世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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<   2012年 08月 ( 8 )   > この月の画像一覧

インターネットを見ていたら、9月4日(火)~9日(日)に、京橋のフィルムセンターで「ロシア・ソビエト無声映画」を特集するという記事をみつけました。

仕事があるので、残念ながら、ほとんど見に行けそうもないのですが、なんだか懐かしくて、心覚えになにか書いておきたくなりました。

まだ自分の学生時代には、「ソ連」という体制が立派に(というのも変ですが)存在していた時代でしたので、プドフキンだとか、ヴェルトフだとか、エイゼンシュテインの作品が、どこかの公民館などで上映されるときなど、特別な思いを持って見に行ったものでした。

そこには、チャップリンやキートン特集などとは違うある種の緊張感がありました、それがどのように「特別」なものだったかというと、たぶん剥き出しの生々しい「権力」の一方的な主張をドラマとして堪能できたからだったと思います。

その「堪能」は「辟易」の間違いではないのか、と思う方がいるかもしれませんが、幼稚ともいえるその一方的な主張に身を委ねる緊張の快感というか居心地の良さというものは、たしかに「あった」と思います。

見ていて気恥ずかしくなるほどの映像の力強さは、当時の(相当広い意味でですが)西側の映画には、すでに失われたものだったかもしれません。

そこで、今回の上映作品リストをあげておきますね。

①スペードの女王1916・監督プロタザーノフ(63分・16fps・35mm・無声・白黒)
②人生には人生を1916・監督バウエル(60分・18fps・35mm・無声・白黒)
③セルギー神父1918・監督プロタザーノフ(106分・18fps・35mm・無声・白黒)
④プライト技師の計画1918・監督クレショフ(22分・18fps・35mm・無声・白黒・不完全)
⑤ポリクーシカ1919・監督サーニン(59分・18fps・35mm・無声・白黒)
⑥ズヴェニーゴラ1928・監督ドブジェンコ(94分・18fps・35mm・無声・白黒)
⑦新バビロン1929・監督トラウベルグ(102分・18fps・35mm・無声・白黒)
⑧帝国の破片1929・監督エルムレル(75分・24fps・35mm・無声・白黒)

以下は、学生の頃に読んだ教科書の受け売りです。

ただ、その頃は、まだ「ソ連」が健在だったわけですから、この手の解説書からは、特殊な臭みを取り除いたり、過剰宣伝に対しては引き算や割り算を駆使したりして、相当痛烈に罵倒される対象については慈愛をもって庇ってあげながら、ひたすら核心だけをつかみ出す独特のテクニックが必要になろうかと思いますが。

無声映画期のソビエト映画においては、幾つかの映画人グループが、さまざまな実験を積み重ね、新しい映画芸術の在りようを模索したといわれています。

たぶん、そういうことは、どこの国でも多かれ少なかれあったと思うのですが、利潤追求から自由であるべきだとしたソビエト映画においては、「それ」が特に顕著だったと書かれていたと思います。

利潤追求というか、つまり「大衆の支持」という「当たるか当たらないか」のバロメーターに左右されないで、ある程度自由な映画作りが許されるとしたら、そりゃあ、純粋培養的な映画ができるかもしれません。

それがソビエト映画の独特の生真面目さと退屈さの基盤は、その身勝手さだったのかも。

さて、その「グループ」は、大きくいって、4つあったといわれています。

その内のグループのひとつが、上記④「プライト技師の計画」1918を監督したクレショフ率いる「クレショフ工房」でした。

1919年に発足した国立映画学校の教授となったレフ・クレショフは、フセヴォロード・プドフキン、アレクサンドラ・ホフーロワ、レオニード・オボレンスキー、ボリス・バルネト、セルゲイ・コマーロフら、同校第一期生で「クレショフ工房」をつくります(1920)。

彼らは、アメリカの西部劇や冒険映画を徹底的に分析・研究して、画面の多様でスピーディな変化と無駄のない合理的な構成を学び取ります。

そして、同じ俳優の同じ表情に、別々のショットをつないだだけで、その表情の意味が変わるいわゆる「クレショフ効果」、別々の場所で撮影したショットを組み合わせて同一場所の出来事のように見せる「創造的地理」の実験も行います。

画面の組み合わせの創造的可能性を追求して、いわゆる「モンタージュ論」への道を切り開きました。

「クレショフ工房」の一員プドフキンは、その経験から、世界最初の体系的な映画の演出原論ともいえる「映画監督と映画材料」1926をまとめあげ、そのモンタージュ論を自作の「母」1926「聖ペテルブルグの最後」1927「アジアの嵐」1928などで実践し、その有効性を証し立てました。

師のクレシェフもまた、「映画芸術―私の経験」1929を書きました。

例えば、あらゆる映画的手法を追求したヴェルトフや、あるいは、モンタージュを駆使してスペクタクルの視聴覚的刺激をいかに効果的に組み立てるかを追求したエイゼンシュテインや、あるいはまた、舞台装置、扮装、俳優演技などの表現派的、構成主義的な追求で映像にエキセントリックな効果を盛り込もうとしたコージンツェフやユトケーヴィチらに比して、この「クレショフ工房」のグループは、ショットの合理的な編集、俳優演技の映画への適用、映画的なストーリー構成の追求に重点を置き、いわば劇映画の創作理論の確立をめざしたという特徴を持っていたと位置づけられました。
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by sentence2307 | 2012-08-30 00:00 | 映画 | Comments(2)

鈴木澄子

ETVと放送大学は、他の局の番組と同じくらいの比率で、結構見ているような気がします。

まあ、地上波のアナログ放送のときには、そんなこともなかったことを思えば、いかに現在の放送がパターン化してつまらなくなってしまったかということなのでしょうか(電力不足の危機が叫ばれているなか、相も変わらず、こんな多チャンネルのまま、しかも同じように能の無いバラエティ番組を数多くひたすらたれ流して電力を無駄遣いしている矛盾について、何の施策も示さず、誰も声を上げようとしない日本人の能天気ぶりに、まず、外国人が驚いています。)。

でも、「ETV」とは、ずいぶん芸のない呼び方に変えてしまったものだと、なんだか興ざめです。

「教育テレビ」じゃなぜ駄目なのか理解できません。

国民の金を一方的に搾り取っておいて、しかも独善的で一向に面白くない、視聴率も低迷しているという、明らかに意地になって続けているとしか思えない大河ドラマ(薄汚さとリアリズムとを勘違いしているその深刻な無能さには驚かされます)とか、他局のアイデアをまるごと真似た誰が見ているのだと疑わしくなるような低俗なクイズ番組なんかとっととやめた方がいい、そういうことのひとつひとつを、いちいち国民に問うて、あるいはアイデアなども公募して番組を編成にするくらいの謙虚さはあってほしいと思います。

国民の気持ちはとっくの昔に離れているのに、お山の大将みたいに孤立している状況が認識できず、「なに偉そうに考えてるんだ」的な愚劣な番組を量産している無神経さに対しての鬱憤を抱えながらも、しかし、なんだかんだとこなんふうに文句をいいながらも、結構、いろいろな番組を見てしまっているわけなのですが、少し以前、そのETVを見ていたら、老い衰えた永六輔が、ろれつの廻らない口で、さかんに喋っている姿(なにか病気のことを訴えているらしいのですが、正確には何をいっているのかは聞き取れませんでした)が映し出されていて、驚いたことがあります。

「驚いた」というのは、進行した「老い」もそうですが、むしろ、そういう姿を晒してでも果たしたいと思う永六輔の「自己顕示欲」の方だったかもしれません。

いえいえ、そういう「自己顕示欲」の表し方は、決して嫌いではありませんし、むしろ、そうしたことを好ましく思っているくらいなので、永の人間性についてはともかく、マスコミに身を晒し、曲がりなりにもここまで食いつないできた者の覚悟として、最期の死に様まで大衆に晒そうとする意欲は、実に見上げたものだと思います。

まあ、そんなわけで、これといった拒否する明確な理由もないので、永六輔の番組や著作もそれなりに見てきたと思います。

そうした著作のなかに「芸人 その世界」と「役者 その世界」があります。

両書ともいってみれば、芸人や役者のごく短いエピソードや言行を寄せ集めた文庫本なので、短かい暇つぶしのときにはどこからでも拾い読みできるので、常に座右に置いて便利に使っています。

その中の往年の化け猫スター・鈴木澄子のエピソードが出色で、読むたびにお腹を抱えて笑ってしまいます。

それは、こんな感じです。

《化け猫スターとして売った往年のスター・鈴木澄子は、トイレに入っているときに、ノックされると必ず「どうぞ」といった。
ここまではユーモア。
ある湖にロケに行ったとき、「ここに鯛はいるかしら」スタッフの1人が、「ここは、淡水ですからいません」と答えた。
彼女は、質問を続けた。「それじゃあ、蛸は?」》

最初、このエピソードを読んだとき、可笑しさのキモは、もちろん前半の、鈴木澄子がトイレに入っているときにノックされ、「どうぞ」と答える部分にあります。

トイレのドアがノックされて「どうぞ」と答える奇妙さ・奇抜さ、そして、トイレの応答の「はいってます」の対句が「どうぞ」で正しいのかどうか、そもそも、「はいってます」の応答のほかに、どのような言葉がありうるというのか、「どうぞ」も変だが、「どうぞ」に代わる言葉を思わず考えさせられてしまうこと自体に、このエピソードの可笑しみが潜んでいます。

「どうぞ」といわれたので、ドアを開けたら、そこに妙齢の美人がしゃがみこんでいて、思わず眼と眼が合ってビックリという構図の可笑しさよりもまえに、「どうぞ」と答えたからといって、ドアを開けかということもあるでしょうし、ノックされたからといって「どうぞ」と答えるかということもあるかもしれません、そういう可笑しみの源泉を辿っていけば、鈴木澄子という女優の不可思議な人格の限りない深み暗闇にまで達せそうな気がしますが、しかし、この前半と、そして後半の「鯛と蛸」のエピソードとはどうしても結びつかず、その違和感について当初は、さほど注意は払わなかったと思います。

しかし、あるとき、このふたつのエピソードをつないでいる「ここまではユーモア。」という語句の区切りの存在が突然自分の気持ちを捉えました。

ということは、後半は、少なくとも「ユーモア」ではないということか。

つまり、後半の「鯛と蛸」は、前半の「ノック」と「どうぞ」との関係に匹敵するのではないかということに思い至りました。

ノックを受けて「どうぞ」と返した言葉は、通常の価値観からは発せられるはずもない奇妙な応答=呼びかけであって、有り得ない世界に向ってなにかを促す(なにが現れるかは分かりません)問いかけです。

その問いが「蛸」に象徴されているということなのでしょうか。

鈴木澄子に「それじゃあ、蛸は?」と問い返されたスタッフは、彼女の表情に促されてどう答えたのか、鈴木澄子ならずとも興味津々というところではあります。
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by sentence2307 | 2012-08-26 09:06 | 映画 | Comments(0)

女優・鈴木澄子

1904年(明治37年)10月26日-1985年1月18日 満80歳没)。俳優。初期芸名は鈴木 すみ子(読み同)。東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷)生まれる。女優としての活動期間は、1921年~1978年。

1921年(大正10年)、満15歳のとき、トーマス・栗原(栗原喜三郎)に見出され、前年に設立された大正活映に入社、同年5月11日公開の栗原の監督した短篇映画『喜撰法師』に出演してデビューし、ほかに同監督の『蛇性の婬』にも出演する。同社には俳優として、岡田時彦(当時は野羅久良夫)、井上金太郎(当時は栗井饒太郎)、内田吐夢(当時は閉田富)、二川文太郎らが在籍した。

1922年(大正11年)、同社が製作を停止すると、京都に新設された小笠原映画研究所(小笠原プロダクション)に移籍。

1923年、同所を主宰する小笠原明峯監督の現代劇『三色すみれ三色すみれ Love in Idleness 』小笠原映画研究所に夏川家の女中役で出演したのが本格的な映画デビューとなった。

1924年(大正13年)には東亜キネマ(阪田重則監督『愛の牢獄』東亜キネマ等持院撮影所、山本嘉次郎監督『断雲』 東亜キネマ甲陽撮影所、妹お愛役)に移籍、帝国キネマ演芸(青山杉作監督『山語らず』帝国キネマ演芸東京撮影所)を経て、マキノ等持院へ入社。その年に、帝キネ(山下秀一監督『輝く首途』帝国キネマ演芸)の引き抜きに応じ移籍するが、間もなく解雇。

1925年(大正14年)、マキノ・プロダクションに移籍する。二川文太郎らの監督作(『照る日くもる日』 : 監督第一篇・第二篇 二川文太郎 / 第三篇 中島宝三 / 第四篇 人見吉之助、マキノ・プロダクション御室撮影所)や金森万象監督の『女怪』マキノ・プロダクション御室撮影所で主役の妖婦を演じて才能を開花、怪しい魅力と大乱闘で話題を集め出世作とした。ほかに、「輝く首途」帝キネ、「寺小屋騒動」マキノ御室撮影所の妻浪路役で出演している。

1926年(昭和元年)、マキノ御室撮影所で、「黒白双紙」妾・おすみ役、「めしと女」、「孔雀の光 前篇」妾・かず江役、「孔雀の光 第二篇」加寿江役、「孔雀の光 第三篇」可寿江役、「人生親爺となる勿れ」タイピスト志津子役、「討たるゝ兄弟」三四郎の情婦おふじ役、「祇園情話 春雨草紙 千代香の巻」舞妓千代鶴役、「三千石」芸妓小染のちに平馬の愛妾お千代役、「憤怒」長作の妻おとき役、「女経」、「蝿」、「仇討奇譚 勝鬨」 娘お銀役、「どんどろ堀」情婦おちか役、「バィオレットお伝」お伝役、「佐平次捕物帖 新釈紫頭巾 前篇」および「佐平次捕物帖 新釈紫頭巾 後篇」でともに佐平治女房お秀役、「幻魔」弥生役、「照る日くもる日 第一篇」白峰のお銀役、「恋の丸橋」勝見プロで丸橋女房おれん役、「照る日くもる日 第二篇」および「照る日くもる日 第三篇」で白峯お銀役、「正剣邪剣 前後篇」、「影法師捕物帳 前篇」弁天お栄役を演じた。

1927年、四社競作「砂絵呪縛」で、人気トップの酒井米子と同じ築山妾お酉の役で競い、優劣付けがたいほどの好演を見せた。また、千恵蔵主演『万花地獄』(全五篇、1927-28、中島宝三他)での鳥追ひお妻役で、その座を不動のものとした。そのほか、マキノ御室撮影所で、「おりゃんこ半次」斑猫のお銀役(巾着切)、「喧嘩買兵衛」勝見プロ御室、浅妻太夫役、「影法師捕物帳 後篇」弁天お栄役、「照る日くもる日 第四篇」白峰のお銀役、「万花地獄 第一篇」鳥追ひお妻役、「悪魔の星の下に」水茶屋のお国役、「人間屑」勝見プロ、「万花地獄 第二篇」 鳥追ひお妻役、「道中悲記」飯盛女役、「万花地獄 第三篇」鳥追ひお妻役、「いろは仮名四谷怪談 前篇」および「いろは仮名四谷怪談 後篇」お岩役、「砂絵呪縛 第一篇」・「砂絵呪縛 第二篇」築山妾お酉役、「万花地獄 第四篇」お妻役、「旅の者心中」お町役、「百万両秘聞 第一篇」天花院お花役、「妖婦」、「任侠二刀流 第一篇」烏組のお紋役、「百万両秘聞 第二篇」 天花院お花役、「百万両秘聞 最終篇」天花院お花役、「砂絵呪縛 終篇」お酉役、「任侠二刀流 第二篇」烏組のお紋役で出演した。

1928年(昭和3年)、マキノ省三監督作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』監督補秋篠珊次郎、マキノ・プロダクション御室撮影所に出演したのを最後に、京都を離れ、東京・巣鴨の河合プロダクション(のちの大都映画)に移籍し、杉狂児や松林清三郎らと共演し、演技に磨きをかける。(松本英一監督『娘年頃』 河合プロダクション、丘虹二監督『花井お梅』 および同監督『高橋お伝』 河合映画製作社)そのほか、「斑蛇 前篇」 マキノ御室・生首のおしゅん役、「藩士河原乞食」 マキノ御室・妾濃染役、「倶利加羅峠 愛怨篇」マキノ御室、「任侠二刀流 終篇」マキノ御室・烏組のお紋役、「忠魂義烈 実録忠臣蔵」マキノ御室・清水一角の姉役、「愛怨三世相」河合、「血まみれ双紙」河合、「御用盗三次」河合、「我こそ英雄」河合、「黒田騒動お秀の方」河合、「東海道膝栗毛第一篇 地獄から這上った弥次喜多」河合、「鮮血の扇」河合、「ぬかるみ小路」河合、「四谷怪談」河合・妻お岩役、「湖」河合、「娘年頃」河合、「駒春狂ふ」河合、「獣刃 」河合、「侠魂」河合、「新版東海道膝栗毛第二篇 化かされた弥次喜多」河合、「通り魔」河合、「鱒屋おせん」河合 に出演した。

1929年(昭和4年)には市川右太衛門プロダクションに移籍、市川右太衛門の相手役として活躍する。1929年の出演作は、以下のとおり。「白妖姫 前篇」河合、「白妖姫 後篇」河合、「浮世囃子八人馬鹿」河合、「大前田英五郎」 河合、「阿波の鳴門」河合、「花井お梅」河合、「鬼傑庄八」河合、「闇の街」河合、「妖鬼流血録 第一篇」河合、「異説 番町皿屋敷」河合・.腰元おきく、おきく妹大淀役、「刺青名奉行」河合、「妖鬼流血録 第三篇」河合、「朧月女盗伝」河合、「高橋お伝」  河合、「黒駒の勝蔵 前篇」河合、「黒駒の勝蔵 後篇」河合、「冷眼」右太プロ、「股旅草鞋」右太プロ・妾おつる、「足軽剣法」右太プロ・妻お妙、「かるめん」松竹下加茂、「日光の円蔵」右太プロ

1930年(昭和5年)には再び帝国キネマに復帰(志波西果監督『旋風時代』帝国キネマ演芸)。1930年の出演作は、以下のとおり。「大生殺」右太プロ、「命の灯」右太プロ・莫連女役、「戦線街」右太プロ、「難行苦行」 右太プロ、「原田甲斐」右太プロ・お浜役、「飛ぶ唄」右太プロ・照吉役、「女賊おすみ」帝キネ、「女人群像」帝キネ、「恋のからくり」帝キネ、「鈴木新内 前篇」帝キネ、「旋風時代」帝キネ、「切られお富」帝キネ

1931年(昭和6年)、帝国キネマの新興キネマへの改組にあたり、継続入社し、沖博文 監督『牢獄の花嫁』阪東妻三郎プロダクション・新興キネマ、岡山俊太郎監督『月形半平太』監督、阪東妻三郎プロダクション・新興キネマなどに出演した。ほか1931年の出演作は、以下のとおり。「権八伊達姿」帝キネ 、「女天一坊」帝キネ、「堀江六人斬 妻吉物語」帝キネ、「天保水滸伝」帝キネ、「未亡人」帝キネ、「仇討日本晴 孝の巻 曾我兄弟」帝キネ、「仇討日本晴 忠の巻 大石父子」帝キネ、「弥次喜多道中東海道」帝キネ・野曝しのお六役、「阿波十郎兵衛」帝キネ、「お岩長屋」帝キネ太奏・お岩役、「ルンペンの熊公」帝キネ、「風雲長門城」阪妻プロ・おうの、「戸並長八郎」寛プロ=新興、お滝役、「阿波の十郎兵衛」新興・女房お弓役、「地雷火組」新興・天人お吉役、「牢獄の花嫁 前篇」阪妻プロ・郁次郎の許婚花世、玉枝役、「牢獄の花嫁 解決篇」阪妻プロ・郁次郎の許婚花世、玉枝役、「月形半平太」阪妻プロ・染八役

1932年の出演作は、以下のとおり。「満州行進曲」 新興・流浪の女給可奈子役、「新釈黒田騒動」新興・弥惣次の妹あざみ・のちのお秀の方役、「上海」新興・天龍の妾天花役、「神変麝香猫 悲願復讐篇」阪妻プロ・湯女お林、「笑ふ父」新興・妊婦、「神変麝香猫 大江戸戦慄篇」阪妻プロ・湯女お林役、「神変麝香猫 火焔解決篇」阪妻プロ・湯女お林役、「明暗三世相 前篇」新興・上野介の妾お紺役、「女大学誓の巻」新興・松の家のお和歌役

1933には寿々喜多呂九平監督『鏡山競艶録』 新興キネマと溝口健二監督『祇園祭』 新興キネマに出演した。そのほかの出演作は、以下のとおり。「鏡山競艶録」新興・岩藤役、「妖魔の絵暦」新興・女賊るゐ、「お富与三郎 恋の双六」新興・お富、「恋慕吹雪」  新興・恋慕流し秋風のお妻役、「春雪女歌舞伎」新興・女歌舞伎お志摩役、「間貫一」新興・高利貸赤樫満枝役、「さけぶ雷鳥」新興・柳沢吉保の養女おちゃら役、「くらやみ河岸」新興・柳橋滝の家芸者小万役、「左門恋日記」新興・踊りの師匠中村由賀里・実はお里役、「祇園祭」新興・女義太夫豊竹宮之助役、「青春街」新興・真砂子役、「侠艶録」  新興・美貌の女役者阪東力枝役、「おさだの仇討」新興・常盤津の女師匠文字定役

1934年石田民三監督『おせん』新興キネマでは、水茶屋女を好演して代表作とした。そのほかの出演作は、以下のとおり。「伊達事変」新興・側女初子のちの政岡役、「若衆髷」新興・お北役、「おせん」新興・水茶屋の女笠森おせん役、「女心双情記」新興・女歌舞伎萬屋金太夫役、「前科もの二人女」新興・女盗松島お仙役、「玉菊燈籠」新興・秋葉屋玉菊役、「仇討妻恋坂」新興・矢場の女おせん役、「万五郎青春記」新興・お夏役、「花咲く樹 前篇 なみ子の巻」新興・おつた役、「花咲く樹 後篇 エマ子の巻」新興・おつた役

1935年の出演作は、以下のとおり。「お江戸春化粧」新興京都・だるま落しのお蝶役、「明治十三年」新興京都・くらがりお粂役、「黄門漫遊記」新興京都・女掏摸のおもん役、「お伝地獄」新興京都・浪之助の妻お伝、「江戸の坩堝」新興京都・斑猫のお滝役、「活人剣 荒木又右衛門」寛プロ・池田候奥方役、「怪談津之国屋」新興京都・常磐津の文字春役、「白牡丹」千恵プロ・お喜和役、「妖炎菩薩」新興京都・芝の女掏摸お加代役

1936年の出演作は、以下のとおり。「太閤記 藤吉郎出世飛躍の巻」新興京都・北の方役、「春色五人女」新興京都・深川の芸者仇吉役、「浪人囃子」新興京都・女巾着切りのお仙役、「文政妖婦伝 姐妃殺し」新興京都・桑名屋の女中お百役、「夜嵐お絹」新興京都・夜嵐お絹こと原田絹役、「悲恋嵐の道」新興京都・妙子、「海道百里」新興京都・十五夜お綱、「浪人大将」新興京都・霞のお千代役、「伊達競艶録」新興京都・乳人政岡役、「児雷也 前篇 妖雲之巻」新興京都・網手役

1937年(昭和12年)、木藤茂が監督した『佐賀怪猫伝』新興京都に大友柳太郎とともに出演、初めての怪猫物に挑戦したこの作品が大ヒットすると、次々と怪談映画が作られ、化け猫女優として多くの怪談映画に主演した。そのため「化け猫女優」として知られるようになった。そのほかの出演作は、以下のとおり。「児雷也 後篇 変幻之巻」新興京都・網手役、「佐賀怪猫伝」新興京都・丹後守の愛妾お豊の方役、「おつる巡礼歌」新興京都・妻お弓役、「寺小屋」新興京都・松王の妻千代役、「本朝七不思議」新興京都・ 主膳の妾満津江役、「いろは仮名 四谷怪談」新興京都・左門の娘お岩役、「仇討天下茶屋」新興京都・小料理屋の酌婦お艶役、「女賊と捕手」新興京都・女賊白狐のお滝役、「変化如来」新興京都・岡っ引き長兵衛の娘川風のお島役、「有馬猫」新興京都・有馬中務頼貴の侍女お仲役、「旗本伝法 竜の巻」新興京都・扱荷屋のお勢以役、「旗本伝法 虎の巻」新興京都・扱荷屋のお勢以役、「足軽大名」新興京都・殿の伯母君萩の局役

1938年(昭和13年)には、伊藤大輔監督『薩摩飛脚』新興キネマ京都撮影所や寿々喜多呂九平監督『鏡山競艶録』新興キネマ京都撮影所、牛原虚彦監督『怪猫謎の三味線』 新興キネマ京都撮影所、森一生監督『怪猫赤壁大明神』新興キネマ京都撮影所に出演した。そのほかの出演作は、以下のとおり。「怪談鴛鴦帳」新興京都・吉春の愛妾時鳥役、「怪猫五十三次」新興京都・淀君の侍女お秀役、「妖魔白滝姫」新興京都・白滝役、「右門捕物帖 張子の虎」新興京都・桐藤の女将お藤役、「薩摩飛脚」 新興京都・女道中師お蘭役、「鏡山競艶録」新興京都・局岩藤役、「右門捕物帖 呪の藁人形」 新興京都・お妙役、「怪猫謎の三味線」 新興京都・ 女役者阪東三津枝役、「怪猫赤壁大明神」新興京都・伊兵衛の後妻お梅役

1939年(昭和14年)には、野淵昶監督『紫式部』新興キネマ京都撮影所や、西原孝監督『笠森おせん』新興キネマ京都撮影所に出演した。そのほかの出演作は、以下のとおり。「中将姫」新興京都・豊成の後室照夜の前、「女自来也」 新興京都・寄席の女水芸師水木京之助、「三十三間堂の由来 お柳怨霊」新興京都・茶屋の娘お柳、「紫式部」新興京都・和泉式部、「怪談狂恋女師匠」新興京都・清元の師匠延志賀、「暴れだした孫悟空」新興京都・羅刹女、「笠森おせん」新興京都・笠森おせん、姉で柳橋の芸者小富、「女百万石」新興京都・浅尾局

1940年(昭和15年)には、藤原忠監督『山吹猫』新興京都ほかに出演した。1940年の出演作は、以下のとおり。「山吹猫」新興京都・庄司馬の娉お由良役、「照る日くもる日」新興京都・女賊白峰のお銀役、「金毛狐」新興京都・行綱の娘藻のちに玉藻の前役、「大岡政談 通り魔」新興京都・おゆう役、「忠孝染分手綱」新興京都・丹波亀山の城主由留木家のお乳人重の井役

1941年(昭和16年)、吉田信三監督の『羅生門』新興キネマ京都撮影所に茨木の童子小百合役で主演したのち、この作品を最期に映画界を去った。

1942年(昭和17年)の戦時統制による同社の大日本映画製作(のちの大映、現在の角川映画)への統合にあたり退社、「鈴木澄子一座」を結成して実演の巡業を開始した。

記録によると、戦後・1958年に深田金之助監督の『怪猫からくり天井』東映京都撮影所作品にて秋篠役で出演した。その他、テレビドラマ『白い巨塔』監督小林俊一・青木征雄、フジプロダクション、田宮企画1978~1979に出演している。

1985年(昭和60年)1月18日、脳出血のために死去。彼女の死が報じられたのは、歿後7ヶ月も経ってからのこと。享年80歳。生涯で200作を超える映画に出演した。
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by sentence2307 | 2012-08-26 09:01 | 映画 | Comments(3)

戦火の中へ

韓国の李明博大統領が、竹島に上陸したという記事が、昨日の朝刊に写真付きで出ていました。

「なんでこの時期に」という疑問に答えるかのように、その記事の最後に、こんな記述がありました。

「歴代大統領が自重してきた竹島上陸の強行は、12月の次期大統領選で実質的に任期が切れる李大統領が、同島の占有を鮮明にして国民の支持を得て、政権の求心力を回復する狙いとみられる。」

な~んだ、そんなことかと思うか、とんでもねえヤローだと思うかはとにかく、その大統領の自国民へのオモネリというか無様な迎合の猿芝居を見ていると、韓国民の多くが、いまだに日本の植民地支配の恨みを執念深く持ち続けていて、日本を挑発したり叩いたりすれば、ただそれだけで溜飲を下げて喜ぶという低俗な国民性が窺われる背景があっての、今回の竹島上陸のパフォーマンスであり、それは、例の「10日に行われたロンドン五輪サッカー男子の日本対韓国戦で、韓国選手が試合後に竹島(韓国名・独島)の領有を主張するメッセージを掲げたとして、国際オリンピック委員会(IOC)のマーク・アダムス広報部長は11日の定例記者会見で調査に乗り出す方針を示した。」などという愚かしいパフォーマンスにつながるものだったのだと思います。

しかし、はっきりいって、その卑屈な執念深さと、反面、金儲けのためには、そのような敵対国民に対しても全身全顔美容整形手術の薄気味悪いロボ笑みをつくった娘たちが目を覆いたくなるような卑猥な尻振りダンス(あれがダンスといえるかどうか、もはや風俗ぎりぎりの卑猥さとしか思えませんが)を公然とみせるというあの奇妙な二面性が、よく理解できません。

いや、むしろ、金のためなら貞操を売ることなんてなんでもないのだと割り切り、躊躇なく卑猥に腰をくねらせる、合理的というか、節操がないというか、むかしからそういう国民性なのだというなら、いま被害者づらしてわめき立てている例の「慰安婦」問題にしても、意地汚い金拝主義の、また違った側面が、かいま見えてくるかもしれません。

満身創痍の彼女たちを見ていると、低俗な国民性と容貌の(頬骨)劣等感の裏返しのような痛ましい虚勢の浅はかさに胸が痛みます。

儒教の国なら「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始なり」くらい分かれ、いい加減。

二国間の友好関係を育み、成り立たせようとしたいのなら、最低限の条件というかマナーがあって、その辺りをしっかりと理解し実行することができなければ、たとえ、猿知恵でノウハウを盗み取り類似品を捏造し、詐欺まがいで特許をとり、その安物の粗悪品をダンピングで大量に売りさばいて市場に伸したとしても、そんな認識違いの姑息な考えでは、まだまだ国際社会で活動する資格がないと言わざるを得ません。

一方で、ミサイルを打ち込まれて死者もだし、とにかくやりたい放題蹂躙されている北朝鮮に対しては、ミサイルを打ち返すどころか、捕虜の公開処刑を行うなどということもまったくなく、卑屈に笑ってなんでも許してしまうようナニコレ的な理解不能・無気力な部分とが奇妙に併存して、なんだかよく分からないというのが実感で、まさに驚異(呆れかえる、という意味です)というしかありません。

その辺が、いまだによく分からない、と感じていたところ、そうそう、以前見た「戦火の中へ」という韓国映画を思い出しました。

当時、なぜ、その作品を見ようと思い立ったかというと、解説に「朝鮮戦争で生命を落とした学徒兵の実話を映画化した作品」と書かれてあったからでした。

朝鮮戦争当時、世界を支配していた左右の二大イデオロギー勢力の代理戦争によって犠牲となり祖国は分断させられたという苦々しい題材です、朝鮮民族にとっては、身を切られるような深刻で痛切な映画にならないわけがない、という感じがあったので、これは是非とも見ないわけにはいきませんでした。

【1950年6月に始まった朝鮮戦争で、北朝鮮の死者は250万人、韓国市民100万人、韓国軍人5万人、米国人5万4000人、中国軍人100万人。(J・ハリデク「朝鮮戦争」岩波)南北朝鮮の合計死者数が355万人というから、太平洋戦争での日本人死亡者221万人をはるかにうわまっている。アメリカ軍人の死者も、ベトナム戦争の時より1万人も多い。】

同じ国民同士が殺し合い、実に、併せて350万人の死者がでたという戦争です。

どうしたって、僕の頭の中には、今井正の「ひめゆりの塔」だとか、山本薩夫の「戦争と人間」や市川監督の「野火」の沈痛なイメージしかありませんでした。

その痛切な記憶からすれば、どう作ったって深刻なものにならないわけがないと考えたのだと思います。

しかし、実際の映画を見てびっくりしました。

これでは、ただ観客をスカッとさせるためだけに作られた単なる戦争活劇アクション映画です、北朝鮮軍から同胞を殺された怒りとか、自国民同士で戦わなければならない者の苦悩とかが描かれているわけではありません。

そこには、殺し合うことの逡巡も迷いもない。

それなら、そもそも、描かれる戦争が、わざわざ「朝鮮戦争」である必要があるのかと疑いたくなるような、ただのドンパチ映画です。

しかも西部劇のような甘ったるい情感も郷愁さえもないし、当然「無残な戦争」に対するメッセージが描き込まれているわけでもありません。

そんな感じで、いつの間にか、その無味乾燥な出来損ない映画のことなど忘れかけていたときに、今回の「韓国大統領の竹島上陸」の報に接しました。

そして、そのとき、はじめて、あの映画「戦火の中へ」のチグハグさの意味が分かりました。

彼らは、もっとも重要な問題・北朝鮮と向き合い、直視するということを避けつづけ、ただ顔を背けるために、あらゆる「正攻法」を歪め、回避し、そのカモフラージュのために、あえて見当はずれな「唐突な竹島上陸」と同じ愚劣な思考経路でもって、痛切なはずの「朝鮮戦争」の核心を描くことのないまま、あの戦争を「戦争活劇」としてしか描けないでいるのだということが分かったのでした。

北朝鮮という国が、もはや、すっかり別の国家であるのに、そのことから目をそらし、もし近い将来のいつか「統一」ということが実現するとすれば、それは、どちらかの国がどちらかの国を圧倒的な軍事力をもって制圧し、民間人を殺戮し、家々を焼き払い、徹底的に屈服させ、戦意を失った一方の国が、もう一方の国に飲み込まれてしか決着のつきようがない絶望的な未来が極めて高い確率で約束されているのに、いまだにその歴然たる事実から目をそらすばかりか、絵空事の「戦争活劇・朝鮮戦争」しか撮れない開き直った愚鈍さ、そしてその作品そのものがまさに韓国という国の「限界」と行き詰まりを示していたのだと思い至りました。

(2010韓国)製作・チョン・テオン、監督・イ・ジェハン、脚本・イ・マニ、音楽・イ・ドンジョン
出演・チェ・スンヒョン、クォン・サンウ、チャ・スンウォン、キム・スンウ、 パク・ジニ、キム・ヘソン、ムン・ジェウォン、
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by sentence2307 | 2012-08-12 14:39 | 映画 | Comments(2)
家が狭いために、少し溜まってしまった古新聞をそのまま放置し散乱させるままにしておくと、すぐに生活するスペースの方が脅かされて大変なことになるので、週が変わればこまめに結束して部屋の隅に積み上げておき、背の高さにならないうちに処分することにしています。

そんなわけで、オリンピック観戦の合間に、先月の「日経新聞」を結束していたら、たまたま映画評論家・佐藤忠男が書いた山田五十鈴の追悼文の記事を見つけました。

全然読まないうちに危うく捨ててしまうところでした。

日付は7月11日の朝刊。

ウィークデイの新聞だったので、朝の忙しさにまぎれて、きっと、この追悼文の掲載されている最終面までは、目が届かなかったのだと思います。

だいたい、ページの多い(この日の日経新聞の最終ページは、36ページでした)厚い新聞を隅から隅まで気を入れて読むためには、特に遅読の自分には、ゆうに丸一日は必要です、せめて大見出しだけでも目に止めておくようにしているつもりだったのですが、その面さえ見ていないことが、この佐藤忠男の「山田五十鈴の追悼文」の記事を見過ごしていたことではっきりしました。

とにかく、新聞の結束作業が、いつもなかなか捗らないのは、大抵こういうことがあるからなんですよね。

最近は、株価低迷とか、投信とかも振るわないので、ちょっと前までは、張り切ってやっていた新聞記事のスクラップなんかも(たぶんショックで)、怠けがちです。

目に付いた景気のいい経済記事を切り抜いて、せっせとスクラップしていたその時は、目についた映画関連の記事も一緒に切り抜いていたものですが、将来の展望が開けないお先真っ暗な現在、低迷地獄に足を取られっぱなしで気力までもが萎えてしまい、そんな元気も出てこず、なんだか欝状態の感じです。

でも、そんなことではいけません。

切り抜きとかはできないまでも、気になった記事くらいは、チェックして、せめてこのブログに書きとどめておくくらいはしておかないといけませんよね。

さて、「堂々と生きた大女優・山田五十鈴さんを悼む」と題された佐藤忠男の追悼記事の要約を筆写しておこうと思います。

記事は、ニューヨークにある日本文化紹介機関が日本映画の名作特集を行ったとき、作品の選択にあたったアメリ人の著名な女流評論家が、まず選んだ作品というのが、溝口健二の「祇園の姉妹」1936で、彼女は、そのオープニング挨拶で「こんなに早い時期にこれだけ堂々と女性の人権思想を表現した映画の傑作は、世界にもちょっとないのではないか」と話していたと紹介し、機会があったら、ぜひ山田五十鈴に話しておきたかったと書き出されています。

まあ、この書き振りからすると、「ついに、伝えることができなかった」と読むべきで、そこから、佐藤忠男と山田五十鈴の距離が推し量れるかもしれません、というより、山田五十鈴の女優としての生き方の「孤高さ」みたいなものを感じ取るべきなのかもしれません。

それから、人気俳優と売れっ子芸者という両親を持った彼女が幼児の頃から芸事をきっちりと仕込まれた生い立ちが書かれ、彼女の名を大女優として日本映画史に留めた6本の作品が紹介されています。

まずは、溝口健二の「祇園の姉妹」と「浪華悲歌」。客の男たちを手玉にとって復讐される芸者・おもちゃ(壮絶な源氏名です)を演じた「祇園の姉妹」と、頼りない父や兄のために美人局をやって警察に捕まる電話交換手・村井アヤ子を演じた「浪華悲歌」。

佐藤忠男は、この2作品についてこんなふうに言っています。

「どちらも世間の目からは不良少女にし見えないが、本人の気持ちでは男性優位社会の矛盾に体当たりの抵抗を試みているつもりという役である。
この2本の山田五十鈴の、勝手な男たちに対して腹の底から抗議する演技の迫力は圧倒的で、日本映画にリアリズム演技を確立したものといっても過言ではない」

確かにその通りだと思います、まあ、どちらでもいいことかもしれませんが、紹介の順序を佐藤忠男は、「祇園の姉妹」から「浪華悲歌」というふうに書いていますが、あえて封切りの順にこだわれば、「浪華悲歌」が1936年5月28日で、「祇園の姉妹」が1936年10月15日ということですから、やはりここは、「浪華悲歌」があって「祇園の姉妹」があったというふうに並べたら、家庭に落ち着くべき居場所を失った不良少女が、追われるように辿り着いた花柳界でも、したたかに伸していくという図式が成り立ち、あるいは、すんなりと理解できるような気がしました、私見です。

そして次は、成瀬巳喜男の「鶴八鶴次郎」1938、
「美しい情感に溢れる芸道ものであり、人情ものであり、そして、一種の悲恋ものである。相手役は長谷川一夫。こんなに見事に日本の大衆芸能の演技術の精髄を身につけた芸達者同士の共演というのは滅多にあるものではない」と記しています。

互いに惹かれあいながら、「芸」の一点では、どうしても相手に譲ることができずに袖を分かつしかなかった恋人たちの物語なのですが、考えてみれば、このストーリーは、思えば山田五十鈴の生涯そのものを暗示していたんだなあとつくづく感じました。

多分、そこで描かれていた「芸」とは、自尊心とか矜持とかという「気高さ」につながるものだったとしたら、その一方で、彼女が退けた「愛」とは、迎合とかおもねりとか、自己犠牲だとか自己欺瞞だとか、とにかく相手のために自分を殺さなければならない「卑屈さ」にしかつながり得なかったものと理解していたのかもしれません。

その次は、衣笠貞之助の「女優」1947。奇しくも山田五十鈴から卓越した演技を引き出した溝口健二監督・田中絹代主演で製作された競作となったもので、田中絹代の演技が「自由→孤独と自滅」しか表現され得なかったものに対して、山田五十鈴の凛とした生き方を反映するかのような「自由→謳歌と自立」の演技が圧倒的に評価された作品でした。

佐藤忠男は、こんなふうに記しています。
「日本の新劇の最初のスター女優である松井須磨子の伝記映画である。
彼女が演出家からイプセンの『人形の家』の講義を受け、女が子供を置いて家を出ていいものかどうかと質問され、きっぱりとそういうヒロインのノラの行動を肯定する答えをする。
その時の山田五十鈴の凛とした表情が忘れがたい」

う~ん、これもまた、山田五十鈴の生き方そのものだったわけですね。

そして、次の亀井文夫の「女ひとり大地を行く」1953では、「炭鉱で働く女の一生を演じるなど、大スターの立場をかなぐり捨てたような行動で周囲を驚かせたり」、黒澤明の「蜘蛛巣城」1957では、「マクベス夫人に相当する役を、能の身振りを取り入れて演じるという彼女ならではの演技で見事にやってのけたり、日本映画界で別格の大女優であり続けた」としたうえで、例の「男は芸の肥やし」と言われたのか、あるいは自ら言ったかの、終生にわたって彼女にまとわりついたスキャンダルについて、こう言っています。

「山田五十鈴を語る場合、省略するわけにいかないのは何度も結婚や同棲を繰り返したことである。
男女関係が厳しく見られていた時代にあって、彼女の場合は例外的にそれがスキャンダルとして扱われなかった。
あまりに堂々としていたことと、それが彼女自身の芸の進展や思想の模索と明らかに結びついていて、色ごとというにはむしろ爽快なくらいだったからである。」

う~ん、なるほど、この文章からすると、佐藤忠男は、山田五十鈴が「男は芸の肥やし」としていたという見方を暗に肯定しているかのような感じを受けますね。

しかし、僕の感じ方からすると、義務教育を満足に受けることができず、早くから芸界に身を置いた彼女にとって、概念としての「演技」や「思想」というものに漠然とした憧れがあり、それがたまたま身近な「男」の形をとって具現化したと感じたのではないか。

そこでの「男」は、あくまでも「演技」や「思想」というものの属性でしかない。彼女が憧れていた「演技」や「思想」の部分を吸収しマスターしてしまえば、あるいは、もっとはっきり言って、それらのエッセンスを吸収し終わった残滓としての男たちの「底」が見えてしまえば、単なる「属性」などと一緒にいる必要がなくなったということではなかったかなと漠然と考えています。

こういってしまえば、やっぱり「男は芸の肥やし」ということか、う~ん、どうなんだ。

やれやれ、今日も新聞の結束に失敗しました。

新聞の高さもいよいよ背を超えてしまったぞ。ど~すんだよ、まったく。
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by sentence2307 | 2012-08-12 11:17 | 映画 | Comments(0)

津島恵子、逝く

昭和の名女優が、立て続けに亡くなってしまい、なんともやりきれない淋しさを感じています。

女優津島恵子が、8月1日午前10時20分、胃がんのために入院していた都内の病院で亡くなられたという記事を見ました。

86歳だったそうですね。

あの終戦の動乱期、生き抜くために人々の気持ちは荒み、ケダモノのように生きることを余儀なくされていた時代に、奇跡のような清楚と気品、そして凛とした気高さをもって銀幕に登場した女優のひとりとして、多くの観客に、「時世」なんかに汚されることなく、人として誇り高く生きることの意味と、そしてなによりも生きる勇気と希望を教えてくれた女優だったと思います。

追悼の意味でも、彼女の偉大な業績を偲ぼうとWikipediaを覗いてみました。

そして、その紹介記事のあまりの貧弱さに驚いてしまいました。

そこには、こんなふうに記されているだけでした。

東洋音楽学校(現・東京音楽大学)中退。
1947年、松竹映画『安城家の舞踏会』でデビュー。
以降、日本を代表する女優として数々の映画・テレビドラマに出演。
なかでも、黒澤明監督の『七人の侍』や今井正監督の『ひめゆりの塔』での演技が、知られている。
ほかの主な出演作に『お茶漬の味』『浮草日記』『なごり雪』などがある。
東宝副社長を務めた森岩雄は義父にあたる。
2012年8月1日、胃がんのため東京都内の病院で死去。86歳没。
代表作の一つである『七人の侍』で志乃を演じたが、監督の黒澤明は「志乃はお転婆な娘というイメージで創ったけど、津島君はどちらかと言えばお行儀の良いタイプだった」と語っている。

えっ~、たったこれだけ!。

既に亡くなられた日時までしっかり書かれているのですから、つい最近の書き込みだとは思いますが、それにしても、この素っ気ない記事のどこに津島恵子が日本映画に刻印した偉大な足跡を読み取ればいいというのか、彼女の業績って「こんなものだったのか?」と考えているうちに、なんだか憤りに近い感情が湧き上がってきました。

つまらない机上のクリックなんかに「追悼」の意味なんて込めなければよかったという猛烈な後悔の念におそわれました。

それに、ここに付されている黒澤明のコメントなんかも配慮を欠いた蛇足です。

たしかに黒澤明は、映画作りに関しては「天才」だったかもしれません、しかし、それは優れた技術者(晩年の失速と変節をみれば、理念なき技術者というしかありません)という意味にとどまるだけで、それを神様みたいに崇め奉り、彼の遺したその場限りのつぶやきを賢者の福音みたいに、なんでもかんでも引用するというのは、いい加減やめた方がいいような気がします。

だいたい、黒澤明という人は、その場の感情で身勝手に放言し、彼の才気を慕って集まってきた本当に大切な人々を傷つけ遠ざけ、結局最後には「イエス」としか言うことのできない盲従の太鼓持ちだけに取り巻かれて、まるでリア王の孤独な晩年と同じ境遇にあったことは誰の目にも明らかなのですから、そのような彼の「言葉」に、もったいぶった意味づけだとか余計な含みなど持たせない方がいいと思います。

そうそう、そのことに関して最近感じたことをちょっと書いておきますね。

何年か前、ある上映会で、木下恵介の「肖像」という1948年度作品が掛かっていたのですが、そのときは、たまたま所用があって時間の都合がつかず、ついに見る機会を逸してしまいました。

その後、この映画「肖像」という作品名をあちこちで見かけるたび「見なければ」と意識すればするほど、なんらかの支障が生じて見ることができない状況が続きました。

こう何度も振られ続けると、なんだか、だんだん「どうしても見たい」という気持ちだけが煽られ、焦燥感だけが募っていく変な感じになってきました。

振られ続けのダメ男が意地になって付きまといを執拗に続けて立派なストーカー男に成長していく歪んだ気持ちが少しだけ理解できたくらいです。

そんな消化不良の感じを持て余し、仕方なく、暇なときに「肖像」という作品の概要だけでも知りたいと思い、資料を読んでいたら、この映画の脚本が黒澤明のものであることをはじめて知りました。

木下恵介が、黒澤明の「らしさ」を期待して依頼した脚本だったようですが、出来上がった脚本は、骨太で荒々しいものとは程遠い、俗物が芸術の純粋性に目覚めるというなんだか弱々しい物語でした。

木下監督は、自分の作風に配慮してくれた黒澤明の善意と、あえて解釈しました。

この話には、後日談があって、出来上がった作品を見て、黒澤明は木下恵介に「自分なら、そうは撮らない」とズケズケ木下監督に言ったと伝えられています。

その後、二人の関係がどうなったのか、それ以上資料には書かれてはいませんでしたが、もう少し言い方に気遣いとか思い遣りとか謙虚さというものがあってもいいのかなという感じはします。

津島恵子の志乃役について黒澤明が語ったという「志乃はお転婆な娘というイメージで創ったけど、津島君はどちらかと言えばお行儀の良いタイプだった」も取りようによっては随分失礼なコメントのような気がします。

実は、自分も「七人の侍」のなかで志乃が洗髪をしている姿を背後のローポジションからあおって撮った妖艶なシーンについての感動というか欲情を刺激されたことについての告白的コメントがあるのです。

《黒澤明は、幾分ローアングルで、背後から洗髪している津島惠子演じる志乃をとらえます。
両肌脱ぎになった着物を、胸の少し上あたりで強く引き絞って結び、そのふくよか胸が、脇の下あたりの肉の盛り上がりに強調されて、うっすらと脂肪ののった艶めいた背中から、豊かに張った腰にかけての官能的な曲線は、モディリアーニの裸婦像を見ているような恍惚感さえ覚えてしまいます。
父・万造の気配に肩越しに俯き加減で振り向く津島惠子のつややかな黒髪の中の彼女の戸惑いの表情も実に美しく、不意に振り向く志乃に直視されることになる観客は、盗み見を咎められたような戸惑いで、思わず視線を逸らし気味にしてしまうくらいです。》「七人の侍」より

あんなにも妖艶な肉体をもっていた若き女優も、僕の知らない場所で確実に老いを重ね、亡くなってしまったことについて、「人は確実に老いて、そして死んでいくものなのか」というなんとも未熟な衝撃を感じています。

心よりご冥福をお祈りいたします。
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by sentence2307 | 2012-08-05 13:33 | 映画 | Comments(0)

武士の家計簿

ある一大決心をしました。

最近、パソコンのなかの書きかけて放ったらかしにしてある未完の雑文を片っ端から消去してしまおうと思い立ったのです。

年始めにほんの数日だけ書き始めた日記風のものもあれば、タイトルとほんの書き出しだけ記された映画の感想らしきものもあります。

成績不振にあえぐ投資信託を整理しようかと、基準価格の安い銘柄や一定の成績を維持している優良銘柄を順番に書き出したものもあります。

もっとも、これは、あれこれ検討しているうちに、さっさと手持ちの銘柄が加速度をつけて値下がり、対処できるような状態のダメージどころではなくなり(換金すれば大損が明らかになるので、ここは仕方なく)、景気の回復を待ってそっと眠らせておくしかないものばかりという、暴落する「事態」に無理やり押さえ込まれて、いまさらチャラチャラした「検討」などやってみても仕方ないという自嘲気味の惨憺たる途絶に終わった、まさにムクロのような雑文まであります。

そうそう、その雑文の中に、「武士の家計簿」もありました。

とにかく一生懸命感想らしきものをまとめようと四苦八苦している様子が、その文面からはうかがえます。

この作品を見る前には、磯田道史の原作本も読んでいたので、一定の長さの文章をでっち上げるくらいの予備知識なら、自分の中には十分に入っていたはずでした。

それがなぜ書き切れなかったのか、今回、久しぶりに途絶した感想文を読み直してみて(当然、中絶した原因がどこら辺にあったのかを考えながら)、あることに気がつきました。

磯田道史の本を「原作本」と考えてしまったことが、そもそもの間違いだったのではないか。

磯田道史の「武士の家計簿」に一貫して書かれているのは、映画で描かれているような「家族愛」でもなければ、清貧に耐える下級武士の誠実さでもない。

むしろ、一人の若き学者が古文書の中から貴重な資料を探し当てて喜びに驚喜する研究者の躍動感がまずは全編に脈打っているのであって、「下級武士の生活の実態」の方は、それほど熱心に跡付けられているわけではない、という印象をもちました。

つまり、この映画「武士の家計簿」という作品のなかに描かれた「家族愛や清貧に耐える下級武士の誠実さ」は、まさに二の次で、この原作本と映画作品の溝というか乖離が、もうひとつ文章の推進力を鈍らせた原因だったかもしれません。

しかし、本当に「それ」だけか、というもうひとつの思いが僕の中にはありました。

いってみれば、それはごく単純な思いです。

加賀藩御算用者・猪山直之は、勤めばかりでなく、家庭においても詳細な収支を家計簿のように記録した、というのが本にも描かれ、映画でも描かれたこの物語の共通する揺るぎない「事実」です。

でも、どうでしょう。

僕たち、経理の門外漢からすると、少なくとも「家計簿」というのは、経済状態をいまよりは少しでも改善させる、収支を詳細に記録することによって経済を好転させようという目標がなければわざわざ記載する意味がないように思えるのです。

ここに描かれているのは、封建社会でお城勤めを続ける猪山家は、多くの武家たちがそうであったように、武士たる対面を保つために当然のような借金を重ねながら困窮におちいっていたのであって、その公然たる「困窮」に対して「家計簿」によって本当に(図式的に、ですが)立ち向かおうとしたと考えたのか、というのが疑問なのです。

猪山家の困窮の原因は、身分不相応な贅沢や散財にあったのではなく、武家社会というシステムに起因していたのであったのだから、家財を売り払い禁欲生活を家族に強いてまで家計の健全な収支の均衡をはかるという発想が他の武士たちにもあったかどうか、すこぶる疑問でした。

当然のように「困窮」におちいるはずのお城勤めの同僚の薄給武士たちが、皆ことごとく経済的破綻をきたしたかといえば、どうもそうでもないらしい。

きっと、そこには、強権的・超法規的な「借金踏み倒し令」とか、あるいは、日常的な賄賂や「袖の下」が公然と行われ、武士の家計を維持させ潤わせていたという熾烈な現実があったに違いありません。

貧窮の中で家族が身を寄せ合い助け合う姿は、そりゃあ感動的ではあります。

感動的ではありますが、その誠実の前にもっと大きな歪みが存在したことに「釈然としない思い」というか、拭えない無力感というものをついに自分の中で処理できず、結局、僕の雑文は未完のままに終わったのだと思います。

武士がせっせと家計簿をつけていたという意外性よりも、俸給以外の臨時収入によって家計簿など必要としないくらい潤っていた武士のシステムとしての腐敗を描かないまま、その御算用の技術によって明治政府に重用され(そういう意味では、明治政府自体の中にも「腐敗」はあったはず)、栄達を遂げる息子を自慢気に描く振り返りの視点に承服できないものがあったのかもしれません。

(2010『武士の家計簿』製作委員会、松竹)監督・森田芳光、脚本・柏田道夫、音楽・大島ミチル、主題歌(イメージソング)Manami「遠い記憶」、撮影・沖村志宏、プロデューサー・元持昌之、アソシエイトプロデューサー・岩城レイ子、三沢和子、コ・アソシエイトプロデューサー・真壁佳子、池田史嗣、エグゼクティブプロデューサー・原正人、飛田秀一、豊島雅郎、野田助嗣、制作・エース・プロダクション、制作協力・松竹京都撮影所、企画協力・新潮社、『武士の家計簿』製作委員会・アスミック・エースエンタテインメント、松竹、北國新聞社、電通、ティーワイリミテッド、Yahoo! JAPAN、テレビ朝日、衛星劇場、住友商事、金沢経済同友会、配給・アスミック・エースエンタテインメント、松竹
出演・堺雅人、仲間由紀恵、伊藤祐輝、藤井美菜、松坂慶子、草笛光子、中村雅俊、西村雅彦、嶋田久作、山中崇、井手浩一朗、宮川一朗太、小木茂光、茂山千五郎
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by sentence2307 | 2012-08-04 08:14 | 映画 | Comments(7)

柔道高島田

オリンピックの男子柔道が、金メダルをひとつも取れなくて、だらしないぞ、どうなってんだ、なんて書き込みをあっちこっちで見かけます。

確かに、もはや体格は見劣りしないにもかかわらず、なんだか気後れでもしているのか、動きが鈍く、されるがままに振り回され、失点をしてから、やっと気がついたかのように慌てて足払いなどをしているうちに時間切れの判定負けなんていう試合ばかりでした。

しかし、不甲斐ないということは、まあそうなのかなという感じはしますけれども、そもそも、日本の柔道が勝てないようにどんどんルールを変えていったジャパン・バッシングの結果が、いまのヨーロッパ柔道のカタチになったのだということを考えると、それでも日本選手に、どうして勝てない、どうして勝てないと非難するのも、なんだか酷な気がします。

ちゃんと組み合って、おたがいに間合いを計りながら呼吸で技を掛け合うというのが武道たる日本柔道の真骨頂だと思うのですが(「七人の侍」の久蔵の決闘シーンを見てくれよ)、現在オリンピックで行われている柔道ときたら、やたら動き続けていなければ戦意がないとかなんとか喧しく注意されて減点され、審判をオドオドチラチラ窺いながら、お互いにポーズだけのこれみよがしの技を仕掛け合い(運が悪いと掛け逃げと判定されますが)、ただ相手の減点をじっと(あるいは、こちょこちょと)待つために時間稼ぎをやっているだけのようにしか見えません。

しかも、仕掛けること(技なんてものじゃない)といえば、見えないところで関節を狙ったり、目や口の中に手を突っ込んだりと、それはもう下品で卑怯で姑息で卑劣で、武道なんて名乗ってほしくない、ただの点数稼ぎに堕落したレズリングみたいなものでしかない。

なんであんないかがわしいものに、わざわざ英国くんだりまで旅費を掛け、膝を屈して参加しなければならないのか理解できません。

あそこで行われているものは、柔道とはなんの関係もない、ただのいかがわしいオカマ・ダンスでしかない。

しかも、なんだ、あの審判は。

あきらかに韓国のロビイストからまるごと買収されていて、なんでもかんでも韓国に旗を上げるって、どういうこと? 「技あり」は「有効」に訂正してしまうし、「有効」は取り消すし、お前らさあ~。

まあ、あんないかがわしいオリンピックなんか、貴重な税金使って、わざわざ参加する必要なんて、ないんじゃね。

なにがなんでも、オリンピックに出たいのなら、そして、メダルにこだわるなら、むしろ、組んで「一本勝ち」なんて綺麗事なんか言ってないで、「日本柔道」とは別に、メダル狙い・なんでもありの「オリンピック柔道」というのを作って、それなりの取り組みをした方がいい。

連盟が、そういうのは邪道で許せないというのなら、まったく別なカテゴリーのスポーツとして国が位置づけて、予算もたっぷりと付け取り組めばいい。

それができないのなら、もうメダル・メダルなんて言わないで、ワールドベースボールクラシックと同じようにオリンピックなんかボイコットすればいいのだと思う。

それから、見ていて、特に感じたのは、女子柔道、長いあのボサボサの髪をわざとホグレルようにしておいて、崩れると、ゆっくり時間を使って束ねる振りしながら休んでる、それがもう見え見えで、呆れ返ることだらけ。

帯のユルイ結び方も、そう。

柔道着を直し、帯を直しで休んでる。

そんなの、武道じゃないぞ、オマエら。

しかし、その帯を締め直している姿を見ていたら、ふっと、もしかしたら彼女たち、柔道着とか、帯とかが好きで柔道を始めたのかもしれないなという気がしてきました。

う~ん、いままで、そういう切り口でヨーロッパ柔道を見たことはありませんでしたが、欧州にはいまだにジャポニズムへの憧れの伝統が息づいているのかもしれません。

思うに、柔道着を「きもの」みたいに考えているんじゃないかな。「フジヤマ」「ゲイシャ」の延長線上にある、まあ、いわば、コスプレってやつ?

それならそうと言ってください。そういうアイデアなら、日本にはまだまだいっぱいあるし奥が深いです、外人サンたちの知らないアイテムならいっぱいありますよ。

例えばですよ、あのひどいボサボサ髪を見栄えのいいものに変えるのです、女性の柔道選手は、みんな高島田に結ったらどうでしょう。

これは、壮観ですよ、実にいい、そうだ、誰かに盗まれないうちに早いとこ特許でも申請しておこ~っと。
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by sentence2307 | 2012-08-03 23:18 | 徒然草 | Comments(0)