世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

<   2013年 05月 ( 6 )   > この月の画像一覧

隣の八重ちゃん

島津保次郎作品「隣の八重ちゃん」をインターネットで鑑賞しました。

この作品は、1934年という戦前に製作されたものとは思えないほど、交わされる八重子(逢初夢子が演じています)と恵太郎兄弟(大日方傳と磯野秋雄が演じています)の会話がとても自然な軽快さで、ストーリーのなかで生き生きと躍動しています。

そして、この「生き生きと交わされる自然な会話」というのは、公開当時から現在に至るまで、この作品に捧げられた歴史的賛辞でもあります。

冒頭、キャッチボールをしている兄弟が、ボールを受け損ねて隣の家の窓ガラスを割ってしまう場面からこの映画は始まりますが、ガラスの割れる音に驚いて飛び出してきた隣家の娘・八重子は、「びっくりするじゃないの」と抗議はするものの、その言い様はやわらかく、べつだん激怒したりしているようには見えません。

兄弟のキャッチボールがいつものことなら、ときにはボールを逸らして八重子の家の窓ガラスを割ることも日常の一部にすぎないこと、そして、そうしたことすべてが、家同士お互いに許容し合っている関係の親密さを一瞬のうちに観客に分からせてしまうという巧みさで語られています。

その卓越は、たとえば会社から帰宅した夫(八重子の父親です)が、妻に会社での噂話を聞かせる場面にも及んでいます。

夫は、背広を脱ぎながら上司の噂話をし、妻は、その話に適当に相槌をうちながら着替えを手伝っています、手伝いながら湯道具と湯銭を渡して夫を銭湯に送り出すというその一連の動作を、特にセリフで補足したり暗示したりすることもなく、世間話は世間話として話されながら並行して進行します。

思えば、現在でも多くの映画の中で語られる「セリフ」が、往々にして、その登場人物の行く末(運命)をひそかに仄めかすような含意で、いわばストーリーの方向を示唆するような進行役を課せられてしまっていることを思えば、この映画のなかで交わされるセリフの「自立」は、とても新鮮に感じられました。

それは、この現実を生きる僕たちもまた、日常で話す「言葉」を、なにも自分の行為を説明したり弁解するために使うわけではなく、行為とはまったく関係のないことを自由気ままにべらべら喋り散らしていることを思えば、このリアルな描写の「気づき」は、日本映画がようやく「肉声」を得たトーキーの初期に、すでに「セリフ」が物語の進行の補足説明の役割(字幕的発想)から解放され、「無意味・無関連」という自立と自由を獲得し、生命を与えられたというまさに革新的な作品だったのだと実感しました。

それまでは絵空事を描いていた映画(技量的にまだまだ「絵空事」くらいしか描けなかった映画です)をさらに前進させて、これだけの「日常」を描き出す映画文法=力強いリアルを獲得できたこの作品「隣の八重ちゃん」の発想の革新は、真に「歴史的賞賛」に値するものだと心から納得できました。

その頃の島津監督の順風満帆ぶりが伺われる一文が、吉村公三郎「評伝・島津保次郎監督」のなかにありました、助監督として吉村公三郎が初めて撮影所で最盛期の元気のいい監督・島津保次郎と会い、ガツンとお説教される場面です。

「とにかく、さっき言ったように、助監督は芸術的なお上品な仕事じゃねえ。
なんでもやる労働者だ。
オレも監督になるまでそうやってきた。
この部屋のカシラはオレだが、オレの助監督だった五所(平之助)や五所組の助手のほか、オレの組の助手、今度監督になった豊田四郎、西尾佳雄らがいる。
オレのことは先生と呼べ。
だがべつに手をとって教えたりなんかしねえ。
自分で仕事を覚えろ。
それにオレはうるせえぞ。
怒ったり怒鳴ったりはしょっちゅうだが、短気で癇癪持ちだから、小突くくらいはする。
だが恨んじゃいけねえ。
自分の修行のためだと思え、いいか。
てめえはまだ若けえからそういうことはないと思うが、女優に興味を持っちゃいけねえ。お店の品だ」

しかし、その快挙を日本映画史に刻印した島津保次郎監督その人が、それにもかかわらず、やがて活躍の場を松竹から東宝に移し、そのために明らかに精彩を欠いて、やがて失速の感を禁じえない東宝での消沈を知るにつけ(当時東宝は、社運をかけて「戦意高揚映画」作りに積極的に乗り出すために、製作上作品の偏りを防ぐ「その他の映画」を撮らせることが、島津保次郎や山中貞雄を招聘した主たる意図だったとされています)、あれほど肌にあっていた松竹をなぜ離れたのか、その理由というのが分からず、ずっと気に掛かっていました(このことについては、後述します)。

さて、作品「隣の八重ちゃん」の描写の革新性に戻りますね。

恵太郎が学校から帰ってくると、家に鍵が掛かっているので入れず、そのまま垣根を飛び越えて隣家へ上がり込みます。

そんな恵太郎の突然の闖入にも別段気にするふうもない八重子の母親(飯田蝶子が演じており、居間で仕立物の仕事をしているふうです)に、恵太郎は「おばさん、腹へっちゃった。何か食べさせてよ」と無遠慮にねだり、八重子の母親も「お茶漬けにしてあげるから、留守番でもしてておくれ。私がいちゃあ、気詰まりで食べられないだろう」と応じ、市場に買い物に出掛けていきます。

現在の日本の冷え切った近隣関係からは見れば、到底あり得ない恵太郎の「無遠慮」ですが、この一連の恵太郎の行為にも、そんな「無遠慮」という形容などハナから介在する余地のないくらい、飯田蝶子の演技からは家同士の許容と深い信頼関係がうかがわれます。

恵太郎がアグラをかいてお茶漬けを食べ始めていると、「ただいま」と入れ替わりに八重子が女学生の友だち(高杉早苗が清楚に演じています)を伴って帰ってきます。

恵太郎の存在をしきりに恥ずかしがる友だちに、八重子は「差し支えない人よ」と言いながら自分の部屋に招じ入れます。

恵太郎の存在を盛んに気にする女友達(八重子の「帝大の独法よ」が効いています)に、「八重ちゃんのいい人なんじゃないの」と冷やかされても、「なんだか家の人みたいよ」などと面白くもなく応じている彼女たちのガールズ・トークに興味津々で聞いている恵太郎の耳に、更にこんな遣り取りが聞こえてきます。

「あら、八重ちゃんのオッパイの形、とってもいいわ」

「私のは、ぺちゃんこだわ」と、明け透けな少女たちの話にうろたえた恵太郎が、着替えが終わり様子を見に来た八重子に抗議します。

「お乳の話なんかして。いかんね、男性のいる前で」

八重子「別にいいじゃないの、女同士なんだから。恵太郎さんたら、最近そんなこと考えているの。いやねえ」と別に気にもとめていない様子で、軽くイナシます。

少女から女性へと成熟をとげていく微妙な年頃にある多感な女性の言葉を、なんの飾り気もなく、こんなにも自然に、そして、そのままの明るさと繊細さで描いたこれほど素直なシーンを、自分はいままで見たことがありません。

自分が、いままで見てきたスクリーンのなかの少女たちといえば、その徐々に成熟していく肉体に、心の方が追いつかず、その成熟のあまりの早さに不安におちいり、あるいは幼さを卑下し、恥じ入り、焦燥に駆られた動揺のなかで無理やりに背伸びをして、まるで自傷行為のような無残さで性にのめり込んでいくという、そんなタイプの映画ばかりだったような気がします。

しかし、実際の思春期を生きる多くの少女たちの誰もが、そのような性急さでもって生き急ぐなどということは、現実には到底ありえることではなく、おそらく、まさにこの映画そのままに、ふくらみ始めた胸を友達と比べ、くすぐったそうにクスクスと笑い、異性には「意識過剰」の分だけの距離をとりながらも、しかし、成長の時間と同じだけの時間をかけながら異性に少しずつ近づいていくという、そういう姿をこの作品「隣の八重ちゃん」は精密に描き出しています。

この作品に映し出される八重子と恵太郎の会話を重ねる2人だけの幾つものシーンは、互いに距離を縮めるための恐る恐るの歩みを辛抱強く描いている名場面と感じました。

この「隣の八重ちゃん」について書かれた評論を片っ端から読んでいくと、必ず遭遇するお約束のような文言があります、岡田嘉子演じる姉・京子の扱いが、全体の物語の流れからすると随分に違和感があるという指摘です。

「夫に憤慨して飛び出してきた若妻(姉・京子)が実家へ駆け込んできてヒステリックに泣くあたりは、たとえ日常あり得ることにしても岡田嘉子の演技は芝居がかっていて自然な運びというこの映画の流れから大きくずれてしまった。
演技だけでなくドラマとしても、この女性を隣の大学生にしなだれかかっていくような女にしたりして均衡を破っている。
彼女が家を飛び出して行方不明のままで映画が終わるのもなんだか割り切れない。・・・この後半のアンバランスは実に惜しまれる」

だいたいこんな感じのものが多かったように思います。

夫の横暴に耐えられずに家を出てきた女が、実家の援助を受けて自立しようというとき、その心細さから、誰でもいいから頼りになりそうな男にしなだれかかったとしても、設定としては、それほどの違和や不自然とかも感じないのですが、「全体の映画の流れを崩している」といわれれば、なんだか弁解したいような気持ちになってきます。

彼女が家を飛び出して行方不明になるのは、恵太郎に拒絶されたので恥ずかしさのあまり遁走したという理由で、十分に説明できると思います。

それなら、作劇上、その描き方が、物語のバランスを崩すほどの不自然さなのかというと、恵太郎をめぐる姉妹の確執(連れ立って映画を見終わったあとの食事の場面で、恵太郎に甘えかかる姉の態度に対する八重子の嫌悪の思いが明確に描かれているのですから、「確執」は当然あったと思います)を考えれば、姉の行方不明に対する八重子の不自然な素っ気無さや、しなだれかかる京子に対する恵太郎の揺るぎない拒絶も、ふたりの関係を考えれば十分に説明することができると思います。

さて、島津保次郎監督が、長年馴染み、実績を残した松竹をなぜ離れなければならなかったのか、その理由というのを、吉村公三郎が書いた「評伝・島津保次郎監督」という論評のなかにみつけました。

引用しますね。

「『兄とその妹』を終えて、次作『暖流』の撮影準備にかかっている途中、島津は突然大船撮影所をやめることになる。
これは仕事のことが直接の原因ではない。私生活上の問題である。
島津には5,6年前から愛人がいた。
私が紹介された頃、この愛人なる女は、銀座の三越裏の「ゴンドラ」という大型の酒場で妹と一緒に働いていた。
当時、「サロン春」とか「銀座会館」とかの大型の酒場が銀座で繁盛していたが、「ゴンドラ」もそのひとつである。
私は島津が大した酒飲みではなく、酒場へ行くにしても大型なのは好きではなかったので、こうしたところに愛人を見つけ出したのは意外だった。
彼女は品の良い美人で、読書もしている聡明な人に見受けられ、こうした場所の女としては似つかわしくなかった。
彼女は島津を心から尊敬しており、島津も彼女を必要としていた。
もちろん島津は妻帯者で子供もふたりいた。
細君は神田錦町の米問屋の生まれで、娘に成長した頃、父親が米相場に手を出し失敗し、一家が没落すると生活のため蒲田撮影所の結髪部へ入って働くようになり、島津と知り合って結婚した。
私の印象では極くお人好しだが、下町的江戸っ子の陽気すぎるのが少々気になる女である。
愛人とはまさに対照的だった。
彼女は自分との関係が島津の負い目になったり、仕事や私生活のワザワイにならぬよういつも気を遣っていたが、すでに男の子が生まれていたし、後日いろいろの噂話を総合すると、突然彼女の一家に何かがおこり大金を必要とすることになった。
島津はその借金を申し入れたが松竹に拒否され、たまたま東宝が引き受けたので東宝へ移ることになったのである。
やはり結果として彼女が案じていたようになった。宙に浮いた『暖流』の仕事は、この年監督になったばかりの私にお鉢が回ってきた。」

論評は、その後しばらくして街で偶然、島津監督に会ったときのことが書かれています。

生気の失われ見るからに元気のない島津監督を見かねた吉村公三郎が、「景気のいい国策映画でもやったらどうですか」と勧めたところ、「そういう勇ましい映画は、君たち若い者がやったほうがいいよ」と言い残して立ち去った、と書かれています。

正確には、こうです。

「島津は力なくいい、三十間堀に舫う舟の焚火をじっと見ていた。
そのモンの前で別れ、夕暮れ近い銀座裏を新橋の方へ歩いて行くうしろ姿を見送ったのが最後である。」

そして、昭和20年、149本目の作品「日常の闘い」を撮っている途中で体の不調を訴え、軽井沢で静養後も益々悪化し、診察を受けたときには、もはや手の施しようもない末期の癌でした。

敗戦からわずか1ヶ月後の9月18日、永眠します。

享年49歳。

最後まで頭脳明晰のままで、「さあ、自由の時代になった。病気が治ったら、五所、豊田、吉村、木下らを集めてプロダクションをやるんだ」と言っていたといいます。

島津監督の末期の目には、親しい弟子たちに囲まれ夢中で映画を撮っていた松竹の日々が映し出されていたに違いありません。

(1934松竹蒲田)監督脚本原作・島津保次郎、助監督・豊田四郎、吉村公三郎、清舗彰、佐藤武、撮影・桑原昴、撮影助手・寺尾清、木下恵介、蟹文雄、小峰正夫、作詞・大木惇夫、作曲・早乙女光、独唱・矢追婦美子、指揮・高階哲夫、美術・脇田世根一、美術助手・木村宣郎、三田秀雄、三島信太郎、中村二郎、石原幾、録音・土橋晴夫、橋本要、録音助手・神保幹雄、西山整司、配光・高下義雄、現像・納所歳巳、阿部鉉太郎、字幕・藤岡秀三郎、
出演・岩田祐吉(父・服部昌作)、飯田蝶子(母・浜子)、 逢初夢子(娘・八重子)、岡田嘉子(姉・京子)、水島亮太郎(父・新海幾造)、葛城文子(母・杉子)、大日方傳(長男・恵太郎)、磯野秋雄(次男・精二)、高杉早苗(真鍋悦子)、阿部正三郎(ガラス屋)
1934.06.28 帝国館 9巻 2,171m 79分 白黒
 
[PR]
by sentence2307 | 2013-05-22 22:01 | 映画 | Comments(3)

裸足の1500マイル

最近、スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンが出演していたフランクリン・シャフナーの「パピヨン」73を本当に久しぶりに見ました。

官憲に捕縛された男マックイーンが、ひたすら自由を求めて、隔離されていた刑務所島から執拗に脱出を試み、最後にはついに脱出に成功するという物語です。

見た当時は、すごく感動した記憶があり、多分そうしたノスタルジーもあって、遠い思い出に引きずられるように見たのですが、そこには当時見たときに感じたあの感動は残念ながらありませんでした。

しかし、決してこの作品が劣っているというわけではありません。

とても好きなタイプの作品です。

ですが、いま見ると強靭な意志で信念を貫こうとするマックイーンの設定が、かなり非現実的に見えてしまい、ずいぶん観念的な映画だったんだなあ、という感じを受けました。

かつてのあの感動は、単に僕の「若さ」が見させただけのものだったのでしょうか。

昔からこのタイプの映画がとても好きなので、思い浮かぶ作品を端からざっと挙げてみても、例えば、スチュアート・ローゼンバーグの「暴力脱獄」とか、ドン・シーゲルの「アルカトラズからの脱出」とか、ジャック・ベッケルの「穴」とか、ロベール・ブレッソンの「抵抗」など、数え上げていったらキリがありません。

そうそう「大脱走」なんかもこの範疇にはいるかもしれませんよね。

それらの作品に共通しているものは、強権に屈することなく叩かれても叩かれても立ち上がることを止めない不屈の精神を持って、ひたすら自由を求め続ける男たちの物語ということなのですが、最近は、こうした純粋すぎる行為をストレートに描く物語が、あまりに現実離れしているように思えてしまい心から馴染むことができません、すんなりと自分の中に入ってこないのです。

人間は、もっと優柔不断で弱々しいに違いなく、卑怯で狡猾で移り気で、そしてもっと愚かであってもいいような気がします。

かつては、あからさまな剥き出しの権力がごく身近にあって、その強権の押し付けをモロに実感できた時代的な背景で成り立っていたストーリーだったのかもしれません(きっと「いちご白書」なんかが、そうだったのでしょうね)が、すっかりマイルドになってしまった現在、そうした時代的な移り変わりもあって、優柔不断で弱々しく、卑怯で狡猾で移り気で、さらに愚な人間の方に、よりリアリティを感じ、自分自身でも安心することができるのだろうなという気がします。

それに、このような自由を求める「純粋な行為」を堂々と謳い上げる物語を、リアリティのある話として納得できるためには、もう少し確かで具体的な動機づけの「担保」が欲しいなと思うようになりました。

「まさに、こういう動機があったればこそ、あらゆる障害を乗り越えて、彼らはどこまでも執拗に自由であろうとしたのだ」というその「動機づけ」です。

この積年の思いにひとつの明確な答えを与えてくれたのが、フィリップ・ノイス監督の「裸足の1500マイル」02でした。

オーストラリアでは先住民アボリジニの子供のうち、白人との混血児たちだけを家族から引き離して集め施設に隔離し、彼らに教育を施して白人社会に適応させていこうという「隔離同化政策」がとられたということが、この物語のベースになっています。

僕もこの作品で、その政策のことを初めて知り、本当に驚きました。

この政策の表向きの目的は、あくまでもアボリジニの子供たちに英語やキリスト教など白人と同じような教育を施し、白人社会に適応できるような社会人に育てあげようというものなのですが、それは表向きの理由で、本当は、白人にとって「見苦しくない白い肌に近い子供」を物色し、あるいは従順なメイドとして調教するのが主たる目的の「人間狩り政策」です。

そして子供たちが従順にその教育を受け入れれば、「お前らケダモノみたいなアボリジニでも、白人社会の高度な文明の恩恵に浴すことができるし、いい生活もできるんだぞ。メイドとしてな。」
というわけなのです。

この政策を支えている思想は、明らかに、白人は美しくてアボリジニは醜く汚い、白人は賢くアボリジニは愚鈍だ、という根深い人種差別に支えられた西洋文明至上主義の考え方であり、「劣った愚鈍な民族」を西欧文明によって啓蒙してあげるぞという押し付けがましい尊大で傲慢な思い上がりです。

この映画は、そうした強制収容所から故郷の母親に会うため逃げ出した少女たちが、海に続くフェンスRabbit Proof Fenseを辿って2400キロを90日間かけ、幼い知恵と、幼い気力と、そして幼い怒りを胸に秘めて歩き通した物語です。

この映画を見るうちに、たまらなく苛立ち、そして、やり場のない怒りに捉えられた僕の、その「安っぽい怒り」をまるで諭すかのようなこの映画の淡々とした少女たちの描き方には、感動を抑えられません。

この映画には、あの僕が愛した「強権に屈することなく叩かれても叩かれても立ち上がることを止めない不屈の精神を持って、ひたすら自由を求め続ける」雄々しく華々しい強靭な意志など、どこにも見当たりません。

むしろ、どんなに虐待され、拘束され、差別を受けようと、言葉少なに、ひたすらに母を求める歩みをやめようとしない少女たちのひたむきな姿にただ心打たれるばかりでした。

(2002オーストラリア)監督製作・フィリップ・ノイス、製作・クリスティン・オルセン、製作総指揮・ジェレミー・トーマス、原作・ドリス・ピルキングトン、脚本・クリスティン・オルセン、撮影・クリストファー・ドイル、音楽・ピーター・ガブリエル、編集・ヴェロニカ・ジネット、ジョン・スコット
出演・エヴァーリン・サンピ(モリー)、ケネス・ブラナー(ネヴィル)、ローラ・モナガン(グレーシー)、ティアナ・サンズベリー(デイジー)、デイヴィッド・ガルピリル(ムードゥー)、ニンガリ・ローフォード(モリーの母)、ミアーン・ローフォード(モリーの祖母)、デボラ・メイルマン(メイビス)、ジェイソン・クラーク(リッグス)
[PR]
by sentence2307 | 2013-05-22 21:50 | 映画 | Comments(1)

山中貞雄と小津安二郎

山中貞雄は、「人情紙風船」の封切りの日(昭和12年8月25日)に召集を受けたので、自分の撮った作品を見ずに戦地に行ったという一文を、以前、繰り返しどこかで読んだ記憶があります。

しかし、そんなことが本当にあり得るだろうかとずっと疑わしく思ってきました。

もし、自分の作品を見ないまま戦地に赴いたのだとしたら、その後、山中貞雄が戦地から送ってきた葉書に記されていたという「遺言」(それが本当に深刻な絶望から書かれたものか、それとも一種の照れからそう書かずにいられなかったのかは、手元に資料がないので軽々には結論づけることができませんが)の一節

「『人情紙風船』が自分の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみに非ず」

のあの痛切な言葉の整合性が揺らいでしまうのではないかとずっと考えてきました。

素人考えでも、クランク・アップから封切りまでには、それ相応の時間があるわけですから、その間に、たとえ大雑把なものでも、試写だとか、少なくともラッシュ等で自分の撮った作品がどういうものかくらいの確認は十分にできたのではないか、そして、その作品の出来ばえや手応えを認識したうえでの、あの「チトサビシイ」という言葉が発せられたのだとしたら、と違和感のようなものを覚えたのでした。

また、その当時、この言葉を伝え聞いた友人たちが、それをどのように受けとめ、そして、どう感じたのかも、ずっと自分にとっての一番の関心事でした。

それはそうでしょう、誰もが認めるあれだけの傑作に対して、また、本人もそのことを十分に認識していたとして、なお、あえて「遺作ではチトサビシイ」といったとしたなら、それは随分と傲慢で不遜な響きのもつ言葉だったのではないかと解されても、あるいは仕方ないことだったのではないかという危惧がずっと自分のなかでわだかまっていました。

しかし、あるとき、自分が、いつの間にか山中貞雄という人物を、勝手に川島雄三のような人物だったのではないか、と無理やりにこじつけて理解しようとしているのではないかと気がつきました。

もちろん、そうでもしなければ、明治生まれの山中貞雄という人物の純粋性を現代の僕たちがいくら理解しようとしても、到底適わないことだという絶望的な気持ちがあったからだと思います。

それは、そのあまりにも長大な時間の経過によって、すっかり変質してしまった日本人の感性を、「現代の感覚」しか持ち合わせていない僕たちが、「敗戦」という壁を越えて正当に読み解くことができるのかという絶望でもありました。

ともに人生の限られた時間に追い立てられ、そして脅かされながら、焦燥感のなかで命を燃焼させたという意味では、このふたりには共通するものがあり(その思いはいまでも変わりませんが)、山中貞雄という人を理解するうえで、どうしてもイメージの重なる「川島雄三の生き様と焦燥感」を借りて無理やりな理解で捻じ伏せることでしか、山中貞雄の純粋性にアプローチする方法がなかったということは、たぶん大いにあり得たことだったと思います。

つまり、当初自分が、山中貞雄のあの遺言の一文のなかに「照れ」とか「不遜」とかという一種の韜晦の感情を仮に織り込んでみようとしたのは、それは結局、川島雄三の生き方を便宜的に投影させてみようとした何の根拠もない試みにすぎず、単なる当てずっぽうの無謀な仮定にすぎませんでした。

戦後の日本が、ある程度の経済発展を遂げて豊かになり、もはや食う心配も死ぬ心配からも解放されて、徐々に平和ボケしていった弛緩の時代の只中にあって、虚栄に翻弄され蝕まれた頽廃の人々に囲まれながら、自らの純粋性を守ろう、誰からも傷つけられまいと見構えれば、その「一種の照れ」や「不遜」は、当然川島雄三こそが必要とした固有の武器だったはずで、しかし、それは戦後の糜爛期に精いっぱい強がって生きなければならなかったどこまでも川島雄三限りのものでしかないのは当然なことで、それをそのまま山中貞雄にあてはめようとしたことは、所詮、根拠のない無謀な発想だったのであり、強引なこじつけでしかなかったのだと気がつきました。

つまり、山中貞雄という人物を理解するうえにおいて「一種の照れ」や「不遜」などという観念は、まったく無縁のものだったということに思い至りました。

厳しい時代状況のなかで将来の見通しが断たれ、生きる希望を奪われた絶望のなか、山中貞雄は、ただ単に、もっと映画が撮りたいと、それでも遠慮がちに、悲痛な叫びを上げていただけだったのです。

今回、「人情紙風船」について書かれた多田道太郎の「ある時代映画のイロニー」という論評を読みました。

この短文を読みながら、いままで自分が長い間認識違いをしていた部分を発見したので、ちょっと驚きました。

それは、酔いつぶれて寝入っている夫の又十郎を、妻のおたきが懐剣で刺し殺して、夫婦心中をはかろうという凄惨な場面についての解釈です。

妻のおたきが、夫・又十郎を殺害した理由というのが、町娘をかどわかすという悪事に加担した夫が次第に武士の誇りを失っていくことに妻は失望し、武家の面目を保つために殺害→心中に及んだのだと書かれている部分です。

そうか、そのように理解すれば、すべての辻褄が合うと、はじめて納得したのですが、しかし、そうだとすると、このおたきという妻は、なんと冷たい女なのだ、そして、その冷え切った夫婦関係というぞっとするような設定を平然と据えることのできる山中貞雄の冷厳な人間不信の視点にも呆然とさせられました。

それまで、自分は、この夫婦が死に至る理由を、以下のように勝手に思い込んでいたのでした。

冷たい世間から理不尽な辱めを受けて苦しんでいる不器用な夫を妻は憐れみ、もはやこれ以上耐えさせるのはムゴイことと悲観した妻のおたきは、夫を世間からの辱めと苦しみから解放させるためには、いっそのこと夫を殺し自分も死ぬしかないと思いつめて夫の殺害に及んだのだと思い込んでいました。

その先入観の根底にあったものは、「妻は夫を慕いつつ」みたいな、あまりにも世俗的な軟弱な楽観です。

しかし、山中貞雄が、妻というもの、夫婦というものをそんなふうに甘々に捉えてはいなかったことを知り、「人情紙風船」という作品がそうした映画だったのかと始めて気づき、人間に対する見方の自分の幼さを叩き潰されたようなショックを受けたのです。

同時に、この男女関係に対する観念の冷ややかな感覚は、この山中貞雄で始めて感じたものではないという思いは、自分の中のどこかにありました。

しかし、その感覚にどこで接したのかまでは、しばらくはどうしても思い出すことがではきませんでしたが、じきに思い出しました。

小津安二郎の女性に対する距離の取り方、その視点の冷徹さに相通じるものなのではないかと。

そして、多田道太郎の「ある時代映画のイロニー」を読んでいたら、不意に稲垣浩の山中貞雄への追悼文なるものに遭遇しました。

それが以下の文章です。

「『彼は、外貌天真爛漫な顔をしてゐますが、本当は淋しい男でした。彼の生涯は母と友人の他に何物もなかったと云へませう』と稲垣浩は山中を追悼している」

この文章の文末にはその出展として「前掲書、374頁」とだけ記されていますが、「前掲」とおぼしき箇所にはふたつの書名が掲げられていて、はたして初出の「キネマ旬報1938.10.11号」か、後出の「山中貞雄作品集3巻391頁」かのどちらを指しているのか迷ったのですが、まあ、いずれかの374頁であることには違いなく、という納得をとりあえずしておきました。

この一文からすると、知人友人が少なかったというクダリはたぶん小津監督には当てはまらないにしても、同居をしつづけた母親を生涯大切にしたという部分、そしてその一方で、女性を遠ざけ伴侶を持たなかったということなら共通すると思います。

つまり、俗っぽく下世話に言ってしまえば、自分だけの性欲を満たすことよりも、まず母親を大切にすることをなによりも優先したということでした。

多くの小津作品には生活の困窮のために(そこに積極的な意図はなくとも)、あるいは配偶者からの異論に板ばさみになりながら、仕方なく老いた親をないがしろにしなければならない立場に追い込まれる成人した多くの「子供たち」が登場します。

そういうシュチエーションなら、あらゆる小津作品の随所に仕掛けられているかもしれません。

生活に追われ困窮しきっているその成人した「息子や娘たち」は、貧しいため親をおろそかに扱わねばならないことに、それなりに苦しみながらも、結局なにも為しえないままに、成り行きにまかせるしかありません。

その「成り行き」ということを、小津安二郎は、その辛辣な映像の連なりをもって「親を見捨てる」ことと同じではないかと、抑制された静かな怒りを込めて痛烈に看破しています。

数年前、近所でこんな話を耳にしたことがありました。

長年、独身の息子さんとふたりだけの暮らしを続けてきた母親が、高齢のために体の自由が利かなくなり、息子に負担をかけまいと、息子の定年を機会に自分からすすんで「特養老人ホーム」に入所することを希望したそうです。

しばらく空きを待っていたようですが、ようやく少し離れたホームの小奇麗なひとり部屋に入所することができました。

当初、その息子さんは、「やっと自分も定年になったのだから、これからは付きっ切りで母親の面倒をみてあげられるのに、なんとも皮肉なものですね」と苦笑されていたということですが、入所してから一年も経たないうちに、母親は物忘れが激しくなり、息子と他人との区別がつかなくなっているらしいことが、だんだん分かってきました。

「らしい」というのは、「分かっている」ことを懸命に装っているので、「らしい」なのですが、そういう母親のことを気遣って話すときの息子さんの淋しそうな顔を見るのがとても辛いと、妻は話していました。

この前もこんなふうに言っていたそうです。

「このさき記憶をなくしてしまったら、自分を支えてくれるのが誰なのか分からなくなってしまう、本当のひとりぼっちになってしまうと母は不安なんです。だから見捨てられまいと誰に対してもとても愛想がいい、介護の誰にもまるで『息子』のように接します。もちろん私に対してもまるで『息子』のように愛想よく接してくれますよ」

苦笑しながら話すその息子さんの表情は、とても辛そうだったそうです。

その息子さんには、他県に住んでいるやはり独身の弟がいて、たまに顔をみせていたようですが、母親が自分の子供が認識できなくなっていると分かると、ぷっつり姿を見せなくなってしまったそうです。

「なんで母に会いに行ってあげない」と兄は、はげしく弟をなじったところ、弟はこう言いました。

「もう子供の顔が分からないのだから、会いに行っても無意味じゃないか」

記憶も失い、自分の子供も分からなくなってしまった母親を、弟は、あれはもう自分の母親じゃないと否定します。

この話を聞いて、「なるほど。人は、こうやって親を見捨てるのか」(見捨てることを納得するのか)と感じました。

《小津安二郎は、その辛辣な映像の連なりをもって、それでは「親を見捨てる」ことと同じではないかと、抑制された静かな怒りを込めて痛烈に看破しています。》と書きながら、老いた母親と同居し、生涯あたたかく見守り続けた小津安二郎の生きる姿勢に打たれました。

小津安二郎の目の前で共に暮らし続けた母親は、どのように老い、どのように変わり果てようと、いつまでも常に幼い自分を愛し続けてくれた同じ母親のままであり、その姿を見失うことのなかった希有な人だったのだと思います。

昭和37年2月4日、母あさゑ死去。
昭和38年12月12日、12時40分、小津安二郎死去。
[PR]
by sentence2307 | 2013-05-06 11:17 | 映画 | Comments(0)

暴力脱獄

最近は、原題の横文字をそのまま使うことが多くなりましたが、とんでもない邦題をつけて顰蹙をかうよりは、まだその方がいいのかもしれません。

でも、横文字をそのまま使うことで、作品に対するイメージがつかめず、印象が幾分薄れてしまうのではないかという懸念も片方であるので、きっとむかしみたいに素晴らしい邦題がつけば、状況も一変するかもしれません。この話は、きっとどこまでいっても「安直な原題の流用に偏りすぎるのはいかがなものか」みたいなものとツイで論じられることが多いでしょうから、白か黒かなどというすっきりとした結論を期待しない方がむしろいいのかもしれません。

例えば、スチュアート・ローゼンバーグの「Cool Hand Luke」を「暴力脱獄」と暴走ぎみに意訳した感覚には、手放しで敬服しているひとりです。

「平時」にあっては、とても普通の感覚では考え付かない命名だと思いませんか。

内容からは、遥かにかけ離れたこのタイトル「暴力脱獄」は、なにしろゴロがいいです。

何となく「暴力革命」という超危険な語感を連想させ、思わずゾクゾクッときてしまう、あの感覚ですよね。

世界的な潮流を受けて日本の学生たちも叛乱に向けて徐々に動き始めた1967年というまさにそういう時代につけられたタイトルに僕たちは不思議な胸騒ぎみたいなものを感じたのだと思います。

そして、この叛逆のテーマを演じ続けてきたポール・ニューマンという俳優が、不服従という反抗を貫き通すことによって、ひるむことなく魂の自由を求め続け、そのためには破滅さえ厭わないのだという演技をデビュー以来一貫して演じ続けてきたことに対する共感でもありました。

アクターズ・スタジオ出身の演技者としてモロに意欲をみせようとしたテネシー・ウイリアムスものや円熟の域に達したといわれる最近のキュートな作品もそれなりの意味があるのかもしれませんが、やはりなんといっても「傷だらけの栄光」から始まって「暴力脱獄」で完結する一連の系列の作品こそポール・ニューマンらしい役どころがあり、スタートからすでにそのカリスマ性を形成したのだと思っています。

しかし、「左ききの拳銃」、「ハスラー」、「ハッド」など、アンチヒーローと呼ばれたそれら主人公像は、当時、NYアクターズ・スタジオ出身の先輩マーロン・ブランドのコピーにすぎないと書き立てられ、ポール・ニューマンもそのことを随分嫌がっていたという記事を読んだことがあります。

同じスタジオで演技指導を受けたために似かよった部分が出来上がってしまったのは仕方のないことだったのか、あるいは、芸能ジャーナリズムが勝手に作り出した単なる偏見にすぎなかったのかもしれませんが。

例えばこの「暴力脱獄」の惚れ惚れするような一場面、どうにもならない絶望的な状況に追い込まれ窮地に立った時に、ルーク=ポール・ニューマンが浮かべる敵を更に挑発するようなあの「不敵な薄笑い」を指すのでしょうか。

ごく初期のマーロン・ブランドも確かに人を小馬鹿にしたような薄笑いを常に浮かべていましたが、ポール・ニューマンが演じようとしていた反逆者とはまるで違う場所を目指していたと思います。その表れのひとつが「暴力脱獄」だったと思います。

内容的には、邦題のタイトルから受けるイメージ「暴力による脱獄」という印象は、ちょっと違うかなというのは、この映画、むしろ「脱獄」に失敗して捕まる度に「暴力」をふるわれるというのがこの作品のストーリーだからです。

看守たちのリンチに耐え、怯むことなく、なおも自由を求めて脱走し続けるというガッツが描かれていて、まあ、殴られて耐えるのを「ガッツ」といえるかどうかは分かりません。

むしろ、後年主演男優賞争いで敗れる「ガンジー」の無抵抗主義を思わせてしまうあたりは皮肉ですが。そして、ルークの前には、絶対的で強力な権力を持っている所長や看守たちが立ち塞がり、どうすることもできないという絶望的な状況がそこにはあります。

刑務所という国家権力の武力装置システムに「拘束する」という強制を、「脱獄」する手段で対抗する権力者を辱める反抗の姿勢はマーロン・ブランドでさえ持ち得なかった演技の深みがあったのだと思います。

再三の脱獄に失敗し、懲罰房に入れられて徹底的に痛みつけられたルークは、その後、看守たちの走り使いなどをして、権力の暴力に屈したかに見え仲間から軽蔑の眼差しでみられる場面などもあるのですが、しかし、それは、再度の脱獄の可能性を残すためも無抵抗のカモフラージュだったことが後で分かり、囚人仲間がルークのガッツにあらためて感嘆するという場面なども用意されています。

あの軽蔑と感嘆の振幅のなかには、不服従の弱さのイメージと信念を貫き通す強さのイメージとを、あえて同列に置いてみせた設定が、とても新鮮に思えました。

俳優としてのポール・ニューマンの生き方も髣髴とさせるものがありました。

しかし、ただそれだけで、この「暴力脱獄」が、伝説の映画たり得るための要件を満たしているとは思えません。

この映画の魅力は、なによりも、ルークを、「今は亡き」既に伝説の中の男、囚われの男たちの「希望」そのものとして描いているところにあったからだと思います。

ジョージ・ケネディが遠い目をして「いまは亡き彼の伝説」を話し始めるあの郷愁のニュアンスです(この演技でジョージ・ケネディはアカデミー助演男優賞を獲得しています)。

クールなルーク(coolとlukeじゃスペルが違うので洒落じゃないと思いますが)の物語が語られ始めるとき、それは既に遠い思い出の郷愁のなかで語られるジョン・フォードの「わが谷は緑なりき」とかロバート・マリガンの「アラバマ物語」の、あのなんとも知れん感覚を思わせますね(ここはどうしても淀長さん風でやらないと感じがでません)。

失われたものを振り返るある胸が締め付けられるような郷愁に満ちた思い出の中に生きるルークの薄ら笑いが、負け惜しみの薄ら笑いではなく、彼の後を着いて行きたくなるような生きること自体にすこぶる挑発的な薄ら笑いなのだなとそのとき思いました。

しかし、あの役を、もしマーロン・ブランドとかデニス・ホッパーがやっていたら、観客をこんな深い思いに導くカリスマ性が演じられたかどうか、疑問だと思います。

ポール・ニューマンは、つねづね、まずスターであるよりも、アクター(演技者)であるとともに、家庭を大事にすることを心がけていると公言し、自他共に「最も偉大な普通人」と呼ばれていることは有名でした。

ハリウッド的な考え方を嫌い、愛想も振り撒かないし、サインもしない。

東部に住居を構え、ハリウッドに反旗を翻しながら、しかし、追放される(デニス・ホッパーのように)こともなく、作品を選び続けられる位置を確保している(彼が拒否した作品として知られているのが「オール・ザット・ジャズ」「普通の人々」「ロマンシング・ストーン」です)。

これは、大変なことだったと思います。

こういうギャップが、彼を「本当の大人」に見せてしまうのでしょうか。

しかし、僕の場合も、かつては、優等生のポール・ニューマンよりも、永遠の問題児デニス・ホッパーが好みだと言って仲間内でのウケ狙いに走っていた時期もありました。

しかし、タイプがまるで違うこのふたり、実は共通していることがあります。

それは、共にブロード・ウェイのアクターズ・スタジオで学んでいること、そして共にジェームズ・ディーンに逢っていること、そして両極端という意味でハリウッドのスターらしからぬことでしょうか。

(1967ワーナーブラザース)監督・スチュアート・ローゼンバーグ、脚本・ドン・ピアース、フランク・ピアソン、製作・ゴードン・キャロル、音楽・ラロ・シフリン、撮影・コンラッド・L・ホール、編集・サム・オースティーン
出演・ポール・ニューマン(ルーク・ジャクソン)、ジョージ・ケネディ(ドラグライン)、J・D・キャノン(ソサエティ・レッド)、ルー・アントニオ(ココ)、ロバート・ドライヴァス(ラウドマウス・スティーブ)、ストローザー・マーティン(刑務所所長)、ジョー・ヴァン・フリート(アーレッタ)、クリフトン・ジェームス(カー)、ハリー・ディーン・スタントン(トランプ)、
[PR]
by sentence2307 | 2013-05-06 11:06 | 映画 | Comments(60)
たいていの出版関係者(主に編集者)にとって、長い期間を編集作業に費やして、ようやく一冊の本を刊行まで漕ぎつけた時の嬉しさは、筆舌には尽くしがたいものがあるとともに、しかし、その反面、とても緊張する瞬間でもあります。

その感じというのは、ちょうど「祈るような気持ち」という高潔な感じから、「丁半バクチ」のサイコロの目に人生の浮沈を掛けるみたいな下世話な切迫感まで、出版関係者の焦燥をぴたりと言い当てていて、どれもが相応しい気がします。

もしも、この本が売れずに最低限の資金回収にも届かなければ、当面、次の企画の資金繰りの目途が当分たたず、見通しもたちません。

それに会社にも予算的に相当なダメージを与えるわけですから、それなりの期間、そのダメージの調整のために奔走しなければならなくなるでしょう。

また、この社内のマイナス・イメージを払拭するために、それなりの策を講じる必要があるかもしれない。

いずれにしても、混乱を招いた事態を収拾するという煩瑣な作業に多くの時間をとらねばならないであろうことは容易に想像できます。

とにかく、本はまず売れなければどうしようもありません、売れてなんぼの世界です。

売れさえすれば、なんの問題も生じないということなのです。

「それじゃあ、まるで商品の売り上げに腐心する普通の製造業と同じじゃないか。知的産業といわれる出版社もそんな低次元の自転車操業みたいなことをしているのか」と揶揄や非難をされても仕方ありません。

執筆していただいている先生方とか、「本」というものに崇高なイメージを抱いている読者の方々には大変申しあげにくいことですが、出版社も普通の製造業となんら変わりがありませんし、出版関係者にとっては、「本」もぶっちゃけ、ただの商品にすぎません。

そして、たった一冊の本といえども、それが売れないとなると会社はそれだけで動揺し、震撼し、自分たち社員の明日からの生活もリアルに脅かされるということになるのです。

しかし、現実は、面白い読み物など到底書けそうにない多くの執筆者たちや、綺麗な装丁だけに目を奪われたり、せいぜい「ゲーム本」とか「旅行・グルメ」くらいにしか興味を示さない気まぐれで財布の紐の固い読者さまの間に挟まって、編集者は常に深刻な苦境に立たされています。

かといって、本が売れないときの「神頼み三大企画」と言われる「健康もの」「スキャンダル・犯罪もの」「エログロナンセンスもの」とかにいまさら手を出すわけにもいきません。

だいたいそんな企画は社風に合いませんし、唐突すぎてそんなものに手を染める必然性も見つけることはできません、つまり到底できる話ではないのです。

なので、売り上げを伸ばすために編集者ができることといったら実に相当限られていて(こんなことを言うと、上司から、そんな言い訳をするな、そんな消極的なことでどうする、お客様にすがり付いてでも売りつけてこい、バカヤローと叱られそうです。殴られるかもしれない)、自分たちにできることといえば、せいぜい本にチャラチャラした帯をつけるとか、向こう見ずな装丁者にお願いして、やたら派手な表紙デザインを考えてもらうことくらいしかないわけで。

あっ、そうそう、こういうのもありました。

「まえがき」を、誰もが知っているようなその道の大家(権威)にお願いして、箔を付けるのです。

自分だって読書をはじめるときには、習慣として、まずは「まえがき」から読みはじめますからね。

極端な本になると10頁以上にわたる「まえがき」などもあって、そこには本文の重要なエッセンスが書き尽くされており、目次と照らし合わせて読めば、もうその本の主だった理解は済んでしまうという、この本文はいったい何のためにあるんだと思えるほどの優れものもあるくらいです。

ことほどさように「まえがき」というものは、その本の内容の要約とか、執筆者のヨイショが書かれているものなのですが、あるとき、その常識を打ち破るような斬新な「まえがき」に遭遇したことがありました。

岩波書店刊行の「講座 日本映画 第3巻・トーキーの時代」の「まえがき」です。

執筆者は、新藤兼人監督、そして、その内容は、本の中身とはまるで関係のない溝口健二監督の「元禄忠臣蔵」撮影現場(昭和16年初夏)におけるエピソードでした(もっとも、書名が「トーキーの時代」というのですから、まったく関係がないか、そうなのかと糾問されれば、なくはないと答えざるを得ませんが)。

以下は、その「まえがき」です。

《その大名屋敷のセット。大石内蔵助に扮した河原崎長十郎が座敷から出てきて縁側に立つ。時は元禄13年3月13日、浅野内匠頭が、江戸城松の廊下で、吉良上野介に刃傷に及ぶのは翌14日、内蔵助は主君の身を案じて夕闇の庭に向かって佇むのである。

キャメラマン杉山公平は、庭にキャメラをすえて、縁側に立つ内蔵助をフルショット(全身像)でとらえている。
執拗なテストのくり返し。そのたびに長十郎はおもおもしく出てきて佇むのだが、監督の苛立ちはしだいにたかまってきた。

いきなり、台本の一箇所を指さして、たたきつけるような調子でいった。

「花は芝居をしません」

内蔵助の気持ちを表わす描写として、夕闇の庭に名も知れぬ白い花ぽつんと一つ、というようなト書きがあった。

「脚本家を呼んでください」と、さも腹立たしそうに庭の花を蹴飛ばして、私を見た。

この映画の美術を私は水谷浩と共同でやっていた。だから、脚本の指定どおり、庭師に上等の白い菊を植えてもらった。花に罪があるわけでもないのに蹴とばすとは。むっとして私は見返していた。

原健一郎と依田義賢が駆けつけた。真山青果の戯曲を共同脚色したのである。

「夕闇にぽっかり白い花、なんの意味ですか」相手を睨みつけて丁寧な切口上だ。

「それはですね、かくべつ意味があるわけじゃないんですが、つまり、その、内蔵助の、内面描写として・・・」

「しかし花は口はきけませんからね、見つめられても答えられませんね」

「それはまあそうですけど・・・」

「花を見た内蔵助は、花から何を与えられるんですか、それとも花にある予感でも覚えるんですか」

「そういう理屈っぽいもんじゃなくて、なんとなくひとつの雰囲気なんです」

「そんなあいまいなものは撮れません。夕闇の中の白い花が、内蔵助の心に、何を語りかけたんですか。なんとなくじゃ困るんです。白い花のアップでも撮って、内蔵助のアップとカットバックでもしろというんですか。芝居をする花を書いてください」

長十郎は黙ってきいていた。脚本家も溝口健二のいうことはよくわかるから、沈黙していた。私は、むちゃくちゃをいうなあ、と思いながら耳を傾けていた。

花は芝居をしない、というのは、溝口健二の一貫した演出態度だった。

溝口作品には、美しい花とか、夕焼けの空などが、それ自体意味を持って、作品に参加するということはない。徹底して対象は人間なのである。シナリオライターにもそれを要求した。

ときにそれは溝口作品を息苦しくしたが、わが道はこれを歩むほかないと信じ込んでいたから、徹底して、花のいらない作品を作りつづけた。

瑤泉院(内匠頭未亡人)が、真夜中、ふと松の枝を滑り落ちる雪の音で目覚める。時刻はちょうど赤穂浪士たちが吉良邸に乱入しているときである。

この松の枝から落ちる雪のカットを、セットでいくらやってもうまくいかない。黒部渓谷の奥まで行って、やっと適当と思えるカットを撮って帰ったが、さてこれが瑤泉院の寝顔にどうしてもつながらない。

なぜだろう。雪は芝居をしません、としかいいようがない。

溝口健二は、ごまかしの映画描写をふるい落とそうと、けんめいに、自らを窮屈な世界へ押し込んでいった。
「キャメラは、何でも写すから、用心しなくてはいきません」といった。》

これが、一冊の本の「まえがき」だとすると、なんとも格調の高い、垂涎ものの「まえがき」ですよね、実に羨ましい。

ちなみに、御園京平の労作「映画の忠臣蔵」の「元禄忠臣蔵」の項には、こんなふうに書かれています。

【前篇】興亜映画というのは松竹が超大作を製作する場合の別組織として新設されたもので事実上は松竹の作品であることにはかわりはない。真山青果のライフワークともいうべき一大戯曲をもとに、著名な時代考証家に、武家建築、風俗資料、民間建築、能、史実、衣裳などについて的確な指導を得て、溝口一流の凝った演出で描いた従来の忠臣蔵に見られぬ史実性のある作品である。前篇は、「江戸城の刃傷」「第二の使者」「最後の大評定」「伏見撞木町」までである。

批評は「映画旬報」55号より紹介してみよう。

「如何に史実に忠実であり、また芸術に真摯であるとしても、これほどの巨費を投じ、これほどの工作を致すべきか否か、問題解決のひとつの道は作品そのものの成否如何にあると考える。その成否とは、日本の映画界にこれほどの巨費を投じさせることを可能にする映画作家が生まれたことを、日本映画の成長を賀すべきである。全体としての演出は失敗しているように思うが部分的に見れば流石溝口の巨腕と風格をうかがうに足るものがあった。・・・しかしこの映画の失敗を演出だけに帰すべきではない。俳優陣の貧しさと音楽の失敗も大きい。長十郎の大石も貫禄はまだ不足している。小杉勇その他の面々も香しくない・・・」(内田岐三雄)
この映画でまず驚かされるのは松の廊下のセットで、今までは中廊下であったのが、庭に面した大セットに組まれている。建築に二ヵ月半かかり、所要人員5250、建築費6万8000円、総畳数600という、美術監督が水谷浩、建築監督として新藤兼人が名を連ねている。

出演も前進座を中心に、松竹傘下の大船、京都、新興京都、第一協団、フリーなどの俳優が出演した。

いままで松之助から大河内、阪妻などの忠臣蔵を見てきたわたしなど(御園京平)は、面食らった。真山青果の「元禄忠臣蔵」というものを知らなかったところへ、いきなりこういう忠臣蔵を見たときはなんともいえなかった。この映画が封切りされた週に太平洋戦争がはじまった。

【後篇】細川越中守(河津清十郎)、堀内伝右衛門(中村鶴三)、おみの(高峰三枝子)、その他スタッフ、キャストは前篇と同じ。

映画の企業統制により、東宝、松竹、大映の三社に統合されたため興亜映画の名は消えて、後篇は、松竹京都作品となる。「御浜御殿」「南部坂の別れ」「吉良屋敷裏門」「千石屋敷」「大石最後の一日」までが描かれる。後篇の宣伝ポイントはなんといっても高峰三枝子の男装姿で、細川家に預けられた磯貝十郎左衛門の許へ堀内伝右衛門に伴われて小姓の姿に替えて現れる許婚おみのの役。高峰が期待を裏切らず素晴らしい出来栄えだった。前篇より後篇の方がそういった意味で興行的に当たる要素があった。長十郎の大石も南部坂、泉岳寺引き上げ、最後の一日の死の迫るシーンなど光芒と冴えてきた。御浜御殿では翫右衛門と右太衛門の長台詞の掛け合いもまずまずの部。筆者(御園京平)はこの映画の封切り当時は未だ若年のため、前篇は画面も暗く、録音も悪く退屈をした。後篇でも討入りのチャンバラがなく、丹下左膳や鞍馬天狗に熱を上げているミーハー的映画ファンを落胆させた。

泉岳寺での主君の墓前の長い台詞や、細川家に預けられ義士のひとりひとりが呼び出されて切腹するシーンは、今までのものになかっただけに驚いたが、ただそれだけのものであった。何十年か経って、歌舞伎座の芝居で見たり、フィルムセンターでこの映画を見て、お恥ずかしい話だが、始めて作品の良さを知った。

(1941,1942興亜・松竹京都)総監督・白井信太郎、監督・溝口健二、原作・真山青果、脚色・原健一郎、依田義賢、撮影・杉山公平、音楽・深井史郎、美術・水谷浩、建築監督・新藤兼人、
出演・嵐芳三郎(浅野内匠頭)、三桝万豊(吉良上野介)、中村翫右衛門(富森助右衛門)、小杉勇(多門伝八郎)、市川右太衛門(徳川綱豊)、阪東調右衛門(原惣右衛門)、三浦光子(瑤泉院)、河原崎長十郎(大石内蔵助)、羅門光三郎(井関徳兵衛)、河原崎国太郎(磯貝十郎左衛門)、山路ふみ子(お喜代)、山岸しず江(りく)、細川越中守(河津清十郎)、堀内伝右衛門(中村鶴三)、おみの(高峰三枝子)、
[PR]
by sentence2307 | 2013-05-04 18:20 | 映画 | Comments(245)

Ikebana

先週の金曜日の夜、地区の定例自治会がありました。

いつもは、班長さんに委任状を渡してちゃっかり欠席を決め込んでいたのですが、今回はちょっと重要な案件があるということで、久しぶりに出席してみました。

懸案の問題は、やはり、隣り合う班同士に利害の対立があって、夜の9時過ぎまで喧々諤々の討議をしたのですが、その日の決議はできないまま、結局、翌月に継続して審議することに決まり解散となりました。

帰り際、公民館の玄関で靴をはいていると、近所のMさんから声を掛けられました、帰り道が一緒です。

最初のうちは、「やれやれ、お金の負担の話になると、なかなかまとまらないものですな」など短い言葉の遣り取りがあったのですが、すぐに話も尽きてしまい、気まずい沈黙が続きました。

これでなかなかご近所づきあいというのは難しく、自分の家のことをあれこれと近所の人に話すのを妻はとても嫌うので、こんなシュチエーションのときは、余計なことを言わないようにとても神経を使います。

まあ、同じ地区に住んでいれば、いつなんどき利害の対立する問題がシュッタイしてお互いに相反する立場に立たされる場合だってないとはいえませんから、妻のその辺の危惧とか配慮は当を得たものと自分も同意しています。

ですので、懇意している人といっても、なんでもかんでも仲良くべらべら話すというわけにはいきません。

こんなふうなら、むしろひとりで帰ってきてしまった方がよかったかもしれないな、などと考えていたとき、相手のMさんも同じように考えていたらしく、気まずい空気を打ち破るみたいな張りのある声で突然話し始めました。

「日本の『いけばな』を、英語でなんて言うかご存知ですか」

話題そのものは、なんだか唐突な感じがしないでもありませんが、しかし、その唐突さには救われもしました、人畜無害のこういう話題がいいのです。

「『いけばな』ですか。う~ん、Japanese flower arrangementとでも言うのでしょうか」

「いや、それが違うのだそうですよ。英語でもフランス語でも、『いけばな』は、『いけばな』なんですって」

「へ~え、それは意外ですね。flower arrangementではないのですか?」

「ええ、実はね・・・」

Mさんが、日本で暮らしている外国人のために日本語を教えている「日本語教室」でボランティアの講師のひとりとして参加しているのは知っていました。

大手の商社に長年勤め、海外の勤務が長かったMさんは、英語がとても堪能です。

数年前に定年退職して暇になったとき、なにか自分にできるボランティアはないかと探していたときに、市の主催する「日本語教室」で講師のボランティアを募集しているのを知って応募したのだそうです。

つい最近、Mさんから自分にも講師をしないかという勧誘を受けたことがあったのですが、即座にお断りしました。

英語の方は、まるで駄目です、自信がありません。

中学生の最初の英語の授業のとき、アメリカかぶれした英語教師が、wellの発音を自慢げに披露する浅ましい姿に遭遇し(大口を開け、汚い舌をむき出して、さらに大仰に丸めてみせてから、wellとやって見せられ衝撃を受けました)、あのとき以来、あんなカメレオンみたいな真似をしなければ英語が喋れないというのなら、なにも英語なんか話せなくても一向に構わないと決意しました、thでは舌の先を噛まなければならないなどという奇妙な風習も到底受け入れがたく、人前であのような奇妙に表情を作らねばならないということに対して誇りある日本男子としては決して容認することのできないものがあり、その奇妙な異文化を、攘夷の立場でひそかに拒否し続けてきたというわけです。

しかし、拒否といっても、授業で繰り返される最小限度のフレーズなどはどうしても耳に入ってきて、結構身についてしまうもので、オトナになってから不意にポロリとそれが出てしまったりすることがありました(例えば、教師が生徒の注意を促す定番のフレーズlook at meなど)。

数年前のあるとき、朝の通勤電車に乗っていたときのことです、イラン人の家族とおぼしき集団(5人くらいで小さな子供もいました)が、わさわさと乗り込んできました。

そして自分のすぐそばで、なにか盛んに言葉を交わしています、たぶんアラビア語だと思いますが、降りる駅を間違わないようにとでも言っているのか、とても不安な感じでお互いに確認し合っている様子です。

「幾つ目だからよく数えておけとか、あそこに次の停車駅が出るから見逃すなとか、車内アナウンスに気をつけろ」とか、長老(だと思います)が家族に支持していることが雰囲気で分かりました。

そのうちに、その中の背の低い奥さんらしい女性が話しかけてきました、「そらきた」という感じで、言葉はさっぱり分からないものの、駅らしき名前だけを聞き取ろうと集中して身構えていたのが良かったのだと思います、「浜松町」という言葉が幾度も発音されたのを聞き取ることができました。

な~んだ、という感じです。

もちろん「そなたが降りるべき浜松町は、どこそこである」などと話すのは自分には到底無理ですが、ちょうどドアの上に関東近県の停車駅を示す広域地図が掲示されています。

あれを指で示せば、一目瞭然、なんてことはありません。

そこで、ドアのうえに掲示されている広域地図を指で示して「look at me」とやらかしました。

イラン人家族は、少し驚いた様子で私をじっと見つめています。

いやいや違うんだ、この場合の「look at me」は、「あの地図を見よ」という意味なのね、そのあたりの言葉の機微を、このイラン人家族は、まるで理解できていない様子でした。

朝のラッシュ時の混雑した通勤電車のなかで、日本人のおっさんが、まるで自由の女神のごとく、片腕を高々とむなしく差し上げたまま、じっとイラン人家族に見つめられて泣き顔になっているナントモ失笑の構図を思い出すたびに、いまでも顔から火を噴き出しています。おのれは、ゴジラか。

つい話が横道に反れてしまいましたが、Mさんの話に戻りますね。

いくらMさんが「英語が堪能」だからといって、できるだけ英語は使わず日本語で話し通して外国の人に慣れてもらおうというのが「日本語教室」の理想ですから、「英語堪能」というのは、なんだか話がちょっとずれているような気もしますが、案の定、外国人が理解できなくなると、つい英語で助け舟を出してしまうMさんのやり方は、さっそく教室側から注意され、講師仲間からも顰蹙をかったと聞いたことがありました。

「いけばな」の話というのは、最近、その日本語教室に遊びにきた若いアメリカ人のお嬢さんから聴いた話だということです。

彼女、アメリカの大学の日本語学科に籍を置いているだけに、話す方は、もうなんの支障もなく、難解な哲学用語さえも時折織り込みながら自由自在に日本語を操りますが、書く方がまるっきり駄目で、それで「日本語教室」をのぞきに来たのだそうです。

その彼女、来日直後に、学校で(たぶん大学だと思います)日本人の級友と雑談しているとき、数名に「いけばな」を英語で何というかと聞いてみたとき、全員の答えが「Japanese flower arrangement」だったので、大変に驚いたという話でした。

彼女いわく、「いけばな」は、英語でも「Ikebana」、フランス語でも「Ikebana」です。

もちろん、フラワーアレンジメントとは言いません。

たとえば、フラワーアレンジメントでは,花を「飾る」と言うけれども、いけばなでは,花は「生ける」と言います。

その言葉ひとつ取ってみても,この両者には、根本的に美に対するまったく異なる価値観があり、そして、世界でも、すでに日本独自のそうした文化を「Ikebana」として認知しているというのに、当の日本人は、いけばなを「Japanese flower arrangement」などと抵抗なく欧米の文化に言い換えしまって違和を感じない、それは、その国の文化の独自性を認識していないばかりか、みずから放棄・否定しているのではないかという意味でショックを受けたというのです。

フラワーアレンジメントは、いわば花の美の瞬間(いちばん美しいとき)を捉えて、その美しさを最大限に表すものだとすれば,いけばなは,花の美しさの移ろいを愛で、その時間の経過を大切にする芸術だといえます。

たとえば,結婚式で花嫁が手にするブーケは,満開の花に彩られ,花嫁が手にする幸福の最高の瞬間を見事に表しています。

一方で,いけばなは,つぼみの状態の花を生けて,その花びらが少しずつ開いていく様子を楽しむこともあれば,枯れたひまわりを花材にすることだってある。

いけばなのこうした感性は,桜のつぼみを見て心躍らせ,満開の桜を楽しみ,そして散り行く花びらを見て美とはかなさを感じる,そんな日本人が持っている固有の感性に根ざしているひと続きのものだというのです。

いけばなの基本の花型は,長さが異なる3点を中心に,美しい形を追求するもので、日本で数百あるとされる流派においても、基本の花型はほぼ共通していて,例えば,この3点を,草月流では,長い順に「真・副・控」と呼んでいると教わりました。

一般的に,主役になるのは、当然「真」ですが、しかし,大切なのは「真」よりもむしろ「控」です。

「控」がしっかりしていると,「真」の良さをさらに引き出し,あるいは「真」が「控」の美しさを際立たせることにもなる、そこで調和のとれた作品が完成するということです。

これも、フラワーアレンジメントにはない、とても日本的な考え方だと思いませんか。

「それを全部、そのアメリカ人のお嬢さんが日本語で話したのですか、信じられないな」

「そうですヨ、こんなふうに言われたら、自分の国の文化にあまりにも無頓着だったくらいの反省では納まりませんから、ボクだって。驚くよりも、なんだか恥ずかしくなりました」

「そうでしょうね」

この話にとても感心したMさんは、そこで思わずアメリカ人のお嬢さんに、こう尋ねたのだそうです。

「この話は、日本人みずからの文化に対する認識のあり方を否定的に示す象徴的なエピソードとして理解したらよろしいのか」と。

自分「それを日本語で?」

Mさん「いいえ、英語です、自分、英語堪能なので」

やれやれ、なんだかそのとき、そのお嬢さんが、少しいやな顔をしたそうなのです。

当然でしょう、トウモロコシを買い付ける商談じゃあるまいし。

それは、「あんた、いままで私の話をどう聞いていたんだ」という表情にも見えたということですが、そこまで分かっていて、どうしてそういうことを言うかな、と。

しかしまあ、こういうことってありがちなことかもしれませんね。

う~ん、あるある。きっとあるね。

そうですね。じゃ、おやすみなさい。

じゃ。
[PR]
by sentence2307 | 2013-05-04 11:55 | 徒然草 | Comments(0)