世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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ともだち

8月9日の日本経済新聞の文化面に、大きな見出しで「朝鮮服の私と日本人監督」という記事が掲載されていました。

サブタイトルは、「植民地時代、清水宏の短編劇映画『ともだち』に出演」です。

思わず夢中で読み耽ってしまいました。

こういってはなんですが、日本経済新聞の文化面はとても充実していて、他のメジャー紙と比べても決して見劣りしないどころか、そのマニアックな掘り下げ方とユニークな目配りにおいてダントツなディープさがあるので、このブログのネタ源として大いに活用させてもらっており、ときには傑出したヒントなどをいただいています。

さて、この記事のタイトルにある「日本人監督」とは清水宏監督のこと、記事を執筆された方は、戦前の植民地・朝鮮で撮られた植民地映画、清水監督作品の「ともだち」に子役として出演した宋桓昌(出演名は清水監督が命名した李聖春)という人です。

73年ぶりにこの「ともだち」を見にソウルからフィルムセンターを訪れたときの感慨と作品の思い出が記されています。

その回想のなかで面白い部分は、若き清水宏監督が、シナリオなどないまま朝鮮の少年に演技をつける部分です。

「今度のシーンは向こうからこちらに走ってくるんだ」「頭は下げたまま。ここまで来たら頭をあげるんだよ」というように。カメラに収まらなかったら「もう一回」。うまくできたら「ああうまい。そうするんだよ」。
まじめだったから「飛び越えろ」と言われたら、高い塀も迷わず飛び越えた。走る場面を何度もやりなおして、息をハアハアさせていた。

そしてもうひとつ。

芸名の李聖春は清水監督がつけた。「名前は?」と問われ「白川栄作です」と答えた。当時は創氏改名させられていたからだ。「そうじゃないよ。朝鮮名だよ」とおっしゃるので、「宋桓昌です」というと、「宋? 中国人みたいだな。朝鮮人は李だ。李にしよう」と清水監督。その場で決まった。
後に学校に「映画に出ていた子役がいたはずだ」と李聖春を探しに来たひともいたが、そんなわけで見つからなかった。

ここに描かれているどのエピソードも、自分が抱いていた「国策映画」のイメージとは、ずいぶんとかけ離れている違和感しか感じることができませんでした。

僕としても、清水監督の「ともだち」という作品には、ささやかな予備知識がありました。

というのも、佐藤忠男の「日本映画史」第一巻の末尾に掲載されている「補遺」の「3 発掘された映画」の項の一番最後に掲げられている「清水宏の『京城』と『ともだち』」という項目がとても印象に残っているからでした。

この本を読んだ当時、国策映画、とりわけ「植民地映画」というものに対して、あまりかんばしくない固定観念しか持っていなかったので、ことさらに強い印象が残ったのかもしれません。

いまでも時々ニュース映画やドキュメンタリー映画などで、戦前の日本の植民地支配下にあった当地の人々の、あからさまな反日感情をむき出しにした怒りの場面などに遭遇すると胸が痛みます。

自国を侵攻・制圧された挙句、無理やり日本名に創氏改名させられ、あるいは笑顔を作って行進する日本の兵隊に旗を振らされたり、意に沿わない(または、訳の分からないまま)「天皇陛下万歳」まで強制的にさせられたのですから、当然そこには支配された人々の悔しさとか屈辱感などは充分に想像することができますし、それが現在に至る時間の中で積年の根深い反日感情が醸成されたのだろうと思います。

ですので、戦前そんなふうに作られた国策映画の、八紘一宇の施策のもとに日本との不自然な親和を描いた作品には、どうしても「嘘っぽい」という思いがつきまとい、忌避感がぬぐいきれず、どうしても真摯に鑑賞することができませんでした。

もっとも、現在僕達が目にすることのできる作品は、当時、当局のそれなりの審査を経て公開を許されたものばかりなはずですから、その民族融和というか親和的な描き方がある程度成功した作品ばかりが世に出ることができ、そして後世に残ったのだとすれば、いわゆる「植民地映画」群には、テーマとしての「(偽りの)親和=民族融和」から外れるものなど最初からあり得るわけもなく、それらの作品がすべて「嘘っぽい」から鑑賞に値しないという態度にこだわれば、いつまでたってもこれらの作品に近づくことができないというジレンマに囚われていることには薄々感じてはいました。

当時の自分がそうした不毛な自家撞着に陥っていることに気がつかせてくれたのが、佐藤忠男の「日本映画史」第一巻の末尾にある「清水宏の『京城』と『ともだち』」の一節でした。

そこには、『京城』と『ともだち』についてこんなふうに記述されていました。

《清水宏は1940年に当時日本の植民地支配下にあった朝鮮に行って記録映画『京城』と短編児童映画『ともだち』を作っている。
『京城』のスポンサーは朝鮮総督府鉄道局であり、『ともだち』は第日本文化映画製作所作品で日本人と朝鮮人の融和が主題だから、ともに一種のPR映画といっていいが、松竹で大監督として思いのままに仕事ができた清水宏が単なる宣伝映画を撮るはずもない。
虚飾を排した自然さや素朴さをフィルムに刻み込む稀有の映画詩人だったかれとしては、朝鮮にこそそういう対象があるはずだという思いのもとに、このしごとを引き受けたものであろうと容易に想像できる。
清水宏はすでに『有りがたうさん』で、朝鮮人たちを素朴な良さのある人々として親愛感をこめて描いているからである。》

そして、続けて『ともだち』について。

《『ともだち』はじつに愛すべき小品で清水宏の傑作のひとつと言っていい。
・・・日本人の子の方から朝鮮人の子に積極的に友情を求めていくこのストーリーは、支配者と被支配者との間の矛盾に知らぬ顔をして支配者側の自己満足的な善意にいい気になっている偽善的なものだと批判することが可能である。
少なくとも清水宏はそういう政治的社会的な問題を批判的に考えることが苦手だった人で、そこに限界があるということはできる。
ただ、限界があるにしては、学生服と朝鮮服を取り替えるというところまでいくのは、いささか無邪気なまでに限界を超えた振る舞いであるといえるのではあるまいか。
繰り返してみて、私はそう感じ、感動した。
そして日本時代の末期に朝鮮の中学校で同級生だった朝鮮人たちと日本人たちがいまだに日韓を交互に行き来しながら同級会を繰り返しているという、私の身近な韓国の映画人の例を快く思い出した。》

この記述に縋りつくように同調し、共鳴したのは、歴史的に位置づけられる「国策映画」という存在の陰の部分から目を反らし、どこかに救いを求めたかったからかもしれません。

しかし、そんな折にネットで以下のような記事に接しました。

【親日派への撲殺事件
韓国紙「世界日報」によれば、事件が起こったのは2013年5月のことだ。ソウルにある宗廟市民公園が、その現場となった。
同公園は観光スポットとして知られるとともに、近所に住む高齢者たちの憩いの場でもあり、多くの人々が青空の下、囲碁や世間話を楽しんでいる。被害者の朴さん(95)も、そうした輪に加わる一人だった。
そこにやってきたのが、黄被告(38)だ。彼は大量に飲酒しており、すっかり酩酊していた。この酔っ払いと朴さんが話すうち、その何気ない一言が黄被告の「逆鱗」に触れた。
「日本の植民地統治は、良いことだったとワシは思うよ」
朴さんがどのような点を「良い」と評価したのかはわからないが、なにしろ朴さんは95歳、終戦の時点でもすでに27歳だ。
日本統治の実態、そしてその後の韓国現代史を目の当たりにしてきたわけで、その発言には重みがあっただろう。一方の黄被告は37歳、朴正煕時代すらほとんど記憶していない世代だ。
「なんだと!」
しかし、「愛国者」である黄被告は朴さんの発言に激怒した。朴さんを蹴飛ばすと、その杖を奪い、怒りに任せて頭などを殴りまくった。
朴さんは頭蓋骨や脳などに重傷を負い、治療を受けたものの死亡した。傷害致死罪で逮捕された黄被告は「泥酔しており心神耗弱状態だった」と主張したものの、9月10日に懲役5年の判決を受けた。】

ぬぐい難い憎悪とヒステリー化した狂気は、低俗な民族性に助長されながら依然として「そこ」にあり、増殖しながら道を塞いでいるようです。
やれやれ、まだまだ前途は暗くてなお道遠しというところなのでしょうね。

(1940大日本文化映画製作所)監督脚本・清水宏、製作担当・高橋忠男、撮影・厚田雄春、音楽・伊藤宣二、録音・森武憲、編集・浜村義康、現像・佐々木太郎
出演・横山準、李聖春、南里金春
(13分・35mm・無声・白黒)
製作=大日本文化映画製作所 配給=松竹
1940.07.20 邦楽座/武蔵野館/大勝館 2巻 366m 13分 白黒
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by sentence2307 | 2013-09-16 14:19 | 映画 | Comments(1)