことになるかもしれないなんて甘い幻想を抱いて、我も我もと法科大学院に押しかけて、それはもう社会現象といってもいいくらいの勢いがありました。

いまでいうとAKB48の人気に匹敵するくらいでしたよ、ホント。

しかし、現実はそんなに甘くなく、「そうは問屋はおろさない」というヤツでした。

司法制度改革そのものに現状認識について楽観的すぎる幾つかの重大な誤りがあって、それがいま、数々の現実的な負の数字として現れてきているのだと思います。

ピカピカの未来が約束されて始まったはずの法科大学院ですが、現状は、かなり厳しく、想定していた弁護士の需要だって思わしくなく、低迷する合格者数に比例して法科大学院の入学者の激減(そりゃあ授業料が目茶目茶高いことと、一生を誤りかねない伸るか反るかの大博打なのですから、いくら人数を増やすといったって相当の自信と覚悟がなければ腰が引けてしまうのは当然でしょう)を招いて、このふたつに挟撃されて、法科大学院の経営をおびやかすことは容易に想定され(すでに現実化しつつあります)、このままでは近い将来、ぶっちゃけ合格者を増やせない法科大学院は、潰れるか、あるいはその前に潰されるか・・・まで追い込まれているとみるのがリアルな認識といえるでしょう。

至れり尽くせりの総花的法科大学院教育よりも、ガリガリ勉強した一発勝負の旧司法試験の方が、よっぽど優秀な人材を輩出したなんて、なんとも皮肉な話じゃないですか。

結構、「司法制度改革」を考え出した偉い先生方自身が旧司法試験をクリアしてきた人たちで、「俺たちの頃は、こんなものじゃなかったぞ」くらいに内心思いながら、立場上司法改革の要請にどうにか応えなければならないので、仕方なく、こういうことを考えたのかもしれませんが、どちらにしてもこの質的低下は、老婆心ながら日本の司法にとって取り返しのつかない禍根を残すのではないかと心配です。

とにかく、新任弁護士の就職先がみつからないまま、行き場がなくて巷を流浪する弁護士があらわれるなんて実に笑えない深刻な話(「そんなに増やしてどうするの」という危惧の)が、いまの現実なんですよね。

ひと昔まえなら、司法試験合格者といえば、そりゃあもう希少価値というか、ただそれだけで社会的に尊敬されるに十分なステータスだったはずです。

まあ、名だたる民主党議員のなかにも、物事をはっきり言わず、グジャグジャといつも逃げ道を作っておいて、多解釈が可能な怪しげは言葉を操る狡猾な政治家の前身をみてみると、だいたいが弁護士出身者であることを考えれば、「尊敬されるべき希少価値的存在」なんて考えは、早いところ改めた方がいいのかもしれません。

ですので(話は冒頭に戻ります)、その親戚の子というのも(いまだに司法試験に合格できると考えて疑ってないあたりが、実にずうずうしいというか世間知らずというか、むかしみたいに受験回数の制限がないという大らかな時代では最早ありませんからね)、以前は弁護士志望だったと聞いていたのですが、今回彼の話すことを聞いていると、どうも検察官志望に変わったようなのです。検察官といえば、最近世間ではあまり評判のよろしくないその「検事」です。「どうして、志望が変わったの?」と当然、聞きたくなりますよね。

彼が話すところによれば、最近、試験合格後、検察官になったという大学の先輩と話す機会があったそうなのです。以下は、その先輩から彼が聞いたという話の内容です。

《新任検事は、任官した各地の検察庁でそれぞれ研修指導を受けることになっており、ある日、5名の同僚検事とともに指導官に連れられて、その地にある拘置所で死刑執行に立会うことになった。
その日の受刑者は2名、壇上で彼らは「皆さま、お世話になりました」とか、「私の罪をお許しください」などと、別段感情を高ぶらせることもなく、淡々として落ち着いた調子でそう言ったかと思うと、突然バタンと音がして、目の前に人間の体が物凄い勢いで落ちてきた。
乾いた突然の大音響と、目の前の光景(人間が縊死によって苦悶の果てに絶命に至る瞬間)に立ち会わされることになった誰もが、瞬間的に体をこわばらせたまま(金縛りといったほうが相応しいかもしれない)しばらくは、目の前の苦悶する人間の断末魔を観察することになった。
胸が2,3回ふくらんで、ぶらりぶらりと揺れ、その間もすぐ眼の前で死の断末魔のけいれん状態が続く。
医務官が、ぶら下った受刑者の腕をとって脈が停止したことを確認し、執行は終了した。
そのとき、その先輩は、検事という仕事は、そうしたいわば日常生活では決して経験することのない異常な体験も、国家権力という巨大なうしろだてのもとで「日常的なこと」として生活の中に織り込んでしまえる職業なのだと実感したという。
この異常な光景を自分の仕事=取調べと捜査を通して完成させることができる「検事」という仕事→権力に操られるままになる仕事にぞくぞくするようなたまらない魅力を感じたと話した。》

そのように語った先輩の真意が、どの辺にあるのか、自分にはもうひとつ理解できないところがありましたが、彼が死刑執行の現場を見て、驚異の目で権力に対する魅力を見出したということは、なんとなく分かりました。

なんだか、かつてヴィスコンティが描いた権力の甘き香りに魅入られ酔い痴れた者たちの宴のような狂気を感じてしまいました。

彼が帰ったあと、「あいつ、大丈夫か?」と女房に聞きました。

勉強のしすぎと、将来の展望が開けない焦りとで、彼にもついに来るべきものが来たのかもしれないという危惧の思いで、しばらくは少し靄っている夏空を見上げていました。

ふうっとため息をついたあと、無意識に「今日も暑つうなるぞ」という言葉を口にしていました。

あっ、これって「東京物語」の笠智衆のセリフじゃないか。暑い盛りになると、一日の始めにまずこの言葉を、自然につぶやいている自分がいます。


★蛇足的参考
 【現在の判例】判例は、「死刑そのものが一般的に直ちに残虐な刑罰に該当するとは考えられない」が、「その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残酷性を有するものと認められる場合には、これを残虐な刑罰といわねばならぬ」から、「将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残酷な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法36条に違反するものというべきである」とし(最大判昭23・6・30刑集2・7・777)、「現在各国において採用している死刑執行方法は、絞殺、斬殺、銃殺、電気殺、瓦斯殺等であるが、これらの比較考量において一長一短の批判があるけれども、現在わが国が採用している絞首方法が他の方法に比して特に人道上残虐であるとする理由は認められない」(最大判昭30・4・6刑集9・4・665)と判示している。
 【規定】現行法上、刑訴法475条以下、刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律178条等、および明治6年太政官布告65号等に文教して規定され、一個の法体系のもとにまとめて規定されていない。
前記布告は『絞首』という死刑の執行方法について凡絞刑ヲ行フニハ先ツ両手ヲ背ニ縛シ紙ニテ面ヲ掩ヒ引テ絞架ニ登セ踏板上ニ立シメ次ニ両足ヲ縛シ次ニ絞縄ヲ首領ニ施シ其咽喉ニ当ラシメ縄ヲ穿ツトコロノ鉄鐶ヲ頂後ニ及ホシ之ヲ緊縮ス次ニ機車ノ柄ヲ挽ケハ踏板忽チ開落シテ囚身地ヲ離ル凡一尺空ニ懸ル凡二分時死相ヲ験シテ解下ス」と規定している。明治22年4月12日勅令93号により、布告65号所定の絞縄解除までの時間2分を5分と定めた以外には、現在に至るまで、同号の規定と異なる規定は設けられていないし、同布告の廃止を規定したものもない。同布告は現行憲法下においても法律と同一の効力を有するものとして存続している(栗田正「死刑(絞首刑)の宣告は憲法31条に違反するか―明治6年太政官布告65号絞罪器図式の効力」ジュリスト232号50頁)。同布告65号所定の執行方法は地上絞架式(2階から1階に吊り下がる)に変更されているが、絞縄による絞首という執行方法の基本は変わっていない。
 
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by sentence2307 | 2012-07-27 09:51 | 徒然草 | Comments(2)
僕には、ひとつの夢があります。

いままで、新聞を隅から隅まで、つまり、掲載してある活字のすべてを読み切ったことが一度もありません。

「なんだ、馬鹿らしい。新聞なんて必要な記事だけチョイスして読めばそれでいいんだよ。この忙しい時代に、わざわざ無関係な記事まで読むなんて、それこそ無意味で無駄なだけじゃないか」なんて言われそうですが、なんだか最近、そういうことが本当の贅沢のような気がしてきました。

むかし田舎のおじいさんは、陽の当たる縁側で新聞を大きく広げながら、日がな一日振り仮名付きの新聞を声を出しながら読んでいたものです。

その縁側では、世界のことが一望できる豊かな時間が静かに流れていた気がします。

自分も大人になって活字が自由に読めるようになったら、縁側いっぱいに新聞を大きく広げて、それこそ世界の出来事を片っ端から読みまくるのだと考えていました。

しかし、驚くべき情報化社会の進化によって、世界のあらゆる情報が瞬時に把握できるはずなのに、僕たちの飢餓感は一向に満たされるよう様子はありません、むしろ神経症のようなイライラ感が募るばかりです。

これって、どういうことなんでしょうか、新聞を前にしたあのおじいさんの満ち足りた時間は、もうこの世界には存在しないということなのでしょうか。

一度、時間ができれば、とにかく一日中かかっても、新聞を隅から隅まで読み尽くしたいというのが、僕の夢なのですが、しかし、現実的に考えた場合、一日中新聞を読んでいるなんてことは、それこそ非現実的で不自然な、あるいは、日常生活者にとっては許されないストイックな行為かもしれません。

そんなこんなで新聞の読めない慌ただしい生活は続いていて、読みきれない新聞は溜まるばかりです。

そこで思いついたことがあります。

折に触れ、気になった新聞記事やコラムをスクラップしておく方法です。

いまは時間がないけれども、ふっと暇な時間というものはできるものです。

油断していると、読めないまま新聞がどんどん溜まってしまう窮余の一策として考えついたのが、このスクラップでした。

時間がなくて新聞が読めないというのも、結構ストレスです。

なので、読む工夫をあれこれ考えた挙句、読みたい記事をスクラップにとっておいて、少し溜め込んでから、暇なときに一挙に読む、という方法です。

我ながら、いい方法だと思います。

読んでしまえば、だいたいは捨ててしまうのですが、中には捨てられずに取ってある「コラム」もあります。

この「君だけでもかばえなかったのか」も、そのなかの心打たれたひとつでした。

最近あつた痛ましい事件が、もう一度、僕に、このコラムを思い出させたのかもしれません。

これは、「産経新聞埼玉版」の載っていた「木漏れ日」(執筆者は、さいたま地裁所長)というコラムで、日付は一昨年の11月です。

短いので全文を引用してみますね。

「先月、小学校6年生の少女が、母親のために編んでいたマフラーを使って自ら死を選んだ。
転校してきたが、やがて仲間はずれになり、給食の時間もその少女だけが一人ぼっちだった。
30年前に担当した少年事件を思い出す。
詳しい内容は書けないが、中学校のある運動部に気が弱くて友達もいない2年生がいた。
根性を叩き直すという3年生のボスの一言で、数人の2年生が順々に棒でその子を殴りけがをさせた。
 2年生たちは非行歴のない普通の中学生。
親と一緒に神妙な顔で出頭してきたものの、「ウチの子は命令に従っただけ。被害者みたいなもの」と言い出す親もいて、裁判官の説教を我慢して聞けば済むという本音が見え隠れする。
 ひと呼吸置いてから、「君たちの中の一人でも『僕はこんなことはできない』と言って手を出さなかったら、彼は、他の子に殴られても、かばってくれた君のことを忘れなかったと思う」と諄々と話した。
 ひとりの子がすすり泣きをはじめ、他の子もつられるように泣き出した。
同級生に殴られ続けた者の無残な気持ちを思いやったのか、上級生に屈した自分の弱さを恥じたのか。
ともかく、思春期の少年たちの涙と戸惑い気味の親を見て、駆け出しの裁判官は少しだけ救われたのである。
「いまは学級崩壊も珍しくない。昔の子供とは違うよ」とよく言われる。
しかし、本当にそうか。
冒頭の少女は亡くなる直前まで漫画を書いていた。
その題は、「やっぱい『友達』っていいな!」。
転校してきて挨拶する主人公をクラスみんなが笑顔で見守る。
そんな絵が描かれていたという。(平成22.10.29本紙「産経抄」)
 君ひとりでもかばってやれなかったか、友達になってやれなかったか。
そう問いかけるのは決して無駄ではないと、いまでも思っている。」

 
今回の場合は、市長はじめ教育委員会、教師までつるんで、権力者の顔色を窺いながら、ひとりの子供を死に追いやり、口裏を合わせて隠蔽しようとしたのですから、まあ、なにおかいわんやですか。

やれやれ、世も末だ。

いまの憤りの衝動を抑え切れず、突然したり顔した教師のツラを殴り倒してしまうかもしれないそんな気分です。
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by sentence2307 | 2012-07-23 23:06 | 徒然草 | Comments(18)

コリンヌ・リュシェール


何気なくインターネットを眺めていたら、「教えて! goo」で、こんな質問がありました。

「女性が丸刈りにした映画を教えて」というのです。

これは面白そうだと、すぐに食いつきました。

寄せられた作品名を、最初から列挙すると、こんな感じです。

「ターミネ-ター」のリンダ・ハミルトン
「エイリアン」のシガニー・ウィーバー
「G.Iジェーン」のデミ・ムーア
「ドクター」のエリザベス・パーキンス
「スター・トレック」のパーシス・カンバータ
「ゴッド・ディーバ」のリンダ・アルディ
「リリイ・シュシュのすべて」の伊藤歩
「勝手にしやがれ」のジーン・セバーグ
「ヘヴン」のケイト・ブランシェット
「イン・アメリカ」のサマンサ・モートン
「エンパイア レコード」のロビン・タニー
「友情」の三船美佳
「007 美しき獲物たち」のグレース・ジョーンズ

う~ん、そういうことでしたか。

つまり、ここに掲げられている作品は、そのほとんどが奇抜さを狙ったファッションとしての「短髪」ということみたいですよね。

だから「女性が丸刈りにした」ということは、そのまま女性解放につながっていく積極的な自己主張という感じの言い回しになっていたわけですね。

しかし、自分としては、この「お題」を見たとき、問われているのは、むしろ、「女性が丸刈りにされた」映画だと思い込んでしまったものですから、少し肩透かしを食わされた思いがしました。

まあ、あいも変わらず、自分の思い込みから出た早とちりというか、質問の意味をまったく曲解していた何ともお粗末で情けないお話です。

しかし、なんらかの罰としての女性の「丸刈り」という、作品でいえば、「火刑台上のジャンヌ・ダルク」とか「パサジェルカ」あたりのシリアスなシチュエーションを勝手に想像していので、そうか、女性の「丸刈り」というのは、現代にあっては、そのイメージとしても必ずしも悲痛さとか、惨たらしさに結びつくわけではなくて、単なるファッションである以上、「不自然」でもないし、「衝撃」でもないわけなのだなと思い当たりました。

人間の価値観て、時間の経過や環境の変遷によって、こうも大きく変動してしまうものなのだと、なんだか急に老け込んでしまったような、寂しい隔世の思いに落ち込んでしまいました。

よくヒストリー・チャンネルで、イタリアやドイツの独裁政権が打倒された瞬間を実写フィルムで特集するときなど、必ずといっていいほど、侵略者たちに媚を売った自国の女たち(だぶん、商売女といわれる女性たちだったのだと思いますが)を民衆が取り囲み、罵声を浴びせ、嘲り、小突き回しながら嬉々として「丸刈り」にする衝撃的な場面を幾度か見たことがありました。

それら祖国を裏切った女たちを、薄ら笑いを浮かべながら強引に丸刈りにしている民衆の堂々とした強引さは、まるで公的なリンチのようなに描かれているだけに、かえって民衆への感情移入を拒むものがありました。

丸刈りにされる女たちは、きっと祖国を敵に売り渡してまでも自らの保身と、我が身の贅沢を享受しようとした、同情の余地のない女たちのはずなのに、しかし、嬲りものにされる売春婦たちよりも、むしろ、寄って集って罵る怒りの大衆の方にこそ嫌悪を感じてしまうのは自分だけなのだろうかと、いつも迷いの気持ちに襲われてしまいます。

彼女たちは散々に小突き回され、ひっぱたかれ、汚れものに対するような軽蔑の唾を吐きかけられたすえに、いわば罰として女性の自尊心と矜持の象徴である髪をすべて刈られる「丸刈り」という民衆レベルの処刑によって、存在そのものを否定され、踏みにじられ、辱められるというその無残な映像は、最初見たときは、物凄い衝撃でした。

ですので、そういうことを想定していたじぶんにとって、この「女性が丸刈りにした映画を教えて」の回答を見たとき、少し失望しました。

せめて、そのラインアップの中に、トルナトーレの「マリーナ」でも挙げられていたなら、まだしも、落胆はもう少し軽いもので済んでいたかもしれません、その意味では、ちょっと残念でした。

そうそう、トルナトーレの「マリーナ」で思い出したのですが、あの作品を最初に見たとき、僕はとっさに、フランスの女優コリンヌ・リュシェールを瞬間的に連想したことを思い出しました。

そしていま、「女性が丸刈りにした映画を教えて」という質問を見たときすぐに、ナチス・ドイツのパリ占領中、コリンヌ・リュシェールが、ドイツの情報将校の情婦となって一児をもうけ、やがてパリ解放後、対ナチ協力のかどで、頭を丸坊主にされて映画界から追放されたという以前なにかで読んだ記憶が不意に浮かび上がっての連想が、自分の内部で不思議な共鳴となったのかもしれません。

彼女の代表作はなんといっても「格子なき牢獄 Prison Sans Barreaux 」1938(1939年度キネマ旬報ベストテン外国映画2位)でしょうが、自分は未見ですが「美しき争ひ Conflit 」1938(1940年度キネマ旬報ベストテン外国映画7位)をあげる人もいました。

ただ、出演作のなかに「郵便配達は二度ベルを鳴らす Le dernier tournant 」1939があるのは、ちょっと意外でした。

ルキノ・ヴィスコンティ作品の間違いではないか、その前に作られた作品が存在していたなんて、初耳でした、

さっそく調べ直してみたくらいです。

う~ん、なるほど。ありました、ありました。

*1939年:ピェール・シュナール監督、フェルナン・グラベ、コリンヌ・リュシエール、ミッシェル・シモン主演で LE DERNIER TOURNANT(最後の曲がり角)と言うタイトルで映画化された。舞台をフランスのパパスに移されている。

*1942年:ルキノ・ヴィスコンティ監督。舞台はイタリアになっており、彼の初監督作品である。出演はマッシモ・ジロッティとクララ・カラマイ。
*1946年:テイ・ガーネット監督。ジョン・ガーフィールド、ラナ・ターナー主演。日本では劇場公開されなかった。
*1981年:ボブ・ラフェルソン監督。ジャック・ニコルソン、ジェシカ・ラング、マイケル・ラーナーなどが出演している。

ルキノ・ヴィスコンティ監督作品に先立つ3年前に、既に、コリンヌ・リュシエールが出演したフランス映画「郵便配達は二度ベルを鳴らす」が存在していたんですね。

そんなに意欲的に映画に取り組みながら、しかし、なぜ彼女はココロザシ半場で映画界から外れ、そればかりでなく、祖国を蹂躙した占領軍ナチス・ドイツに接近するようになったのか、長い間の僕の疑問でした。

そこで、さっそく彼女の年譜をしらべてみたのです。

年譜をたどるに連れて、そこには、野心に満ちた父親の存在がありました。

当時、事実上ドイツに支配されているフランス政界や言論界に対する父親の野心のために、娘を思うままに操って、ドイツ軍の中枢に取り入るため娘を道具に使っていた印象です。

いわば、彼女こそ最大の被害者だったのではないかという感じを受けました。

年譜を以下に掲げますね。
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by sentence2307 | 2012-07-22 18:49 | 映画 | Comments(3)
1921年2月11日、フランス、パリに生まれた。

父は政治家でジャーナリストのジャン・リュシェール、この父の名付け親は、当時オーストリア=ハンガリー帝国領民だったハンガリー人の銀行家だったなど、この一家が欧州中を行き来して暮らす裕福で国際的な家庭だったことが推察される。

この父親は女優マリー・ベルなどと関係を持つなどかなりの発展家だったようで、また、画家だった母も、コリンヌの幼少時に、ドイツの政治家グスタフ・シュトレーゼマンの愛人となり、コリンヌを連れてドイツに出奔したといわれる。

そうした家庭で育ったコリーヌが、自由放埒な男性観を持ったであろうことは想像にかたくない。

父方の祖父は歴史家で作家として知られるジュリアン・リュシェールで、母方の祖父は画家、曽祖父は哲学者だった。

占領下時代には、父親と祖父が地位を利用して多くのユダヤ人を逃がしたという話もある。

そうした家庭の雰囲気のなかで育ったコリンヌが、規律の厳しい学校生活に飽きて、次第に演劇に興味を持ちはじめたあたりの生い立ちの感じは、まさに彼女を世に出した運命の作品「格子なき牢獄」の孤独な不良少女像にかぶる感じがする。

コリンヌは、中等教育を3年でやめ、14歳のときに俳優兼映画監督のレイモン・ルローの教室で演技を学ぶ。

16歳のときに父方の祖父ジュリアン・リュシェールが、彼女のために書いた劇「海抜3200メートル」に出演したのが、本格的な演技のスタートだった。

そして、その演技を、たまたま客席でレオニード・モギーが見ていたという、コリンヌにとって運命的な出会いがあった。

「格子なき牢獄」の監督したレオニード・モギーは、本名をレオニード・マギレウスキーというセントペテルスブルグ生まれのロシア人で、1929年ソヴィエトからフランスに亡命し、映画編集者から監督に転じた人物である。

ちなみに、この舞台には、のちに清楚可憐な乙女役で戦時下のフランス映画界を代表する「乙女の湖」のオデット・ジョアイウーも出演していた。

1935年、コリンヌはマルク・アレグレ監督「みどりの園」にエキストラとして出演し、これが映画へのデビュー作品となった。

この作品には、ほかに脇役としてジャン=ルイ・バローが出演していた。

監督のマルク・アレグレは、アンドレ・ジードの甥である。

1937年に人気歌手ジャン・リュミエールのために製作された「真夜中の歌手」に出演したが、映画はこれといった評判も得られず、コリンヌの印象も薄かった。

そして1938年、17歳のときに運命の作品「格子なき牢獄」と出会う、監督は前述のレオニード・モギー。

モギー監督は、女優としてキャリアの乏しいコリンヌの演技力に不安を抱いていたが、脚本を書いたアンリ・ジャンソンの強い後押しもあって起用が決まった。

しかし、この映画で不良少女を新鮮な魅力で鮮烈に演じたコリンヌは、主役のアニー・デュコー(品格のある美貌の若き院長役を演じた)を食うみずみずしい存在感を示し、熱狂的な人気を得て、一躍世界的なスターとなった。

当時「パリ・ミディ」紙は次のように絶賛した。「これは傑作である。人間の魂に叫びかけ、それを純化させ、向上させる作品である。モギー監督は巨匠の腕を見せ、俳優も素晴らしい演技を示した。私は有名スターの大作より、コリンヌ・リュシェールのような才能ある若い役者を世に送ったこのような映画に拍手を送りたい」

日本でも河上徹太郎が絶賛した。「此の映画の主役コリンヌ・リュシェールに溢れる「思春期の処女の色気」ともいふべきものは、実に素晴らしく輝かしい。それは「制服の処女」や「早春」が企てて成らず、ダービンやダリューの如く濁ったものとは類が違ふ。それが筋や脇役の不様さにもかかわらず、その桎梏を破って活々と魅力を放ってゐるのである」

ノンフィクション作家・鈴木明の著書「コリンヌはなぜ死んだか」(文藝春秋、1980年4月)には、この時期、コリンヌがロンドンを訪問したとき、メアリー・ピックフォードから「第二のグレタ・ガルボ」といわれたというエピソードが紹介されている。

この言葉を最高の賛辞ととるか、あるいは、エキゾチックな容姿や独特の雰囲気はともかく、演技となるとイマイチだったガルボの世評をそのまま受けた揶揄にすぎないものととるか、解釈の分かれるところであろうが、いずれにしろ、ほんの駆け出し女優に対してグレタ・ガルボを引き合いに出すということ自体、コリンヌとって最大級の賛辞とみていいだろうというのが通説である。

次の作品「美しき争い」1938は、「格子なき牢獄」の成功を受けて制作された作品で、内容は姉妹の愛憎もの。

共演は前作と同じアニー・デュコーで、監督もレオニード・モギー。

コリンヌがアニー・デュコーと手を取り合って、街を駆け抜けるシーンは、「格子なき牢獄」のなかで、感化院を脱走してきたと誤解した警官がコリンヌを追い、しかし、コリンヌが軽やかに逃げ回る森のシーンを彷彿とさせて印象深く、しかも劣ってないというのが当時の大方の評価だった。

「全体としては悲劇的な話なのだが、このわずか1分間の2人の奔放と爽快は、演技を超えた聖なるものを感じさせた。」

このロケ地ニースでコリンヌは「いれずみの男・ラファエル」を撮っていた監督クリスチャン・ジャックと出会う。

後にジェラール・フィリップ主演の「花咲ける騎士道」を撮る監督で、ほかにも「幻想交響楽」、「パルムの僧院」、「ボルジア家の毒薬」、「黒いチューリップ」などを撮った娯楽映画の巨匠であり才人の名も高いクリスチャン・ジャックは、また、女性関係も華やかで、結婚した相手もルネ・フォール、マルティーヌ・キャロルなど多彩だった。

当時、ようやく人気の出始めた新進気鋭の人気女優にクリスチャン・ジャックが食指を動かしたのも自然のなりゆきで、コリンヌもまた、初めて真剣に愛したのがこのクリスチャン・ジャックだったといわれている。

その後、親独派のジャーナリストだった父親ジャン・リュシェールの仕事の関係から、シュトレーゼマンの友人で親ナチの銀行家クルト・バロン・ヴォン・シュレーダーに見初められ、シュレーダーの邸宅に引き取られ、シュレーダーの周囲のナチ幹部とそこで親しくなった。

父の親友でもあり、父の秘書を妻にしていたドイツの駐仏大使オットー・アベッツともシュレーダー邸で知り合ったらしい。

1938年から1940年にかけて出演した作品は、「私はあなたを待つ」、「最後の曲がり角」、「第三の接吻」、「闖入者」など若手女優として将来を嘱望されながら、結局「格子なき牢獄」を超える作品にはならなかった。

この時期に噂となった交際相手は、大富豪でプレイボーイのアリ・カーン、そして、ムッソリーニの片腕といわれた外務大臣ガレアッツォ・チアノだった。

もともとフランス・ジャーナリスト界において最右翼に属していた父がドイツ占領下の新聞界において独裁的な権力者となっていたことから、その後ろ盾のもとで、コリンヌは、ヴィシー政権の華やかなシンボルとして社交界で奔放な生活を送り、歌手のシャルル・トレネらと交際した。

1940年6月のパリ陥落後、結核を患い、また、父親の仕事の手伝いをするかたわら結婚と出産を経るなど、身辺の多忙さのために女優の仕事ができなかったらしい。

1941年に療養先のモンブランの麓の保養地ムジェーヴでフランスの貴族ギイ・ド・ボワサンGuy de Voisins-Lavernièreと結婚したが、この貴族は父親ジャン・リュシェールが右翼の立場から創刊した夕刊紙「新時代」の出資者の一人で、その縁から知り合い(一種の政略結婚かも)結婚はしたものの、コリンヌの方に熱はなく最初から冷めいて(政略結婚なら当然か)、「ラ・メール」などで知られるシャンソン歌手のシャルル・トレネやスキー選手のエミール・アレなどと浮き名を流した。

同性愛者で、しかもユダヤ人だったシャルル・トレネは、ドイツ占領下のフランスで身の安全を確保するため、ドイツ軍に顔が利くコリンヌと付き合ったといわれる。

そして、同地出身のスターでスキーの世界王者エミール・アレとの不倫関係が破綻したあとに自殺未遂事件を起こして離婚し、パリに戻った。

ちなみに、父ジャン・リュシェール創刊の「新時代」は対独協力の急先鋒の夕刊紙で、彼は、この「新時代」によってドイツ占領下のフランス言論界において最も影響力を持つ存在となっていった。

その事務所で秘書を務めていたのが、後年の大女優シモーヌ・シニョレ、彼女は、その回想録のなかで、事務所には多くのフランス市民が、ドイツ占領下、ドイツ軍の横暴や略奪などに苦慮しているとの嘆願を受けて、そのたびに、ジャン・リュシェールが親身になって相談に乗り、ドイツ軍との仲介にも奔走したと記している。

さらに、シニョレはその回顧録の中で憤りを込めてこう語っている。「どれほどの多くの人たちがジャン・リュシェールのこの事務所を訪れたか、私は知っている。しかし、恩を受けたその彼らが、戦後リュシェールが死刑を宣告された苦境に遭遇したとき、彼にどれほどのことをしてあげただろうか。」

コリンヌがナチスの高官オットー・アベッツの愛人だったという説は、今なお根強く残っている。

アベッツは父親ジャンの友人であり、敵国の人間でありながら、フランス文化に理解があり、フランス語も堪能で、狂信的な親衛隊がフランスで破壊行動を取ったり、無益な血を流したりしないよう尽力した人物ともいわれている。

アベッツには何人か愛人がいたが、コリンヌがそのうちの一人だったかについては、確たる証拠があるわけではない。

「確たる証拠がない」といえば、1943年、コリンヌはオーストリア人のドイツ空軍将校ウォルラッド・ゲルラッハと出会って恋に落ち、やがてコリンヌは娘ブリジットを身籠った(出産は1944年5月10日)が、その子が、本当にゲルラッハの娘だったのかどうかについても同じように「確たる証拠はない」というように言われた、交際時期からみれば2人の子であることは、ほぼ間違いないだろうが。

このブリジットは、長じてのちにフランスの貴族と結婚した。

しかし運命は暗転し、1944年8月のパリ解放後、自殺を図ったが死にきれず、父とヴィシー政権閣僚とともにドイツ・ジグマリンゲンに移送され、その後、コリンヌは父と共にイタリアのメラーノ(ミラノにあらず)に逃れる。

ジャン・リュシェールにしてみれば、むしろ「対独協力者(コラボレイター)」という立場をとおしてフランスを守ったのだ、という自負があっただろうが、怒りの民衆の前では、やはり身の危険も感じていたからこそのイタリア行きだったのだろう。

やがて、1945年5月、そのメラーノでパルチザンに捕らえられた父娘は、そのまま拘留され、やがてフレヌ刑務所に送られる。

そこで、ドイツ人の妾だったか、ドイツ軍の手先だったのではないか、と執拗な尋問でコリンヌは責め立てられたが、国内の「対独協力者(コラボレイター)」糾弾の声が高まるなか、ヴィシー政権の亡命政府の閣僚になっていた父ジャン・リュシェールは1946年2月銃殺刑となる。

彼は処刑の際し、目隠しを拒み、「フランス万歳」と叫んだという。

コリンヌは対独協力の罪で投獄され獄中で病気になる。

まもなくコリンヌの裁判がはじまった、検事は「フランスの女性たちが戦い、苦しみに喘いでいる時に、お前はドイツ人と浮ついた生活を送っていたではないか」と激しく糾弾した。

そして、1946年6月、国家侮辱罪により10年間の市民権剥奪の判決が下された。

1948年に釈放され、1949年に自伝「人生における私の役」を出版した。

 1949年4月、コリンヌがニースの病院で療養中だったとき、イタリアの新聞に死亡記事が掲載された。

女優としてカムバックする夢を捨ててはいなかった彼女に、「格子なき牢獄」の監督レオニード・モギーは、コリンヌを主演女優に想定した新作の企画の申し出があったが、実は、その頃コリンヌの病状も相当進行していた。

無理に退院した彼女は、1950年1月22日、パリの道端で血を吐いて倒れた。

病院に担ぎ込まれた時にはすでに息絶えていたという。

彼女の死については、獄中死と書かれた記録もあるが、事実ではない。

彼女の夢だった映画出演は、ついに果たせず、企画のままで潰えた。享年29歳。

当時、愛国的雰囲気が強かったフランス国民に迎合するマスコミが、「祖国を裏切った女」「売国奴」という悪イメージ→生贄を必要としたという背景があった。

彼女のその生涯を通してみれば、まるでマスコミの生贄にされて潰された一生であり、死後も「オットー・アベッツの愛人」、「ナチの高級娼婦」という祖国を裏切った女のレッテルが貼られた。
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by sentence2307 | 2012-07-22 18:39 | 映画 | Comments(188)

まほろ駅前多田便利軒

この「まほろ駅前多田便利軒」を見てから、随分と時間が経ちました。

素晴らしい映画は、それだけ多くの賛辞と感動が寄せられるのは当然のことで、こういう地味でひた向きな映画が多くの人々に受け入れられ、息の長い評価を得られ続けるということは素晴らしいことですし、自分としてもなんだか晴れがましくて照れくさいような気持ちさえ抱いていました。

しかし、あるとき、その惜しみない賛辞の実際の中身というのを知ったとき、唖然とし、しばらくはちょっと立ち直れないほどの衝撃を受けました。

それ以来、賛辞に接すると(しまいには、このタイトルを聞いただけで反射的にびくついてしまうくらい自分はナーバスになってしまったと思います)、この作品のことが話題にのぼると、またきっとあのうわべだけの賛辞を聞かなければならないのかと、急にイラついて、居たたまれない憤りに駆られたりしたものでした。

そして、当のコメントのぬしに「いったいこの映画のどこが良かったのか、もっと詳しく聞かせてくれよ」と、思わず突っ掛かってしまいたくなるような衝動に駆られるようになりました。

そんな感じですので、この作品について引きも切らず寄せられる感想に対して、ことごとくスルーの姿勢を保てばいいものの、よせばいいのに、関心がないわけじゃないので、つい怖いもの見たさというのでしょうか、恐る恐るその「感想」を懲りずにまた見てしまうという体たらくをやらかすと、案の定その報いでもあるかのようなそれはそれはひどい感想が書かれていて、それでなくとも滅入っていた気分が、さらに落ち込むという最悪の循環軌道に身をゆだねなければならないということを繰り返してきました。

その感想というのは、たとえば、こんな感じのものでした。

「二人とも痩せているけど、かっこいいです。
最初のほんわか空気から、物語がどんどんヤバイ方向にいくのが怖くて面白かったです。
ストーリーがどうのこうのじゃなくて、とにかく、瑛太と松田龍平が、かっこいい。
この2人のような雰囲気をまとえたら、私もアルバイト申し込むんだけどなあ。」

なんですか、これは。

なにが「申し込むんだけどなあ」だよ。

こんなのばかりだったのですよ、ホントニ。

映画を年に何本も見るような映画オタクなら、その作品を実際に「見た・見てない」に関わりなく、封切りされるかなり前から、その映画が近い将来にどのように評価される作品であるかは、業界の事情や好きな俳優の動向に精通して、映画の中身なんかそっちのけで(考えてみたら自分もそうでした)内容なんてどうだって構わない、とにかく口裏を合わせてやたら褒め倒すという姿勢になってしまうのです。

しかし、それにしたって「ストーリーがどうのこうのじゃない」なんて、随分とひどいじゃないですか。

こういうのは、もはや感想ですらありません。

この程度の感想なら、わざわざ「表明」なんか、しないでください、お願いします。

とまあ、こんなことを言った後で自分の感想をちゃっかり書くのもなんだか気恥ずかしく失笑をかってしまうかもしれないのですが、あえてというか、ぶっちゃけというか、この映画の本質はちゃんと書いておかなければなりません。

だって、誰かがいつか本質論を書いておかなければ、この手の傍論がはびこって、どーしようもない戯言をずーっと読まされたら、本当にこの映画に感動した人たちは身の置き所を見いだせないまま、ネット上をいつまでも彷徨い歩かなければなりません。

アマタある戯言の方だってどっしりとした本家が存在しなければその存在意義を失うというものじゃないですか、みたいな気負いで、一気に書いてしまいますねエヘヘヘ。

まずは、自分が感じたこの映画の違和感というのから書き始めようかと思います。

この作品に登場する多田と行天は、ともに家庭を持つことに失敗したかつての同級生同士です。

彼らはそれ以来、人間関係というものに怖気づいて、「家族」を恐れ他人との関係を保って生きていくことがどうしてもできなくなってしまっています。

そんなふうに家族と離れて暮らすこの2人の男が、しかし、なんでまた、あえて錯綜した人間関係にかかわる「便利屋」(持ち込まれる仕事というのが、人間の軋轢が拗れきったようなものばかりです)なんかをやるのかということが、どうしても自分には理解できなかったのです。

彼らは、ついに自身では再生させることができなかった人間関係を捨てて逃避してきた人間です。

人間関係の破綻を痛切に経験してきた多田と行天が、できれば人間に接しないで済むような職業を選択したいと考えるだろうなと推理するのは、ごく真っ当な考え方です。

彼らは既にさんざん人間関係のドロドロに苦しみ懲りたはずなのですから、できれば1人きりで出来る仕事につきたいと考えるのが当然です。

それに世間には、1人きりでできるそういう職業なら幾らでもあるような気がしますしね、たとえば燈台守とか小説家とか?(どちらもすぐには、ちょっとなれそうもないか)。

しかし、なにもわざわざ、よりにもよって、こじれきった人間関係の泥沼に身を浸すような便利屋になることもないという違和感から、この映画に対する自分のアプローチが始まったのだと思います。

でも考えはじめてすぐに、いや待てよと。
この映画を考えるとき、多田と行天をひと括りで考えようとするところにこの映画を理解させにくくしているそもそもの原因があったのではないか、2人の痛切な生い立ちの悲惨さがそれぞれに特異なのに、そこのところを明確にしないで、ひと括りにして強引に理解してしまおうとしたことが、この作品をいたずらに分かりにくくさせている、そもそもそこに無理があったのではないかと気がつきました。

だいたいにおいて僕が見た多くの感想が、そういう混乱に陥っていたように思えました。

例えば、それらの「感想」を図式的に整理すると、多田の「子供を不慮の事故で亡くしたことで夫婦関係に亀裂が生じ、結婚生活が破綻した失意にある男」と、行天の「親から虐待されたトラウマを持つ男」を、ひとつの類型として「悲惨」であっさりとひと括りして、そのような彼らが、もう懲りたはずの人間関係の只中に身を置くような便利屋稼業をしていくことで、さらに錯綜した惨憺たる状況にあえて突入していったのは、彼らが「心優しき男達」だったからだと理由づけして、この映画の重要な部分から目をそらして、あくまでも「軽さ」しか見ようとしなかった結果、本質的な理解を逸したのではないかと感じました。

多田が「子供を不慮の事故で亡くし、そのために夫婦関係が冷え込み、徐々に亀裂が生じ、ついに結婚生活に破綻をきたした失意の男」であることは、現象的には多分そのとおりだったでしょう。

しかし、彼らの結婚生活関係を決定的に破綻させた原因は、もう少し先の時点、彼らの子供が誕生する少し前に、友人から、彼の妻が浮気しているとひそかに忠告を受けたことにあるのです。

しかし多田は、そのことを妻に問い糺そうとしなかったし、そのような中で出産された子供の誕生にも本心から喜んでいます、あるいは、「本心から喜ぶ」ことを決心したと言い換えてもいいかもしれません。

それが、多田の人間関係と結婚生活というものに対する考え方だったし覚悟だったのだと思います。

しかし、妻は彼に言います「この子のDNA鑑定をしてくれ」と。

妻のそのひとことによって、多田が信じようとしたもの、彼らの生活を支えていたもののすべてが、そのとき崩れ去ったのだと思います。

DNA鑑定が証明できるものが、あるいはそこに確かにあったにせよ、しかし、それは、それ以前に彼が信じ許そうとした重要なものをすべて否定したうえで為されるものであることを妻は気がついていません。

多田が経験したのは、単に人間関係の破綻だったのではなく、誰かと「人間関係」を支えるためには、他人と共有しなければならない重要な部分の半分を、自分からはどうにもできない他人に委ねられなければならないというその届かなさ・無力さ・過酷な不確かさに対する徒労感に見舞われ失望し、同時に「生きる」ことに疲れ、その意味も見失って、彼は、生活という「その場」から逃げたのですが、皮肉なことに、現実の場にあっては、生活の場に留まる者は「勝者」であり、生活から逃避する者たちは、いつでも「敗北者」でいなければならない、この映画のホロ悲しさと優しさは、その敗者を見つめる視点にあるのかもしれませんね。

(2011アスミック・エース配給) 監督脚本・大森立嗣、原作・三浦しをん、撮影・大塚亮、照明・木村明生、録音・加藤大和、美術・原田満生、セットデザイナー・杉本亮、編集・普嶋信一、音楽・岸田繁(くるり)、記録・杉田真一、衣裳・纐纈春樹、ヘアメイク・豊川京子、装飾・田口貴久、助監督・野尻克己、製作担当・有賀高俊、製作プロダクション・リトルモア、フィルムメイカーズ・企画・菊地美世志、岩浪泰幸、孫家邦、プロデューサー・土井智生、吉村知己、企画協力・ボイルドエッグズ、文藝春秋、特別協力・ 町田市、助成・文化芸術復興費補助金、宣伝協力・ヨアケ、配給・アスミック・エース、製作会社・「まほろ駅前多田便利軒」製作委員会(フィルムメイカーズ、アスミック・エース エンタテイメント、ハピネット、日活、TSUTAYA グループ、Yahoo! JAPAN、ヨアケ、リトルモア)、主題歌:くるり「キャメル」
出演・瑛太、松田龍平、片岡礼子、鈴木杏、本上まなみ、柄本佑、横山幸汰、梅沢昌代、大森南朋、松尾スズキ、麿赤兒、高良健吾、岸部一徳、田中遥奈、中村優子、吉本菜穂子、三浦誠己、鈴木晋介、中沢青六、宍戸美和公、吉井有子、瀬戸寛、大嶋捷稔、吉岡澪皇、田村愛、宇野祥平、金子清文、日向寺雅人、全原徳和、渡邉達也、戌井昭人、奥田いろは、加部亜門カラー/ビスタサイズ/123分
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by sentence2307 | 2012-07-07 10:29 | 映画 | Comments(1)