世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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苦役列車

原作「苦役列車」が持つなんとも素っ気ないところが妙に気に入っていたので、映画化された作品を見たときは、少しガッカリしてしまいました。

とにかく、久しぶりに聞く懐かしい響きの「私小説」という言葉です、この私小説、長い文学史において多くの批判もあったでしょうが、しかし、一方では日本文学の伝統的なジャンルとして確固たる実績を残し文学史に多くの優れた作品を刻印したことも事実で、以前、清水宏監督の「もぐら横丁」を見たときも、しばらくは尾崎一雄の「芳べえ」ものに嵌まってしまいました。

尾崎一雄の小説もそうなのですが、私小説といえば、なんといってもそのテーマ性・つまり自虐的な「貧乏自慢」があると思います。

そういう意味でいえば、この西村賢太の「苦役列車」も、これでもか・これでもかというくらい極貧の自虐と露悪の伝統をしっかりと受け継いでいて、まさに私小説の本格的正統派小説の名に恥じない作品だと思います。

しかし、この「苦役列車」を映画化した作品には、いささか失望してしまいました。

具体的にどこが気に入らなかったかといえば、前田敦子演じる「桜井康子」という設定です。

見ていて、こちらが気恥ずかしくなるくらい的外れで、「苦役列車」を青春映画にでもするつもりかという違和感と苛立ちにみまわれ、あきらかに「これは少し違うな」と痛感しました。

なので、この映画の感想をあえて書くほどのこともないと、コメントをずっと差し控えてきた次第です。

たぶん山下敦弘監督か、あるいは脚本のいまおかしんじかが、西村賢太の原作を映画化するにあたり、このストーリーの単調さ(ひたすら下降に徹した「単調さ」ですが)と振幅のなさを憂慮してか「桜井康子」という女性像を考え出したのだと思いますが、しかし、この「康子」という女性があまりにも無防備すぎて、不自然なくらいに愛想がよく、その「なんでもウェルカム」的な物分りのよさが、かえって空々しく、この荒んだ小説、そして荒んだ貫多の極貧のリアルをずいぶんに薄めてしまい、また結果的に原作の持つ鬼気迫る迫力を削いでしまったように感じました。

貫多が社会から隔絶され、そのままの孤立状態・社会とのつながりを断った八方塞りのこの状態を描くのは至難のわざで、どうにも「映画」ならないと諦め、考え尽くした末に貫多と社会をつなげるジョイント役にサバケタ女性「桜井康子」という女性に至り、無理やり造形したのだとしたら、それこそ差し出がましい拡大解釈だというしかありません。

この筋立てを改竄でもしなければ、この惨憺たるテーマを愚かな観衆に分からせることができないとでも判断したのだとしたら、自分を含めた「観客」や、そして「映画」それ自体に対しても随分と見くびってくれたものだと、なんだか腹立たしい気持ちになりました。

そもそも金がなく、極貧状態にあるということは、人間を社会から疎外し、自発的な行動力を奪い、行動範囲を著しく限定的に狭め、行動不能に陥らせるという、現象としていえば例えば全身麻痺状態で引きこもりなってしまうかのような状態という感じなら、そういうどん詰まりにある荒んだ男に近寄ろうとする女性がいるなど、ちょっと想定できないというのが実感ですし、随分と現実離れした設定というほかありません。

また、加うるに見るからにうらぶれた貫多に、「友だちになってやって欲しい」と付き添う友人が口ぞえし、すぐさま「いいですよ」などと愛想よく応じるがごときリアルを欠いた安直な女性像など、そもそも私小説においてはおよそ成立するわけがないというのが実感です。

そういえば、この映画、そして「桜井康子」という設定に対して原作者・西村賢太が不満をもらしていた旨、ネットで報じられていたのを見かけました。

こういうステレオタイプの人工的な女性像は、極貧のために女日照りに飢(かつ)えて、劣等感と欲求不満を持て余して敵意をもって社会を毒づくしかないという孤独な貫多の物語にとって、相容れないまったく無縁・無益な存在でしかなく、はっきりいって、「康子」の居場所など、この極貧物語には用意されていないというのが自分の印象でした。

なにしろ、「性欲は、もっぱら風俗で処理する」という、ゆるぎない信念をもった貫多です。

「性」が、人間関係における一種のコミュニケーション・ツールであるなら、貫多の「もっぱら風俗」志向は、人間関係のつながりを最初から「拒否」し、あるいは「どうすればいいか分からない」という隔絶と不能の状態を示していたとしても、しかし、貫多がそうしなければならなかった過程こそ重要な問題なのだと思います。

つまるところ、それまで彼を取り巻いていた現実、社会人からは無視され続け、女性からは敬遠と軽蔑を浴びせられ、そして社会から拒絶され続けるという差別的な囲い込みの現実があったからこそ、行き場を断たれた貫多が、無残にもつねに旺盛な性欲を処理するために風俗へ迷い込み、その風俗通いを臆することなく友人・日下部に自慢する失笑ものの貫多の倒錯した矜持こそ、まさに棄民だろうとなんだろうと、ごく狭い価値観で世界を推し測ろうとすることのなかに、「私小説」という極私的視点を極めることで普遍的視野を獲得できる技法があるのだと思います。

貫多のこの視点を見失ったら、たぶん「苦役列車」という作品の本質をつかみ損ね、あるいはこの物語を、明日を夢見る青春映画みたいにものに堕してしまうかもしれません。

そして、もしこの映画がこの視点を獲得していたとすれば、貫多が、ジャーナリスト志望の女子大生・美奈子と日下部との飲み会の席で毒づく、あの「コネクレージーどもめが!」という罵倒が、攻撃などではなく、むしろ追い詰められ踏み躙られた棄民の、そして「受身」としての弱者の無力な「うめき」にすぎないことも加味できたかもしれません。

実は、この「苦役列車」を見たすぐあとに、御法川修監督作品「すーちゃん まいちゃん さわ子さん」を鑑賞しました。

「苦役列車」とどうつながるのか、と問い詰められそうな節操のない選択ですが、別段これという理由があってのことではありません。

なにしろ自分は貫多同様時間に余裕のない貧乏暇なしの身なので、時間ができたときには録画しておいた映画を必死になって「まとめ見」しているのですが、しかし、今回2本立て続けに見たおかげで不思議な体験をすることができました。

主人公3人の女性の名前がそのままタイトルになった映画「すーちゃん まいちゃん さわ子さん」は、「苦役列車」に比べても何十倍も陰陰滅滅・驚くべき惨憺たる映画です、その救いのない暗さには少々驚きました。

3人というのは、キャリア・ウーマン、レストランの調理人、自宅で老人介護をしている女性たちで、彼女たちはお互い女友だち同士、たまに会って食事をするという気の置けない関係です。

しかし、一方で彼女たちはいずれも自分の置かれている現状には決して満足していません。

つねに「このままでいいのか」と悩みつづけ、もがくように次のステップを模索しています。

そして、煩悶のすえに彼女たちが選択した「明日」も、必ずしもより良い報われたものとはいえない厳しい現実が描かれています。

「まいちゃん」は、会社人間としての空しさから逃れるように「しあわせな結婚」を夢見てお見合いをします。

そして主婦となることを選んで結婚し、子供が出来てからも、やはり以前と同じような空しさを抱え、会社人間であった頃の、それなりに充実していた日々(OLの立場から「結婚」に憧れたあの時とまったく同じです)を後悔の念とともに振り返っています。

結局どこまでいっても彼女たちは、生活を充実させるような救いを得ることはできない。

彼女たちが、自分たちの将来を「男」に託し、もたれ掛ろうとする限り、惨憺たる現実は、なんら変わることなく、その将来にも「空虚」は満たされることなく、さらに引き継がれるだけなのです。

この映画を見ていて、その絶望的な思いを深めるような象徴的な場面に遭遇しました。

カフェに勤めるすーちゃん(柴咲コウが演じています)は、オーナーに見込まれて店長を任されます。

そして、店長としての初仕事がアルバイトの面接、応募者のなかには女子高生や中年のサラリーマンもいて、このサラリーマンとの面接のシーンが、映画の重要な核になっています。

面接に来た中年サラリーマンは、家族がありながら失業状態にあり、なかなか仕事が見つからない焦燥感のなかで幾つもの面接を受けながら、はかばかしくない状態にすっかり憔悴して少し苛立っています。

中年サラリーマンは、まず、「アルバイトから正社員になる途はあるのか」と問います。

面接を受ける側が、こういう問いを発する、ましてや「アルバイト」の中に「正社員」の可能性を聞くなどというのは、常識ではちょっと考えにくいので、観客には、かえってその中年サラリーマンの焦燥が逆に伝わってきます。

新店長は「今回の募集はアルバイトだけなので」と否定すると、男は苛立ち、失業の苦しさを滲ませながら、「女のあんたなんかに仕事を失った男の辛さが分かるものか」と激昂し、履歴書を取り返そうとします。

「面接はまだ終わっていない」
「おれの時間を無駄にするなよ」
と応酬したあと、「なんだえらそうに。こんな仕事・・・」と口走る中年サラリーマンの暴言を聞きとがめ、「この仕事を馬鹿にするような人には働いてほしくない」と、プライドを傷つけられた新店長も声を荒げる場面です。

ここで語られているのは、「仕事への誇り」とか「やりがいのある仕事」です。

もちろん誰もが「やりがいのある仕事」に就くことを望んでいるでしょうし、しかも「仕事への誇り」も持てればそれに越したことはないと思います。

しかし、一方で、もし、こういう綺麗なだけの説明を日雇い労働で食い繋いでいる貫多なら、どう聞き、どう反応するだろうかと考えました。

毎年、多くの新入社員が就職して、「やりがいのある仕事」や「仕事への誇り」を得られないまま、失望して、それを理由に3年ももたずに会社を早々に辞めていくと聞きます。

しかし、それって本当に重要なことなのか、という気がして仕方ありません。

綺麗ごとなら、ハナから信じないことにしている自分には、そういうのって、まやかしか、胡散臭いヨタ話としか思えないのです。

そもそも、食うためにする「仕事」に、そんな美辞麗句をゴテゴテとつける必要が有るのかといいたいし、ずいぶん子供っぽい幼稚な見え透いた言い訳のような気がします。

仕事なんてものはどうだって良い。どんな仕事であろうと、「誇り」なんぞも必要ない。

食うために、ただ目の前の仕事をひとつひとつこなせばそれでいい。

人は働くために生きているなどと大げさに考える必要もないし、だいたい仕事なんか人生のほんの一部にすぎない、ただ金を稼ぐ手段でしかない。

生きがいをそんな安直なものに求めていいのかという感じです。

「仕事への誇り」の嘘っぽさと同じように、「結婚」だろうと「学歴」だろうと、その辺のことが分かってしまえば、それらのことはみな人を幸せにするツールじゃないことが分かるはず。

仕事が単に食うためのただの手段に過ぎないということが分からない限り、そんなやつはいつまでもきっと人生から手痛いしっぺ返しを受けつづける、と貫多なら、きっとそう言いますよね、きっとね。


苦役列車
(2012東映)監督・山下敦弘、原作・西村賢太、脚本・いまおかしんじ、撮影・池内義浩、美術・安宅紀史、照明・原由巳、録音・深田晃、スタイリスト・伊賀大介、ヘアメイク・外丸愛、編集・佐藤崇、助監督・窪田祐介、製作担当・濱松洋一、音楽・SHINCO(スチャダラパー)、主題歌・ドレスコーズ「Trash」(日本コロムビア)、挿入歌・マキタスポーツ「俺は悪くない」、企画・近藤正岳(東映)、プロデューサー・川田亮(東映)、根岸洋之、ラインプロデューサー・原田耕治、音楽プロデューサー・津島玄一(東映音楽出版)、宣伝プロデューサー・桝林宏明、ナレーション・杉崎真宏、
出演・森山未來(北町貫多)、高良健吾(日下部正二)、前田敦子(桜井康子)、マキタスポーツ(高橋岩男)、田口トモロヲ(古本屋の店長)、藤井京子(大家)、佐藤宏(日雇いのオッサン)、橘屋二三蔵(寝たきりのおじいちゃん)、伊藤麻実子(寿美代)、古澤裕介(大家の息子)、中村朝佳(鵜沢美奈子)、柳光石(寺田)、野嵜好美(振り向き女)、辻本耕志(イカ天風番組の司会)、我妻三輪子(イカ天風番組の司会)、高橋努(前野健次)、イエローコックローチ(イカ天風番組に出演しているバンド)、宇野祥平(風俗の呼び込み)、松浦祐也(日雇い人足)、二宮弘子(3年後の大家)


すーちゃん まいちゃん さわ子さん
(2013製作委員会)監督・御法川修、脚本・田中幸子、音楽・河野伸、カサリンチュ、原作・益田ミリ「すーちゃん」シリーズ(幻冬舎)、エグゼクティブプロデューサー・小西真人、プロデューサー・武田吉孝、八尾香澄、スーパーバイジングプロデューサー・久保田修、井手口直樹、共同プロデューサー・木幡久美、ラインプロデューサー・齋藤寛朗、撮影・小林元、照明・堀直之、録音・浦田和治、美術・黒瀧きみえ、装飾・石渡由美、編集・李英美、スタイリスト・堀越絹衣、植田瑠里子、ヘアメイク・中西樹里、スクリプター・長坂由起子、助監督・佐伯竜一、制作担当・大谷弘、製作幹事・WOWOW、制作プロダクション・C&Iエンタテインメント、共同制作プロダクション・ディーライツ、配給・スールキートス、製作・「すーちゃん まいちゃん さわ子さん」製作委員会(WOWOW、ポニーキャニオン、スールキートス、讀賣テレビ放送、NTTぷらら、ソニー・ミュージックエンタテインメント、キュー・テック、朝日新聞社、C&Iエンタテインメント、Yahoo! JAPAN、幻冬舎)、主題歌・カサリンチュ「あるがままに」、挿入歌・矢野顕子「PRAYER」(作詞:矢野顕子、作曲:パット・メセニー)
出演・柴咲コウ(すーちゃん・森本好子)、真木よう子(まいちゃん・岡村まい子)、寺島しのぶ(さわ子さん・林さわ子)、木野花(カフェのオーナー)、銀粉蝶(さわ子の母親)、風見章子(さわ子の祖母)、佐藤めぐみ(好子の同僚)、上間美緒(カフェのアルバイト店員)、吉倉あおい(木庭葉子の娘)、高部あい(まい子の職場の後輩)、染谷将太(カフェのアルバイト店員)、井浦新(カフェのマネージャー)、水橋研二(面接に来た男)、下元史朗(写真館の主人)
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by sentence2307 | 2014-02-28 21:50 | 映画 | Comments(7)
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藤澤清造著,西村賢太編・藤澤清造短篇集(新潮文庫 ; ふ-43-2) 2012
いしいしんじ, 戌井昭人, 西村賢太, 藤谷治, 誉田哲也, 升野英知(バカリズム), 吉村萬壱・東と西 2 (小学館文庫 ; い35-2) 2012
西村賢太・青痣 (2012:未来から聞こえる言葉) (新潮 109・1) 2012-01 p.175-188
文藝春秋 90巻5号(2012年3月臨時増刊号) 谷川俊太郎,瀬戸内寂聴,伊藤桂一,曽野綾子,佐藤愛子,福島原発事故独立検証委員会,五木寛之,村上龍,よしもとばなな,高辻俊宏,木村真三,河野多恵子,野坂昭如,津本陽,林京子,西村京太郎,小林信彦,森村誠一,黒井千次,筒井康隆,阿刀田高,津村節子,長部日出雄,林真理子,荻野アンナ,高橋義夫,中村彰彦,熊谷達也,宇江佐真理,佐伯一麦,瀬名秀明,乃南アサ,馳星周,森絵都,平松洋子,綿矢りさ,いしいしんじ,玄侑宗久,宮城谷昌光,村田喜代子,高村薫,多和田葉子,小池真理子,篠田節子,西木正明,夢枕獏,ねじめ正一,花村万月,佐藤賢一,町田康,松浦寿輝,堀江敏幸,阿部和重,中村文則,桜庭一樹,楊逸,津村記久子,中島京子,西村賢太,真山仁,石田千,柚木麻子,高樹のぶ子,津島佑子,柄谷行人,黒岩重吾,田辺聖子,藤本義一,吉村昭,ドナルド‖キーン,重松清,万城目学,辺見庸,石原慎太郎,藤原正彦,塩野七生,安藤忠雄,吉本隆明,天童荒太,桐野夏生,井上荒野,古井由吉,莫言,マーガレット‖アトウッド 文藝春秋 2012
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西村賢太・一私小説書きの日乗 憤怒の章(KADOKAWA)2013
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西村賢太・棺に跨がる(文藝春秋)2013
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西村賢太・けがれなき酒のへど : 西村賢太自選短篇集(幻冬舎文庫 ; に—18—1) 2013
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秋山駿, 勝又浩 監修,私小説研究会編・コレクション私小説の冒険 1 (貧者の誇り) (勉誠出版) 2013
秋山駿 監修,勝又浩 監修,私小説研究会 編 コレクション私小説の冒険 1(勉誠出版)2013
西村賢太・感傷凌轢 (創作特集 新しい世紀にデビューした作家たち Novelists from the 21st Century) (新潮 110・1) 2013-01 p.151-161
西村賢太・破鏡前夜 (文學界 67・2) 2013-02 p.60-72
西村賢太・跼蹐(きょくせき)の門 (文學界 67・5) 2013-05 p.10-20
西村賢太・歪んだ忌日 (創刊1300号記念特別号 ; 創作特集) (新潮 110・5) 2013-05 p.233-241
西村賢太・疒(やまいだれ)の歌(前篇) (新潮 110・10) 2013-10 p.7-51
藤野可織,西村賢太・平凡な人生、奇妙な小説 (新潮 110・11) 2013-11 p.247-258
西村賢太・疒(やまいだれ)の歌(第2回) (新潮 110・12) 2013-12 p.61-79
西村賢太・サイン (文學界 68・1) 2014-01 p.220-222
有名人30人の「最終結論」 なかにし礼、佐藤優、西村賢太ほか 私はこの人に一票を投じます (都知事選 2.9投票日まで、何が起きるかわからない) (週刊現代 56・5) (通号 2744) 2014-02-15 p.40-44
西村賢太・邪煙の充ちゆく (芥川賞150回記念特別号・記念短編競作) (文學界 68・3) 2014-03 p.304-315
西村賢太・疒(やまいだれ)の歌(第4回) (新潮 111・3) 2014-03 p.181-192
西村賢太・受賞後第一作 (芥川賞・直木賞150回記念随筆) (文芸春秋 92・4) 2014-03 p.88-90
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by sentence2307 | 2014-02-28 21:40 | 映画 | Comments(2)

龍馬暗殺 ふたたび

むかし鈴木清順の「けんかえれじい」を見ていて、そのラストシーンで北一輝がちょろっと顔をだすシーンがあって、とても驚いた記憶があります。

暴れん坊の青年の、いままで過ごしてきた喧嘩の日々のその延長に「暴力」が到達する究極的なものとして「北一輝」を据え、不穏な「革命」を匂わせた部分です、たとえその描き方がほんの微細で表面的なものにすぎなかったとしても、喧嘩好きの青年を北一輝に(遭遇させる)結び付ける描写の衝撃性はとても新鮮に思えました。

当時の時代的な要請もあったのでしょうけれども、そして、たとえそこで描かれた「北一輝」が実体とは遊離した雰囲気だけの標語的なブームに便乗していたにせよ、時代の雰囲気と要請を巧みに作品に掬い取る感性(映画にとっては、それはとても大事な要素です)は、映像作家として、また優れたコピーライターとしての鈴木清順の異能を感じさせるに十分なものでした。

しかし、映画に描かれる龍馬となるとどうでしょうか、自分が子供時代、考えてみれば時代劇の印象としては、そのほとんどが「悪」は幕府方にあって、正義は常に薩長側にあるドラマばかりでしたし、坂本龍馬がこんなにももてはやされてはいなかったはずです、司馬遼太郎「竜馬がゆく」以前に果たして現在みたいな、時代を先取りした英雄として晴れがましく「坂本竜馬」が描かれた印象もありません。

そして、いままた、時代を開いた開明的な龍馬という定説に反して、龍馬は薩長同盟に関わっていなかったのでなないという検証が出てきて「それほどの人物ではなかったのかもしれない」という説まで囁かれ始めている昨今、「坂本竜馬」にとっては「いま」がいちばんいい時期なのかもしれません。

そういえば、jmdbで検索した結果、戦前に「坂本龍馬」のタイトルを有した映画は、たったの一本でした。

★坂本龍馬(1928阪東妻三郎プロダクション・太奏撮影所)   
監督・枝正義郎、脚本原作・冬島泰三、脚本・冬島泰三、撮影・友成達雄
出演・阪東妻三郎(坂本龍馬)、中村琴之助(三好愼造)、志賀靖郎(後藤象次郎)、春路謙作(中岡慎太郎)、市川伝之助(桂小五郎)、阪東妻之助(大山弥助)、梅若礼三郎(岡本健吉)、藤原峰男(西郷吉之助)、中村政太郎(近藤勇)、春日清(佐々木只三郎)、岩見柳水(中川二郎)、岡田喜久也(今井信三)、阪東要二郎(目明し丑造)、浮田勝三郎(偽坂本)、原良助(人丸屋清三郎)、宇野健之助(大江屋新助)、浪野光雄(龍馬下僕藤吉)、山本孝(峰吉)、森静子(お龍)、泉春子(春次)、西條香代子(おとせ)、明石清江(お定)
1928.05.18 電気館 10巻 白黒 無声

自分が見てきた映画でも、龍馬は脇役として描かれることが多かったという印象ですので、それらの作品をツブサに挙げることは、きっと困難だと思いますし、描かれた人間像といっても「現時点」に近くなればなるほど、たとえば「幕末太陽伝」に描かれているような「良き理解者」とか「いい人」とかに描かれることが多いに違いなく、むしろそういう描かれ方が龍馬にとって果たして良いことだったのかといえば、たぶん贔屓の引き倒しみたいなマイナス面が多かったのではないかと感じています。

そこで龍馬の人間性までをも描こうとした作品(できれば「龍馬暗殺」まで視野に入れたもの)にどのようなものがあるのか、もろもろの資料にあたって探してみました。

だいたい以下の5本が挙げられるようです。

★六人の暗殺者(1955日活)監督・滝沢英輔、(龍馬役・滝沢修)
権力奪取のためには武力倒幕が必至と考えていた薩摩藩にとって武力を否定する龍馬が邪魔になったために暗殺したという見方。当時にあっては、刺客が新撰組でもなく幕府の見廻役でもない、なんと身内の薩摩藩士だったという視点はとても斬新でした。

★蛍火(1958松竹)監督・五所平之助、(龍馬役・森美樹)
龍馬がたびたび投宿した船宿・寺田屋の女将お登勢の視点から描かれた龍馬像。
幕末の動乱とは遠いところ(龍馬の暗殺を瓦版で知ります)で庶民の日常生活は坦々と営まれたという視点から描いた五所監督唯一の本格時代劇として、吉村公三郎の「夜明け前」、木下恵介の「笛吹川」に匹敵すると評価されています。

★人斬り(1969勝プロ)監督・五社英雄、(龍馬役・石原裕次郎)
以前ブログに書いたことがあるので割愛します。

★龍馬暗殺(1974 ATG)監督・黒木和雄、(龍馬役・原田芳雄)
以前ブログに書いたことがあるので割愛します。

★幕末(1970東宝)監督・伊藤大輔、(龍馬役・中村錦之助)
小松宰著「剣光一閃・戦後時代劇映画の輝き」のなかで、「天皇制否定の『幕末』」という小見出しを掲げて、戦後の天皇制論議を背景にして「幕末」を説明しています。
ここには龍馬が中岡に「天皇制否定」の考え方を表明することによって、日本人の千人万人から命を狙われる存在であることが示唆されています。

《中岡は、龍馬が作った議会制民主主義の草案を問題にして、議員を選挙で選ぶのはよいとしても、なぜ武士の一票も、農・工・商の一票も同列に扱うのか、と不満をぶちまけている。
自分たち武士は無知無学な百姓、職人、商人とは違って、国事に奔走している一種特別な存在だ。
その武士も一票、百姓町人も同じ一票では、却って不公平ではないかと。
これに対して龍馬は、だからこそ、そうした特権階級である武士階級をなくさないことには四民平等の社会は実現できないのだ、と言う。
中岡は、それでは聞くが、四民平等の社会となれば、恐れ多くも、われらが一君万民の帝(天皇)は、一体どうなるんだ、と気色ばむ。
龍馬は、ついに言わなければならない時がきたなと覚悟を決めた様子で、
「神の座、現人神の御座から下りて頂く」ときっぱりと言い放つ。
「なんと!」
「生き神さまではなく、人民と同じく、息をする生きた人間として国民の首長の座に・・・」
「龍馬、俺だから済むが、百人に一人、千人万人のなかに、ただの一人もそんな論理を理解する奴はおらんぜよ。おらんばかりかおぬしは、乱臣賊子か気違いとして無事に生きてはおれんぜよ」》
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by sentence2307 | 2014-02-16 21:13 | 映画 | Comments(0)
自宅と駅のほぼ中間に図書館があって、平日は夜の9時まで開館しており、早めに帰宅する日はふらりと立ち寄れるので、とても便利に使っています。

高価でとても手が出ないような新刊書とか、読みたい記事がほんの僅かしかないような雑誌などは、受付にリクエストしておけば、たとえ入手するまでに多少の日数を要するとしても、だいたいは希望どおりに読むことができるので、もはや自分の生活には欠かせないサイクルの一部となっています。

もっとも、リクエストされた本がすべて市の予算で購入されているのではなくて(市民税は結構高いのですが、図書館に割く予算がどれほどあるかは不明です)、館が所蔵していない本などは、全国の(あるいは県内の、かもしれません)図書館ネットワークを通して取り寄せてもらえますし、そこにもなければ、在庫のある大学の図書館とか国会図書館とかを教えてくれるという、ものぐさで貧しい読書愛好家には、物凄くいい時代になったものだと喜んだり感心したりしています。

館になくて仕方なくわざわざリクエストするという本は、それだけに「誰がそんなマニアックな本を読むんだ」という感じの本が多いわけで、手垢のついていないような本がくるのかと思いきや、いざ手にしてみると、意外にも結構先人が読み込んだ形跡が顕著だったりして、奇特な愛読者というのはどこにでもいるものだなあと妙に感心したり近親感を抱いたりということも多々あります。

ちょうど昨夜も帰り際に図書館に立ち寄りました。

図書館には、公的機関の各種パンフレットも置いてあるので、映画に関連したイベント告知のチラシなどは注意して見るようにしていまして、昨夜などもフィルムセンターのパンフレットが眼に止まりました。

2月下旬から3月の中旬にかけての新企画「よみがえる日本映画・松竹篇」というプログラムの告知です。

子供の頃は、なんといっても東映映画ばかり見て育ってきた自分なので、大学生になるまでは松竹映画というものをすすんで見たという記憶はありません(わずかに、まだ若かった亡き母に連れられて「この世の花」という作品を見たくらいでしょうか)、年を重ねるにつれて古い松竹映画の雰囲気が、だんだん肌に馴染んできた感じがします。

自分もやっと人間関係の機微とかきめ細やかな繊細さとかが分かる(松竹作品を鑑賞できる)「大人並み」になったんだなあと実感します。

ですので、この「よみがえる日本映画・松竹篇」などという企画は、まさにいまの自分の心持ちにぴったりと寄り添い、トリワケ親しく感じられるのかもしれません。

上映される25本の作品というのは、すべて松竹作品で(当然です)、1933年から1946年にかけて製作された作品です。

以下にそれらの作品のタイトルだけちょっと書いてみますね。

琵琶湖(1933松竹蒲田)監督・野村芳亭
東京音頭(1933松竹蒲田)監督・野村芳亭
銀色夜叉(1934松竹蒲田)監督・佐々木恒次郎
狐(1939松竹大船)監督・渋谷実
お譲お吉(1935第一映画)監督・高嶋達之助
男の償い・前後篇(1937松竹大船)監督・野村浩将
水郷情話 湖上の霊魂(1937松竹大船)監督・宗本英男
風の女王(1938松竹大船)監督・佐々木康
半處女(1938松竹大船)監督・佐々木啓祐
妹の晴着(1939松竹大船)監督・宗本英男
春雷(1939松竹大船)監督・佐々木啓祐
感激の頃(1939松竹大船)監督・大庭秀雄
涙の責任・前篇 紅ばらの巻、後篇 白ばらの巻(1940松竹大船)監督・蛭川伊勢夫
花は偽らず(1941松竹大船)監督・大庭秀雄
君よ共に歌はん(1941松竹大船)監督・蛭川伊勢夫
男の意気(1942松竹大船)監督・中村登
敵機空襲(1943松竹大船)監督・野村浩将
むすめ(1943松竹大船)監督・大庭秀雄
母の記念日(1943松竹大船)監督・佐々木康
勝鬨音頭(1944松竹大船)監督・大庭秀雄
天狗倒し(1944松竹下加茂)監督・井上金太郎、小坂哲人
水兵さん(1944松竹大船)監督・原研吉
ことぶき座(1945松竹京都)監督・原研吉
お光の縁談(1946松竹大船)監督・池田忠雄、中村登

上記の作品を年度別に表(下記参照)にしてみたのですが、これを見ると戦争が激しくなるにしたがって、だんだん映画の年間製作本数が減少し、映画人にとって厳しい時代に突入していく様子が顕著に分かります。

そしてJMDB検索で各年度の製作された映画リストをぼんやり眺めていたら、ふとあることに気が付きました。

国内の戦局が次第に厳しくなり国内製作本数が激減するなかで、1938年以降から「満映」の項が加わるわけですが、国内製作本数の激減に対する一方で、製作本数を伸ばしていく「満映」の勢いというか、その印象がとても鮮烈なのです。

例えば、1941年、国内製作本数をずっと年間500本台を保っていたのが、この年にきて、ほぼ半数の落込みを示す275本という数字が出てきます(以後、1945年までには、44本と落ち込み続けます)。

頭を整理する意味で、今回フィルムセンターで上映される作品を各年度別に仕分けしたものと国内年間製作本数を対比させて、さらに「満映」での製作本数を加えたものを以下のとおり「表」にしてみました。

1933年 2本(全社年間製作本数 501本)
1934年 1本(448本)
1935年 1本(477本)
1937年 3本(573本)
1938年 2本(549本)満映10本
1939年 4本(551本)満映5本
1940年 1本(518本)満映18本
1941年 2本(275本)満映27本
1942年 1本(125本)満映16本
1943年 3本(85本)満映10本
1944年 4本(66本)満映14本
1945年 1本(44本)満映6本
1946年 1本(84本)

なぜこんな表を作ったかというと、実は、今回上映される映画の宗本英男監督作品「妹の晴着」と佐々木啓祐監督作品「春雷」を1939年の項で探していたところ、そのふたつの作品に挟まれるようにして内田吐夢監督の「土」に偶然遭遇したからでした。

こんな感じですよね。(アタマの番号は、作品の年間通し番号で、月日は封切り日です)


150.1939.04.08 妹の晴着  松竹大船 宗本英男
151.1939.04.11 裸の教科書  東宝映画東京 渡辺邦男
152.1939.04.13 葉隠れ天狗  極東 大塚隆太
153.1939.04.13 銭形平次捕物控  松竹下加茂 星哲六
154.1939.04.13 阿波狸合戦  新興京都 寿々喜多呂九平
155.1939.04.13 家なき娘  新興東京 伊奈精一
156.1939.04.13 蝙蝠安  全勝 金田繁
157.1939.04.13 土  日活多摩川 内田吐夢
158.1939.04.13 春雷 前篇 愛路篇  松竹大船 佐々木啓祐
159.1939.04.13 化粧蜘蛛 前篇  大都 白井戦太郎
160.1939.04.13 春雷 後篇 審判篇  松竹大船 佐々木啓祐
                                          」

こう見るとほとんどが時代劇やお色気もの、または新派悲劇からコメディ作品がずらりと並ぶこれらのラインナップから受ける印象としては、迫り来る戦局の暗雲のきざしを探すことは、むしろ困難かもしれません。

いや、時代が徐々に息苦しくなり始めていたからこそ、製作者の側も庶民の側もこのような能天気な作品を求めたのかもしれません。

それは、あるいは庶民の力強さの証かもしれませんが。

それならばなおさら、これら軽めの作品群に埋もれるようにポツンと位置する内田監督作品「土」のその場違いなほどの真摯なリアリズム、真っ向から時代に向かおうとする生真面目さ、逼迫する戦局の中でなおさら自分を律しようとする厳しさは、ずいぶんと異色な感じがします。

もっと噛み砕いていえば、こう状況を実際の「人」に例えるなら、その融通のきかない生真面目さが突出していて、まさに「孤立」という感じでしょうか。

そういう内田監督の姿勢が、自分から徐々に映画を作りにくくさせる状況を招いてしまったのではないか、と思えてなりません。

そんな息苦しい膠着状態に落ち込んだ内田吐夢が「満映」の力づよい勢いを目の当たりにして、どのように思ったのだろうかと、内田吐監督渡満の理由や満州で考えたこと、そして戦後日本への帰国を何年も遅らせねばならなかった理由などについて、夜の図書館でひとり想像をかきたてられていました。
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by sentence2307 | 2014-02-08 20:45 | 映画 | Comments(3)

東京家族

小津安二郎監督の「東京物語」を忠実になぞろうとしたかに見えるこの「東京家族」を見ながら、オマージュとは、いったいなんだろうという疑念にとらわれ、この短文を書いてみました。

たしかにストーリーは、田舎の老親(周吉・とみこ夫婦)が東京に居を構える子供たちを訪ねて廻る(そして失望する)というあたりは、一見すると「東京物語」と確かに似通っているようには見えますが、しかし、「東京物語」と決定的に異なる部分に、とてもいやなものを感じたので、そのことを書いてみようと思います。

そして、その「いやなもの」の最大の部分は、この作品が「東京物語」へのオマージュとして作られたらしい(山田洋次監督自身が、そう言ったと聞きました)という予備知識でしょうか、それさえなければ、あるいは、鑑賞後、こんなにも寒々しい空虚感に囚われることもなかったかもしれません。

例えば冒頭、中学生の子供が、友人とじゃれあいながら帰宅し、そして母親と会話をする一連の場面のひとつひとつに、僕たちが記憶している「東京物語」に登場した善良で素朴な子供たちとは、相当異なる印象を受けました。

「東京物語」の子供たちは、たとえ小生意気に母親に口答えをしても、その反抗自体が無邪気で愛らしく、微笑ましい仕草の端々に愛苦しい善良さを持っていて、そこには貧しくとも温かい家庭のなかで大切に育てられた幸福な子供たちの姿があり、安心しながら母親に苦情をいい、母親も表情の奥にすべてを許す寛容さを宿していてやわらかく注意を与えるといった画面全体から漂う悠然とした余裕は、僕たちをとても安心させて心地よい状態に導いてくれたものでした。

しかし、「東京家族」には、そうした印象など一切ありません、というか入り込む余地さえないほどギスギスしていて終始追い立てられるような「切迫感」しか感じられないのです。

周吉の長男・幸一の子供たち(医療過誤でいつなんどき患者に訴えられるかもしれないとビクビクしながら診療に当たっている現代の開業医の子供たち)は、どちらも不気味なくらいに冷ややかで実によそよそしく、ここに描かれている「中学生」は、むしろ始終イライラしていて、それが母親に対する態度にも如実に現れており(母親の子供たちに対する態度もぎこちありません)、そんな関係に親子の信頼や情愛などハナから育つとも思えず、脆さを露呈した母子の緊張関係が一旦崩れれば、少年がいつ激昂して暴れ始めてもおかしくないような切迫と冷ややかさを感じました。

そして、その延長線上には金属バット片手に部屋を破壊しまくり、そのはずみでたとえ親を殴り殺したとしても一向に不自然でないくらいの「冷徹さ」みたいな只ならぬ気配を感じたくらいでした。

いえいえ、これはなにも、自分が極端にひねくれた見方をしているからではありません。

しかしまあ実際のところ、自分が十分に「かなりのひねくれ者」であることにかわりはないのですが、映画というものが、どのように撮ったとしても、たくみに「現代」を映しとり取り込んでしまうものなのだということを切実に感じました。

いくらオマージュだからといっても、ここに登場する子供たちは、もはや小津の描いた子供たちなどでは毛頭なく、どのように捉えても、やはりそこには現代を生きる子供たち以外のなにものもを撮り得ないのだということを実感したのだと思います。

山田演出が意図しないところで(意識的に演出したのだとしたら、これはまた別問題ですが)、映画とは、自然に時代を映し込んでしまうものなのだなあとつくづく感じた次第です。

しかし、いずれにしても予期せぬこれらのことは、この作品のすべてにわたっていえることかもしれません。

「東京物語」ばかりでなく、たとえば「一人息子」においても、息子の善良さ・心優しさが、社会の厳しさの前ではアエナク崩折れ、経済的にも逼迫しており、また、全財産の一切を息子の教育の投じてきた老母が、その成果を期待して上京したにもかかわらず、しかし、そこで見たものは貧しく不甲斐ないそうした息子の姿であり、息子もまた老母に十分に報いることができずに失望させるしかないという、ともに鬱屈したまま市井に生きてゆかねばならないという親子=庶民の諦念を描いた小津ストーリーの多くを、すでに僕たちは有しています。

そこには、べつだん母親に仕返しをしてやろうなどという息子の悪意や憎悪の企みがあるわけではなく、苦労をかけた母親に報いたいという気持ちは十分にあるのに、生活が逼迫しているためにそうはできない無念と疚しさとがあっただけなのですが、しかし、母親も息子の失意や悲嘆を十分に察しているので、観客もまた彼女の諦めるしかない思いを辿って、母親の失意を理解することができたのだと思います。

そして、冒頭に書いた自分の感じた「いやなもの」は、この映画の最後にありました。

妻を亡くし葬儀を済ませた父・周吉と、いよいよ帰り支度をはじめようかという子供たちがつどう居間の場面です。

妻を亡くし、これから瀬戸内海の小島で一人きりの暮らしになる老父・周吉を気遣って、長男・幸一が、東京で一緒に暮らさないかと誘います。

しかし、その返答として周吉は、きっぱり
「もう二度と東京には行かない」と東京行きを断わります。

僕たちは、その断りの内容よりも、むしろ予期せぬ周吉のその口調の強さ(思いがけない拒絶の激しさ)に圧倒されて、一瞬たじろいだかもしれません。

その拒絶の強さに込められているものとはなにかといえば、「あんな目にあったのだから、二度と東京になんかに行きたくない、行くものか」という憤りと解すまえに、やはり、ささいな行き違いから親をないがしろにせざるを得ず、結果的に母の死を早めた原因としてあった東京の家の狭さ、親との共棲など所詮無理な狭い家のことを、多少の苛立ちを込めていいたかったのではないかと思いました。

あるいは、そういうことのすべてを込めて、単に長男としての立場上「形式的に」誘いの言葉をかけたのだったら、いまさらそんな気遣いは無用にしてくれという憤りが込められていたかもしれません。

そこまで考えてきたとき、あの「東京物語」においてもまた、相応するような強い拒絶の言葉があっただろうかという疑念に捉われました。

確かめるまでもありません、そんなはずはない。

あの「東京物語」にあっても、日々の生活に追い立てられている子供たちには親を歓待する余裕などさらさらなく、忙しさにかまけて善意だけが空回りするしかなかったという状態は、たしかに「そう」だったと思います。

東京で見たものは、両親の思惑よりもまず、「自分の家庭」を優先させなければならないという息子や娘たちの生活が既に確固として存在していて、瀬戸内海の小島で、かつて老親たちが築いた「家庭のかたち」は、この東京に存在せず、あるいは違う形で更新されていて、もはやそこには「自分たち」の家庭の欠片さえ残っていないことを見定めたのだとしても、なにもあれほどまでに「もう二度と東京には行かない」と激しい口調で拒絶する必要があったのかという疑問を感じたのでした。

あるいは、非情な家族観の象徴のように長い間語られてきた有名な場面、長女・滋子の形見分けの場面にもその認識の欠落はうかがわれました。

その場の雰囲気を考えず、母の亡骸の面前で突然「形見分け」の話を切り出す長女・滋子の非常識な鈍感さに対して、山田洋次は、次男・昌次に「こんなときになんだよ」と非難させて、まるで彼女が強欲か常識はずれの女としてのイメージを固定させようとしていますが、はたして本当に「そう」なのでしょうか。

小津安二郎が、日常を生きるものたちの健気さをそんなふうに非難した場面をいまだかつて自分は目にしたことがありません。

庶民は、凶事と祝事を日常生活に同時に織り込みながら、悲しみを乗り越え、泣き笑いを繰り返しながら生きていくのだと、庶民のそのようにしか日々を送らなければならない悲喜劇を小津監督は描いてきたのだと思います。

山田洋次が、周吉に「もう二度と東京には行かない」と言わせた大人気ない突然の激昂にドン引き状態の観客たる自分は、母親・とみこがいままさに死のうという場面=母親の死が、まるで子供たちへの(親をないがしろにしたことに対する)報復のように描かれる臨終の場面を、山田監督は驚くような執拗さで描いており、こうしたことすべてを含めて、このような「東京家族」がなぜ「東京物語」のオマージュである必要があるのかという疑念に繰り返し捉われたのでした。

この作品を「虎の威を借るナントヤラ」などとほざき倒す世評を一蹴するためにも「オマージュ」などといういかがわしいコロモなどいっそかなぐり捨てて、不動のオリジナリティを確立するために、周吉の最後のセリフに場違いなギャグでも付け足すくらいの気概でもあれば、遅れてきた巨匠(実は「生き残ってしまった」というそれだけのことかも)として少しは評価もできるのですが、そうですか、できませんか、それはそれは、とても残念なことではありますねえ。

(2013松竹)監督・山田洋次、プロデューサー・深澤宏、矢島孝、脚本・山田洋次、平松恵美子、音楽・久石譲、撮影・近森眞史、美術・出川三男、照明・渡邊孝一、編集・石井巌、録音・岸田和美、スペシャルアドバイザー・横尾忠則、製作・松竹、住友商事、テレビ朝日、衛星劇場、博報堂DYメディアパートナーズ、日販、Yahoo! JAPAN、ぴあ、TOKYO FM、朝日放送、メーテレ、中国放送(TBS系列)[5]、北海道テレビ、九州朝日放送、制作配給・松竹
出演・橋爪功(平山周吉)、吉行和子(周吉の妻・とみこ)、西村雅彦(長男・平山幸一)、夏川結衣(幸一の妻・平山文子)、中嶋朋子(長女・金井滋子)、林家正蔵(滋子の夫・金井庫造)、妻夫木聡(次男・平山昌次)、蒼井優(昌次の恋人・間宮紀子)、小林稔侍(周吉の旧友・沼田三平)、風吹ジュン(居酒屋の女将かよ)、茅島成美(周吉の親友の未亡人・服部京子)、柴田龍一郎(幸一の長男・平山実)、丸山歩夢(幸一の次男・平山勇)、荒川ちか(隣家の中学生・ユキ)
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by sentence2307 | 2014-02-02 09:36 | 映画 | Comments(4)