世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307

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悪い種子 The Bad Seed

観た直後には、「物凄い作品」だと感じた映画が、その後、幾度か接する機会があり、二度三度と見返していくたびに、当初の強烈な印象がだんだん薄まり、最初は感動したと信じていたものも単なる自分の思い込みにすぎなかったとか誤解だったと判明し、結局修正して、最初の感動のエッセンスが徐々に間引かれて、つまるところ最初に感じた「物凄さ」が、実はなんでもないものだったと均されてしまうようなことが、いままでに何度もありました。

自分にとって大切なはずの「初見の印象」を、そんなふうに、なし崩し的に失っていくたびに、その作品の熟知とか、正確性の確保なんてことが、本当に必要なことなのか、そんな取るに足りないことで、当初の自分の感動を変質させてしまう意味が分からなくなってしまうことがありました。

8歳の少女が平然と殺人を犯すというショッキングなテーマを扱ったこのマーヴィン・ルロイ監督の1956年作品「悪い種子」は、かなり以前、テレビ放映のときに観て以来、(幸いにも)その後数十年の間、再びマミエル機会のないまま現在に至りました、つまり、新たな記憶の書き込みを免れてきたという意味では随分と稀有な、自分にとってはとても幸福な作品だったといえるかもしれません。

しかし、よく考えてみれば、逆に、これほどの作品が、再放映されなかったというのも、なんだか不自然な感じがします。

このマーヴィン・ルロイ監督作品は、アカデミー賞にノミネートされ(主演女優賞・助演女優賞・撮影賞)、あるいはゴールデングローブ賞では助演女優賞を受賞(アイリーン・ヘッカート)した、いわば業界では既に認知されている秀作なのに、「あえて」放映を差し控えるような何かがあって、この「微妙な扱い」になっているのか、という疑問が常にありました。

多分それは、この作品のテーマが、サイコパスによる殺人を扱った陰惨な映画のために大衆受けはしないだろうという供給側の判断によるものだろうという自分なりの理由づけで無理やり納得してきた感じです。

そして最近、ネットでこの作品についての書き込みを見かけました。それは数年前にスカパーで放送されたとき(やっぱり、放映されていたんですか)の感想です。

コメント氏は、1950年代にこうした映画が撮られたことにまずは驚きを示し、さらに、その殺人鬼のモンスターが、いたいけで華奢な少女だったこと(サイコパスに年齢は関係ないという事実)にも衝撃を受けたと述べています。

彼女(娘・ローダ)は、原作では、ジ・エンドを迎えても、社会的にも宗教的にも、そして小説的にも何ひとつ罰せられることはなく、のうのうと生き延びていく設定になっています。

娘・ローダが通う学校のピクニックで級友クロードの溺死事故が起こります。

しかし、捜査の結果、それは事故ではなく、少年は何者かに殴打されて桟橋から突き落とされ溺死したらしいことが分かってきます。

それにクロードが当時所持していたペン習字で獲得したという金メダルも紛失している。

娘のローダが事件の直前、クロードと一緒にいた目撃証言もあります。

母・クリスティーンは、娘・ローダに疑惑の目を向けます、ローダの机の引き出しには、クロードが持っていたという金メダルが密かに隠されていたからでした。もしかしたら、娘が少年を殺したのかもしれないと。

そして母・クリスティーンは、ウィチタにいたときのある事故のことを思い出します。

同居していた老婆が階段から落ちて亡くなった事故のこと。

その老婆は、美しいクリスタル・ボールを持っていて、生前に、自分がもし死んだらローダにやると約束していました。

そしてその老婆が事故で亡くなったあと、ローダはいつの間にか手に入れたらしいそのクリスタル・ボールを誇らしげに見せびらかしていたことを不意に思い出して、あの子は、他人の物がどうしても欲しいと思ったら、どんなことをしてでも手に入れる子なのだと慄然とします、「どんなこと」をしてでも。

金メダルを突き付けて問い詰めても、平然と嘘をつき通すローダを見て、疑いが徐々に確信へと代わりはじめます。

《他人への無関心、無慈悲な心、良心を感じない会話内容、欲求不満を解消させる暴力の肯定、眼が笑っていない作り物の笑顔、殺害をなんとも思わない異常性をマコーマックはこの映画でその害毒を撒き散らす。
この映画はまさにパティ・マコーマックを見るためのプログラムであり、彼女の凄みを見せつけられると、今回も記事を書くために二回ほど見終わってから、しばらくはなんともいえない嫌な気持ちになりました。
1950年代の映画ですので、殺害シーンも直接描写はありませんが、見る者が想像力を膨らませてその現場を補うので、かえってより戦慄の走る後味の悪さがあります。
クリスタル・ボールを奪われたおばあさん、書き方コンクールのメダルを奪うためだけに殺害されてしまう少年、ローダの秘密を暴いた口封じのために殺害される使用人リロイ、そして彼女を殺害したと思い込み拳銃自殺する母親、そして殺害をほのめかされる大家のオバサンの殺害シーンはひとつもありませんが、ほのめかすだけでも十分にショッキングでした。》

たまたまそのとき、母・クリスティーンは、訪ねてきた父親から、実は自分は養女で、本当の母親は、かつて世間を騒がした美貌の殺人鬼ベッシー・デンカーであると聞かされ衝撃を受けます。

そして自分の血を継ぐ娘のローダにも、殺人鬼の異常な血(悪い種子)が流れていると思うと、母親は、邪悪な血を絶やすためには、もはや娘を殺し、自分も死ぬしかないと決心します。

映画でも、本編の120分を過ぎたあたりで、母親(ナンシー・ケリー)は、娘・ローダ(マコーマック)に致死量の睡眠薬を飲ませたあとで、自分も拳銃で頭を撃ち抜きますが、しかし、薬を飲む振りをしただけの娘・ローダは生き残ります。

そして、出張から急いで帰って来た軍人の父親が、娘・ローダと病院で抱き合って終わるという不吉な余韻をたたえた怖い結末までが原作どおりで、自分がかつて見たテレビで放映された映画もここで終わっていました。

しかし、スカパーで放送された映画というのには、そのあとに10分ほどの付け足しがあったそうなのです。

夜明け前にローダは、嵐の中をこっそり家を出て、あの少年の金メダルを事件の現場の桟橋まで探しにいきます。

その動機は、たぶん「物欲」を断ち切れないからというよりも、自分に不利になる「証拠を隠滅」するためとした方が理解を得られると考えたのかもしれません。

そこで突然の落雷に打たれて死んでしまうというのです。

そして、なぜか頭部を拳銃で撃ち抜いて死んだはずの母親が、生き返っていて夫と会話しているという、なんとも物凄い結末なのだそうです。

邪悪が栄えるという設定は、明らかに「ヘイズ・コード」(「未成年が関与する犯罪行為を取扱う作品は、それらが若者達の反道徳的な模倣を誘発するようであるならば認可されるべきではない」)に引っかかるために、ラストにはどうしても因果応報勧善懲悪(神の存在と神の正義の鉄槌の徴)が必要だったのでしょうが、それにしても軽く懲らしめる程度のエンディングを想定していた観客には、雷に打たれて跡形もなく消滅するなどというのは、かなりショッキングだったに違いありません。

さすがにこのままで公開するのは、躊躇われたのか、アメリカ公開版では、さらに、主役の少女ローダを演じたパティ・マコーマックをはじめ、劇中死亡した出演者も含めたキャスト全員による、芝居風のカーテン・コールのエンディングが付け加えられたということです。

ですので、この作品の放映を躊躇させている理由をあえて探すなら、現在では、もはや当時の拘束力と機能をすっかり失っている「ヘイズ・コード」(道義的意味)などにはなく、たぶん、凶悪な殺人鬼の血をひく子供が、また殺人者になりかねない(母親はその血の継承の恐怖から娘を殺すという無理心中を思い立ちます)という優性遺伝の偏った視点がいまではすっかり古び(差別ですらある)、現代では、ちょっとこのストーリーの在り方が問題になってしまうからかもしれませんね。

そして、ローダという難しい役を見事に演じてアカデミー賞助演女優賞ノミネートという快挙を遂げた当時10歳のパティ・マコーマックですが、その後、この「偉大な悪役の54位」を凌駕するほどの演技があったのか、彼女の出演作の検索を試みたのですが、残念ながらついに見つけ出すことはできませんでした。

「子役は大成しない」というムゴイ言葉を、ちらっと思い出しました。

(1956ワーナー・ブラザーズ)製作監督・マーヴィン・ルロイ、原作・ウィリアム・マーチ、作劇・マックスウェル・アンダースン、脚色・ジョン・リー・メイヒン、撮影・ハロルド・ロッソン(第29回アカデミー賞撮影賞ノミネート)、音楽・アレックス・ノース、美術・ジョン・ベックマン、ラルフ・S・ハースト(セット装飾)、衣装・モス・メイブリー、編集・ウォーレン・ロー
出演・ナンシー・ケリー(第29回アカデミー賞主演女優賞ノミネート、母クリスティーン・ペンマーク)、パティ・マコーマック(同アカデミー賞助演女優賞ノミネート、ローダ・ペンマーク)、ヘンリー・ジョーンズ(アパート清掃員リロイ)、アイリーン・ヘッカート(第14回ゴールデングローブ賞助演女優賞受賞、同アカデミー賞助演女優賞ノミネート、デイグル夫人)、イヴリン・ヴァーデン(アパートの大家モニカ)、 ウィリアム・ホッパー(父ケネス・ペンマーク) 、ポール・フィックス(Bravo)、ジェシー・ホワイト(Emory)、Gage Clarke(Tasker)、Jaon Croyden(Miss Fern)、フランク・キャディ(Mr.Daigle)

【パティ・マコーマック出演作】
花婿来たる(1951米)、
白い丘(1957)19世紀の中頃、ウィスコンシン州に実際にあった、スコットランド移民の若夫婦とその子供たちをめぐる心暖まる物語でCBSテレビのクリスマス特別番組としても放送され、好評を博した。監督・アレン・レイスナー、製作サム・ウィーセンサル、原作脚本・キャサリン&デール・ユンソン、撮影監督・ウィリアム・V・スコール、音楽はマックス・スタイナー、出演・キャメロン・ミッチェル、グリニス・ジョンズ、パティ・マコーマック、レックス・トンプソン、テリー・アン・ロス、ヨランド・ホワイト、アラン・ヘール、マーガレット・レイトン、
悪い種子(1956米)、
嵐の学園(1961米)、
地獄の暴走(1968)ミニ・スカートの地獄の天使たちの生態を描く作品。製作・監督モーリー・デクスター、脚本・ジェームズ・ゴードン・ホワイト、撮影・アーチ・R・ダルゼル、出演・ジェレミー・スレート、ダイアン・マックベイン、シェリー・ジャクソン、パティ・マコーマック
俺たちに鎖はない(1968)十代の少年少女の、家出問題を扱っている。監督・アーサー・ドレイファス、製作・サム・カッツマン、脚本・オービル・H・ハンプトン、撮影・ジョン・F・ウォレン、音楽・フレッド・カーガー、作詞作曲・ケヴィン・コフリン、美術監督・ジョージ・W・デイヴィス、メリル・パイ、編集・ベン・ルイス、出演・ブルック・バンディ、ケヴィン・コフリン、パティ・マコーマック、
ヤング・アニマル(1968)アメリカ人の心に巣食う有色人種偏見、それにより生ずる感情的な対立と忌まわしい暴力行為、差別に対する不満から展開される学園紛争、病めるアメリカのハイティーン高校生の無軌道な生態。監督・モーリー・デクスター、脚本ジェームズ・ゴードン・ホワイト、撮影ケン・ピーチ、音楽レス・バクスター、出演・トム・ナルディーニ、パティ・マコーマック、デイヴィッド・マックリン、ジョアンナ・フランク
燃える昆虫軍団(1975)大地の亀裂からはい上がってきた巨大な昆虫たちと人間の戦いを描く。製作・ウィリアム・キャッスル、監督・ジャノー・シュワーク、脚本・キャッスル&トーマス・ペンジ、原作・トーマス・ペイジ、撮影・ミシェル・ユーゴー、音楽・チャールズ・フォックス、出演・ブラッドフォード・ディルマン、ジョアンナ・マイルズ、リチャード・ギリランド、アラン・ファッジ、ジェミー・スミス・ジャクソン、ジェシー・ヴィント、パティ・マコーマック
ジェシカ 超次元からの侵略(1984米)、
鷲の翼に乗って(1986米)、
プライベート・ロード(1987米)、
スネーク 猛毒の大群(1999米)、
インハビテッド(2003米)、
リビング・ブラッド(2004米)、
フロスト×ニクソン(2008米・英・仏)



【映画史上最も偉大な悪役トップ100】
1.「スター・ウォーズ」シリーズ、ダース・ベイダー(デヴィッド・プラウズ/声:ジェームズ・アール・ジョーンズ)
2.「羊たちの沈黙」シリーズ、ハンニバル・レクター(アンソニー・ホプキンス)
3.「サイコ」シリーズ、ノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)
4.「ダイ・ハード」ハンス・グルーヴァー(アラン・リックマン)
5.「ブルーベルベット」フランク・ブース(デニス・ホッパー)
6.「狩人の夜」偽伝道師ハリー・パウエル(ロバート・ミッチャム)
7.「2001年宇宙の旅」HAL9000(声:ダグラス・レイン)
8.「オズの魔法使」西の魔女(マーガレット・ハミルトン)
9.「吸血鬼ノスフェラトゥ」オルロック伯(マックス・シュレック)
10.「スター・トレック2/カーンの逆襲」カーン(リカルド・モンタルバン)
11.「時計じかけのオレンジ」アレックス(マルコム・マクダウェル)
12.「ユージュアル・サスペクツ」カイザー・ソゼ?
13.「第三の男」ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)
14.「シンドラーのリスト」アーモン・ゲート(レイフ・ファインズ)
15.「ハロウィン」マイケル・マイヤーズ?
16.「バットマン」ジョーカー(ジャック・ニコルソン)
17.「カッコーの巣の上で」ラチェッド婦長(ルイーズ・フレッチャー)
18.「影なき狙撃者」アイスリン夫人(アンジェラ・ランズベリー)
19.「JAWS/ジョーズ」サメ(通称:ブルース)
20.「セブン」ジョン・ドウ(ケヴィン・スペイシー)
21.「ターミネーター」シリーズ、T-800(アーノルド・シュワルツェネッガー)
22.「ミザリー」アニー・ウィルクス(キャシー・ベイツ)
23.「シャイニング」ジャック・トランス(ジャック・ニコルソン)
24.「ウエスタン」フランク(ヘンリー・フォンダ)
25.「アマデウス」サリエリ(F・マーリー・エイブラハム)
26.「M」ハンス・ベッカー(ペーター・ローレ)
27.「In the Company of Men」(1997)Chad(アーロン・エッカート)
28.「エイリアン」シリーズ、エイリアン
29.「疑惑の影」(1942)叔父のチャーリー(ジョセフ・コットン)
30.「エルム街の悪夢」シリーズ、フレディ・クリューガー(ロバート・イングランド)
31.「地獄の黙示録」カーツ(マーロン・ブランド)
32.「チャイナタウン」ノア・クロス(ジョン・ヒューストン)
33.「危険な情事」アレックス・フォレスト(グレン・クローズ)
34.「フルメタル・ジャケット」訓練教官ハートマン(R・リー・アーメイ)
35.「ブレードランナー」ロイ・バディ(ルトガー・ハウアー)
36.「マトリックス」エージェント・スミス(ヒューゴ・ウィーヴィング)
37.「魔人ドラキュラ」ドラキュラ伯爵(ベラ・ルゴシ)
38.「マラソン マン」クリスチャン・ゼル(ローレンス・オリヴィエ)
39.「ターミネーター2」T-1000(ロバート・パトリック)
40.「素晴らしき哉、人生!」ポッター氏(ライオネル・バリモア)
41.「エクソシスト」悪魔パズズ(声:マーセデス・マッケンブリッジ)
42.「黒い罠」クインラン警部(オーソン・ウェルズ)
43.「レオン」ノーマン・スタンフィールド(ゲイリー・オールドマン)
44.「ケープ・フィアー」マックス(ロバート・デ・ニーロ)
45.「007/ゴールドフィンガー」ゴールドフィンガー(ゲルト・フレーベ)
46.「リチャード三世」(1995)リチャード三世(イアン・マッケラン)
47.「見知らぬ乗客」ブルーノ(ロバート・ウォーカー)
48.「コックと泥棒、その妻と愛人」アルバート(マイケル・ガンボン)
49.「深夜の告白」フィリス(バーバラ・スタンウィック)
50.「アメリカン・サイコ」パトリック・ベイトマン(クリスチャン・ベイル)
51.「ヒッチャー」ジョン・ライダー(ルトガー・ハウアー)
52.「グッドフェローズ」トニー(ジョー・ペシ)
53.「イヴの総て」イヴ(アン・バクスター)
54.「悪い種子(たね)」ローダ(パティ・マコーマック)
55.「死の接吻」(1947)トミー(リチャード・ウィドマーク)
56.「白熱」(1949)コディ・ジャレット(ジェームズ・キャグニー)
57.「白雪姫」王女(声:ルシル・ラ・ヴァーン)
58.「レベッカ」ジャック・ファヴェル(ジョージ・サンダース)
59.「恐怖の岬」マックス(ロバート・ミッチャム)
60.「博士の異常な愛情」ジャック・リッパー将軍(スターリング・ヘイドン)
61.「オースティン・パワーズ」シリーズ、Drイーヴル(マイク・マイヤーズ)
62.「タクシードライバー」トラヴィス(ロバート・デニーロ)
63.「氷の微笑」キャサリン・トラメル(シャロン・ストーン)
64.「悪魔のいけにえ」レザーフェイス(ガンナー・ハンセン)
65.「ウォール街」ゴードン・ゲッコー(マイケル・ダグラス)
66.「ローズマリーの赤ちゃん」ミニー・カスタベット(ルース・ゴードン)
67.「脱出」現地人(ビル・マッキーニー&Herbert 'Cowboy' Coward)
68.「トレーニング デイ」アロンソ刑事(デンゼル・ワシントン)
69.「何がジェーンに起ったか?」ジェーン(ベティ・デイヴィス)
70.「101匹わんちゃん」クルエラ(声:ベティ・ルー・ガーソン)
71.「メトロポリス」(1926)悪魔と化したマリア(ブリギッテ・ヘルム)
72.「激突!」トラックドライバー(?)
73.「ザ・シークレット・サービス」暗殺者(ジョン・マルコヴィッチ)
74.「オペラの怪人」(1925)エリック(ロン・チェイニー)
75.「甘い毒」ブリジット(リンダ・フィオレンティーノ)
76.「ヘンリー」ヘンリー・ルーカス(マイケル・ルーカー)
77.「Sexy Beast」(2000)Don Logan(ベン・キングズレー)
78.「暗くなるまで待って」ロート(アラン・アーキン)
79.「レザボアドッグス」ミスター・ブロンド(マイケル・マドセン)
80.「アギーレ/神の怒り」アギーレ副官(クラウス・キンスキー)
81.「ファイト・クラブ」タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)
82.「バットマン リターンズ」キャットウーマン(ミシェル・ファイファー)
83.「ロブ・ロイ/ロマンに生きた男」アーチボルト・カニンガム(ティム・ロス)
84.「卒業」ロビンソン夫人(アン・バンクロフト)
85.「カサブランカ」将校シュトラッサ(コンラート・ファイト)
86.「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズ、ビフ(トーマス・F・ウィルソン)
87.「フェリスはある朝突然に」エド(ジェフリー・ジョーンズ)
88.「ロジャー&ミー」ゼネラル・モータースの会長、ロジャー・スミス(本人)
89.「許されざる者」(1992)リトル・ビル・ダゲット保安官(ジーン・ハックマン)
90.「フランケンシュタイン」フランケンシュタイン(ボリス・カーロフ)
91.「フラッシュ・ゴードン」ミン皇帝(マックス・フォン・シドー)
92.「W/ダブル」新しい父親(テリー・オクィン)
93.「真実の行方」謎の男?
94.「シェーン」ウィルソン(ジャック・パランス)
95.「血を吸うカメラ」マーク・ルイス(カール・ベーム)
96.「戦艦バウンティ号の叛乱」ウィリアム船長(チャールズ・ロートン)
97.「レジェンド/光と闇の伝説」魔王(ティム・カリー)
98.「鮮血の美学」クルッグ(デヴィッド・ヘス)
99.「ロリータ」(1961)クレア・キルティ(ピーター・セラーズ)
100.「カリガリ博士」カリガリ博士(ヴェルナー・クラウス)



《町山智浩「トラウマ映画館」(集英社)より》
「悪い種子」は精神医学上、重要な例を示したともいわれている。
サイコパス、または反社会性人格障害である。
それは精神異常ではない。彼らは狂ってはいない。それどころか冷静沈着で計算高い。犯罪心理学者ロバート・D・ヘアの著書「診断名サイコパス(原題・良心なし)」によれば、サイコパスの特徴は以下のとおり。「良心の欠如」「他人に対する冷淡さ、共感のなさ」「慢性的に平然と嘘をつく」「罪悪感がまったくない」「尊大で自己中心的」「口が達者なので魅了されてしまう人も多い」
これらの条件がすべて当てはまる典型的なサイコパス例として、ヘアは「悪い種子」のローダを挙げ、原作の小説から精神科医レジナルドの言葉を引用した。
「世間の人は、大量殺人を行うような人間は、その心が奇怪であるごとく、容貌もまた恐ろしいものと考えがちである。すぐに分かることだが、これほど間違った考えはない。現実に生きているこれらの犯罪者は、その容貌、行動とも、まったくの普通人である兄弟姉妹に比べて、かえって、より一層普通人である」
その引用のさらなる引用が1997年に日本を騒がせた。
神戸連続児童殺傷事件の犯人「酒鬼薔薇聖斗」こと少年A(当時14歳)が書いたとされる「懲役13年」という文章に「診断名サイコパス」経由で「悪い種子」が孫引きされていたのだ。少年Aはローダと共鳴したのだろうか。彼は「境界性人格障害」と鑑定され、治療を受けた。
サイコパスの原因には多くの説がある。「悪い種子」のクリスティーンのように遺伝と考える説は優生主義的で危険だとされる。それにサイコパスが皆、犯罪者になるとは限らない。マーサ・スタウトの「良心を持たない人たち」によると、25人に1人の割合でサイコパスが存在するという。彼らの大部分は、普通に社会生活をしている。感情表現もする。ただし、演じているだけだ。
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by sentence2307 | 2013-04-29 14:44 | 映画 | Comments(299)
バスジャック事件で人質となり、無差別殺人を実行していく犯人に銃口を向けられ、射殺される直前で、かろうじて死をまぬがれたバス運転手沢井と、乗客の兄妹は、切迫した死と直かに向かい合った恐怖から、それぞれに心に深い傷を負います。

ストーリーの進行に連れて、死の瀬戸際から生還したその犯罪被害者のひとり・兄直樹が、世間から隔絶した生活の中で、ひそかに育て上げた内なる暴力性=殺意によって、自分もまた通り魔殺人者となっていったことが判明します。

自身もまた犯罪者となることでしか、彼は癒されず、また彼の「再生」の道が、それ以外にはあり得なかったことが、重く僕を鞭打ちました。

「立ち直り」とか「再生」などという言葉の意味する観念が、必ずしも、手放しの善良さや向日性の思念ばかりを示唆している訳ではないことに気づかされたときの虚を突かれたような衝撃は、しかし、別の言い方をすれば、映画がやっと現実に追いついたとも言えるのかもしれません。

この映画で描かれる直樹という少年像は、人間は、必ずしも善良なものによってばかりでなく、邪悪なものをヨスガとしてさえも、再生をはかろうとするものでもある、という負の活力に活路を見出そうとする人間の姿がそこには描かれています。

そして、そのショッキングな問い掛けを支えているもうひとつの命題、襲い掛かる危機から子供たちを守ることすらできなかった、どうしようもなく衰弱した現代日本の家庭の無力が同時に示されています。

事件からの生還者である兄妹が世間の理不尽な中傷や偏見によって押し潰されそうになるとき、彼等を守ることすら出来ないままに内部崩壊してしまう家庭の、母親の家出と父親の自殺という、その苛烈な現実の直視を避けるかのように心を閉ざす兄妹は、互いにコミットするべき言葉も放棄し、ただ二人だけの引きこもりも生活を始めています。

事件から2年後、街に舞い戻ってきた沢井は、そのひきこもりの兄妹のことを知り、彼らと「家族のようにして」共同生活を始めるところから、この再生の物語は始まりました。

血を分けた実の家族が、襲い掛かる外界からの危機に為すすべもなく脆くも崩れ去るという情景の後で、同じ事件に遭遇したことによって共通の心の傷を抱え持つ者同士・沢井と兄妹とが寄り添って始められる共同生活が描かれていきます。

それは、沢井が、親や社会から見捨てられた兄妹を憐れむ気持ちからというよりも、むしろ、生きていく目的を失った沢井自身が、共同生活をすることで生きることの意味をなんとか見出し、克服し、再生を図らなければならないという切迫した心の崩れを抱え持っていたからだろうと思います。

それは、やがて始められる彼らの放浪が、陰惨な出来事を想起させる「バス」に立ち向かい、殺戮の「現場」に立ち返り、封印していた過去の恐怖を見つめ返すことから始められねばならなかったことからも明らかです。

もしかしたら「あの時」に死んでいたこともあり得たという想像が、この現在を「たまたま」生きているにすぎないという不安と恐怖を一挙にあらわにさせ、命とは、結局のところ、遅かれ早かれ訪れる死を待つだけの、ただの猶予にすぎないという虚無感にさらされた彼ら犯罪被害者たちの、それぞれの生きる意味を奪い取られた日常=寄る辺ない漂流が始められることとなります。

「ここから始めよう」と沢井は言いました。

今まで直視することを避け続けてきたものと対峙する旅の過程で、ついに直樹の通り魔殺人が明かされます。

他人との交流を拒否して言葉を捨て去っていた直樹が、初めて沢井に吐き掛ける言葉「なして殺したらいけんとや(人殺しのどこが悪い)」という絶叫は、その病理的な部分を差し引いても、深い心の傷を抱えながら犯罪被害者たちに許された選択肢が、自殺や他殺をも含めても、それほど多くないことに気付かされるとき、その限りなく犯罪を生み続けていく黒い情念が、憎悪などではなく、もしかしたら「恐怖心」なのかもしれないなと思えてきました。

犯罪者としてしか社会復帰することができなかったずたずたに傷ついた直樹の絶叫に対して、沢井の「生きろとは言わん。死なんでくれ。」としか言えないラストは、僕個人としては、やや不満が残るラストではありましたが、沢井が別れた妻に「他人のためだけに生きることは可能だろうか。」と問い、そして、直樹を犯罪者としか見ないイトコに「直樹をオレは、絶対に見捨てん」と吐き掛けた言葉をも思い合わせるなら、その延長線上にある「死なんでくれ」という言葉に、あるいは納得できるものがあるかもしれないなという気も、今は、し始めています。
(2001サンセントシネマワークス)プロデューサー・仙頭武則、監督脚本音楽編集・青山真治、撮影・田村正毅、美術・清水剛、照明・佐藤譲、録音・菊池信之、音楽・山田勳生
出演・役所広司(沢井真)、宮崎あおい(田村梢)、宮崎将(田村直樹)、斉藤陽一郎(秋彦)、国生さゆり(弓子)、光石研(シゲオ)、利重剛(犯人)、松重豊(松岡)、塩見三省(沢井義之)、真行寺君枝(田村美郷)、でんでん(吉田)、椎名英姫(河野圭子)、中村有志(田村弘樹)、尾野真千子(沢井美喜子)、本多哲朗(ヒトシ)
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by sentence2307 | 2013-04-29 14:37 | 映画 | Comments(1)

噂の二人

オードリー・ヘップバーンの女優生活にとって、その大きな節目ごとの演出にあたったウィリアム・ワイラーの存在は、とても大きかったと思います。

「ローマの休日」で彼女の才能を大きく開花させ、「噂の二人」で演技派への可能性を模索し、「おしゃれ泥棒」では、現在、僕たちが抱いているキュートでチャーミングなオードリー・ヘップバーン像というものを確立しました。

特に、「噂の二人」は、いわば当時にあっては、タブー視されていた同性愛を扱ったシリアスな物語です。

おそらく、道徳諸団体や、「良識」あるファンから危惧や反対が当然あったでしょう。

それでも、そうした圧力のなか、この「噂の二人」にあえて出演しようとした意気込みは並大抵なものではなかったろうと思います。

「お姫様女優」というイメージから脱しようと、懸命に意欲的な作品を模索した彼女の焦りが何となく察せられます。

物語は、寄宿舎の私立学校を共同経営するふたりの女性が、女生徒に同性愛だというスキャンダルをばら撒かれ、保守的な社会の中で、やがてパートナー(シャーリー・マクレーン)の自殺という悲劇的な結末に至るまでが描かれます。

ラストの、総てが嘘だと分かって謝罪する人々を無視するように、昂然と胸を張って立ち去っていくオードリーの威厳に満ちた演技は、「第三の男」のラストのアルダ・ヴァリを彷彿とさせました。

この原作は、リリアン・ヘルマン(フレッド・ジンネマンの「ジュリア」でジェーン・フォンダが演じていました。)の舞台劇「子供の時間」で、ワイラーは1936年に、既にThese Three「この三人」としてこの戯曲を映画化しています。

当時、ハリウッドには、倫理チェックを自主的に行おうとする「ヘイズ規制」がありました。

配給協会初代会長ウィル・H・ヘイズは、大衆に良質な映画を贈ろうという理念のもとに、あらわなセックス・シーンや暴力描写を禁じようと製作の企画段階から完成に至る全行程を倫理審査委員会の監視下に置いたのです。

そして、不道徳な戯曲「子供の時間」の映画化ということもあり、要監視の判定を下した「この三人」に、製作するについて幾つか条件が出されました。

戯曲の映画化と分かるような題名の使用や広告をしないこと、映画中に同性愛を仄めかさないこと。

この規制によってヘルマンは、この物語を、ありふれた三角関係の話に書き換え、ワイラーは、不本意な映画を撮ることとなりました。

この「ヘイズ規制」は、アメリカン・ニューシネマの登場までの長い間、ハリウッドを支配したと言われています。

しかし、一面では、この規制があったから、ハリウッドは、例えば、キッス・シーンをどのように美しく、しかも官能的に撮るかという工夫や高い技術を極められたとも言われていることも事実です。

そのお陰で、僕たちは、幾つもの優れた暗示によるセックス・シーンを見ることができたのです。

そういえば、解説書に、こんな一文を見かけたことがありました。

《「この三人」は、マール・オベロンとミリアム・ホプキンスという30年代の優れた二人の女優によって、溌剌とした魅力のある映画となり、見方によっては、原作に忠実な「噂のふたり」より、あるいは映画的に面白い作品になっているかもしれない》そうです。

理不尽な規制によって、その中から、より優れたものが生み出されるとは、なんとも皮肉ですが、こういう話って、なんか、よく聞きますよね。

ハリウッドにおける初主演作「ローマの休日」で、並み居る名女優たちを押し退けて、早々にアカデミー最優秀主演女優賞を獲得してしまったオードリー・ヘップバーンにとって、それ以後の女優活動のプレッシャーは、相当なものだったろうと思います。

「麗しのサブリナ」以後、出演作の演出に当たった監督をみても、それはもう壮観のひとことにつきます。

ビリー・ワイルダー、キング・ヴィダー、スタンリー・ドーネン、フレッド・ジンネマン、ジョン・ヒューストン、そして、ウィリアム・ワイラー。

ハリウッドを代表するこれら名匠・巨匠たちの壮観さを見ると、いかにオードリーを大事に育てようとしていたか、製作者側の並々ならぬ思いが伝わってきます。

それらの作品群は、彼女の優雅で上品な物腰や、チャーミングな仕草や、キュートな容姿を存分に見せながら、しかし、それらの魅力に寄り掛かることなく演技派としてもちゃんと育てて(または、作って)いこうという制作者の強い意欲が感じられました。

しかし、次第に売れ筋の「優雅・チャーミング・キュート」というファッショナブルな要素だけが強調される傾向が顕著になっていったことも事実です。

あれほどの強運と素質もち、人を魅了してやまない天性の美貌に恵まれていたにもかかわらず、彼女が、この程度の作品しか残せなかったことは意外でもあり、極めて残念です。

躊躇なく「妖精のような」と形容できるこの大女優を、真に生かしきった作品がどれ程あるのか、僕の長い間の疑問でした。

例えば、名作「マイ・フェア・レディ」の逸話が、そのことを端的に表しているかもしれません。

ブロードウェイで実に7年間もの大ヒットを続けたこのミュージカル「マイ・フェア・レディ」で主役を演じたのは、当時まだ無名だった驚異的な新進女優ジュリー・アンドリュースでした。

その爽やかでダイナミックな歌唱力は高い評価を受けていただけに、映画化に際しても主役はジュリーと思われていたのが、製作者の思惑からオードリー・ヘップバーンと決まったとき、ブロードウェイ関係者は、あからさまな失笑を隠そうともしませんでした。

550万ドルの高値で落とした映画化権のモトを取り返すために、どうしても安全な選択=知名度のある女優の起用が求められたこと、しかし歌えないオードリーには、歌唱場面を「クチパク」の吹き替えで演じさせるしかなく、実際はマーニ・ニクソンに歌わせました。

64年のアカデミー賞は、作品賞、主演男優賞、監督賞、美術監督装置賞、衣裳デザイン賞、編曲賞など「マイ・フェア・レディ」の圧倒的な一人勝ちでしたが、しかし、主演女優賞だけは、オードリーは、ノミネートさえされませんでした。

そして、皮肉なことに、当り役のイライザをオードリーに泣く泣く譲ったジュリー・アンドリュースが「メリー・ポピンズ」で、見事主演女優賞を獲得しました。

製作者の「ゴリ押し」の、まるで懲らしめのようなこの残酷な結果は、それまでの映画の作り方そのものを問うシビアなものでした。

それまでの独善的なハリウッドの女優づくりの完全な敗北でしたが、しかし、なにより、オードリー自身が深い痛手を負いました。

あの「ローマの休日」によって鮮烈なデビューを飾ったとき、「オードリーの登場によって、女優の魅力が、もはや胸の大きさで測られる時代は終った」と絶賛したマスコミも、今度は、新星ジュリー・アンドリュースをもてはやしました。

この時、人々は、「終ったとされた胸の大きな女優」マリリン・モンローと、両極端のように見えたオードリーとが意外に近い場所で「作られた女優のイメージ」の重圧に苦しんでいる同じ姿を見たかもしれませんね。

「一晩中踊れたら」「君住む街角」「時間に遅れずに教会へ」「スペインに雨が降る」などの数々の素晴らしい名曲を聴くたびに、僕たちは、オードリー・ヘップバーンの優雅で愛らしく歌う姿をどうしても思い起こしてしまいます。

そして、その度にその歌が彼女の歌でなかったことを改めて思い出し、何か納得できない喪失感をもてあますような感じを抱き続けてきた僕にとって、そのオードリー・ヘップバーンが亡くなった今、やっと、この喪失感も落ち着く場所を得たようです。
(1961アメリカ)製作監督・ウィリアム・ワイラー、脚本・ジョン・マイケル・ヘイズ、原作・リリアン・ヘルマン、音楽・アレックス・ノース、撮影・フランツ・プラナー、編集・ロバート・スウィンク
出演・オードリー・ヘプバーン(カレン・ライト)、シャーリー・マクレーン(マーサ・ドビー)、:ジェームズ・ガーナー(ジョー・カーディン)、ミリアム・ホプキンス(リリー・モーター)、ヴェロニカ・カートライト(ロザリー・ウェルズ)、フェイ・ベインター(アメリア・ティルフォード)
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by sentence2307 | 2013-04-29 14:36 | 映画 | Comments(2)

W(ダブル)

ひと頃、アメリカ映画に、幼児虐待とDVをテーマとしている作品が、目立って量産されていた時期がありました。

あて推量ですが、かつて、アメリカ社会が少年たちに求めてきた「強い男」というイメージを、徹底的に家庭において叩き込まれた「ガッツ」教育のひとつの歪みの現われとして、ネガティブな形で後遺症(傷)みたいに表面化してきたのではないかと、ひとりで納得していました。

あるいは父権の喪失なんていうことも関係しているのかもしれませんよね。

幼児虐待とかDVとか、その「鍛える」という部分がサディステックに突っ走ってしまって歯止めがきかなり、教育するという理念が単なる暴力に変質・固執してしまう過程を見せ付けられる気がします。

むかし、海兵隊の訓練を描いた映画で、教官が偏執狂のような描き方をしている映画をパロディを含めて幾つも見たことがありましたし、最近のことでいえば、女子柔道五輪強化選手へのコーチによる暴力事件なども、その進化系のひとつと見ていいのかもしれません。

多分、映画で描かれる表現の仕方は様々であったとしても、多くは、その押し付け教育が、登場人物の記憶の傷=トラウマとして描かれることが多いみたいです。

例えば、ジュリア・ロバーツの好演が強く印象に残っている「愛がこわれるとき」は、偏執狂の夫の暴力から逃れるために、溺死を装って別の地で別人として生きていこうとする女性を描いたサスペンス映画で、ほどよくまとまった好印象の作品として記憶に残っています。

その監督ジョゼフ・ルーベン(この名前から、ついルーベン・マムーリアンを連想してしまいますが、関係ないと思います)の1987年作品に「W(ダブル)」という作品があります。

「家族」という自分だけのイメージを持ったジェリーという男が、そのイメージから外れてしまうと、自分の意に添わない家族を殺しまくるという変質者を描いた作品でした。

サイコ・スリラー風に描いているので、少しは距離が保てるのですが、しかし、実際は、こういう感覚というのは、ごく一般的なものかな、と感じてしまいます。

自分の思うようにならなければ、ついヒステリーを起こしてしまうなんていうのは、考えてみれば、ごく普通のことですよね。

これだけ自分が家族のためにつくしているのに、みんなは、自分のことを分かってくれず、勝手気ままなことをやっている、という絶望感が動機となって、この連続殺人鬼ジェリーのような凶行にまでは至らないにしても、その失望の質は多かれ少なかれ僕たちが持っている気質に似たようなものではないのか、という気がしています。

この映画は、ジェリーを特異な変質者と見せるために、あえて、異常な場面を挿入することを忘れていませんが、この作品は異常と正常との距離の近さを考えさせてくれた一作でした。

(1988アメリカ)監督・ジョセフ・ルーベン、製作・ジェイ・ベンソン、原案・ドナルド・E・ウェストレイク、キャロリン・レフコート、ブライアン・ガーフィールド、脚本・ドナルド・E・ウェストレイク、撮影ジョン・W・リンドレー、音楽パトリック・モラーツ、
出演・テリー・オクィン、シェリー・ハック、ジル・シュエレン、スティーヴン・シェレン、チャールズ・レイニャー
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by sentence2307 | 2013-04-29 14:35 | 映画 | Comments(4)

夫婦の歴史

先週、布施明が結婚したという小さな記事が夕刊に載っていました。

「もう65歳になるのね、布施明」とその記事を読みながら、女房は少し驚いた様子で話し掛けてきました。「それにしても65歳にもなって、なにも結婚しなくてもいいと思うけどねえ。『いいお友だち』のままじゃいけないのかしら。熟年者同士の結婚ってよく聞くけど、なんだかトラブルの話ばかりで、いい話って聞いたことないわ」

「ほとんどの『トラブル』は、金さえあれば大抵は起こらずに済むものばかりだから、印税がっぽり(先日、民放の「外国人カラオケ・コンテスト」で黒人が『シクラメンのかほり』を歌ってたほどの世界的名曲です)の布施明のところじゃ、そういう心配はないと思うな。それに、いい状態のカップルは当然話題にもならないだろうから、それで『いい話は、聞いたことがない』だけで、うまくいっている方がずっと多いはずだよ。むしろ、布施明のところじゃ、なんだか家庭の事情がありそうだよ」

たしか石坂浩二と浅岡ルリ子の離婚のときも、同じような身内の事情にまつわる話を週刊誌の記事で読んだ記憶があります。

しかし、この会話のなかには、ぼくたち夫婦のあいだの、ある暗黙の共通認識がありました。

それは、結婚相手の森川由加里、「彼女もう50歳になったんだ」という感慨を、どちらかが口にしたとしても、決して不自然ではないほど、彼女について、比較的強い印象をお互いが持っていました。

それは、彼女が柴又の出身者だったということで、結婚してすぐ柴又に住んだことのある僕たち夫婦は、そのことをよく話題に上らせていて、アイドル時代の彼女がタモリの番組「笑っていいとも」にゲスト出演したときのやりとり

《タモリの「入浴したとき、どこから洗う」のウッヒッヒなスケベ質問に対して、当時ごく若かったアイドルの森川由香里が「そんなシナシナ洗ってない、『次は腹だ』てな調子でさっさと洗う」とすんなりかわしていました。》

なども、つい最近あったことのように「ああ、またあの話」くらいによく語られます。

しかし、考えてみれば、長寿番組「笑っていいとも」の、それこそ数百人かそれ以上かもしれない芸能人たちとの膨大なインタビューの中のほんの一人(それも、さしてビッグネームとも思えない知る人ぞ知るアイドルで、最近ではその名前もいつの間にか聞かなくなりました)の、さらにそのインタビューのなかのほんの一瞬、たった数分間というその場面だけを、繰り返して語り合うということに、夫婦として時間を積み上げてきた奇妙さ・不思議さを感じます。

こんなふうに芸能人のゴシップを話しながら、ひとつのキイワードを切っ掛けに忘れかけていたことが、ナダレのように次々に甦ってくるその背景には、自分たち夫婦が辿ってきた偶然の土地や、たまたま過ごした時間などが確実に結びついていて、その共通のものに裏付けられ、あるいは、そうでないものは補いながら「夫婦としての時間を積み上げた」ことの「歴史」の重みというよりも空恐ろしさみたいなものを感じてしまいます。
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by sentence2307 | 2013-04-20 11:21 | 徒然草 | Comments(1)

草原の輝き

夏の高校野球が始まる時期になると、決まって思い出すことがあります。

青春のほろ苦い思い出というやつでしょうか。

しかし、なにも僕がそれほど野球に夢中になっていたというのではありません。

運動神経が鈍いうえに、根っからの野球音痴ときているので、いくらやってもうまくならず、守るポジションは少年野球時代から今に至るまでずっと外野と決まっていました。

その少年野球の頃に、思い出したくもない嫌なトラウマがあって、野球から遠去かってしまったのも、そのせいかもしれません。

ある地区大会のとき、頭数が足りなかったとみえて、急遽自分が一塁を守らされたことがありました。

ヒットで相手のチームのランナーが一塁にいるという状況です。

一塁手の自分は緊張しながら、全神経を打者に向けていたとき、何かが僕の頭上をスッと通り過ぎていくのを感じ、その瞬間、敵ランナーは、物凄い迫力で狂ったようにスタートを切りました。

なにがなんだか、訳が分かりません、大パニックです。

ピッチャーが、僕に向かって盛んに「ボール、ボール!」と懸命に叫びながら、僕の後方をグイグイ指差しています。

敵のベンチからも味方のベンチからも、ドッというどよめきが起こり、その怒声と嘲笑が自分に向けられているらしいことだけは、どうにか分かりました。

喚声に煽られ、焦れば焦るほど頭が混乱して、なにをどうすればいいのか、ますます分からなくなってしまいました。

ピッチャーが指差した方には、ひとり孤独なボールが、のんびり転がり去っていくのが見えます。

あとで聞いた話では、走者がいるときの一塁手は盗塁をさせないために、味方投手の手から打者へボールが放れる瞬間まで、牽制に備えて投手の動作に注意しなければならないのが常識なのだそうです、そんなこと、始めて知りました。

自分が「野球」を全然知らないことが、みんなにバレバレになってしまいました。

花の内野手になれるチャンスをみすみす逃して以来、遂に二度とそのテの機会にめぐり合うこともなく、長い補欠の春秋をベンチで過ごして、そのうちに野球をすること自体から疎遠になりました。

それはそれでいいのですが、高校生になると、高校野球という大変鬱陶しい夏休みの行事が待っています。

自分に関わりのないところで行われるだけなら、どうぞご勝手に、というところなのでしょうが、予選の試合の観戦応援に全員が刈り出されるのには閉口しました。

高校野球に関心のないやつなんか、人間じゃねえみたいな「高校野球」を神聖視したファッショ的な風潮は、いまよりも当時の方が相当強かったような気がします。(この主催だか共催だかが、「朝日新聞社」というのも笑わせます。この新聞社が戦争中に活躍した尻尾のなごりがコレかもしれません。)

みんながみんな、野球好きというわけでもないのにね。

しかし、観戦にいかなければ「保健体育」の単位はやらないぞ、とコワモテの教師から脅迫されるので、しぶしぶ夏の暑い盛りに応援にいきました。

これは、そんな折のエピソードです。

僕の所属していたクラブは、女子に全然人気がなく、男ばかりの少人数のオタクっぽいクラブでした。

異性の存在がないと、どうしてもだらしなくなるのは仕方ないことかもしれませんが、部室は汚れ放題、掃除なんて何年もしたことがありません。

一日の授業が終わると、帰宅時間がくるまで、部員はその部室でだらだらと寝転び、エッチな本を読んで過ごしました。

何故か、部室にはエッチな本がやたらとありました。

その理由は簡単です、誰もが家に置いておけないアイドルの際どいグラビア本とかエロ本のたぐいの処理に困って(親や近所の目があって「燃えないゴミ」として出す勇気など到底ありません)、各自の家から三々五々治外法権のこの部室に持ち込んだ結果、溜まりに溜まってしまったというわけなのでしょう。

しかし、その冊数たるや並大抵の数ではありません。

そして、突然沸き起こった問題は、もうすぐ夏休みが迫っているということでした。

休暇に入れば、生徒のいない部室は、学校側の行う空調工事かなんかで強制的に扉を開けられるおそれがあります。

それは想像するだけでも、とてもオソロシイことです。

この100冊に近いエロ本の山を全校生に知られてしまったら、どんな嘲笑と罵倒に晒されるか。

とりわけ女の子には、絶対知られてはなりません。

つきあい始めたばかりの「彼女」に軽蔑されるのが、なによりもオソロシイし、そんなことになったら恥ずかしくて学校にもいられなくなります。

そんな切迫した恐怖の情勢を受けて、急遽部長の発案で、夏休み前にエロ本の山をどうにか処理することにしました。

しかし、問題は、その方法です。

まさかゴミの日に、学校の門前に、正々堂々とエロ本を積み上げるわけにもいきません、どこかに捨てるにしても、合法的に捨てればスグに身元がばれるし、非合法に捨てられる場所をあちこち物色してみたのですが、実際問題となると、「捨てる」という行為がなかなか容易でないことがよく分かりました。

僕たちは、エロ本の山を前にして途方に暮れました。

古本屋に売りに行くのはどうか、
「こんなエロ本ばかりを? 一体誰が? 100冊のエロ本を背景にして、○○高生が笑顔でVサイン」なんて新聞に出ちゃうぞ。

喧々諤々、最後には「なにも、こんなに読むことないだろう」と、なんだか険悪な仲間割れの様相を呈してきました。

そんなとき、下級生のひとりが、驚天動地の提案をしたのです。

数日後に迫っているわが校の「夏の野球大会」予選試合の時に、応援に乗じ、切り刻んだこのエロ本を紙吹雪にして撒いてしまえば、これって完全犯罪じゃないすか、学校からは褒められるし、野球部員からは感謝されるし、保健体育の単位は貰えるし、女の子からは惚れられるし(?)、すべてOKですよ。

そうだ、そうなんだよ、なんでそこに気がつかなかったかなあ、ヨヨヨヨヨ、というわけで早速その日から、各自ハサミ片手に紙吹雪の製作にとり掛かりました。

こんなに身を入れて作業に没頭するのは、あとにも先にも文化祭の準備以来のことです。

しかも不思議な連帯感も実感されるなど、証拠隠滅の秘密の作業でありながら、そのまま清廉潔白な学校行事への挺身を果たしている充実感もあって、まさに大義名分はわれにあり、というわけです。

なんという大胆不敵な発想でしょうか。

悪を征するに悪をもってす、ですよね。

ときどき自分が慣れ親しんだアイドルの水着写真などにめぐり逢い、条件反射的にたちまちイカガワシイ眼に変わって、じっと太腿や胸のあたりを凝視し、しばし作業の手を止めて感無量の境地に浸っているヤツもいたりしました。

さて、試合当日、各自が作った紙吹雪をスポーツ・バッグに入れて球場に入りました。

最上段の観客席には、わがクラブの部員が一列に座を占め、足元のバッグのくちを開けて準備OK、紙吹雪を撒くチャンスを今や遅しと待ちました。

しかし、紙吹雪を撒くというタイミングは、当然、わが校野球部のチャンスに限られねばならないわけですから、その瞬間を待ち続けたのですが、残念ながらその機会は、まったくありませんでした。

打つ方は、相手投手の豪腕で無四球無安打ピッチングに抑えられ(大会記録でした)全然ダメ、投げては、奇数イニングごとに打者一巡の猛攻にあい、アッという間にコールド負けを喫してしまいました。

紙吹雪など、撒くチャンスも、へったくれもあったものではありません。

あっけなく試合が終わり、ほとんどの観客が席を立ってしまうなか、僕たちは呆然と、ただバッグいっぱいに詰め込まれた紙吹雪を見つめて座り込んでいるしかありませんでした。

意気揚揚と持ち込むときは、全然感じなかった紙吹雪の重さも、これをこのまま持ち帰らなければならないのかと思うと、徒労感と挫折感とでなんだか二倍くらい重くなったのではないかとさえ感じられました。

バッグを担ぎ、うんざりして球場を出るときに、何気なく顔を上げると、少し先にJRの鉄橋が見えました。

そうだ、土手がある、川があるじゃないかと、お互い確認するように顔を見合せました。

この重くて邪魔な紙吹雪を土手から川に向かって一気に撒いてしまおう、これで総てを終わらせることができる、というわけです。

土手をのぼり、川までの距離は少々あるものの、これだけの強風が吹いていれば問題ない、ことごとく盛大に撒いてしまおう、とバッグから紙吹雪を鷲掴みして風に向かって撒き始めたとき、「君たち、君たち」という呼び掛ける声に振り向きました。

そこには自転車を押しながら初老の警察官がたたずんで、怪訝そうに僕たちの紙吹雪の散布をじっと見つめていました。

「なにしてるの?」というわけです。

咄嗟に、このエロ本解体散布の発案者である下級生がしゃしゃり出て、いま母校が高校野球の予選で惨憺たる敗北を喫し、用意してきた紙吹雪を撒く機会を逸したので、いまこうして撒いているところです、とそのまんま、とはいっても本当は事実の半分だけを正直に説明していました。

「そりゃあ残念だったねえ」とかなんとか善良そうなそのお巡りさんも、穏やかに受け答えをしてくれています。

これは、OKかな、と安堵したとき、その下級生の手元に眼が行き、驚愕のあまり全身の血が一挙に逆流しました。

彼が握り締めている紙吹雪の絵柄(大雑把に切ってあるヤツなので、絵柄がモロに分かります)が、見えました。

全裸の女性が猿轡をされ、後手に縛られながら心地よげに悶えているなんとも物凄い写真です。

どっと冷や汗が噴き出しました。

なにも知らない下級生は、紙吹雪を握ったままのその手で平気で額の汗を拭ったりしています、警察官のすぐ目の前を、全裸の縛られた女性の物凄い写真がひらひら行ったり来たりしているのに、ふたりは一向に気がつかずに話し続けています。

もっとも、気がついていたら大変なことになっていたわけですが。

「あんまり川を汚しちゃまずいんだけど、まあ野球に負けちゃったのなら仕方ないか。」

そう言い残し、大目に見てくれた警察官は遠ざかっていきました、そして当の下級生は無邪気に破砕したエロ本散布を続けます。

人知れず僕だけが大量の冷や汗をたっぷりかいたわけですが、まあ知らぬが花です、知らなければ知らないほうがいいこともあるのだと思いました。(このサスペンスの部分を強調するとすれば、この小文のタイトルは「太陽がいっぱい」が相応しいかもしれませんネ)

こうして用意したすべての紙吹雪も撒き終わり、土手の斜面から川に至るまでの野原一面を、そのエロ本の破片群が、薄っすらと覆い尽くしました。

切り刻んだグラビアは、すべてが若いアイドルたちのヌード写真です。

散布したあとの野原一面を見渡したとき、そこに光り輝く艶やかな肌をした巨大な女体が横たわっているのかと錯覚を起こさせるような、なんともいえない壮観さでした。

(1961アメリカ)監督製作・エリア・カザン、原作脚本・ウィリアム・インジ、撮影・ボリス・カウフマン、音楽・デヴィッド・アムラム、編集・ジーン・ミルフォード
配役・ウォーレン・ベイティ、ナタリー・ウッド、パット・ヒングル、ゾーラ・ランパート、サンディ・デニス、ショーン・ギャリソン、オードリー・クリスティー、フィリス・ディラー、バーバラ・ローデン、ゲイリー・ロックウッド、フレッド・スチュワート、パット・ヒングル、チャールズ・ロビンソン
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by sentence2307 | 2013-04-20 11:17 | 映画 | Comments(2)

逝ける映画人を偲んで

フィルムセンターでは、この4月~5月にかけて、恒例の企画「逝ける映画人を偲んで」が、2年ぶりに開催されています。

2011年1月1日から2012年12月31日の間に逝去された日本の映画人が関わった52作品(48プログラム)を上映して、その業績を回顧・顕彰するという企画だそうです。

上映される作品やスタッフ・キャストを見ただけでも、このわずかな期間(2年のあいだ)に、こんなにも多くの映画人が亡くなってしまったのかと思うと、なんとも淋しいかぎりです。

よく存じ上げている方や、あるいはそうでない方も含めて、自分の成長とともに作られてきた数々の映画とその作品に携わった映画人が、1人ずつ火が消えるように失われ、きっとこれからも世の中がこんなふうに動いていくのかと思うと、なんだかいたたまれないような焦燥感におそわれます。

しかし、考えてみれば、いつの時代でも、こうして確実に世代交代は行われていたのでしょうから、たとえいたたまれない気持ちを持て余すような寂寥感に囚われたとしても、事実を受け入れなければいけないのかなと思っていますし、日本映画界には近年にはない勢いで新たな活力が次々に生み出されているということも事実ですから、へんに悲観的に考えないで、貴重な文化財産と認識して、これらの映画を見ていければなと思っています。

そのへんは、クールにね。

以下は、今回上映される作品のなかで回顧される方々をまとめてみました。(いずれも五十音順です)

【女優】淡島千景、井上雪子、宇治みさ子、沖山秀子、酒井光子、千石規子、田中好子、津島惠子、中原早苗、花柳小菊、日向明子、深水藤子、三崎千恵子、山田五十鈴
【男優】飯沼慧、岩井半四郎、遠藤辰雄、大滝秀治、大谷友右衛門、小沢昭一、児玉清、佐藤允、城アキラ、須賀良、杉浦直樹、地井武男、内藤武敏、長門裕之、二谷英明、布川徹郎、原田芳雄、細川俊之、安岡力也、山内賢
【監督】荒木伸吾、石田勝心、加藤彰、斎藤光正、貞永方久、新藤兼人、大工原章、高林陽一、出﨑統、時枝俊江、堀川弘通、森田芳光、若松孝二、和田嘉訓
【脚本】石堂淑朗、市川森一、神波史男、新藤兼人、高田純、馬場当、吉田哲郎
【音楽】宇野誠一郎、玉木宏樹、林光、別宮貞雄、三木稔
【照明】岩木保夫、佐野武冶
【録音】橋本文雄
【美術】石岡瑛子、間野重雄
【撮影】安藤庄平、井上泰幸
【製作・企画】岡田茂、佐藤雅夫、内藤武敏、



【悪太郎】(1963日活)監督・鈴木清順、原作・今東光、脚本・笠原良三、撮影・峰重義、美術・木村威夫、音楽・奥村一
出演・山内賢、和泉雅子、田代みどり、小園蓉子、久里千春、東美恵子、佐野浅夫、野呂圭介、杉山元、柳瀬志郎、青木富夫、髙峰三枝子、芦田伸介
(95分・35mm・白黒)

【アジアはひとつ】(1973NDU日本ドキュメンタリストユニオン)布川徹郎
(96分・16mm・パートカラ―)

【ある機関助士】(1963岩波映画製作所)監督脚本・土本典昭、撮影・根岸栄、照明・橋仁之、山本茂樹、録音・安田哲男、音楽・三木稔
出演・中島鷹雄、小沼慶三
(37分・16mm・カラー)

【異人たちとの夏】(1988松竹)監督・大林宣彦、原作・山田太一、脚本・市川森一、撮影・阪本善尚、美術・薩谷和夫、音楽・篠崎正嗣
出演・風間杜夫、秋吉久美子、片岡鶴太郎、川田あつ子、ベンガル、笹野高史、永島敏行、名取裕子
(108分・35mm・カラー)

【宇治みさ子の 緋ぢりめん女大名】(1958新東宝)監督・毛利正樹、脚本・岡戸利秋、芝二郎、撮影・友成達雄、美術・岩武仙史、音楽・小沢秀夫
出演・宇治みさ子、浜野桂子、和田桂之助、丹波哲郎、御木本伸介、林寛、天知茂、久保春二、中村竜三郎、広瀬康治、坂内英二郎、泉田洋志、花岡菊子、原文雄
(71分・35mm・白黒)

【ウルフガイ 燃えろ狼男】(1975東映東京)監督・山口和彦、原作・平井和正、脚本・神波史男、撮影・中島芳男、美術・桑名忠之、音楽・馬場浩
出演・千葉真一、奈美悦子、待田京介、安岡力也、須賀良、カニー小林、渡辺やよい
(86分・35mm・カラー)

【絵図に偲ぶ江戸のくらし –吉左衛門さんと町の人々–】(1977岩波映画製作所)監督脚本・時枝俊江、製作・安達弘太郎、撮影・八木義順、解説・伊藤惣一
(33分・16mm・カラー)

【エロス+虐殺】(1970現代映画社・ATG)監督脚本・吉田喜重、脚本・山田正弘、撮影・長谷川元吉、美術・石井強司、音楽・一柳慧
出演・岡田茉莉子、楠侑子、高橋悦史、稲野和子、八木昌子、新橋耐子、松枝錦治、坂口芳貞、 高木武彦、伊井利子、玉井碧、原田大二郎、細川俊之
(164分・35mm・白黒)

【往生安楽国】(1976たかばやしよういちプロ)監督製作脚本撮影・高林陽一、製作・村公俊、美術・加門良一、音楽・ブラッディ・マリー
出演・高沢順子、服部妙子、星美智子、原泉、中尾彬、上條慎吾、内村レナ
(99分・35mm・カラ―)

【女殺し油地獄】(1957東宝)監督・堀川弘通、原作・近松門左衛門、脚本・橋本忍、撮影・中井朝一、美術・河東安英、音楽・宅孝二
出演・中村扇雀、岩井半四郎、香川京子、新珠三千代、藤乃髙子、山茶花究、三好榮子、三津田健、都家かつ江、加藤武、桂米朝、馬野都畄子、芦屋雁之助、芦屋小鴈、中村鴈治郎
(99分・35mm・カラー)

【影武者】(1980黒澤プロ=東宝)監督脚本・黒澤明、脚本・井手雅人、撮影・斉藤孝雄、上田正治、美術・木与四郎、音楽・池辺晋一郎、照明・佐野武治、
出演・仲代達矢、山崎努、大滝秀治、萩原健一、根津甚八、隆大介、油井昌由樹、桃井かおり、倍賞美津子
(180分・35mm・カラー)

【火宅の人】(1986東映京都)監督脚本・深作欣二、企画・佐藤雅夫、脚本・神波史男、企画・高岩淡、原作・檀一雄、撮影・木村大作、美術・佐野義和、音楽・井上堯之
(出演)緒形拳、いしだあゆみ、原田美枝子、真田広之、岡田裕介、檀ふみ、松坂慶子、利根川龍二、一柳信之、大熊敏志、石橋蓮司、井川比佐志、荒井注
(132分・35mm・カラ―)

【伽倻子のために】(1984劇団ひまわり)監督脚本・小栗康平、原作・李恢成、脚本・太田省吾、撮影・安藤庄平、美術・内藤昭、音楽・毛利蔵人
出演・呉昇一、南果歩、浜村純、加藤武、園佳也子、川谷拓三
(117分・35mm・カラー)

【黒い雨】(1989今村プロ=林原グループ)監督脚本・今村昌平、原作・井伏鱒二、脚本・石堂淑朗、照明・岩木保夫、撮影・川又昻、美術・稲垣尚夫、音楽・武満徹
出演・田中好子、飯沼慧、大滝秀治、小沢昭一、北村和夫、市原悦子、原ひさ子、石田圭祐、沢たまき、小林昭二、山田昌、三木のり平、石丸謙二郎
(123分・35mm・白黒)

【午前中の時間割り】(1972羽仁プロ=ATG)監督脚本・羽仁進、脚本音楽・荒木一郎、脚本・中尾寛治、浜田豊、撮影・佐藤敏彦、美術・石岡瑛子
出演・国木田アコ、蕭淑美、秦野卓爾、沖至、和田周、矢部正男、野沢房良
(101分・35mm・カラー)

【コブラ】(1982東京ムービー新社)監督・出﨑統、作画監督・杉野昭夫、原作脚本・寺沢武一、脚本・山崎晴哉、撮影・高橋宏固、美術・小林七郎、音楽・東海林修
(声)松崎しげる、榊原良子、中村晃子、藤田淑子、風吹ジュン、睦五郎、田島令子、久米明
(99分・35mm・カラ―)

【才女気質】(1959日活)監督・中平康、脚本・新藤兼人、録音・橋本文雄、原作・田口竹男、撮影・山崎善弘、美術・千葉一彦、音楽・黛敏郎
出演・長門裕之、中原早苗、葉山良二、轟夕起子、大坂志郎、吉行和子、渡辺美佐子、殿山泰司、新井麗子、下條正巳、原ひさ子、相馬幸子、細川ちか子
(87分・35mm・白黒)

【自動車泥棒】(1964東宝)監督脚本・和田嘉訓、撮影・福沢康道、美術・北猛夫、音楽・武満徹
出演・安岡力也、城アキラ=ジョー山中、デビィ・シェス、寺田農、フランツ・フリーデル、上岡肇、勝見守利、関本太郎、細川ちか子、宮田芳子、森今日子、上田吉二郎、平野威馬雄、武智豊子
(98分・35mm・パートカラー)

【少年ジャックと魔法使い】(1967東映動画)監督・藪下泰次、脚本・関沢新一、高久進、撮影・菅原英明、美術・小山礼司、音楽・宇野誠一郎、作画監督・大工原章
(声)中村メイコ、久里千春、黒柳徹子、熊倉一雄、大竹宏、水垣洋子、山岡久乃
(80分・35mm・カラー)

【女性に関する十二章】(1954東宝)監督・市川崑、原作・伊藤整、脚本・和田夏十、撮影・三浦光雄、美術・河東安英、音楽・黛敏郎
出演・有馬稲子、津島惠子、久慈あさみ、上原謙、小泉博、太刀川洋一、中北千枝子、小泉澄子、三好栄子、伊豆肇、坪内美子、三戸部スエ、三條利喜江、山本和子
(87分・35mm・白黒)

【真剣勝負】(1971東宝)監督・内田吐夢、原作・吉川英治、脚本・伊藤大輔、撮影・黒田徳三、美術・中古智、音楽・小杉太一郎
出演・中村錦之助、三國連太郎、田中浩、岩本弘司、当銀長太郎、木村博人、伊藤信明、上西弘次、沖山秀子
(76分・35mm・カラ―)

【新宿アウトロー ぶっ飛ばせ】(1970日活)監督脚本・藤田敏八、脚本・永原秀一、蘇武路夫、撮影・萩原憲治、美術・千葉和彦、音楽・玉木宏樹、録音・橋本文雄
出演・原田芳雄、地井武男、渡哲也、梶芽衣子、成田三樹夫、今井健二、沖雅也、高樹蓉子、深江章喜
(86分・35mm・カラ―)

【聖闘士星矢】(1987東映動画)監督・森下孝三、原作・車田正美、脚本・菅良幸、作画監督キャラクターデザイン・荒木伸吾、撮影・白井敏雄、美術・窪田忠雄、音楽・横山菁児
(声)古谷徹、鈴置洋孝、堀秀行、堀川亮、橋本晃一、潘恵子、藤田淑子、水島裕、三ツ矢雄二、中尾隆聖
(46分・35mm・カラー)

【大出世物語】(1961日活)監督・阿部豊、原作・源氏鶏太、脚本・三木克巳、撮影・横山実、美術・横尾嘉良、音楽・斎藤高順
出演・小沢昭一、吉永小百合、瀬川雅人、小沢茂美、渡辺美佐子、浜田光昿、浜村純、河上信夫、山田禅二、神山勝、木島一郎、高原駿雄、島村謙二、小野武雄
(65分・35mm・白黒)

【下町(ダウンタウン)】(1957東宝)監督・千葉泰樹、原作・林芙美子、脚本・笠原良三、吉田精彌、撮影・西垣六郎、美術・中古智、音楽・伊福部昭
出演・船敏郎、山田五十鈴、田中春男、多々良純、淡路惠子、村田知英子、沢村いき雄、中山豊、亀谷雅敬、土屋詩朗、佐田豊、広瀬正一、鈴川二郎
(58分・35mm・白黒)

【チェッカーズ in Song for U.S.A.】(1986スリースタープロ)監督・斎藤光正、脚本・中岡京平、白井更生、撮影・野口幸三郎、美術・徳田博、音楽・芹澤廣明
出演・チェッカーズ、浅野温子、秋野太作、蜷川幸雄、下元勉、大和屋竺
(96分・35mm・カラー)

【地平線】(1984MARUGENビル)監督原作脚本・新藤兼人、撮影・丸山恵司、音楽・林光、美術・大谷和正
出演・永島敏行、秋吉久美子、藤谷美和子、時任三郎、田中美佐子、川上麻衣子、乙羽信子、ハナ肇、井川比佐志、殿山泰司、西田敏行、風間杜夫、愛川欽也、戸浦六宏、初井言榮、園佳也子
(136分・35mm・カラー)

【遠い明日】(1979東宝)監督・神代辰巳、原作・A・J・クローニン、脚本・馬場当、撮影・原一民、美術・・樋口幸男、音楽・クニ河内
出演・三浦友和、いしだあゆみ、宮下順子、地井武男、若山富三郎、金子信雄、神山繁、殿山泰司、石橋蓮司、浜村純、小松方正
(95分・35mm・カラー)

【父ちゃんのポーが聞える】(1971東宝)監督・石田勝心、原作・松本則子、脚本・笠原良三、撮影・志賀邦一、美術・中古智、音楽・早川正昭
出演・小林桂樹、吉沢京子、森るみ子、司葉子、藤岡琢也、佐々木勝彦、小松英三郎、十朱久雄、石田茂樹、大前亘、清水元、吉行和子、千石規子
(88分・35mm・カラ―)

【ときめきに死す】(1984ニューセンチュリー・プロデューサーズ)監督脚本・森田芳光、原作・丸山健二、撮影・前田米造、美術・中沢克巳、音楽・塩村修
出演・沢田研二、樋口可南子、日下武史、杉浦直樹、岸部一徳、岡本真、矢崎滋、林亜里沙、吉川遊土、KIM(キム)、干場てる美、中村亜湖、加藤治子、宮本信子、上田耕一
(104分・35mm・カラー)

【独立愚連隊】(1959東宝)監本脚本・岡本喜八、撮影・逢沢讓、美術・阿久根巖、音楽・佐藤勝
出演・佐藤允、雪村いづみ、夏木陽介、上原美佐、江原達怡、南道郎、中丸忠雄、中谷一郎、ミッキー・カーティス、中北千枝子、横山道代、塩沢とき、瀨良明、沢村いき雄、鶴田浩二、三船敏郎
(108分・35mm・白黒)

【浪華悲歌】(1936第一映画)監督原作・溝口健二、脚本・依田義賢、撮影・三木稔
出演・山田五十鈴、梅村蓉子、大倉千代子、大久保淸子、浅香新八郎、志賀迺家辨慶、進藤英太郎、田村邦男、竹川誠一、原健作、滝沢静子、橘光造、志村喬
(71分・35mm・白黒)

【南極大陸 日本南極地域観測隊の記録】(1957日本映画新社)製作・堀場伸世、撮影・林田重男、録音・國島正男、音楽・別宮貞雄、編集・伊勢長之助、大峰晴、解説・秋山雪雄
(123分・35mm・カラー)

【日本海大海戦】(1969東宝)監督・丸山誠治、特技監督・円谷英二、脚本・八住利雄、撮影・村井博、美術・北猛夫、音楽・佐藤勝、特撮美術・井上泰幸
出演・三船敏郎、加山雄三、仲代達矢、黒沢年男、藤田進、平田昭彦、土屋嘉男、小泉博、田崎潤、辰巳柳太郎、草笛光子、笠智衆、松本幸四郎、佐藤允、児玉清
(128分・35mm・カラー)

【狙われた女】(1948大映京都)監督・森一生、脚本・小國英雄、撮影・柴田達矢、美術・中村能久、音楽・大木正夫
出演・嵐寛寿郎、花柳小菊、柳家金語楼、日髙澄子、髙原朝子、野々宮由紀、並木一路、内海突破、市川男女之助、澤村貞子、嵐徳三郎、香川良介、南部章三、寺島貢、東良之助
(79分・35mm・白黒)

【博徒】(1964東映京都)監督脚本・小沢茂弘、企画・岡田茂、彼末光史、俊藤浩滋、脚本・村尾昭、撮影・山岸長樹、美術・大門恒夫、音楽・津島利章
出演・鶴田浩二、里見浩太郎、松方弘樹、月形龍之介、天知茂、南田洋子、藤純子、芦屋雁之助、芦屋小雁、田中春男、加藤嘉、曽根晴美、遠藤辰雄
(93分・35mm・カラー)

【裸の島】(1960近代映画協会)監督製作脚本・新藤兼人、音楽・林光、製作・松浦栄策、撮影・黒田清己
出演・乙羽信子、殿山泰司、田中伸二、堀本正紀
(96分・35mm・白黒)

【果しなき欲望】(1958日活)監督脚本・今村昌平、原作・藤原審爾、脚本・鈴木敏郎、撮影・姫田眞佐久、美術・中村公彦、音楽・黛敏郎、照明・岩木保夫
出演・長門裕之、中原早苗、小沢昭一、三崎千恵子、渡辺美佐子、殿山泰司、西村晃、菅井一郎、加藤武、柳沢眞一、芦田伸介
(100分・35mm・白黒)

【ひかりごけ】(1992フィルム・クレッセント=ネオ・ライフ)製作・内藤武敏、監督脚本・熊井啓、製作・相澤徹、原作・武田泰淳、脚本・池田太郎、撮影・栃沢正夫、美術・木村威夫、音楽・松村禎三、照明・岩木保夫
出演・三國連太郎、奥田瑛二、井川比佐志、杉本哲太、津嘉山正種、田中邦衛、笠智衆、内藤武敏、
(118分・35mm・カラー)

【花のれん】(1959宝塚映画)監督・豊田四郎、原作・山崎豊子、脚本・八住利雄、撮影・安本淳、美術・伊藤熹朔、音楽・芥川也寸志
出演・淡島千景、酒井光子、アチャコ、石浜朗、佐分利信、司葉子、浪花千栄子、乙羽信子、環三千世、飯田蝶子、万代峯子、山茶花究、森繁久彌
(129分・35mm・白黒)

【花火の街】(1937J.O.スタジオ)監督・石田民三、原作・大佛次郎、脚本・竹井諒、撮影・上田勇、美術・髙橋庚子、音楽・深井史郎
出演・小林重四郎、深水藤子、竹久千恵子、原健作、瀨川路三郎、清川莊司、深見泰三、石川冷、滝澤静子、石川秀道、岩居昇、杉昌三、八幡震太郎
(74分・16mm・白黒)

【ひなのかげ】(1966高林プロ)監督・たかばやしよういち
(出演)小池敬子
(19分・16mm・白黒)

【風雲千両船】(1952東宝)監督脚本・稲垣浩、原作・村上元三、脚本・三村伸太郎、撮影・安本淳、美術・北猛夫、音楽・深井史郎
出演・長谷川一夫、大谷友右衛門、山口淑子、山根壽子、市川段四郎、二本柳寛、大日方傳、東野英治郎、志村喬、木匠マユリ、澤村國太郎、小杉義男
(93分・35mm・白黒)

【復讐の歌が聞える】(1968俳優座)監督・貞永方久・山根成之、原作脚本・石原慎太郎、撮影・酒井忠、金宇満司、美術・小島初雄、野呂真一、音楽・真鍋理一郎
出演・原田芳雄、 内田良平、岩田多代、東野英治郎、滝田裕介
(90分・35mm・白黒)

【無常】(1970実相寺プロ=ATG)監督・実相寺昭雄、脚本・石堂淑朗、照明・佐野武冶、撮影・稲垣涌三、中堀正夫、大根田和美、照明・林三男、加藤慶一、美術・池谷仙克、大沢哲三、音楽・冬木透
出演・田村亮、司美智子、岡田英次、田中三津子、佐々木功、花ノ本寿、岡村春彦
(143分・35mm・白黒)

【メロドラマ】(1988にっかつ)監督・小澤啓一、原作・村松友視、脚本・高田純、撮影・野口幸三郎、美術・徳田博、音楽・高橋洋一
出演・伊武雅刀、朝加真由美、橘ゆかり、蟹江敬三、財津一郎、遠藤憲一、唐沢民賢、相築彰子、永瀬正敏
(99分・35mm・カラー)

【盲獣】(1969大映東京)監督・増村保造、原作・江戸川乱歩、脚本・白坂依志夫、撮影・小林節雄、美術・間野重雄、音楽・林光
出演・船越英二、緑魔子、千石規子
(84分・35mm・カラー)

【百恵の唇 愛獣】(1980にっかつ)監督・加藤彰、原作・響京介、脚本・桂千穂、撮影・米田実、美術・川船夏夫、音楽・甲斐八郎
出演・日向明子、村川めぐみ、泉じゅん、早川由美、小林稔侍、成瀬昌彦、中田譲治、森洋二、織田俊彦、木島一郎、小原宏裕
(68分・35mm・カラー)

【妖怪百物語】(1968大映京都)監督・安田公義、脚本・吉田哲郎、解説・内藤武敏、特技監督・黒田義之、撮影・竹村康和、美術・西岡善信、音楽・渡辺宙明
出演・藤巻潤、高田美和、平泉征、坪内ミキ子、ルーキー新一、林家正蔵、神田隆、五味龍太郎、吉田義夫、水原浩一、小倉康子、浜村純
(79分・35mm・カラ―)

【欲望の血がしたたる】(1965若松プロ)監督製作脚本・若松孝二、脚本・大谷義朗、撮影・伊東英男、音楽・生見慶二
(出演)上野山功一、叶美智子、生方健、香取環、樋口功、志摩みはる、細谷俊彰、人見修
(71分・35mm・白黒)

【與太者の感激 與太者と海水浴】
(1933松竹蒲田)監督・野村浩将、原作脚本・柳井隆雄、撮影・高橋輿吉、美術・浜田辰雄
出演・磯野秋雄、三井秀男、阿部正三郎、光川京子、瀧川玲子、小林十九二、加藤清一、高峰秀子、日守新一、井上雪子
(70分・24fps・35mm・無声・白黒)

【ろくでなし野郎】(1961日活)監督・松尾昭典、原作・野口泰彦、脚本・星川清司、撮影・山崎善弘、美術・中村公彦、音楽・鏑木創、録音・橋本文雄
出演・二谷英明、中原早苗、長門裕之、芦川いづみ、芦田伸介、郷鍈治、南風洋子、森塚敏、安部徹、山田襌二
(77分・35mm・カラ―)
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by sentence2307 | 2013-04-20 11:16 | 映画 | Comments(9)

「あえぎ声」絶唱

金曜日の読売新聞の夕刊に、漱石の「吾輩は猫である」について、文芸評論家・斎藤美奈子氏の短いコラムが掲載されていました。

実は以前、ちょっとした事件に遭遇して以来、この「吾輩は猫である」という題名に接することにナーバスになっています。

この題名(なにしろ名作「吾輩は猫である」ですから、そのタイトルに出会う確率・頻度といったら、それこそもう半端じゃありません)に出会うたびに、すぐに「あること」を思い出すという連想癖がついてしまい、結構それがストレスの根になっているみたいなのです。

つまり、「吾輩は猫である」というタイトルに出会うと、いつも決まった思考経路をたどって嫌な「連想」が作動し、暴走しまくり、収拾するスベもないというのが今のところの実情です。

漱石先生には、たいへん申し訳ないのですが、いつかはなんとかしなければと考えているところです。

心療内科の方では、悩み事は、とにかく症状を忠実に書き綴ることによって、自分を客観視できて自己分析にもなる、それが結局症状の軽減につながるとかなんとか書いてあったのを思い出したので、その「暴走する連想」についてちょっと書いてみようと思います。

わが社の取締役専務(人事担当)にAさんという方がいます。

歴代の専務が「経済学部」や「経営学部」、あるいは「法学部」の出身者ばかりのなか、Aさんが、初の「文学部」出身者(日本文学専攻です)の専務就任ということで、取締役に抜擢された当時は、それはもう大変な話題となり、それまでは「学部」のハンディを背負っていた多くの「文学部」系の出身者に大きな希望を与えました。

しかし、ご自身もそのことを十分に意識していて(むしろ「気にしていて」という感じですが)、ちょっとした雑談のときでも、普通ならアベノミクスだとか為替だとか、あるいは会社の業績などといった話題を選ぶようなときも、あえて「文学」の話題を選ぶという、なんだか意地になっているような挑発的な話し方をするので、ちょっと気楽に話せない気難しい面が露骨で、却ってそれが、「文学部出身」であることをご自分でも過剰に意識しているという印象を人に与えてしまい、相手を変に身構えさせてしまうということもあったそうです。

このAさんの「文学部」ショックを語るときには、ちょっとしたエピソードがカップリングされて語られることが慣わしみたいになっています。

というのは、Aさんが部長当時、そのセクションには、影の実力者というか、おツボネ的存在として実質的な権力を握っていたBさんという女性の課長がいて、課員が部長決裁をとっても、あとでB課長が承服しなければ反故になる事案さえあったほど権力を持っていました。

慶応大学法学部を経て大学院までいったという大変に優秀な方で、本人もそのことがとても自慢で、ことあるごとに専門用語を駆使した法律論をぶちあげ、周囲の課員を辟易させていたのですが、もっとも被害にあったのは、トップのA部長でした。

A部長に対して常に「文学なんて、なんの役に立つのよ」という軽い蔑視の気持ちがあったと思います、滞っている案件を話し合う会議の席でも、隙のない法律論でじわじわ追い詰め、完膚なきまで論難し、みんなの前でさんざんに恥をかかせ、挙句の果てに、Aさんの提案を引っ込めさせるということもしばしばありました。

Aさんが顔を真っ赤にして、その仕打ちに堪えているという場面を何度も見ていました。

そこで突然「専務抜擢」というサプライズ人事がありました。

まさに大逆転です。

そして、そのときからB課長の試練がはじまりました。

B課長が落ち着いて仕事ができないほど、何度も専務の部屋に呼びつけられ、業績不振から始まって課員の士気の低下、人事管理の不手際や、それはもう無理難題のいじめとしか見えないような叱責が四六時中続きました。

そして、Aさんの専務就任から半年もたたずに、B課長は辞表を提出しました。

経緯を知っているだけに、一概に、ふたりのどちらが悪いとは言えない複雑な感じがしました。

「あれって、セクハラじゃないの」と言う女性社員もいました。

しかし、B課長の理不尽ないびりを長いあいだ見てきた者にとっては、その非難には軽々に承服し難いものもあります。

「じゃあ、パワハラ?」と言った男性社員もいました。

「いや、違う」と自分は、きっぱりと否定してから「あれはね、うらみ・ハラスメントっていうの」

この危ない冗談に、「わはは」と笑ったのは自分だけ、とにかく毎日接する現役の専務を笑いのネタにしたこの冗談に、そうやすやすと、みんなが同調するわけもなく、そのときの雰囲気は、まさにドン引き状態でした。

そして、この冗談が専務の耳に入ったかもしれないなどという噂が流れた頃、たまたま、社員食堂で、なんとA専務その人に遭遇してしまいました。

得意先回りが昼過ぎまでかかり、社員食堂で、ひとり遅いランチをとっていたときでした、「おう、やってるね」と軽く肩をたたかれ、振り向くとA専務でした。

なにかにつけて不器用な自分は、とりわけモグモグ咀嚼しながら会話するというのをあまり好まないので(食事はひとりで集中してとりたいのです)、自然に口数が少なくなったところが却って専務の饒舌を誘ってしまったのかもしれません。

話題は、当然「文学」です。

「キミ、漱石の『吾輩は猫である』ってあるだろ、猫が一人称で語るという例の小説。あれなんか、漱石のオリジナルでもなんでもないんだよ。当時は、ああいうスタイルが結構流行したんだな。あの作品の数年前に、すでに内田魯庵が一人称で書いているんだ、もっともこちらは犬だけれどもね。あっ、内田魯庵、知ってるよね、日本にロシア文学を紹介した先駆者だよ」

内田ロアンですか、できることなら「ええ、もちろん知っていますヨ」とかなんとか調子を合わせたいところですが、残念ながらロアンだろうとオワンだろうと、こちらは全然その手の知識の持ち合わせがないのでリアクションの取り繕いようがありません。

それにA専務の真剣な表情にも臆してしまい「株の本とかも書いてます?」なんてボケる隙間もありませんでした。

「はあ、はあ」と適当に気のない相槌を打っていれば、そのうち相手も興ざめして諦め、どこかに立ち去ってくれるものと軽く考えていたのですが、どうもそれが甘かったみたいです。

むしろ、その相槌の「打ち方」が、感心して悦に聞き入っているとでも思ったのか、しかも、そのうえAさん自身も話の勢いを止められなくなり(感情が高ぶって一種のヒステリー状態にありました)、こちらからはなにひとつ満足なご返事を差し上げてないというのに、

「いやあ、キミの文学好きには、ほとほと感心したよ。またいつか、この続きをやろうじゃないか」

と大声で肩をたたき、あはははという豪快な笑い声を残してさっさと立ち去っていきました。

なんだかやりたい放題蹂躙されたみたいな嫌な感じだけが残りました、しかも、一方的に喋りまくっておきながら、なにが「ほとほと」だよ。

だいたい、この場合の使い方として、「ほとほと」は正しいのかという疑問が突如湧きあがり、デスクに戻るやパソコンでその意味を早速調べてみました。

えっ~、なんだよ、「ほとほと」ってのは、「あきれる、困惑する、閉口する、手を焼く、愛想がつきる」じゃないか、なにが「キミの文学好きには、ほとほと感心した」だよ。

それを言うなら「つくづく」じゃないのか。

あんなデリカシーのまるでない喋り方のどこが「文学部」だよ。「もういい加減してほしいよ」とかなんとかブツブツ独り言をいっていると内線電話が掛かってきました、またまたAさんです。

「今夜、キミの課で飲み会があるんだってね。オレも同席させてくれよ。また、さっきの話の続きでもやろうじゃないか」

こちらの返事など最初から待つもりなんか一向にない有無も言わさぬ勢いで電話は切れました。

たとえ「有無」のどちらかが言えたとしても、はたして迎合以外の言葉が言えたかどうか、はなはだ疑問とするところですが。

部課長によっては、課の「飲み会」を、部下への説教とか訓示をたれる場にしている管理職がいることは知っていますが、自分はそういうのは好まないので、「飲み会」はいつでもオープン状態で、よその課からの合流もOKの、秘密会議など一切ない無礼講の開かれた飲み会です、Aさんといえども断る理由などなにもないのですが、気掛かりなのは、なにしろ相手は人事担当取締役というその肩書きを持つ専務です。

彼の言う「話の続き」などというのは、こちらを欺くもっともらしい口実で、実は無謀な人事を画策する巧妙・強引な情報収集か、あるいは、どさくさに紛れて内々に異動の言い渡しでもするのではないか(オレに!)という警戒心もないではありませんが、しかし、まさか情報収集のために専務みずからが、たかだか課のカラオケ飲み会ごときに参加するなどという露骨で稚拙、姑息な方法などとるわけがないし、あり得ないと思い直しました。

その夜、自分の危惧などそっちのけに飲み会の座は盛況で、一気に盛り上がりました。日ごろのストレス解消には、三木のり平状態でパァーッとやるのが一番です、取締役専務・人事担当のAさんも肩書きを忘れて若手女子社員たちと楽しく飲み、盛んに談笑している様子で、一応ホッとしました。

それに、若い女子社員が、控えめにカラオケを勧めている様子も、とてもいい感じじゃないですか。

無理強いしてはいけませんが、若い連中だけがマイクを廻している姿もみっともない。

課を束ねる者として、カラオケ好きの若手には、マイクを独り占めしないで年長者を気遣い「たてる」ようにと、これだけは十分に言い含めてあります。

こういう気遣いは、飲み会を説教や訓示の場としないというポリシーと同一のものだという自分の考え方を、課員には折に触れ伝えています。

その夜の自分は、うちの課の飲み会に取締役専務が参加したという緊張感とか、人事異動の心配が杞憂に終わったこととか、Aさんと離れて座ったことで安堵したとかが重なって、なんだか少し飲みすぎたかもしれません、この時点でかなり酔っていました。

遠くから見たAさんは、分厚いカラオケ本を手にしたまま、なんだか歌を決めかねているように見えたので、「専務、なにか一曲、お願いしますよ」と声をかけました。

すると、脇に座っていたC主任が、

「もう決まりました、予約もしましたよ」

と叫び返してきたので、

「あっそ。それで、なに歌うの」と聞き返しました。

再びC主任「あえぎ声です」大声で返してきました。

「おい!」あわてて、C主任をにらみ付けました。

そんなに大声で言うべきことじゃないだろう。もっと小さな声で言え。

耳を覆いたくなるようなその卑猥で露骨な言葉、さぞや若い女子社員の顰蹙をかったに違いないと周囲をそっと見回したのですが、みんな平気の顔で談笑しています。

ははあ、最近の女の子たちは、こんなことじゃ動じないんだな。

随分とさばけたものだ、ちっとも嫌な顔なんてしていないじゃないか。

いやいや、ちがうな、もしかすると単に聞こえなかっただけのことかもしれないな、なにしろモノは「あえぎ声」なのだから、聞こえていたとしたら、そりゃあもう、どう考えたって大変なことになるに違いない、この男女同権の世の中ですから(古いね)、あんなにキャッキャするわけがない。

カッーと怒って抗議に詰め寄るとか、テーブルをひっくり返して激昂してさっさと帰ってしまうとか、下手すると、イマドキの女性ですから、セクハラで裁判所に訴えるなんてこともあるかも。

最三小判平成25.4.10「あえぎ声事件判決」なんて判例がでちゃうかも。

それにしても、あの堅物の専務がねえ、「あえぎ声」か。

セクハラで抗議される心配のない男だけのウッヒッヒの宴会なら、持ちネタにして披露できるかもしれないから、よく勉強しとかなくちゃあいけないな、しかし、どう考えても「アッハン、ウッフン」じゃ瞬間芸にしかならないだろうから、時間を持たせるためにはかなりの工夫をしたに違いない、あのトドのような野太いカラダをした専務が、アヘアヘあえぎながら、鈍重にくねくねと醜く体を波打たせようとでもいうのか、ますますそこらあたりの想像がつかないだけに、あれこれと妄想を膨らませているうちに、とめどなく自分の興味も淫猥に熱く高揚していくのがわかりました。

遠くで、専務が、おもむろに咳払いなどしながら、立ち上がりました。

思わず「ヒューヒュー、いいぞ、いいぞ、専務。やれ! やれ! 見直したぞ!」と自分でも呆れるくらいの大声が出てしまいました。

すっかり抑制を欠いたその大声に自分でも驚きながら、なんだか周囲の空気が急速に冷めていくのが感じられました。

この状態をあえて言い表すなら、またしても「ドン引き」というのが、もっとも相応しい状態だったと思います。

そして、立ち上がっている専務が、チラリと冷ややかにこちらを見たのも気に掛かりました。

すぐにでも専務の「アッハン、ウッフン」が始まるのかと窺っていると、なにやら専務はじっと何かを待っていふうです。

そういえば、その場のみんなも、黙ってモニターを見つめています。

なにやら不吉な雰囲気です。

「えっ? これって曲とかがあるの?」小声で隣の女の子に聞きました。

「ありますよお」なに言ってんの、バカみたい、的な答えです。

なんだか自分だけが一人で孤立を引き受けてしまったような寒々しい疎外感を感じました。

それにしても、あのアッハン、ウッフンにどういう曲がつくというのだろうか、さっぱり分かりません。

虚を突かれた感じです。

これってもしかすると「伊勢崎町ブルース」みたいな歌なのかもしれないな、聞いたことないけど。

そうこう固唾を呑んで専務を見、そしてモニターを見てと、交互に首をひねっていました。

この緊張の待ち時間には、思い当たるものがあります。

あの人類初の月面着陸の中継放送、じっと待っていたあの崇高な緊張の一瞬と同じです。

しかし、こちらはなにせ「アッハン、ウッフン」なのですが。

やがて、ついにタイトルが、オモムロに画面に流れはじめました。

ジャーン 「天 城 越 え」

へぇっ!
ああ、そうなんだ。
なるほど、なるほど。
そういうことですか。
あはははのは。

C主任! 「天城越え」のどこが「あえぎ声」なんだよ、馬鹿タレ!

数日たって、廊下でA専務にばったり会いました。

「先日は、オレの下手な歌を随分応援してくれたね、アンガトね」とA専務。

「はあ? ワタクシがでございますか?」すっとぼけてはみたものの、冷や汗滂沱の自分です。

「そうだよ、てっきり、あの歌に、なんかキミのこだわりでもあるのかと思ったくらいだよ。随分興奮してたぞ」

「いえいえ、そんなことはございませんデスヨ。きっと専務のお歌が聞けるかと思うと、年甲斐もなくつい喜んでしまったんじゃないかなと。いずれにいたしましても、あのときは、かなり酔っておりましたものですから、なにかと失礼を」

「まあいいやな。そのうちにまた、改めて『吾輩は猫である』論でも、たっぷり語り合おうじゃないか、なっキミ。あははは」

ゲェ~

また「吾輩は猫である」かあ。もうなあ。

それ以後「吾輩は」とくると、アイスクリームのスプーンみたいなA専務のお多福顔が浮かび、怯えてしまう毎日をおくっている次第です。

まあ、こちらはてっきり専務がアッハン、ウッフンをやらかすのかと勘違いして、ついつい喜んでしまったという落ち度があったのは事実ですから、それはそれで仕方がないにしても、これら一連の「冷や汗もの」の元凶は、そもそも発音に明瞭さを欠いたC主任のモゴモゴがすべての発端なので、今後の課員の指導にあたりましては、顧客の皆様に失礼のないよう、その辺りを特に重点的に矯正させるべく取り組んでまいる所存でおるところでございます。

まったく、あのヤロー。

今度は、こっちだって「恨み・ハラスメント」にしてやるぞ~。
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by sentence2307 | 2013-04-10 22:49 | 徒然草 | Comments(195)

曽根崎心中

「大地の子守歌」と、この「曽根崎心中」は、増村作品を通して見ても特別な思い入れがこめられた作品だと思います。

両作品ともに共通しているのは総ての演技者が、そのひとつひとつのセリフを精魂こめて徹頭徹尾絶叫し通していることだと思います。

善良な実直さが、やがて徳兵衛を破滅へと追い込む偏屈な伯父九兵衛も、狡猾な継母も、そして徳兵衛の金を詐取する悪辣な九平次さえも、ともすれば単純で希薄な彼らの直情的性格を、しかし増村保造は絶叫させ通すことによって、この現実を精一杯生きる者達の真摯さを何の衒いもなく証かし立てさせています。

もし生きるために他人を騙し、おとしめ、辱め、完膚なきまでに叩きのめすしか他に術がないなら、その詐術や狡猾や暴力は正しい・・・生きることが、もし不可避的に悪を伴わざるを得ないものなら、その悪は正しい。

増村が描き続けてきたリアリズムにおいて一貫していたこの「道徳観」が、この作品に登場する脇役たちを通俗的な勧善懲悪の檻の中から解き放ち、生き生きとした生命力を吹き込み得たのだと思いますし、だからこそ、お初徳兵衛の凄惨な心中が、全力で闘い抜いて到達した「生」の一部のような死であったからこそ、哀れさどころか、むしろ気高さをさえ感じさせられることができたのだと思いました。

それは、生き場を失った惨めな恋人同士の肩寄せあった哀れな心中が、一般的には、ほのぼのとした独特の愛の連帯感を内に帯びるに違いないであろうという僕たちの陳腐な先入観を厳しく拒んで、どこまでも一人ぼっちのままの、それはあたかも偶然ひとつの場所でそれぞれ自立して死んでいった「二つの自殺」ようにも思えたのでした。

幸せや不幸になることが、絶えず他人のお陰でしか成り立ち得ないようなこの社会の仕組みの中で、しかしそのようにして生き長らえることには耐えられず、身分社会の掟に追い立てられ、やがて、怒りを込めたそれぞれ孤立した二つの憤死のようにしか思えなかった僕にとって、血みどろの赤い海の中で相対死して果てるこの恋人たちの凄惨な敗北の最期を、あえて刻明に描いた増村保造の意図を見たように思いました。

彼らは、壮絶ではあっても、哀れではありません。

しかし、哀れではないにしても、そのあまりの無力さは、やはり無残でしかありません。

それは彼らが、社会的制裁の前でされるがままの圧力に屈し、心中にまで追い込まれていったことと無縁ではありません。

世間の人々の、生きるためには躊躇なく繰り出される傲慢や我執、狡猾や悪辣など、自らのあらゆる作法を用いて社会に敢然と立ち向かっていったのと比べると、お初徳兵衛は、ただ社会の道徳秩序への善良な従順さゆえに敗退し、破滅していったことは明らかです。

もし、このラストに一片の美しさを見るとすれば、生きることが悪なら悪は正しいと言い切れずに死んでいった弱々しい人間への増村保造の憤りだったのかもしれません。 

(1978行動社・木村プロ・ATG)企画・藤井浩明 木村元保 西村隆平、監督・増村保造、助監督・近藤明男、監督助手・上村正樹 高橋安信、脚本・白坂依志夫 増村保造、原作・近松門左衛門、撮影・小林節雄、撮影助手・竹沢信行 横山吉文 寺山勝信 志満義之、音楽・宇崎竜童、演奏・ダウンタウン・ブギウギ・バンド、レコード・東芝EMI株式会社 エキスプレスレーベル、美術・間野重雄、装飾・神田明良、美術助手・丸山裕司 藤田徹、録音・太田六敏 宮下光威、効果・秋山実、録音助手・田中順夫 小保方稔、照明・佐藤勝彦、照明助手・出縄幹光 出口武 保坂芳美、編集・中静達治、編集助手・南とめ 渋谷英子、時代考証・林美一、衣裳・万木利昭、題字・鹿毛千琴、記録・村山慶子、技髪・おかもと美粧、製作担当・本間信行、製作助手・篠崎英雄 工藤裕弘、声名・[真言宗智山派智山青年連合会] 上村正剛 上村正樹 山口正純 江連俊裕 酒井照実 清水秀隆 佐々木明正 直林一敏、製作協力・櫂の会 東洋現像所 日本照明 高津装飾 京都衣裳 大映映画撮影所 真言宗智山派光照山実正寺 オフィスカネダ ダウンタウン・ブギウギ・オフィス 映像現代
出演・梶芽衣子(天満屋お初)、宇崎竜童(平野屋徳兵衛)、井川比佐志(平野屋久右衛門)、左幸子(お才)、橋本功 (油屋九平次)、木村元(天満屋吉兵衛)、灰地順(碇屋勘兵衛)、目黒幸子(おみね)、青木和代(お玉)、大西加代子(お千代)、渡部真美子(おきぬ)、野崎明美(おもん)、千葉裕子(おかよ)、大島久美子(お春)、加藤茂雄(本家の主人)、伊庭隆 (丁稚長蔵)、山本廉(手代市兵衛)、伊藤正博(町衆A)、麻生亮(町衆B)、弾忠司(駕籠の衆A)、飯塚和也(駕籠の衆B)
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by sentence2307 | 2013-04-10 22:29 | 映画 | Comments(0)

長距離ランナーの孤独

盗みで少年院に送られたコリンが、院長からその健脚を見込まれて、「少年院」対「パブリック・スクール」のマラソン大会に出場することを命じられ、辛い労働を免除されて、毎日早朝から練習に集中するという特別扱いを受けています。

院長の面子にかけて、このマラソン大会に勝つことが厳しく求められている一方で、収容者仲間からは特別扱いを受けていることに対して、コリンは、白い目で見られています。

野山を駆けながら、孤独と貧しさの中で盗みをしていた日々がよみがえります。
警官から逃げるために、どうしても速くなければならなかった自分の「足」のことや、働きづめで癌のために死んだ父親のこと、その後、父の保険金で母親が男たちと遊び回っていたことなどを思い出します。

そしてレース当日、コリンは、終始トップを走り続けながら、ゴールを目前にして、突如立ち止ります。

騒然となる観衆や「走れ!」と怒鳴る尊大な院長を尻目に、コリンは挑み掛かるような不適な薄笑いを浮かべて、その場から一歩も動こうとしません。

弱者を見下し、徹底的に利用しようとする尊大なあらゆる権威に対して、コリンは、不服従の意志をあらわに挑みかかります。

警察官から逃れるためにひたすら走り続けなければならなかったコリンの「足」は、いま、その走りを放棄することによって、はじめて権力に痛打をあびせることができたのだと思います。

社会の底辺で貧困や屈辱に傷つきながらも、不服従によって偽善に満ちた権威・権力に痛打を浴びせ、誇り高く生きていこうとする者の気高さを教えてくれた作品でした。

(1962イギリス)製作監督・トニー・リチャードソン、脚本・アラン・シリトー、音楽・ジョン・アディソン、撮影・ウォルター・ラサリー、編集・アンソニー・ギブス、
出演・トム・コートネイ、マイケル・レッドグレイヴ、ピーター・マッデン、ジェームズ・フォックス
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by sentence2307 | 2013-04-10 22:28 | 映画 | Comments(28)