世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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永遠の処女

滅多にない長い休暇となる年末を読書三昧で過ごそうかと急に思い立ち、適当な本を借りに、先日、図書館に出かけました。

そういえば、今日は今年最後の図書館開館日だったっけ、しかも行った時間が閉館間際の夕方だっただけに、駆け込みで本を借りようとして何冊もの本を重そうに抱えた多くのお客さんたちで貸し出し窓口はごったがえしていて、もはや長蛇の列でした。

もの凄い混雑を横目にしながら、もう面白い本などとっくに借り出されてしまっているに違いないという諦めの気持ちで、館内の雑踏とはウラハラの隙間だらけの寒々しい書棚を見て回りました。

当然、新刊書など残されているわけもありませんが、そんな気持ちで「映画」の棚ものぞいてみて回っていたとき、ある本の背表紙のタイトルが、さっと目に飛び込んできました、「原節子のすべて」とあります。

それってまさか、今年、新潮社から刊行されたばかりのアレじゃないよな、と思いながらさっそく手に取ったところ、まさにその本でした。

借り手ばかりがいやに多すぎるという需要過多のこの状況下で、まだ新刊本が残っていること自体、ホント奇跡とはこのことです。

こんなことって、まずありません。

なんか、ラッキー!という気持ちで借り受けて、家に帰って早速読み始めた次第です。

この本には、本来、原節子の幻の出演作(かどうかは疑問です)「七色の花」という作品のDVDが付録として付いているとのことですが、著作権者からの貸出許諾が得られなかったとかで「貸し出しができません」というシールが貼られています。

むこうさんが、ヤレ著作権がどうしたと騒ぎ立てるなら、それはそれで仕方なく、こちらとしては、ご当人の印税受領の当然の権利を侵害するわけにもいかず、そりゃ諦める立場でしかないわけですが、無資力な庶民にとっては、マコトに恨めしい限りで本当に残念です。

それにしても、自分は、この図書館で、新刊本「原節子のすべて」の借り手がいなかったことを、思わず奇跡的なラッキーと狂喜してしまったのですが、しかしマテヨと。

これって本当にそういうことだったのか、と少しあとになって改めて不安な気持ちに捉われました。

もしかすると「いまどきの人たち」などは、原節子になんか興味を持たず(ヘタすると、若い人たちのなかには、「原節子なんか知らないよ」なんて言い出す連中だっていないとも限りません)、この本が借りられなかったのは、実は「奇跡」などではなくて、最初から借り手なんかいなかったという方が真実だったのではないか、とちょっと疑心暗鬼に捉われたりもしたのですが、いやいや、そんなことはない、現にこうしてメジャーな出版社から単行本として堂々と刊行されているわけじゃないですか、このこと自体、彼女の人気が「一過性」のものなんかではなく「永遠性」を獲得しはじめていることの証拠に違いないく・・・いやいや、そうであらねばならないハズだと自分に言い聞かせた次第です。

それに「著作権」とかの観点からいえば、やっぱ内容を第三者にコト細かに伝えたりしてもいけないことなのでしょうが、しかし、「目次」くらいの紹介なら、かえってこの本の宣伝にも販売促進にもなることでもあるし、べつに咎めだてされるようなこともないだろうと考え、主だった項目だけを筆記してみることにしました。

最初のコラムは、白井佳夫の「なぜ原節子だけが永遠なのか」です。

キネマ旬報の元編集長で、むかしこの人の解説付きで貴重な邦画をテレビで何本も放映していたのを、よく見ていました。

今井正の「にごりえ」とか「どっこい生きてる」など、この番組枠で始めて見ることができて、そうとうに衝撃を受けた記憶があります。

次の論評は、石井妙子という人の「評伝 原節子」です、サブタイトルは「『永遠の処女』の悲しき真実」とあります。

なるほど、なるほど、でも白井氏もそうですが、誰もがこう「永遠、永遠」って幾度も持ち上げて、「永遠の処女」とかをこんなふうに大安売りされると、「永遠の処女」もなんだか少しダレてきて、薄汚れはじめ、ヘタするとどんどんグロテスクなものに変質しかねない嫌な感じを覚えます。

そうか、そのこと(標語化されることで、手垢にまみれて本来の清冽さが失せて、イメージがどんどん薄汚れてしまうという感覚)をいちばん意識したのは、もしかしたら、当時の原節子自身ではなかっただろうかという直感が、そのとき、ふと自分の脳裏を過ぎりました。

原節子をミステリアスな存在にしている「永遠の処女」というイメージを形作っているものは、たぶん「一生結婚しない」とか「決然とした引退」とか「二度と人前には姿を見せない」という、あの楚々とした面差しからは到底推し量りがたい決然としたもの、それらの衝撃的な幾つかの事実が積み重ねられて形作られているものだと考えられます。

そして、そのどれにも彼女の強い意思が秘められていて、女優として、あるいは人間としての人生のターニングポイントにおける彼女の選択のどれもが、あまりに純粋すぎて、庶民の通念からはちょっと推し量ることのできない常識を超えた、「虚を突く」ような決然とした判断があってのことと気づかされます。

彼女の標語の「気高い貞操観念」とか「純潔」とか「強固な道義心」など、それら彼女の揺るぎない意思が、庶民に衝撃的な感銘を与えたことは、たぶんそれはその通りだったでしょうが、同時にそれは庶民が「敬遠」せざるを得ないものでもあったことが、借り手がつかないまま図書館の書棚にいつまでも取り残されていたあの現象に繋がるのかもしれないなと思い至りました。

確固とした貞操観念や純潔や強固な道義心などは、それは確かに「感銘」を与えはするでしょうが、庶民には、それはあくまでも映画館の中だけで感銘するくらいでいい「理想」に過ぎず、その日暮しで世過ぎ身過ぎをしなければならない泥にまみれた庶民にとっては、到底無縁の、かえって疎ましいものでしかないこと(庶民にとっては、「高潔さ」など、あくまでも「商標」としてだけ理解すればいい馬の糞か駱駝のゲップほどの価値しかないもの)、それこそが「原節子」と「観客」を隔てる正しい距離だったはずです。

そして、そのことをいち早く、そして最も正しく認識したのは、原節子本人だったのではないか(当然それは、自身の受けるべき真正な「屈辱感」としてだったはずです)と考えました。

つまり、メディアが飾り立てた商標的な虚飾の部分を洗い流していけば「純潔」や「貞操」や「隠棲」の真正な姿が(いかがわしい部分も)現れるのではないか、少しは原節子の実像(庶民の実像とともにです)に近づけるのではないかと考えたのですが、しかし、単にこれらの関係性だけに拘っていたら、なにも見えてこないことは、統一性を欠いたこのヨイショ本「原節子のすべて」の雑多な内容(そのどれもが随筆「馬の糞」か論考「駱駝のゲップ」です)を誠実に隅々まで精読しても、なにひとつ得るものがなかったことからも明らかです。

それは、単にいままでの「原節子像」の認識の失敗を繰り返すだけの、前車の轍を踏む愚行を繰り返すだけのことでしかないような気がします。

「原節子のすべて」の中ほどに「1937年 原節子の世界一周」という二色刷りのページがあります。

ドイツとの合作映画「新しき土」のドイツでの公開に合わせて、出演した原節子が招聘されたもので、ほかに川喜多長政・かしこ夫妻と義兄の熊谷久虎監督が同行したとあります。

東京駅(1937.3.10)を出発して中国・大連(1937.3.14)からシベリア鉄道経由でベルリン(1937.3.26)に入り、パリ(1937.5.21)からニューヨーク(1937.6.21)、ニューオリンズをまわってサンフランシスコ(1937.7.12)、太平洋を渡って日本(1937.7末)へ帰るという、4ヶ月余にわたるまさに世界一周の旅をした行程が7頁にわたり詳細に書かれていて、各地で撮られて当時の写真も何枚か掲載され、川喜多夫人とのツーショット写真では、旅の疲れも見せずに笑顔さえ見せている朗らかな若き原節子の姿が写されています。

それだけに、熊谷久虎と隣り合わせで撮られたほかの2枚の写真の原節子のいやに緊張した表情が、異様に見えてしまいました。

そもそもドイツに招聘さるというのなら、原節子はともかく、同行者に熊谷久虎というのは、ちょっと意外な感じがします。

映画の関係者という線なら、まずは監督の伊丹万作が同行するというのが自然でしょうし、伊丹監督が病弱で無理というなら、主演の小杉勇が同行するというのが道理にかなったことのような気がします。

「義兄が一緒でなければ、自分は行かない」と原節子が駄々をこねたのか、熊谷が「俺を同行させなければ、義妹は行かせない」と凄んだのか、しかし、そのどちらにしても、限られた「同行者枠・一名」という貴重な席を「義兄」が捻じ伏せるように座を占める強引さは、とても不自然です。

義兄をカギ括弧でも括らなければ、この「影響大」の不自然さの納まりがつきません。

もし、そこに信頼関係以外になんらかのことがあったとすれば、この「同行者枠・一名」の強引な印象への疑惑から発した《「純潔」や「貞操」や「隠棲」の真正な姿が(いかがわしい部分も含めて)現れるのではないか》という投げ掛けの、一応の答えの体裁としては整ったかなと考えました。

石井妙子「評伝 原節子-『永遠の処女』の悲しき真実」には、東宝プロデューサー・藤本真澄が原節子との関係についての語った述懐が、孫引き引用されています。

《原節子に、実は惚れてたんだよ、昔だけどもね。
できたら結婚したいなんて若気の至りで思ったんだが、そのとき、ほら、熊谷久虎。知ってるだろう、姉さんの旦那さ。
あの右翼野郎と出来てるってきいてね、それで、あきらめたのさ》40頁下段、(原出「シナリオ別冊 脚本家 白坂依志夫の世界」平成20.6)

《小津は死に、熊谷は映画を撮ろうとはしなくなり、そして節子は女優をやめた。
数々の小津映画に出演し、それがゆえに女優としての評価を高めた節子である。
にも拘わらず、彼女は昭和27年の時点で、自分の出演作で気に入っているものを聞かれて、「晩春」も「麦秋」も挙げてはいない。
そのうえでこのように述べているのである。
「いまやってみたいと思っている役に細川ガラシャ夫人があります。実現できれば義兄の熊谷(久虎のこと)に演出してもらいたいんです。私の見た日本映画でほんとに心に迫るものを感じたのは、義兄の監督した『阿部一族』でした。義兄のことを褒めて気が引けるんですが、私は熊谷の演出を高く買っています。」
小津よりも熊谷を高く評価していたと受け取れる発言である。
それほどまでに熊谷への崇敬の念は強かったのか。
熊谷の才能を認めようとせず、『細川ガラシャ伝』の企画を潰した日本の映画界に彼女は背を向けたのかもしれない。》39頁中段(「近代映画」昭和27.1)

wikiでの熊谷久虎の紹介は、こんなふうに始まっています。
「戦時中多くの映画監督たちが国策映画や戦意昂揚映画を撮ったことはよく知られているが、そのなかでも熊谷久虎の存在は特異である。」


【熊谷久虎】1904.3.8~1986.5.22
1904年大分県中津市に生まれた。隣家は福沢諭吉の生家だった。中津中学校を経て
22年大分高等商業を卒業。
25年、父親の従兄弟で日活の重役・池永浩久のツテで大将軍撮影所に入社した。当時、池永は撮影所長を兼ねていて、豪放な性格から「聯隊長」の異名をとっていて、その人情味あふれる人柄で厚い人望を集めていた。熊谷は田坂具隆の組についた。
30年に監督昇進。第一作「恋愛競技場」。監督五年ほどは青春謳歌の明るい作品が多いが、師匠の田坂のスタイルを表面的になぞったものだった。
35年日活多摩川撮影所に移る。
36年の「情熱の詩人啄木」で一躍日本映画界期待の新人監督として認められる。渋民村時代の石川啄木を主人公に代用教員の啄木が自由で進歩的な教育を志し、ついには頑迷な校長や村人の反感を買い村を追われるという内容。熊谷は、主人公を愛情込めて描くとともに、彼の生活との結びつきに力を注ぎ、そこから溢れ出る哀傷と激情は、観客の心を深く捉えた。
37年の「蒼氓」での成功は、早くも彼を一流監督の地位に昇りつめさせた。原作は、石川達三の第1回芥川賞受賞作品で、ブラジルへ移民する農民たちが神戸の移民収容所で乗船する一週間前の集団生活の日々を描いた群像劇で当時の日本の暗い社会事情を反映した骨太な作品である。映画にするにはあまりにも重苦しい作品と危ぶまれたが、敢えてこれに取り組んだ熊谷にはひとつの決意があって、それはともすれば安易な境地になずもうとする自分への叱咤でもあり、また彼の入社当時に発表された村田実の「灰燼」、内田吐夢の「生ける人形」、溝口健二の「唐人お吉」などに対する奮起でもあった。「蒼氓」は、ブラジル渡航直前の移民の群像を神戸の収容所に捉えたものだが、熊谷はそこに当時の日本をおおう暗い社会事情を暗示的に語り、いわゆる小市民映画とは一線を画する熊谷の重厚な作風であり、社会的感覚を持った当時一級の知性映画として当時の現代劇の主流ではなかったために貴重な存在だった。この「蒼氓」を最後に彼は、古巣の日活を去り東宝に移った。
東宝に移籍した熊谷は38年森鴎外原作の『阿部一族』を発表した。
森鴎外の原作は封建制度化の殉死を冷たく見据えたものだが、映画は領主の病死をめぐって起こる藩臣間の腹の探りあいと思惑や、その中心に置かれた一族の抵抗を通じて武士階級への批判を示し、前進座俳優の好演も得て、見事なドラマとなった。熊谷は、封建制度下の殉死というテーマで彼の抵抗精神をモチーフにした重厚な作風は一流監督の地位を得、頂点を極めたかにみえたが、しかし戦時体制下の思想統制は、彼の作家的資質の方向性を大きく変え、直後に撮った『上海陸戦隊』(39年)や『指導物語』(41年)は極端に形骸化された国策映画であり、それまでの作品に見られた批判性や抵抗精神などは姿を消し、その変貌ぶりに周囲の関係者は戸惑いを隠せず、次第に名声と信頼を失い始める。「阿部一族」に続く「上海陸戦隊」39、「指導物語」41は、ともに戦時国策型の映画で、構えの大きさに似ず内容的には「啄木」以後の作品に見られた批判性も抵抗性も持たない作家不在の迎合型映画であった。この変質については幾つかの憶測がつく。
所属会社東宝の保身第一の安全主義、さらにその背後にあって強圧を加えた軍部の要請など。だが、たとえそれが要因であったとしても、この変質、作家的変貌は、人々を落胆させるに十分であり、かつての反世俗的な抵抗精神は姿を消して、熊谷に残ったものは、事大主義の形骸だけであった。
その後、熊谷は映画を離れて、国粋主義思想研究団体「すめら塾」を結成し、リーダーとして政治活動に没頭していった。太平洋戦争中は海軍報道班員としてジャワ島に渡ったりした。当時の国家の指導のもと多くの映画人が戦意昂揚・国策映画を製作し戦争協力を果たしたことは周知の事実だが、熊谷の場合その大真面目な極右的国粋主義思想への傾倒ぶりが人々の(特に映画評論家の)困惑をいっそう大きくした。後年研究者たちはその変貌の要因を「ドイツに渡りヒットラーにあってファシズムにかぶれた」ことや、「所属会社の東宝の保身第一の安全主義」や「強圧を加えた軍部の要請」といったことに見出したりしたが、いずれにせよ熊谷の評価はこの時期に大きく変化し、以後覆ることはなく、終戦後8年の間、監督に復帰することはなかった。
49年、義理の妹にあたる原節子も参加した芸研プロを創立し、プロデューサーとしての活動を始める。そして53年には東宝に復帰して映画監督を再開した。58年にかけての5年間に5本の作品を発表するが、57年の『智恵子抄』が評価を受けた程度であったが、それも高村光太郎の原作に負うところが少なくなく、戦後の熊谷の映画活動は、戦争中の彼の政治活動に対する贖罪とはならなかった。しかしさわやかな好篇として人気を博した1954年の『ノンちゃん雲に乗る』と『柿の木のある家』は、熊谷が第二次芸研プロでプロデュースした作品であることを記憶にとどめたい。

人間 前後篇(1925.12.01日活大将軍)助監督
結婚二重奏 前後篇(1928.01.21日活大将軍)助監督
恋愛競技場(1931.03.06日活太秦)
玉を磨く(1931.06.23日活太秦)
本塁打(1931.09.10日活太秦)
動員令(1931.10.08日活太秦)
北満の偵察(1931.12.18日活太秦)
さらば東京(1932.05.20日活太秦)
喜卦谷君に訊け(1932.08.25日活太秦)
彼女の道(1933.02.08日活太秦)
青春の唄(1933.09.30日活太秦)
炬火 田園篇(1933.11.30日活太秦)
群盲有罪(1933日活太秦)
炬火 都会篇(1934.02.01日活太秦)
三家庭(1934.06.28日活多摩川)
巌頭の処女(1934.11.08日活多摩川)
わたしがお嫁に行ったなら(1935.01.05日活多摩川)
青春音頭(1935.04.03日活多摩川)
情熱の詩人琢木 ふるさと篇(1936.03.12日活多摩川)
気まぐれ夫婦(1936.12.17日活多摩川)
蒼氓(1937.02.18日活多摩川)
阿部一族(1938.03.01東宝映画東京=前進座)
上海陸戦隊(1939.05.20東宝映画東京)
指導物語(1941.10.04東宝映画東京)
白魚(1953.08.05東宝)
かくて自由の鐘はなる(1954.06.01東宝)
美しき母(1955.12.04東宝)
智恵子抄(1957.06.29東宝)
密告者は誰か(1958.11.18東宝)
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by sentence2307 | 2014-12-31 12:47 | 映画 | Comments(2)

47RONIN

この映画を見て、「なんだ、こりゃ」などと松田優作みたいなことを言う人に、ひとこと言っておかなければなりません。

べつに自分は、この映画の関係者でもないし、ましてや利害関係とかもないので、なにも弁護とか弁解などする立場ではないのですが、この映画が継子いじめみたいにこうまで非難されると(自分の周りでは、この作品に対する冷笑で満ちています)なんだか弁護したい心持になってしまいました。

まあ、この作品が相当に奇妙奇天烈な映画であることは間違いありませんが、しかし、「奇妙ながらも、これはこれで結構誠実に作っているし、まあ、いいんでないの」くらいのことは言ってあげてもいいのではないかと思っています。

まず、最初の取っ掛かりとしては、やっぱりあの奇妙なキモノ・コスチュームについてでしょうか。

日本人としてマジに見てしまうと、そりゃあ「ありゃなんだ」とひとこと言いたくなるくらいに相当に奇妙ですが、しかし、なにも「マジ」に拘ることもないし、あるいは、「ファンタジーだから」などと逃げたりもせずに、ここは真正面から、素直に「ニッポン・分からない・サイン」の象徴として丸ごと受け入れてしまえば、結構、作り手の意向に沿うこともでき(だいたい、この映画、その辺のところを十分に意識して作っているわけですから)、そうすれば、だんだんに見えてくるものあるのではないかと悟りました。

むしろ「分からない」と開き直り、わざわざそれを表明するような映画を作るその大胆な商魂をこそ評価したいと思ったくらいです。

その「分からない」という表明は、不可解であると宣言しながら、違った切り口でジャポニズムにアプローチをはかった好奇心や興味津々の方法というか、モチベーションだけは保っている純真な意欲みたいなものは認められるのではないかと思いました。

むしろ、この「分からない」映画を誠実に成り立たせている「もの」の方が、なんだか重要な気がしてきました。

「分からない」ながらも、そのまま映画を成立させている強引な活力に、やっぱ、さすがハリウッドは違うなと驚嘆したり好感を持ったり、とにかくその中央突破の姿勢に感銘を受けた次第です。

しかし、感銘を受けたとはいうものの、それはあくまで「姿勢」についてであって、手放しで、この映画のストーリーの細部を許容しているわけではありません、というか、むしろ、外国の人たちに「忠臣蔵」をこんなふうにすんなり理解されてしまっていいのか、いいはずがないという懸念は確かにあります。

年末には必ず繰り返し作られ続けてきた日本人にとって定番の国民的物語「忠臣蔵」の精神性を除外して、(この映画のように)単に、主君の遺恨を晴らすための家臣たちの復讐物語だけのものとしてあら筋だけストレートに理解されてしまうとなると、やっぱりちょっと抵抗が残ります。

「忠臣蔵」の知識のまったくない外国の人たちが(現状、世界における「忠臣蔵」ストーリーの普及と理解の浸透からみれば、「それ」は考えにくいことかもしれませんが)、これだけで、これが丸ごと「ニッポンだ」みたいに納得され、「忠臣蔵」のスタンダードとして通用されてしまうことへの懸念があります。

ここはひとつ、この奇妙な「忠臣蔵」が、「スタンダード忠臣蔵」から、どの部分がどのくらい隔たっているかくらいの検証をしておくことは、映画収集狂たる者の務めかもしれないなと思い立ち、これを書き始めた次第です。

そういう意味で、最も気に掛かった場面として真っ先に思い当たる場面があります。

心ひそかに討入りを決意した内蔵助が、討入りの罪科が妻・りくにまで及ぶのを懸念して、心ならずも妻に離縁状を出す場面です。

この場面を、「47RONIN」では、内蔵助は、自分がいかに妻を愛し、彼女の身を案じているからこそ離縁するのだと、妻・りくに対して離別の理由を諄々と伝え、彼女も納得して離縁を承諾しています。

愛し合う夫婦の間に秘密や誤解などあってはならないという、いかにも公正な欧米の「愛こそすべて」なのですが、しかし、わが「忠臣蔵」においては、愛する妻に対してであろうと、また、亡き主君の未亡人(瑤泉院)に対してであろうと、内蔵助が自らの心のうちをすべて曝け出すことなど決してありませんし、その耐え忍ぶ精神性が、「忠臣蔵」を貫いている核心だといっても過言ではありません。

夫から離別を告げられた妻・りくは、瞬時のうち・暗黙のうちに夫・内蔵助の真情を察して、あえて理由を聞くこともなく離縁状を受け取っています。

妻・りくが、討ち入りという大望を果たそうとする夫のため・そのことを妻にも話せぬ苦衷を理解しているからこそ、武人の妻たる者のタシナミとして、身を犠牲にすることを十分すぎるほど心得ているからです。

夫に従い、つねに死を覚悟しているサムライの妻だからこそ、あえて「至らぬ妻」の不名誉を引き受け、薄く微笑みながら大きな仕事が控えている夫のために去っていくことなど、死を「覚悟」した武人の妻にとっては、なにほどのことでもなかったはずです。

そして、それもこれも、ただひたすら「討入り」を成功させるため、家族が引き受ける名誉な忍従のひとつであって、いわば、彼女が演じた「至らぬ妻」として夫の元を去ることも、女として「討入り」に参加する栄誉に等しい誇らしげなものだったに違いありません。

国民的ストーリーとして長い間、日本の国民に愛され続けた「忠臣蔵」の魅力の理由は、実はここにあります。

「討入り」を実現させるために、ご政道に楯突くひそかな企みが進められ、それが現れぬよう、それまでの間、忠臣ばかりでなく、その家族さえもあらゆる屈辱的な忍従に耐え続けるということ、そして、その意思の伝達が直接的な言葉の遣り取りなどではなく、目と目を見交わすことによる暗黙の意思疎通・以心伝心(こう言葉にすると、随分矛盾した意思疎通方法ですが)によるという、独特のエピソード・パターンが繰り返されるところにあることに気づかされます。

たとえ心底では(矛盾を感じながらも)犠牲を強いられる理不尽を充分に認識し了解できるのは、すべて「討入り」の企みを秘さねばならない大義があるからであって、そのうえで、真情とは異なる痛切な離別の場面が展開されるという一連のエピソードが「忠臣蔵」においては、とても重要な要素になっていて、例えばこの妻・りくとの無情な離縁の愁嘆場には、実は、同時進行的に演じられている、互いに眼差しを交差させ暗黙の了解の中で交わされる夫婦の濃密な「交情」の遣り取りでもあることを理解できないとなると、わが「忠臣蔵」の理解も覚束ないものがあると言わざるを得ません。

そうそう、その「互いに眼差しを交差させ暗黙の了解」(俗にいう「腹芸」とでもいうのでしょうか)の極めつけともいうべき場面を見たことがあります。

たしか市川右太衛門と片岡千恵蔵の顔合わせでしたから、東映の作品ですね。

大石内蔵助(市川右太衛門)一行が、「見回り奉行・立花左近」と名を偽って江戸に向かう東クダリの場面、宿泊している宿の前をたまたま本物の立花左近(片岡千恵蔵)が通りかかってこれを見咎め、奉行じきじきの吟味がはじまります。

ここでコトが発覚してしまえば、討入りの企みがすべて露見し、御用になるかもしれない大石一行にとっては、すこぶる危機的な場面です。

互いの家臣たちは次の間で、息を飲みながら、中の様子を窺っています。

成り行き次第では、いつでも抜刀して斬り込めるよう刀に手をかけて、斬り死に覚悟の緊張感に満ちた場面です。

しかし、中では「われこそが本物の立花左近なり」と互いに譲らぬ押し問答が延々と繰り返されているばかりなのですが、実は、その居丈高な詰問の応酬のなかで、千恵蔵の立花左近は、部屋に置かれている品々から次第に目の前に座っている人物が赤穂の浪士であり、大石内蔵助であることに気がつきます。

さらに示した通行手形は、実は討入りをする浪士の連判状なのを知ったそのとき、一瞬揺らぐ千恵蔵の強い尋問口調の微妙な変化で、主君を討たれ、公儀の理不尽な処置と御家再興も断たれた大石の苦衷と怒りとをすべて理解するという、「腹芸」の極致のような素晴らしい場面でした。

右太衛門の大石も言葉づかいは依然として居丈高ながら、「かたじけない」というウラ演技を見事に演じていました。

どうも記憶が定かでなく、うろ覚えなので、念のために「立花左近(片岡千恵蔵)、大石内蔵助(市川右太衛門)」の線を手掛かりにして、ネットで検索してみました。

検索の結果、該当する作品は、どうも、昭和31年1月15日封切りの東映作品、松田定次監督の「赤穂浪士」のようでした。

しかし、考えてみれば、大石内蔵助の妻・りく役は、ドラマの中での格というか位置づけはともかく、役者としての面白みには幾分欠けた役という印象が強く、終始一貫、激しい演技を禁じられたとても物足りない役のような気がします。

彼女は、いわば強いられた別離に対しても、べつに夫にすがりついて泣き叫ぶわけでもなく、自分の真情を吐露できる見せ場も用意されているわけでもありません。

むしろ逆に、気持ちの動揺を悟られまいとする自己抑制の強い冷ややかで冷静な、しいて言えば何を考えているのか分からない取り澄ました魅力のない女性とさえいえるかもしれません。

大役ではあるけれども、とりわけて演技の工夫が必要とされるような役というわけではありません。

盛りを過ぎた大物俳優が、敬意を表して与えられる名誉職みたいなものという感じでしょうか。

極端に言えば、いままで第一線で演技に拘ってきたベテラン俳優は、この役を与えられることによって大きなショッリを受け、「敬して遠ざけられた」と感じてしまうのではないかと思いました。

1962年11月3日封切りの東宝作品「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」において、りく役を演じた原節子は、この映画出演を最後にスクリーンから去り、その後彼女の端正な容姿をスクリーンのうえでは見られなくなります。

(2013アメリカ)監督・カール・リンシュ、製作・パメラ・アブディ、エリック・マクレオド、製作総指揮・スコット・ステューバー、クリス・フェントン、ウォルター・ハマダ、原案・クリス・モーガン、ウォルター・ハマダ、脚本・クリス・モーガン、ホセイン・アミニ、撮影・ジョン・マシソン、プロダクションデザイン・ヤン・ロールフス、衣装デザイン・ペニー・ローズ、編集・スチュアート・ベアード、音楽・イラン・エシュケリ
主演・キアヌ・リーヴス、真田広之、浅野忠信、菊池凛子、柴咲コウ、赤西仁、田中泯、ケイリー=ヒロユキ・タガワ
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by sentence2307 | 2014-12-14 12:10 | 映画 | Comments(0)
長いあいだ抱いてきた自分的な印象として、黒澤明が、自分の作品のためなら製作にまつわる関係者をボロ雑巾のように使い捨てるらしいという噂を聞いていて、それがもし本当なら、あの早坂文雄もまた、そのうちの一人だったのだろうかという単純な疑問から、前回のコラム「黒澤明は、早坂文雄を殺したか」を書いてみました。

いま、あらためて読み返してみると、なんだか最後などは強引な胴体着陸みたいな随分安直な結論だったかもしれないなと、思わず赤面してしまいます。

しかし、だからといって何の収穫もなかったというわけではありません。

結論的には、あらゆる映画人が、「映画への殉教者」だったに違いなく、結局、黒澤明も含めて「勝者」など、誰ひとりいなかったのだというそれなりの結論であったとしても、観念の果実のようなひとつの言葉が浮かびあがってきました。

「七人の侍」のラストで語られる有名なセリフ「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」というあの卓越したセリフとの近似性です。

前著「黒澤明と早坂文雄-風のように侍は」(筑摩書房)のなかで、西村雄一郎が、黒澤明本人に、この有名な台詞の意味を直接訊いたというクダリがあります(739頁)。

《黒澤本人に、聞いたことがある。
「七人の侍」のラストで、志村喬の勘兵衛が「勝ったのはあの百姓たちだ、儂たちではない」というが、あれはどんな意味だったのかと。
すると黒澤はこう答えた。
「百姓は、なかには藤原釜足のようにずるいのもいるし、土屋のような賢いのもいる。しかしどんな場合でも、大地と共に根強く生き続けていく。それに対して侍は、ただ旗のように翻っているだけだ。大地をさっと吹き過ぎていく風のようなものなのだ」
と答えた。》
のだそうです。

いざ分かってしまうと、な~んだ、それだけのことかと拍子抜けしてしまうくらい、「世界のクロサワ」の言葉にしては随分つまらないコメントですが、しかし、こちらが勝手に「世界のクロサワ」と祭り上げ、それらしい決め言葉を期待していたにすぎないだけなのであって、このシンプルで至極つまらない観念を、力強い映像に変えてしまう強引さこそ、黒澤明の偉大の証しなのかもしれないなと、すぐに思い返しました。

実は、自分も長い間、「勝ったのはあの百姓たちだ、儂たちではない」という言葉の意味を考え続けてきたひとりです。

勝ったのは、本当にあの百姓たちだったのか、野武士はもう二度とあの村を襲ってこないといえない状況の中でも「勝者」などと言い切ってしまっていいのだろうか、そして、ふたたび襲われる危機に直面したとき、あの途轍もなく善良だった「七人の侍」たちが残した「勝利」の記憶を手掛かりにしてしまっていいのか、むしろあの「成功事例」は、野武士たちより更に悪辣な侍たち雇ってしまうリスクを生み出しやすくしていないだろうか、それによって百姓たちが皆殺しの憂き目に会うという悲惨を自ら招き寄せるようなことはないのだろうか、とそこまで考えてきたとき、ある思いに捉われ愕然としました。

「勝ったのは・・・儂たちではない」というひとことは、「勝ったのは・・・儂だ」までも、否定はしていないのではないか、という思いに捉われたからでした。

野武士との死闘によって、勇猛果敢な前衛としての4人の侍たちは、壮絶な死を遂げています。

それが痛切な討ち死にだったとしても、しかし、想定外の出来ごとだったというわけではない。

戦うべき兵士たちが、その能力を十全に出し切り、そのうえで戦死していったのですから、この乱世の世、イクサと手柄とを求めて諸国を彷徨っていた侍たちにとって、いつか戦闘にまみれて突然の死を得ることが、想像もつかないほどのことだったとは思えないのです。

あるいは、勘兵衛のもとに生き残ったのは、年端のいかない若者(木村功)と従者(加東大介)です。

戦闘能力のある手勢をすべて使い切り、目の前の敵をことごとく殲滅し、そして最後には、司令官と参謀と未来のある若き兵士が生き残ったという状況は、熾烈な戦闘における作戦の大いなる成功であり、幾人かの当然の犠牲を織り込んだうえで、これを「勝利」と宣言することに、なんの躊躇もなかったはずです。

むしろ、百姓たちにとって、この目先の戦いを切り抜けたからといって、それはただ今回だけのことにすぎず、百姓たちの置かれている危険な状況(野武士たちの襲撃)がすべて消えたわけではない、そういうことのすべてを知悉したうえで、勘兵衛がなぜ、あえて「勝ったのはあの百姓たちだ、儂たちではない」などと、ことさらに言わねばならなかったのか、という方が、かえって不自然なような気がしてきました。

例えば、生き残った若侍(木村功)と従者者(加東大介)に向けて、あえて言ったのではないかと考えてみました。

そこにあるのは、手柄と名聞と良き仕官とを求めて明日からもまた諸国を渡り歩こうという彼ら侍たちの「明日」に対してです。

衝撃されるリスクのある土地に縛りつけられ、留まるしかない百姓たちよりも、不安定であっても、もっと自由な「明日」へ踏み出そうとしている侍たちの方が、ずっと「勝者」に相応しいと感じました。

こんなふうにいうと、西村雄一郎の問い掛けに対して黒澤明が「大地と共に根強く生き続けていく」といった百姓観とは随分隔たってしまったみたいですが、ここに黒澤明の、天才ならではの「独特の御都合主義」と安易な理想主義とを感じざるを得ません。

前著、西村雄一郎の「黒澤明と早坂文雄-風のように侍は」(筑摩書房)に「七人の侍」の構想を練っている部分にこんな箇所があります。

《次に江戸時代にできた剣豪列伝をもとに、強い侍ばかりが登場するエピソードをつなぎ合わせてみた。
そうして剣客の生活を調べて行くうちに、武者修行の侍たちは野武士の襲撃を防ぐために農民に雇われていたという事実が浮かび上がってきた。
「それだ!」橋本の言葉を聞いて、黒澤は叫んだ。
そのことをモチーフに、小国英雄と橋本と黒澤は、脚本を三稿まで練り直した。
ソビエトの作家ファジェーフの記録文学「壊滅」が下敷きにあったという。
当初は「武士道時代」と題されていた。(697頁)》

ここで突然出てくる「ソビエトの作家ファジェーフの記録文学「壊滅」が下敷きにあった」の1行が、ずいぶん奇異に感じました。

不意に出てきて、2度と触れられていない最初で最後の奇妙な1行です。

「下敷き」にしたほどなら、もう少し露出があってもよさそうなものではないですか。

例えば「検討されたけれども、採用するに至らず、結局諦めた」となれば、少なくとも3か所には出てこなければならず、このくらいが読書人として納得できるすれすれの最低条件だとすれば、こなん思わせぶりの不意の登場と消滅ではかえって気にかかって、「ソビエトの作家ファジェーエフの記録文学『壊滅』」なるものがいかなるものなのか、ここはどうしても調べないわけにはいきません。

手元にある「新潮・世界文学小辞典」の「ファジェーエフ」の項には、こんな解説がありました。

《【ファジェーエフ】1901~1956ソヴェトの作家。
教師の家に生まれ、少年時代から極東の革命運動に参加、1923年にその体験に基づいた中編「氾濫」と短編「流れに抗して」で文壇にデビュー、続いて長編「壊滅」1927によって一躍プロレタリア文学系作家の中心的存在となった。
極東の白軍、干渉軍との困難な戦いの中でついに全軍離散の運命をたどる一パルチザン部隊の悲劇を語りながら、作者はこの長編で雑多な過去と性格をもつ隊員たちの群像をトルストイばりの心理主義的リアリズムの手法で描き分け、隊長レヴィンソンの人間像に生きた共産主義者の風貌を示し、悲劇を越えて前進する革命思想のたくましさを訴えることができた。
この作品が初期ソヴェト文学に新紀元を開いた傑作とされるのは偶然でない。
彼にはこのほか、極東の少数民族の運命を描いて、エンゲルスの「家族、私有財産、国家の起源」を小説化しようとした野心的な未完の長編「ウデゲ族の最後のもの」1929~36、第二次大戦中の対独抵抗運動の実話に基づいた長編「若き親衛隊」1945があり、特に後者はスターリン賞を受けたのち、党の批判を受けて改作するなど話題をまいた。
しかし、ファジェーエフはショーロホフなどと異なって、作家である以上に文学運動の組織者、理論家であり、この面へのあまりの深入りによって作家としての体制を阻まれた。
すでにラップの時代から目立った論客であった彼は、34年にソ連作家同盟が設立されると、まずその党グループの責任者、ゴーリキー死後は同盟の第一の実力者となり、折からの大粛清の恐怖のもとで、ソヴェト文学をスターリン体制に組み入れるうえで最も顕著な役割を果たした。
39年には文学者代表として党中央委員にも選ばれている。
戦後は作家同盟書記長となり、社会主義リアリズム論の公式スポークスマン、文学統制の元締めとして活躍した。
ただこの間にも、彼自身の中に作家と文学官僚の矛盾に苦しめられていたことは確かで、それがスターリン批判後、彼を自殺に追いやったことが理解できる。
こうした彼の苦悩は、ラップ時代からの文学上の発言に彼が自ら手を入れ、死後に刊行された論文集「30年間」1957にもよく現われている。》

小説「壊滅」に描かれていた主たるテーマは、革命にとってはただの毒でしかない「知識人への嫌悪」であり、小説「壊滅」が党中央・スターリン体制に対するひたすら奉仕しようとした作品だったことが推察できます。

それは、そのままあの紅衛兵による知識人階層への弾圧とか、ポル・ポト政権下における知識人を虐殺した精神につながる同質の何かであることも感じます。

年譜によれば、1953年のスターリン死後、ほんの数年で自らの生き場所がなくしたファジェーエフは、1956年に自殺しています。

1954年4月26日に公開された「七人の侍」が、その動揺の影響を受けていないはずがないと見るのは、あるいは穿ち過ぎなのかもしれませんが、あれほどソヴェトに傾倒し、ロシア文学を愛した黒澤明の、たった一行の奇妙な露出と不意の消滅(沈黙)に、スターリン批判のなかで、「下敷き」にした元ネタを秘匿せざるを得なかった黒澤明の一瞬の苦渋を感じたのかもしれません。

そして、その「苦渋」さえも、踏み台にして映画を撮ったというなら、黒澤明にまつわるあの「自分の作品のためなら製作にまつわる関係者(や思想)さえもボロ雑巾のように使い捨てるらしい」という黒い噂は、やはり信じるべきなのか迷い始めているところです。
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by sentence2307 | 2014-12-06 22:46 | 映画 | Comments(1)