世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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先週、wowowの番組表を眺めていたら、あるタイトルが目に飛び込んできました。

その活字だけが特別に輝いて、まるで乱舞しているように強烈に自己主張していました。

それが「天才作曲家・早坂文雄 幻のテープが語る『七人の侍』」でした。

このwowowの「ノンフィクションW」は、結構面白いので、欠かさず見ています、うっかり見過ごしたりしないよう、すぐに番組予約をしておきました。

それを昨夜ようやっと見ることができました。

この「ノンフィクション」の冒頭は、東宝系列の音楽会社(よく覚えていないのですが、おそらく「そう」だったと思います)が、東宝本社から倉庫に眠っている映画関連のテープなど、映画で使われた音源を丸ごと買い受けたそのなかに、なんと「七人の侍」の映画音楽の録音テープがまざっており、まさに「発見した」というところから始まっています。

まあ、この部分、素直に感動すべきところだったのかもしれませんが、そのワザとらしい煽るような前振りに、なんとなく反発を覚えてしまいました。

「発見」したときの様子や状態をよく聞いていると、数個あったその録音テープの箱はしっかりと紐で括られており、箱の横の見やすい箇所に丁寧にも「七人の侍」とタイトルが付されていて、誰が見てもすぐにそれと分かるよう、整理棚のそれなりの位置に整然と置かれていたというのです。

それって、もともとそこに「整理」されていたもので、はたしてそれを「発見」といえるのかと、ちょっと引っかかるところがありました。

番組中、映画関係者もインタビューに答えていましたが、映画ができてしまえば、製作段階で作られた副造物(音楽テープとか、そのほかモロモロあるとは思いますが)は破棄するのが映画界では当たり前のことで(いわば今回の払い下げだって、そのケースのひとつといえないことはありません)、それがまがりなりにも倉庫で保管されていたということだとすれば、それは「破棄」という慣習から大きく外れた破格の扱いだったわけなのであって、そういうことをあれこれ思い合わせると、確かにその箱の存在は忘れられていたかもしれませんが、かつては管理者の明確な認識のもと、倉庫の「その位置」に保管・整理されていたということは推察できると思いますし、それを見つけたからといって、はたして《「発見」の名に値するような行為》だったのかという疑念に捉われたのでした。

この「ノンフィクション」のこうした作為的な始め方にはちょっと引いてしまって、企画者の意図したようなテンションまではあげられなかったのですが、気を取り直してこの番組を見始めました。

そうそう、この番組制作者の意図したものといえば、もうひとつ、「黒澤明は、早坂文雄を殺したか」の真偽の解明にあったかもしれません。

自分もむかし、雑誌だったか単行本だったかで、「『七人の侍』の製作過程において、黒澤明が早坂文雄に過酷な仕事を強いたために彼の生命を縮めた」というマコトシヤカな記述を読んだことがあり、その記述がいつまでも忘れられずに気持ちの端っこに引っ掛かっていました。

つまり、この「疑念」は、なにも自分だけのものだったのではなく、あくまでも「噂」というニュートラルな外見を装いながらも、こういう番組のテーマとして据えられるくらいの、スタンダードな流通性(というか、さらに踏み込んでいえば「信憑性」でしょうか)をもって語り伝えられてきたのだと思います。

しかし、ここまで殺伐でかつ過激だと、かえって客寄せのキャッチコピーみたいに非現実化し、かえって嘘っぽく、衝撃性を薄めてしまうものなのでしょうが、それにしても「殺した」という語調の強さは、いささか穏やかではありません。

僕たちは、「七人の侍」の撮影現場において、落馬や馬に蹴られて負傷者が続出したとき、チーフ助監督の堀川弘通が、このままでは死者がでるかもしれないと懸念し、黒澤明に直接防護策(金属製の鬘を被らせるなど)を具申したところ、
「そんなことはできないよキミ、レンズは望遠で狙っているんだよ。たとえ死人がでたとしても、そりゃ仕方ないね」
と言い放ったと伝えられています。

このエピソードから窺われる苛烈さは、映画を完成させるためには、いささかの犠牲もいとわない、あるいは人が死のうと生きようと、とにかく映画を完成させるのだという映画に対する黒澤明の強い信念が込められていて、当然その「犠牲」の容認のなかには、「早坂文雄の落命」だて当然視野にあったに違いないと思わせるところが、あの「噂」を、必ずしも荒唐無稽なガセでないと思わせた「信憑性」を支えてきたのだと思います。

このノンフィクション、しばらく見ているうちに気がついたのですが、この番組が大きく依存している元ネタというのが、西村雄一郎の「黒澤明と早坂文雄-風のように侍は」(筑摩書房 2005.10.20)らしいということが、だんだん分かり始めてきました。

「黒澤明と早坂文雄」という本は、自分にとって、エピソードの宝庫というか、「黒澤明・逸話大事典」とでもいうべきとても使い勝手のいい存在でした(「過去形」なのは、いつの間にか手元から消えてしまっているからですが)。

黒澤明と早坂文雄のふたりの天才のそれぞれの生い立ちを並列的に書き進み、やがて運命的に出会い、そして早坂文雄の急死によって交友が絶えるところまでのエピソードを丹念に積み上げた800ページを超える大作です。

この本は、ふたりのことばかりでなく、黒澤明をめぐるおびただしい関係者の名前を知るうえでも、とても役に立った魅力溢れる労作でした。

読んだのはもう何年も前のことになりますが、読み耽っていたそのときのことは、よく覚えています、ページの余白に書き込みをしたり、本文にせっせと線を引いたりして夢中になって読んだ記憶はしっかりとありますし、そういえば確かそこには「七人の侍」のテープの話もあったはずだと、だんだん本の内容が思い出されてきました。

あっ、そういえばあの本、どうしたっけかなと突然その「不在」に気がつき、同時に不吉な思いに囚われもし、しかし、あれだけ愛着のあった本なのだから、まさか「処分」などするはずがない、いやいや、あってはならないことだぞ、などとブツブツ自問しながら、あわてて物置の中の物を大方引っ張り出し、ようやく探し当てました。

これこれ、これが、まさに「発見」という名に恥じない聖らかな行為というものなのですネ。

ああ懐かしいという思いで、しばらく振りに、この本と対面し、表紙を撫で撫でしたり、ページをペラペラしていましたが、しかし、いつまでも、そんなふうな懐旧の念に捉われている場合ではありません。

目指すは、「七人の侍」です。

ありました、ありました、「第三部 熱き日々、第二章 別れ」の項に「『七人の侍』開始」と「『七人の侍』完成」があります。

そして、「開始」と「完成」の項に掲げられている小項目を見ただけで、当時の早坂文雄が死と直面していた切迫した様子と同時に、その充実感に満たされた栄光とが、はっきりと分かります。

ちょっと、その小項目を筆写しておきますね。

★「七人の侍」開始(プロコフィエフの死、病のなかの「雨月物語」、遺書、遅れるに遅れる「七人の侍」、早坂邸の周辺、侍のテーマ、死人が出てもしかたがない、尊敬セル人)

★「七人の侍」完成(死ぬ思いで、第五福竜丸、三人の弟子によるオーケストレーション、歴史的なダビング、6ミリテープの存在、空前のゴールデンウィーク決戦、風のように侍は、若き作曲家たちの結婚、汎東洋主義、音楽の裾模様、「近松物語」に溢れる実験精神)

じつは、「黒澤明と早坂文雄」を何年振りかで改めて読み返しました。
その「プロローグ」には、家族に見守られながら早坂文雄が亡くなる臨終の様子が簡潔に記されています。

《「子供たちは早く来なさい!」
その日は、昭和30年10月15日にやってきた。夕食が食卓に運ばれようとしていた。まさにその時の出来事である。
早坂は仕事場で突然倒れた。長女の卯女、次女の絃子は、母・憲子のおおきな声に従って、すぐさま仕事部屋に駆け込んだ。
早坂は「胸が苦しい、苦しい」ともがいている。
憲子は早坂をしっかりと抱いた。
「憲子、申し訳ない、申し訳ない。お前に申し訳なかった」
早坂は、荒い息の中で繰り返した。
「そんなことない、そんなことない」と憲子も繰り返し声をかけた。
早坂は「黒澤さんに申し訳ない」とも言った。「撮影中にこんなことになって申し訳ない。後のことは頼む」
そう言い残して、早坂は妻の腕の中で事切れた。それが早坂の最後の言葉となった。たった15分ほどの出来事である。
葬儀は3日後の10月18日に行われた。》

末尾に掲げた「早坂文雄の仕事」をみれば、黒澤明と溝口健二とにかかわった仕事が、彼にいかに充実した日々をもたらしたか、それはおそらく、早世しなければならない悔しさはあったとしても、なによりも替えがたい奇跡と呼んでもいい充実の日々を早坂にもたらしたに違いありません。

この番組を見た自分の一応の結論を書いておきますね。

早坂文雄は、黒澤明に殺されたりはしなかった、むしろ早坂は黒澤明と仕事をともにすることで「死んでもいい」とさえ考えたのではないか、と思えてきました。

そして、黒澤明がひとり生き残って良い目を見たかといえば、晩年の凋落ぶりを知っている僕たちは、これもまた否定せざるを得ない。

世紀の名作「七人の侍」に魅入られ押し潰されたのは、なにも早坂文雄や本木荘二郎ばかりではなかったはず、黒澤明もまた、その後、「七人の侍」以上の作品を求められ続け、しかし遂に果たせず、煩悶しながらあの名作に押し潰された犠牲者のひとりとして数え上げねばならないかもしれません。


【「酔いどれ天使」以後の早坂文雄の仕事】
酔いどれ天使
酔いどれ天使(1948.4.27東宝 監督・黒澤明)
わが愛は山の彼方に(1948.5.25東宝 監督・豊田四郎)
富士山頂(1948.6.23新東宝 監督・佐伯清)
天の夕顔(1948.8.3新東宝)  
生きている画像(1948.10.12新東宝 監督・千葉泰樹)
虹を抱く処女(1948.11.16新東宝 監督・青柳信雄)
小判鮫 第二部 愛憎篇(1949.1.11新演技座)  
望みなきに非ず(1949.4.18新東宝=渡辺プロ)  
エノケンのとび助冒険旅行(1949.9.20新東宝=エノケンプロ 監督・中川信夫)
野良犬(1949.10.17映画芸術協会=新東宝 監督・黒澤明)
春の戯れ(1949.04.12映画芸協=新東宝 監督・山本嘉次郎)
妻と女記者(1950.4.2新東宝)  
醜聞(1950.04.26松竹大船 監督・黒澤明)
羅生門(1950.08.26大映京都 監督・黒澤明)
雪夫人絵図(1950.10.21滝村プロ=新東宝 監督・溝口健二)
女性対男性(1950 監督・佐分利信)
暁の脱走(1950.01.08新東宝 監督・谷口千吉)
窓から飛び出せ(1950.3.26新東宝 監督・島耕二)
細雪(1950.05.17新東宝 監督・阿部豊)
熱砂の白蘭(1951.03.24第一協団)  
その人の名は云えない(1951.05.11藤本プロ=東宝)  
お遊さま(1951.06.22大映京都)  
白痴(1951.05.23松竹大船 監督・黒澤明)
月よりの母(1951.08.24新東宝)  
武蔵野夫人(1951.09.14東宝)  
死の断崖(1951.09.28東宝)  
めし(1951.11.23東宝 監督・成瀬巳喜男)
長崎の歌は忘れじ(1952.03.27大映東京)  
滝の白糸(1952.06.12大映東京)  
風雪二十年(1951監督・佐分利信)
馬喰一代(1951監督・木村恵吾)
生きる(1952.10.09東宝 監督・黒澤明)
慟哭(1952監督・佐分利信)
人生劇場 第一部・青春愛欲篇(1952.11.06東映東京 監督・佐分利信)
人生劇場 第二部・残侠風雲篇(1953.02.19東映東京 監督・佐分利信)
三太頑れっ!(1953.02.12伊勢プロ)  
広場の孤独(1953.09.15俳優座 監督・佐分利信)
雨月物語(1953.03.26大映京都 監督・溝口健二)
山椒大夫(1954.03.31大映京都 監督・溝口健二)
七人の侍(1954.04.26東宝 監督・黒澤明)
君死に給うことなかれ(1954.08.31東宝)  
千姫(1954.10.20大映京都)  
近松物語(1954.11.23大映京都 監督・溝口健二)
叛乱(1954監督・佐分利信)
楊貴妃(1955.05.03大映東京=ショウ・ブラザース 監督・溝口健二)
密輸船(1954.11.30東宝)  
新・平家物語(1955.09.21大映京都 監督・溝口健二)
あすなろ物語(1955.10.05東宝 監督・堀川弘通)
生きものの記録(1955.11.22東宝 監督・黒澤明)
大地の侍(1956.01.29東映東京)  
幸福はあの星の下に(1956.02.05東宝)  
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by sentence2307 | 2014-11-22 11:27 | 映画 | Comments(0)

萬世流芳

雑誌「刑政」11月号の社会時評欄に、産経新聞論説委員・別府郁郎氏の書いた「李香蘭こと、山口淑子」というコラムが掲載されていました。

「1930年代、上海は東洋で一番ジャズが盛んな町だった。」という書き出しで始まるこのコラムは、筆者が日本に伝わったジャズの源流を求めて上海を訪れるという内容で、文化大革命で迫害を受けた中国ジャズの苦難の歴史を、ひとりの中国人ベーシスト(鄭徳仁)が語った思い出話を署名入りで新聞に掲載したところ、その記事を読んだ山口淑子から「懐かしさのあまり思わず電話してしまった」というエピソードを紹介したものでした。

先日94歳で亡くなった「李香蘭こと、山口淑子」の死を悼むコラムです。

実は、山口淑子が「懐かしさのあまり電話」せずにおられなかったのは、そのコラムのなかで、彼女の出演作、満映作品「萬世流芳」について、別府氏がこんなふうに書いていたからでしょうか。

《「萬世流芳」は、昭和18年日本の国策会社「中華電影」が中心となって作られたアヘン戦争時の救国の英雄を描いた映画で、「売糖歌」はその劇中歌。
李香蘭はアヘンに悩む青年志士を慕うアヘン窟のアメ売り娘を演じた。
日本側の思惑は、「反英映画」だったのだが、「売糖歌」は「救国=抗日の歌」として浸透し、李香蘭は民族のアイドルとなった。》

行間に滲む「李香蘭は、決して「漢奸」などではなかった」という文意が、おそらく高齢の山口淑子を動かし、彼女の手を思わず受話器へと導いたのかもしれません。

「萬世流芳」とは万年の後までも芳しい名を残すという意味で、アヘン戦争における中国の英雄・林則徐の活躍を史実と虚構を交えながら描いた伝記映画の大作で、上海の中華聯合製片公司の撮影所で製作され1944年に日本でも公開されました。

満映のスター李香蘭(山口淑子)と中国のスター陳雲裳、高占非、袁美雲が共演しています。

1842年に締結された不平等条約である南京条約の100周年を記念した作品で、前半、林則徐の若き日のロマンスを扱った部分と、後半の阿片戦争を描く部分とでなっており、英雄・林則徐を描いているほか、史実にない林則徐のむかしの恋人・張静嫻の自己犠牲や、李香蘭演じる菓子売り娘を絡めたエピソードなどにも力点が置かれている。

菓子売り娘・鳳姑が阿片の害を説きながら、それを治療する飴をすすめる歌を阿片窟で歌う長いシークスエンスでは、阿片窟の大きなセットの群集の中を縦横に歩き回りながら李香蘭が絶唱し、その美声と美貌によってこの歌が中国の民衆にひろまり愛唱された。

当時、中華聯合製片公司の副社長・川喜多長政は、中国映画人の中から「漢奸」として処罰される人間を出さないことに最も心を砕いたので、彼は、自分が副社長の位置についただけで、他には一人の日本人もこの製作会社に入れずに、製作について一切口を出さない方針だったといわれており、映画「萬世流芳」は、日本側が製作に参加した数少ない例外の1本(ほかに「狼火は上海に揚がる」がある)でした。

佐藤忠男は、その理由を「この時期になると、川喜多長政が日本のイデオロギーを中国人に強要するような人間ではないことが中国の映画人たちにも理解されて、これらの「例外」が可能になった」と書いて、そのストーリーをこんなふうに紹介しています。

《林則徐(高占非)は福建巡撫の邸に寄宿して学業に励んでいる。
しかし、あるとき疑い深い邸の主人と口論になり、邸を去る。
その家の娘張静嫻(陳雲裳)は、この口論を聞いて父を非難し、林を慕う。
林則徐は、県令の邸に招かれて学問を続け、進士の試験に合格して役人になる。
同時に県令の願いを拒みきれず、その娘鄭玉屏(袁美雲)と結婚する。
静嫻は兄が阿片窟に出入りするようになったのを憂えて、阿片の害から患者を救う戒煙丸という丸薬を発明する。
林の妻玉屏の母親もこの薬で救われたことから、林は玉屏を静嫻のもとに送って礼を述べさせる。
以後、玉屏と静嫻は互いに林則徐の良き協力者として阿片追放のために活動することを誓う。
この福州の近くにイギリス人の経営する阿片窟があり、そこに林則徐のかつての学友潘達年(王引、戦後作品・千葉泰樹の「ホノルル・東京・香港」に出演していた)が出入りしている。
彼を慕っている菓子売り娘の鳳姑(李香蘭)は、父が阿片に倒れたことから、阿片の害が身にしみ、阿片の害について歌を歌って人々を戒めている。
そのために阿片窟の経営者から迫害されるが、潘達年が彼女を庇う。
二人は山の中の家に逃れ、彼女は阿片中毒の彼を介抱する。
そして戒煙丸の効き目で潘達年は元気になり、2人は愛し合う。
阿片の害が広まり、林則徐はそれを取り締まるために広州に赴任する。
静嫻も兄の行方を追って広州に来ているし、潘達年と鳳姑もそこで暮らしている。
林則徐は、密輸の阿片を応酬して群衆の前で焼く。
イギリス側は強硬な態度に出て、ここにアヘン戦争が始まる。
中国軍は破れ、朝廷は林則徐を斥ける。
イギリス軍が勝ちに奢って横暴の限りを尽くすのに対して、民衆が放棄して反撃する。
その指導者は男装した静嫻であり、潘達年もその戦いに参加してともに死ぬ。
南京条約が結ばれたあとで林則徐は元の地位につくが、その赴任の途中、静嫻の墓に詣でる。
まもなく彼は病の床に就き、妻の玉屏に看取られながら、イギリスの力がアジアから駆逐される日の来ることを予言して死んでいく。》

(1942中華聯合製片公司・中華電影・満映)監督・ト萬蒼、朱石麟、馬徐維邦、張善琨、楊小仲、原作・周胎白、脚本・朱石麟、撮影・周達明、余省三、音楽・林乗憲、
出演・高占非、李香蘭、陳雲裳、袁美雲、王引、
(151分、35mm、白黒)

じつは、別府氏のコラムで、もうひとつ切り抜いておいた記事かあります。

内紛状態にあるウクライナから送られてくる外電写真に、機関小銃などで完全武装した新ロシア派の暴徒たちが、大変な数の棍棒を手にしている姿が写っていて、とても違和感を覚えたと書いています。

なぜ違和感を覚えたかというと、それがまるで野球のバットのように見えたからで、写真に添えられた英文の説明には、「スティック」とか「ロッド」とあるものの、グリップエンドがある先太りの形状をみれば、それは紛れもない野球のバットに間違いない。

そして、別府氏は、こう続けます。

「米国生まれのベースボールを旧ソ連に伝えたのは、主に日本だった」と。

ときは、ロサンゼルス五輪の2年前、モスクワ五輪を西側諸国がボイコットした報復にソ連のロサンゼルス五輪の不参加が伝えられるなか、大館勲夫元東海大教授が、ソ連の中枢に柔道と野球を通じ独自のパイプを持っていた松前重義元代議士(モスクワ大学に野球場を建てた)の特使としてモスクワを訪れ「ロサンゼルス五輪参加」と「野球を五輪正式競技とする支援」の約束を取り付けたことに、旧ソ連に野球の普及を働きかけ、バットを伝えたと記しています。

しかし、暴徒が手にしているのは、形は確かにバットらしきものには見えるが、「グリップは太めでヘッドは細め。全体に短い。独特の形状は短距離打者用にもホームラン打者用にも見えない。暴徒は皆、これを片手で振り回している。」

明らかに人間を殴り殺しやすいように改良されたこの凶器のバットが売られているのは、スポーツ洋品店などではなく、ガソリンスタンドやカー用品売り場であって、最初から武器として流通しているらしいのです。

別府氏は、最後にこう書いています。

「一度も投手の球を打つことなく、人を殴るためだけに存在しているなら、これほど不幸なスポーツ用具もないだろう」と。
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by sentence2307 | 2014-11-09 19:56 | 映画 | Comments(0)

荷車の歌

せっかく録画しておきながら、なんだか見るのが億劫で延び延びになってしまい、そのうち、録画しておいたことさえ忘れてしまったような作品が、なんだかどんどん溜まってしまう感じで、そういうなかの一作に山本薩夫監督の「荷車の歌」1959があります。

じつは、この作品、子どもの頃に親に連れられて見ています。

きっと当時は、この作品を見ること自体がブームになっていて、これを見なければ時代に乗り遅れるみたいな強迫観念に捉われるくらいの話題作だったらしいのです(これって、三國連太郎が「老人」に扮するために歯を全部抜いたというあの伝説の映画ですよね)。

おそらく誰も彼もが、そのスキャンダラスな話題の勢いに押されて、詳しい内容など分からないまま(そんなことなどお構いなしだったでしょう)映画館に駆けつけたのにつられて、きっと自分の親も見に行ったのだと思います。

その証拠に、このひたすら陰々滅々な映画を、大胆にも「子連れ」で見に行くという、情操教育上「これってどうなの」的な、いわば暴挙なわけなのですから、その薄らぼんやりさ加減を除外すれば、まあ、ある意味、快挙といってもいいかもしれません、その目論見は見事、的中したといえます。

この映画は、自分の子供心に強烈な傷を残しました、それは現在に至るまでトラウマとなって自分のなかに居座り、いまでもタイトルを見ただけでゾーっとし、繰り返し「いや~な」気持ちにさせられています。

なにがそれ程いやだったかというと、どう見ても滅茶苦茶ジジイの亭主(三國連太郎が扮しています)が、滅茶苦茶年寄りのバアサン(浦辺粂子が演じています)を妾として(そこに正妻が住んでいるのに、ですよ)家に引き入れて同居を始めるという部分です。

いくら子どもとはいえ、「夫婦」というものが、どういうことをするのかくらいのことは、なんとなく知っていました。

しかし、そういう桃色行為は、あくまでも若々しくて、見目麗しい青年男女が、羞恥心のなかで裸体を朱に染めて感動的に「いたす」からこそ、まだ納得できる部分があるのであって、これがあの爺さんと婆さんとが絡み合い、どす黒いシワシワの体を重ねてゴシゴシ揉み合い互いの欲情をぶつけ合うのかと思うと、人間の欲情の浅ましさというか、ゲダモノとなんら変わらない人間のおぞましい醜さをトコトン思い知らされたような、たまらない嫌悪感に見舞われて、辟易したのだと思います。

人間の浅ましさを、人生の最初に思い知らされたそういう子どもが、その後、嫌悪感を抱えながら、大人へと辿る人生の、とても困難な青少年期を過ごさなければならなかったことは、これもひとえに映画「荷車の歌」のオカゲなのだと、いまでもカタク信じて、お恨み申し上げております。

しかし、その嫌悪感しか持てなかったような映画を、なぜいまさら思い出したのかというところから説明しなければなりません。

自分は、気になった新聞や雑誌の記事があると、切り抜いてスクラップしておく習慣があるのですが、しかし、スクラップしたからといって、あとでどうこうするわけでもなく、いままでは読み返すということもありませんでした。

それに根が気分屋なので、思い立って何日も続けて切り抜きを励行することもあれば、数ヵ月も切抜帳をほったらかしにすることも多々あり、あるいは、こういういい加減なマダラ気分が、かえってスクラップの習慣を長続きさせているのかもしれません。

最近、久しぶりに、その切抜帳を手にしました。

たぶん、そのときは、たまたま暇を持て余していて、ほかにすることもなく、切抜帳がたまたま手近にあったからにすぎませんが、その切り抜いた記事のなかに「荷車の歌」という文字がチラリと見えてゾーっとし、つい読む気になったのでした。

その記事は、どうも占領下の時代から少したった頃の日本の映画状況が書かれているみたいなのです。

それは、こんな感じでした。

《(占領下の解放的な気分がある一方)同時にまた極端に感傷的な時代でもあった。
戦争の敗北を噛み締め、悲嘆に暮れ、反省にふける時代でもあったから、それは当然である。
多くの感傷的なメロドラマが作られ、歓迎されたが、特にこの時代の感傷を代表するヒット・シリーズとしては、1940年代の終り頃から50年代の終りにかけて主として大映で約30本製作された三益愛子主演のいわゆる「母もの」があげられるだろう。
「母」1948、「母三人」1949、「母紅梅」1949といった一連の母性愛メロドラマである。
あるいは1950年代から60年代にかけての、望月優子主演のリアリズム版の母ものとでも言うべき「日本の悲劇」1953、「おふくろ」1955、「荷車の歌」1959といった作品も挙げることができる。》

ほら、ありました、ありました、「荷車の歌」。

このタイトルがさっき目に飛び込んできた例のやつですよね。

だいたい、このスクラップ、貼ったあとでなにか引用したり利用したりするなど目的など毛頭考えないで始めた大雑把な作業ですから、「どこから切り抜いたもの」とか「誰の書いたもの」など、まったくメモっていない杜撰な作業でホント恐縮もので、まったく分からないながら、ここまで読んできて、この文章の執筆者は、どうも佐藤忠男のような気がしてきました。

まあ、誰がなんと言おうと、自分にとって影響大の映画批評家なので、だからスクラップまでしたんでしょうね。

ではまた、すこし続けることにしますね。

《三益愛子も望月優子も、中高年の母親の惨めさを演じることで人気のあった女優である。
失礼だが、2人ともいわゆる美人タイプの女優ではない。
愛嬌も乏しい。
むしろ、みるからに苦労を重ねてきたという印象が強く、その結果としての恨めしげな悲哀の表情が彼女たちの魅力だった。
その恨めしげな悲哀は、母親として子どもを育てるためにその人生のすべてを犠牲にしてきたということを表しており、それでもし、子どもたちがこの親の苦労を忘れて勝手なことをしたら、親は恨めしさのあまり死んでも死に切れないであろうという気分を示している。
じしつ母ものは、そういう気分をメロドラマ的に拡大して見せるものであった。
この気分が、単に同じような思いを持っている日本の庶民の母親たちの共感を呼んだだけでなく、そういう母親を持つ若者たちをも盛大に泣かせたのである。》

なるほど、なるほど。それで、どういう・・・?

《一説によれば、日本人の親孝行感覚を支えているのは、学校でそれを徳目として教えていたからというよりも、むしろ一般に日本の母親が愚痴っぽいことにあると言う。
日本の母親は、子どものために自分がどれだけ苦労してきたかということをよく子どもに言う。
それを聞かされて育った子どもは、母親に対して罪の意識を持つようになり、母親を悲しませるということをなによりも怖れるようになる。・・・
三益愛子や望月優子が演じたのは、そういう、苦労して恨めしげな口ぶりが身についた母親である。
この時代には(あるいは、この時代までは)子どもたちもまた積極的に感傷に身をゆだねる気風を持っていた。
気の毒な人間の身になって共に泣くことに喜びを感じることができたのである。》

ここまで読んできて、自分のトラウマもだいぶ和らいできたような気がします。

「母親に対する罪の意識」ですか、なるほどね。

しかし、自分の事ばかり考えた果てに被害妄想を抱くようなそういう母親から始終自分は不幸だと愚痴ばかり吹き込まれ続けて、ついには「罪の意識」まで持たされてしまう子ども(自分です)の方が、よっぽど深刻で可哀そうな気がしますけどもねえ。

ナンダロ、この映画。

(1959新東宝) 監督・山本薩夫、脚色・依田義賢、原作・山代巴、製作・中山亘、立野三郎、企画:全国農協婦人組織協議会、撮影・前田実、美術・久保一雄、音楽・林光、録音・空閑昌敏、照明・内藤伊三郎、編集・河野秋和、
出演・望月優子(セキ)、三國連太郎(セキの夫・茂市)、岸輝子(セキの姑)、左幸子(セキの娘・オト代)、西村晃(初造)、稲葉義男(藤太郎)、水戸光子(ナツノ)、佐野浅夫(三造)、奈良岡朋子(コムラ)、利根はる恵(リヨ)、浦辺粂子(茂市の妾・ヒナ)左時枝(オト代の少女時代、当時の芸名は左民子)、矢野宣(セキの末っ子・三郎)、塚本信夫(セキの長男・虎男)大町文夫(セキの父)、小沢栄太郎(ナナシキの旦那)、利根はる恵(リヨ)、辻伊万里(コユキ)、戸田春子(西屋の女房)、小笠原慶子(セキの次女トメ子)、赤沢亜沙子(鈴枝)、奈良岡朋子(コムラ)、島田屯、五月藤江、加藤鞆子(スエ子) 、安芸秀子(セキの母)、
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by sentence2307 | 2014-11-09 18:00 | 映画 | Comments(0)