世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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愛、アムール

山田洋次の「東京家族」が、「東京物語」のオマージュ作品と公言しながら、ただ筋をなぞっただけで、その「らしさ」をすこしも感じさせなかったことに対して堪らない腹立たしさを覚え、その落胆を書き進めていくうちに次第に激昂していく自分をどうすることもできなかったという苦い記憶があります。

それは「山田洋次に対して」というよりも、たぶん、自分の憤りをどのように書いても正確に表現できないという無力感に対してだったからだと思います。

しかし、たとえ「東京家族」が、ただ筋をなぞっただけの陳腐な作品にすぎないにしても、なぜ、それがオマージュ作品と公言してはいけないのか、世の中には、そのような作品なら、それこそ掃いて棄てるほどあるわけだし、この作品もそのうちの一本にすぎず、そのことだけを理由にして、あんなふうに非難することが、はたして本当に正当なことだったといえるのか(そこに「良さ」だって、なかったわけではないだろうし)、むしろ、感情の昂ぶりに任せて一方的に非難してしまう自分が、いかにも独善的で、ずいぶんと理不尽なことをしてしまったという後悔がだんだん募り、その疚しさみたいなものがずっと気になっていました。

「東京家族」という作品もまた、時間の経過によって次第に理念の欠落が証明され、多くの作品と同じように「忘却」の彼岸に消えて行くという過酷な運命にあっても、単に「東京物語」の「リメイク作品」という理由だけでタイトルくらいは記憶され、かろうじて映画史の片隅に留まるかもしれない可能性に対してなんとも言えない苛立ちを覚えたからに違いありません。

ですので、たとえ弁解がましい「釈明」みたいになろうとも、どうにも抑制のきかなかったあのときの「激昂」のわけを書き継ぐことで、非難に終止してしまった感のあった「東京家族」の未熟な感想を完結できるのではないかと考えるようになりました。

そのことについてなら、ただひとつだけ、思い当たることがあります。

「東京家族」を見る直前に、実はミヒャエル・ハネケの「愛、アムール」を見ていました、たぶんあの作品さえ見ていなければ、あれほどの「憤りの感情」を生じさせることも、増幅させることもなかったような気がします。

逆に言えば、つまり、ハネケの「愛、アムール」から受けた衝撃を語らなければ、「東京家族」への失意の理由を上手に説明できないという思いを強くしたからかもしれません。

「愛、アムール」は、病におかされた老妻を必死に介護する老夫の破綻に至るまでの老々介護の悲痛な日常を淡々と描いた老夫婦の物語です。

この映画を見ながら、「東京物語」へのオマージュ作品というのなら、むしろこちらの方こそが余程相応しいのではないかと痛感したくらいでした。

同時に、いままで「東京物語」という作品が、都会で離れて暮らす息子や娘と、田舎に住む両親とが東京で会うことによって生じる葛藤の物語だと思い込んでいたこと(「東京家族」の視点もこれでした)が、それ以前に、病で老妻を失う老夫の物語なのであって、遠方の都会でそれぞれに暮らす子供たちとの関係というのは、この物語にとっては、ひとり残された老夫の孤独を語るための、あくまでも二次的で付随的なバイストーリーにすぎないと確信するに至りました。

ですので、「東京家族」は、そもそもそのタイトルからして「東京物語」という映画の本質を外していることを、ハネケが明確に示唆してくれたからだと思います。

小津安二郎が、かつて松竹監督会の新年会の酒席において、吉田喜重に苛立ちを込めて語ったという「映画はドラマだ、アクシデントではない」というあの含蓄に富んだ言葉も同時に思い起こしていました。

突然の病におかされた老妻アンヌは、病院で手術を受けて家に帰されますが、その術後は思わしくなく、徐々に死の影に被われるような老夫婦の静謐な日常が描かれています。

脳神経を侵された老妻アンヌは、ゆっくりと、しかし確実に深刻な半身麻痺が進行し、彼女との生活の負荷のすべてが、老夫ジョルジュに重く圧し掛かっていく様子が淡々と描かれます。

半身麻痺が進行し、記憶力や認識力も定かでなくなり、人格も徐々に壊れていく老妻アンヌを必死に介護する夫ジョルジュも軽く脚をひきずって歩かねばならない不自由な体ですが、そこまで彼を支えているものは、妻が病院から戻ってきたとき、彼にもらしたひとこと「もう二度と病院にはやらないでほしい」という言葉でした。

妻の「もう私を一人にしないで。壊れていく惨めな自分の姿を他人の目に晒さないでほしい」と訴える悲痛な妻の最後の哀訴は、夫ジョルジュの胸に突き刺さったに違いありませんが、しかし、それが妻アンヌの求愛であることをもまた熟知している夫には、妻の願いを叶えることが、彼女への愛の証し、妻を守ることだと考えます。

病院や施設の支援を拒み、実の娘の助力の申し出さえも頑なに拒否し続け、次第に深刻な共倒れの危機に追い込まれていく状況のなかでも妻の願いを必死に守ろうとする夫ジョルジュの(観客にとって)不可解な頑迷さの「理由」を、ハネケは、老夫婦の会話を精密に描写することによって、僕たち観客に示します。

社会的な「常識」としてなら、たとえば老人施設とか、病院という選択肢もまだまだ断たれていたわけではない状況のもとで、体の不自由な夫ジョルジュが、社会的援助を拒みながら手に余る妻の介護にこれほど拘わったのか、その頑なさを不可解に思う観客(世間)への痛切なしっぺ返しとして、老夫婦の愛情の固い絆と、世間から妻を庇う夫の強い意思、そしてなによりも「人間」として生きる誇りと同じ意味で「死ぬこと」によって守られる誇りもあるのだという愛の形を、ハネケは僕たちに示したのだと思います。

しかしなぜ、この老夫婦の物語「愛、アムール」を見て、自分が「東京物語」を連想したのかということを説明しなければなりません。

あまりにも激しい「愛、アムール」の老夫婦の結末と、「東京物語」の老夫婦とが、どのように関連し交錯するのか、このとき、自分が、小津監督の「映画はドラマだ、アクシデントではない」という言葉を思い起こしたことについても、です。

いままで長い時間をかけて繰り返し「東京物語」を幾度も見てきて、その度にどうにも解せないひとつの疑問がありました。

笠智衆演じる老夫・周吉は、もしかしたら自分の判断や行為によって老妻(東山千栄子が演じています)の病を重篤にし、さらに死を早めてしまったかもしれないことについて、はたして、どのように考えているのだろうか、ということについてです。

東京の子どもたちを訪ねたりせず、そのまま田舎で静かに暮らしてさえいたら、妻の心臓病をあれほどまでに悪化させることはなかったのではないか、と老夫は後悔しなかったのか、あるいは、さらに、息子や娘が忙しさにカマケテ、老親を厄介者あつかいし、熱海に追いやったり、東京の街をさ迷わせたりすることがなければ、妻を死なせずにすませたのではないか、という思い(当然、これは「怒り」です)についても、です。

このシチュエーションに置かれた老夫の心情を想像すると、前者にあっては「後悔→自己嫌悪」を感じていいし、後者にあっては「苛立ち→憤り」を覚えるのが人間の自然な感情の在り方であり流れであって、伴侶を失い、そうした思いを抱えた老夫=父親なら、妻の死に責任の一端がなくもない息子や娘に対して怒りをぶちまけたとしても、それほど異常なこととはいえません。

むしろ映画「東京物語」において(自分を責めるでもなく、子どもに怒りをぶちまけるでもない)終始淡々とした老夫・周吉の姿こそ、あるいは、異常といえば異常なことであって、そこには、それら「自然」な感情の発露を押さえ込む老夫・周吉の異常なまでの自己抑制の方を、僕たちは見ることになるかもしれません。

次男の嫁・紀子(原節子が演じています)に、老妻が生前もらしていた感謝の言葉を伝えるあのラストシーンの周吉の感情表現が、その少し前、葬儀に来た息子や娘たちが、いよいよ東京に帰るというときに掛ける父・周吉の労いと感謝の言葉を言うときの感情表現とに、どれほど際立った差があるかといえば、その「差」は、ほとんど感じられない僅かなものだったというのが、自分の正直な印象でした。

そこで、小津監督の「映画はドラマだ、アクシデントではない」という言葉を思い起こしたのです。

「老妻・とみの死」が、ただそのことだけなら「アクシデント」にすぎなかったとしても、周吉が次男の嫁・紀子に、老妻の感謝の言葉を伝える感情表現と同じような調子で、そそくさと東京へ帰る薄情な息子や娘たちに対しても差異なく労いと感謝の言葉をかける周吉の抑制を描写することが、小津監督の言う「ドラマ」の意味だったのではないのかという気がしてきました。

夫ジョルジュが、最後まで妻の願い・誇りを必死に守ろうとしたのと同じように、夫・周吉がもしなにかを守ろうとしたのであれば、それがいったいなんだったのか、泣き叫ぶことも怒り狂うこともなく感情を抑えて淡々と生きる異常な抑制が、なにを意味するのか、深遠すぎていまの自分にはまだまだ窺い知ることはできませんが、ラスト、老妻の死を迎えた周吉が、そばにいる紀子に語り掛けるわけでもなく遠い目をしてひとり呟く「今日も暑うなるぞ」という言葉の中に、なにかあるのかと一瞬たじろいだ思いの中に不吉な影を直感的に感じたくらいでした。

(2012フランス、ドイツ、オーストリア)監督脚本ミヒャエル・ハネケ、製作マルガレート・メネゴス、シュテファン・アルント、ファイト・ハイドゥシュカ、ミヒャエル・カッツ、製作総指揮ウーヴェ・ショット、撮影ダリウス・コンジ、美術ジャン=ヴァンサン・ピュゾ、衣装デザイン・カトリーヌ・ルテリエ、録音ギヨーム・シャマ、ジャン=ピエール・ラフォルス、編集モニカ・ヴィッリ、ナディン・ミュズ、原題Amour、字幕・丸山垂穂
出演・ジャン=ルイ・トランティニャン(ジョルジュ)、エマニュエル・リヴァ(アンヌ)、イザベル・ユペール(エヴァ)、アレクサンドル・タロー(アレクサンドル)、ウィリアム・シメル(ジョフ)、ラモン・アジーレ(アパルトマン女管理人の夫)、リタ・ブランコ (アパルトマン女管理人)、カロル・フランク(看護婦)、ディナーラ・ドルカーロワ(看護婦)、ローラン・カペルト(警察官)、ジャン=ミシェル・モンロック(警察官)、シュザンヌ・シュミット(女の隣人)、ダミアン・ジュイユロ(救急隊員)、ワリッド・アフキール(救急隊員)
上映時間127分 日本公開2013.3.9


2012年カンヌ国際映画祭パルムドール〈最高賞受賞〉ミヒャエル・ハネケ
2012年サンセバスチャン国際映画祭 国際批評家連盟大賞作品賞(受賞)ミヒャエル・ハネケ
2012年ダーバン国際映画祭 最優秀映画賞(受賞)ミヒャエル・ハネケ
2012年セザール賞作品賞(受賞)「愛、アムール」、監督賞(受賞)ミヒャエル・ハネケ、主演男優賞(受賞)ジャン=ルイ・トランティニャン、主演女優賞(受賞)エマニュエル・リヴァ助演女優賞(ノミネート)イザベル・ユペール、脚本賞(受賞)ミヒャエル・ハネケ、美術賞(ノミネート)ジャン=ヴァンサン・ピュゾ、撮影賞(ノミネート)ダリウス・コンジ、編集賞(ノミネート)モニカ・ヴィッリ、音響賞(ノミネート)Guillaume Sciama
Nadine Muse(ノミネート)Jean-Pierre Laforce
2012年ニューヨーク批評家協会賞最優秀外国語映画賞
2013年アカデミー賞作品賞(ノミネート)マルガレート・メネゴス、シュテファン・アルント、ファイト・ハイドゥシュカ、ミヒャエル・カッツ、監督賞(ノミネート)ミヒャエル・ハネケ、主演女優賞(ノミネート)エマニュエル・リヴァ、脚本賞(ノミネート)ミヒャエル・ハネケ、外国語映画賞(受賞)「愛、アムール」
2013年ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞(受賞)
毎日映画コンクール外国映画ベストワン賞(受賞)「愛、アムール」

【関連資料】
★映像資料 白いリボン ミヒャエル・ハネケ 監督・脚本,クリスティアン・フリーデル [ほか出演] デイライト 2011
★映像資料 隠された記憶 ミヒャエル・ハネケ 監督・脚本,ダニエル・オートゥイユ [ほか出演] タキ・コーポレーション 2006
★映像資料 ピアニスト(01仏/オーストリア) アミューズビデオ/日本ヘラルド映画 2002
★記事・論文 ミヒャエル・ハネケ監督インタビュー (「白いリボン」) 佐藤 久理子 掲載誌 キネマ旬報 (1571) 2010-12-00 p.73~75
★記事・論文 すばる文学カフェ ひと ミヒャエル・ハネケ 北小路 隆志 掲載誌 すばる 28(6) 2006-06 p.284~287 
★記事・論文 ミヒャエル・ハネケ監督インタビュー (特集「ピアニスト」) Michael Haneke,吉武 美知子 掲載誌 キネマ旬報 (1351) 2002-03-00 p.46~48
★記事・論文 DVDコレクションスペシャル『ミヒャエル・ハネケ DVD-BOX』 鬼塚 大輔 掲載誌 キネマ旬報 (1476) 2007-02-00 p.192~195
★記事・論文 「暴力の監督」? : 映画作家ミヒャエル・ハネケ 井口 祐介 掲載誌 ドイツ研究 = Deutschstudien / 日本ドイツ学会編集委員会 編 (47) 2013 p.192-202
★記事・論文 "恐怖の伝道師"ミヒャエル・ハネケ監督の告白 (くたばれ!? ハリウッド) John Wray 掲載誌 Courrier Japon 5(1) (通号 51) 2009-01-01 p.104~107
★記事・論文 作品評 自らを罰し続ける作家、ミヒャエル・ハネケ (愛、アムール) 黒田 邦雄 掲載誌 キネマ旬報 (1632) 2013-03-00 p.88-91
★記事・論文 ミヒャエル・ハネケの映画の中の子供たち : 子供の受難と子供の教育 香月 恵里 掲載誌 ドイツ文学論攷 (55) 2013 p.7-28
★記事・論文 Culture MOVIES 寄り添い続ける愛を貫いて : オスカーに輝いたミヒャエル・ハネケ監督の『愛、アムール』は病と向き合う老夫婦の究極のラブストーリー 掲載誌 Newsweek 28(11) (通号 1341) 2013-03-19 p.60-61
★参考情報 ミヒャエル・ハネケ (JK Who's who) JapanKnowledge
★参考情報 愛、アムール (デジタル大辞泉プラス)
★The Violence of Media and Audience in Michael Haneke’s ‘71 Fragments of a Chronology of Chance’IGUCHI, Yusuke Graduate School of Humanities and Social Sciences, University of Tsukuba 2013
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by sentence2307 | 2014-05-10 17:18 | 映画 | Comments(2)

ジャップ・ミカド

連休の初日、暇を持て余していたので、ついフラリと近所の図書館に出かけました。

それというのも、すこし前、日本映画専門チャンネルで「舟を編む」を見たときの本編終了後に、松田龍平がインタビューに答えて「本に囲まれていると、なんだか落ち着く」と語ったひとことが、とても気になっていて、この「フラリと図書館」というのにすこし影響したかもしれません。

辞書編集者・まじめが、自分の借りている部屋の一室を、まるでミニ図書館のように本棚を立て切って使っているシーンについて語った松田龍平の感想なのですが、自分の気持ちの中にも、そういった林立する本に囲まれて生活することに大いに共鳴する部分(憧れです)があるので、敏感に反応してしまったのかもしれません。

しかし、現実的なことをいえば、自分の居室を図書館みたいに使うなんてことはまずあり得ないし(床が抜けます、家主だって黙っちゃいません)荒唐無稽な空想というか暴挙であって、ある程度の気ままが許される独り身だとしても、たぶん到底できるとも思えないシチュエーションです。

やっぱり、誰にも迷惑をかけずに気分の落ち着きを得たいのなら、自分の方から図書館に出向くのがいちばん穏当な選択に違いないわけで、やっぱり自分の居所を図書館に作り変えるなどという妄想は諦めて、いままでどおり図書館通いをつづけたいと思います。

でも、本に囲まれているというだけで落ち着きを得られるわけでもないので、やはりここは棚々を歩き回り、背表紙を眺めたり、ときには本の内容をチョコチョコつまみ食いしながら、いつものコースをめぐって楽しもうと思います。

気には掛かってはいても、未だ一作も読んだことのない未知の作家の本を手にとって、書き出しのほんの数行をざっと読んでみたり、すでに読んだことのある馴染みの作家なら、印象深かった作品の中の数行を目で追って忘れかけたストーリーを甦らせたりと、そうするだけでも時間はまたたく間に過ぎていくのですが、だいたいその後で「映画」の棚をのぞき、「歴史」の棚をのぞきみして、それでも時間に余裕があれば、さらに「経済」か「健康」の棚をのぞくという「いつものコースの一巡」で通常は終了します。

その日も、「映画」の棚にたどり着いたときに予定の時間をかなり超過してしまっていたので、そろそろ帰ろうかと思ったとき、何気なく隣のスポーツの棚の本の背表紙をぼんやり眺めました。

スポーツ関係の本など滅多に読むことはありません。

しかし、そこに「ジャップ・ミカドの謎」というなんだか変テコなタイトルが目に飛び込んできました。

なんかヤタラ気に掛かる書名じゃありませんか。

なにしろ「ジャップ・ミカド」です、「ジャップ」という蔑称と「ミカド」という高貴な言葉(本文には、「ミカミ」が訛って伝えられたかのように書かれていますが、三神以前にチームに所属していた東洋人が代々ジャップ・ミカドと名乗っていたものを、三神自身はこのニックネームを拒否したといわれています)の取り合わせが、とても奇妙なアンバランスを醸し出していて、さらに「謎」などと絶妙な括り方をしたものですから、まるで本の方から「読まないと後悔するぞ」といわんばかりの挑発ぶりです。

タイトルもそうですが、そのうえ表紙の方も、かなりの凄さで、見るからに「大時代」な古色蒼然とした往年の外人野球選手たちの奇妙な集合写真が使われています。

同じ野球のユニフォームを着こんだ十人ほどのその外人の男たち、彼らはまるで従順な小学生のように背の順に整然と並ばせられ、いずれも顔だけはやや正面を向いていて、よく見るとその集団は、白人や黒人ばかりでなく、あきらかにそれ以外の人種も混じっているようで、そのバラバラさ加減というかチグハグさは、まるで人種のサンプル見本みたいな実に落ち着けない印象です。

そしてさらによく見ると、あきらかに背の低さが際立つ最前列の男だけは、どうやら東洋人のようです。

写真の解説を早く読みたくて、とりあえず本文をパラパラとめくりました。

そこには、こんなことが書かれていました。

写真の撮影年は1913年頃、アメリカで結成された「オール・ネイションズ」というチームの集合写真で、その最前列に写り込んでいる東洋人というのが、「ジャップ・ミカド」とよばれた、そのチームで大活躍した日本人だというのです。

1913年頃というのですから、それが間違いないなら(その探索が、この本のテーマなのですが)、当然この人が、アメリカで活躍した日本人野球選手第一号に違いありません。

つまり、この本は、この「ジャップ・ミカド」とは誰だ(まさに「目次」の最初の章名です)、ということをテーマとした探索のノンフィクションなのでした。

面白そうじゃないですか、早速この本を借りる手続きを済ませ、結構ウキウキ気分で家路につきました。

まずは、この本の基本情報と目次を紹介しておきますね。

☆佐山和夫著「ジャップ・ミカドの謎-米プロ野球日本人第一号を追う」(文芸春秋刊)1996.4.25.1刷.260頁.1700円.(ジャップ・ミカドとは誰だ、オール・ネイションズとは、オール・ネイションズの時代背景、選手群像、オール・ネイションズの巡業、ジャップ・ミカドの正体、三神家への訪問、安部磯雄と三神兄弟、安部先生と早稲田野球部、学生プロは可能だったか、証拠を求めて、もう一度自由が丘へ、拝啓ゴロー様、アメリカ雄飛の謎、オール・ネイションズのその後、終わりに)

サブ・タイトルにもあるとおり、やっぱりこの本は、アメリカで最初にプロ野球選手となった(らしい)日本人のことが書かれているのですが、いままでのワタクシどもの観念からすると、アメリカ野球の第一号っていえば、どうしたって野茂英雄じゃないですか、そういうことからいっても、これは驚天動地の新知識です。

いやいや、ちょっと待ってくださいよ、サブ・タイトルには「米プロ野球」って書いてあるけど、そもそもアメリカの野球は「大リーグ」であって、「プロ野球」なんていってないのでは。

この本の発行日を見ると、1996年とあるが、ますます「プロ野球」なんて絶対いうわけがない、とかなんとか、さまざまな思いに捉われながら、読みはじめました。

なるほど、なるほど、いままで知らなかったことがいろいろ分かってきました。

これは、アメリカの野球が、いまのように整然とした体制(ルール的にも道徳的にも)になる以前の草創期の時期(1912年頃)について書かれた本です。

その頃は野球の試合といっても、まだまだ見世物的な興行色が強くて、試合の前にダンスショーが行われたり、試合前に選手がアトラクションとして楽器を演奏してサービスをするなどお祭り気分を盛り上げたり、翌日も球場に足を運んでもらうために、一方的な試合であれば少しばかり手心を加えて点数を均衡させて観客を楽しませたなんてことはザラにあったと書かれています。

そもそもが「ショー」だということなら、八百長だなどとなにも目くじらを立てることもない。

そういうショー的な雰囲気のなかで、黒人ばかりの野球チームが作られたり、女性だけの野球チームのリーグ戦(あの「プリティリーグ」がそうでしたよね)が行われたりしたらしいのです。

さらにその一環として多民族混在の連合チーム「オール・ネイションズ」がアイデアされて編成されたという経緯も詳しく書かれていました。

「黒人オンリー野球団」があり、「お色気野球団」があれば、当然その進化系として「多民族混在チーム」が(縁日のお化け屋敷的な)発想されたというのも、なんだか頷ける話です。

ただ、このチームから、実力を認められて大リーグに昇格していった選手というのが1人や2人ではなかったということを聞けば、「オール・ネイションズ」もただのお遊びなんかじゃない、出自も出発の形も一切こだわることなく、実力さえあれば上の世界へどんどん伸し上がっていってアメリカン・ドリームをこの手に掴み取るという気概は、いかにもアメリカ的だなと感心しました。

この本は、
①「オール・ネイションズ」が編成された経緯とその時代背景、
②そのチームで活躍した「ジャップ・ミカド」とは誰だったのかという探索
の大きく分けてふたつの部分で構成されています。

この本を読んだ少し後で、この本の感想をあるサイトで読みました。

そこには
「オール・ネイションズが編成された経緯とその時代背景の部分はとても面白かったが、あと半分のジャップ・ミカドが誰だったかの部分までは、興味が続かなかった」とありました。

感想氏は、言葉を選んだすえに「興味が続かなかった」とやんわり言っているだけで、率直にいえば、「失望した」というのが偽らざる本音だったでしょう。

実は、この本の中でも「ジャップ・ミカド」の正体は、中ほどくらいではすんなり明かされています。

山梨県の名家の出の三神吾朗という人で、アメリカに留学した折に、休暇の間に少しだけオール・ネイションにかかわり(集合写真はそのときの写真でしょう)、その後は、三井物産に就職して数々の業績を残した方ということで、ちゃちゃを入れる余地など寸分の隙もない立派な紳士です。

なにしろ破天荒な「オール・ネイションズ」の話から始まったこのノンフィクションに、たとえ読者が「オール・ネイションズ」にふさわしい「ジャップ・ミカド」を期待したとしても、それほど無理な話ではありませんが、当の「ジャップ・ミカド」が、実は甲府の名家の出で、海外留学先(食い詰めた野球バカの放浪者なんかじゃありません)で野球などを少々タシナミ、その後は早稲田のご学友とか上流社会などのお知り合いの引きもあって三井物産とやらにご就職され、富に恵まれて生涯を幸せに暮らしましたとさ、というのがこのドキュメンタリーのオチなら、誰だって、やんわりと「そこまでは、興味が続きませんでした」というしかなかったでしょう。

あるいは「いい加減にしろ、馬鹿野郎」といっても良かったかもしれません、もしそれがオチならね。

しかし、天も捨てたものではありませんね。

この幸せの王子の申し子のような商社マンも、最期にして、少々動揺をきたしたようなのです。

この本によると、彼は生涯「オール・ネイションズ」で野球をしたことを家族はおろか誰にも漏らさなかったと書かれています。

アメリカでの「見世物小屋」のようなゲテモノ野球に関わったことを余程恥じていたのかもしれません。

しかし、はたして「オール・ネイションズ」がゲテモノ野球だったのかどうか(当然議論のあるところでしょうが、どうもご本人としてはダメだったみたいで)、自分があの「ジャップ・ミカド」だったのだと名乗ることもなく、たぶんそのことを恥として隠し通さなければならなかったというのは、彼が日本において叩き込まれた「日本的な正義の教育的道徳野球」という存在が歴然として立ち塞がっていたからだと思います、その存在があればこそ、なんでも有りの「オール・ネイションズ」や、国辱的と取られかねない「ジャップ・ミカド」も、なにがなんでも隠し通さなければならないと思ったのだと想像できるような気がします。

あるいは、自由を失った野球に熱中する(教育と同義と公言して憚らない「高校野球」が究極の姿でしょう)この国で、いくら「オール・ネイションズ」について語り始めたところで、理解を得ることのむずかしさを、だれよりも知っていたからこそ「ジャップ・ミカド」は、諦念とともに生涯口を閉ざし、自らも葬り去ることを決意したのかもしれません。

★  ★  ★

三神吾朗・みかみ ごろう、1889年(明治22年)11月6日 - 1958年(昭和33年)6月24日)

日本にまだプロ野球が存在していない時代に、アメリカのプロ野球チーム「オール・ネイションズ」でプレーした。守備位置は外野手、遊撃手、投手、一塁手。早稲田大学の「三神記念コート」にその名前を残すアマチュアテニス選手三神八四郎は兄。

山梨県中巨摩郡大鎌田村(現・甲府市)出身。豪族で甲府電灯会社(後に東京電力が吸収合併)の創業者である父・三神有長、母・三神とよの間に、11人兄弟の五男として生まれる。

旧制甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)を経て
1908年(明治41年)、早稲田大学に進学し、野球部に入部。中学時代は投手であったため大学でも始めは投手を務めたが、早稲田野球部の先輩であった飛田穂洲が「(入部当初の三神は)酷評すれば僅かに球を投げる術を知っていたに過ぎなかった」と評する程度の実力で(これは、当時の山梨県では野球がほとんど盛んではなかったことに起因する)、試合には出場できず、打撃投手のみを務めていた。しかし外野手に転向して後は頭角を現し、レギュラーとなる。
1911年(明治44年)、野球部がアメリカ遠征をした際のメンバーにも選出された。
1913年(大正2年)ノックス・カレッジへ留学。野球部に入部し、主に遊撃手、時に投手を務め、「この日本人選手こそは、わが大学チームの命であって、彼が走塁を始めたら、もう誰もアウトにすることができない」と校史に記録されたほどの走塁と、フィールディングの良さからチームの中心選手となる。
1915年(大正4年)にはキャプテンも務めた。
1914年(大正3年)の夏休みに、有色人種(当時の大リーグでは有色人種は入団できなかった)を含めて編成される独立巡業プロチーム「オール・ネイションズ」(後のカンザスシティ・モナークス)に参加。
1916年(大正5年)イリノイ大学に進学し経済学を専攻、その後三井物産に就職し、野球とは関わらなくなった。
1958年(昭和33年)6月24日、胃穿孔のため死去。68歳。墓所は青山霊園。
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by sentence2307 | 2014-05-10 17:02 | 映画 | Comments(1)