世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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レイ/Ray

超有名人とか、メディアが最初から「超名作」と決めつけプッシュしてくる映画(映画ばかりとは限りませんが)に対して、抗体というものをまったく有していない大衆があやつられるままに一斉に同じ方向を向くというような環境の中で、ひとり別な方向を向く(顔をそむける)という「孤立無縁」の立ち位置を選び取ることは、とても勇気のいることだと思います。

レイ・チャールズの生涯を描いたこの辛らつな作品「レイ/Ray」は、きっと「その辺」のところを試しにかかってくる映画かもしれません。

もともと自分は、ギター一本でうめくように歌い上げる泥臭いブルースがむかしから大好きなので、you tubeでもアメリカのかなり古い貴重な動画を繰り返し見て楽しんでいます。

その観点から言わせてもらえば、「逸脱」とか「堕落」とはいわないまでも、ごくごくポピュラーソング化されたレイ・チャールズやレオン・ラッセルなどの楽曲も、臆することなく、よく聞いて親しんできました。

そういう感じで親しんできたこともあって(楽曲に親しむことが、その歌手の人格まですっかり分かってしまったような気分にさせられたのかもしれません)、レイ・チャールズの生涯が、こんなふうに薬物中毒と複雑な女性関係(それもこれも結局は自分の「ダラシナサ」のせいだったのですが)に囚われていたとは、この映画を見るまで少しも知りませんでした。

その意味ではショックでしたが、しかし、すでに「ジャージー・ボーイズ」など多くの内幕もの映画を散々見てきた自分にとって、それほどショッキングなものということもなく、まあ、「レイ・チャールズよ、お前もか」という程度でしたので、その気分のままに、この作品を深くアプローチすることもなく通り過ぎたのだと思います。

それから少し時間が経っています。

最近、沢木耕太郎の「銀の森へ」(朝日新聞社刊)という映画批評集を読んでいて、この「レイ/Ray」の批評に邂逅しました。

「テロルの決算」以来、沢木耕太郎の著作は刊行されるたびにどうにか読むようにしていますが、しかし、自分が、この著者の作品を、まず「テロルの決算」から読み始めてしまったことが、果たして自分にとって良かったことだったのか、すこし複雑な気持ちでいます。

というのは、この著者の他の作品を読むたびに、この著者にとって、日本のテロリスト青年を描いた「テロルの決算」とは、いったいどういう位置づけの作品だったのか、そしてまたどういった意味があったのだろうかと問い返さずにいられない自分がいて、眼の前の著作以外のところで、少しずつ積み上げてしまう根本的な「失望」みたいな堆積があって、遣り切れない重苦ししさが増すばかりなのです。

思えば、あの「政治の季節」の真っ只中で「テロルの決算」と出会ったことは、自分にとって、またこの著者との関係にとっても、とても「不運なスタート」だったのではなかったかという憂鬱な気持ちに満たされてしまいます。

たとえば、しかつめらしく「著者」などという位置づけなどせずに、最初から「スポーツ・ライター」というラフな認識だったなら、もっと楽な気持ちで沢木耕太郎やその著作に接することができただろうし、もっと自由な読書体験も持てたかもしれないと思うと、なんだかとても悔しい気持ちでいっぱいですが、あの「政治」や「思想」を最上なものと思い上がり、「スポーツに血道を上げる愚劣さ」と貶めていた自分の硬直した思考は、歪んだ政治の季節のなかで道を見失い、彷徨っていたころの「宿痾」としか呼びようのない人間的欠陥であって、いまさら治癒するわけもなく、この欠陥をこのまま引き受けて生きていくしかないと、もうほとんど途方にくれながらすっかり諦めています。

しかし、その話とは全然違う部分で、この「銀の森へ」という本は、あまりお薦めすることはできません。

朝日新聞に連載されていた映画コラムだそうですが、なにしろ実質本文350頁ほどのスペースに90本の映画批評がぎゅうぎゅう詰めにされていて、一本につき僅か3頁に満たない分量なので、著者の書き足りない苛々感が、そのまま読者の読み足りない欲求不満に直結してしまうという惨憺たる反映のうえに成り立っているような、筆舌に尽くしがたいストレス本という感じをもちました。

それは、所詮「広く浅く」が宿命付けられている新聞記事というものの持つ運命みたいなものの、反映そのものの姿だったのかもしれません。

それに、金詰りの会社(まさかあの大新聞社の朝日に限ってそんなことはありませんが)が、「予算達成のために、なにか売れそうな本があれば、なんでもいいからでっち上げて、「朝日経」信者の馬鹿どもに売りつけろとばかり、ゴリ押しで無理やり編まれた本なのではないかと邪推したくなるくらいの安普請です。

さて、そのような本の中に収められている「レイ/Ray」の批評ですから、あまり期待されても困りますが(模範解答の見出しの羅列のようなもの、という意味です)、要約すれば、こんな感じです。

沢木氏は、「それなりに楽しんで見た作品だが、はっきりいって上っ面だけ描かれているだけで深みに欠ける残念な映画だった、しかし、映画のなかで聞いたレイ・チャールズの楽曲は、どれも自分が親しんできた曲なので、帰宅して改めて聞いてみたが、どの曲も映画で聞いたような感慨はなかった。

やはり、映画というものはそれなりに(ストーリーに裏付けられるため楽曲を輝かせられる)意味あるものなんだなあ」ってな具合に書いてみると、結局筆者がこの映画をどう評価しているのか、特に最後の部分など何を言っているのか、さっぱり分かりませんでした。

たぶん、その理由は、結論を曖昧なままにしてしまったからに違いないのですが、原文を何度読んでみても、やはり明快な決め言葉などどこにも書かれていません。

どうも筆者自身が結論を避けているように感じられてなりません。

なにしろ発表の場が、大新聞紙上ということもあって、滅多なことなど書けるわけもないでしょうし、書く側としても、仕事とあれば、新聞社の意をくんで口籠もるくらいの芸はみせたかもしれません。

しかし、自分としてもこの映画批評を貶すばかりでは後味が悪く、気持ちの治まりがつきませんので、ここはひとつ出色の部分もあるにはあったことを紹介しておかなければ、と思います。

その出色の一文というのは、以下のとおりです。

「たとえば、目の見えないレイ・チャールズが恋愛遍歴を重ねる。
彼はどのようにして女性を認識し、選んだのか。
映画では、レイ・チャールズが女性と握手するとき、反対の手でそっと相手の手首を握るというシーンが挿入されている。
監督のテイラー・ハックフォードは、そうした細部によって、レイ・チャールズの歌の官能的な部分を視覚的に伝えられるよう周到に組み立てていたのかもしれないのだ。」(266頁)

「握手しながら、もう片方の手で相手の手首を握る」シーンを、沢木耕太郎は、「歌の官能的な部分を視覚的に伝えられるよう周到に組み立てていた」などとあえて上品に無力化して逃げていますが、この部分は明らかにレイ・チャールズが、女性の体を卑猥に撫で回し「女」を物色していたことと同義であることを描いていることは明らかです。

誰が見ても手首が女性としての官能的で重要な「その部分」を暗示しているか、もしくはモロ直結しているか、おそらくそのどちらともであって、それはそのまま、レイ・チャールズという男が、目の不自由なことをいいことにして下卑た好色さを隠そうともしなかったしたたかな姿を描ききっているのだと思います。

そんな例なら日本にだって、つい最近ありました。

障害を盾に取り、良識をよそおった世間の偽善と哀れみの虚をついた「佐村河内」現象です。

と、ここまで書いてきて、ひとつの投稿文と出会いました。

レイ・チャールズは、こんな人じゃないというファンによる作品「レイ/Ray」に対する怒りの一文です。

ちょっと感動したので、転載させていただきました。

《この作品を見終えた後の感想は、とても不快なものでした。
私は小さい頃からのレイ・チャールズファンです。(当然、今でも‥)
だから、彼の人生を冒涜しているみたいで、とても不愉快なんです。
この作品を見て、彼(レイ)を、どんな男だと思いましたか?
音楽の才能があることで大金を得て、眼が見えないことを言い訳にして、好き勝手なことばかり‥。
最低だとおもいませんか?(誰の証言を元に製作されたか知りませんが‥)
特に、麻薬の常習容疑で逮捕されるも、金の力で取消し。
にもかかわわらず、やめようとさえしない。(暗闇を理由に‥)
全盲ながら、一生懸命いきている人達は沢山おられます。
(あえて、それ以上は触れませんが‥)
確かに、ジェイミーの演技は素晴らしかったけど、ただだらしない男を演じたに過ぎないし‥。
むしろ、レイの母親を演じた彼女こそ、素晴らしかった。
とても自然に演じていたし、母親も愛情の深さも体現していた。
しつこいようですが、私はレイ・チャールズの大ファンです。
晩年の彼しか知らない私には、彼の苦労話など当然解りません。
でも、この作品は彼のことを想っての製作だとはとても思えません。
彼が生きていてこの作品を見たら、どう想うでしょう。
子供達に夢を持たせようと、努めていた彼です。》

このレイ・チャールズファンの人が、たとえどちらを向いて何を語ろうと、したり顔した大勢から顔をそむけたその姿の凛々しさに惹かれて転写してみたのですが、「レイ・チャールズの生涯を描いたこの辛らつな作品「レイ/Ray」は、きっと「その辺」のところを試しにかかってくる映画だったのかもしれません」ね。

(2004UIP映画配給)監督脚本製作・テイラー・ハックフォード、製作・ハワード・ボールドウィン、カレン・エリス・ボールドウィン、スチュアート・ベンジャミン、製作総指揮・ ウィリアム・J・イマーマン、ジェイム・ラッカー・キング、原案: テイラー・ハックフォード、ジェームズ・L・ホワイト、脚本・ジェームズ・L・ホワイト、撮影・パヴェル・エデルマン、編集・ポール・ハーシュ、音楽・レイ・チャールズ、クレイグ・アームストロング、美術・スティーヴン・アルトマン、音楽監修・カート・ソベル、衣装(デザイン)・シャレン・デイヴィス、
出演・ジェイミー・フォックス(Ray Charles)、ケリー・ワシントン(Della Bea Robinson、レイ・チャールズの妻)、クリフトン・パウエル(Jeff Brown、ツアー・マネージャー)、ハリー・レニックス(Joe Adams、長年にわたるマネージャー)、リチャード・シフ(Jerry Wexler、レイ・チャールズのプロデューサー)、アーンジャニュー・エリス(Mary Ann Fisher、女性バック・ヴォーカル歌手)、シャロン・ウォーレン(Aretha Robinson、レイ・チャールズの母)、カーティス・アームストロング(Ahmet Ertegun、レコード会社の重役)、レジーナ・キング(Margie Hendricks、女性バック・コーラス)、テレンス・ダッション・ハワード、ラレンツ・テイト(クインシー・ジョーンズ)、ボキーム・ウッドバイン、C・J・サンダース( 幼少のレイ)
152分

第77回アカデミー賞主演男優賞・ジェイミー・フォックス、録音賞・スコット・ミラン、グレッグ・オルロフ、ボブ・ビーマー、スティーヴ・カンタメッサ(英語版)
第62回ゴールデングローブ賞主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)・ジェイミー・フォックス
第47回(2005年)グラミー賞最優秀コンピレーションサウンド トラック賞/映画・テレビ・映像部門・レイ・チャールズ、映画・テレビサウンドトラック部門・クレイグ・アームストロング
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by sentence2307 | 2016-02-28 21:45 | 映画 | Comments(0)

寺田寅彦の映画論

ある人から寺田寅彦の著作に映画評論があると聞いたとき、なんだか物凄く興味を惹かれたのは、この作家の固定観念に対して「映画」という言葉のイメージに物凄い違和感を覚えたからだと思います、それはまさに「ギャップ」といっても差し支えないくらいのものだったかもしれません。

物理学者で随筆家として著名な寺田寅彦(1878~1935)は、あの極端に人見知りで気難しい夏目漱石にこよなく愛され、漱石宅にも自由に出入りを許されていた(「木曜会」だったと記憶しています)くらいの愛弟子で、なにしろ「吾輩は猫である」や「三四郎」などにモデルとして描かれているくらいですから、それは相当なものだったろうし、漱石を尊敬していた多くの人たちからも特別な存在として一目おかれていたというのも当然と頷かれます。

なにしろ、漱石にしてからが、日本文学の地平を切り開いた先駆者なので、印象的には「むしろ江戸時代に近い方の明治の人」という感じをもつ自分にとって、そういう時代的な部分と、比較的新しい芸術という先入観のある「映画」との取り合わせに意外な感じを受けてしまったとしても、たぶんそれは、無理からぬことだったと思います。

さっそく近所の図書館から岩波書店刊「寺田寅彦全集 第八巻」(1997.7.7.1刷、425頁)を借り受けてきました。

受付窓口でこの本を受け取ったとき、思わず、自分がこの本を手にした最初の人間なのではないかと疑ってしまうくらい、それは清潔で汚れのない「新刊」そのままのような状態でした。

果たしていままで、この本に借り手というものがあったのかと、余計な心配をしてしまうくらい、それは皮肉なほどの新しさです。

目を凝らせば、あるいはその冷ややかな表紙から、「敬遠」の二文字がいまにも浮かび上がってきそうなくらい、ヨソヨソしいほど人の気配を感じさせない清潔さでした。

自分が蔵書している「寺田寅彦」本は、筑摩書房の「現代日本文學全集22」(昭和30.7.25.1刷、438頁)で、「森田草平・鈴木三重吉」との三人集ですが、この原稿不足の現代からはちょっと考えられない、いまどき有り得ない本文三段組という野放図な贅沢さで組まれている、まさに時代に逆行したような「日本文學全集」です(昭和30年刊行の本なので当然ですが)。

このクラシックな本は、いまはもう廃業して取り壊されてしまった駅前の古本屋で購入しました。

たしか「100円均一」の棚に数十冊もならべられていたものを一挙に購入した(20冊買っても2000円ですから財政的にはビクともしませんが、重量を考えるとやはり「一挙」には無理だったかもしれません)そのなかの一冊だったと記憶しています。

実はこれまで寺田寅彦の随筆は、そのひとつひとつが、ほどよい「短さ」(もちろん「いい意味での」短さです)ということもあって、折りにふれて親しんでいました。

その随筆の全体的な印象をざっくりと挙げれば、まず、過ぎ去った少年の日の甘美な思い出とか、まあ、同じような感じの哀切な望郷とか、あるいは、いまは亡き人々への尽きせぬ回顧などという感じの随筆です。

しかし、こうしてテーマだけを言葉として挙げていくと、なんだか思い入れたっぷりの情緒過多の随想になってしまいそうな感じがしますが(日本の多くの作家たちが、往々にして「そういう傾向」があるので、ついそんなふうに考えてしまいます)、しかし、そのような「ベタベタ感」は一切なく、日本の歌謡曲的情緒からは距離をとって客観的写生的に書かれていて、むしろ、西欧的な知性や理性を感じさせる乾いた筆致という印象でした。

自分がもっとも印象深く読んだのは、「團栗(どんぐり)」という小品です。

明治38年4月の「ホトトギス」に掲載されたものだそうですが、筑摩本でいえば、わずかに2頁半という短さです。

不治の病で早世した最初の妻・夏子のことを書いたもので、夫との気持ちのわずかな行き違いに苛立ったり、ちょっとした親切に喜んではしゃいだりと、細々とした妻の仕草や会話を冷静に描写していきながら、しかし、一進一退を繰り返す病状は、徐々に、そして確実に彼女を蝕み悪化していくという妻との日常を、まるで生態観察のような緻密な冷静さで描写しています。末尾の部分をちょっと要約すると・・・

体調がいいときの妻を誘って「植物園」に行った帰り道、妻はたまたまどんぐりをみつけ、どんぐり拾いに熱中します。あまりのその熱中振りに夫はあきれ、少し苛々して、「もう大概にしないか、馬鹿だな」「一体そんなに拾って、どうしようというのだ」ときくと、妻は「だって拾うのが面白いじゃありませんか」といい、なおも拾うのをやめようとしない、それどころか、さらに「あなたのハンケチも貸して頂戴」といって、夫のハンケチもどんぐりでいっぱいに満たして、やっと帰る気になるという部分です。

その圧巻の部分をちょっと書き写してみますね。

ハンケチ一杯に拾って包んで大事そうに縛って居るから、もう止すかと思うと、今度は「あなたのハンケチも貸して頂戴」と云う。とうとう余のハンケチにも何合かの團栗を充たして「もう止してよ、帰りましょう」と何処迄もいい気なことをいう。
團栗を拾って喜んだ妻も今はない。御墓の土には苔の花が何遍か咲いた。山には團栗も落ちれば、鵯の啼く音に落葉が降る。

「もう止してよ、帰りましょう」という妻の言葉にまるで覆い被さるように
不意に、「團栗を拾って喜んだ妻も今はない。」と語られ、そして無常な風景として
「御墓の土には苔の花が何遍か咲いた。」と苔むした墓がひっそりとたたずむ山
「山には團栗も落ちれば、鵯の啼く音に落葉が降る。」と山の自然は人の生き死にや愛憎など、すべて呑み込み、何もなかったかのような静けさだけがいつまでもつづいていく。

妻が残した最後のひとことが、死の床でのものでなく、そして、妻の最後の細々しい描写や、妻を失う夫の苦悩などのことごとくを省略したうえでのこの「團栗を拾って喜んだ妻も今はない。」の一文は、いまでも僕が出会った圧巻の一文だったと思っています。

少し、寄り道しすぎて時間がなくなってしまいました。

岩波書店刊「寺田寅彦全集 第八巻」所収の映画論のタイトルだけでも書いておきますね。

映画時代、ラジオ・モンタージュ、青磁のモンタージュ、映画の世界像、映画雑感(1)、生ける人形、教育映画について、映画芸術、音楽映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」、ニュース映画と新聞記事、Image of Physical World in Cinematography、映画雑感(2)制服の処女、ひとで、巴里―伯林、巴里祭、人生謳歌、映画「マルガ」に現れた動物の闘争、耳と目、踊る線条、山中常盤双紙、映画雑感(3)にんじん、居酒屋、世界の屋根、忠臣蔵、イワン、バンジャ、漫画の犬、一本刀土俵入、カルネラ対ベーア、只野凡児第二編、荒馬スモーキー、忠犬と猛獣、血煙天明陣、喰うか喰われるか、吼えろヴォルガ、或る夜の出来事、映画雑感(4)商船テナシティ、実写映画に関する希望、誤解されたトーキー、映画批評について、人間で描いた花模様、麦秋、ロスチャイルド、ベンガルの槍騎兵、アラン、ナナ、電話新選組、映画錯覚の二例、「世界の終り」と「模倣の人生」、黒鯨亭、乙女心三人姉妹、外人部隊、男の世界、映画雑感(5)永遠の緑、家なき児、管弦楽映画、その夜の真心、すみれ娘、映画と生理、映画雑感(6)パーロの嫁取り、ロス対マクラーニンの拳闘、別れの曲、紅雀、泉、映画雑感(7)影なき男、ロバータ、
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by sentence2307 | 2016-02-22 10:14 | 映画 | Comments(0)

「鬱」時代

「あらゆる映画をみまくる」などと大見得をきって始めたこのブログですが、いまその強烈な副作用に苦しんでいます。

つまり「あらゆる映画」といっても、なにもそれが感動作や名作ばかりとは限らないので、いつのまにか、見ること・イコール・「数をこなす」義務みたいになって自分を縛り、気がついてみると、新たに映画をみようとするとき、つまり、自分の意に添わない一本の映画を見通すためのエネルギーの準備とか、そのために自分に強いなければならない辛抱強さとか我慢とかの相当な「うんざり感」は、考えてみれば、どうも「鬱」に等しいのではないかと気がついたのでした。

自分の楽しみのために映画を見つづけてきたのに、それが「鬱」などになったのでは困ります。

思えば、そのことに気がついたのは、ジェームズ・グレイ監督の「エヴァの告白」と、パオロ・ソレンティーノ監督の「グレートビューティー/追憶のローマ」を見たときでした。

抑制された暗鬱な映像の粘り強い描写力や、溢れ出る情念の豊饒さなど、このいずれもすぐれた作品の映像美に心惹かれ、そして圧倒されもし、さっそく、ブログに感想をアップしようと断片的な下書きをつくるためのメモ用紙の準備をしました。

自分の感想の書き方は、思いついた断片を片っ端からメモしていって、それらを論旨がつながるように並び替え、どうしても繋がりの悪い部分には、適当なコメントで補強して完成させるという、安直でごくオーソドックスな方法で、出来上がりの方は保証しかねますが、比較的スムーズに完成に仕上げられるというメリットはあります、しかし、そのときばかりは、どうもそう簡単にはいきませんでした。

「エヴァの告白」と「グレートビューティー/追憶のローマ」は、いずれも、とても優れた作品です。

ですので、この感動を少しでも言葉で表現できたらと、自分なりに苦労し、煩悶してみたのですが、どうしてもしっくりとした書き出しのひと言が浮かんでこないのです。

メモ用紙に書き付けられるものは、フェデリコ・フェリーニ作品との連関性ばかり、自分のオリジナルな感想は、ひとことだって出てきません。

「道」に酷似したこの「エヴァの告白」という作品について、どのようなアプローチを試みようと、かつて「道」について書いたイメージがよぎり、結果、「道」との比較において、その足らざる部分を辛らつに(自分は根っからのフェリーニ好きですから、どうしても、「そう」なると思いますヨ)指摘することくらいしかできないのです。

そんな一方的な観点しか持てないような批評なら、この意欲作に対して、とても失礼な見方になってしまうのではないか、そして同じように、あらゆる作品に対してだって、ことごとく感応してしまうこの「焼き直し」感から自由になれないなら、いっそ批評などしない方がよほど誠実であることに気がついたのでした。

それはちょうど、まるで自分が所属してきた社会がすでに一巡して終わりを告げ、完結してしまったような感じです。

やがて、リセットされた新たな社会が動き始め、その新時代に相応しい(旧世代に捉われない)価値観も生み出されるに違いない。

それら新たな作品が、旧時代に作られた焼き直しとしてしか(「エヴァの告白」は「道」の、「グレートビューティー/追憶のローマ」は「甘い生活」のフィルターを通してしか)評価できないとしたら、やはりそれは旧世代人間たる自分の判断の、もはやの限界を示しているのではないかと真剣に考え込んでしまいました。

目の前の意欲作を、旧作品のパターンの繰り返しとしてしか理解できないとしたら、いまの自分はまさに、「これはむかし見たあの映画と同じだ。これに比べたら、むかしの方がずっと良かった」と繰り言をいう老人と同じではないかという強迫観念に捉われたのでした。

その融通のきかない柔軟性の欠如した感性は、つまりはこの社会の居場所を失ったことこそを意味しているわけで、それはつまり、当然の「失語」状態に(自分の現状です)通じていたのだと分かりました。

これは半年ほど以前の話です、それでも映画だけは毎日毎日見続けています。

もちろん「うんざり」もし、そして感動した作品は幾つもあり、いつかは、自分のなかのなにかがいずれかの部分に感応し、不死鳥のように映画好きが甦り、自然に湧き出てくるなにかがあるに違いないと待ちもし、信じる気持ちで映画を見続けてきました、あるいは、こういうときだからこそ「映画切れ」になるのが怖いのかもしれませんが。

しかし、結論からいってしまえば、まだスランプ(この状態を「スランプ」などといってしまっていいのか分かりません。

永続する「失語」状態かも)は脱していません。

一方でこの悪戦苦闘のジタバタを愉しんでみるのもいいかなとか、新たなものを感応できないなら、いっそ旧作をたどってみる開き直りも一興かと、あれこれと考えている現在です。

そうそう、ある人から、寺田寅彦が映画好きで、随分な数の映画評論を残していると教えてもらい、図書館から所収の「寺田寅彦全集 第八巻」を借りて読んでいます。
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by sentence2307 | 2016-02-20 16:09 | 映画 | Comments(0)

愛の渦

映画を見たあと、すぐの印象として「平凡な作品だった」と思うか、「すごく良かった」と思うかの二極化的仕分けの観点からいえば、この「愛の渦」は、もちろん「すごくいい作品だった」という方に整理されたこと言うまでもありません。

世評もそうでしたし、自分もまた「そう」した一人でした。

しかし、見てからの時間が少しずつ経過するにつれて、これが本当に「すごくいい」という程の作品だったのかと、思い返すたびになんだか自信が薄れていくことに気がつきました。

最初の印象がすこぶる「高評価」だったのに、時間が経つにつれて、その高揚感が急速に失われていくというこの「色あせ」経験は、なにもこの作品が初めてのことではありませんし、むしろ、こういうことの方が多かったとさえいえるかもしれません。

その失速感というか、墜落感がどの辺にあるのか、自分なりに考えてみました。

ずいぶん乱暴な話ですが、この映画のテーマをひと言でいってしまえば、「欲望を剥き出しにすることが本当に人間的であって、また、欲望に忠実に生きることが本当に自分らしいといえるのかという思いを抱えながら、冷厳な日常生活が立ちはだかる現実を前にして生き惑う男と女の物語」ということができるかもしれません。

しかし、思えば、この映画の登場人物において、「欲望を剥き出しにすることが、人間的なことなのだ」と思い込んだのは池松壮亮演じるニート青年ただひとりだけであって、この有料乱交パーティーに集った他の男女は皆、「日常」と「乱交」を上手に生き分け、淫乱さを剥き出しにして快楽をむさぼった夜のあとでは、なにくわぬ顔で光溢れる「日常生活」の朝へと違和感なく踏み出していける健康な市民です。

あの門脇麦演じる女子大生ですら、その辺の分別は十分にそなえていて、ニート青年の求愛に対する明確な拒絶は、そのことを十分にあらわしているといえます。

この世には、「欲望を剥き出しにすることが許される闇の世界」と「欲望を押し隠し取り澄まして生きることを強いられる禁欲的な光溢れる日常の世界」とがあって、その辺の欺瞞を上手に飼いならし、使い分けなければ、この社会がすこぶる生きづらいことを、この「境界線」を理解できないニート青年をとおして、この映画は教えてくれています。

当初、周囲の高評価につられ、そちら側に自分もつい同調してしまった理由は、やはりこの「ニート青年の思い込み」にある純粋さを感じて共感してしまったからに違いありません。

そもそもこの有料乱交パーティーでは、相手を独り占めにする「愛」が最初から禁じられている規則なので、いまさらながら「性欲」と「愛」とが両立するかどうかなどを考察するのは、場違いの見当違いであることは明白です。

しかし、それにしても、それだけでは、この作品に対する自分の「色あせ感」が、どの辺に由来するのか、もうひとつ摑めません。

女子大生に求愛したニート青年は、その拒絶にあって、ただタジロギ、為すすべもなく、うな垂れているだけのように見えました。

しかし、彼のあの去勢されたような素直なリアクションが、自分のなかではもうひとつ納得できないのです。

たとえ稚拙であったとしても、もっと自分の考え・彼女に対する愛する気持ちを真摯に彼女に伝える場面があっても良かったのではないか、理不尽な彼女の拒絶にもっともっとアガライ、あるいは激昂するくらいのものがあってもよかったのではないかと。

そのとき、いままで自分が感じていた「もうひとつ分からない」という気持ちが、このラストシーン(彼女の「拒絶」に対するニート青年の不自然なくらい無力な素直さ)に対する単なる苛立ちであることに気づいたのでした。

「性欲」と「愛」との両立などという一見高尚なテーマに目を奪われたのですが、むしろこのシーンに描かれているのは「女子大生に拒絶されるニート青年」というシンプルな格差の図式であったことに気づいたのです。

この感覚は、「慶応義塾大学」に入れば、ただそれだけで「人間のくず」ではなくなる、というあの「ビリギャル」を見たときに感じた違和感と同じものでした。

自分の苛立ちや、そして多分怒りも、たぶんその整然とした短絡さに対してだったのだと思います。

「慶応義塾大学」に入れるわけもないニートにとって、いずれも「見づらい映画」ということになると思いますし、ならばこんな作品になにも無理して感動する振りをすることもないかと。

この「愛の渦」を見て、最近同じような思いに捉われたことがあったので、ごく私的なことですが、少し書いておこうと思います。

ある日、帰りの通勤電車で、高校の頃、すこしの間つき合っていた「彼女」にばったり会いました。

彼女とのことは、もうすっかり忘れていたと思っていたのに、こうして顔を合わせれば、付き合っていた頃の出来事のなにもかもを精密に思い出せるくらい、熱く感情的になって将来のことを考えたかもしれない仲だったことが、あらためて思い出されました。それは彼女だって、同じだったと思います。

懐かしさよりもその気まずさが、かえって2人をそのままでは別れにくくさせたのかもしれません。

よりを戻すとかそんな気持ちなど、もとより少しもありませんが、駅前の喫茶店でその後のお互いのことを少し話しました。

ありふれた恋愛をし、結婚して子供ができ、郊外に家を買って平凡に暮らしていることなど、どれも似たような身の上です。

話が途切れ、もう話すことも尽きた感じなので、腕時計を見る仕草を切っ掛けにして席を立ちました。

右と左に「じゃあ」という別れ際になって、彼女はなにか言いにくそうに立ち尽くしています。

このまま自分としても立ち去りにくく、彼女の言葉を待つ姿勢になりました。

彼女は、ポツリと言いました。

「あのとき、あなたを受け入れていたら、わたしたち、もっと違った人生をおくれたかしらね・・・。SEXが、こんなものなら、いっそあのとき、あなたにさせてあげればよかったと、最近よく思う。」

あの頃、僕は彼女を執拗に求め、彼女は必死に拒み続け、そのいかがわしい僕の態度を激しくなじった果てに2人が別れたあのときのことを言っているのだと、すぐに分かりました。

その頃の僕としても「性交」は未知の領域でしたが、性交しないかぎり愛は成就しないくらいに思いつめていたのかもしれません、時代です、仕方ありません。

彼女の言葉に自分はただ言葉なく頷くしかありませんでした、頷く以外に自分になにができたというのでしょう、いまでも分かりませんが。

それだけいうと彼女は去り、そして僕も反対方向に歩き出します。

頭の中で彼女の言葉が、繰り返し・繰り返し思い出されます。

いまでならSEXくらい、なにもそんなに問題になることもなく、その深刻さなど信じられないかもしれませんが、僕たちの時代は「草原の輝き」の時代です。

「純潔」を求める社会の目が病魔のように少女たちを監視し、蝕んでいました。

でも、いまなら分かるような気がします。

彼女の腰に手をまわそうとする僕の手を、彼女は失笑しながら優しく払いのける、僕は彼女のその優しい恥じらいの所作をこよなく愛していたこと、それは、彼女のカラダが欲しかったからじゃない、いまなら分かる、「彼女の腰に手をまわし、それを失笑しながら優しく払いのける」、そうして僕たちは微笑を交し合った、ただそれだけの関係でよかったのだと。

だから、彼女が最後に言ったように、たとえ、彼女が僕を受け入れていたとしても、僕たちは決して「違った人生」などおくれやしなかっただろう。

いずれにしろ、僕たちは「SEX」した途端、破綻しなければならなかったのだと、あのとき、立ち去る彼女に言うべきだったと、いまでも時折後悔することがあります。

(2013クロックワークス)監督脚本原作・三浦大輔、三浦大輔、企画・加藤和夫、企画協力・太田雄子、製作・間宮登良松、藤本款、プロデューサー・岡田真、木村俊樹、撮影・早坂伸、美術・露木恵美子、音楽・海田庄吾、音楽プロデューサー・津島玄一、録音・永口靖、照明・神谷信人、編集・堀善介、キャスティング・おおずさわこ、ライン・プロデューサー・坂井正徳
出演・池松壮亮(ニート)、門脇麦(女子大生)、滝藤賢一(サラリーマン)、中村映里子(保育士)、新井浩文(フリーター)、三津谷葉子(OL)、駒木根隆介(童貞)、赤堀セリ(常連)、柄本時生(カップル)、信江勇(カップル)、窪塚洋介(店員)、田中哲司(店長)、
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by sentence2307 | 2016-02-11 12:46 | 映画 | Comments(0)