世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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動物と裁判

朝一番、会社での「最初の仕事」は、デスクに積み上げられた業界紙や専門誌に一通りざっと目を通すことから始めます。

これは、前日に郵送されてきた雑誌や業界紙ですが、内訳は、各課が仕事上必要として、オノオノの申請が認められた購入雑誌と、その他寄贈を受けた業界紙・専門誌です。

そして、購入・寄贈にかかわらず、各資料の上部には回覧と記載された紙片がそれぞれ添付されており、一応順番にハンを押すことになっていますので、たとえ興味がない雑誌でも、形だけは、とりあえず目を通さないわけにはいきません。

会議のときなど、その日の日経新聞の記事から話が始まりますが、たまに回覧雑誌の掲載記事が取り上げられ、話題を広げる部長もいますので、その辺は緊張感をもって記事のチェックをしなければなりません、気は抜けません。

さて、その日届けられた雑誌の中には「法律時報」3月号がありました。

毎月送られてくる購入本の一冊で、法律関係の購入雑誌は、ほかに「ジュリスト」「判例時報」「法曹時報」などがあります。

なかでも「法曹時報」は、毎号、判例の動向を知るのには欠かせない貴重な最高裁判所判例解説が掲載されているので、はずせない一冊となっています。

さて、「法律時報」3月号の表紙を見ると、今月の特集は「集団的労働関係法の時代」ですか、フムフムなるほどね、こりゃかなり難しそうだ。

そしてその大きな活字の下には、有名大学教授の各論文が仰々しく6~7本掲げられており、やはりどれも相当ヤバそうです。

まあ、どう転んでも自分の仕事には直接関係がありませんし、正直言ってあまり興味もなかったりするので、まさか会社も自分ごときに「集団的労働関係法の時代」の理解までは要求してこないと思いますから、ここはさっさとハンコを押して、「さて次」とばかりに処理済みの雑誌の上に雑誌を積み重ねようとしたとき、表紙下の部分に「小特集・動物と法」という小さな活字が目に入ってきました。

とっさに、「動物と法」とは何だろうと訝しく思い、興味もわき、再びその雑誌を手に取り直して、該当頁をパラパラと大雑把にめくりました。

そういえば、つい最近だったか、都内各地で犬や猫など小動物を残酷に殺傷したり、水鳥に執拗に危害を加えるなどという異常で残忍な事件が頻発していると報道されたことを思い出しました。

たぶん、あれだな、「動物愛護」関係だなと思いました。

まあ、だいたい、その線で正解だったのですが、その中の論文のひとつに思わず釘付けになってしまいました。

メインタイトルは、「動物、生類、裁判、法」、サブタイトルは、「日本法制史からの俯瞰と問い」とあり、著者は、新田一郎東京大学教授と記されています。

タイトルからは、相当難しそうな内容ですが、ざっと読んだところ、どうも「動物愛護」というストレートなテーマではなさそうです。

文脈のタイミングとして、こんなふうに書き挟むのは、少し唐突で僭越かもしれませんが、いままで自分は、書名やタイトルを見ただけで、だいたいこういう内容だなという予想をし、それが外れたり、予想もしなかったことに遭遇するということは、まずありませんでした、「想定内」というやつです。

それぐらいは、本に対する勘を働かすことのできるくらいの読書量を重ねてきたつもりだし、読みこなしてもきたつもりだったので、とにかくそういった自信だけはありました。

たとえ、実際に未読の本でも新聞・雑誌などの書評に目をとおし、サイトの書評などもできる限り日々チェックしています、どういう本が出版されたかぐらいは知識として備えるように努めてきました。

一時期は「出版ニュース」なども購入したりして、自分なりのデータベースらきしものを作成し、カードも作ったことがありましたが、結局、月々の膨大な出版量に追いつかず、また、興味のない分野の本までカバーしなければならない矛盾に気がつき、記憶するのに相応しい本だけを絞るようにし、この壮大な構想は、単なる「妄想」として萎み、数ヶ月で結局「撤退」を余儀なくされたのですが、しかし、本の書名からその内容を類推し見当をつける自信みたいなものは、依然として十二分にあるつもりだったのです。

たぶん、一方で随分と鼻持ちならない嫌味な「読書家」だったかもしれませんし、いっぱしのマニア気取りで、「自分には、知らないことはない、知らない世界はない」くらいの自信過剰の大錯覚に陥っていたかもしれません。

しかし、この論文「動物、生類、裁判、法」に接して、ここには自分がいままで知らなかった世界のことが展開されており愕然としました。

その衝撃を是非書いておかなければと思い立ち、さっそくパソコンの前に座った次第です(内心、「知らなかったのは自分だけ」と笑われ、哀れな喜劇に終わるかもしれませんが、そこは恐る恐る手探りで書いてみるつもりです)。

この論文は、大きく分けてふたつの章から成っていて、前半はヨーロッパ中世に行われていた「動物裁判」のこと、後半は日本の「生類憐みの令」の論考です。

サブタイトル「日本法制史からの俯瞰と問い」とあるとおり、論点は「日本法制史」にあるのですが、なんといっても圧巻は、前半の「ヨーロッパ中世に行われていた動物裁判」の紹介の部分です。

まず「動物裁判」という字面を見て、なにを連想するか、何を意味するか、ということろから書き始められています。

ヨーロッパ中世においては、人間に害を与えた家畜・動物など生物(もちろん、そのなかには「虫」もふくまれます)は、人間と同じように公式の裁判に掛けられて、処刑されたというのです。

「えっ~! 動物が、人間と同じように裁判にかけられた?」

信じられません、とにかく、違和感だらけの「動物裁判」です。

論者は、「動物裁判」を、ネタ本の池上俊一著「動物裁判-西欧中世・正義のコスモス」(講談社現代新書、1990)からも部分的に引用しながら、こんなふうに要約しています。

「(動物裁判は)人に害をなした動物にどのような処分を下すべきか論ずる、いわば「刑事」的な審問によってもっぱら占められている。たとえば、子どもを食い殺した豚や、女を突き殺した牛などが訴追され、断罪・処刑されている。」

なるほど、なるほど。

さすが東大の先生ですが、「要約」があまりに明解に凝縮されすぎて、門外漢のシロウトの頭では、さっぱり理解できません。

自分としては、スキャンダラスな(あるいは、ミーハー的に)「具体的事例」が知りたいだけなので、さっそく、帰りに図書館に寄り、この論文のネタ本とされる池上俊一著「動物裁判-西欧中世・正義のコスモス」(講談社現代新書、1990)を借りて、さっそく読んでみました。

読んでみると、あるわあるわ、その壮絶さに慄然とさせられました。

家畜の牛が人間を襲って殺し、大人の留守のときに子どもが襲われ、赤ん坊が食われるなどという事例が実に多かったらしいのです。

その場合、(人間と同じように)動物たちも通常の裁判にかけられ、死刑判決がでれば、絞首刑・斬首刑・石打ち・溺殺・生き埋め・磔刑・四つ裂き・切り刻みなどの刑に処せられたということです。

そうそう、火刑なんていうのもあって、そこにはこんなふうに書かれていました。

「人間を殺すという同じ犯罪でも、それが、土曜日になされたのなら絞首刑なのに、金曜日ならば、断食の掟の侵害として生きたまま焼かれる、というふうに変更されることがあった」というのです。

本文からの引用としては若干前後しますが、こんなふうに書かれていました。

「処刑方法は、絞首刑がもっとも普通にみられるものであったが、もちろん他の処刑方法も存在した。たとえば、瀆聖(神に捧げられた人・もの・場所・行為などを侮辱し、その神聖をけがすこと)・性的逸脱行為(獣姦等)や魔術・異端は、初期中世以来、伝統的に火刑に処せられることとなっており、したがって獣姦罪に問われた人間のみか、相手の動物も火刑台の露と消えたのである。火とそこからのぼりたつ煙には、ものを浄め、もろもろの害悪を防止する効能がある、と信じられていたのである。」

ここまで読んできて、思わずカール・ドライヤーの「裁かるるジャンヌ」1928のラストシーン、あのあまりにも悲痛な火刑シーンを想起しました。

そうだったのか、「動物裁判」という言葉の違和感=謎がこれで解けました。

これは、「悪魔祓い」とか「魔女裁判」「破門」「聖水」などにつながるヨーロッパ中世の象徴的な言葉だったのだということだったのですね。

おかげで、朝の資料整理の貴重な時間を「法律時報」3月号一冊に掛かり切ってしまいました、「やれやれだわ」と思ったのですが、しかし、この「やれやれ」は、実はこれだけでは終わりませんでした。

つづく愛知大学法学部の紀要「法経論集」3月号に伊藤博文教授筆(あえて申すまでもなく元勲ではありません)「人工知能の民事責任」という論文が掲載されていて、そこには、ひとつの事例(近未来の想定です)が紹介されています。

「人工知能型介護ロボットが、食事介護時に、誤作動を起して食後投与される処方薬を過剰投与してA(70歳)を死に至らしめた」というもので、「どうような法理論に基づいて損害賠償請求が可能か」という問題提起がなされているのですが、提起の方はともかく、更問として、こんなことが書かれていたのです。

「もっとも、人工知能型介護ロボットが、A(70歳)の死期が近いことをバイタルサインから読み取り、もっとも効率的な介護動作を選択した結果、(誤作動ではなく)処方薬を過剰投与してA(70歳)を死に至らしめた」場合はどうかという更なる想定の問いが発せられていたのです。

これは、すごく怖い話です、囲碁どころの話ではありません。

そう遠くない未来では、生きていても仕方のない無能・無益な人間は、人工知能が勝手に「安楽死」を判断・選択し、知らぬ間に一服モラレそうなのです。

なんだか「動物裁判」と関係あるような・ないような、そんなモヤモヤとした朝のひとときでした。

あっ、コーヒー飲むの忘れてた。

ここではじめて、心から「やれやれ」と言うことができました。


【付録】
本文に引用しようとして、タイプしてみたのですが、あまりに難解なので挿入箇所がみつからず、あえて不採用とした一文ですが、せっかくタイプしたので、無碍に消去してしまうのは、なんだかもったいので、「付録」としてみました。

そして、「動物裁判は、如何なる紛争解決能力もなかったにせよ、人間の私法上の権利を介して、人間界の動物の王国=自然界の関係を定義し、さらに、社会の自己像が普遍的に正しいのだ、と自ら肯定するのを助ける観念的効果はあった、と評価される」と述べているが、それはつまり、動物の行動によって惹起された事態を、人間界の力の射程に収めて処理し、状況を治癒する、ということを意味する。「裁判」という形式が、人と動物との関係を(相互的な「対決」の結果としてではなく)人間界の側から一方的に定義づけるuniversalな手段として用いられた、ということに他ならない。例示された「動物裁判」においては、人間化命からが動物に対していかに行使されるべきかが、人間たちによって議されているのであって、訴追された動物は、形式上は「被告」の立場に立つとはいえ、訴追者と動物とが対決する構図になるかというと、そのような能動的な役割が動物に配当されているわけではない、のではないか。
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by sentence2307 | 2016-03-19 14:41 | 映画 | Comments(0)
この作品が、映画批評家や観客に大きな衝撃を与え高く評価された理由は、ある家族の12年間を描くにあたって、すべての俳優を実際と同じ12年間という「時の経過」の中に晒しながら、そのままドラマを進行させて撮った斬新さにあったからだと思います。

もちろん、いままでの映画の「時間の経過」を表現する技法といえば、「子役を使い、やがて青年の演者に交代させて」成長の姿を見せるとか、若い俳優に「老けメイク」をほどこすとか、あるいは字幕による「時間とばし」やCGを駆使するといったことが常識だったわけですから、長大な時間のなかで実際に成長したり老いたりする姿をその都度ドラマの中に織り込みながら撮るなどということは、ある意味、根源的なカルチャーショックみたいなものを含んでいて、その辺が多くの観客や批評家に評価されたのだと思います。

映画製作には莫大な金がかかる映画経済の面からいえば、各界から資金を集めて製作し、できるだけ早く興行をうって資金の回収をはかりたいという産業システムからいえば、映画の「製作期限」に余分な時間など与えられないというのが資金提供者からの喫緊の要請なのであって、それを考えれば、この「12年間」という空費は、どう考えても常識外れで、まずは「有り得ない」衝撃だったのかもしれません。

まさに、フェリーニ作品やヴェンダース作品にも、その辺の切迫・焦慮した裏話を描いた映画がありましたよね。

しかし、この作品の「衝撃」がどの程度のものだったかというと、一本の映画を12年間にわたり、すべて同一スタッフ・キャストで撮るという、その超アナログ的な考え方に対してよりも、まずは、その「期間」の不安定な悠長さ(例えば、その12年の間、はたして演出者は、演出の意図を同じレベル・同じテンションで保つことができただろうかなど)に対してだったでしょう。

すべて同一スタッフ・キャストを12年間コウソクするというのは、人事的に大きなリスクがあるわけですし(生死も含めてです)、演出者の忍耐とか、厳しい経済条件など、そのどれもが映画制作的な「時間の観念」という常識枠から大きく逸脱する考え方なので、その意味でちょっと考えられない「期間」への驚きだったのですが、しかし、ノンフックションの製作では別に珍しいケースでもないらしいので、その意味からすれば、この映画に携わった関係者の考え方に「軽く驚いた」くらいが、まあ適当だったかもしれません。

むしろ、もっと「大きな衝撃」は何だったかといえば、冒頭、草原に寝転びながら、真っ青な空に浮かぶ白い雲を夢見るように微笑して眺めていた愛くるしい少年メイソン(6歳)が、ラストの方では、いかにも扱いにくそうな、むさくるしい髭モジャの気難しげな青年に変貌していることにあるのだと、多くのメディアやサイトにもそのように書いてありました。

僕たちの日常には、確かに時間の境目なんか、どこにも記されているわけではありませんし、実際急に老け込むなんてことも滅多にあることではなく、普段の生活で実感することなどもないので、まあ、あるとすれば、久しぶりに会った親戚のおばさんに「あんたもずいぶん老けたわね」などと嫌味ったらしく言われるくらいで(カゲで僕のことを「若年寄」と言いふらしていたことは知っていました)、思わずカッとしながらも、改めて「時の経過」を苦々しく実感するのがせいぜいです。

その意味では、この作品は目からウロコ的に「映画の嘘」を教えてくれた画期的な作品といえるのかもしれませんが、しかし、僕的には、正直いうと「教えてくれなくとも、よかったかなあ」という感じをもってしまいました。

「時間の経過」を表現する「子役」や「演者の交代」や「老けメイク」や「字幕による時間とばし」などは、創成期から映画が持っていた愛すべき技術であり(それを「嘘」といってしまえば、「映画」芸術の単なる否定にすぎません)、もちろん「長所」なのであって、この映画のように、その辺をそれほど責め立てることにどんな意味があるのか疑問です。

それに、たった一本の映画の中で、どこの誰とも分からない外国人俳優の「12年間」を追体験できたからといって、それほど感動すべきことだともトウテイ思えませんでした。

などなどと考えながら、別の意識の部分で、最近亡くなった原節子の幾本かの映画を、ぼんやりと思い返していました。

この映画でいわんとしていることなど、自分などはアタマの中でとっくの昔に実行してるワイ、少女だった頃から、壮年に至るまでの原節子の映画群をいままで繰り返し何度も見てきた自分にとって、「時間の経過」など、なにも「一本の映画」である必要など、どこにもないわけで。

この作品風にいえば、「自分は、いつまでも、草原に寝転びながら、真っ青な空に浮かぶ白い雲を、夢見るように微笑して眺めていた愛くるしい少年メイソンのままでありつづけたい」と思うばかりです、少なくともあの・・・いやいや、やめておきましょう、この作品でいっているように、そんなことはトウテイ不可能ことと大いに分かっていますから。

(2014)監督脚本製作・リチャード・リンクレイター 、製作・キャサリン・サザーランド、ジョン・スロス、ジョナサン・セリング 、撮影・リー・ダニエル、シェーン・ケリー、編集・サンドラ・エイデアー
出演・エラー・コルトレーン(メイソン・エヴァンス・ジュニア、主人公)、パトリシア・アークエット(オリヴィア・エヴァンス、メイソンの母親)、ローレライ・リンクレイター(サマンサ・エヴァンス、メイソンの姉)、イーサン・ホーク(メイソン・エヴァンス・シニア、メイソンの父親)、リビー・ヴィラーリ(キャサリン、オリヴィアの母親)、マルコ・ペレッラ(ビル・ウェルブロック、オリヴィアの二番目の夫)、ジェイミー・ハワード(ミンディ・ウェルブロック、ビルの娘)、アンドリュー・ヴィジャレアル(ランディ・ウェルブロック、ビルの息子)、ブラッド・ホーキンス(ジム、オリヴィアの三番目の夫)、ジェニー・トゥーリー(アニー、メイソン・シニアの後妻)、リチャード・アンドリュー・ジョーンズ(アニーの父親)、カレン・ジョーンズ(アニーの母親)、ビル・ワイズ(スティーヴ・エヴァンス、メイソン・シニアの兄弟)、ゾーイ・グラハム(シェーナ、メイソンの彼女)、チャーリー・セクストン(ジミー、メイソン・シニアの友人、ルームメイト)、リチャード・ロビショー(メイソンの上司)、スティーヴン・チェスター・プリンス(テッド、オリヴィアの彼氏)、トム・マクテイグ(ミスター・ターリントン、メイソンの写真の先生)、マクシミリアン・マクナマラ(ダルトン、メイソンのルームメイト)、テイラー・ウィーヴァー(バーブ、ダルトンの彼女)、ジェシー・メクラー(ニコル、バーブのルームメイト)、バーバラ・チザム(キャロル、オリヴィアの友人)、キャシディ・ジョンソン(アビーキャロルの娘)、ウィル・ハリス(サマンサの彼氏)、アンドレア・チェン(サマンサのルームメイト)

2014第64回ベルリン国際映画祭 監督賞受賞、Prize of the Guild of German Art House Cinemas 受賞、Reader Jury of the Berliner Morgenpost 受賞、金熊賞ノミネート、サウス・バイ・サウスウエスト映画祭 Louis Black Lone Star Award 受賞、Special Jury Recognition 受賞、サンフランシスコ国際映画祭 Founder's Directing Award 受賞、シアトル国際映画祭最優秀作品賞受賞、最優秀監督賞受賞、最優秀女優賞受賞、国際映画批評家連盟賞グランプリ受賞、ゴッサム・インディペンデント映画賞作品賞ノミネート、男優賞ノミネート、女優賞ノミネート、ブレイクスルー演技賞ノミネート、観客賞受賞、ニューヨーク映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、助演女優賞受賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、主演女優賞受賞、英国インディペンデント映画賞外国映画賞受賞、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞2014作品賞トップ10受賞、ボストン映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、アンサンブル・キャスト賞受賞、脚本賞受賞、編集賞受賞、カンザスシティ映画批評家協会賞監督賞受賞、助演女優賞受賞、サンフランシスコ映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、助演女優賞受賞、編集賞受賞、助演男優賞ノミネート、オリジナル脚本賞ノミネート、ダブリン映画批評家協会賞作品賞 受賞、監督賞受賞、トロント映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、助演女優賞受賞、脚本賞次点、2015ノーステキサス映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、助演女優賞受賞、ゴールデングローブ賞作品賞 (ドラマ部門) 受賞、監督賞受賞、助演男優賞ノミネート、助演女優賞受賞、脚本賞ノミネート、放送映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、助演女優賞受賞、毎日映画コンクール外国映画ベストワン賞受賞、おおさかシネマフェスティバル2014年度ベストテン外国映画(作品賞)1位、アメリカ映画編集者協会エディ賞 最優秀作品賞(ドラマ部門)受賞、サテライト賞作品賞ノミネート、監督賞受賞、助演男優賞ノミネート、助演女優賞受賞、脚本賞ノミネート、編集賞ノミネート、主題歌賞ノミネート、インディペンデント・スピリット賞作品賞ノミネート、監督賞受賞、助演男優賞ノミネート、助演女優賞受賞、編集賞ノミネート、アカデミー賞作品賞ノミネート、監督賞ノミネート、助演男優賞ノミネート、助演女優賞受賞、脚本賞ノミネート、編集賞ノミネート
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by sentence2307 | 2016-03-14 13:12 | 映画 | Comments(0)