世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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人斬り

誰もが同じことをいうと思うのですが、岡田以蔵のイメージといえば、やはりショーケンの演技が強烈すぎて、勝新の以蔵を受け入れるのに少し苦労したということはあります。

というのも、印象として、なんとなく、ショーケンの以蔵があって、勝新の以蔵が続いてあるような気がしていたので、この時系列の錯覚は、やはりあの以蔵を演じたショーケンの演技が、いかに傑出していたかということの証しなのだと思います。

検索で改めて確かめました。

なるほどなるほど、NHKの大河ドラマ「勝海舟」でショーケンが以蔵を演じたのが1974年ですか、へえ~、それにしても、あれからもう39年も経つんですよね、いや、これは驚きです。物凄いショックです。

しかも、この「人斬り」のあとにショーケンの以蔵が演じられたのだとすれば、現在においても賞賛に値する演技の革新といわなければならないでしょう。

あの「以蔵」を見たとき、あまりに孤独すぎる青年が誰かに褒められたくて、それに役に立つことが嬉しくて、夢中になって人を斬るという孤独で悲しい論理が無理なく素直に受け入れることができました。

若さの切なさと狂気が一人の人間の中に矛盾なく同居していることが心から納得できました。

以蔵が勝海舟に「わしゃあ、先生が好きじゃきに」と告げる痛切な場面も忘れることができません。

自分の中には、「灰とダイヤモンド」の青年テロリストと同じ比重で現在も記憶されつづけています。

愚直さがいつの間にか、政治的に利用され、そのことに気がつき、その報復として怒りをもって同士を密告するという「史実」は、政治状況に翻弄される人間を将棋の駒のように動かして想定した、あくまでも仮定の物語でしかないように思えてしかたありません。

確かに「そう」なのかもしれませんが、人間には「心」がある、ということをショーケンの以蔵は、教えてくれたような気がします。

そんなふうなことを考えながら、この映画を見ているうちに、後半部分で面白い場面に遭遇しました。

武市半平太の命令によって姉小路公知を斬ったあと、武市の人斬り犬として生きるしかないことを思い知った以蔵は失望し、酒に溺れ鬱々と寝込んでいた女郎屋で、京都市中見廻組役人の浪人狩りによって捕縛され、六角牢投獄される場面です。

以蔵は、いまに土佐藩の仲間が迎えに来てくれるはずと待っています。

そこに現れたのが、意外にも仲代達矢演じる武市半平太。

「先生」と呼びかける以蔵に答えもせずに、ただじっと見ている。

田中邦衛演じる牢番の役人が
「この者が岡田以蔵であるのかないのか、はっきりとお答え願おう」
といいます。

半平太
「ほう、拙者の顔や名前まで。偽物としては芝居のうまい奴だな」

牢番の役人は重ねて言います。
「武市半平太どのにお伺いする。この者は、かまえて・・・」
と言い掛けるところを遮って

「違う! 岡田以蔵ではない。岡田以蔵の名前を騙る偽物だ。このような者は、土佐藩にはおらん。岡田以蔵は天下に名の聞こえた剣客。正体もなく酔い潰れ、あまつさえ遊廓へなど登楼、そのうえ司直の者と争い易々と捕えられる、そのような不心得者ではないわ。このような者、武市半平太、これまでに会ったことも見たこともない。土佐の岡田以蔵の名前を騙る偽物だ。」

このように武市半平太に拒否され見捨てられたことによって、岡田以蔵の運命は、一気に破滅に向かって突き進むことになるのですが、仲代達矢が勝新太郎を「偽物!」と罵倒するこの場面から、一挙に黒澤明の「影武者」をめぐる一連の騒動を思い出してしまい、ちょっと複雑な思いに駆られました。

ひとことであの「影武者」騒動を言いつくしてしまうとすれば、なにをやってもぱっとせず、次第に日本国内の居場所がなくなりかけていた黒澤明が、当時、滅法元気のいい勝新を起用して「影武者」を企画します。

世界の黒澤から声が掛ったので勝新も大喜び。

初顔合わせは、双方映画の話で盛り上がって意気投合、やがて資金繰りを海外に仰いでようやく撮影に漕ぎ着けたというとき、自分の演技をビデオで確認したいという勝新に、黒澤明は「監督は、ひとりいれば十分だ」と怒って決裂します。

しかし、撮影期間延長を認めない海外投資家から契約履行の遵守を強硬に迫られ、日本でなら我儘を言えた黒澤明も、結局、勝新の説得に時間が割けず、やむなく仲代達矢に依頼したというわけ。

しかし、仲代達矢も当時勝新と親交があり、黒澤側の申し入れを再三断ったものの、仲代としても黒澤明には恩があり、むげに断り続けることもできず、やむなく引き受けざるを得なかったという経緯が「勝新太郎自伝・偶然完全」に詳細に書かれています。

その本の第7章のタイトルは、「仲代とは終わったな」でした。

1979年7月、「影武者」の代役に決まった仲代達矢が黒澤明とともに記者会見に臨んだときの彼の顔は、引き攣った泣き笑いのようになっていました。

映画「人斬り」でならともかく、この記者会見の場面においてなら、こんどは逆に勝新太郎の方が仲代達矢に向かって「偽物!」とでも罵倒するところでしょうか。

(1969勝プロ・フジテレビ、大映)製作・村上七郎、法亢堯次、監督・五社英雄、脚本・橋本忍、原作参考・司馬遼太郎「人斬り以蔵」、撮影・森田富士郎、音楽・佐藤勝、美術・西岡善信、編集・菅沼完二、谷口登司夫、照明・美間博、録音・大角正夫、スチール・小山田幸生、助監督・土井茂
出演・勝新太郎(岡田以蔵)、仲代達矢(武市半平太)、三島由紀夫(田中新兵衛)、石原裕次郎(坂本竜馬)、倍賞美津子(おみの)、新条多久美(姉小路綾姫)、仲谷昇(姉小路公知)、下元勉(松田治之助)、山本圭(皆川一郎)、伊藤孝雄(天野透)、賀原夏子(おたき)、田中邦衛(六角牢の役人)、山内明(勝海舟)、清水彰(井上佐一郎)、郡司良平(平松外記)、東大二郎(両替屋の番頭)、宮本曠二郎(渡辺金三郎)、伊吹総太朗(本間精一郎)、藤森達雄(北崎進)、黒木現(工藤)、中谷一郎(京都所司代与力)、伊達岳志(京都市中見廻組役人)、青木義朗(横川帯刀)、波多野憲(久坂玄瑞)、福山錬(宮部鼎蔵)、新田昌玄(伊知地三左衛門)、萩本欽一(牢名主)、坂上二郎(熊髭)、辰巳柳太郎(吉田東洋)
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by sentence2307 | 2013-01-27 17:53 | 映画 | Comments(63)

「円朝全集」のこと

最近、ちょっと悩み続けていることがあります。

というか、買いたい本の価格が、少し高価なために躊躇しているという、まあ、いってみれば、自分に日常的に自由になるお金が乏しいことから、欲しい物が出てくる度にいつも悩んでいることを、またウジウジと繰り返しているにすぎません。

もっとも図書館に購入希望を出せば、きっと買ってくれるだろうということは分かっているのですが、結局それでは、どこまでも「自分のもの」にはならないという悔いが、いつまでもつきまとうに違いないので、この堂々巡りする悩みを持て余している状態です。

読んでしまえば、ハイ御用済み、というタイプの小説本なら、いつものように図書館で買ってもらえばいいのですが、なかには自分の手元に常に置いておきたい、所有したいと猛烈に欲求させる本があるので迷ったり悩んだりするのだと思います。

しかし、それでも、自分の中に「本は高価だ、仕方ない」という確固たる認識があれば、それはそれで納得のしようもあり、諦める手掛かりとしての十分な理由付けともなるのでしょうけれども、決して「そう」は思っていないところが始末に悪いところなのかもしれません。

「食べるものを食べないで我慢してでも、買う価値があるのか」と問われれば、本当にほしい本なら、「ある」と応えてしまいそうな自分ですが、しかし、自分には家族もあり、それにすでに餓鬼道におちてしまった身となれば本当に一食でも抜くことができるかなんてことは到底無理な話で、結局は「両方ほしい」というのが、いじましい自分の本音であることを分かっていながらの「ある」にすぎないのです。

さて、買いたい本というのは、岩波書店から刊行のはじまった「円朝全集」全13巻別巻2です。

落語好きの自分としては、かねてから円朝こそは明治期の多くの文豪に列するにふさわしい人物、いや、もしかすると西鶴や近松門左衛門に匹敵し、果てはシェイクスピアにさえ並びうる人物なのではないのかという思いはあったものの、しかし、いままで、それを裏付けて確信するだけの情報を得ることができなかったので、いつかはじっくり円朝全集を読んでみたいなと考えていたところでした。

八代目文楽が、噺のなかで、よく「円朝師は・・」と語っていたのを思い出します、きっと八代目文楽も円朝の流れを汲んでいることを誇りとして、噺をしていたんでしょうね。

この全集の惹句は「人間がいちばん怖い。そして人間がいちばん面白い。言語の写真法=速記術が残した稀代の物語遺産」どうです、クールでしょう。

編集委員による「編集に当たって」には文豪たちが円朝の影響をいかに受けたかというエピソードを紹介しています。
箇条書き的に要約すると
①幸田露伴は明治文学に最も功労のある人物として、円朝と黙阿弥を挙げ、円朝の文章界における貢献を讃えている。言文一致体を一代で完成させたことから近代の日本語の祖とされる。明治時代に速記法が日本に導入されたころ、圓朝は自作の落語演目を速記にて記録し公開することを許し、記録された文章は新聞で連載され人気を博した。
②文体を模索していた二葉亭四迷に、円朝の落語の通りに書いてはどうかと坪内逍遙が勧め、これが作家二葉亭四迷に影響を与えて、1887年「浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけたのである。
③現代中国語の文体も決定づけた。魯迅は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説も(中国語の)言文一致体で綴った。すなわち白話運動、ここで中国語は漢文と切り離されて口語で記されるという大改革がなされた。
④夏目漱石の『琴のそら音』は『怪談牡丹灯籠』を念頭においての作である。
⑤正岡子規は『名人競(錦の舞衣)』を聴いて、小説の趣向かくこそありたけれと悟る。
⑥芥川龍之介は円朝研究を志しながら、果たさず早世した。
⑦円朝は熱心に取材旅行を行った。明治十九年、山県有朋内相、井上馨外相らの北海道巡視に随行した成果は『蝦夷訛』となり、『北海道文学全集』第一巻巻頭を飾る。北海道文学は円朝に始まる。
⑧モーバッサン初紹介となる『名人長二』など外国文学の受容にも意を用い、『真景累が淵』では文明開化の世に幽霊は存在するのかと問いかけ、『英国孝子ジヨージスミス之伝』では成文法整備期の人間模様を描く。
⑨このような関心の広さは目前の観客の反応を探った結果でもあろう。そして観客の反応によって練り上げられた円朝の口演は、日本人の心性の記録となる。
⑩生と死、この世とあの世が地続きである円朝の怪談が、畏怖する心を失ったまま現代をよりどころなく彷徨い生きねばならない我々こそが、その真の意味を見いだすことができるのかもしれない。

う~ん、そういうことですか。

しかし、この本、予約出版なので、予約しないと手に入らない、買取制度のパイオニア、いかにも岩波書店らしい合理的で強気な行き方ですが(その「強気」が、かつて専属の取次店を潰しています)、そうでなくとも決裁の遅い図書館に予約の対応ができて、ちゃんと買えるのかどうか不安な部分もありますし。

予約申込締切が、2013年4月26日ですか、どうしようかな~。

すでに第1回の配本として第一巻(定価8820円本体8400円)が11月28日に発売になっているそうなのですが、なにせ「予約出版」ということで店頭で見かけることもなく、実物に接してないために焦燥感も煽られず購買の決心も鈍るということになりますよね~。

ちなみに現在のところ既刊および予定されている図書は、以下のとおりです。

★第1回・第一巻/11月28日発売、怪談牡丹燈籠、塩原多助一代記、鏡ケ池操松影、 定価8820円(本体8400円)
★第2回・第二巻/2013年1月29日発売、英国孝子ジヨージスミス之伝、安中草三の伝、後開榛名の梅が香、定価8820円(本体8400円)
★第3回・第三巻/2013年3月22日発売、業平文治漂流奇談、松の操美人の生埋、 蝦夷錦古郷の家土産、定価8400円(本体8000円)

そして、以下が、隔月一冊刊行の予定のようです。

★第四巻、欧州小説黄薔薇、鶴殺疾刃包刀、月謡荻江一節(一名荻江の伝)
★第五巻、敵討札所の霊験、真景累ヶ淵
★第六巻、怪談乳房榎、緑林門松竹、操競女学校
★第七巻、粟田口霑笛竹、文七元結、福禄寿
★第八巻、熱海土産温泉利書、霧隠伊香保湯煙、松と藤芸妓の替紋
★第九巻、*荻の若葉、雨夜の引窓、菊模様皿山奇談
★第十巻、名人競(錦の舞衣)、八景隅田川、政談月の鏡、名人長二
★第十一巻、蝦夷訛、*日蓮大士道徳話、*雨後の残月、*応文一雅伝、離魂病(根岸お行の松 因果塚の由来)
★第十二巻、*火中の蓮華、*谷文晁の伝、闇夜の梅(穴釣三次)、奴勝山、*塩原多助後日譚、怪談阿三の森、心中時雨傘
★第十三巻〈落語・小咄・三題咄〉心眼、縁きり榎、にゅう、畳水練、明治の疑獄、黄金餅、*星野屋、*初商法、*堀の青柳 ほか
★第十四巻〈弟子による口演〉*塩原の怨霊、後の業平文治、*烈婦お不二、小雀長吉(双蝶々)、鰍沢、死神 ほか
★第十五巻〈各種資料〉速記以前の文語文作品、紀行文、点取、草稿、談話、俳句、都々逸、書簡
*印は全集新収録の作品。ほか十三巻、別巻にも多数。

参考
【三遊亭円朝略年譜】
天保10年(1839)4月1日、初代 橘屋圓太郎(初代圓橘)という音曲師の息子として江戸・湯島切通、通称根性院横町で生まれる。母の名は、すみ。 本名、田淵次郎吉。
弘化2年(1845)3月3日、初代 橘家小圓太の名で江戸橋の寄席・通称「土手倉」に七歳で初高座。 異父兄に僧玄正がいて、その勧めで寄席をひいて寺子屋に通い、歌川国芳に浮世絵を学んだ。
弘化4年(1847)父・圓太郎と同じく二代目三遊亭圓生の元に入門。
嘉永2年(1849)二つ目昇進。
嘉永4年(1851)玄冶店の一勇斎歌川国芳の内弟子となり、画工奉公や商画奉公する。
安政2年(1855)3月21日、初代円生の墓前に三遊派再興を誓って円朝を名乗り真打昇進。
安政5年(1858)鳴物囃子をはじめ、道具仕立ての華やかな芝居噺などの芸風によって次第に人気を得た。師の二代目円生を中入り前に頼んでいたが、円生はいつも円朝の話そうとする演題を先にやってしまうので、苦しんだすえ、「累が淵後日怪談」(安政6)(「真景累が淵」は明31初演)」その他を創作・口演した。
文久3年(1863)粋狂連に加わり、のちの河竹黙阿弥、瀬川如皐、仮名垣魯文、一恵斎芳子幾などと親交を結んだ。
元治元年(1864)両国垢離場(こりば)の「昼席」で真打披露。
明治元年(1868)長子の朝太郎誕生。母は御徒町住の同朋倉田元庵の娘、お里。
明治2年(1869)柳橋の芸妓お幸を妻とする。(新潮社版・日本文学小辞典に記載あり)
明治4年(1871)山々亭有人(條野採菊)の補筆により草双紙「菊模様皿山奇談」を上梓する。10月、父没。
明治5年(1872)弟子の円楽に師名円生を継がせ、円朝はこれより道具仕立て芝居噺から扇一本の素噺となる。以来、続々と自作の新作を演じて、その速記は新聞に連載、刊行されて明治芸界の名家となる。
明治8年(1875)六代目 桂文治と共に「落語睦連」の相談役に就任。
明治10年(1877)陸奥宗光の父で国学者の伊達自得居士(千広)の禅学講義の席で知己となった高橋泥舟により、その義弟山岡鉄舟を知るにおよんで芸・人ともに更にその円光を加えた。
明治11年(1878)速記術により「塩原多助一代記」を出版。
明治13年(1880)9月24日、山岡鉄舟の侍医である千葉立造の新居披露宴の席で、同席していた天龍寺の滴水和尚から「無舌居士」の道号を授かる。
明治17年(1884)酒井昇造、若林玵蔵の速記術によって「怪談牡丹燈籠」を出版。
明治19年(1886)1月8日、井上馨の共をして身延山参詣。また井上の北海道視察(8月4日より9月17日)にも同行した。條野採菊(山々亭有人)『やまと新聞』創刊、円朝「松の操美人の生埋」連載開始。
明治20年(1887)4月26日、井上馨邸(八窓庵茶室開き)での天覧歌舞伎に招かれ、また井上の興津の別荘にも益田孝らと共に招かれている。 「真景累が淵」連載開始(『やまと新聞』9月9日~)。
明治22年(1889) 4月、向島木母寺境内に三遊派一門43名を集め、三遊塚を建立。門下に優れた落語家が輩出した。初代および二代目 三遊亭圓生を追善記念する。
6月30日、各界人士を集めて、初代・二代目 圓生の追善供養のための大施餓鬼会を施行し、一門の43名が小噺を披露し、記念誌を配布した。
朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が三友舎から出版される。圓朝自身の口述に基づく自伝。
明治24年(1891)6月、席亭との不和で寄席の出演を退き、新聞紙上での速記のみに明け暮れる。 井上馨邸で明治天皇のために「塩原」を演じた。
明治25年(1892)病の為に廃業。
明治30年(1897)11月:弟子の勧めで高座に復帰。
明治32年(1899) 9月 発病。10月 木原店で演じた『牡丹燈籠』が最後の高座となる。
不行跡により朝太郎を廃嫡処分とする。
明治33年(1900)8月11日午前2時死去62歳。病名は「進行性麻痺兼続発性脳髄炎」。東京谷中三崎坂(さんさきざか)(現・台東区谷中五丁目4番7号)の臨済宗国泰寺派全生庵、山岡鉄舟の墓のかたわらに埋葬された。法名「三遊亭圓朝無舌居士」、墓は、東京都指定旧跡となっている。 辞世は、「目を閉じて聞き定めけり露の音」とされているが、墓碑には「耳しひて」と上五の改悪が残された。
大正15年(1926)春陽堂版『円朝全集』刊行開始。
昭和30年(1955)岩波文庫『怪談牡丹燈籠』刊行。翌年『真景累ケ淵』、翌々年『塩原多助一代記』刊行。
昭和50年(1975)角川書店版『三遊亭円朝全集』刊行開始。
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by sentence2307 | 2013-01-27 15:02 | 徒然草 | Comments(21)
★アンナ・モッフォ Anna Moffo(1932-2006)
アメリカ合衆国出身のソプラノ歌手・タレント。専ら1960年代に欧米で活躍した。全盛期には、美声と美貌ゆえに評価を集めた。生年については、1930年誕生説と1932年誕生説があり、確定していない。ペンシルベニア州ウェイン出身。ラドナー高等学校を卒業後、映画撮影のためにハリウッドから声がかかるほどだったが、修道女になることを目指していたためその申し出を断わった。しかしながら奨学金を得て、フィラデルフィアのカーティス音楽学校に進学する。1955年にフルブライト奨学金を獲得してローマの聖チェチーリア音楽院に留学。同年スポレトにおいて、ドニゼッティの《ドン・パスクヮーレ》のノリーナ役でデビューを果たす。翌年には、未来の夫マリオ・ランフランキ(RCAビクターおよびRAIのプロデューサー)の演出により、プッチーニの《蝶々夫人》にてテレビ出演を果たす。1957年に母国で凱旋デビュー(シカゴ・リリック・オペラ座にてプッチーニの《ラ・ボエーム》のミミ役)。この年、スカラ座にもデビューし、ザルツブルク音楽祭においてカラヤンの指揮により、ヴェルディの《ファルスタッフ》にも出演。これがウィーン国立歌劇場との初共演となった。また同年は、12月8日に演出家のマリオ・ランフランキと結婚。1970年代までウィーンで歌手活動を続け、《リゴレット》のジルダ役、マスネの《マノン》のタイトルロール、グノーの《ファウスト》のマルゲリート役、ビゼーの《カルメン》のミカエラ役、《椿姫》のヴィオレッタ役を十八番とした。この間アメリカでは、1960年から1961年にかけてニューヨークのメトロポリタン歌劇場に出演し、《リゴレット》のジルダ役、《愛の妙薬》のアディーナ役、プッチーニの《トゥーランドット》のリュー役をつとめ、ビルギット・ニルソンやフランコ・コレッリとも共演した。また、オペラと関係ない映画《ローマのしのび逢い》にも主演するなど、完全に女優として通用する活躍ぶりであった。1972年にランフランキと離婚し、1974年11月14日にRCAの取締役会長ロバート・サーノフと再婚。1970年代には、ヴェルディの《イル・トロヴァトーレ》のレオノーラ役や、《スティッフェーリオ》のリーナ役など、より激しい役柄をこなした。モッフォは両親ともイタリア系でネイティブなイタリア語を話すこともあり、とりわけイタリアで人気があった。1960年から1973年まで同地のテレビ番組でメイン司会者を務め、またイタリアで最も美しい女性の10人に選ばれたこともある。母国ではオペラファンに礼賛され、作家のウェイン・コステンボーム(Wayne Koestenbaum)は、一冊の本になるほどの長大な頌詩『アンナ・モッフォへのオード』を物している。酷使が祟ったためか、1960年代後半からは高音の衰えが目立つようになり、カルメンなどのメゾソプラノ役にも新境地を示したものの、ソプラノ歌手としてもやや早すぎる40代半ばで活動をほぼ停止した。ドイツ物はモーツァルトを除くと必ずしもメインのレパートリーではなかったが、活動最末期の70年代前半にはドイツでのレコーディングや撮影が多かった。まずはフランスオペラだがベルリンでマゼール指揮により「カルメン」、ミュンヘンでアイヒホルン指揮による「ヘンゼルとグレーテル」「美しきガラテア」を録音、さらにルネ・コロとの共演で「チャルダーシュの女王」「美しきヘレナ(ドイツ語版)」の2本の映画に主演。やや歌唱力に陰りは見られるものの美貌と演技力をフルに示し、その活動歴の掉尾を飾る貴重な記録(1968年の映画「椿姫」は現在販売されているDVDに関しては、劣悪な保存フィルムしか残っていないのか電気吹き込み以前のような音質である)となっている。1997年2月22日に夫サーノフと死別。その後に乳癌を患い、その悪化にともない脳卒中を併発して、ニューヨークにて逝去した。
★シュワルツコップ Elisabeth Schwarzkopf (1915―2006)
ドイツのソプラノ歌手。ドイツ帝国内のプロイセン(現ポーランドのヤロトシン)の生まれ。ウォルター・レッグと結婚後、イギリス国籍取得。ベルリンで学び、1938年同地でデビュー。42年指揮者ベームに認められ、翌年からウィーン国立歌劇場でモーツァルトのオペラなどに多数出演、当初はコロラトゥーラ・ソプラノとして知られた。第二次世界大戦後は世界の主要歌劇場、音楽祭で活躍、51年にはベネチアでストラビンスキーの『道楽者のなりゆき』の初演に加わった。ドイツ歌曲の解釈者としても優れ、シューベルトからウォルフに至る諸作品に、歌詞の情感を深く刻み込んだ解釈を樹立した。1968年(昭和43)以後のたび重なる来日や、カラヤン指揮のR・シュトラウス『ばらの騎士』の映画により日本でも彼女の芸術は広く親しまれている。76年、演奏会活動を退く。レコード・プロデューサーの夫ウォルター・レッグとともに著した回想録『レコードうら・おもて On & Off the Record』(1982)がある。
★リタ・シュトライヒ Rita Streich(1920-1987)
旧ソ連のバルナウル生まれ、1950~60年を中心に活躍したコロラトゥーラ・ソプラノ。ウィーンにて没。ベルリンでイヴォーギュンとベルガーに師事、1943年に「ナクソス島のアリアドネ」のツェルビネッタ役でデビュー。1953年にウィーン国立歌劇場のメンバーになり、ドイツを代表するコロラトゥーラ・ソプラノとして世界的に活躍する。「魔笛」の夜の女王や、「フィガロの結婚」のスザンナなどのモーツァルト・オペラを得意としていたが、イタリアやフランス・オペラのコロラトゥーラ役も演じており、そのハイ・ソプラノには定評があった。コロラトゥーラにありがちな固さや冷たさはまったくなく,輝きをもちながら,温かく柔らかい響きをもっている。もちろん音程の確かさや無理のない高声など,コロラトゥーラの技法も完璧。オペラのアリアを聴く分には,やはりスプレット系の役柄が合うようで,初々しさや可憐さなどの中から滲み出る色気がなんとも言えず魅力的。とは言うものの,狂乱の場のアリアや夜の女王なども,その完璧な技巧ゆえに迫力がある。とにかくレパートリーの広い人で,ドイツ,フランス,ロシアの歌曲,民謡などでもチャーミングな歌を存分に聴かせてくれる。英語や日本語の歌はご愛嬌だが,曲の真意をつかみ,美しい発音で歌われる歌曲には,彼女の音楽への真摯な姿勢がうかがえる。不世出のコロラトゥーラだ。
★デル・モナコ Mario Del Monaco (1915―1982)
イタリアのテノール歌手。フィレンツェ生まれ。幼時ペザロに移って同地の音楽院で声楽を学ぶ。1939年、ペザロのオペラの舞台に立ったが、正式のデビューは40年12月、ミラノのプッチーニ劇場における『蝶々(ちょうちょう)夫人』のピンカートン。第二次世界大戦直後のベローナ野外劇場で『アイーダ』のラダメスを歌って大成功。以後、ロンドンを皮切りに、南米、イタリア各地で活躍、51~59年にはニューヨークのメトロポリタン・オペラに所属して人気を集めた。50年代が「黄金のトランペット」と称された彼の声と芸術の絶頂期で、とくに『オテロ』『アンドレア・シェニエ』『道化師』を当り役とした。59年(昭和34)、61年のイタリア歌劇団公演にもこれらの役で参加し、日本の観客を圧倒した。63年12月、自動車事故で重傷を負い、カムバックはしたが出演は減り、75年ごろまで活動を続け、ベネチアに没した。
★タリアヴィーニ Ferruccio Tagliavini(1913―1995)
イタリアのレッジョ・エミーリア生まれのテノール歌手。パルマ音楽院で学び、1938年、フィレンツェ五月音楽祭のベルカント・コンクールで第1位を獲得、「ラ・ボエーム」のロドルフォ役でデビューして一躍脚光を浴びる。1940年にはミラノ・スカラ座に、1947年にはメトロポリタン歌劇場にデビューを果たし、以後世界各地の歌劇場に出演して絶賛された。その甘い美声と聴衆を酔わせる歌唱力は卓越しており、イタリア屈指の名テノール歌手として一世を風靡した。イタリアのベルカントというと,のびやかではあるが,同時に独特の押しつけがましさもあるのだが,タリアヴィーニにはそれがない。彼の声は高い音域でも常に耳にやさしく柔らかい。こんなに爽快な美声は例がなく,それは今聴いて驚くほど新鮮だ。
★ホッター Hans Hotter (1909―2003)
オーストリアのバス・バリトン歌手。ミュンヘンで哲学、ついで指揮、オルガン演奏など幅広く音楽を学び、当初教会音楽家として活動する。1930年オペラにデビュー。以後約10年間ハンブルクで活躍したのち、ミュンヘンを中心にドイツ、オーストリアの主要歌劇場で、第二次世界大戦後はロンドン、ニューヨークなどでも活躍した。ワーグナーの作品の歌唱、なかでも『ニーベルングの指環(ゆびわ)』のウォータンに代表される知性的で緊張感のある解釈で高い評価を獲得、20世紀なかばのもっとも優れたワーグナー歌手の一人とされた。1950年代から60年代前半は、バイロイト音楽祭で数々の名唱を残した。一方、1941年からは歌曲のリサイタルを始め、彫りの深い表現で知られたシューベルト『冬の旅』の歌唱は127回に及んだ。72年オペラの舞台からは引退、その後はベルクの『ルル』など限られた役しか引き受けず、歌曲を中心に活動を続けた。教育者としても名高い。1962年(昭和37)初来日。
★ダル・モンテ Gigli, Dal Monte (1898―1978)
ダル・モンテは、イタリアを活動の主舞台にした、20世紀最初のイタリア人コロラトウーラのスター歌手である。というのも、先輩格のテトラッツィーニやガッリ=クルチは、ロンドンやニューヨークなど、イタリア国外に拠点を移してしまっていたからだ。ダル・モンテの出現以前の20世紀イタリアでは、コロラトゥーラのスター歌手というのは、ほとんどがスペイン人だった。バリエントス、デ・イダルゴ、ガルバニーなど、みな華麗な技巧の持ち主ではあったが、劇的な表現の流行っていたイタリアでは、なんというか浮世離れした、特殊な歌手たちという印象がつよかった。自国人が成功できず、スペイン人が幅をきかせていたイタリアで、ダル・モンテが好評をえることができたのは、なぜなのか。あえていえば、ダル・モンテが超絶技巧において、前述のようなライバルたちほどの冴えを持っていなかったからかも知れない。彼女たちはしばしば技巧を暴走させ、それがまた魅力となっていたのだが、ダル・モンテには羽目を外しすぎない生真面目さがあった。共演者ジーリはその回想録で、ダル・モンテについて「1918年、わたしがダル・モンテとマスカーニの《ロドレッタ》を歌ったとき、彼女は美しいリリコの声を持っていて、《椿姫》や《ボエーム》のロマンティックなヒロイン役にうってつけだった」と書いている。ところが、とさらに続けて、「興行主たちは《ルチア》や《ラクメ》や《夢遊病の女》のような技巧的なコロラトゥーラ役を歌うように仕向けた。それで世界的な名声を得ることが出来たけれども、やがて年をとってコロラトゥーラの技巧をこなせなくなったとき、かれらや聴衆はあっさりとダル・モンテを見捨ててしまった。その生来のリリコの声は損なわれていなかったのに、誰も興味を持たなかった」という意味の事を書いている。コロラトゥーラの技巧をもった、叙情的なリリコ。それがダル・モンテの本質であり、人気の秘密だったのだろう。技巧だけではないからこそ、イタリアでは異例の人気を得ることが出来たのだ。ジーリのいうリリコとしての生来の魅力は、今回のCDの余白に収められた、《ロドレッタ》のアリアを聴けば、なるほどと納得できる。その澄んだ悲劇性。41年、49歳になろうという時期の録音だが、ジーリがいうとおり、その美は損なわれていない。18年にジーリがこのオペラで共演したときも、ダル・モンテはこのように歌ったのにちがいない。肝心の《蝶々夫人》も、コロラトゥーラから生来のリリコへと戻りはじめたダル・モンテの姿をとどめたものである。現代風の発声に慣れた耳には、そのピンと張った声に最初はかなり違和感があるだろう。しかし減点法であらさがしをすることをやめ、虚心に聴けば、その別の魅力がきこえてくるはずだ。ダル・モンテはコロラトゥーラとしては全曲盤を録音せず、これが唯一の全曲盤になった。あるいはこのことこそが、ダル・モンテの本質を示しているのかもしれない。
★シャリアピン Fyodor Ivanovich Shalyapin(1873―1938)
ロシアのバス歌手。カザンの貧しい家庭に生まれ、ほとんど独学で声楽を習得。教会の聖歌隊や地方の小歌劇団で歌ったのち、ペテルブルグのマリンスキー劇場を経て、1896年以後モスクワで『ボリス・ゴドゥノフ』などのオペラに出演、名声を確立した。89年から1914年までボリショイ劇場専属歌手を務めながらミラノのスカラ座をはじめ欧米の主要歌劇場で歌った。18年以後マリンスキー劇場の芸術監督。22年パリに移住、以後西欧中心に活躍し、36年(昭和11)来日。広い声域とレパートリーを有したが、とくに『ボリス・ゴドゥノフ』などのロシア・オペラに、深い人間味と豊かな芸術性を備えた解釈を示した。衣装、演出なども手がけ、『ドン・キホーテ』などの映画にも出演し、パリに没した。
★三浦環(1884―1946)
ソプラノ歌手。旧姓柴田(しばた)。明治17年2月22日、東京に生まれる。1903年(明治36)東京音楽学校在学中、同校の奏楽堂で、日本人による最初のオペラ公演、グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』でエウリディーチェ役を歌った。翌年卒業後、母校の助教授となるが、11年、帝国劇場歌劇部の主席歌手として迎えられる。13年(大正2)三浦政太郎と結婚。翌年5月渡欧し、ロンドンで指揮者ウッド卿(きょう)にみいだされ、同年秋、同地で演奏会を開き人気を博した。15年、ロシアの名歌手ロージンとプッチーニ作曲『蝶々夫人(ちょうちょうふじん)』を歌い大好評。以後、欧米各国で20年間に2000回にわたり蝶々さんを演じた。その明澄甘美な歌声は、作曲者のプッチーニに「わが夢」と激賛されるほどであった。35年(昭和10)帰国し、翌年、2001回目の『蝶々夫人』演奏会を歌舞伎(かぶき)座で開催。以後、死去までの10年間は日本で演奏・教育活動を行い、昭和21年5月26日、東京で死去した。
★藤原義江 (1898―1976)
テノール歌手。明治31年12月5日山口県下関(しものせき)市生まれ。父は駐日ノルウェー総領事でイギリス人のリード。11歳で上京、1917年(大正6)新国劇に大部屋俳優として参加、一時、沢田の命名による戸山英二郎を名のったが、18年、田谷力三(たやりきぞう)の美声に魅せられ、オペラ歌手に転向、浅草オペラの創始者伊庭孝(いばたかし)のもとで活躍した。20年イタリアに留学、ミラノでガラッシ、ピネッティに師事、21年ロンドンのデビュー・リサイタルで認められ、以後、天性の魅力、楽天主義、体当たり主義で各界の有力者と知己になり、欧米の大都市の独唱会では「東洋のバレンチノ」と騒がれた。『朝日新聞』はこれを「我等(われら)のテナー」の見出しで報じ、22年の帰国第1回リサイタルは空前の人気を集めた。28年(昭和3)医学博士夫人・宮下あき(旧姓中上川(なかみがわ)、後の藤原あき)と結婚、「世紀の恋」の話題をまくが、53年(昭和28)離婚。34年藤原歌劇団を結成、本格的なオペラを日本の土にしようと、第二次世界大戦の始まるまでオペラとリサイタルの両面で内外で活躍。また『波浮(はぶ)の港』『出船』『鉾(ほこ)をおさめて』などの日本歌曲をレコードを通じて広く普及させた。戦後は52年に団員を率いて『蝶々(ちょうちょう)夫人』のニューヨーク公演を成功させた。47年度の芸術院賞を受賞。67年歌手業を引退。自伝『流転七十五年』がある。昭和51年3月22日死去。
★伊藤京子 (1927 - )
日本のオペラ・ソプラノ歌手。恵まれた容姿と温かみのある透明な声で、アイドル的な人気を博した。増田いずみや永井和子、佐藤ひさら等を育てた。国立音楽大学名誉教授、静岡文化芸術大学客員教授。社団法人日本演奏連盟理事長の傍ら、日本音楽コンクール顧問も務めている。静岡県掛川市出身。東京音楽学校卒、研究科を修了。グロースマン、ネトケ・レーヴェ、原信子等に師事。1949年、第18回日本音楽コンクールで第1位を獲得後、「フィデリオ」でデビュー、以後オペラとコンサートの両分野で活躍した。1970年、芸術選奨文部大臣賞、毎日芸術賞を受賞した。1988年12月31日、第39回NHK紅白歌合戦において、審査員を務めた。1995年、日本芸術院会員。1999年、中日文化賞受賞[1]。2001年12月19日、ビクターより本人選曲で初のベストアルバムがリリースされた。特に日本歌曲での足跡は大きい。オペラでも容姿や演技力を生かしたヒロイン役で、一時期の二期会を支えた。上記の賞の他にも、紫綬褒章・勲三等瑞宝章なども受章している。


各名歌手の略歴を調べたあとは、得意な持ち歌を調べ、それを作曲家別に仕分けしてみました。多く歌われる演目に★印を付しました。なんだか多数決みたいですが、凡人が初めての分野にアプローチするのですから、仕方ありません。大目に見てください。こうしてみると、ヴェルディがダントツなのがよくわかります。

〔ウェーバー〕
オベロン(ドミンゴ)
【ヴェルディ】
仮面舞踏会(ドミンゴ、マリア・カラス)、
ドン・カルロ(ドミンゴ、カレーラス、シミオナート)、
オテッロ(ドミンゴ、テバルディ、デル・モナコ)、
★椿姫(ドミンゴ、カレーラス、グルベローヴァ、マリア・カラス、アンナ・モッフォ)、
リゴレット()、
★アイーダ(パヴァロッティ、カレーラス、マリア・カラス、テバルディ、シミオナート、デル・モナコ)、
マクベス(マリア・カラス)、
リゴレット(パヴァロッティ、マリア・カラス)、
★イル・トロヴァトーレ(マリア・カラス、テバルディ、シミオナート、デル・モナコ)、
★運命の力(マリア・カラス、テバルディ、シミオナート、デル・モナコ)、
〔オッフェンバック〕
ホフマン物語(ドミンゴ)
〔ケルビーニ〕
メデア(マリア・カラス)、
〔サン・サーンス〕
サムソンとデリラ(カレーラス)
〔シューベルト〕
冬の旅(ホッター)、
〔ジョルダーノ〕
アンドレア・シェニエ(カレーラス、テバルディ、デル・モナコ)、
〔スポンティーニ〕
ヴェスタの巫女(マリア・カラス)、
〔チレア〕
アドリアーナ・ルクヴルール(カレーラス、テバルディ)、
〔ドニゼッティ〕
愛の妙薬(パヴァロッティ、タリアヴィーニ)、
マリア・ストゥアルダ(グルベローヴァ)、
★ランメルモールのルチア(グルベローヴァ、マリア・カラス、アンナ・モッフォ、タリアヴィーニ)、
アンナ・ボレーナ(マリア・カラス、シミオナート)、
〔ビゼー〕
★カルメン(ドミンゴ、カレーラス、マリア・カラス、シミオナート、アンナ・モッフォ、デル・モナコ)
〔プッチーニ〕
マノン・レスコー(ドミンゴ、マリア・カラス)、
西部の娘(ドミンゴ、テバルディ、デル・モナコ)、
★トゥーランドット(ドミンゴ、カレーラス、マリア・カラス、テバルディ、ニルソン)、
トスカ(ドミンゴ、カレーラス、マリア・カラス、テバルディ、ニルソン、)、
★蝶々夫人(ドミンゴ、マリア・カラス、テバルディ、アンナ・モッフォ、ダル・モンテ)、
★ラ・ボエーム(パヴァロッティ、マリア・カラス、テバルディ)、
三部作(テバルディ、)、
〔ベッリーニ〕
ノルマ(マリア・カラス、シミオナート)、
清教徒(マリア・カラス)、
〔マスカーニ〕
★カヴゥレリア・ルスティカーナ(ドミンゴ、テバルディ、シミオナート)、
〔マスネ〕
ウェルテル(カレーラス)
〔ムソルグスキー〕
ボリス・ゴドゥノフ(シャリアピン、)、
〔モーツァルト〕
後宮からの逃走(グルベローヴァ、)、
魔笛(グルベローヴァ、リタ・シュトライヒ、)、
★フィガロの結婚(アンナ・モッフォ、シュワルツコップ、リタ・シュトライヒ、)、
ドン・ジョヴァンニ(シュワルツコップ、)、
コシ・ファン・トゥッテ(シュワルツコップ、)、
〔J・シュトラウス二世〕
こうもり(ドミンゴ、グルベローヴァ、シュワルツコップ、)、
〔R・シュトラウス〕
★ナクソス島のアリアドネ(グルベローヴァ、シュワルツコップ、リタ・シュトライヒ、)、エレリトラ(ニルソン、)、
ばらの騎士(シュワルツコップ)、
カプリッチョ(シュワルツコップ、)、
〔レオンカヴァルロ〕
トリアッチ(ドミンゴ)、
道化師(デル・モナコ)、
〔レハール〕
メリーウィドウ(シュワルツコップ)、
〔ロッシーニ〕
アルジェのイタリア女(シミオナート)、
セビリアの理髪師(シミオナート)、
〔ワーグナー〕
ローエングリン(ドミンゴ、ニルソン)、
パルシファル(ドミンゴ)、
トリスタンとイゾルデ(ニルソン、ホッター)、
ニーベルングの指輪(ニルソン、ホッター)、
ワルキューレ(ホッター)、
ジークフリート(ホッター)、
パルシファル(ホッター)、
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by sentence2307 | 2013-01-27 09:39 | 徒然草 | Comments(38)
先月末にWOWOWのプログラムが送られてきたとき、いつもなら次の月に見る映画の目星をつけるくらいで(話題作と最新作は見逃さないように注意していますが、録画に頼り切っていて放送をリアルタイムで見たことがありません)、映画以外のその他の記事を詳しく読んだことがなかったのですが、ふと見ると、WOWOWライブで、メトロポリタン・オペラ公演のワーグナー「ニーベルングの指輪」を4夜にわたって放送すると書いてありました。

《ニューヨークにある世界最大級のオペラハウス「メトロポリタン歌劇場」。1883年に創設されて以来、最高水準のオペラを上演し続けるこの舞台は、世界トップ歌手たちの夢の競演に加え、セットや衣装などなにもかも華麗!ウィーン国立歌劇場、ミラノのスカラ座と並ぶオペラの殿堂として、「MET(メト)」の愛称で親しまれてきた。そのオペラ公演を最新技術を駆使したカメラワークと5.1chのダイナミックな音声で収録したMETライブビューイングを、全35作品放送する。幕間では、今まさに歌い終わった歌手たちへの直撃インタビューや、舞台セットの転換の様子など、劇場では見られない映像も満載。オペラファンにも、初心者にも、METのすばらしさを余すことなくお届けする。》

もちろん、自分はこれまで、オペラはおろか、単独で歌われるアリアのたぐいも進んで聞いたことはありません。

もともと興味がないのですから、仕方ないのですが、「勝手が分からない」ということもあります。

ただ、映画「アマデウス」を見たとき、モーツァルトの「フィガロの結婚」とか「魔笛」とかに(一瞬のシーンにすぎませんが)心をひかれたのですが、それも自分の知識のなさが原因で、結局それ以上積極的にはなれませんでした。

辛うじて題名くらい知っている程度で、おこがましくてワーグナーの「ニーベルングの指輪」など見通せるわけがないと、今回は残念ながら、録画するのも見送りました。

しかし、諦めたわけではありません。

少し前に、歌舞伎とオペラとを比較したときに感じたことなのですが、スタンダードな演目を違う演者が様々な個性で演技を競うということに観賞の醍醐味があるのだとすれば、観賞するまえに、まずはその「スタンダード」を学ぶ必要があるのではないか、ストーリーを知らないで演技を楽しむなんて、できるわけがないと考えました。

そうそう、落語なんかでもそうですよね。

僕たちが知っている名人上手の語りの記憶を念頭に、いまの若い噺家の落語を聞いて、随分がっかりすることも多いのですが、しかし、そのたびに失望はするかもしれないとしても、「観賞」すること自体を失ってしまったら、元も子もないというか、それこそ何にもならないという気がします。

自分の周りにも何人かの熱狂的なワグネリアンがいて、以前は、どうすればあんなふうに熱狂できるのか、なんだか不思議で羨ましかったのですが、多分知識の積み重ねと、経験の積み重ねとによって、ああいうワグネリアン出来上がるのだと思うようになりました。

そこで、ずいぶん安直とお思いになるかもしれませんが、さっそく図書館に行って関連本を借りてくることにしました、知識の詰め込みをしようと思います。

借りてきたのは、宮澤縦一という人の書いた「私がみたオペラ名歌手名場面」講談社、1996.10.4.1刷、360頁、という本です。

う~ん、これはいいかもしれません。

名オペラ歌手の最も得意とする演目が列挙されているのですから、オペラのにわか勉強の参考書には、うってつけじゃないですか。

それにしても名オペラ歌手というのは、ずいぶんいるものですね。

ここに挙げられている歌手だけでも19人もいました。ざっと、こんな感じです。

ドミンゴ、パヴァロッティ、カレーラス、グルベローヴァ、マリア・カラス、テバルディ、シミオナート、ニルソン、アンナ・モッフォ、シュワルツコップ、リタ・シュトライヒ、デル・モナコ、タリアヴィーニ、ホッター、ダル・モンテ、シャリアピン、三浦環、藤原義江、伊藤京子、

以下、まずは名歌手たちの略歴などを検索しました。

★ドミンゴ Placido Domingo (1941― )
スペインのテノール歌手。マドリード生まれ。幼時両親とともにメキシコに移る。両親はスペインの歌劇サルスエラの歌手。メキシコでピアノ、指揮を学んだのち声楽を修め、当初はサルスエラの歌手として活躍。テノール歌手としてオペラに本格的なデビューを飾ったのは1960年、ベルディ『椿姫(つばきひめ)』のアルフレード役であった。62~65年イスラエル国立オペラに所属、66年ニューヨークにデビューし、以後世界の主要歌劇場でイタリア・オペラを中心に歌い、今日の代表的テノール歌手として名声を確立している。1976年(昭和51)イタリア歌劇団の一員として初来日して以来、メトロポリタン歌劇場の日本公演などに参加してたびたび来日。パバロッティ、カレーラスとともに現代の「三大テノール」とよばれ、1990年サッカー・ワールドカップ・イタリア大会の決勝戦前夜のコンサートで3人は初共演した。以来94、98、2002年のワールドカップほか世界各地で三大テノールのコンサートは行われた。近年はオペラの指揮者としても活躍している。

★パヴァロッティ Luciano Pavarotti (1935―2007)
イタリアのテノール歌手。モデナ生まれ。1961年デビュー。63年アムステルダムで国外デビュー。65年ミラノ・スカラ座に初登場、67年にはカラヤン指揮、ベルディの『レクイエム』の独唱者として大成功を収め、イタリアのテノールの代表的存在として世界各地の主要歌劇場で活躍。ベルディのほかドニゼッティ、ベッリーニなどのベルカント・オペラを得意としていた。大きな体格ではあるが、声質はむしろ細く甘美であり、その明快で輝かしく、知的にコントロールされた表現も高く評価され、とくにアメリカでは絶大な人気があり、またテレビなどメディアへの登場も多かった。カレーラス、ドミンゴとともに今日の「三大テノール」と称され、1990年サッカー・ワールドカップ・イタリア大会の決勝戦前夜のコンサートで3人は初共演した。以来94、98、2002年のワールドカップでも三大テノールのコンサートは行われた。1971年(昭和46)イタリア・オペラ団の一員として初来日以来、たびたび日本を訪れ、オペラ、三大テノールによるコンサートなどに出演した。ほか2006年のトリノ冬季オリンピック開会式への出演、大規模な野外コンサートなど歌劇場以外での活動も多彩であった。

★カレーラス Jos Carreras (1946― )
スペインのテノール歌手。バルセロナに生まれ、同地の音楽院で声楽を学んだのち、1971年パルマで開かれたベルディ国際声楽コンクールで1位となる。ソプラノ歌手カバリエらの口添えで同年ロンドンにデビューしたのを皮切りに、世界各地の一流の歌劇場に出演。ベルディを中心にイタリア、フランスのオペラを幅広く歌い、声の甘美さ、フレーズの作り方の純粋な美しさにより、同世代のリリック・テノールの代表的歌手とされている。1973年(昭和48)NHKの招いたイタリア歌劇団に加わって初来日。一時、病気のため舞台から退いたが、89年に復帰、パバロッティ、ドミンゴとともに現代の「三大テノール」とよばれ、1990年サッカー・ワールドカップ・イタリア大会の決勝戦前夜のコンサートで3人は初共演した。以来94、98、2002年のワールドカップほか世界各地で三大テノールのコンサートは行われた。

★エディタ・グルベローヴァ Edita Gruberová, (1946 ―)
ソプラノ歌手。チェコスロバキア(現在はスロバキア)のブラティスラヴァに生まれる。父親はドイツ系で母親はハンガリー系である。同地の音楽院で学んだ後、プラハ、ウィーンで声楽を学ぶ。 1968年、わずか22歳でブラティスラヴァの歌劇場でデビュー、1970年にはウィーン国立歌劇場と契約、1973年にはザルツブルク音楽祭に出演する。圧倒的な美声と驚異的な技巧を兼備したコロラトゥーラ・ソプラノ。 同郷からオーストリアに移った先輩であるルチア・ポップがおおむねドイツオペラを中心に活躍したのに対しイタリアオペラ等にも積極的で、特にベルカントでは当代を代表する歌い手の一人である。夫の指揮者フリードリッヒ・ハイダーがそのバックを振ることが多く、彼はオーストリア人にもかかわらずイタリアオペラのスペシャリスト的存在となっている。自身の半生を語った自叙伝『うぐいすとバラ』(音楽之友社)があり、現在の華々しい活躍からは想像もできない若い頃のグルベローヴァの苦悩を知ることができる。

★マリア・カラス Maria Callas (1923―1977)
ギリシアのソプラノ歌手。ギリシア系移民の子として、12月3日ニューヨークに生まれる。15歳のときギリシアに移り、アテネ音楽院で学び、1941年アテネ歌劇場でプッチーニの『トスカ』でデビュー。47年北イタリア、ベローナのオペラ祭で一躍有名となり、イタリア各地の歌劇場でベルディやワーグナーのオペラを歌うようになったが、指揮者セラフィンの勧めで、19世紀前半からベルディまでのイタリア・オペラを中心にするようになり、劇的に彫琢(ちょうたく)された演技、ベルカントの歌唱様式の理想、役に対する知的な解釈が一体となった演奏スタイルをつくりあげた。とくに1950年代のカラスは、流麗さと多彩な声質を駆使し、人物の深い心理表現を探究するのに成功した。しかし、60年代には声に変調をきたすことが多くなり、しばしば公演をキャンセルした。65年ロンドンのコベント・ガーデン王立歌劇場で『トスカ』を歌ったのを最後にオペラの舞台から引退。70年にはパゾリーニ監督の映画『王女メディア』に出演。以後はときおり教育活動と演奏会を続け、73年(昭和48)にはディ・ステファノとのジョイント・リサイタルで来日した。77年9月16日パリで没。

★テバルディ Renata Tebaldi (1922―2004)
イタリアのソプラノ歌手。ペザロに生まれ、1944年デビュー。2年後ミラノ・スカラ座のオーディションを受け、名指揮者トスカニーニの目に留まったため、47年彼の指揮でスカラ座の初舞台を踏んだ。以後十数年にわたり毎年スカラ座に出演しつつ世界の主要歌劇場で活躍、50年代はマリア・カラスと名声を競い合った。豊かで明るく透明な声、自然な発声法、作品のスタイルに即し、劇的であるとともに精緻(せいち)な感情表現を特徴とし、一時代前の名技主義的、感情過多的表現とは一線を画した表現を確立した。ベルディ、プッチーニをおもに歌い、多くの録音を残している。61年(昭和36)初来日。デル・モナコと共演した『トスカ』などは名唱とされている。76年引退。

★シミオナート Giulietta Simionato (1910―2010)
イタリアのメゾ・ソプラノ歌手。フォルリに生まれる。ロビーゴでグイード・パルンボGuido Palumboなどに師事。1928年にモンターニャ(イタリア)でマスカーニの『カバレリア・ルスティカーナ』のローラ役を歌い、1933年フィレンツェのベルカント・コンクールで優勝。1935年にはイルデブランド・ピツェッティの『オルセオロ』初演のために行われた、フィレンツェでのコンクールで385人のライバルを破り第1位を獲得。翌1936年ミラノのスカラ座でベルディの『リゴレット』のマッダレーナ役を歌ってデビューしたが、初めは脇役としての採用だった。その後ベネチアのフェニーチェ座、ローマ歌劇場、ナポリのサン・カルロ劇場に出演、さらに第二次世界大戦後にはイタリア以外の国々での活躍も加わり、ロンドンのコベント・ガーデン王立歌劇場、ウィーン国立歌劇場、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場など各国の主要な劇場に出演する。美しい容姿と、優れた歌唱力と演技力、性格描写で世界中に知られる。1966年ピッコロ・スカラ(ミラノ)で、モーツァルトの『ティトゥス帝の慈悲』のセルビリア役を最後に引退、後進の指導にあたる。数多くの録音が残っているが、そのうちのいくつかを挙げると、ローマのアルジェンティーナ歌劇場でのロッシーニ『セビーリャの理髪師』(ロジーヌ役)、指揮フランコ・カプアーノFranco Capuano、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院合唱団と管弦楽団の共演によるチレーアのオペラ『アドリアナ・ルクブルール』(ブイヨン公爵夫人役)、ベルディのオペラ『トロバトーレ』(ザルツブルク音楽祭(1962)でのライブ録音。アズチェーナ役)などがある。またベルディのオペラ『仮面舞踏会』(ミラノ・スカラ座管弦楽団と合唱団、指揮ジャナンドレア・ガバッツェーニGianandrea Gavazzeni(1909―96))は1957年スカラ座でのライブ録音であるが、アメリアをマリア・カラス、ウルリカをシミオナートが演じている。また、『ジュリエッタ・シミオナート・オペラ・アリア集』も出ている。NHKが1956年(昭和31)から20年間にわたって8回行った「イタリア歌劇団公演」の映像が残っており、モノクロームではあるがシミオナートの姿もDVDで見ることができる。『セビーリャの理髪師』でのロジーヌ、『アイーダ』のアムネリス、『フィガロの結婚』のケルビーノ、『トロバトーレ』のアズチェーナ、『カバレリア・ルスティカーナ』のサントゥッツァ、『ドン・カルロ』のエボリ公爵夫人などの役を得意とし、第二次世界大戦後のイタリア・オペラの黄金時代を築いたオペラ歌手の一人である。

★ニルソン Birgit Nilsson (1918―2005)
スウェーデンのソプラノ歌手。ウェスタ・カルプに生まれる。ストックホルム王立音楽院で学び、1946年同地の歌劇場でデビュー。54年、ミュンヘンでワーグナーの『ニーベルングの指環(ゆびわ)』のブリュンヒルデを歌ったほか、ウィーン国立歌劇場、バイロイト音楽祭に初登場した。57~70年は毎年バイロイト音楽祭で『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデ、『ニーベルングの指環』のブリュンヒルデやジークリンデを歌い、当代最高のワーグナー歌手の一人とされた。オーケストラの響きにも劣らぬほどの豊かな声量、また、劇的で緊張感にあふれた表現により、ワーグナーばかりでなく、『エレクトラ』などR・シュトラウスのオペラでも名演を残した。67年(昭和42)大阪国際フェスティバルの『トリスタンとイゾルデ』公演で初来日。85年引退。

(以下②)
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by sentence2307 | 2013-01-27 09:36 | 徒然草 | Comments(1)
新聞で「大島渚死去」の報に接したとき、まず僕のアタマに思い浮かんだのは、自分が、かつて自分のブログに掲げた「日本の映画監督ベスト10」のなかに、果たして大島渚は入っていただろうかという思いでした。

案の定、確かに自分のその懸念は当たっていました、大島渚は、ぼくの「日本の映画監督ベスト10」のなかには、みごとに入っていませんし、ヘタすると、この勢いなら、ベスト20にさえ入らないオソレがあるくらいです。

「愛と希望の街」には、それなりに触発されましたし、「青春残酷物語」「太陽の墓場」「日本の夜と霧」から受けた衝撃は、(作品のスタイルとしても)それまでの邦画には存在しなかったあまりにも桁違いすぎる作品で、それはもはやスキャンダルというべきものでした。

当然、それらの作品は、いままでの自分の固定観念には収まりきれず、それらの作品をどうにか自分の中に消化するためには、かなりの時間を要したと思います。

そんなぐあいに当時発表される大島渚作品の一本一本に対して、そのたびに深刻な衝撃を受けてきたはずなのに、現在のぼくの「日本の映画監督ベスト10」から抜け落ちてしまうというのは、いったいこれはどういうことなのか、考え込んでしまいました。

そんなとき、ある本で、大島渚について、こんな書き出しから始まる記事を読んだことを思い出しました。

「大島渚以前の日本映画と、大島渚以後の日本映画という言説がある。」というのです。

これを読んだとき、とっさに「ほんとかなあ」と訝しく感じました。

厳密にいうなら、たぶん、大島渚にこうした形容が相応とされた時期は、彼の生涯のうちでもほんのわずかな期間にしか当てはまらないように思えてならないからです。

具体的にいえば、松竹で「日本の夜と霧」という、まるで大会社の限界に挑むような、どう見ても政治的カルトムービーとしか思えない、きわめて挑戦的で過激な作品を撮り(「挑戦的」だったのは「松竹」に対してであり、必ずしも「日共」でなかった部分に、大資本傘下の体制に寄り掛かりながら気炎を吐くことになんらの矛盾を感じることのなかった官製ずれした青きインテリ京大生クズレの甘えと限界を感じます)、商業作品を量産していたメジャーの撮影所「松竹」という大会社の既成の枠に収まり切れない(当然ですが)作品を撮ったことで、予想もしていなかった「松竹」の不興を買い、あからさまではなかったにしろ大資本の冷淡さに直面し、それでも青白きインテリ京大生出のエリートの矜持から、いまさら会社におもねることもできず、その自尊心のために松竹を退社しなければならなくなり、致し方なく「創造社」を立ち上げたというのが自分の認識です。

この一面を無視して、それまでの日本映画にはなかった政治意識の導入や戦闘的かつ前衛的なスタイルとしての大島の登場=日本映画の刷新という部分を過大評価することに危惧を感じています。

そこには「日本の夜と霧」製作による予想もしなかった会社側の拒否に直面した幼稚な戸惑いがあり、あわてて独立プロを立ち上げたというところに大島渚の「資本」に対する距離のとり方の錯誤と認識不足、大衆を無視した部分でしか「革命的妄想」を描きあげられず、「批判者=カウンターパンチャー」として先鋭化させなければならなかった脆弱さがあったかもしれません。

確かにそれは、新たな時代を切り開く者の「前衛」としての孤独な限界だったかもしれませんが、しかし、たとえば、逆に、松竹を飛び出した理由というのを、今後「日本の夜と霧」みたいな作品を撮り続けたいと願い、つまり、あの政治的カルトムービーこそが、大島渚が「本当に撮りたかった作品」だったのだという認識に絞ってみるとするなら、以後、大島渚が撮った作品の数々は、「日本の夜と霧」とは似ても似つかないものばかりで、その変節には驚くべきものがあるといわざるを得ません。

そのことがなにを示唆しているのかといえば、独立プロを立ち上げ、それを会社として維持運営していかなければならなくなったために、「撮りたいものを撮る」つもりだったものが、次第に「客が入るものを撮る」という資本の要求にじわじわと侵食され、自縄自縛に陥り、その果てに、やがて独立以後の大島渚の作品は、イットキのピークを超えたのち次第に失速し、同時にテーマの純粋性を欠き続け、「異色作」を連発させながら惨憺たる末路をさらしたというのが自分の認識です。

具体的にいえば、穏やかな大衆・平穏な社会に対する苛立ちと怒りによって政治的挑発の仕掛け=テロルとしての映画だったはずのものが、やがて大衆受けする扇情的な「性」の要素を取り入れ懐柔に転じたことによって、多くの日本の巨匠たちの悪しき前例をなぞるかのように、ついに自らの作家的モチベーションを崩し、閉ざし、隘路に迷い込んで息切れし、ついに沈黙を強いられるという墓穴を掘ったのだと考えています。
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by sentence2307 | 2013-01-20 11:06 | 映画 | Comments(4)

第70回ゴールデングローブ賞(映画部門)
(★が、受賞です。)

◆作品賞<ドラマ部門>
★アルゴ(ベン・アフレック監督)
 ジャンゴ 繋がれざる者(クエンティン・タランティーノ監督)
 ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日(アン・リー監督)
 リンカーン(スティーヴン・スピルバーグ監督)
 ゼロ・ダーク・サーティ(キャスリン・ビグロー監督)

◆作品賞<ミュージカル/コメディ部門>
 マリーゴールド・ホテルで会いましょう(ジョン・マッデン監督)
★レ・ミゼラブル(トム・フーパー監督)
 ムーンライズ・キングダム(ウェス・アンダーソン監督)
 砂漠でサーモン・フィッシング(ラッセ・ハルストレム監督)
 世界にひとつのプレイブック(デヴィッド・O・ラッセル監督)

◆監督賞(共通部門)
★ベン・アフレック(アルゴ)
 キャスリン・ビグロー(ゼロ・ダーク・サーティ)
 アン・リー(ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日)
 スティーヴン・スピルバーグ(リンカーン)
 クエンティン・タランティーノ(ジャンゴ 繋がれざる者)

◆主演男優賞(ドラマ)
★ダニエル・デイ=ルイス(リンカーン)
 リチャード・ギア(Arbitrage)(原題)
 ジョン・ホークス(The Sessions)(原題)
 ホアキン・フェニックス(ザ・マスター)
 デンゼル・ワシントン(フライト)

◆主演女優賞(ドラマ)
★ジェシカ・チャステイン(ゼロ・ダーク・サーティ)
 マリオン・コティヤール(君と歩く世界)
 ヘレン・ミレン(ヒッチコック)
 ナオミ・ワッツ(The Impossible)
 レイチェル・ワイズ(The Deep Blue Sea)(原題)

◆主演男優賞(コメディ/ミュージカル)
 ジャック・ブラック(Bernie)(原題)
 ブラッドリー・クーパー(世界にひとつのプレイブック)
★ヒュー・ジャックマン(レ・ミゼラブル)
 ユアン・マクレガー(砂漠でサーモン・フィッシング)
 ビル・マーレイ(Hyde Park on Hudson)(原題)

◆主演女優賞(コメディ/ミュージカル)
 エミリー・ブラント「砂漠でサーモン・フィッシング」
 ジュディ・デンチ「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」
★ジェニファー・ローレンス「世界にひとつのプレイブック」
 マギー・スミス「カルテット!人生のオペラハウス」
 メリル・ストリープ「Hope Springs」

◆助演男優賞(共通部門)
 アラン・アーキン(アルゴ)
 レオナルド・ディカプリオ(ジャンゴ 繋がれざる者)
 フィリップ・シーモア・ホフマン(ザ・マスター)
 トミー・リー・ジョーンズ(リンカーン)
★クリストフ・ヴァルツ(ジャンゴ 繋がれざる者)

◆助演女優賞(共通部門)
 エイミー・アダムス(ザ・マスター)
 サリー・フィールド(リンカーン)
★アン・ハサウェイ(レ・ミゼラブル)
 ヘレン・ハント(The Sessions)(原題)
 ニコール・キッドマン(The Paperboy)(原題)

◆脚本賞(共通部門)
 マーク・ボール「ゼロ・ダーク・サーティ」
 トニー・クシュナー「リンカーン」
 デビッド・O・ラッセル「世界にひとつのプレイブック」
★クエンティン・タランティーノ「ジャンゴ繋がれざる者」
 クリス・テリオ「アルゴ」

◆作曲賞(共通部門)
★マイケル・ダナ「ライフ・オブ・パイトラと漂流した227日」
 アレクサンドル・デプラ「アルゴ」
 ダリオ・マリアネッリ「Anna Karenina(原題)」
 トム・ティクバ、ジョニー・クリメック、ラインホルト・ハイル「クラウドアトラス」
 ジョン・ウィリアムズ「リンカーン」

◆主題歌賞(共通部門)
 “For You”「ネイビーシールズ」
 “Not Running Anymore”「Stand Up Guys(原題)」
 “Safe & Sound”「ハンガー・ゲーム」
★“Skyfall”「007 スカイフォール」
 “Suddenly”「レ・ミゼラブル」

◆アニメーション映画賞
★「メリダとおそろしの森」
 「フランケンウィニー」
 「モンスター・ホテル」
 「Rise of the Guardians(仮題)」
 「シュガー・ラッシュ」

◆外国語映画賞
★「愛、アムール」(オーストリア・フランス・ドイツ)
 「ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮」(デンマーク)
 「最強のふたり」(フランス)
 「Kon-Tiki」(ノルウェー・イギリス・デンマーク)
 「君と歩く世界」(フランス)

◆セシル・B・デミル賞
★ジョディ・フォスター
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by sentence2307 | 2013-01-20 10:59 | 映画 | Comments(1)

テレビ名画座

キネマ旬報の「2012年ベストテン」が発表されたり、第85回アカデミー賞ノミネート発表があったりで、そうでなくともこの年初め、昨年度上映された作品が「賞」として集中的に評価されて報じられる時期です。

なんだか映画ファンにとっては、チェックするのが嬉しいような、気ぜわしいような慌しい日々が続いています。

いままで、人から映画を見る基準は、と訊かれれば、結構場当たり的に見ているみたいに答えていますが、こうしたベストテン情報やイベント映画祭受賞情報を、そのつどチェックしている影響は結構あるかも。

知識として役立っていることはもちろん、日ごろはナニゲに映画を見ていても、自分のなかに刷り込まれている情報が自然に反応して、見る前に映画を選り分け、徒労と失望を最小限に抑える保険みたいに機能しているのかもしれません。

さて、最近、ある映画を見たことを切っ掛けに、わざわざ図書館に出向いて、ちょっとした調べものをしてきました。

調べもののために図書館に行くなど、実に久しぶりのことで、ここ数年、ついぞありませんでした。

切っ掛けになった作品は、クリスチャン・ジャック監督の「パルムの僧院」1947、自分では、初めて見る映画のつもりで見始めたのですが、見ているうちに、なんだ、これは以前見たことのある作品だぞという思いが、だんだん強くなってきました。

たぶん、こういうのを「既視感」とでもいうのでしょうか。

しかし、どこで見た作品だったのかまでは、どうしても思い出すことができません。

考えられるのは、「フランス映画祭」とか、ジェラール・フィリップの回顧上映会あたりでしょうが、ちょっと考えても、これといった心当たりがないのです。

ジェラール・フィリップといえば、たった34歳の若さで亡くなった夭折の二枚目俳優です、その出演作品といえば、たぶん、それほど多くないのではないかとタカを括っていたところ、実質活動期間がたったの15年ほどなのに、ナント30作品もの出演作があり、その作品のどれもがコテコテの名作ばかり(「世界映画人名事典・男女優編」で数えました)、その人生のごく限られた短い時間を駆け抜けた彼のその勢いと「熱」こそが、後世に伝えられる「名優」たる証しなのだろうなと実感した次第です。

夭折した不運な俳優というだけなら、それこそゴマンといるのでしょうが、後世に語り継がれるほどの伝説的な存在となると、ほんの限られた俳優だけで、その落差はなんだろうと考えたとき、たぶん「若さ」の卓越した表現力などというよりも、むしろ「若さ」の持つ残酷さを呪うように表現できたか否か、その息苦しさ・狂おしさを演じられたかにかかっているような気がします。

こういうことを考えていると、どうしてもいつのまにかジェームス・ディーンの話になってしまうような気がします。

さて、この「パルムの僧院」を以前どこで見たのか、思い出せないまま、何日かが経ったころ、突然思い出しました。

自分が学校(小学生だったか、中学生だったかは不明です)から帰宅する時間帯に、なぜだかいつも、テレビで外国の「名作映画」というのを放映していました。

これといったクラブ活動もしていない「帰宅部」だった自分は、毎日その映画を見続けました。

まだ外国映画の知識もなく疎かった子供の自分でさえ、その題名は既にどこかで耳にしたことがあり、実際に見ても、ずっしりと見ごたえのある作品ばかりでした。

仮に「世界映画作品大事典」などという本があるとすれば、そこで放映された映画は、ことごとく収録されなければならないほどの名作ばかりだったことを、ずっと後になって知りました。

いま考えてもずいぶん贅沢な話です。

月間何百本と放映するwowowでさえ、この手のじっくりと見せる名画を放映する機会はごくマレで、作品の多くは人気の高いドンパチ映画に偏っている現状を考えてみれば、あの「名画」ばかりを放映した時間帯は、いまにして思えばまさに奇跡のような時間だったのだなと思います。

その時間帯の中で見た作品を、例えばジェラール・フィリップ出演作に限って思いつくまま上げてみても、この「パルムの僧院」や「赤と黒」、「悪魔の美しさ」、「肉体の悪魔」、「花咲ける騎士道」、「モンパルナスの灯」、「七つの大罪」、「夜ごとの美女」、「愛人ジュリエット」、「輪舞」など、彼の重要な出演作品は、ほとんどこの番組で見てしまっていることになります。

ジェラール・フィリップ出演作に限っただけで、これだけのボリュームがあったのですから、推して知るべしで、いま考えても、この番組の凄さが分かりますよね。

大袈裟でなく、自分の映画に対する基本的な知識と素養みたいなものは、世界の名画を際限なく放出したこの贅沢すぎる番組によって培われたといっても過言ではないかもしれません。

いわば、これは、僕の映画体験のルーツに位置する磁場だったかもしれません。

果たしてその番組が何チャンネルのものだったのか、そして何という番組名だったのか、見当もつかないまま、放送時間帯だけを頼りに、インターネットで検索してみました。

放送の開始時間は、たぶん午後3時か、あるいは3時30分の間、上映時間が1時間30分から2時間ということからすれば、終了は、おそらく午後5時くらいか。

そんな感じで、いういろいろなキーワードを思いつくままに組み合わせ、微妙に言い換え、繰り返し検索した結果、だんだん大要が分かってきました。

それはフジテレビが、午後の放送休止時間枠(当時は、ほぼ午後3時~5時に放送を停止していたようなのです)に、土日を除く毎日「テレビ名画座」という番組名で、洋画を放映していたらしいのです(ネットでは、自分のようにその番組のことを懐かしげに語っている人が何人かいました)。

ただ、毎日の放送とはいっても、同じ作品を月曜から金曜日まで繰り返して放送していたようですね。

そういうことなのか、それで思い当たることがあります。

例えばクロード・オータン・ララ監督の作品「赤と黒」など、嫌になるほど繰り返し何度も見た印象があって、レーナル夫人を演じたダニエル・ダリューの細かい仕草までが脳裏に強く焼きつき、まるで公文式計算を散々やらされた少年のように奇妙な親近感がすっかり身についてしまっています。

あるブログ記事によれば、この番組が続いた期間は、1961年から1968年4月まで、つまりフジテレビの人気番組・主婦向けワイドショー番組「3時のあなた」が始まるまでの8年ほどだったそうです。

そんな感じで、フジテレビが放送した「テレビ名画座」という番組名までは分かったのですが、具体的にその「テレビ名画座」が、どういう作品を放映したのかという記録までは、残念ながらどうしても調べがつきませんでした。

もともと視聴者からのニーズ自体がなかったので、インターネットで公開するまでもないという放送局側の判断があったのかもしれません。

いくら空き時間の穴埋め番組だったとはいえ、多くの(あるいは「ほんのわずかの」かもしれませんが)映画ファンの心に多くの影響を与えた番組です、いままで誰一人関心さえ持たなかったのかと思うと、なんだか不思議な気がします。

しかし、自分にとっては、なんといっても重大な「ルーツ」的な意味を持つ番組です。

そうやすやすと諦めるわけにはいきません。

そこで思いついたのが、新聞の縮刷版の日々の番組表を実際に確認するというアイデアでした。

新聞の縮刷版なら、図書館の専用棚に並べられているのを見かけたことがあります。

よしっ、これで楽勝楽勝とばかりに、翌日いそいそと近所の図書館に出かけてみて驚きました、その新聞縮刷版専用棚には、終戦直後の数年間と、最近10年間のものしか並べられていません。

肝心の1960年代がごっそり欠けていました。

「ない」ことのショックもありますが、むしろ図書館の「1960年代」に対する軽視の姿勢の方が衝撃だったかもしれません。

仕方なく、あわてて受付の人に縮刷版の所在を聞いたところ、陳列されているもの以外の縮刷版の購入は、予算上既に中止されているという返答でした。

いわゆる「仕分け」ですね。

えっ~! とまずは驚き、ショックで急速に落ち込んでいく自分の萎えていく気を推し留めるようにその係りの人は、パソコンで検索できることを教えてくれました。

な~んだ、それを早く言ってくださいよ、びっくりするじゃないですか。

んなわけで、《「聞蔵」きくぞうⅡビジュアル朝日記事DB》とかいうソフトで1961年の朝日新聞の朝刊に掲載されている番組表(当初は5面に掲載されていた番組表ですが、この年の10月には9面に移っているということは、頁が増えたことを示し、日本社会が徐々に成熟していく過渡期だったことがわかります)を一頁ずつ繰って総ざらいしました。

まず、1月9日(月曜日)からですが、おっと、あった、ありました、ありました。

フジテレビ3:00~5:45「恋路」〔第1週〕とあります。

はは~ん、つまり、なんですね、これはギー・ルフランの1951年度作品「恋路」というわけですか、名優ルイ・ジューヴェの最後の映画出演作でしたよね。

こりゃのっけからずいぶん渋い貴重な作品を放映したわけですね。

そのタイトルのあとに〔第1週〕とあるのは、この週の月曜~金曜までの毎日、「恋路」を放送したため、〔第1週目の放送〕という意味だったのでしょうか。

なるほど、なるほど。

こんなふうに書かれているのなら、なにもご丁寧に縮刷版を一枚一枚めくることもないじゃありませんか、ここは要領よく月曜日の番組表だけを集中的に見ていけばいいですよね。

そんなわけで調査結果を以下に示します。

1月 9日(月曜日)3:00~5:45「恋路」1951(ギー・ルフラン)〔第1週〕
1月16日(月曜日)3:00~5:45「にんじん」1932(ジュリアン・デュビィビィエ)〔第2週〕
1月23日(月曜日)3:00~5:30「悪魔が夜来る」1942(マルセル・カルネ)〔第3週〕
1月30日(月曜日)3:00~5:45「歴史は夜作られる」1937(フランク・ボーザージ)〔第4週〕
2月 6日(月曜日)3:00~5:25「どん底」1936(ジャン・ルノワール)〔第5週〕
2月13日(月曜日)3:00~5:45「偽れる装い」1944(ジャック・ベッケル)〔第6週〕
2月20日(月曜日)3:00~5:25「悲恋」1943(ジャン・ドラノワ)〔第7週〕
2月27日(月曜日)3:00~5:30「オルフェ」1949(ジャン・コクトー)〔第8週〕
3月 6日(月曜日)3:00~5:30「パルムの僧院」1947(クリスチャン・ジャック)〔第9週〕
3月13日(月曜日)3:00~5:00「犯罪河岸」1947(H・G・クルーゾー)〔第10週〕
3月20日(月曜日)3:00~5:50「バラ色の人生」1947(スタンジェル)〔第11週〕
3月27日(月曜日)3:00~4:45「すべての道はローマへ」1948()〔第12週〕
4月 3日(月曜日)3:00~4:30「田舎司祭の日記」1950(ロベール・ブレッソン)〔第13週〕
4月10日(月曜日)3:00~5:00「幻の馬」1944(クリスチャン・ジャック)〔第14週〕
4月17日(月曜日)3:00~4:30「十二時間の幸福」()〔第15週〕
4月24日(月曜日)3:00~4:30「緑の園」(イヴ・アレグレ)〔第16週〕
5月 1日(月曜日)3:00~4:30「永遠の争い」1947()〔第17週〕
5月 8日(月曜日)3:00~5:00「真昼の決闘」1952(フレッド・ジンネマン)〔第18週〕
5月15日(月曜日)3:00~5:00「傷心の湖」()〔第19週〕
5月22日(月曜日)3:00~4:40「或る抵抗」()〔第20週〕
5月29日(月曜日)3:00~4:30「奇蹟は一度しか起こらない」1950(イヴ・アレグレ)〔第21週〕
6月 5日(月曜日)3:00~4:50「聖メリーの鐘」1945(レオ・マッケリー)〔第22週〕
6月12日(月曜日)3:00~4:55「二つの顔」1947()〔第23週〕
6月19日(月曜日)3:00~5:00「シラノ・ド・ベルジュラック」1950()(以下、番組欄に「週」表示のないものは表示せず)
6月26日(月曜日)3:00~5:00「聖ヴァンサン」1947(モーリス・クロシュ)〔第25週〕
7月 3日(月曜日)3:00~5:15「善人サム」1948(レオ・マッケリー)〔第26週〕
7月10日(月曜日)3:00~5:15「北ホテル」1938(マルセル・カルネ)〔第27週〕
7月17日(月曜日)3:00~5:15「港のマリー」1949(マルセル・カルネ)
7月24日(月曜日)3:00~4:45「愛人ジュリエット」1950(マルセル・カルネ)
7月31日(月曜日)3:00~5:15「恋の決算」()
8月 7日(月曜日)3:00~5:10「まんが・ガリバー旅行記」1939()(夏休み番組か)
8月14日(月曜日)3:00~5:00「ヨーロッパの何処かで」1948()
8月21日(月曜日)3:00~5:10「まんが・バッタ君町へ行く」1941()
8月28日(月曜日)3:00~5:15「双児のロッテ」1950()
9月 4日(月曜日)3:00~5:15「裁きは終りぬ」1950(アンドレ・カイヤット)
9月11日(月曜日)3:00~5:15「死の肖像」()
9月18日(月曜日)3:00~5:00「電撃作戦」()
9月25日(月曜日)3:00~5:00「幻想の夜」(マルセル・レルビエ)
10月 2日(月曜日)3:00~5:00「この椅子30万ドル」()
10月 9日(月曜日)3:00~5:00「鉄格子の彼方」1949(ルネ・クレマン)
10月16日(月曜日)3:00~5:10「恋のかけひき(前編)」()
10月23日(月曜日)3:00~5:10「恋のかけひき(後編)」()
10月30日(月曜日)3:00~5:00「美女と野獣」1946(ジャン・コクトー)
11月 6日(月曜日)3:00~5:10「奥様の冒険」()
11月13日(月曜日)3:00~5:00「シンゴアラ」1949((クリスチャン・ジャック)
11月20日(月曜日)3:00~5:00「女の獄舎」1949()
11月27日(月曜日)3:00~5:00「赤毛のグーピ」1943(ジャック・ベッケル)
12月 4日(月曜日)3:00~5:00「乙女の星」1946(クロード・オータン・ララ)
12月11日(月曜日)3:00~5:00「姿なき怪盗」()
12月18日(月曜日)3:00~5:00「王様」1949()
12月25日(月曜日)3:00~5:00「めざめ」1958(アルフレート・フォーレル)

1961年の分を調べるだけで、なんだか息切れがしてきました。

ちなみに上記の調査リストを見てお分かりのように、この番組で放映された映画は、フランス映画がやたら多いことに気づかされます。

今回の調査では、お目当ての「赤と黒」こそ探し出すことは、できませんでしたが(機会があれば、もう一度図書館にいって調べたいとおもっています)、フランス映画がやたらに多いなと誰もが思ったらしく、あるブログにこんな記事がありました。

「フジテレビで午後3時から『テレビ名画座』の放送が始まったのは1960年10月でした(実際は「縮刷版」で確認できた開始日は、1961年1月9日の月曜日からです)。東宝、松竹、大映が資本参加してできた会社ですから、古い映画がたくさんありました。半分は“ほかに放送するものがないから”という理由でその古い映画を放送し、それは1968年4月に主婦向けワイドショー「3時のあなた」が始まるまで続きました。」

なるほど、知ってしまえば、なんだか当初の自分の気負いを一挙に挫かれてしまうような、ずいぶん下世話な理由なので拍子抜けしてしまいますが、しかし、自分にとっての重大なルーツ的意味合いの番組であることには変わりありません。

この調査、キネマ旬報社が出版した「フランス映画史」(世界の映画作家29)を傍らに置いて調べ始めたのですが、実は、この本には、クロード・オータン・ララの「赤と黒」やクリスチャン・ジャックの「パルムの僧院」への言及は一切ありません。

思うにヌーヴェル・ヴァーグに多くのページを割いた本書は、そのヌーヴェル・ヴァーグ運動の主張どおり、クロード・オータン・ララやジュリアン・デュビィビィエなど大衆娯楽活劇映画に牙をむき全否定したその主張をそのまま鵜呑みにした立場で書かれたものとお見受けします。

そしていまでは、その「新しい波」の理念も、巧みにコマーシャリズムに取り込まれ、それなりの価格をつけられて取引されています。

この本を見るたびに、新しいからといってなんでもかんでも飛びつき、提灯持ちにウツツを抜かして、古いものが古いというだけで、ことごとく否定するという軽薄な無様さを見せ付けられるような思いがします。

せめてクロード・オータン・ララの「赤と黒」くらい収録してくださいよ、フランス映画史に燦然と輝く名画なんですから。

眉間に皺を寄せて、わけの分からない小難しい映画だけが映画じゃありません。

さんざんうんざりさせられた「アルファヴィル」をもう一度見てみたいとは決して思いませんが、クロード・オータン・ララの「赤と黒」なら、もう一度見てみたいと切に願っている昨今です。

この「フランス映画史」の著者は岡田晋と田山力哉、公正を欠いた実にみっともない無様な本です。



「赤と黒」
1820年のフランス。大工の息子に生まれながら、才能に恵まれ、野心に燃えた青年ジュリアンは、一歩ずつ夢を実現していく。立身出世を夢見て恋と野心に生きる若者を描いた文豪スタンダールの小説の映画化。赤は軍人、黒は僧侶という出世の道をさす。
当時、文芸ものの脚色にかけてはフランス映画界随一といわれたジャン・オーランシュとピエール・ボストが脚色の筆をとった。ジュリアンソレルの内心の声を、画面外のナレーションで現わすなど、心理小説の映画化に苦心の跡がみえた。1954年公開、1966年再公開、
(1954フランコ・ロンドン=ドキュメントフィルム)監督クロード・オータン・ララ、原作アンリ・ベール・スタンダール、脚本ジャン・オーランシュ、ピエール・ボスト、
出演ジェラール・フィリップ、ダニエル・ダリュー、アントネッラ・ルアルディ

「パルムの僧院」
1815年、ナポリからパルムに帰ってきたファブリスは伯母の公爵に迎えられた。数年ぶりに見る甥の姿に、彼女の肉親の愛が恋心に変わっていく。宮廷で催された夜会で、刑務所長ファビオの娘クレリアは、ファブリスを見てその面影を心に焼き付けた。ファブリスは、女のことで男と争い、彼を刺したために捕らえられ、城砦に幽閉された。そこで彼はクレリアに会い、ふたりは愛し合うようになる。20年の禁固刑を言い渡された甥を救うべく公爵は、反王党派に救いを求め脱出を成功させる。しかし、この事件でクレリアの父は刑務所長を罷免され、クレリアとも別れなければならなくなる。スタンダールの小説を、クリスチャン・ジャックが監督した波乱万丈の時代活劇。日本での劇場公開版は、142分。
(1947フランス)監督脚本クリスチャン・ジャック、原作アンリ・ベール・スタンダール、脚本ピエール・ベリ、ピエール・ジャリ、撮影ニコラ・アイエ
出演ジェラール・フィリップ、マリア・カザレス、ルネ・フォール、ルイ・サルウ、
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by sentence2307 | 2013-01-14 20:41 | 映画 | Comments(6)
映画芸術科学アカデミーは1月10日、第85回アカデミー賞のノミネーションを発表しました。エマ・ストーンとセス・マクファーレンにより伝えられたノミネーションは次の通りです。

◆作品賞
愛、アムール
アルゴ
ハッシュパピー バスタブ島の少女
ジャンゴ 繋がれざる者
レ・ミゼラブル
ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日
リンカーン
世界にひとつのプレイブック
ゼロ・ダーク・サーティ

◆監督賞
ミヒャエル・ハネケ(愛、アムール)
アン・リー(ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日)
デヴィッド・O・ラッセル(世界にひとつのプレイブック)
スティーヴン・スピルバーグ(リンカーン)
ベン・ザイトリン(ハッシュパピー バスタブ島の少女)

◆主演男優賞
ブラッドリー・クーパー(世界にひとつのプレイブック)
ダニエル・デイ=ルイス(リンカーン)
ヒュー・ジャックマン(レ・ミゼラブル)
ホアキン・フェニックス(ザ・マスター)
デンゼル・ワシントン(フライト)

◆主演女優賞
ジェシカ・チャステイン(ゼロ・ダーク・サーティ)
ジェニファー・ローレンス(世界にひとつのプレイブック)
エマニュエル・リヴァ(愛、アムール)
クヮヴェンジャネ・ウォレス(ハッシュパピー バスタブ島の少女)
ナオミ・ワッツ(インポッシブル)

◆助演男優賞
アラン・アーキン(アルゴ)
ロバート・デ・ニーロ(世界にひとつのプレイブック)
フィリップ・シーモア・ホフマン(ザ・マスター)
トミー・リー・ジョーンズ(リンカーン)
クリストフ・ヴァルツ(ジャンゴ 繋がれざる者)

◆助演女優賞
エイミー・アダムス(ザ・マスター)
サリー・フィールド(リンカーン)
アン・ハサウェイ(レ・ミゼラブル)
ヘレン・ハント(The Sessions)
ジャッキー・ウィーヴァー(世界にひとつのプレイブック)

◆脚本賞
愛、アムール
ジャンゴ 繋がれざる者
フライト
ムーンライズ・キングダム
ゼロ・ダーク・サーティ

◆脚色賞
アルゴ
ハッシュパピー バスタブ島の少女
ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日
リンカーン
世界のひとつのプレイブック

◆撮影賞
アンナ・カレーニナ
ジャンゴ 繋がれざる者
ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日
リンカーン
007/スカイフォール

◆編集賞
アルゴ
ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日
リンカーン
世界にひとつのプレイブック
ゼロ・ダーク・サーティ

◆美術賞
アンナ・カレーニナ
ホビット 思いがけない冒険
レ・ミゼラブル
ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日
リンカーン

◆衣装デザイン賞
アンナ・カレーニナ
レ・ミゼラブル
リンカーン
白雪姫と鏡の女王
スノーホワイト

◆メイキャップ&ヘアスタイリング賞
ヒッチコック
ホビット 思いがけない冒険
レ・ミゼラブル

◆視覚効果賞
ホビット 思いがけない冒険
ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日
アベンジャーズ
プロメテウス
スノーホワイト

◆録音賞
アルゴ
レ・ミゼラブル
ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日
リンカーン
007/スカイフォール

◆音響効果賞
アルゴ
ジャンゴ 繋がれざる者
ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日
007/スカイフォール
ゼロ・ダーク・サーティ

◆作曲賞
アンナ・カレーニナ
アルゴ
ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日
リンカーン
007/スカイフォール

◆主題歌賞
「Before My Time」(Chasing Ice)
「Everybody Needs a Best Friend」(テッド)
「Pi's Lullaby」(ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日)
「Skyfall」(007/スカイフォール)
「Suddenly」(レ・ミゼラブル)

◆アニメーション映画賞
メリダとおそろしの森
フランケンウィニー
パラノーマン ブライス・ホローの謎
The Pirates! Band of Misfits
シュガー・ラッシュ

◆外国語映画賞
愛、アムール(オーストリア)
Kon-Tiki(ノルウェー)
NO(チリ)
ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮(デンマーク)
魔女と呼ばれた少女(カナダ)

◆ドキュメンタリー映画賞(長編)
壊された5つのカメラ
The Gatekeepers
How to Survive a Plague
The Invisible War
シュガーマン 奇跡に愛された男

◆ドキュメンタリー映画賞(短編)
Inocente
Kings Point
Mondays at Racine
Open Heart
Redemption

◆短編賞(実写)
Asad
Buzkashi Boys
Curfew
Death of a Shadow
Henry

◆短編賞(アニメーション)
Adam and Dog
Fresh Guacamole
Head over Heels
Maggie Simpson in "The Longest Daycare"
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by sentence2307 | 2013-01-14 20:24 | 映画 | Comments(3)
日本映画監督賞 周防正行「終の信託」

日本映画脚本賞 内田けんじ「鍵泥棒のメソッド」

主演女優賞 安藤サクラ「かぞくのくに」

主演男優賞 森山未來「苦役列車」

助演女優賞 安藤サクラ「愛と誠」「その夜の侍」ほか

助演男優賞 小日向文世「アウトレイジ ビヨンド」ほか

新人女優賞 橋本愛「桐島、部活やめるってよ」「ツナグ」「Another アナザー」ほか

新人男優賞 三浦貴大「ふがいない僕は空を見た」「あなたへ」「わが母の記」ほか

外国映画監督賞マーティン・スコセッシ「ヒューゴの不思議な発明」

日本映画ベスト・テン第1位 「かぞくのくに」(監督/ヤン・ヨンヒ 配給/スターサズ)

外国映画ベスト・テン第1位 「ニーチェの馬」(監督/タル・ベーラ 配給/ビターズ・エンド)

文化映画ベスト・テン第1位 「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」(監督/長谷川三郎 配給/ビターズ・エンド)

【2012年日本映画ベスト・テン】
1位 かぞくのくに
2位 桐島、部活やめるってよ
3位 アウトレイジ ビヨンド
4位 終の信託
5位 苦役列車
6位 わが母の記
7位 ふがいない僕は空を見た
8位 鍵泥棒のメソッド
9位 希望の国
10位 夢売るふたり
*次点(同点) 「この空の花 ―長岡花火物語」「SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」

【2012年外国映画ベスト・テン】
1位 ニーチェの馬
2位 別離
3位 ヒューゴの不思議な発明
4位 ル・アーヴルの靴みがき
5位 ミッドナイト・イン・パリ
6位 アルゴ
7位 戦火の馬
8位 ドライヴ
9位 J・エドガー
10位 裏切りのサーカス
*次点 「桃(タオ)さんのしあわせ」

【2012年文化映画ベスト・テン】
1位 ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳
2位 “私”を生きる
3位 陸軍登戸研究所
4位 流 ながれ
5位 100年の谺(こだま)~大逆事件は生きている
6位 傍~3月11日からの旅~
7位 フタバから遠く離れて
8位 ~放射線を浴びた~X年後
9位 大本営最後の指令~遺された戦時機密資料が語るもの~
10位 二つの祖国で 日系陸軍情報部
*次点 「死刑弁護人」
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by sentence2307 | 2013-01-14 20:20 | 映画 | Comments(1)

山中貞雄の遺書

昨日の読売新聞の夕刊を眺めていたら、こんな見出しが目に止まりました。

「吉川英治ら自由閲覧OK 没後50年、著作権切れ続々」

なんだなんだと記事を読み始めたのですが、その書き出しが、「『宮本武蔵』や『三国志』で知られる作家・吉川英治らの作品が・・・」とあったので、てっきり青空文庫で「宮本武蔵」と「三国志」が無料公開されたのかと早とちりしてしまいました。

よく読むと、元日に公開されたのは吉川英治作品は「私本太平記・あしかが帖」だけで、そのほかに柳田国男「遠野物語」、室生犀星「抒情小曲集」、秋田雨雀「三人の百姓」、飯田蛇笏「秋風」、小倉金之助「黒板は何処から来たのか」、西東三鬼「秋の暮」、妹尾アキ夫「凍るアラベスク」、土谷麓「呪咀」、中谷宇吉郎「雪」、正木不如丘「健康を釣る」、正宗白鳥「心の故郷」の12人の作品だそうですが、それにしたって凄いです。

いままで読んだことがなく、ヘタをしたら一生読むことがなかったかもしれないこうした本に接する機会を得られるということは、とても貴重なことだと思います。

これから先も、年ごとに多くの本が順次50年という著作権保護期間が次々に終了していくわけで、無料で読めてしまってなんだか申し訳ないような気持もしますが、それにしてもこれからめぐってくる「元旦」が楽しみになってきました。

これってちょっとしたお年玉じゃないですか。

そうそう、このラインナップのなかで中谷宇吉郎の「雪」は、松岡正剛の千夜千冊の第1回目の書評に登場していた本だったので、特に印象に残っていました。

そこに書かれている全部の書評を読み通してやろうと決意し、読み始めるのですが、そのたびにいつも挫折し続け、また第1回目「雪」からやり直すという、自分にとってどうしても「悲しい」という形容詞をつけたくなる「印象」の本なのです。

1938(昭和13)年 に刊行されたという岩波新書です、たぶん絶版になっているんじゃないかと思いますが(単なる印象で、調べたわけではありません)、こういう貴重な本が、資力のない自分などにも全文が読める恩恵にあずかれるということは、ホント、デジタル社会ならではのことですよね。

ところで「青空文庫」は、折に触れ結構のぞかせてもらっているのですが、以前、「映画関係」の記事はないかと検索したことがありました。

主だった映画監督の名前を順番に検索しようと思い立ち、自分の好みの映画監督を順番に整理してみました。

まずは①小津安二郎監督を上げないことにはどうしようもありません。

そして世界の御三家②溝口健二③成瀬巳喜男④黒澤明ということになるでしょうか。

それから、これだけは譲れない自分の中の御三家⑤清水宏⑥今村昌平⑦川島雄三を挙げるとして、もう7人ですか。

困ったな、残る枠が3つということになれば、自他共に実力を認める剛腕監督を挙げなければならないとすると、⑧内田吐夢⑨今井正⑩木下恵介、ということになるけれども、しかし、まさか⑪小林正樹を落とすわけにはいきませんし、⑫市川崑⑬吉村公三郎⑭増村保造だって、う~ん、これはどこまでいってもきりがありません。

だいたい燦然絢爛たる日本映画史を飾った映画監督を、たった10枠で納めてしまおうという発想自体が貧しく、そもそも誤っていたのです、やめましょう、やめましょう、こんなこと。

せっかく「記号倉庫」から拾ってきた「⑮⑯⑰⑱⑲⑳」ですが、ここは潔く捨てちゃいますね。

しかし、こうみるとなんだか無難な大御所ばかり挙げていて面白みに欠けるということがあるかもしれませんが、これらの巨匠をはずして、いきなり「中川信夫」とか「石井輝夫」などを挙げるのは、やはりどうもいきにくい部分がありますからね。

実はそのときも、青空文庫の検索で、まず最初に入力したのは①~⑭でもなく、「山中貞雄」でした。

たった3作の遺作からしか窺うことのできない、自分のなかの「山中貞雄」の印象は、「ただ豪胆」ということにつきるのですが、しかし、そこには人間の失意や絶望を十分に知り尽くしたうえでの「それ」であって、映画作家としても、撮った作品がことごとく失われた「薄幸」の監督という印象のほうが強烈です。

自分の念頭には、きっとつねに、山中貞雄が最後に言い残したという「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。」という言葉が居座り続けていて、キボードに向かって両の手を広げた時、自分の指は、決して①~⑭などではなく、ひたすらに「や」のキーを迷うことなく探し求めたのだと思います。

青空文庫の「山中貞雄」の項には、9項目の記事がアップされていて、転記すると、
①右門捕物帖三十番手柄・帯解け仏法(新字新仮名、作品ID:864)、
②気まま者の日記(新字新仮名、作品ID:2319)、
③恋と十手と巾着切 (新字新仮名、作品ID:54443)、
④五題(新字新仮名、作品ID:2318)
⑤雑録・前進座に就いて(新字新仮名、作品ID:2320)、
⑥陣中日誌(遺稿)附・戦線便り(新字新仮名、作品ID:408)、
⑦なりひら小僧(新字新仮名、作品ID:54445)、
⑧武蔵旅日記(新字新仮名、作品ID:54488)
⑨森の石松(新字新仮名、作品ID:54425)ということになります。

そして、あの「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。」の言葉が記されているのは、⑥の「陣中日誌(遺稿)附・戦線便り」、その最初「遺書」という見出しのすぐ後に書かれているのには、ちょっと意表をつかれました。

本当に山中貞雄の遺言(さぞかし無念だったのだろうなと実感しました)だったんですね。
(原文のまま転記しますが、原文にある改行や折り返し、字下げや傍点・踊り字など掲載の形態が詳細に説明されているのですが、割愛しました)

遺書
○陸軍歩兵伍長としてはこれ男子の本懐、申し置く事ナシ。
○日本映画監督協会の一員として一言。
「人情紙風船」が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。
 負け惜しみに非ず。
○保険の金はそっくり井上金太郎氏にお渡しする事。
○井上さんにはとことん迄御世話をかけて済まんと思います。
 僕のもろもろの借金を(P・C・Lからなるせからの払ッて下さい。)
 多分足りません。そこ、うまく胡麻化しといて戴きます。
○万一余りましたら、協会と前進座で分けて下さい。
○最後に、先輩友人諸氏に一言
 よい映画をこさえて下さい。        以上。

  昭和十三年四月十八日
                       山中貞雄


ちなみに没年は、1938年(昭和13年)9月17日、この記事が掲載されたのは「中央公論」1938(昭和13)年12月号ですから、ほんとうに生々しい山中貞雄の苦渋の声だったんですね。
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by sentence2307 | 2013-01-05 10:40 | 映画 | Comments(21)