世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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藤澤清造「根津権現裏」

西村賢太が芥川賞を受賞したあと、その後のインタビューで、繰り返し自分は作家・藤澤清造の歿後弟子であると話していました。

自分としては、それまで藤澤清造という大正期に活躍した作家の名前さえ聞いたことがなかったのに、さらにそのうえ、その歿後弟子になったというのですから、日本文学に少しは関心をもってきたと自認していた自分としては、虚をつかれたようなショックを受けました。

それから西村賢太が、すぐにしたことというのが、芥川賞受賞の勢いをかりて(といっていいのか)絶版になっていた藤澤清造の唯一の長編小説にして遺作「根津権現裏」を出版社に働きかけて復刊させた(新潮文庫9253、平成23年7月刊)ということも報じられていました。

まあ、悪く言ってしまえば、芥川賞受賞という権勢を借りてゴリ押し的に出版社に圧力をかけて刊行させたわけですから、やはり芥川賞っていうのは、業界にとってそれくらい権威もありチカラもある賞なのだなあとまずは感心した次第なのですが、しかし、そんなふうに考える必要などまったくない別の見方もあり得る、むしろそちらの方がなんだか信憑性があるような気がしてきました。

このところ、企画が枯渇してジリヒンなうえに、一方からは電子書籍の脅威に挟撃されている紙媒体出版社にとってみれば、芥川賞作家があれだけ宣伝してくれたあとでの出版なわけですから、むしろ売上げを保証されたうえの刊行という「渡りに船」の好機と捉えたに違いなく、その証拠のひとつとして、この自分もまた、その宣伝の勢いにウマウマと乗せられて文庫本「根津権現裏」を購入した一人なので、その威力や恐るべしということになるのでしょうが、しかし、読者の立場から言うと、こういうことがなければ、きっと生涯にわたって決して読むこともなかったかもしれない作家・藤澤清造と、その稀有な小説「根津権現裏」を読む機会を得られたのですから、読者にとってみればこれもまた「好機」と捉えるべきもので、こう考えてみればこの復刊は、いわば「三方一両得」(「損」では決してありません)ということになるのだろうと思っています。

しかし、自分としても、そもそも藤澤清造なる作家を全然知らないわけなので、ここは早速、文学辞典なるものを引っ張り出して「藤澤清造」の項を調べてみました。

最初調べたのは「新潮日本文学小辞典」、そこにはこんなふうに書かれていました。

藤澤清造(ふじさわ・せいぞう)1889~1932
小説家。石川県生まれ。小学校卒。
足袋屋、代書屋に奉公したが、上京して雑誌記者となり、小説を書く。
好んで人生の悲惨醜苦を描いたが、これに徹することにより真の人間が形成されるというのが彼の信念であり代表作の長編「根津権現裏」(大正11刊)も同系列の作品。
精神病院から失踪し、凍死した。(勝山功)

えっ~、なんか随分と素っ気無さすぎじゃないですか、これ。

これじゃあ、この作家がどのような人物で、どういう生き方をしたのかさえ全然分かりません。

「精神病院から失踪し、凍死した」というショッキングな箇所ばかりが目立ってしまい、これでは最初から「書くに値しない作家です」と吹聴しているようなもので、解説者のやる気のなさが露骨に見えて、これではまるで新聞の社会面の片隅に申し訳程度に掲載される「死亡記事」と同じか、いやいや、情報量の少なさ稚拙さからいえば「死亡記事」にも遥かに劣る仕事(ハシモト市長なら「小銭稼ぎのやっつけ仕事」くらいのことは言いますよ)といわざるを得ません。

勝山さ~ん(どこの誰だか知りませんが)、ちゃんとやりましょうよお。

とにかく「文学辞典」などと称するからには、もうちょっと書きようというものがあったのではないか、いくら寡作のうえに早世した作家だったからって、もう少し敬意をはらっても・・・などと考えながら2冊目の「東京堂・近代日本文学辞典」(自分が所有している「文学辞典」は、この2冊のみです)を引っ張りだしました。

なるほどなるほど、こちらの方は「文学辞典」らしく至極まともで、ちゃんとした記載になっています。

東京堂・近代日本文学辞典
藤澤清造(ふじさわ・せいぞう)明治22(1889)~昭和7(1932)
小説家、劇評家、雑誌記者。
明治22年10月22日石川県七尾市藤橋に生まれ、小学校尋常科(当時四年制)を卒業後、右足の骨髄炎のため自宅で療養、その間市内の足袋屋、代書屋に奉公したこともあり、独学で文学書に親しんでいたが、18、9歳頃上京、三島霜川が編集主任をしていた「演芸画報」の記者となる。
霜川の死後その後を継いで主任となり職業柄、徳田秋声、室生犀星、菊池寛、芥川龍之介、広津和郎らの作家と広く交わり、開放的かつ社交的な性格を愛された。
「演芸画報」を辞して、大正11年長編「根津権現裏」(日本図書出版株式会社)を発表するや世評もよく、新進作家として迎えられたが、まもなく震災後の新感覚派、プロレタリア文学の運動が起こると、新風に追随できず、落魄して「此処にも皮肉がある」(「文芸春秋」昭5.6)を最後に文壇から姿を消した。
晩年、悪疾により精神病を発し度々失踪したが、昭和7年1月、最後の失踪の後、29日、芝公園で凍死体となって発見され、行路病者として火葬にされた。
清造は寡作で、単行本は「根津権現裏」だけしか残っていないが、2人の雑誌記者の酒と女と貧乏の陰惨な生活を描き、最後にその一人が先輩を裏切ったことを後悔して謝罪するが許されず、自殺するという異常心理を描いたもので、ドストエフスキーの外形模倣のあとが見られるが、やや冗漫であり、かつ平板である。(杉森久英)

「文学辞典」の書き方というのは、これでなくっちゃいけません、これで十分です。

そりゃあ、栄耀栄華のうちに生きた作家もあるでしょうし、あるいは悲惨と野垂れ死にで生涯を閉じ、文学史からも相手にされず、やがて忘却を宿命づけられている作家もあるでしょうけれども、しかし、そこは有名無名にかかわらず、もし「小説家」という生き方そのものに少しでも関心をもち、敬意を払い、そして微かでも愛情を感じながら「文学辞典」の原稿を執筆して、イクバクかの原稿料でも頂戴しようかというご仁なら、せいぜいこれくらいの誠意と営業倫理くらいは守ってもらいたい(多かれ少なかれ、実態はせいぜい寄生虫のように「文学」周辺に取り付いて偉そうな関係者ヅラしてメシを喰っているヤカラであることは既に世間は周知しており、それを本人と出版社だけが気が付いてないという惨憺たる状況は十分に承知しているつもりですが)などと思いかけたとき、ふっと西村賢太が藤澤清造の「歿後弟子」を自称する気持ちに少しだけ触れたように感じました。

「悲惨と野垂れ死に」と「文学史からの拒絶と忘却」という状況こそは、少し前までの西村賢太自身のすぐそばにあったリアルでもあったはずですから、どこまでも「藤澤清造」にこだわるのは、西村賢太の意地のようなものだったのだなと感じた次第です。

しかし、なにも西村賢太が、むやみに「藤澤清造」を奉ってばかりいるわけでないことは、この「根津権現裏」の文庫本末尾の「解説」を読めば分かります。

「その清造について周囲の者は、律儀、古風、正義派、好漢、快男児、等の見方をする反面、他方では我儘、下悪、ぶっきらぼう、くどい、ねちっこい、ずぼら、引っ込んでいてもらいたい男、との評言も残っているように、かの人物像は、ともすれば自らの立場を持ち前の狷介な性格で危うくしてしまうというタイプの典型でもあった。在郷時より職を変遷していたのもそうした面のあらわれであったが、結句これが災いし、大正9(1920)年には「演芸画報」での仕事も退職に追い込まれる羽目になってしまう。」

ここに書かれている性格の極端な両面性は、だからといって、それほど矛盾したものとはいえません。

門地も学歴も職歴もない地方出の劣等感を抱えた若造が、洗練された都会に出て、いっぱし周囲に伍していくためには、どうしても身の丈以上の虚勢を張り自分を過大に見せる必要があったでしょうし(それが「律儀、古風、正義派、好漢、快男児」という部分)、それが「迎合」とは違うぞとばかり一線を画そうとしたのが、異常な自尊心(馬鹿にされまいという現れとしての「我儘、下悪、ぶっきらぼう、くどい、ねちっこい、ずぼら、引っ込んでいてもらいたい男」という部分)を必要としたような気がします。

熾烈な状況に応戦するために自己分裂を求められた藤澤清造が、かろうじて自分を支え、そして危うい均衡をたもたせ、さらに藤澤清造をして小説に向かわしめたものこそ、かの異常な自尊心だったような気がします。

そしてこの「異常な自尊心」はまた、同時に西村賢太自身のものでもあったという気がします。

「根津権現裏」の読後感想を書くまでに至りませんでした。

いずれ時を改めて書きたいと思っています。
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by sentence2307 | 2014-03-22 17:04 | 徒然草 | Comments(2)