世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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思秋期

まずはタイトルについて。

原題のイメージを「悪意をもって」どうにかしょうとしたのではないかと勘繰りたくなるほど、おそろしくかけ離れたところで命名されたこの「思秋期」です。

まさか「tyrannosaur」に込められた重苦しいものを好まない客層の敬遠を先取りし、まるで誑かすみたいな姑息さと、あるいは商魂たくましい毒消し的な含みもあってあえてソフトなタイトル「思秋期」に改題したわけでもないでしょうが、もし日本の配給会社が「tyrannosaur」という深遠なタイトルのままでは凡庸な日本の観客には到底理解できないと危惧しての措置だったのだとしたら、随分とみくびってくれたものだと、ちょっと腹立たしい思いに駆られ、「湧き上がる怒りを懸命に抑え込まなければ」なりませんでした。

このタイトルから老境に至った恋人たちのヒューマンな郷愁の物語を勝手にイメージしてこの作品を無防備に見てしまった善良な人たちにがいたら、そんなかたちで誤解を誘導されたことへの憤りに駆られないわけもなく、また、一方でこの映画を正当に評価しようとした観客までをも巻き込んで動揺させてしまったかもしれません。

「tyrannosaur」とは、この映画に登場する粗暴な中年男ジョセフが、過食で肥満したすえに心臓病で命を落とした妻を、諧謔と皮肉を込めて命名した密かな妻の「愛称」です。

僕たち観客は、反射的に、この言葉を語るときのジョセフの表情にわずかでも悪意の影を探そうとしますが、彼の苦笑を噛み殺したような冷ややかで皮肉な態度は、どのようなことについて語るときも常に一貫していて、だから却ってそこに、自分の感情を抑え込み、動揺を悟られまいと身構える彼の孤独な頑なさと、誰からの同情も受けつけまいと心を閉ざす強固な意志を育てた過酷な彼の人生と、そのことによって深く傷つけられたであろう孤独の深淵を見てしまうのかもしれません。

ですので、ストーリーの中で語られる粗暴で孤独な中年男ジョセフの「tyrannosaur」に込められた諧謔と皮肉、そしてその結婚生活の深刻な絶望と人間不信は、このタイトルの愚劣な付け替えによって随分と歪められ壊されてしまったのではないかと想像しました。

きっとそれは、この作品にこめた監督パディ・コンシダインの意図を大きく損なったことでしょうし、「売る」ためには全権を託されたかもしれない配給者による著しい越権だったのではないかという、とても傲慢で失礼なやり方にちょっと胸が痛みました。

大柄で大食漢だった妻の、階段を昇り降りするたびに家が揺れるさまをまるでtyrannosaurのようだと揶揄し、その彼女の不摂生がさらに糖尿病を悪化させ、ついには心臓発作を起こして死んだと語るジョセフの口調には、結局すべてが彼女の「自業自得」だったのだと上辺では皮肉な失笑を取り繕って語られてはいるものの、それを額面どおりの「揶揄」と受け取っていいのか、いささか迷いました。

亡き妻を語るジョセフの表情には、確かに愛妻の死を悼んだり、シミジミと感傷にふけるなどというヤワな感慨などは一切うかがうことはできませんが、妻を失ってのちの彼のすさんだ自暴自棄の生活をみれば、彼もまた人間関係の不全と孤独のために妻と打ち解けることができず、そのことでついには彼女を不幸な死に追いやったと自責の念に苦しんでいるらしいことが伺えます。

妻の肥満と死をtyrannosaurと揶揄することが第三者を意識した単なる自嘲的誤魔化しにすぎず、むしろ冷めた夫婦関係と冷ややかな家庭の孤独に耐えられず空虚を埋めるように無残な過食に走った妻の死の贖罪のために、だからジョセフは自分を責め、自分を罰し、自分を傷つけるために暴力とすさんだ生活の中に身を浸しているのかもしれません、こんなとりとめのない連想が、根拠のないただの過剰な妄想にしかすぎなかったとしても、ジョセフが妻をtyrannosaurと揶揄した無残な絶望の意味に少しは近づけるのではないか、少なくとも「思秋期」などという興醒めなタイトルをつけられることによって連想を拒まれることはなかったと思います。

どの解説を読んでも、ジョセフのことを「怒りを抑えられない男」とすんなり書いています。

たぶん、宣伝コピーにつられるかのように、ネットに書き込まれた感想のどれもが、「キレやすい異常男」が、もう不動の前提みたいな書かれ方です。

しかし、これではまるで、ジョセフが、ただの精神異常者です、決してそんなことはありません。

このような決め付けに納得できない違和感から、この作品にアプローチしてみようと思いました。

はたしてジョセフは、誰彼かまわず怒りをぶつけるような男でしょうか、決してそうではありません。

彼は、不正なもの・いかがわしいもの・横暴な権威に対して許すことができない怒りを発するだけで、そして看過できない不正に対してとことん怒りの激情を暴発させるのです、一度激情に囚われると最後の破綻まで突き進むしかなく、その成り行きに我がことながら、どうすることもできないで、事後に自己嫌悪を伴う物凄い後悔を繰り返す様子が描かれています。

それを、ただ、のべつ怒りの発作を爆発・暴走させて暴れまわっているような「衝動的な怒りを抑えられない孤独な暴力男」みたいな、ジョセフの特異な性癖みたいにさらっと書いてしまうことが、果たして正しいことなのだろうかという疑問に捉われたのでした。

観客は、このような先入観を持たされてしまうと、この物語の真意も見損なってしまうかもしれません。

ジョセフは、「不正」や「いかがわしいもの」に対してのみ抑えがたい憤りを爆発させるだけで、そこには、彼が囚われている倫理観、刷り込まれた道徳観(それを病的というなら、確かにそうですが)こそが問題なのであって、あたかも彼が精神を病んだ「衝動的な怒りを抑えられない暴力男」と決め付けるようなこのコピーの在り方にも疑問を感じました。

彼の自分を鞭打つ「贖罪感」も、不正なもの・いかがわしいものに対して爆発させる「憤激」も、あるいは、やがて彼がチャリティ・ショップで出会うことになるハンナの、夫からの異常な性的暴力に耐え続ける異常な「忍耐」も、すべてひとつの頑ななカトリックの倫理観・道徳観によって支配され囚われ基づいていることが分かります。

だから、ジョセフが、いつものように目の前にある「不正」と「いかがわしいもの」に対して怒りを爆発させ、威嚇し、逆上して、相手を叩きのめしたその直後で、自分ではどうにも抑えがたいその暴力を悔い、逃げ込んだチャリティ・ショップに身を隠したときに、ハンナから「祈り」を語り掛けられて、ジョセフが思わず泣いてしまうシーンの意味(「倫理観」に囚われている彼らが、そのことで深く傷ついていること)が理解できるのだと思います。

ジョセフは、次の日もハンナの店を訪ねます、どこかでハンナを強く求め、引き寄せられるように来たはずなのに、心を閉ざしているジョセフには、どのようにすれば彼女と良好な関係を築くことができるのか、「怒り」によってしか他人との繋がりを持つしかなかったジョセフにはどうしていいか分からない、むしろ、求めれば求めるほど、彼女をますます傷つけずにはいられないそのような悲痛な場面です。

そうそう、「タイトル」ついでに、もうひとつ、「字幕」のことも少し書きますね。

限られた字数で表記するにしては、ジョセフの心情はあまりにも繊細です。

そこで、この出会いの場面(ジョセフは、前夜、喧嘩を吹っかけた若者に仕返しをされて傷だらけの顔で現れます)の字幕を写し取り、自分なりに補正しながらジョセフの気持ちをなぞってみました。

ハンナ 「お茶をどうぞ。どうしたの、その顔の傷。」
ジョセフ「自転車で転んだんだ。」
ハンナ 「そうなの? どちらでもいいけど、でも病院にいくべきね」
ジョセフ「こんな傷、ほっとけば、そのうち直るさ」
ハンナ 「あれから、家に帰って祈った?」
ジョセフ「祈りの効果なんて、なかったさ。」
ハンナ 「あったじゃない。私の祈りを聞いて、あなた泣いていたもの。」
ジョセフ「いくら祈ったって、神は聞いてないよ」
ハンナ 「じゃあ、なぜまたここに来たの」
ジョセフ「通り掛かっただけさ」
ハンナ 「来た理由があるはずよ。あなた神に許されたいんじゃない?」
ジョセフ「えっ、俺は別に神なんかに期待してない。」
ハンナ 「誰もが神に愛されているわ。」
ジョセフ「おっ、愛とおいでなすったね。そいつは今でもか?」
ハンナ 「みんな神の子よ。」
ジョセフ「よしてくれ、神は俺の親じゃない。俺の親父は自分のことをクズだと知っていたさ、神様気取りでな。」
ハンナ 「なにか神に怒りでも感じているのね」
ジョセフ「馬鹿かお前は。なにかというと神を持ち出す、あんたみたいな連中は、みな偽善者ばかりだ。チャリティとかぬかしてケーキを焼いては、魂を救った気でいやがる。世の中の辛酸を嘗めたこともないくせに。えっ、そうだろう? ところで、家はどこだ。」
ハンナ 「なに?」(あまりにもぶしつけな突然の質問に戸惑って、質問の内容よりもその問い掛け自体が解せず問い直します)
ジョセフ「なんだ、聞こえなかったのか(それともこれくらいのことも理解できないのか)、簡単な質問だろう、まぬけ。」
ハンナ 「マナーズ地区よ。」
ジョセフ「なるほど、そりゃあたいそうな所だ。いったいどんな暮らしをしている? さしずめ寝室が5つにガレージが2台分てとこか。芝はきれいに刈られていて、朝は上等なコーヒーってか。上の世界は、さぞ優雅な暮らしだろうさ。ところでオマエ、こんな下界でなにをしている。小奇麗な店を構えて、下界のかわいそうな貧乏人どもに施しをして自尊心を満足させてるってわけか。まだ若そうだが、家族や子どもはいるのか。」
ハンナ 「子どもはいないわ。」
ジョセフ「できないのか。はは~ん、わかってきたぞ、善行を積めば神さまが子どもを授けてくれるとでも思っているんだな、よせよ、馬鹿馬鹿しい。それとも旦那は種なしか。長居してすまなかったな、お茶をどうもな。そのかわり俺もあんたのためにせいぜい祈ってやるよ、じゃあな。」

夫の異常な性暴力によって子どもを産めない体にさせられたハンナには、ジョセフの辛らつな言葉は、胸に突き刺さります。

閉ざされた家庭内で、妻に対してだけ、夫は異常性欲のモンスターに豹変し、ハンナは、人格を無視された、ただの「性具」として存在しているにすぎません。

ジョセフにとっての暴力と、ハンナにとっての暴力の在り方がこの出会いによって交錯し、相手のことを哀れみ思いやれば、その分だけ痛みとなって互いを一層傷つけねばすまないような地獄のようなドラマが展開します。

二人の孤独の深淵にtyrannosaurという静かな苦渋の絶望を沈めたまま。


(2011英)監督脚本パディ・コンシダイン、製作ディアミッド・スクリムショウ、製作総指揮ピーター・カールトン、マーク・ハーバート(英語版)、キャサリン・バトラー、スザンヌ・アリザート、ヒューゴ・ヘッペル、ウィル・クラーク、音楽クリス・ボールドウィン、ダン・ベイカー、撮影エリック・アレキサンダー・ウィルソン、編集ピア・ディ・キアウラ(英語版)、美術・サイモンロジャース、原題Tyrannosaur
出演・ピーター・ミュラン(ジョセフ)、オリヴィア・コールマン(ハンナ)、エディ・マーサン(ジェームス)

サンダンス映画祭ドラマ部門監督賞受賞をはじめ、各国映画祭で数々の賞に輝いた。
*英国アカデミー賞新人脚本家・監督・製作者賞受賞(ディアミッド・スクリムショウ(製作)、パディ・コンシダイン(監督))
*英国インディペンデント映画賞作品賞受賞、監督賞ノミネート(パディ・コンシダイン)、ダグラス・ヒコックス賞(新人監督賞)受賞(パディ・コンシダイン)、主演男優賞ノミネート(ピーター・ミュラン)、主演女優賞受賞(オリヴィア・コールマン)、助演男優賞ノミネート(エディ・マーサン)、製作業績賞ノミネート
*インディペンデント・スピリット賞外国映画賞ノミネート
*ロンドン映画批評家協会賞ブレイクスルー英国映画作家賞ノミネート(パディ・コンシダイン)、英国男優賞ノミネート(ピーター・ミュラン)、英国女優賞受賞(オリヴィア・コールマン)
*サテライト賞映画主演女優賞ノミネート(オリヴィア・コールマン)、オリジナル脚本賞ノミネート(パディ・コンシダイン)
*エンパイア賞英国作品賞ノミネート、女優賞受賞(オリヴィア・コールマン)
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by sentence2307 | 2014-04-26 18:34 | 映画 | Comments(0)

赤い殺意

「毒される」とまでは言いませんが、映画解説書に断定的に書かれている評言というのは、映画を実際に見るうえで邪魔にこそなれ、いままで感心したり共感したりという覚えが全然ありません。

評言で自信満々に語られる「断定口調」というのが、見る者にとっていかに多大な影響を及ぼすか(それを先入観とか固定観念といってもいいかもしれませんが、いずれにしてもそういうものはマイナスに作用するしかありません)ということをつくづく思い知ったのは、今村昌平監督の「赤い殺意」を見たときでした。

ある解説書には、この作品について、こんなふうに書かれていました。

「夫の留守中、強姦された主婦がその男と関わっていく中で、夫の本家を中心とする封建的な「家」の倫理に苦しめられていた妻・貞子が、いつのまにか強い女に成長していく。強盗からの暴行を機縁に、肉体の深部から目覚めた庶民の女が、『性』の悦楽のなかから強靭な存在に成長していくのを今村昌平監督は見事に結実させた秀作である。」

また、別の評文には

「夫の出張中に、押し入った強盗から犯され、その後も執拗に付きまとわれながら、意に添わない性的関係を強要されるうちに、いつしか妻は、それまでの愚鈍で奴隷的な「妻」とは違う、確かな自己存在を自認した「女」として変貌をとげ、男たちを従え、家を支配する女になるという物語である。」

とありました。

このふたつの評文が語るそれぞれのニュアンスには多少の違いはあっても、最後の「強靭な女に成長していく」というあたりは共通しています。

しかし、はたして「そう」でしょうか。

小説の方では、このあたりをどのように描いているのか、いま手元に本がないのですぐに確かめようもありませんが、映画を見る限り、そこまで言い切っていいのだろうかという疑問を持ちました。

自分を強姦したうえ、さらに恋情まで抱いて執拗につきまとってくる男(ストリップ小屋のドラマーです)に対して、その執拗さに危機感をつのらせた妻は、ついに思い余って男を殺害しようと決意し、男の言葉に従うかに見せかけて東京への逃避行を共にします。

しかし、殺害を果たせないままに続けられた逃避行の雪道で、たまたま男が持病の心臓病によって急死し、さらに、ふたりの後を尾行していた夫の情婦(妻の座を狙っている彼女は、妻の浮気現場を捉えようとカメラ片手に必死です)も、思わず撮影に夢中になっているところをダンプカーに轢かれて即死します。

このふたつの事故によって、妻の抱いていた危機感はすべて解消され、物語的には、
「いつしか妻は、それまでの愚鈍で奴隷的な「妻」とは違う、確かな自己存在を自認した「女」として変貌をとげ、男たちを従え、家を支配する女になるという物語」
といってもいい方向に向かっているかに見えますが、しかし、その後、出張から帰ってきた夫が、亡き情婦の撮影したフィルムを妻に示して
「これはお前だろう、一緒に写っている男は誰だ」
と執拗な尋問を続ける場面から、強引に籍を入れることで姑からさんざん嫌味を言われる場面まで、そして、それらを受けて、ちゃっかり(解説氏にすれば、そのように浮かれ気味の表現にしたいに違いありません)本家におさまるという図式には、客観的にみれば、女中上がりの妻がついに本家におさまって積年の恨みを晴らすという晴れやかな印象が伴っても一向におかしくないのに、しかし、このラストに映し出される蚕の世話をする妻の表情には、そのような「明るさ」の気配など微塵も伺うことができません。

なにしろ、この場面の直近には、嫉妬深い夫による相も変わらぬ執拗な尋問と折檻が描かれていて、その次の場面では、意地の悪い姑による差別的な嫌味と侮蔑の言葉責めが描かれているのですから、「本家」におさまったからといって、家族が優しくなり彼女の生活が一挙に改善するという楽観を許すものなど、この画面からは、なにひとつ見い出すことができません。

実は、この暗さはいったいなんだろうという「訝しさ」だけをたよりに、この短文は書き始められました。

鈍重で愚鈍な女中(設定は、きっと食い詰めた貧乏な百姓家の娘かもしれません)が、雇われて看病していた好色なドラ息子に手篭めにされ、妊娠したので仕方なく、一応はカタチだけ「妻」のように扱われながら、しかし籍を入れてもらえるわけでもなく、年がら年中「馬鹿だ間抜けだ」と罵られつづけるという描写が、あの「強姦」の場面の前と後とにカットバックで挿入されています。

そうした状況のすべてを引きずって、たまたま成り行きで本家に入るというだけのことなので、それを「強靭な女に成長していく」と即断するのは、いささか軽薄で、随分無謀な決め付けなのではないかと訝ったのです。

むしろ、彼女にとって、心臓病みのドラマーから「強姦」されるのも、夫からの詰問や「鈍重の間抜け」と蔑まれるのも、姑から「無知」と罵られるのも、すべて同じものだったのではないかと仮定してみました。

妻は、それら強姦男や夫や姑の「働きかけ」のすべてを頑なに否定します、否定し続けて、ついには「ない」ものに捻じ伏せ、彼女の「安定」(にっぽん昆虫記には繰り返しこの言葉が語られています)に組み込んでいくとしても、しかし、はたして彼女は「自由」を得られたのだろうかと感じました。

今村監督の「赤い殺意」を見るたびに、いつもきまって思い出すフレーズがあります。

「強姦されるという衝撃的な経験を経た女が、むしろ逆に強さを獲得して自由になる」という一文です。

長い間、この文章が頭の中に刷り込まれていて、てっきりこの文章は「赤い殺意」を評したものに違いないと思い込んでいました。

いやむしろ、このフレーズは、そのまま、それ以後の時代、「日活ロマンポルノ」の隆盛と凋落に至る時代を象徴するような、日本映画の諸作品が依拠し、あるいは根底から支えた思想的な「標語」でさえあったのではないかと思ってきました。

しかし、あるとき、佐藤忠男の「日本映画史」を読んでいたら、「豚と軍艦」について書かれた箇所でそのままの一文に遭遇し、やっと自分の勘違いに気づきました。

その「豚と軍艦」を受けて「赤い殺意」を論じるに至る箇所には、こんなふうに書かれています。

「強姦された女が逆に強く自由になるというのは前の『豚と軍艦』でも見られたモチーフであり、それは、あるいは、敗戦によって日本文化の純粋性(原文は、傍点です)といった虚妄の観念を外国から力ずくで打破された国民的な経験の逆説的な表明であるかもしれない。」

なるほどなるほど、「強姦されて逆に強く自由になる」というのは、日本という国自体を示してもいたのかと気づかされました。

しかし、この「気づき」を獲得できたからといって、「赤い殺意」という衝撃的な作品の魅力に近づけたかどうか、自分にはどうしてもそうとは思えません。

芸術作品をその時代に結びつけ「理解を高めたり深めたり」するということが、批評の主たる仕事=作業なのだとしたら、むしろ作品の暴力的でアナーキーな魅力を減じてしまうだけにすぎないのではないか、「理解を高めたり深めたり」して無理やり「時代」に定着・固定することの「罪深さ」を、最近実感するようになりました。

こんな気になったのは、むろん自分の天邪鬼によるものもありますが、むしろこの作品が固有にもっている枠に嵌めることのできない暴力的でアナーキーな魅力、「おざなりの理解」を拒絶するものがあるからだろうと思います。

佐藤忠男は、「日本映画史」のなかで、今村監督の「赤い殺意」についてこう記しています。

「戦後の日活から現れた最も重要な監督は今村昌平である。『にっぽん昆虫記』1963で、最下層の農民出身の、無知で恥知らずであるが、それなりのモラルや信仰や向上心を持たないわけではない女の生き方を、昆虫を観察するようなリアリズムで追及して、溝口健二のリアリズムの後継者ともいえる立場を確立した」
と前置きしてから、
「ひきつづき下層社会における“母なる大地”のような女性像の探求をつづけ、次の『赤い殺意』1964で早くもひとつの頂点を極めた」と述べています。

(1964日活)監督脚本・今村昌平、原作・藤原審爾、脚本・長谷部慶治、撮影・姫田真佐久、音楽・黛敏郎、企画・高木雅行、美術・中村公彦、編集・丹治睦夫、録音・神保小四郎、スチール・斎藤耕一、照明・岩木保夫
出演・西村晃(高橋吏一)、春川ますみ(高橋貞子)、赤木蘭子(高橋忠江)、加藤嘉(高橋清三)、北村和夫(高橋清一郎)、橘田良江(高橋波江)、北林谷栄(高橋きぬ)、宮口精二(宮田源次)、露口茂(平岡)、楠侑子(増田義子)、近藤宏(新田)、山之辺潤一(渡辺主任)、北原文枝(狩原久子)、加原武門(質屋の旦那)、糸賀靖雄(田村英二)、小沢昭一(田丸和幸)、殿山泰司(楽士ベレー)、井東柳晴(楽士ギター)、漆沢政子(小使ばあさん)、久松洪介(高屋敷町役場・戸籍係)、三船好重(温泉の女将)、
1964年6月28日公開 日活配給 12巻 4,104m 白黒 ワイド
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by sentence2307 | 2014-04-12 15:24 | 映画 | Comments(1)