世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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日活映画ベスト20

ついこのあいだ、久しぶりに「キューポラのある街」を見たので、はたしてこの作品が、日活作品のなかで、どういう評価を得ているのかが知りたくて、ランキング記事をあれこれ検索していたら、今年が日活映画の創立100周年であることを知りました。

そうですか。100周年ですか。

ここのところちょっと忙しくて、そっち方面のことにはまったく気がつきませんでした、迂闊です。

本当はまだ「今年も押し詰まって」などという言い方は時期外れなのかもしれませんが、製造業の末端にいる人間として、今年の売り上げが伸びないまま、予算の達成どころか、赤字確定が現実味をおびてきたこの時期、悪あがきといわれようが、少しでも利益を上積みするために、できることはなんでもやると焦り、つい「今年も押し詰まった」などと口走ってしまうというのがいまの正直な気持ちです。

さて、検索した「日活映画ベスト20」(本当は、120本が選出されているらしいです)というのが紹介されていました。

ちょっと書き写しておきますけれども、なんと「キューポラのある街」が1位にランクされているのです。

それにはちょっと驚きでした。

1位「キューポラのある街」 (1962浦山桐郎監督)
2位「ビルマの竪琴」 (1956市川崑監督)
3位「青い山脈」 (1963西河克巳監督)
4位「戦争と人間・3部作」 (1970~73山本薩夫監督)
5位「愛と死をみつめて」 (1964斎藤武市監督)
6位「伊豆の踊子」 (1963西河克巳監督)
7位「陽のあたる坂道」 (1958田坂具隆監督)
8位「太陽の季節」 (1956古川卓巳監督)
9位「嵐を呼ぶ男」 (1957井上梅次監督)
10位「にあんちゃん」 (1959今村昌平監督)
11位「路傍の石」 (1938田坂具隆監督)
12位「狂った果実」 (1956中平康監督)
13位「野球狂の詩」 (1977加藤彰監督)
14位「あゝひめゆりの塔」 (1968舛田利雄監督)
15位「あしたのジョー」 (1970長谷部安春監督)
16位「潮騒」 (1964森永健次郎監督)
17位「ギターを持った渡り鳥」 (1959斎藤武市監督)
18位「宮本武蔵・3部作」 (1940稲垣浩監督)
18位「幕末太陽傳」 (1957川島雄三監督)
20位「八月の濡れた砂」 (1971藤田敏八監督)

ベスト20を紹介したあとで、このブログ氏は「なんだ、このベストは!?」と嘆息しています。

そして、「いったいどんな120本なんだよ。『野球狂の詩』や『あしたのジョー』が120本の中に入るほどの作品かよ。抽出した人のセンスを疑う。赤木圭一郎、渡哲也主演作が1本もないのも気に入らない。」と続けています。

この箇所を読んだとき、う~ん、1位を選ぶのと同じような緊張感と厳格な基準でもって《119位でもなく121位でもない》120位を選ぶというのならともかく、もはや120位という順位は、すべての選択判断の基準が剥落し、好き嫌いだけの感情だけで選ぶしかない、いわば理性の支配が届かない大気圏外のような場所なのですから、ベスト120というのなら、別に『野球狂の詩』や『あしたのジョー』をランクインさせても一向に構わないのではないかと考えた矢先、実はこのベスト20において、「野球狂の詩」が120位ではなく13位にランクされており、ブログ氏がそれを踏まえて発言していることを知って、すぐさまブログ氏に同調しました。

さらに「『野球狂の詩』なんかより優れた映画なら、もっとあるでしょう。どこに目をつけてんの」と言いたくなりました。言ったんですが。

また、上記のベスト作品群が主演スターから選出したものではないらしいというところから、たまたまその作品に赤木圭一郎や渡哲也が主演していなかったまでのことで、ブログ氏が憤慨し、そして抗議し嘆息するのも、なんだかどうも見当違いのような気がします。

ただ、自分としても、「時系列」という意味においてなら、ブログ氏が抱いた違和感を共有できると思いました。

「路傍の石」と「八月の濡れた砂」とを同じ文脈で語るとなると、かなりのアクロバット的な論理展開を工夫しなければなりませんし、また、「ギターを持った渡り鳥」が17位というのなら、「宮本武蔵・3部作」がなぜ18位なのかを説明しなければならないとなると、それは相当しんどい知的作業が求められるかもしれません。

しかし、このブログ氏がただの人ではないことは、すぐさま自分で選出したベスト20位の修正版をすみやかに提示しているところです、普通なかなかこうは、いきません。

それによりますと、

1位「けんかえれじい」 (鈴木清順監督)
2位「紅の流れ星」 (舛田利雄監督)
3位「八月の濡れた砂」
4位「幕末太陽傳」
5位「キューポラのある街」
6位「狂った果実」
7位「私が棄てた女」 (浦山桐郎監督)
8位「神々の深き欲望」 (今村昌平監督)
9位「ビルマの竪琴」
10位「東京流れ者」 (鈴木清順監督)
11位「反逆のメロディー」 (澤田幸弘監督)
12位「日本列島」 (熊井啓監督)
13位「刺青一代」 (鈴木清順監督)
14位「野良猫ロック・セックスハンター」 (長谷部安春監督)
15位「赤い殺意」 (今村昌平監督)
16位「無頼・人斬り五郎」 (小沢啓一監督)
17位「赤い波止場」 (舛田利雄監督)
18位「赤い夕陽の渡り鳥」 (斎藤武市監督)
19位「紅の拳銃」 (牛原陽一監督)
20位「嵐を呼ぶ男」

だそうです。

う~ん、しかし、これもどうなんでしょう。

これはこれで、従来から喧伝されつくされた「けんかえれじい」伝説に囚われた大勢的見解というか、もう一方のスタンダードでしかないように思えてなりません。

しかし、注目すべき部分もないではありません。

選択の判断基準を大きく転換したかに見えたその新ベスト20においてもなお、「キューポラのある街」という作品が相も変らぬ高位置を占めるという評価のあり方が、むしろ、自分にはサプライズでした。

長い空白期間をおいて、今回久しぶりに見た「キューポラのある街」という作品の実体が、かかる大勢的見解に本当に反映しての1位なり5位だったのか、すこし疑問が湧いてきました。

そこは、ぜひとも検証しなければならないところではあります。

ところではありますが、そうなると話はいささか長くなりそうなので、ここはひとつ次の機会にしようかと思います、よろしくお願いします。
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by sentence2307 | 2012-10-28 17:02 | 映画 | Comments(42)

胎児が密猟する時

ここのところ忙しくて、じっくりと新聞や雑誌を見る時間がなくて、ようやくのんびりできるこの日曜日に古い新聞を引っ張り出して、ページをペラペラめくっていたら、社会面の片隅に若松孝二監督急死の記事をみつけてびっくりしました。

まさに寝耳に水です。

記事によると、新宿の道路を横断中にタクシーにはねられ、搬送先の病院で息を引き取ったと書いてありました。

突然のことで、なにがなんだか分からないまま、しばらくは脱力感におそわれ、体に力がはいりませんでした。

ここのところようやく時代の風が若松孝二に向かって吹き始めて盛り上がりを見せていたというのに、その矢先の急死です。

残念というよりも、悔しさがこみ上げてきました。

なんと自動車事故とは。

本人も悔いの残る死に方だったと悔しかったに違いない、と思えば思うほど、やり場のない怒りの感情がこみ上げてきました。

若松なら、もっと違った死に方もあっただろうに。

いままで多くの監督の訃報に接してきたのに、こんな感情が湧きあがってくるのは初めてです、なんだか自分でも意外でした。

もう何十年も前の話、「なにか」を求めるなんて生き方さえも馬鹿馬鹿しくなり、行き場を失って新宿や道玄坂をさまよっていた頃、たまたま迷い込んだピンク映画館で「胎児が密猟する時」に出会いました。

それが若松孝二という字面からしてなにやらいかがわしい印象を受けた「名前」の最初の出会いでした。

多くのピンク映画が、濡れ場の絡みの場面になると、それまでのモノクロ画面だったものが、突然カラー場面になるというピンクの典型的な映画とは明らかに姿勢の異なる、むしろ、そういう観客の期待をことごとく裏切るような悪意に満ちた挑発的な映画だと思いました。

男女の絡みを期待した観客は、その期待をことごとく裏切られ、失望し、映画が終了するまで、「ふて寝」をするしかないような状況に追い込まれています。

つまり、「意識的な映画」だったのだと思います。

そこで、若松監督の訃報をネットで検索していたら、たまたまあの「胎児が密猟する時」の幾つかの感想に遭遇しました。

長いものは紹介できませんが、象徴的なふたつのコメントがありました。

ひとつは「イカレ野郎がマンションの一室に監禁した女をひたすら鞭でぶっ叩く映画」、実際にこの作品を見た人の苛立ちが如実に感じられるとても素直な感想だと思いました。

おそらく彼は「胎児が密猟する時」という作品に、ピンク映画にふさわしいなにか「もっと凄いもの」を期待していたに違いありません。

しかし、彼の期待していた「もっと凄いもの」は、残念ながらこの映画には描かれていなかったからこそ、もうちょっとでキレそうな苛立ちをささやかなコメントに込めて、腹立ちまぎれにネットで公開したに違いありません。

そしてもうひとつのコメントの方は、「登場人物は男と女の二人のみ。一見完全にエロ映画そのものの密室劇ですが、不思議に高尚な文芸映画みたいな感じがするのは、へんに演じ手の達者な芝居と演出によるものであろう。」というものです。

最初からこの作品を取るに足らない「エロ映画」にすぎないと決め付けるなら、「文芸映画」であろうとなんであろうと、まともな映画なわけがない、「なんだエロ映画ごときが偉そうに。まともなツラすんな」とでもいうような、こちらのコメントも抑えがたい苛立ちと鬱憤をぶつけている印象です。

きっと、このコメント氏たちが期待した性的で扇情的な「もっと凄いもの」は、この「胎児が密猟する時」からは得られなかったように、おそらくどの若松監督作品からも、期待できないかもしれません。

このコメント氏たちは、かつて、道玄坂のピンク映画館の暗闇で諦めの吐息を軽いて不貞寝しなければならなかった観客たちと同じように、「胎児が密猟する時」を理解することは難しいでしょう。

人間不信におちいり、深い孤独感のなかで生き場も、生きる目的も失って新宿や道玄坂をさまよったすえに、たまたま迷い込んだピンク映画館でこの作品と出会うという状況下のなかでしか、丸木戸定男の深い孤独と孤立感、そしてやり場のない怒りと敵意と暴力への止どめようのない衝動とを理解することは、ちょっと難しいのかもしれません。

(1966若松プロ)企画制作監督・若松孝二、助監督・足立正生、脚本・大谷義明(足立正生)、撮影・伊東英男、撮影助手・倉田宏、沖田健、音楽・大谷義明、美術・加藤衛、照明・磯貝一、照明助手・高山清治、末吉忠二、編集・宮田二三夫、記録・栗田邦夫、スチール・小泉嘉正、制作主任・宍倉源司、制作進行・今井洋、効果・福島効果グループ、録音現像・目黒スタジオ、ナレーション・大谷義明
出演・志摩みはる、山谷初男
1966.07 72分 白黒 シネスコープ
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by sentence2307 | 2012-10-21 20:48 | 映画 | Comments(144)

物語収集狂

新聞でも書籍でも、何気なく読んだほんの短い文章から、まるで突破口のような感じで、途轍もない大きな思いを誘発されるなんて経験ありませんか。

最近、そんな感じの体験をしたので、ちょっと書いておこうと思います。

それは、先週の日曜日の読売新聞朝刊の読書欄に掲載されていた「空想書店」と題する記事の一文でした。

著名人を書店主と模して、その人らしい図書を紹介してもらうという企画ものです。

その人の本の嗜好を知るということは、同時に、その人の人間性を知ることと同じだと常々思っている自分なので、毎週大変楽しみにしている記事です。

書き手は、「60歳のラブレター」や「白夜行」「神様のカルテ」「ガール」などを撮った新進映画監督の深川栄洋氏、その記事で、深川氏は、開口一番、「本が嫌いでした。今も得意ではありません。」と読者をまず牽制します。

しかし、なぜ遊びの方が読書より勝っていたかというと、「読書をして楽しいと感じた経験が」少なかったからだと幾分遠慮深気に書いていますが、たぶん、書く場所が「読書欄」ということもあって一応は婉曲に表現してはいるものの、ぶっちゃけ「読書を楽しいと感じたことなんか皆無だった」というくらいの気持だったくらいの察しはつきます。

この欄を読む人たちが、当然本好き、読書好きな読者でしょうから、この逆を突いた挑発的な書き方は、かえって読者の気持ちを一挙に鷲掴みにしたかもしれません。

実は、当の僕もそうでした。

このあと深川氏が、どんなふうに「読書欄」の相応しい内容にまとめるのか、「お手並み拝見」みたいなちょっとスリリングな気持ちで読み進みました。

深川氏は、こう書いています。

「文章に向き合うのは苦手な私ですが、物語は好きです。
そういう人は案外多いのではないでしょうか。
物語の中に自分を置くのは、とても楽しい。
世の中や人生に意味を見つけることはとても難しいけれど、物語に自分を置くとクライマックスの後には達成感が味わえる。」

大袈裟ではなく、この文章を読んだとき、ちょっと雷に打たれたようなショックを受けました。

このブログを始めるとき、ブログ名をどうしようかと考え、迷ったことを思い出しました。

実は、ブログ名の「収集狂」は、ウィリアム・ワイラーの「コレクター」から連想したものなのですが、なにを収集するかというと、当初は広い意味で、あらゆる「物語」を収集したいと考えていました(「物語収集狂」ですよね)。

ストーリーっていうのは、象徴的なオリジナルなものが中心にあって、たぶんそれが枝分かれしながら、万か億か兆かは想像もできませんが、小さなエピソードに細分化される、そしてそのタイプは、きっとある法則のもとで幾つかのタイプに体系化できるのではないか、と思ったのです。

たとえば「桃太郎」の話なんか、きっと原初的なオリジナルに相応しい、幾つもの枝分かれに十分に耐える物語なのではないかと。

出自の秘密、両親との葛藤、敵を求める旅の途中で出会う仲間たち、そして地の果ての死闘、なんていかがでしょう。

だんだん考えていくうちに、もしかしたら「桃太郎」って「七人の侍」の原型なのかも・・・なんて思えてきました。

あ、そうそう、なぜ「物語収集狂」にならずに、結局「映画収集狂」に落ち着いてしまったかというと、「物語」を「収集」している「狂」みたいな人が既にいたからです。

愛知学院大学の神山重彦教授が運営している「物語要素辞典」
http://www.aichi-gakuin.ac.jp/~kamiyama/
こんな物凄いものを見つけてしまった以上、自分なんかの限界は、もう見え見えです。

瞬間的な虚脱感あるいは脱力感に襲われ、もはや再起などできませんでした。
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by sentence2307 | 2012-10-16 23:48 | 映画 | Comments(1)

羅生門

敗戦によってすっかり自信をなくしてしまった日本人にとって、湯川秀樹のノーベル賞受賞と、映画「羅生門」のヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞が、いかに特別な出来事だったか、まだまだ日本が貧しかったこの時期に少年期を過ごしてきた者にとっての痛切な実感として記憶しています。

このふたつの「事件」は、挫折と絶望と諦念に見舞われ、すっかり無力感にとらわれていた日本の大人たちに生きる意欲と勇気とを思い出させた「希望」そのものだったことは、子ども心にもよく分かりました。

いまだ日本が経済の低迷期にあって、まだまだ極貧に耐えてねばならなかった多くの大人たちにとって、この受賞のニュースの意味はとても重大で、とりわけ欧米による「羅生門」の評価は日本人に失った自信を取り戻させたという重要な役割を果たしたと思います。

ですので、今日まで、幾たびか「羅生門」を見る機会があっても、これを論じるべき映画作品というより、「戦後」という背景を伴った社会現象として意識する方がはるかに優先し、既に権威ある西洋の映画祭から認知を得ている「羅生門」という作品をあえて検証しようという気さえ起こさせなかったという感じがします。

多分、多くの日本人もきっと「そう」感じていたと思います。

よく言われることのひとつに、当時、日本におけるこの作品の評価は、たとえばキネマ旬報の年間ベスト10でいえば、確か第5位だったわけで、決して高い評価を得ていたわけではありませんでした。

ちなみにその年の第1位は今井正監督の「また逢う日まで」、2位は大庭秀雄監督の「帰郷」、3位は谷口千吉監督の「暁の脱走」、4位は佐分利信の「執行猶予」とされていて、ヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞作品「羅生門」が5位に甘んじたことに(受賞後の言われ方の多くは、こんな感じでした)ちょっとした違和感があります、などと繰り返えされてきたものでした。

それは自分も、確かにそんな感じは持ちます。

しかし、同じくこの年に製作された小津監督の「宗方姉妹」がランキング7位とされたことを思えば(それを「1位」といわれれば、確かに「そうだな」と思うでしょうし、逆にランク外に落とされても、あるいは納得してしまうかもしれません)、まったく異なるテーマで撮られた各作品をあれこれと評価する「核」とはどういうものなのか、日本での評価が5位だったものが、なぜ外国人にはグランプリと見えたのか、「羅生門」より上位にランクされた他の作品が、「羅生門」と同じように外国人に評価されるのだろうか、そこのところを知りたいと痛切に感じていました。

人間の自分を利するエゴから現実を少しずつ歪めていく人間の醜い姿(必ずしも自分は「醜い」とは思わないのですが)を描いている「羅生門」のテーマだけが、なぜ他を圧して「高評価」なのか、実は、この疑問を誰かに問い掛けたいという衝動は子供の頃から持ち続けていましたが、しかし、そのことを大人に対しても、ましてや同年輩である友だちに対しても、公然と聞くことを躊躇わせるものがありました。

それは、この映画が描いている事件の発端が「人妻の強姦」だったからだと思います。

この作品「羅生門」が国際的地位を獲得し、この芸術性高い映画について話すことなら、なんら躊躇させるものなどないはずでしたが、しかし、それが「大人」ならではの話なのであって、思春期の子どもにとっては、やはり、口にするのもはばかられる強姦は強姦なので、その行為の意味するところはあくまでも生々しく、強烈すぎ、その妄想に押しつぶされそうになるばかりで、ついにこの映画を概念として昇華できないまま口を噤まざるを得ませんでした。

きっと、その少年が、もっと器用だったなら、「強姦」をはぐらかしながら、論を進めることもできたかもしれませんが、やはり、「年齢」というハンディを痛感し、自分の気持ちを抑圧し、沈黙するしかなかったのだと思います。

今にして思えば、そんな些細なことなど気にせず一挙に「突破」してしまえば、なんでもないことだったのだと、とても残念な思いでいっぱいです。

えっ、いまですか、お蔭様で、やっと心臓にも毛が生え揃いましたので、「強姦」だろうと「獣姦」だろうと「机姦」だろうと、もはや何でも来いのスタンスで堂々と過ごしています。

さて、「羅生門」では、事件の当事者3人と、3人のやり取りを目撃した1人がそれぞれ事件についての供述が展開されていくのですが、そこで語られていることこそ、自分を利するために現実を少しずつ歪めていく自分勝手な人間像があらわにされていくとして、しかし、杣売と旅法師が、当事者たちの供述の核心がそれぞれ異なるという部分で、なぜあれほどまでに大げさに悲嘆してみせなければならないのか、自分にはちょっと異様な感じを受けました。

たとえ実際は女々しくふがいないとしても、山賊が自分を雄雄しくみせたいと虚言を吐くことが、それほど悲嘆すべきことなのか、貞淑な妻の仮面の下に淫蕩で性悪な性格を隠し持っていることが明かされてしまい、体の関係ができた山賊にも見放されてしまうような性悪女である自分を必死になって隠そうとする行為が、それほどまで弾劾されなければならないことなのか、目の前で妻の本性を見せ付けられた寝取られ夫の弁明も耳をふさがなければならないほどのものとは、どうしても思えませんでした。

このわざとらしい当事者たちの愁嘆場と、傍観者たちの悲嘆の部分を見たとき、思わず原一男の「ゆきゆきて、神軍」を思い出しました。

あれは、まさに終戦間際のどさくさの中で統制を失った軍人たちが無責任な命令に従い、ことなかれ主義から従順に殺人に加担し、あまつさえその死者の肉を食らったのではないかという驚くべき軍人たちの犯罪行為が次第に明かされていくのですが、結局確かなことは誰一人言わないし、真実は最後まで分かりません。

しかし、少なくとも、それらの虚言と慄然たる事実がどのようなものであったとしても、それは決して(「現在」という時点から見ると)もっともらしい悲嘆が似合うものとはどうしても思えません。

きっと、この映画が撮られた時からの膨大な時間の隔たりが、黒澤明が信じていた頃の「ヒューマニズム」というものを、世界的な意味でも規模でも、すっかり変質させてしまったということなのかもしれませんね。

そんな気がしてきました。

(1950大映)監督・黒澤明、原作・芥川龍之介、脚本・黒澤明、橋本忍、企画・本木荘二郎、箕浦甚吾、撮影・宮川一夫、音楽・早坂文雄、美術・松山崇、編集・西田重勇、録音・大谷巌、照明・岡本健一
出演・三船敏郎:多襄丸(盗賊)、森雅之:金沢武弘(武士)、京マチ子:真砂(武士金沢の妻)、志村喬:杣売り(遺体の第一発見者)、千秋実:旅法師(生前の武士の目撃者)、上田吉二郎:下人(雨宿り時、杣売りと法師の話の聞き役)、本間文子:巫女(金沢の霊を呼び、証言をおこなう)、加東大介:放免(多襄丸を発見し、検非違使に連行する)
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by sentence2307 | 2012-10-06 22:47 | 映画 | Comments(39)